2008年07月

2008年07月24日

暫遊荘(愛知県犬山市)は幾重にも文化を蓄積し興味深い

「暫遊荘」は現在犬山市の木曽川のほとりにあり、世界的な工作機械メーカーであるY社の迎賓館として利用されています。この建築はもともと大正6年に中区竪三蔵町(旧地名で今は三蔵通と堀川が交差する東側のあたり)に竣工した「旧高松邸」で、その後取り壊されることになりましたが、Y社の現会長がそれを聞きつけ、昭和60年(1985年)に解体移築し平成2年(1990年)に当地に完成させたものです。数奇屋の研究家として高名な中村昌生氏がこの建築を紹介した本を、会長が目に留めたのが事の起こりとのことです。
玄関を入ると大広間の偕楽の間がありそれに続き鍋島の間、高取の間、萩の間、信楽の間・・・など6畳から8畳の間が次々と現れ、それぞれ趣向を変えてデザインがなされています。
会長の「暫遊荘偶感」(Y社発行「暫遊荘」)には関東大震災以後、関東の数寄者益田鈍翁氏がここに疎開し、名古屋の茶人を招いて茶会をおこない、名古屋の茶道は格段の隆昌を迎えることになった、その記念すべき場所がこの「高松邸」である、と。ここには建築文化はもちろん、幾重にも重なった文化の蓄積があり尊い遺産として保存されたことは大変価値あることだと思います。  才本




2008年07月17日

慈光院からの眺望は今・・・、そして、巧みな大刈り込み

慈光院書院は足下にひろがる大和平野の田園風景を借景していることで有名です。当寺は大和平野の一部がふくれ上がったような小さな丘の上の先端に建っています。丘の高さは直下にある池の水面からわずか6〜7メートルほどしかありません。この地域でもご他聞に漏れず都市化の波に襲われ、残念ながら田園風景ではなく新興住宅などで埋まりつつある姿を借景することになってしまいました。グーグルアースで見ますと慈光院の前(東側)は他の周辺地域と比較してもそれほど建て込んでいることはないので、市街化調整区域や何かで一応は規制しているのでしょうか。(想像です?)
茨木門という楼門を入ると書院の玄関へ向かう露地がありますが、ここから書院の建物は見えますが、庭はまったく視界に入らず意識されません。あとで図面を見て理解したことですが、庭とこの露地との間は大刈り込みで分離されているのです。この大刈り込みは名称が示すように大変規模が大きく、山をつくり樹木で覆いそれを曲面で刈り込んだものです。山の中央には観音堂という小さな堂があります。この大刈り込みは書院から見ますとその他の小さな刈り込みと連続的に感じられようにつくられているので、そこに山があるとは気がつきません。しかしその大刈込みをつくることで、入り口付近の雑踏から隔離し、書院が静かに眺望を楽しむ場になることを意図したのだと考えられます。左写真 露地から書院と大刈り込み(右手)を見る。この大刈り込みが庭に続く。 中写真 書院の奥に大刈り込みが見える、さらに向こうにある入り口付近の雑踏を遮断する。右写真 書院からの眺望 工場のような建物、ゴルフ練習場のネットなどが見える。  (才本)


慈光院 アプローチ慈光院 大刈り込み慈光院 書院から見た眺め

2008年07月07日

当麻寺東西両塔を借景として取り込んだ中の坊と西南院の庭園

さて、前回のブログで新旧渾然一体の伽藍を紹介しましたが、ここでは子院の建築と庭園についてお話をしたいと思います。子院は塔頭(たっちゅう)とも呼ばれ住職などの住まいや隠居所として寺院境内につくられますが、一般的には塔、金堂、講堂など主要な建物の敷地をはずしてつくられます。しかし当寺では東西両塔と金堂の間の隙間スペースを埋めるようにいくつかの子院が並び、結果的に塔と金堂が隔離されています。これは経済的な理由などにより外に敷地を求めることができず、やむを得ずここにつくったのかもしれない。それとも、美しい塔をいつも眺めていたいと思いここに住居をつくったのかもしれない。いずれにしても時の流れに順応しながら現在の姿になりました。中の坊も西南院も東西両塔の景観をうまく取り入れ庭園と生活空間をつくっています。上左写真 子院群その向こう(南側)に両塔が見える。上中写真 東塔を借景した中の坊の庭園。 上右写真 重文の中の坊書院と庭園。    下左写真 西塔を借景した西南院の庭園。 下右写真 西南院の庭園と書院を見おろす。  才本


当麻寺の二つの塔中の坊 1中の坊 2







西南院 1西南院 2