日々気づくこと 

佐渡島明浩のブログです。

2015年11月

今日は一人で稽古。ものすごい個人的なことですが、今年は怪我をしたしばらく後に体を動かしていてとても大きな気づきがあった。それまでどうしてもオイリュトミーをやっていると下半身の土台の上に上半身が乗っている感覚があったのだが、上半身と下半身が結びついたと思えた瞬間があった。
今日も稽古していて、少なくとも今、その時に掴んだ感覚の延長にいることは感じられる。手で空間に触れるというより、体で空間に触れている実感が持てている。それは自分の実感としてであって、見る人にとって、というのは別問題であることはもちろんだが、それはそれでよいと思う。それよりも、オイリュトミーはたくさんの事を決めないといけないので、いかに決めるかということを繰り返しやるなかで見つけていくことが先決だろうと思う。 

今日は一人での稽古と、二人での合わせの稽古。言葉のテキストや音楽、オイリュトミーやそれよりも前にある、作ろうとしている時空間のモヤが生まれてくると体も少しずつ現れてくる。モヤを運ぶのは体だけど、体の前にもうモヤがあってそれが崩れないように丁寧に運ぶ。モヤがどこから来たのかと考えると不思議なものである。
しかしその人の書く言葉の中には確かにその人が入っていて、紙に印刷されていたものは折り畳まれているようなもので、それをパタパタと開いてみるとその人の言葉の身体性が現れるということはあると思う。そのこととモヤは関係があるようです。

今日はテキストの出来ているところまでを、演劇の読み合わせに近い形式で読んでみる。演劇と違うのは、音楽の部分と言葉の部分が等価であること。それにキャッチボールのようなセリフのやり取りが出て来ない事だろう。それは基づいている人間観が違うということなのだろうが、ともかくも静かで暖かい方に進んで行ければいいと思っている。
初めて読んだだけで、共演の方もテキストの流れを理解してくれてホッとする。自分の頭の中で考えたものが相手と共有できるということは、きっと観てくれる人にも伝わるはずだと思えるからだ。その共有しているなにものかが時間の中で形を変えながら揺れ、漂って流れて行けばいい。オイリュトミーの方はまだまだこれから。意志的な努力が必要である。

今日は自分のパートの練習をしながら、少し合わせの時間を持つ。紙の上に書かれたテキストがあって、それを立ち上げていくのだけど、基本的にはこういう感じのシーンにしようと、意図を持って書いているわけで、そのことを共演者に理解してもらうことはどうしても大切なことになる。
 しかし、テキストを渡された側も自動的にそこから想起されるシーンのイメージを持つわけで、その段階ですでに摩擦が生まれてしまう。相手の提示したものをスッと呑み込めるところもあるし、納得いかないけれどもそのままにしておこうという事もあるし、ここはどうしても譲れないので自分の意図だけは伝えないと、ということもある。 
 やっぱり一番困るのは3つ目で、シーンの意図、というのはどんなことを言っているか、という発声の内容よりもどういう響き方をしているかということによって現れるのだけれども、「こういう発声法ですよ」とデモンストレーションをしてもなかなか伝わらない。それは、響きが変わる時に発声の音程や速度、音量も変化してしまうためで「声に込めた意図」という指標だけを取り出すことができないからであると思う。また、こうこうこういう流れでこういうシーンなんですよ、と理づくめで説明しても実感に下りていかないので、操作可能な声の要素を変化させることにしかならない。
 今日の場合はナレーションの発声のシーンから、登場人物として発声するシーンまで、変化が聞いている側に気づかれないように3段階に変わっていくというシーンの意図があったのだけれども、くどくどとあの手この手で説明しているうちにハッと閃いてくれた瞬間があったようで、自分にとっては、その閃きのタイミングは全く謎だったのだが、不思議なことに閃きの瞬間からは、もうはっきりと意図が伝わっているのである。
伝わり方は自分の意図通りではないのだが、意図自体は意図通り伝わっていて、声の響き方も変わっている。その響き方も自分とは違う響かせ方ではあるのだが、シーンの意図にははっきりと沿っている。意図さえ伝わっていれば共演者の自由意志に任せてやってもらうことができるし、発展もしていく。ささいなことですがこういうことはうれしいことです。

稽古一日目、おおざっぱながらも紙の上に書かれたものを空間に起こしてみる。ヒリヒリした感じを少し乗り越えながら、なんとかなりそうと思える。無心でよいのだと思う。ひとごとのようにやれればそれが一番いい。
雑司ヶ谷霊園を歩く。朝は前日の雨で、ややしっとりとした落ち葉の上に、墓石の影が柔らかくそして鋭角に落ちている。自然の曲線の中にあって直線は人間の存在を感じさせる。落ち葉の寝床に横たう影の音。音を聞きながら駅に向かう。駅に近づくとアスファルトに射すビルの影からは音が聞こえないことに気づく。
帰り道は曇り空。降り積もった銀杏の金が例えようもなく美しい。墓石のひとつにカラスが食べ残したであろう柿の実が鮮やかな赤を晒している。色彩はそれに感応している時にはただ名付けられない光として感じる。景色はただそこにある。その無限の流動の中で、自分は散歩者としてその傍らを通り過ぎる。通り過ぎた後も景色は変わらずそこにある。同時に通り過ぎた後の自分の傍らにも景色はついてくるのである。
 

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