月刊誌『ZAITEN』09年5月号、“喘ぐ出版界の雄「講談社」華麗なる一族「野間家」の苦悩”の続き。

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天覧試合東京予選での八百長疑惑

講談社・野間省伸(左)と小学館・相賀昌宏佐和子と省伸がなりふり構わず守ろうとしている「野間家=講談社」。その創業者・野間清治は1878年、群馬県桐生市に生まれた。県立尋常師範学校を経て、東京帝国大学文科大学内に開設された中学教員養成のための臨時教員養成所に進み、1904年に卒業した。貧しい旧藩士の家に育った清治は、金銭ヘの欲求が誰よりも強かった。一番高い報酬を求め、赴任先を沖編県立中学校に決めた。遠隔地ほど給与が高かったのである。

沖縄で中学校教師を続けていた1907年、徳島出身の服部サヱと結婚。式を挙げていた最中、臨時教員養成所の恩師から電報が入り、上京することになった。東京帝国大学法科大学首席書記のポストを推薦されたのである。その頃、清治はのっぴきならない状況に追い込まれていた。沖縄での3年半で700円(現在の貨幣価値はその約1万倍)という借金をこしらえていたのだ。毎日のように遊廓に入り浸り、放蕩三昧に明け暮れた結果だった。

東京に戻ってからも、相場に手を出し失敗。なんとしてもカネが欲しい清治は1909年11月、講談社の前身である「大日本雄弁会」を興す。
当時の演説ブームに目を付けたのだ。帝大で開かれた演説会の速記原稿を載せた「雄弁」という雑誌を創刊。1万4000部を売り、清治は420円を手にした。その後、とんとん拍子に事業は成功し、清治は「雑誌王」と呼ばれるまでになるのだが、その経緯は省略し、2代目社長となる長男・恒に話を移す。

野間家家系図恒が生まれたのは1909年4月。尋常小学校を卒業すると、上級学校には進まず、父親のもとで教育を受けた。学業もさることながら、清治が特にカを入れたのが剣道教育だった。25年には音羽の本社近くに剣道場「野間道場」を開設し、恒を鍛えた。そして34年5月、恒は天覧武道大会で優勝を果たすのである。しかし、これにはさまざまな噂がついてまわった。事実上の決勝戦と言われた東京府予選の優勝戦が片八百長だったというのだ。

〔中略〕

清治が亡くなったのは38年10月16日。風呂場で狭心症に襲われ、急逝したのだ。病床にあった恒が2代目社長を継いだが、それからわずか22日後の11月7日、29歳という若さで亡くなった。直腸がんだった。

それより1年前の37年秋、恒は胃潰瘍と診断され、手術を受けていた。その後、快方に向かい、38年2月、皇族の血を引く町尻登喜子と結婚したが、同年6月、再び体調を崩し、5カ月の闘病ののち、還らぬ人となったのだった。恒の母・サヱが3代目社長を継いだが、いつまでもその座に居座るつもりはなく、後継者を早急に立てる必要があった。ただし、誰でもいいというわけではない。野間家の系図を終わりにさせるわけにはいかないのだ。なるペくなら、清治から列なる直系が望ましい。そこでサヱが考えたのは、恒の未亡人・登喜子に婿を迎え入れることだった。

選ばれたのは、サヱの姪の夫の弟・高木省一。東京帝大法科を卒業後、南満州鉄道に入り文書課長に就いていた。虹年春、帰国した省一は登喜子と結婚し、野間の籍に入った。そして終戦直後の45年11月、サヱのあとを継いで4代目社長に就任した。野間家の血統はここで途絶えたことになる。

さて、話を戻そう。「不可解なこと」とは、清治とサヱの間には長男・恒以外にも、息子が3人いたという事実である。講談社が発行する社史や伝記には、0歳で亡くなった次男までしか触れられていない。3男と4男の存在はひた隠しにされてきたのである。3男は次男と同じく0歳児のときに亡くなっているが、4男は養子に出され、少なくとも80年代まで存命していた。〔中略〕

血脈という点で、野間家の一員としての証が希薄であることに負い目を感じていたからこそ、省一はこの4男と顔を合わすのを恐れたのだろう。だが、それは杞憂だった。4男の側に自分の権利を主張する気はこれっぼっちもなかった。

さらに言えば、野間家にとっては、すでにその血が問題ではなくなっていた。創業家の資産を守りながら、支配力を持続することが優先されるのだ。つまり、感覚としては、京都の商家に近い。家を永続的に継承していくことが最大の目的なのである。

では、どうやって野間家による支配が維持されてきたのか。その装置となったのは、講談社の筆頭株主の「野間文化財団」である。

危橿的状況の光文社を合併する案も浮上

野間文化財団の前身の「財団法人野間奉公会」が設立されたのは39年のことだった。清治の死によって生じた莫大な遺産相続税を逃れるため、清治名義の資産の大半を財団に移すことにしたのだ。財団という性格上、保有する資産が四散するリスクも少なく、以降、長年にわたって、野間家の講談社支配に利用されてきた。

現在、野間文化財団は講談社の株式39・2%を持ち、理事長を佐和子が務めている。また、講談社の第2位の株主には従業員株式管理委員会(所有割合25・0%)、第3位に省伸が代表を務める音羽建物(同12・2%)が名を列ね、たとえユダが出現しても、簡単には第3者が介入できない仕組みになっている。

「野間家の支配は安泰と言っても、それは業績が順調に推移していればこそ。講談社はまだもつとしても、傘下のグループ会社に相当に危ないところが出てきているんです。いよいよというときに野間家がどう判断するか。予断は許しません」(前出・中堅幹部)

危険信号が灯っているグループ会社とは「光文社」。同社の幹部が次のように話す。

「08年5月期の赤字は23億円。09年5月期はこの数字が倍増しそうです。内部留保を食い潰していくにしても、あともって3年というのが幹部たちの共通認識です」


光文社の大株主は講談社(所有割合45・8%)と野間文化財団(同40・3%)。講談社は当然、親会社として手を差し伸ペなければならないところだが、あまり芳しい情勢ではないという。

「講談社側に出資や担保保証を打診していると聞きますが、色よい返事はないようです」(同幹部)

請談社としても、おいそれと光文社を潰すわけにはいかないが、自身の足元がおぼつかない状況では、大した名案も出てこない。
「幹部の間では、吸収合併するしかないのではという声もあります。財務の観点から省伸さんがどう判断するか。非常に難しい決断を迫られることになりそうです」(講談社・中堅幹部)

今年11月、講談社は創業100年を迎える。このイペントを花道に佐和子は一線から退き、省伸社長体制に移行するというのが大方の見方だが、山積みされる難題を前に「ジュニアの心は折れる寸前」(50代幹部)だという。

「へピースモーカーのうえに最近は酒の量がめっきり増えた。父・惟道さんも酒を浴びるように飲み、死期を早めただけに心配です」


なんとしても野間家を継承することが自分たちの使命と考える佐和子・省伸母子だが、その一方で守るペき創業精神は急速に失われつつある。社員の鍛練の場として建てられた野間道場はすでに打ち壊され、その跡地ではこの3月から延ぺ床面積9500坪のオフィスピルの建設が始まっている。カネに貪欲ながら、出版人としての気概を失わなかった野間清治の精神を維持していくには、講談社、そして母子2人の置かれた状況はあまりにも厳しい。


冒頭の画像は「週刊少年サンデー・マガジンが共同企画」(インプレス)より。
そんな講談社も遅まきながら流通改善に取り組み始めたようですが、、、
出版業界の流通革命?返品改善へ「責任販売制」広がる(6/22 朝日)
 小学館、講談社、筑摩書房など大手・中堅の出版社10社が、新たな販売方法「責任販売制」に乗り出した。定価に占める書店の取り分を現行の22〜23%から35%に上げる代わりに、返品する際の負担を書店に求める制度だ。出版不況の中、長年の懸案だった4割に及ぶ返品率を改善する狙いがある。

 講談社も「CDえほん まんが日本昔ばなし 全5巻セット」(6825円)を10月に発売する。書店の取り分は35%、返品は定価の40%。共同で責任販売制を書店側に働きかけるのが、筑摩書房や河出書房新社、青弓社、中央公論新社、二玄社、早川書房、平凡社、ポット出版の8社。11月に各社1〜6点を刊行する。書店の粗利益は35%で、返品も定価の35%で引き取る。

しょせん小手先の改革にしかみえませんね。大量出版と大量返品の現状を変えようとしないで、在庫を書店に移転するだけじゃ意味ないと思うんですけど。

年何百冊も出している中で一冊変えたからって何になるのか。逆に本気で取り組むなら、講談社はじめ出版業界がかねがね主張してきた「再販制と委託制は車の両輪」論の破綻を認めなければならないはずです。

はじめは「講談社の左翼路線が気に入らない」というのがヲチのきっかけだったんですけど、右左以前に会社として終わってますね。ある意味、日本の出版業界のダメっぷりの象徴なのでしょう。
他の出版社も、何とか回ってるのは角川ぐらいでしょうか? 岩波なんか何をしているのか、経営状態はどうなのか話題にすら上ってないですよね。