2016年12月08日

ヒマラヤの雄大な山々の眺望に感動


11月の末の5日間、私が所属する団体でネパールを訪れる機会に恵まれた。主な目的はボランティア活動であったのだが、そこは大人の会であり、ヒマラヤの山々の日没直前と日の出を拝み、マウンテンフライトを楽しむことができた。
首都カトマンズから東に道路距離で約35km、標高2100m(カトマンズは標高1330m)のナガルコットからの展望である。上の写真はホテル到着直後に撮った一枚。道路事情がはなはだ悪く、舗装はされているもののいたるところで大きく陥没し、車酔いでへとへとで気分が悪くなるほどだ。車が到着したのは日没寸前であったため、唯一の夕景写真となった。見た瞬間、車酔いが一挙に吹っ飛び、ただただその姿の神々しさ、雄大さにひれ伏すばかりであった。
中段の写真は翌日の日の出直前の写真。太陽はまだ山の稜線より下にあり、日の出を拝む直前だが太陽光を受けて頂上の一部が輝いている。下段の写真は日の出の瞬間です。日の出の位置は上2枚の写真よりは60°程右の位置です。
夕は一日を終え安堵の赤い夕日にしっとりと染められた山々、
朝ははつらつとした透明な光を受けた山々が一日の始まりを告げているかのようです。
才本
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2016年12月08日 15:57|記事のURLコメント(0)トラックバック(0)

2016年11月08日

東京の下町に出くわしたレトロな銀座

先日東京で六義園や旧古河邸を見たあと、以前から気になっていいた朝倉彫塑館を訪ねようと駒込駅で山手線に乗車し二駅先の日暮里駅で降り向かった。しかし、結果的には当館は休館のため見られなかった。あらかじめHPなどで情報収集はしたのだが、美術館の常識的として木曜日が休館とは考えもしなかったのだ。しかしその後近くを歩いていると、かつて岡倉天心の居宅と日本美術院があった場所が今は公園となっていることを発見。そして地図を見ると、この辺りは上野公園に近く東京芸大も徒歩でも歩いて行ける距離にある。その延長で「谷中銀座」という地名があちこちに見られて、この下町風情の場所に銀座かと思いながらそちらへ向かった。街に入った途端人が多いのにびっくり。それも日本人だけでなく、外人もちらほらいるではないか。店はほとんどが日用生活を支える物販かクリーニングなどサービス業である。ところどころにお土産屋風の店があり、またおしそうな蕎麦屋などがあったりして、ちょうど昼食時で順番待の列をなす光景が見られた。いま何でこのように不思議な商店街が生まれたのかちょっと調べてみたくなります。  才本

上写真は岡倉天心宅跡の公園
中写真は谷中銀座の光景
下は谷中銀座のHPから引用(CPの具合が悪く取り込み時に変色しています)
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谷中銀座地図(400P)のコピー



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2016年11月08日 19:19|記事のURLコメント(0)トラックバック(0)

2016年10月17日

諏訪湖周辺ブラ歩き2 神長官守矢資料館

神長官守矢資料館は諏訪大社上社の前宮と本宮の中間に位置し、諏訪上社の神事に関する資料を展示している。神長官とは諏訪上社の筆頭神官のことである。藤森照信氏がこの地の出身というご縁で手掛けたものだという。
何といっても仕上素材などをとことん検討することで、諏訪大社がもつ歴史や特殊性を表現している。屋根葺材は手割のスレート、外壁の左官はワラ入りモルタルを投げつけた上に土を吹き付ける、木部はサワラの丸太にくさびを入れて割った割り板。私は、入口の屋根から突き出た四本の柱を見て御柱祭の柱を想起したが、樅ではなくイチイの木とのこと、そこに薙鎌という諏訪上社の金属製の祭器が打ち込まれている。
中の展示物は上社の神事の御頭際−鹿の首を神に供える神事−を復元展示している。壁には鹿の首のはく製がいくつも展示されるという奇妙、奇怪な空間。この展示のためにこの建築がつくられた、と納得する。
最下段の写真は資料館近くにある藤森氏の建築作品。 才本

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2016年10月17日 17:18|記事のURLコメント(0)トラックバック(0)

2016年09月14日

諏訪湖周辺ブラ歩き

先月のお盆のころ諏訪湖周辺を訪ねました。第一の目的はサンリツ服部美術館で本阿弥光悦の国宝の茶碗、銘 不二山(ふじさん)を見たかったのであります。光悦は書や工芸の作家としても数多くの作品を残しておりますが楽茶碗でも多くの名作を残しています。国宝が一つ、重文が五椀(たぶん)あり唯一の国宝がこの不二山です。偶然に生まれたこの白と黒の景色と造形は技巧を感じさせず強い生命力を感じます。下の展示会チラシ参照。
その後、隣にある北澤美術館でアールヌーボーのガラス器を見る。
そして余った時間をどうするか?観光案内所でこの近くに神長官守矢資料館があることを発見。そして、その周辺にある諏訪大社上社(かみしゃ)で今春、7年に一度の御柱祭があった、と話題性がある話を聞きそこに行くことに決定。
御柱とは神社境内の四隅に建てる四本の柱の事。樅の木。これを7年に一度新しいものに取り換える行事が御柱祭です。そのために今年の4月に山出しをし、5月里曳き、建御柱と続きます。25厠イ譴身ヶ岳中腹からコロも使わずに人力で曳く。急坂を落とす光景はTVでも放映され知られています。下の写真が上社前宮(まえみや)に収まった「二の御柱」です。  才本
写真説明
.汽鵐螢追部美術館チラシから
⊃柬大社 上社 前宮の二の御柱
8翆譴稜慳未25kmの行程を曳きずられ痛々しく削られている
に社では遅れて「建御柱」を行う

サンリツ服部美術館光悦の楽茶碗 不二山チラシ 表(400P)

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2016年09月14日 17:29|記事のURLコメント(0)トラックバック(0)

2016年08月24日

名古屋城本丸の景観が変わった

先日、お盆の夜間に名古屋城の夏祭りに行き、本丸周辺の景色が大きく変わったことに気が付きました。本丸御殿はこの6月に二期工事まで完了し、天守閣の近くまで伸びてきており、その結果これまでの天守や小天守周辺の景観が大きく変ったのです。以前は正面から見ると、天守、小天守が並んだ姿の全貌が望まれ、それはそれで美しい姿でしたが、いまはそこに本丸御殿が割り込んできて、これまでと違った複合的な美しさが出てきています。名古屋城が建築群としての美しさ、本来の姿を取り戻しつつあります。
それらが夜間のライトアップで彩られなかなか素晴らしいですね。天守の漆喰の白い壁は従来通り白い光で、御殿の檜の外壁は赤い光でライトアップされておりますが、この色対比は若干強すぎるように感じます。
これを機会に天守も木造で建て替え、もとの姿に復することで名古屋城の魅力は大きく膨らんでいくように思います。  才本
下の図面は名古屋城ホームページによる
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名古屋城配置図のコピー

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2016年08月24日 18:34|記事のURLコメント(0)トラックバック(0)

2016年08月02日

東大寺 南大門と鐘楼のデザイン

1180年、源平合戦のさなか平重衡が南都奈良を焼き討ちし、東大寺も中心伽藍が失われる。
東大寺南大門(写真上)は、その後、東大寺大勧進職に選ばれた僧重源が宋の建築様式(大仏様)を取り入れて建造したものであります。大仏殿(現存しない)は1195年に落慶法要が行われ、南大門は1199年の上棟であります。
写真を見るとわかりますが、横ブレ防止のために入れられた数多くの通肘木により水平ラインを強調され、直線的な造形といえます。そして屋根のラインも反りは端部だけに限られ非常に直線的であります。このようなスタイルを大仏様と呼ぶわけですが、柔和な軒反りを見慣れた日本人には少々硬直な感じが否めません。
次の写真(写真下)は東大寺鐘楼です。重源が1206年に没しその後第二代の大勧進職に就いた栄西によって再建されました。完成時期は承元年間(1207〜1211年)と言われています。南大門の10年ほど後の建立ですが意匠的には大きく変わっています。もちろん大きさの違いによるところが大きいと思います。鐘楼はわずか一間四方の建築で南大門のように通肘木で柱間を固める必要がないわけで、より自由度の高いデザインがされています。屋根全体に情緒たっぷりの反りを付けており、類まれな造形力を感じます。このデザインに至ったのは大きさだけに起因するのではなく、本来の日本人の美意識が再び呼び起こされたと考えるのが自然でしょう。  才本
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2016年08月02日 19:36|記事のURLコメント(0)トラックバック(0)