仙台・伊達家から寄贈された資料・文化財が堪能できる仙台市博物館へ。
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伊達政宗書状 (天正18・1590 6月14日)
政宗の小田原参陣で、政宗が留守を預かる家臣にその時の様子を伝えた政宗自筆の書状。
秀吉との対面後、茶の湯に誘われ、名品の茶器を拝見したことなどが記されている。
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蒲生氏郷起請文  伊達政宗宛 (天正18・1590 11月28日)
天正18年10月頃、秀吉に領地を没収された大崎氏・葛西氏の旧領で一揆が起こった。
政宗と氏郷が鎮圧に向かうが、その過程で両者は対立。
両者が和解するために取り交わした起請文のうち、氏郷が政宗に提出したものである。
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豊臣秀吉朱印状  伊達政宗宛 (天正19・1591 6月20日)
大崎・葛西一揆のおおよその終息をうけて、秀吉は徳川家康・豊臣秀次・上杉景勝らの軍勢を奥州仕置のために出発させる命令を下した。その状況の中で、政宗の治める領地に秀次や大谷吉継・石田三成を派遣するので、領内の道筋の城々をあけて在陣させるように命令したものである。

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伊達政宗書状 (文禄2・1593 9月22日) 
政宗の母 義姫の侍女、おちゃこ宛てだが、事実上は母へ宛てた手紙。
朝鮮出兵という異国での戦いを終え、釜山を発って備前名護屋(佐賀県唐津市)に着いたこと、同行した家臣の伊達成実、留守雪斎(政景)、石川昭光の安否などを知らせている。
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石田三成書状 (文禄4・1595 7月25日) 伊達政宗家臣 針生民部太輔盛信宛
文禄4年7月、関白・秀次が謀反の疑いによって太閤秀吉に切腹を命じられ、政宗にも謀反の加担が疑われた。
石田三成から政宗家臣・針生盛信に宛てたこの手紙では、秀次の切腹と関係者の処罰が伝えられるとともに、政宗にも上洛するよう命じている。
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伊達政宗書状  茂庭綱元宛
政宗の重臣・茂庭綱元へ宛てた書状。昨日は酒を飲みすぎたため、今日は人に会うことを控えたいと述べている。「むしけ:虫気(腹痛)」とでもいって断るようにと言い訳を指示している。
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伊達政宗書状 (寛永3・1626 12月1日) 伊達忠宗宛 
仙台にいる政宗から江戸にいる息子・忠宗(後の仙台2代藩主)に宛てた手紙。
約束していた伽羅(香木)を送る旨を記し、このような名香は稀であるから、むやみに他人に与えたりせぬようと伝えている。
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こちらは仙台城跡に建つ伊達政宗騎馬像。
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次回へつづく。