2008年10月

2008年10月30日

京都嵯峨天龍寺の庭と建築 3

かつての天龍寺域は広く渡月橋も含まれていたといわれます(ただし今の位置より上流にあったらしい)。その寺域は深山幽谷の景勝地で夢想国師にとってはお気に入りであり、自身が十境(10の景勝地)を定めそれぞれ漢詩をうたいめでました。「仁の人は山の静けさを愛し、智者は水の清らかさを楽しむ」場所がこの寺域であり、また「亀山を主山となし、嵐峰(嵐山)を按山となす。小倉を左に擁し、洪川(大井川)を右に導く。天開図画の絶境なり。洛下無双の霊地なり」と絶賛しています。場所にはそれぞれ個性がありその個性を生かしたものをつくる・・・天龍寺庭園はその個性を生かすことで、建築が幾度となく消失した中でも、現代まで生き延びたのであろうと思われます。正面は亀山で区切られ、向かって左側は嵐山を借景し囲まれた世界を築き、時代の変化に左右されにくい地形となっています。写真は南西方向を見る、近景が亀山、背景の山が嵐山。  才本



背景の嵐山

2008年10月28日

俵屋宗達の鶴下絵に本阿弥光悦が三十六歌仙和歌をしたためた絵巻

宗達と光悦ともに戦国時代の末期に生まれ、江戸時代に入る慶長ごろから活躍し始め、元和、寛永と活躍し、いわゆる「寛永文化」を担った重要人物であります。その二人が競作、今流で言えばコラボレーションした絵巻物があります。宗達の下絵に光悦が和歌の書をしたためたものですが、その中でも「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」はわたしの好きな一品です。今東京の国立博物館の「大琳派展」で展示されています。全長約13.5メートルのうちの3~4メートルほどが見られます(残念ながら全部は見られません)。この作品のすばらしさは鶴の絵が全巻にわたり流れるように連続しているところです。鶴の群れが羽を休めるところから始まり、最初は個々の鶴が乱れながら舞い上がり、そして美しく編隊をなし、時にはその編隊が重なり大きな群れとなり圧倒的な力強さを表現し最後は再び羽を休めるという構図です。銀泥で鶴を描き、単純化した背景を金泥で描いています。光悦の書の下絵とすることが前提ですから色彩は抑えています。にもかかわらず溢れ出んばかりの躍動美と連続感が見るものを引き込みます。その下絵の上に光悦の書が寸分の迷いもなく力強く書かれています。二人の力量が拮抗し緊張感が溢れ、すばらしい芸術作品に仕上がっています。重要文化財に指定されていますが芸術作品としては相当レベルが高いものと感じています。  才本





2008年10月20日

京都嵯峨天龍寺の庭と建築 2

天龍寺は足利尊氏が無窓国師を開山としが創建して以来、幾度となく火災に見舞われ、現在の伽藍は1864年蛤御門の変で長州兵の陣所となり兵火で焼かれた後に再建されたものである。庭園に面する大方丈や法堂は明治33年、そして庭園の北にある小方丈(書院とも呼ばれる)は大正13年に再建された新しいものである。
南禅寺とは反対に、総門を西に向かって入りさらに西へ進むと法堂そして大方丈(西を正面として建つ)と続く。さらにその大方丈の西に庭園がある。庭園の向こうは小高い山で閉ざされ、そこを背景としてゆったりと水をたたえた池泉の庭となっています。方丈建築は生活空間を含むため南向きが普通で、このように西向きは珍しく、住まいというよりはむしろ庭を鑑賞するための建築である点に重点が置かれています。
私が訪問した夏の日の夕刻には、たっぷりと明るさを保ったまま太陽が山の頂から沈むところであった。ぎらぎらした夏の太陽が姿を隠し、あたり一帯が静けさを取りもどす一瞬であった。 才本


天龍寺 4天龍寺 1天龍寺 3







天龍寺 5

2008年10月11日

京都嵯峨天龍寺の庭と建築 1

天龍寺は京都の西部桂川にかかる渡月橋の近くにあります。前回紹介した南禅寺が東山の麓に建つのと対称的に天龍寺は西山を背にしています。御所(二条城も近い)を中心にすると、京都の東端に南禅寺、西端に天龍寺という位置関係になります。南禅寺が西から東に順に門、堂が並んでいるのとまったく逆で、天龍寺は東にある門を入り、順に西に向かって入っていくという配置になっています。これは両寺とも山を背に配置計画した結果と思われますが、もうひとつ考えられるのが、京都の中心はあくまでも御所という認識があり、御所に正面を向けたと考えられないだろうか。両寺は当時京都五山と呼ばれる格付けの高い寺院だからです。ちなみに南禅寺は別格、天龍寺は第1位の格付けです。京都五山は足利将軍家が帰依していた夢窓疎石が中心となって定めたもので、疎石は南禅寺では住持を務め、天龍寺では開山とされています。さらに南禅寺の南禅院そして天龍寺とも作庭に夢窓疎石がかかわっています。左写真は天龍寺、右端が門、左端は西山の麓にある池泉庭、右写真は南禅寺、左端は三門、右端は方丈。 才本


天龍寺 グーグル南禅寺 グーグル

2008年10月04日

南禅寺伽藍と方丈庭園の配置ははじめから意図されていた

以前、このブログ(小堀遠州の庭 雑感 2 (2008年3月14日))で、遠州が南禅寺方丈庭園で意図したことを推測した。「三門、法堂は西向きに建っていますが、大方丈だけは住まいということもあり南を向いて建っています。そのため大方丈庭園からは西側に法堂の屋根の全姿が美しく望めます。遠州はこの光景を生かそうと考えたのではないでしょうか。」
最近、南禅寺の航空写真に出会いその思いをさらに強くしています。下の写真は南禅寺を西の上空から撮影したもので,三門、法堂、方丈庭園が一直線状に配置されていることがわかります。これを見る限り、三門、法堂の軸線と庭園の中心線はぴったりあってます。方丈を御所から移築し、その前に庭園をつくる際にこの軸線を意識して決められたことがこの庭を構想する出発点になっていると思います。その結果あの「虎の子渡しの庭」の造形が生まれたと考えられます。  才本


南禅寺 航空写真