概要

 西淡路高射砲陣地は、本校東側道路を隔てて隣接している貴重な「戦争遺跡」である。昭和17(1942)年撮影の航空写真では、周囲が黒塗り
されているので、その頃には陣地が、すでに存在していたと考えられている。当初地面に土を盛って高射砲4門を備える「野戦築城」型で
あったらしい。その後コンクリート製の砲台に八八式七糎(センチ)野戦高射砲6門及び・指揮所を備えた「永久築城」型の陣地へと変えられた。
 平成4(1992)年、東側2基が取り壊され、現在はマンションが建っている。西端の1基は周辺に建物を増築し、工場として利用されている。
他の3基や指揮所の周囲の土地は、住宅が建設されたり、畑や庭として利用されてきた。

 平成16(2004)年頃この陣地は、道路建設に当たり取り壊しの危機にあった。これに対し「貴重な戦争遺跡を守ろう」と市民が動き出した。
市民団体「戦争遺構研究会」は、平成15(2003)年、文化財登録を求める嘆願書を市と文化庁に提出。また地元の「淡路地域教育協議会」も、
「生きた平和教育の材料に」と活動方針のひとつに砲台の保存を採択、阪急淡路駅前での街頭署名を展開した。
 保存要望の声を受けた市側は、「西淡路高射砲陣地調査研究会」を立ち上げ、ここに調査業務を委託し、平成18(2006)年に調査報告をして
いる。その大阪市文化財総合調査報告書(65)・発行平成18(2006)年では、西淡路(国次)高射砲陣地に関する資料そのものは、散逸あるいは
焼却されているため、聞き取り調査及び現地調査の結果を中心として、かなり詳細にまとめている。 以下、上記資料より

 昭和19年6月頃砲台の工事が進められ、昭和20年6月頃には完成していた。
 高射砲の砲座は、「高射砲塔」型と呼ばれ、砲座を地面から3.4m上にする
設計であった。これは、陣地が低地でかつ市街地に立地していることから視界を
確保するための措置であった。砲台6基及び指揮所がコンクリート製である。
 はじめは、木造の指揮所だったが、後にコンクリート製2階建ての指揮所に
なった。爆撃による陣地およびその周辺への類焼を防ぐため建築物疎開が行われ、
周囲は空き地の状態であったらしい。まわりの塀は建築物疎開時の廃材やトタン
であった。砲台へは階段もあったが、土を盛ったスロープで登っていた。その方
が時間的に早く配置につけ、弾薬も運びやすかったらしい。砲台の下は兵室があ
り、たたみやふとんが敷いてあった。陣地内で農作物も作っていた。

所属
 北地区隊として淀川北方・大阪市北東方面の防空に当たる任務であったが、戦争中何度かの部隊改編が行われ、終戦時は陸軍第15方面軍
高射第3師団第122連隊第1大隊第1中隊という呼称であった。兵員数約150〜200名が配置されていた。終戦まで実戦に参加し、射撃を
していたという方もいるが、米軍機から直接攻撃を受けた記憶を持つ方は見つかっていない。

 終戦直後の航空写真には、砲台
6門及び指揮所がはっきり写って
いる。(上) 周囲は、建物疎開に
より、空き地になっていることも
分かる。淡路小学校は、まだでき
ていない。
 また、移転前の淀川キリスト病
院付近(右写真左側)や淀川河川敷
(右写真右側)は、爆弾痕がはっき
りと分かるが、高射砲付近には見
当たらない。大型爆弾による直接
爆撃を受けていないという証言と
一致している。
     (地図:国土地理院)


 片方の1基の壁は内装が白く塗られていました。最近まで人が生活していたのでしょう。もう1基もベッドなどの家財道具が
残されていました。
 真ん中の柱やその上の頑丈そうな骨組みなど、写真からみても、とても丈夫に作られていたことがうかがえます。
北側道路から見える2基
 25年1月現在、現存する最後の1基です。
2基のうち右側の砲塔


南側の道路より見た
指揮所とされている建物


2基のうち左側の1基は、かつて土を
盛っていたであろう登り口が左側に見
えている。
 しかし、残念なことに、平成24(2012)年7月、2基(右写真の赤)の
取り壊しが始まった。この土地が私有地であったため、宅地として売り出
されることになったのである。
 平成25(2013)年1月現在では、下写真のように宅地として売り出されて
いる。これで、現存する高射砲台は、1基となってしまった。

残念なことに・・

 2基がなくなったことで、工場に転用された1基の
1部が見えます。

取り壊し最中の2基です。(24年7月)
八八式七糎(センチ)野戦高射砲
 取り壊された2基があった場所は、すでに宅地と
なりました。(平成25年1月)













  @TsutomuISHIAI メール有難うございます。今後ともよろしくお願いします。現在、関心をもたれてきている旧満州の明治建築、 近現代建築、戦争遺構など、忘れられている和歌山、兵庫の旧由良要塞跡の、世界遺産登録についても、関係方面に、呼びかけ、要望しています。戦争遺構研究会近現代史研、14・01。04





@TsutomuISHIAI お世話になった、解体が迫る大阪市東淀川の旧高射砲陣地跡を戦争遺構として保全再生を呼びかけています。かけがえのない歴史遺産として、後世に悔いを残さないよう正しく評価して、文化財にして保全活用されるよう要望を続けています。アドバイスを頂ければ幸いです。戦争遺構研究会、14・01・03



本多勝一 週刊金曜日 応援、侵略を考えるサイト
本多さんの新しい日刊紙の創刊を応援、侵略を考える。 平和憲法が危ない、改憲を阻止、警戒しよう。 あなたは戦争に行きたいですか。This site supports Honda Katuichi .


大阪市東淀川区柴島(くにじま)大阪空襲弾痕、西淡路高射砲陣地跡、軍人墓地
戦争遺構研究会の主催された見学会(2007.9.23)へ参加した。侵略(戦争)の生き証人である遺構を設置したのはすべて市民である。
大阪市、大阪府、国はこうした戦争遺構の保全に協力いただきたいものである。
1.柴島高校平和の碑「奪われし者の叫び」の像阪急千里線柴島駅、柴島高校校門の中にある。同碑文より《1945年6月7日、長柄橋周辺を襲った第三次大阪空襲は、人家を焼き尽くし、一瞬にして四百余名の尊い命を奪い去った。母は子を奪われ、夫を戦場に奪われた妻もまた、水を求めし手を虚空にさしのべたまま息絶えた。まさしくそれは「地獄の長柄橋」であり、オオサカの中のヒロシマ、ナガサキである。
 その惨状を表現した石の樹脂像と左の「戦争の生証人」旧長柄橋橋脚の弾痕石によって構成されたこの像は1983年夏彫刻家金城実先生の指導の下、生徒達自身の手によって創られたものものである。私たちは、ヒロシマ現地調査や大阪大空襲の体験の掘り起こしを通じて「戦争は最大の人権侵害である」ことを学びとってきた。戦争は人権侵害の中で準備され人権侵害の強化とともに遂行される。私たちはこの像の前で、生命と青春と愛しき者を奪われた人びとの心奥の叫びを胸に刻み、平和と人権を守るために献身せんことを誓うものである。1984年10月28日 創立記念10周年を記念して》


2.柴島浄水場壁面の空襲による弾痕
 柴島高校から徒歩5分くらい、阪急京都線崇禅寺駅京都よりの踏み切りを浄水場側へ渡りすぐ。10分くらい見学していたら浄水場の自働音声で「警備員が行きます、すぐに解散してください」との警告が流れる。
 同案内板より、《一九四五年六月七日、六月十三日、六月二十八日東淀川区は米軍機による空襲にみまわれた。特に六月七日の空襲は激烈をきわめ、1トン爆弾や焼夷弾が雨あられと降りそそいだ。米軍機はさらに低空の機銃掃射を繰り返し浄水場の崇禅寺駅側壁面に弾痕が約五十メートルにわたり残された。この弾痕は空襲に倒れ傷つき、死んでいった物言わぬ多くの人々への生き証人として私達に語りかけている。》




3.西淡路軍人墓地(東淀川区西淡路5丁目3)
  高射砲陣地のすぐそばにある。画像の墓碑は昭和21年シベリア・チタで抑留中?に死亡、昭和19年小笠原方面で戦死とある。軍人墓地といえば真田山の陸軍墓地を思い出す。墓碑を調べても戦争の一端が判る。




4. 西淡路高射砲陣地跡
  5月の再訪。見学会の説明会から《昭和18年高射砲陣地?完成。最初は地面に大砲があった。昭和20年6月頃地面より上に高射砲をつくった。88式7センチ野戦高射砲(全長3m)、射程1万3千m、B29にも届くが撃墜は多分せず。昭和20年7月から撃ったが(元学徒動員兵の証言)。米軍からの機銃掃射は受けていない。砲台下は待避所に使い、ふとん・畳を敷いていた。各地に同様の施設はあったが現在ではここだけに現存するのみ。砲台は6基半円状にあったが、マンション建設時に2基が撤去。現在は4基が残るが、府道の建設が背後に迫り、撤去計画がある(見学会配布の新聞記事参照)。道路は陣地周辺をアンダーパスで地下通過にしてほしい。》


左写真車の後ろの白い建物が高射砲陣地の旧指揮所、、、左は陣地の屋上にある退避壕のようなもの。府道が陣地の背後に迫っている。見学会の新聞資料追加しました。





平成17年12月1日号大阪ジャーナル誌
柴田正己 戦争遺構研究会代表「堺周辺の高射砲陣地跡」

     首都圏で保存されている高射砲台座の如く
           関西でも戦争遺跡保存に力を入れる要あり

  東淀川区の高射砲陣地跡の保全・再生の声が高まる中で、今後、行政の動きが注目されている。財政難の中で、戦争遺構よりも他の件に、予算を回すべきだという声が聞かれるが、貴重な歴史遺構については万難を排して活用を図るべきである。歴史よりも現在を大切だとの意見もあるが、現在を生きるためにも歴史が重要な意味を持つ事を忘れてはならない。
  現在、東淀川区の高射砲陣地について調査報告書が作成されている。記録調査だけでなく、当研究会は第一級の戦争遺構を歴史公園として全体を保存させる事を強く要望している。
  各地で国、県、市、町、村、登録文化財などに指定されている戦争遺跡が70件以上になっている(03年現在)事は高く評価されなければならない。現在、東淀川に続いて、堺市周辺の高射砲陣地跡・照空隊跡についても調査を進めている。現地での聞き取り調査を主にして始めているが、判らない事ばかりである。
  聞き取りを主にして、現在、調査中なのは大泉緑地、北波止、三宝、仁徳御陵周辺、石津川河口、浜寺地区などの高射砲陣地跡などである。陣地の構造、高射砲の種類、部隊などよりも当面配置されていた場所だけでも明かにしたいと思っている。高射砲を持たず聴音機、照空灯(サーチライト)を使用する照空隊、高射機関砲を有する高射機関砲隊も防空隊に配属していたため、近隣住民の間では、それらが混じって伝えられている場合もあるので気をつけなければならない。
  跡地と言われる場所へ出かけてもほとんど当時の物が残っていない事が多い。しかし、そんな中で跡地に古びた建物や、礎石のような物が見つかる時は最高である。当時、そこの部隊におられた方が見つかれば良いがなかなかそうはうまくいかない。高射砲陣地跡と言われる場所で今回見つけたRC造風のボルトがついた礎石は気になる。
  筆者は高射砲陣地が、照空隊跡の礎石ではないかと思っている。出来るだけ多くの人に見て貰い真実を確かめれればと思っている。
  中之島の大正期の名建築旧大阪ガスビルディングのペントハウス(塔屋)の腰部分の欠損についても、筆者は米軍機による機銃掃射によるものだと見ている。
  沖縄県下で多くの機銃掃射の欠損を見た経験であるが、何か他の情報が出れば有難い。
  だから今回、発見された高射砲陣地内の礎石と思われる物についてもよく調査して、その事実が判れば公園内のベンチとして活用して貰いたいと思うのである。
  東京都千代田区北の丸公園(国立近代美術館、工芸館・旧近衛師団司令部)の近くに高射砲台座が保存されている。
  関西でももう少し戦争遺跡の保存について力を入れて欲しいものである。
【写真】旧堺港の北波止の風景。江戸末期の旧堺北台場の跡に戦時中、高射砲陣地(照空隊)が設けられたと言われている。