日々気づくこと 

佐渡島明浩のブログです。

2015年08月

近所のあうるすぽっとに「子供に見せたい舞台 アンデルセン童話集」という公演を観に行ってきたのですが、どうにも見ていられなくて途中で出てきてしましました。私にとっては声、というのは響きとほぼイコールであって、セリフの意味内容よりも、その響きの中に表現を見出そうとするのですが、どうもそれはどちらかというと特殊な見方のようで、一般には声の質よりも、しゃべっていることの意味内容や、演技自体の面白さのようなところに焦点がいくようなことが多いのかもしれません。
 ルドルフ・シュタイナーの講義録、「オイリュトミーの本質と起源」を読んでいたのですが、このようなことが書かれていました。 
 「言語は実際、人間の魂の普遍的な表現手段です。そして偏見のない眼で人類太古の時代を見ることができる人は、太古の諸言語の中に極めて芸術的な要素が実際に行き渡っていたのを認めることができるでしょう。太古の諸言語は、今日の文明社会の諸言語に比べると、はるかに多くのものが、人間存在全体の内部から掘り出されています。もし私達が偏見のない眼でこの進化を遡って行きますと、ほとんど歌のように現れる原言語にまで到ります。そこでは脚や腕の動きが生き生きと言葉につきしたがっていたのでした。(中略)
人類最古の時代には、喉から発する言葉に人間の身振りが伴うのは自明のことのように思われていました。そしてこのことの意味を正しく評価できるためには、いつもはただ言語に伴う身振りでしかないものが、どのようにして単独で生命を獲得できるようになるかを知ろうと努めねばなりません。つまりそうするときにのみ、腕や手による身振りが、芸術的な点において、言語と同じくらい表現力があるというよりも、それ以上はるかに表現力のあることがわかって来ます。」
 この後に、哲学者のフランツ・ブレンターノの講演に際の動作について語っています。
「私は、フランツ・ブレンターノが彼自身の学説に与えたあらゆる証明や論証の仕方を知っていますが、そのどれをとっても、彼が紙片を手にしたときの動作異常に説得的ではありませんでした。」
「一般に哲学的な仕方で語られる事柄のすべてよりもはるかに多くのことが、身振りの中に存在しているように私には思われたからです。」
「さて、この問題を偏見にとらわれることなく深めて行きますと、私達が呼吸器官や言語音声器官によって息を吐くときに送り出すもの、母音を発音する時に外へ吐き出すもの、その際、唇や歯や口蓋を通して形成するものは、結局、空気の身振りに他ならない、ということに思い当たるのです。ただこの空気の身振りの場合には、それが空間の中に置かれるにしても、それは正に耳で聞くことができるような身振りになっている訳です。」
 まだまだ引用してしまいます。
「さて、われわれが母音や子音を発音し、文章を朗読し、弱強格や強弱格などの韻を作る際に生じるこの目に見えぬ身振りの中に身をおくことができるようになりますと、『ああ、文明社会の諸言語は慣習に対して、何という妥協をしてきたのだろう』、と思わせずにいられません。今日の言語は、とうとう学問的認識のための表現手段になってしまいました。生活の中で伝達したいと思う事柄のための表現手段になってしまい、本来言語にそなわっていた魂的な力が失われてしまったのです。詩人シラーが、「魂が語っているのに、ああ、語っているのはすでに魂ではない」、と見事に述べたことは、実際文明化した言語によく当てはまるのです。
 ところが感覚的=超感覚的な観察によって見えるようになったこの空気の身振りを、人は腕や手によって、人間全体の動きによって、模倣することができます。そうすると言語の中に作用している正にそのものが、はっきりと目に見えてきますので、言語歌唱器官が本来いつも行っている動きを、人は、人間に行わせることができます。こうして生まれてきた、目に見える言語、目に見える歌唱こそがまさにオイリュトミーなのです。」

次にカナダの音楽家、レーモンド・マリーシェーファーの「世界の調律」から引用してみます。
「農村地帯のアフリカ人は、おもに音の世界に生きている。その世界とは、そこに住む人間がある音を聞いた場合、その音が直接彼自身に関わる意味を持っているような世界である。それに反し、西欧の人間は、彼自身とは概して関わりのない視覚的世界に住んでいる。・・・西欧では音のこうした意味の大部分が失われている。西欧では、人は音を全く気にしない驚くべき能力を持つことが多いし、また持たねばならないのである。ヨーロッパ人にとって「百聞は一見に如かず」が一般的な心理ならば、アフリカの農村地帯の人々にとっては、眼で見るものよりは、耳で聞いたり、口でいわれたりするものの方にはるかに多くの真実が宿っているように思われる。・・・たしかに多くのアフリカ人にとって、耳が主要な受容器官であり、眼は受容器官というよりは意志表現のためのひとつの道具と見なされていると信じざるを得ない。
マーシャル・マクルーハンは電気文化の到来以後、われわれはこのような聴覚優位の状態へ再び立ち戻ろうとしていると言っているが、私も彼に同感である。騒音公害が一般市民の関心事として話題になっていること自体、まさに現代人がついに耳から泥をかき出して、透聴力―澄んだ聴取能力を取りもどしたいと願うようになったことを証明しているのである。」

マリーシェーファーは「透聴力」という概念を提示していますが、これは聞こえない音を聞こうとする感覚、といいかえてしまってもいいのかもしれません。先のシュタイナーのテキストを読むと、シュタイナーが「透聴力」を持ってブレンターノの動きを「聴いて」、そこから意味を受け取っていると解釈されます。シュタイナーは言語が意味を伝達する作用に力点を置きすぎて、魂的な力を失ってしまっている、と述べていますが、魂的な力、というのはつまり言語の発声の面、響きの面と言えると思います。 
 人間の言語機能を獲得することによる意識の変化について書かれている、W・J・オングの「声の文化と文字の文化」を読むとマリーシェファーの本の中の農村地帯のアフリカ人とヨーロッパ人の違いはよく理解されます。
オイリュトミーはオングの区分に従って言うと、「声の文化」の中の踊りと言えるのかもしれません。つまり響きを「聴く」踊りだということです。マクルーハンはほとんど読んでいないのですが、マリーシェーファーの文章の中では「電気文化の到来以後、われわれはこのような聴覚優位の状態へ再び立ち戻ろうとしている」と述べていると書かれていますが、どうも、私たちは益々、視覚優位の「文字の文化」に先鋭化しているようにも思います。マクルーハンがこのような目測を持った理論の詳細を知りたいものですが、それはひとまず脇に置いておきましょう。私たちは文字と印刷文化、それにインターネットの情報環境を「内面化」することで、恩恵と同時に間違いなく多くのものを失っているわけですが、あまり技術進歩のスピードに失っているものが何なのか検証することもままならないでいるようです。
 書き出しの内容から、随分離れてしまいましたが、子供は少なくとも響きの世界、質感の世界に生きています。「子供に見せたい」というのは、大人の目線から子供に見せたいという趣旨であることを意味しているのでしょうか。そういう意味ではとても意図にかなったものであったとは思うのですが、決して「子供が見たい」舞台ではなかったと思います。子供という存在を、大人の社会の価値観に照らして考えると固有の価値を見出すことは難しいのかもしれませんが、社会制度上で大人と子供が区別されるのでもなく、大人と子供の分裂が無意識的に生じている社会はどうしてもいびつな所が出てくるのかもしれません。もちろん理想的な社会というのは、アンビバレントな言葉なのかもしれませんが、せめて芸術の世界には、理想へと向かう志向性を感じたいという想いを持つのです。

 体を動かさずにいると可動域に制限が出てきますが、リハビリで他動で関節を動かしてもらうと本来動くべき方向に動かされたときに、「関節はそっちの方向に曲がるものではない」という抵抗感が生じるのは不思議なものです。自動的に動かされる方向と反対方向に動かそうという筋緊張が生まれてしまうのです。神経生理学を学べば機序はわかるものでしょうか。自分の体感から考えると、関節内圧によって脳は可動域を判断しているため内圧が高まっている状態を、「可動域いっぱいまで動いている」と判断した誤った情報を「意識」に送っているように感じます。
ですから、意識の方で逆に「そっちには動かしても大丈夫だよ」と情報を判断しなおし、筋緊張が働かないようにセーブすれば可動域は戻っていくようです。ただ、その時は何とも言えない嫌な感じがします。そして新たな可動域で他動で動かしてもらうと、腕がどこにあるのかという位置感覚が全くないのがまた不思議です。掴まれている腕の部分の触覚だけが、どこかに浮いているようなのです。やはり、「意識」は感覚情報を知識と記憶によって「意識」として意識させているという感じがします。 
 可動域について驚かされるのが、その制限は驚くほど「使い方」による影響を受けているということです。体の不具合は個々の筋によるもの、というより動かし方による影響が大きいようです。人間の動作には無限とも言えるパターンがあります。例えば座った状態から骨盤を前傾させるだけでも、どこから動きを発生させるか、頭頂からなのか足の裏なのか、お腹なのか、そのうちの何点を意識するのか、また線を意識するのか、前後傾という2次平面上の動きにおいてさえ動かし方には無限の可能性があります。結果的には骨盤前傾に関わる筋肉の収縮のパターンの変化として定式化されるのかもしれませんが、私たち少なくとも微小な運動を起こす時には筋収縮よりももっと茫漠として全身の状態の変化を感じるはずです。それが私には皮膚の上を帯のようなラインが無数に走っていて、運動パターンを全身の皮膚表面で伝達しあっているというイメージに感じられます。
 それにしても、リハビリルームは日常的な会話であふれていて体に意識を集中するということがあまり重視されていないことは少しもったいないことのように思います。体を感じるという、定式化しにくい要素の重要さが科学的に証明されてくればおそらく変わってくるのでしょう。少なくとも技術の高い療法士は施術を通して、患者が体に対して意識を向けることを自然に促す力を持っていることははっきりしているようです。

続き

 ヒドラは神経系を獲得した最初の動物なのだが、そのニューロンについての先行研究を調べると、ヒドラの腸にも哺乳類の基底顆粒細胞の祖先と言える組織があり、それらの分泌するホルモンも哺乳類と共通しているものが多いことが分かった。
 ヒドラには脳はないのだが、ニューロンは腸のまわりに散らばっており、口のまわりには帯のように密集しているのだという。動物がヒル、ミミズなどに進化するにつれて、腸の入口(食道)のまわりにニューロンの密集する神経節が現れる。これが次第に上の方に追加されていって、いちばん上部に大きなものが作られる。これが脳になるというのです。 私たちのからだは5億年の進化を経て、特殊なニューロンやパラニューロンが複雑多岐な機能を担っているが、この「建て増し」部分を取り去っていくと、最後に創建当初の姿が現れてくる。それが腸であり、そこには基底顆粒細胞とニューロンがヒドラの時代とたいして変わらない姿で働いている。使われている信号物質であるホルモンも大きく変わらない。そこで行われている仕事というのも、食べ物の化学的性質を認識して、どのように適切な反応を引き起こすか、腸の中の有毒、有害なものをどうやって排除するか、ということで5億年のあいだ変わらないなのだというわけです。

 この本は、脳がなぜ生まれたか、ということについてこれ以上ないシンプルな答えを提示してくれているように思います。どうも私たちはそのあたりを複雑に考えすぎるきらいがあるけれども、脳は腸が生み出したと考えると、私たちが持っていると感じている自由意志に対する考え方にも自ずと違った方向から光があたるように思います。 生物は環境との相互作用に応じて進化してきたわけで、脳にしてもその延長にあるものには違いないわけですが、どうも脳は体から離れて脳自身の純粋性を主張するようなところがあります。
 私たちが生物を見て、そこに心や、感情の存在を認めるかは、その対象自身の属性というより、私たち自身の関係の持ち方に関わっていると思います。 腸は脳から指令がなくても独立して動くことができますが、実際に腸の一部を切り取ってきて、その中に梅干しの種のようなものを入れても腸の蠕動運動が起こり肛門方向にものが運くそうです。自分の腸がそんなことをしているのを見たら、私は「よく働いてくれてる」、なんて思わずに、「自分の一部だと思っていたのに!」とショックを受ける気がします。それはそれで、なにかホッとすることのようです。

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