まずはこちらの本から、178〜181頁。
神戸震災日記 (新潮文庫)
神戸震災日記 (新潮文庫)田中 康夫

新潮社 1996-12
売り上げランキング : 445651

おすすめ平均 star
starあの頃を忘れない
star災害ボランティアの可能性と限界を知る一冊

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

キャスター・筑紫哲也氏のこと

その青年は両親の遺骨を拾っていた。自分が生まれ育った土地で。地震発生から数日後のことだ。悪夢のような火災は既に消え、とは言うものの、未だ木材や鉄骨の焼け焦げた臭いは周囲に強く漂っていた。

すると、TVカメラを担いだ一群が近付いて来る。そうして、断りの言葉もなく彼を撮影し始める。最初は耐えていた。が、様々な思いが去来する。生き埋めとなった両親を救い出す前に建物は火に包まれたのだった。堪え切れなくなって、叫んだ。「やめて下さい」。

「判りました」とカメラのレンズが外される。だが、彼は知っていた。依然、カメラが回り続けていることを。更に奥にレンズが装着されている構造のTVカメラだと見抜いていた。

「やめてくれ」と立ち上がりながら、先程よりも語気鋭く叫んだ。ようやっと、ビデオテープは停止した。そこで初めて気付いた。ニュース番組でキャスターを務める人物も立っていたことに。「話を聞かせて貰えますか?」と尋ねられて、彼は拒んだ。「とてもそんな気持ちにはなれませんので」と。

オンエアされないものだとばかり思っていた。なのに、違った。彼の表情を余す所なく……。この話を聞いて、僕は哀しかった。地震直後の逃げ惑う一人一人に許可を得ることなく撮影するのとは、訳が違う。繰り返すが、地震発生から数日後のことだ。声を掛けた上で撮影するのが大前提ではあるまいか。

そうした最低限の礼節すら見せてくれなかったから、彼は二度にわたって異議申し立てを行なったのだ。それに応じて、ビデオテープは停められた。ならば、お蔵入りさせるのが狢膺佑量鸞瓩世隼廚Α〈ジャーナリストとして如何なものか〉
と僕は当時連載していた「神なき国のガリパー」なる社会時評に押いて慨嘆した。(本書では「四人への手紙」の章に収録)

数日後、キャスターの命を受けたという男性が、青年の許へと現われた。合同慰露並祭の会場までやって来て、探し出したのだった。

「田中某の書いた文章に誤りがあったら、言って下さい」。彼は答えた。「いいえ、ありません」と。この話も聞いて、更に僕は哀しくなった。

が、最も哀しかったのは、件のキャスターは僕にとって、犹嫋↓瓩謀たる人物だったことだ。一〇年前、「朝日ジャーナル」の編集長だった彼は僕に「ファディッシュ考現学」なる社会時評の連載を与えてくれた。今回の未曾有の混乱の中で、ふと彼も間違ってしまったのだろうか? けれども、今でも密かに師と仰ぐ僕は、矢張り哀しいのだ。

二月末、僕の事務所に電話があった。「FAXで手紙をお送りしたいと申しておりまして」。スタッフが番号をお伝えした。が、キャスター・筑紫哲也氏からの僕宛ての私信は、その後、何か月も経つのに未だ到着していない。

〔付記〕 二年近く経つ現在も、故障している訳でもないのに、何故かFAXは到着しない。のみならず、パーティー等で少なくとも三回は邂逅しているが、先方は決まって親し気に「ヤア」と片手を挙げる。往時、沖縄特派員でもあった元新聞記者の彼は、政治家同様に日本では「ジャーナリスト」も、過去に盲目となる人こそが望ましい、とドイツのワイツゼッカー元大統領が聞いたら真っ青の珍説を、自ら具現化してくれている。因みに毎回、彼との間に会話は成立せぬ儘、終わっている。


「神なき国のガリバー」はSPA!の連載でしたが、同誌で現在も続いている田中康夫の日記に筑紫哲也死去の話題はでてきてませんね。
WEB SPA!|田中康夫の東京ペログリ日記リターンズ
「神戸震災日記」の後も両者が会う機会はあったようですが。
2004年6月5日(土)「別府市。第11期を迎えた自由の森大学で講演。「この国の行方と地域再生」と題し、福岡政行氏の司会で、同大学学長の筑紫哲也氏らと座談。」
2004年7月11日(日)「TBS。筑紫哲也氏の進行で参院選開票速報番組に出演。」

過去のエントリでも取り上げているように私は田中康夫を信用してません。いくら報道を批判したところで、自分だって同じマスコミ報道によって偶像化されて今の地位に就けたんだろ、と。
「ジャーナリストの役割は権力監視」といいながら「県知事」「政党党首」「国会議員」である田中と馴れ合い、監視なんてまったくしてこなかった屑ジャーナリストども―勝谷誠彦とか、噂の真相の岡留安則とかが典型ですね―が多すぎる。

それでもなお、今回の論点では田中に同意せざるを得ない。
というのも筑紫の反論があまりにも拙劣で無様だったからです(200〜202頁)。
ニュースキャスター (集英社新書)
ニュースキャスター (集英社新書)筑紫 哲也

集英社 2002-06
売り上げランキング : 13659

おすすめ平均 star
starニュース23を中心にしたエッセイ
star「ニュース23」を形作る考え
starもっともらしいのらりくらり

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

自分自身について言われることには一切弁明しないことにし、その後には地下鉄サリン事件が起きて、そのひまもなかったが、何を言われようと、結局は取材現場でどんな仕事をし、どんな人間関係を作り、そこで産み出されたものを視聴者がどう受け止めるかが全てだという思いが私にはあった。ただ、テレビ批判の常として、自分はそれを観ていない伝聞に基づいて何かを言い、書く人が多いことまでは防ぎようがない。

震災直後、焼け野原のような現場を歩いて話を開き続けていた私と取材チームは、そこで両親を失ったばかりの人と出会った。そんな悲痛な状況とわかって近付いたわけではない私たちに向かって、その人は「カメラは止めて下さい。止めた上なら話をする」と言った。私たちはその通りにし、オフカメラで聞いた話を私がスタジオでフォローした。その日の放送を観た視聴者は、現場の映像が途中で止まり、その後の説明を私がするのを闘いたはずである。ところが、これがどう曲がって伝わったのか、私が当人の制止をふり切って撮影を強行したと非難するコラムを書いた作家がいた。おそらく放送は観ていなかったのだろうが、粘着気質なことで知られるこの作家は以来、未だにそのことにこだわっていろいろ書き続けているらしい(私は読んでいないが)。

そんなことよりも、
マスメディアの一角に身を置いた者としての私の自己批判は、要約すれば、マスにとらわれるあまりミニへの視点が欠けていたことである。しかも、神戸のような場合、ミニそのものが単なる少数ではなかぅたために、従来から内包していた視点の欠落が大きく露呈された。マスメディアは外部のマスに向かって「こんな大事件が起きていますよ」と伝えておればよいと思い込みがちだが、その手段、道具にされた当事者(相対的ミニ)たちにとっては、そんな大局的情報ではなく、必要なのは「いつ、どこで水や食糧が手に入るか」などの生活情報だった。そういう「民」の視点を欠きがちなメディアのなかで健闘した地元メディアもあったが、個人として私が敬服し、教えられ、助けられもしたのは黒田清氏の姿勢だった。新聞記者出身の黒田氏は大学ノートを拡げながら、文字通り地べたに坐って被災者と同じ目線で聞き書きを統けた。

震災報道の記憶は、今や故人となったこの人の姿と分かちがたく私の心のなかに刻まれている。


詭弁というのはこういうものだというお手本みたいな文章ですね(毒
「番組をみていない奴が批判している」と論難しながら、本人は田中の文章を読まずに批判するという頭の悪さは救いようがない。誰か周囲に「おかしいですよ」と忠告する奴はいなかったのか。

「当初は両親を失った人とは知らなかった」からその部分の撮影は放送して構わないというのも、わけのわからない理屈です。マスコミ業界ではそれが常識な訳ですか? にしてはこの一件で「田中康夫の言ってることは間違ってる」と筑紫以外のジャーナリストが反論したという話も聞きませんけど。

黒田清のことなんか誰も聞いてないし、「生活情報」をいかに伝えるかについては筑紫の言い訳にもならないたわごとより田中の実体験のほうが有用だと思いますね。

あと、筑紫哲也と阪神大震災といえば有名なのが「温泉町」発言です。

筑紫はこれについても、さきほどの文章の前でデタラメな弁明と論点そらしに終始しています。
<12/11 更新>
 
震災報道で心に刻まれた記憶

震災直後、神戸との往復を繰り返していた私は、ある日、市役所の隣にあるビルの、テレビ取材関係者のたまり場になっている一室に立ち寄った。壁にピンで留められた活字びっしりの紙が目に留まり、近付いて見ると、何とそれは自分が書いた連載コラム(「週刊金曜日」)の拡大コピーであった。

テレビ・バッシングの中で、マスコミ志望の君へ」と題した一文で、震災報道の現場の例を示しながら、テレビ取材がいかにきびしく犂躙鵜瓩暴爾舛討い襪を説明し、「悪いことは言わないから」そんな志望は持たないほうがよいと戒めている。どうしてもこの世界に入りたいなら「週刊誌、それも評論やコラムニストを志すのがよい。そこなら安楽椅子に坐って他人を撃ち、自分は傷付かないことも可能だ」とも書いた。

被災者にとっては、カメラを伴って群がって来る取材陣は迷惑で腹立たしい闖入者であり、必要な食料、水、衣料をもたらすわけでもない。他人の不幸を餌にするハゲタカのように映って当然であり、衝突も起きる。テレビ取材者に相当のケガ人が出ていたのは、伏せられた事実だった。が、さらなる危険は、同じマスコミの背後からタマが飛んで来ることだった。主としてテレビ取材が俎上に上がり、片書隻句、果てはあることないことまでがバッシングの対象となった。それに煽られて「ヘリで取材するひまがあったら救援物資を落とせ」「現地を見て回るひまがあったらシャぺルを持って救援作業をすぺきだ」といったヒステリックな声が拡がった。なかでも広く信じられ、流布された話に「報道陣のヘリ」というのがあった。がれきの下敷になって救いを求めていた人の声がテレビ撮影のヘリコプターの騒音にかき消されて届かず死に至った――という話である。たしかに現場にはヘリが飛び交い、私も取材で乗ったが発生当日から高度、領域ともに取材制限がきぴしく地上では多くの悲惨が起きているにちがいないのに、高空、周辺から望見する神戸は「温泉に湯煙が上っているかのよう」(この描写もバッシングの対象となった)にしか見えなかった。むしろ上空、低空で自由に飛んでいたのは、警察、自衛隊など「官」のへリだった。そのなかで、どうしてだれが、「報道のへリの騒音」と識別できたのかも奇妙な話だが、もっと異様なのは「死者に口なし」のはずなのに、救いの声が届かず死んだことがどうして確認できたのか、他者がその声を聞いたのなら、「声は届いた」ことになるというこの話の基本的な矛盾が無視されて流布されたことである。

私の一文の拡大コピーが貼られていたというのも、そういう異様な空気のなかで日々現場で働く人たちのうっぷんのせめてもの捌け口としてだったのだろうが、別の局の女性キャスターからも手紙が届いた。彼女はミンクのコートを着て現場に降り立つたと非難を浴ぴていたのだが「自分はもともとミンクのコートなど持ち合せていない。ひどいバッシングに一矢を報いる文に捜して救われる思いだ」とあった。キャスターたちの服装も、彼女に限らず標的になり続けたが、現場近くでお付きの人が用意した糊の利いた防災服に着換えて乗り込む政府要人たちの犁響鵜瓩められることはなかった。


このとき、筑紫と親密な当時の首相・村山富市が無能だったせいで自衛隊の出動が遅れたんじゃなかったのか? 恥を知れ!
週刊金曜日に載ったというコラムは、同誌で暢気な評論を書いてる連中―朝日新聞の編集委員とかが目立つんですが―に対する批判と受け取っていいんでしょうか(皮肉

相手が政治家や一般企業なら「片書隻句、果てはあることないことまで」取り上げて集団で叩くのはマスゴミの得意技の癖によく言うよ。自分たちに向けられた批判は全部「バッシング」と敵視してますが、そんなもの被災者が受けた心の傷に比べてそれほど大層なものなのか?
あれだけ震災について記録が溢れる中で、取材者にそんなけが人が出たなんて知らないんですけど。地元の新聞の苦境に乗じて、全国紙がカネにあかせたバラマキで購読者を奪いにいったという話ならよく聞きますが(毒

筑紫の文章を読んで編集者は「これはいくらなんでもひどい」と考えなかったのか。親会社の小学館が保守寄りなわりに(といってもSAPIOぐらい?)、集英社新書は筑紫以外にも姜尚中とか森達也とかマガジン9条とか左巻きが目立ちます。どうも何かが狂っているようですね。