2008年08月

2008年08月24日

京都・無鄰庵の庭園はせせらぎの音とひかりで心を癒してくれます

「植治(うえじ)」とは京都で代々襲名されている造園家・小川治兵衛の7代目の人物のことであります。幕末の時代1860年に誕生し昭和初期まで活躍しています。山県有朋の別荘、無鄰庵(むりんあん)は初期のデビュー作で34〜36才に計画・造園されました。南禅寺に近く東山を背景とした東西に長く細い地型です。この造園の際に山県は「この庭園の主山は東山であり、山麓にあるこの庭園では、滝も水も東山から出てきたようにデザインする必要があり他の要素はおのずと割り出される。」それから「山村を流れる川のイメージで、池ではなく流れの庭とする。」などと語ったそうです。細長く決して広くないこの庭を大きく見せるために東山の景を取り込み疎水の流れを利用し、あたかも東山から発した流れがここに至り滝となりせせらぎとなるという大きな景観を創造しています。庭中どこへ行ってもせせらぎの爽やかな音が聞こえ、せせらぎが日を受け止めてきらきらと光る情景を見て取ることができます。山県の構想を植治の作庭により実現した、といえましょうか。左写真 遠景の東山並みを見ながら庭のせせらぎに心が癒される風景。 中写真 書院の坪庭。 右写真 書院から庭を見る。  才本


庭園全景坪庭書院から庭を見る

2008年08月16日

有楽苑の旧正伝院書院は軽妙な数奇屋風の味わいがある

正伝院は京都建仁寺にあった子院で、織田信長の実弟である茶人織田有楽により再興されました。その後、その一部に有楽が隠居所をつくり晩年を過ごしたのがこの旧正伝院書院や茶室如庵であります。現在は犬山市の有楽苑に移築されています。
旧正伝院書院と如庵は元和3年(1617年)ごろに建てられたといわれますので、桃山時代の雰囲気を残す江戸初期につくられたことになります。1600年には以前紹介した滋賀県の園城寺の勧学院や光浄院の書院が建てられ書院造として確立した形式ができあがっています。それからわずか十数年後ですが茶人が数奇屋の手法を応用し自由に変化せていく過程のものと考えられます。玄関は唐破風の屋根で人を招く姿は園城寺の2書院とよく似ていますが、唐破風の表現が数奇屋風の薄っぺらな軽い形になっています。また玄関の土間がゆったりと広くつくられているのもそれまでにはない書院のかたちと思われます。土間床は平瓦の四半敷き仕上げで、これも以前紹介した三渓園の聴秋閣の土間とも相通ずる数奇屋的な雰囲気をもっています。玄関土間空間は引き戸などで仕切られいつも開放させることができ外部空間と一体化することができます。左写真は正面玄関、中写真は玄関土間に通じるもうひとつの入り口、右写真は書院の南側とその右に如庵がある。 才本


正伝院正面正伝院入り口正伝院と如庵

2008年08月05日

堀川沿いにあったもう一つの建築遺産  東松家住宅

前回のブログで暫遊荘についてお話しましたが今回も同じく掘り川沿いにあった町家(商家)をとりあげます。今は明治村にある東松家住宅です。旧町名で中村区船入町、今の桜通と錦通に挟まれた地域で堀川の西側に、明治34年(1901年)に建てられました。今も往時の面影を残す西区の四間道に近いところです。うなぎの寝床の町家でありながら思い切った工夫で光りと風を取り込み、意匠を凝らした数奇屋風の座敷をつくっています。
左写真は外観です、3階建ての木造町家で、隣地側の外壁に段状に採光窓をつけています。かつては隣に2階建てが建っていてその屋根の上から光が入るようと考え段状の配置にしたのでしょう。この壁の内は3階吹き抜けの土間で、その光がその土間床とその周辺の部屋に差し込んでいます。おそらく建物正面は東向きでこの窓は南向きで刻々と変化する日差しを楽しみながら快適さも享受したのでしょう。次の2枚の写真は内部で土間を見上げて撮ったものです。段状の窓から入った光が漆喰の白壁に反射し、土間内部の間接照明的な役割をしています。最後の写真は窓からの光が土間をとおして2階の座敷に入った様子です。人工照明はありませんが日常生活にはさほど不便は感じない明るさです。  才本



東松邸外観土間土間見上げ







2階座敷