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国際政治学 テニス マラソン

90852065.jpg大学時代の成績は4勝21敗。それでもスカウトはそのクレバーな投球とカーブのキレに期待し、球団に推薦した。東京大学出身の井手峻(たかし)投手は契約金800万円、年俸150万円で中日に入団。

名古屋市の中日球団事務所で契約を交わした。

 この年2回行われたドラフトの2次指名で3位。東大出初のドラフト指名右腕に対する周囲の評価は「プロとしては難しい」というものだったが、西沢道夫監督以下コーチングスタッフは淡い期待を抱いていた。

 というのも前年に東大のエースだった新治伸治投手が大洋に入団すると、貴重な場面で働き、夏場にはプロ初勝利をマークするなど、予想以上の活躍を見せた。球威はそれほどでもないが、制球の良さと打者の裏をかくクレバーな面は、東大出身投手の真骨頂。

ひょっとすると「大化けするかもしれない」と期待料込みでの指名だった。

 「プロでやる自信は、今でもないと言った方がいいかもしれない。東大を出たからってこの世界では何の役にも立たない。とにかく1軍入りして、勝たなければ意味がない」

日本を代表する商社、三菱商事の就職内定を蹴って選んだプロの道。新治に続く、赤門出身2人目のプロ野球選手は入団会見の席上、実力でこの世界で生き抜く決意を披露した。

 1年目から1軍のマウンドに立った井手は17試合に登板。67年9月10日、大洋23回戦(中日球場)の4回1死から2番手として残りの5回3分の2を3安打2失点に抑え、見事プロ初勝利を挙げた。7回からは先輩の新治と投げ合うなど、思い出深い初勝利に「まだ1勝。次は完投したい」と大きな夢を語った。

 井手のプロでの白星はこれ1つきりで終わった。翌年、スピード不足を補おうと上手投げからサイド気味にフォームを改造したところ、肩を痛め1軍登板なし。

69年も投げられないまま、外野手転向の指令を受けた。中日首脳陣は井手の100メートル11秒台前半の俊足に目をつけた。

 "代走屋"としては重宝されたが、そのバッティングは非力だった。70、71年と計31試合に出場もすべて代走で打席には1打席たりとも立っていない。出場すれば「東大出の学士さ〜ん、まだ野球やってたの〜」と相手ベンチから野次られた。

 72年に初安打を記録し、初めて外野を守ったものの、井手は引退を決意。妻の実家の家業を手伝う気でいた。それを翻意させたのが73年から監督に就任した与那嶺要だった。

「僕は君が戦力として必要だ。必ず使うからチームに残ってほしい」。

 与那嶺監督は言葉通り、井手を使った。73年には83試合、優勝した74年には84試合に出場。代走、守備固めがほとんどだったが、井手がベンチから相手チームのサインを見破ったり、投手のクセを盗むのに長けた"特技"は見えない戦力となり、ベンチに座っているだけで存在感があった。

 特筆すべきは73年5月5日の巨人5回戦(後楽園)の延長10回、高橋一三投手からプロ7年目で初の本塁打。これが勝ち越し打となり、初のお立ち台にも立った。与那嶺監督の引きとめがなければ09年現在、プロ野球史上ただ1本の東大出の選手による本塁打は生まれなかったのである。

 プロ10年目の76年を最後に引退。コーチ、2軍監督を経てフロント入り。編成担当の球団取締役として、プロ野球の世界で生き抜いている

プロ野球の日 1936(昭和10)年全日本職業野球連盟が結成しプロ野球が誕生。

当時は7チーム 東京巨人軍(現在の読売ジャイアンツ) 大阪タイガース(現在の阪神タイガース) 大東京軍(後の松竹ロビンス。大洋ホエールズと合併し現在は(DeNA)横浜ベイスターズ) 名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ) 阪急(後の阪急ブレーブス。現在のオリックスブルーウェーブ) 東京セネタース(後に解散) 名古屋金鯱軍(後に解散)

この金鯱軍を中日ドラゴンズと間違えていた。存在したが解散されてしまった。

ベースボール記念日 6月19日

野球の日 8月9日

プロ野球誕生の日 12月26日

8月18日 プロ野球ナイター記念日

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Van Halen - Humans Being

1955年1月26日、オランダのナイメーヘンで生を受ける。父はオランダ人、母はインドネシア系。

1967年にオランダからアメリカ・カリフォルニア州のパサデナへと移住する。父親がクラリネット奏者であった事もあり、幼少の頃よりピアノやヴァイオリン楽器を演奏していたヴァン・ヘイレン兄弟だが、そこでロックに影響され、弟のエディがドラムを、兄のアレックスがギターをはじめる。しかしほどなくして二人とも互いに楽器を交換する。その後バンドを結成し、活動を開始する。その後、ヴァン・ヘイレンとして大成功を収める

1981年に女優のヴァレリー・バーティネリと結婚。

2000年喉頭癌が発覚し、バンド活動を中断する。その後、病気は完治したとされるが、2006年春、メンバー間での不仲により、バンドは解散状態に陥った。

2007年3月8日、エディーが、自身の体調が完璧ではない事を理由にリハビリ施設に入所する事となったと、オフィシャル・サイトで発表した。

2007年9月27日よりヴァン・ヘイレンのツアーを開始。

2007年12月6日、ヴァレリー・バーティネリと離婚。原因は双方の浮気で数年前から別居していたという。

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