日々気づくこと 

佐渡島明浩のブログです。

2014年05月

他動動作と自動運動の関係。
例えば立位では足関節は背屈位にあるが、自動運動の時に働く筋、短趾伸筋や、前脛骨筋の緊張のパターンによっては他動運動時に、自動運動の時に働く筋が働き、関節の可動域に制限を作る。
つまり、背屈動作に働く筋が、多動で背屈を行う際のブレーキになる。
体は皮膚と筋の滑走状態によって、運動パターンを記憶しているようなところがあるが、それはある条件下において有効であることが多く、あらゆる状況に対応できるというように、融通の利くものではないようです。
そうすると、動くということを考えるにあたっては、なるべく意識的に運動パターンを記憶させないことが大事なようにも思えますが、無意識であっても体は記憶していくものでしょう。
ただ意識的に体を使う、といっても筋肉を意識する時には、意識している部分は引っかかりのある部分ということは言えるかもしれません。
つまり気になる部分に集中することは悪循環しか生まない・・・
これは精神的な面においても確かに言えることであることは私たちも日々経験していることかもしれません。

関節の捻じれについては、例えば膝関節の場合、捻じれが起きている場合、大腿側で言うと外側ハムストリングスと内側ハムストリングス、それぞれの滑走と筋活動のバランスを整えることが有効なようです。下腿も同様。
筋は短縮した状態で固くなっていることも伸長した状態で固くなっていることもありますが、いずれにせよ、皮膚が運動する状態を取り戻せば回復するようです。筋活動が比較して活発な部位は皮膚運動が起きていない。
起きていなかった皮膚運動が起きた時には必ず、他の使われていなかった部位が活動するということがとても重要です。
逆に言うと怪我等により動かない部位があると、それはある程度の規則性を持って必ず他の部位に波及します。そのパターンを分析することはおそらく重要ではないでしょう。
きっとそれは千差万別で、少し人に施術することを通して考えたいとこの頃は思います。

 

関節を最大可動域まで動かし、その状態でさらに動く方向に向けて動かそうと意識する。この状態だと筋は弛緩して収縮を起こせないため、皮膚運動に手渡しやすい。
筋運動と皮膚運動のパターンを変化させると呼吸には必ず変化が起きる。例えば、筋肥大を起こすために筋力トレーニングをする時には筋を意識するとよいようですが、皮膚運動を意識する時には呼吸を意識することが大切なようです。筋を意識する時にはかなり思考力を使う感覚がありますが、皮膚運動を意識する時には思考とは違う感覚があります。

 先週渡辺一技さんのチベットのお話を伺ったことで、興味を持ちちょうど「オロ」の上映会の企画を見つけたので、見に行ってまいりました。この映画のチラシは何年も家の机の前の壁にピン留めされていたのですが、一技さんのお話に出てきて思い出したのでした。チベットのことに特別関心があるような意識は自分ではなかったのですが、潜在的な意識というのはやはりわからないもののようです。
映画「オロ」はチベット本国(中国領内の自治区)内は登場せず、チベットからインドに亡命した10歳の少年オロを主人公にし、インド領内のダラムサラやネパール国内のチベットの難民キャンプでの生活が描かれます。
政治的な問題はそれほど大きくクローズアップされておらず、焦点は主にオロ少年に絞られています。

上映後に質問者の方からのお話で、生前の岩佐監督が、チベットが大好きで日本人のルーツのように感じるとおっしゃっていたということを聞きました。私も、この映画を見てその思いをまた強くしましたが、岩佐監督をこの映画へと駆り立てたものはただそういう思いのように感じられ、そして映画はその通りの岩佐監督のチベットへの思いが反映されたものであったように思いました。
タルチョの美しさは映画でもタルチョの美しさでありました。
私は仏教の息づいていた日本にも同じ美しさをもったものが必ずあるはずだと思い、イメージを巡らせるのですが、どうしても思い当りません。ただ、浮かぶのは桜の舞い散る様子です。それは思い浮かぶものではただ一つタルチョに似ているものです。
しかし桜は人の作ったものではありません。少なくとも昔の日本にはタルチョに対応するものが必ずあったはずです。
ただ、映画の会場にタルチョが飾りつけてあったのですが、それはもうタルチョではありませんでした。物というのは私たちの思っているよりもよほど生きものであり、ただそれが物であると思うと物になるようです。
タルチョが何の反映であるのか、それは心が風にゆれること。
八雲の言葉
「簡素な娯しみを楽しむ能力のあることを忘れたこと、人生の純粋な喜びに対する感性を失ったこと、昔ながらの自然との美しい神のような親しみを忘れたこと、それを反映している今は滅びたすばらしい芸術を忘れたこと、」
祈りというのは、心が風に乗って時空をこえることを信じられるから祈りなのであり、当たり前に五体投地を行う彼らチベットの人たちは心が風であることを知っている。
だからタルチョも風になる。それは物ではないのです。
私たちの周りに残っている古いものたちもきっと昔は物ではなかった。ただその物に対応した心を失うと物だけが残ってしまう。どれだけ、昔の日本が美しく見えたか私たちにはもうわからない。

茨木のり子さんの桜の詩があります。

さくら

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

私は縁があってオイリュトミーを学ぶ機会があり、結局そのことによって体は変わってしまっているようです。体が物質ではないことがわかると、物が物質でないこともわかる。体も風であるし、心も風。
上映の途中で、オロが山から石を投げると、全く同時に部屋の中で物が落ちるという出来事がありました。まるでオロの投げた石がスクリーンを飛び出したようでした。プロデューサーの方は岩佐監督が来ていたと言っていましたが、きっと本当にそうなのでしょう。
私たちは本当は心が風であることを知っているんだろうなと思う。
 

体の運動機能の点から言うと、筋骨格系に対する概念として皮膚感覚系というものを想定すべきではないかと思う。関節可動域の改善には、最終可動域まで動かした上で、筋収縮か皮膚滑走の運動パターン(どちらかが選択されている)を書きかえることが有効だと思う。
筋のストレッチが有効だという理論的背景は筋紡錘のブロックを解除すること(ちゃんと調べて書くべきですが)と言われていることを聞いたことはありますが、経験的にはとても正確な考えだとは思えない。そしていわゆるストレッチは有効だとはとても思えない。

足関節の底屈は、背中の皮膚を頭方に移動させる、実にこの滑走が体を立たせる最も中心的な力だと感じている。この力は歩行動作の時に常に働き続けるからだ。骨格や筋のねじれは皮膚の捻じれが解消すれば自動的に解消するのではないか。骨格や筋のイメージではどうしても、点と線を結びつきでしか体を捉えられない。皮膚という、うねった地面の上に線路が通っていて、すべての関節運動に対応して、無限に重なって走っている。それは体の動かし方のパターンが無限であることの反映だ。そしてこの線路は切れていることがままあるのだが、切れていると筋肉が地面を動かして、切れていない線路をつないでつじつまを合わせる。線路がつながらないと動かないからだ。
同時に線路は地面をならしもする。線路が通れば、途端に地面はじたんばたんをやめる。
ただ体の、細い部位。指、手関節、足関節。ここは線路の通り方が非常に大切でここが破綻していると、そこかしこはかなり大変なようだ。
ただ、正確に通れば、他の太い部分の滑走は直ちに整う。
全然うまい例えではありませんでした。 

私も、福島の放射能の影響については楽観視をしていました。それがぶち破られたのは昨年の5月に広河隆一さんの話を聞きに行った時でした。
その時は、ちょうど甲状腺ガンの子供が何人か見つかったという報道が初めて出た頃で、その事実も知らなかった私は、自分の世界が崩れ落ちるようなショックを受けたものでした。 
今回の報道で、50人という数字。数字の多少ではありませんが、とてつもなく打ちのめされます。
胸が張り裂けそうです。子供たちから甲状腺を奪ったのは私たちではないか。都市の只中にいると、ありとあらゆるモノが並び私たちは当たり前のように、消費の享楽に興じている。欲の只中で、その欲の何たるかも知らず、また感じることも失い消費の渦に呑まれている。
私たちの幸福はなんと矮小化し、なんと刹那的になったのだろう。未来を考えない、幸せというものが存在するという幻想が流布され、幸福を感じる心も失われていく。
私たちは手をついて子供たちにわびねばならない。そこから未来を見つめるしかない。
どれだけ、経済が発展しようとも、こんな苦しみを生み出す社会の在り方に未来があるはずはないのではないか。

新聞を買って読むと、何か世の中を肯定できる気持ちになる。放射能の影響もたいしたことないのではないか。経済発展は大事なのではないか。
しかし、少なくとも放射能汚染が、今後私たちに及ぼす影響が楽観できないものであることは疑いようもない。
 

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