太平洋戦争の1945年2月、空襲のため飛来した米軍爆撃機B29が、群馬県邑楽町(当時高島村)に墜落、そのときの様子を住民がカメラに収め、地元の岩崎治雄さん(85)が写真を託され保管。大阪狭山市にも戦時中米軍戦闘機が墜落。当時の写真など資料を探しています。お知らせ下されば幸いです。昭和の庶民史を語る会。
無益な戦争 写真語る
朝日新聞2010年08月16日
故・栗田国利さんが撮影した墜落したB29=岩崎さん提供
「戦争は敵にも味方にも涙しか残さない」と語る岩崎さん=邑楽町秋妻
太平洋戦争真っただ中の1945年2月、空襲のため飛来した米軍爆撃機B29が、邑楽町(当時高島村)に墜落した。そのときの様子を住民がカメラに収め、地元の岩崎治雄さん(85)が写真を託され保管している。写真の公開をきっかけに元米軍兵やその遺族らとの交流も生まれた。戦争が終わって65年。岩崎さんは「戦争は勝っても負けても、悲しくてむなしい」と訴えている。(戸梶雄一)
東毛地区には、「零戦」「隼(はやぶさ)」などの戦闘機を生産していた中島飛行機(45年に第一軍需工廠(こう・しょう))の太田製作所(現在の太田市)、小泉製作所(現在の大泉町)があった。両製作所は米軍の標的となり、45年2月10日から終戦直前の8月15日未明まで、何度も空襲にさらされた。
写真には、2月10日に飛来、墜落した2機のうち1機が写る。小泉製作所に徴用されていた、邑楽町の栗田国利さん(故人)が撮影した。
妻のタカさん(96)は空襲を「空に光っている大きな飛行機が見え、ゴォーン、ゴォーンって地響きみたいな音が聞こえた。怖かった」と振り返る。
空襲警報で国利さんは製作所から避難したが、自宅方向にB29が墜落したのを目撃し心配し駆け付けた。家族の無事を確認し、カメラを手に現場に向かった。憲兵に怒鳴られ、カメラを没収された。しかしポケットに入れていた撮影済みの乾板は気づかれなかったという。
国利さんは写真を公開しないまま、1987年に75歳で亡くなる直前、地域活動に熱心だった岩崎さんに写真を託した。「戦争の記憶を伝えてほしい、という気持ちだったんでしょう」とタカさん。
岩崎さんは戦後60年の2005年、地元公民館で写真を公開した。それをきっかけに、空襲に参加した元米兵らやその遺族らとの手紙のやりとりが始まった。
墜落死した米兵の遺族から届いた手紙には「あまりの心の痛みのため、家族は父の戦死について決して話題にしなかった」とつづられていた。
今年2月には、地区の人たちと墜落現場で追悼式を行い、米兵の遺族の1人も来日して参加した。米側から提供してもらった写真や資料も含めて、写真展も再び催した。
岩崎さんは写真が撮影された当時、中国戦線にいた。背中には今でも焼夷弾(しょう・い・だん)の破片が残っている。所属した中隊で生き残ったのは半数だけだ。
苦い戦争経験があるが、米兵の遺族らと手紙をやりとりするうち、「戦争で家族を亡くした悲しみは日本も米国も同じ。勝っても負けても、涙以外に何も残さない」とあらためて思ったという。
写真展後、「自分の町でも戦争を伝える資料として展示したい」「子供たちにも見せたい」といった声が寄せられている。岩崎さんは「戦争は繰り返してはならないと、これからも写真を通して伝えていきたい」と話している。
◇ ◇
1945年2月12日付朝日新聞(東京本社最終版)は1面で、関東地方の同10日の「戦果」として「十五機を撃墜す」と伝え、高島村に墜落した米軍機の写真が「撃墜されたB29の醜骸(がい)」として添えられている。
13日付群馬版では、「白煙は見る見る一条となつて落下し始めた、必死必中の体当り攻撃だ」との記述があり、墜落は日本軍機の体当たりによるとしている。
この記事では10日午後、第1陣11機、第2陣70〜80機が太田町(現太田市)上空に飛来し、爆弾や焼夷弾(しょう・い・だん)を投下したと伝える。しかし、被害は「ホンのかすり傷程度」として、「殆(ほとん)ど的をはづれて工場と民家のごく一部に被害を与へたほかは付近田圃(たんぼ)を大きくゑぐる弾痕をとゞめるばかり」と報じた。
太田市史によると、実際にはこの空襲で、太田町だけで152人の死者が出た。
伊勢新聞2010/8/16(月)
平和願って、65回の鐘 B29が墜落 名張、青蓮寺で集会
【鐘を打ち鳴らす参加者ら=名張市青蓮寺で】
【名張】終戦記念日の十五日、名張市青蓮寺の地蔵院「青蓮寺」(耕野一仁住職)と戦時中に米軍のB29爆撃機が墜落した一ノ谷の追悼碑前で「平和の集い」が開かれ、市民ら約七十人が参加した。
参加者は、同寺で黙とうをささげた後、平和を象徴するハトを放った。正午からは、集いに賛同した市内約三十の寺院や神社、教会と共に、戦後六十五年にちなんで六十五回の鐘を一人ずつ打ち鳴らした。日生学園第一高校と同学園付属中学校のハンドベル部は、平和を祈って「故郷」など五曲を奏でた。
追悼碑前では、バイオリン奏者の木室裕子さんが両国の国歌を演奏。参加者は、命を落とした米兵十一人の名前が刻まれた追悼碑に花を手向け、冥福を祈った。
奈良県宇陀郡曽爾村出身で、捕虜となった米軍の一人が車で街中を引き回されているのを見たという兵庫県西宮市剣谷町、歯科医山口省三さん(70)は「米兵に敵対心はなく、かわいそうだと思ったが、当時はそうせざるを得なかったのだろう」と話した。
同寺によると、B29は神戸大空襲をした編隊のうちの一機で、昭和二十年六月五日、一ノ谷の同寺近くの山中に墜落。乗っていた米兵十一人は、日本軍に捕らわれるなどしていずれも死亡した。
無益な戦争 写真語る
朝日新聞2010年08月16日
故・栗田国利さんが撮影した墜落したB29=岩崎さん提供
「戦争は敵にも味方にも涙しか残さない」と語る岩崎さん=邑楽町秋妻
太平洋戦争真っただ中の1945年2月、空襲のため飛来した米軍爆撃機B29が、邑楽町(当時高島村)に墜落した。そのときの様子を住民がカメラに収め、地元の岩崎治雄さん(85)が写真を託され保管している。写真の公開をきっかけに元米軍兵やその遺族らとの交流も生まれた。戦争が終わって65年。岩崎さんは「戦争は勝っても負けても、悲しくてむなしい」と訴えている。(戸梶雄一)
東毛地区には、「零戦」「隼(はやぶさ)」などの戦闘機を生産していた中島飛行機(45年に第一軍需工廠(こう・しょう))の太田製作所(現在の太田市)、小泉製作所(現在の大泉町)があった。両製作所は米軍の標的となり、45年2月10日から終戦直前の8月15日未明まで、何度も空襲にさらされた。
写真には、2月10日に飛来、墜落した2機のうち1機が写る。小泉製作所に徴用されていた、邑楽町の栗田国利さん(故人)が撮影した。
妻のタカさん(96)は空襲を「空に光っている大きな飛行機が見え、ゴォーン、ゴォーンって地響きみたいな音が聞こえた。怖かった」と振り返る。
空襲警報で国利さんは製作所から避難したが、自宅方向にB29が墜落したのを目撃し心配し駆け付けた。家族の無事を確認し、カメラを手に現場に向かった。憲兵に怒鳴られ、カメラを没収された。しかしポケットに入れていた撮影済みの乾板は気づかれなかったという。
国利さんは写真を公開しないまま、1987年に75歳で亡くなる直前、地域活動に熱心だった岩崎さんに写真を託した。「戦争の記憶を伝えてほしい、という気持ちだったんでしょう」とタカさん。
岩崎さんは戦後60年の2005年、地元公民館で写真を公開した。それをきっかけに、空襲に参加した元米兵らやその遺族らとの手紙のやりとりが始まった。
墜落死した米兵の遺族から届いた手紙には「あまりの心の痛みのため、家族は父の戦死について決して話題にしなかった」とつづられていた。
今年2月には、地区の人たちと墜落現場で追悼式を行い、米兵の遺族の1人も来日して参加した。米側から提供してもらった写真や資料も含めて、写真展も再び催した。
岩崎さんは写真が撮影された当時、中国戦線にいた。背中には今でも焼夷弾(しょう・い・だん)の破片が残っている。所属した中隊で生き残ったのは半数だけだ。
苦い戦争経験があるが、米兵の遺族らと手紙をやりとりするうち、「戦争で家族を亡くした悲しみは日本も米国も同じ。勝っても負けても、涙以外に何も残さない」とあらためて思ったという。
写真展後、「自分の町でも戦争を伝える資料として展示したい」「子供たちにも見せたい」といった声が寄せられている。岩崎さんは「戦争は繰り返してはならないと、これからも写真を通して伝えていきたい」と話している。
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1945年2月12日付朝日新聞(東京本社最終版)は1面で、関東地方の同10日の「戦果」として「十五機を撃墜す」と伝え、高島村に墜落した米軍機の写真が「撃墜されたB29の醜骸(がい)」として添えられている。
13日付群馬版では、「白煙は見る見る一条となつて落下し始めた、必死必中の体当り攻撃だ」との記述があり、墜落は日本軍機の体当たりによるとしている。
この記事では10日午後、第1陣11機、第2陣70〜80機が太田町(現太田市)上空に飛来し、爆弾や焼夷弾(しょう・い・だん)を投下したと伝える。しかし、被害は「ホンのかすり傷程度」として、「殆(ほとん)ど的をはづれて工場と民家のごく一部に被害を与へたほかは付近田圃(たんぼ)を大きくゑぐる弾痕をとゞめるばかり」と報じた。
太田市史によると、実際にはこの空襲で、太田町だけで152人の死者が出た。
伊勢新聞2010/8/16(月)
平和願って、65回の鐘 B29が墜落 名張、青蓮寺で集会
【鐘を打ち鳴らす参加者ら=名張市青蓮寺で】
【名張】終戦記念日の十五日、名張市青蓮寺の地蔵院「青蓮寺」(耕野一仁住職)と戦時中に米軍のB29爆撃機が墜落した一ノ谷の追悼碑前で「平和の集い」が開かれ、市民ら約七十人が参加した。
参加者は、同寺で黙とうをささげた後、平和を象徴するハトを放った。正午からは、集いに賛同した市内約三十の寺院や神社、教会と共に、戦後六十五年にちなんで六十五回の鐘を一人ずつ打ち鳴らした。日生学園第一高校と同学園付属中学校のハンドベル部は、平和を祈って「故郷」など五曲を奏でた。
追悼碑前では、バイオリン奏者の木室裕子さんが両国の国歌を演奏。参加者は、命を落とした米兵十一人の名前が刻まれた追悼碑に花を手向け、冥福を祈った。
奈良県宇陀郡曽爾村出身で、捕虜となった米軍の一人が車で街中を引き回されているのを見たという兵庫県西宮市剣谷町、歯科医山口省三さん(70)は「米兵に敵対心はなく、かわいそうだと思ったが、当時はそうせざるを得なかったのだろう」と話した。
同寺によると、B29は神戸大空襲をした編隊のうちの一機で、昭和二十年六月五日、一ノ谷の同寺近くの山中に墜落。乗っていた米兵十一人は、日本軍に捕らわれるなどしていずれも死亡した。