マスコミ不信日記

オーウェルが描いた、じょじょに「ある言葉」が使えなくなり、言論の自由が奪われ、魂が管理されていく、静かで不気味な全体主義の近未来は、支那や北朝鮮よりむしろ現在の日本の姿そのものではないだろうか?
──西村幸祐「『1Q84』ではなく『一九八四』の世界を迎えた日本」〜『メディア症候群』より

再販制度・特殊指定

【再販論争1996】三田評論の座談会(4)終

こんなニュースが入ってきました。
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充実した品ぞろえの背景には、自前の物流センター整備がある。宅配業者への大口委託も可能になり、配送時間とコストの圧縮も実現。これまで1500円未満の注文については有料だった送料の(外部業者販売分など一部商品を除く)無料化につながった。利用者の購入履歴を分析して「おすすめ商品」のメールを送ったり、仕入れや在庫管理に生かすのも特徴。新商品の発売前には先行予約を実施し、大量発注を武器に値引き交渉に臨んでいる。

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出版業界の一部はポイント制や早大生向け割引に抵抗していましたが、どうするつもりなんでしょうね。

承前

課題は流通の改善

金子 時間の制約がありますので、取り残したいくつかの点をご議論いただきたいと思います。

よく中間報告は文化の問題とか公共的な商品であるという点についての配慮がないのではないか。トイレットペーパーとか、石けんと一緒に論じているのではないかという批判があります。

中間報告では文化の普及とか文化水準の維持、あるいはそれを高めるということは当然の前提として、では文化の普及とか文化水準を維持する、高めるということはどういう意味なのかを考えています。読者が書籍に実質的に平等な形でアクセスできることが守られていることが大切なのではないか。

その点が失われると、アクセスできないわけですから文化の普及が制限されるとか、文化水準の維持あるいは高めることの障害が出てくることになるのではないかということで、文化の問題を出版物への実質的な意味での平等なアクセスという形でとらえたのです。


それに対して文化を論じていないとか、ほかのものと一緒にしていると言われてしまうのです。中間報告のこのところを読んでいただけていない。中間報告のこの考え方をどういうふうに考えていらっしやるのか、いかがでしょうか。

江藤 再販を見直すと流通も改善できると読めたのは、多分そこのところではないかと思います。そうではない、これは本来別のことであると、さっき金子さんがおっしゃったんで、その点はたいへん安心しました。

それにつけても金子さん、中条さんの一体どこからこの啓蒙的情熱が出てくるのかと思いますね。つまり再販制度を見直さなければならない、そして適用除外を外してしまえというこの情熱がどこから出てくるのか、私にはわからないんです。私にわからないだけではなくて、二千百人の文芸家協会員がみんな首をかしげているのはそこなんです。

これは冗談みたいな話でお笑い捨てになってけっこうですが、文芸家協会の会合で年配のおとなしい理事や評議員の方の中に、一体アメリカはどこまで首を突っ込んで、われわれの内懐を土足でかき回すんですか、なんていうことを突然いい出す人があります。先生はいつから反米になられたんですかと言うと(笑)、いやそうとしか思えませんと。そう思っている人がいるものですから、文化庁から聞いたところでは、昨年の十一月八日だったか、衆議院予算委員会での社会党代議士の質問に対して外務省の担当官が答弁した。著作物の再販見直しをアメリカが要求した事実は一度もないと言っておりました。ですからそんなことありませんよとなだめているわけです(笑)。

つまりお二人の情熱があまりにも強いので、それにあおられて、ついに先生方はみんなの味方であるはずなのに、どこかに異質なものがいて、それが無理強いをしているという認識が一般化してしまうと非常に具合が悪いと思うのです。

ですから、法律上のご議論としたら、わからないではないのです。ただし、これを実際に適用した場合の多様な反響については十分ご斟酌いただきたいと思います。

いま出ているのは中間報告で、最終的な結論については公取も態度を明示していません。まだ時間もあることなので、今日は乱暴な話をしましたがお許しいただいて、そのへんの話もいろいろ取り入れていただき、さらに洗練されたものを出していただけると議論が噛み合いはじめるのではないでしょうか。

金子 新聞で報道されているところとか、いろいろなところに書かれている業界の方、学者の方の意見を読ませていただいて感じることは、本当に中間報告をきちっと読んでいただけているんだろうか、再販制度について理解していただいているかということです。

再販がなくなるとたいへんですよ、委託販売もなくなりますよ、本も出なくなりますよということばかりが先行して、中間報告の中身を正しく読み取りていたたいていない。当然賛成、反対はあると思いますので、中間報告の基本的な考え方についていろいろ批判していただく、ご意見を出していただくということでないと生産的な結果にならない。

江藤さんはどこからそういう情熱が出てくるんだと言われましたが、本というのはわれわれにとって非常に大事なものです。現在の出版のあり方、流通のあり方が本当にこれでいいのかというと、多くの問題点があると思うのです。

そういう問題を再販を契機に議論して、再販が残らないといいシステムが作れないのかどうか。その結果、再販を残すことになれば出版・流通の面で改善しなくてはならないものは何なのかが議論されなければなりません。

逆に再販で実現されるものはあまりないということであれば、再販廃止も考えなくてはいけない。このための議論を深めることが必要なのに、現在、実質的な議論ができていないのではないかという不安があるので、中間報告の真意を伝え、よいシステムを作り上げたいという熱情です。

中条 再販制とは何かを知らないで再販制擁護をしておられる方が結構いらっしゃるわけです。小売価格の拘束のことを問題にしているのに、「文化は大事だ、だから再販制は必要だ」という短絡的な議論が横行している。文化が既得権擁護の大義名分になってしまっている。こういう状態は消費者のみならず業界にとってもマイナスです。業界のためにも、活性化をどんどんすすめていかなければならないのに。再販制をやめても業界にはほとんど影響はない。新古本は今よりたくさん出るかもしれないけれど。問題はおそらく流通のほうだと思うんです。

江藤 それは全く同感です。

中条 ところが業界の方は再販を過大評価しておられるのではないか。過信していると言ってもよい。それが一番危険だと思うんです。再販制にしがみついているうちに、他の「文化業界」はどんどん変わっていきます。コンピュータソフトなんて再販制はないですからね。再販なんかどうでもいいのに、ほかにいっぱいやらなければいけないことがあるのに、こういうふうに変えていかなければいけないという方にエネルギーを注いだほうがいいのに、再販を維持するキャンペーンに一所懸命に力を注いでおられる。それは業界にとって何もいいことにはならない。

江藤 今日は新聞関係者が来ていませんが、新聞報道によって、この再販制度問題が乱反射している面もあるだろうと思います。

金子 出版と新聞とは、著作物といってもまた別の問題がありますので同一に論じられませんね。

江藤 いずれにせよこの問題は、平成十年三月三十一日というデッドラインが一応示されています。それまでの間、短いと言えば短いけれど時間があると言えばあるので、中条さんもおっしゃった流通の改善について実を上げ、目に見える結果を出して、これほど改善されたぞという実績を示してもらわなければなりません。

物流だけではなくて情報の流通が非常に進んでいる時代ですから、それをうまい具合に利用することによって、読者が手早く本を得られるようにできるはずです。取り次ぎにも大いに働いてもらわなければいけない。

実は書籍協会、日書連はもちろんのこと、雑誌協会、取次協会の有力な人々に公式、非公式に働きかけていまして、あなた方が言っていることばよくわかる、われわれもその恩恵を受けていると思っているが、現に本がなかなか手に入らないという意味では文化が停滞している。それを改善してもらわないと、公取も独禁法学者も読者も、もちろん書き手もだれ一人納得しないだろうということは努めて繰り返し申し上げています。

最後に金子さんのご努力には大いに敬意を表したいと思います。中間報告はいろいろな理由があって、正確に読まれていないかもしれませんが、あれが出たことでたしかに一石を投じておられると考えています。

何かしないと、このままでは大変だ。自分たちは誤解されっ放しではないか。あるいは正解されているかもしれないけど、誤解ということにして改善しなければならないとか、そういうふうに出版界、書籍流通業界がいま思い始めています。

そのインパクトは与え続けていただきたいと思うのです。もちろんとんでもないところにインパクトが行ったら困りますので、建設的な方向にいくよう、これからもお互い勉強し、話し合いもし、やっていかなければならないと思っております。続きを読む

【再販論争1996】三田評論の座談会(3)

27日にはこんな会合があったらしい。
国民読書年:各界連絡会で環境整備を確認(毎日)
 「国民読書年を継承・発展させる各界連絡会」が27日、東京都内で開かれ、国会議員や出版界、図書館などの関係者約170人が参加し、よりよい読書環境を整備していくことを確認した。

 今年は国会決議で国民読書年と定められ、10月27日は文字・活字文化振興法に基づき05年から「文字・活字文化の日」となった。会合は活字文化議員連盟と財団法人「文字・活字文化推進機構」が主催。議員連盟の「国民の言語力向上に関する5か年計画」が了承された。

誰が参加したか主要人物ぐらい書いとけよ(怒) 山岡賢次北神圭朗吉田統彦(いずれも民主党議員)は出席したそうですが。

ではでは、こちらの続きをば。
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座談会 出版物の再版売価格維持制度の見直しをめぐって 「三田評論」1996年2月号

出席者
日本文芸家協会理事長・慶応大学環境情報学部教授 江藤 淳
平安堂社長 平野瑛児
講談社書籍販売局長 関根正之
慶応大学商学部教授 中条 潮
慶応大学法学部教授 金子 晃

承前

再販制が維持するもの

金子 話は再販制度によって維持されるものは何かに移ってきたように思います。中条さんも私も市場メカニズムを空気のようなものと表現するかどうかは別にして、基礎としては存在して、これが機能していると思っております。そのことが出版の自由なり、著作の自由、流通の自由を確保する役目を果たしている。これが市場メカニズムになじまないとすると、では何で出版業界の秩序を形成するかとなったときに、国家というような形は一番最悪のシナリオだろう。それは排除しておかないといけない。

そのためにも基礎には市場メカニズムが妥当するということを確認しておく必要があります。そのうえでの競争のあり方は商品特性で違ってくる。また完全に市場メカニズムだけに任せるのではなくて、部分的には規制なり、いろいろな支援が導入されるこどもあり得ると思います。

今までの議論に対して関根さんいかがですか。

関根 私は専門が経済だったので、商品とか消費の問題については決して暗い者ではありませんが、入社以来、書籍を商品と言ったことはありません。それは先ほども申し上げたように商品ではあるけれども、一種の特殊的な商品であると認識しているからです。それから読者のことを消費者と言う人もたまにいますが、われわれは読者というとらえ方しかできない。もちろん市場における競争原理は働いていると思うし、これからも働くだろうと思いますが。

先般、北欧にまいりましたがスウェーデンの書籍協会の人と会って話をしたとき、彼らは再販はなくてもいいという議論をしてくれましたが、最後に本が出なくなると非常に困るので、国家的な保障をするというようなことまで言っていたんです。それはあまりにもひどいことではないかと思いました。スウェーデンは非常に税金が高いのですが、それを使って文化保護するなどというのは本末転倒でして、それは出版社と読者の間できちっとやっていくほうがいいのではないかと思って帰って来たんです。


今度、イギリスでも同じようにそういったものが外れるというけれど、これはたいへん大きな問題を残すかもしれない。フランスは今の段階は文化政策上、再販があります。

私は、競争条件というのは風土に根ざすものだから、アメリカ的な競争もあれば、ヨーロッパ型もあれば、東洋型もあるという認識で、だから競争があるということは認めているんです。ただ保護とは違うけれども、そういうのがあっていいんだということを主張しているだけです。

金子 平野さん、書店として書籍の流通の問題を含めて、再販があるためにこういうメリットが出ている、あるいは再販によって、こういうメリットを実現しようとしているのだというあたりをお話ください。

平野 書店の立場から再販制度が撤廃された場合の姿を予想してみますと、ベストセラーといわれている営業的にも回転率のよいものは、その部分に限って、ある期間ディスカウンターに代表される他業界大手流通小売業の"オトリ商品"として二〇パーセント引きとか安く売られ始めるだろうと思います。この部分に関する限りでは読者の利益でしょう。しかし、売れ行きのいい商品もよくない商品も全分野、しかも常時陳列し、いつも読者の求めに応じられる態勢をとっている既存の書店は競争上価格合わせをした分、他の分野で価格をアップし経営のバランスをとることをせざるを得ない。

もうひとつ、多品種少量出版物を仕入れ、陳列している現状に対し、仕入意欲は抑制される方向に向かうのではないでしょうか。
ただ、出版界の物流の貧困さは再販とは別の間題ですので、この改革については後に述べさせていただきます。

江藤 文芸家協会の立場から言えば、現行の定価一割の印税制度は再販制度を基礎にしていますから、これが壊れるのは協会員二千百人にとって少なからぬ不安の材料になっています。

印税率が個々の契約になると足許を見られてどんどん値引きされて、売れ筋本ばかり出るという状態になりかねない。それに耐えられる作家はおそらく百人いるかいないかでしょう。あと二千人は非常に深刻な状態になる。したかって再販制度を維持してほしいというのが一目瞭然のメリットです。


現に三千ないし六千しか売れない本を、総出版点数の五分の一も売ってもらっているという実績が、この制度によって担保されているとわれわれは考えています。そうでないというのなら、それを立証していただきたいという気持ちがあります。

中条 そのへんの本屋を見に行かれるとわかります。売れる本しか置いていない。

江藤 本屋にはしょっちゅう行って、いろいろ文句を言っています。書籍流通が今のままでいいとは少しも言っていない。

そうではなくて、これは文化庁からも提起されていると思いますが、適用除外を外すことが相当だと考えられる以上、その挙証責任は政府側にあるだろうというのがわれわれの感じ方です。

中条 それは逆ですよ。企業も消費者も自由な活動が基本なのですから。

金子 江藤さんが言われた印税の問題ですが、現在慣行としては定価の何パーセント、それに印刷部数を掛けて決定されますね。したがってこの制度が崩れると、印税の決定が困難になるというご主張ですね。

江藤 著作権使用料ですね。

金子 再販制度が廃止されたときは新しい制度のもとでの計算方法、たとえばアメリカですと再販がないわけで、再販がないということに対応した計算の仕方があるわけです。江藤さんのご意見は一番最初に中条さんが言われた既得権を守るという議論になりませんか。

江藤 正当な既得権を守ってなぜ悪いか。その当否を論証せずに、既得権を守ることそのものが悪いとお考えになる価値観が私には納得できないんです。さっき関根さんが言われたように、その国の商慣習はその国の必然性からできているのに、なんで地上げ屋が小さな印刷屋を全部ぶっ壊して、これが都市再開発ですと言うのと同じように聞こえるご議論をなさるのか。

中条 全然違います。

江藤 同じだとお思いになりませんか。

中条 同じだとは全然思いません。あえて地上げ屋の事例との類似性を論じるのなら、メーカーが価格拘束をするほうが、優越的地位の濫用という点でむしろそれに近い行為です。

江藤 私は、これは一種の経済制度上の地上げだと思っています。ほかの業界でも同じことを言う人はいるかもしれない。つまり競争原理で片方で規制緩和、片方で適用除外の見直し。これは車の両輪だからワーッといきましようと。これは私どもの直観から言うとブルドーザーでワーッと壊しているという感じになるんです。

中条 そうなると、「市場競争は望ましいか」という、市場競争についての一般的議論になってしまいます。そういう議論はいくらでもやりますが、今日のテーマは「出版社が小売価格を拘束してもよいか」ですから、それがどういうメリットがあるかについて議論をしましょうよ。

江藤 だから、われわれとしてはさきほどから申し上げているようなメリットがあると。

中条 既得権を守るべきだというのなら、すべての産業で既得権を守らないといけない。そういう考えだったら既得権を守るべきかどうかという議論をするべきであって、それは再販制の今の議論とかなり離れた議論になってしまいます。

金子 話を元に戻しますと、著作権者の印税を確保していくには、いろいろな著作権使用料の計算の仕方があり得ます。したかって再版が外れた場合は、外れたことに対応した計算をすればよいということになりませんか。

江藤 いろいろとあり得ると思います。それは多種多様になるに決まっているわけで、出版社と著作者が個々の書籍、著作物について契約してどうこうという話になってくるだろうと思います。

ところが出版契約書なんていうものは、普通全然交換されていません。契約書のひな型はありますが、実際は編集者が来まして、「先生のこれを本にしましょう」「そうかい」ということでやるんです。一体何部刷るのか、そんなことは全然書面で契約していません。

金子 われわれの場合とはだいぶ違いますね。われわれの場合は何部出版して、最初に刷るものの印税はどうするか。この間出した本ですと普通は六パーセントですが、読者に買ってほしいから我慢して、われわれは取り分は五パーセントでいいですよ。そのかわり定価は二千九百円にしてください。われわれの場合はそういう契約ですね。文芸書の場合は違うんですね。

江藤 違います。要するに契約と言っても一種の信頼関係による、あいまいと言えばあいまいな状態でやっているわけです。

金子 法律的に言いますと、再販があるなしにかかわらず、著者は著者としての権利を出版社に主張され、きちっとした合意のもとに本を出されるのが近代社会の原則と思いますが。

江藤 近代的ではないかもしれないけれど、われわれはそういう形で権利を主張しているわけです。

中条 契約をしないで権利を主張するのはおかしいですよ。

車の両輪―再販制と委託販売

金子 いま印税の話が出たんですけど、二千、三千部の本が出なくなるとか、われわれが出すような専門的な本が出なくなるという話があるんですが、関根さん、再販が外されると、なぜそういう本が出なくなるのか。なぜ出版社はそういうものを出さないのかお話いただけますか。

関根 その前に既得権について正確に申し上げておかなければいけないんですが、すでに得ている権益というか、既得権が非常に大きいものみたいに言われるけれど、そうではなくて再版制度が読者にとって全くマイナスになっていないところをきちっとご説明すればよろしいんだと、金子さんの論文を読ませていただいて感じているんです。

その上で多品種少量出版の日本の実情が、今後少品種大量出版に変わるのではないかという危機感を持ちます。読者にとっては豊富な選択ができたほうが望ましいし、文芸なり専門書なり、あらゆるジャンルがあることが日本の出版文化の源なわけです。

出版社間の競争があるから、そういうことが実現できると言うけれども、現実に言うと多品種少量の少量のほうでは、三千部であつても仮に三千円の定価をつけても出しましょうという出版が今後できにくくなるだろうということなんです。

中条そこがなぜか、ぜひ説明してください。

平野 私は書店ですが、優れた内容のものは再販制がなくなっても出版されるだろうと思います。しかし出版社の立場からすると、いくらで売られるかわからないものには著しく慎重にならざるを得ないですね。出版のドライブのかかり方が非常に消極的になると思います。五千部刷りたくても、安全策をとって千部にとどめます。コストは高くなります。少ない部数しか刷られないものは、日本中の書店で配本がなされなくなります。出版物というのは読者が店頭で目にして初めて、このすばらしい著作を、この研究成果をということで購買するわけです。

売価が守られている定価制と再販が、一体ではありませんが両輪のようになって委託販売がかなりたくみにかみ合って、現在、日本中のすみずみまで出版物が配本され、定価で販売されている。今後、書店が自分で価格を決めなくてはならなくなると、仕入れに対して非常に消極的にならざるを得ない。

中条 今のご意見をまとめると、まず再販制をやめると委託販売がなくなるからで展示効果がなくなってしまいますというのが一つですね。もう一つはいくらで売れるかわからないから、出版社は非常に慎重にならざるを得ないということ。

平野 書店の仕入れ姿勢も消極的になります。

中条 まず、前者の点ですが、いくらで売れるかがわからないのならば、メーカーが価格を拘束しても、それが市場価格だという保証は全くない。むしろ、市場に対応して価格変化が行われないという点で、消費者にとっても生産者にとっても望ましくない。

平野 それは長年のいろいろなものを集約した形で出版社ができるだけ安く提供しようという。

中条だったら、メーカー希望小売価格を示せばいいだけのことです。

平野 現実の問題、多くの書店は自分で定価をつけてまで、今のように積極的に読者の目に触れるだけの経営活動をするだろうかはっきりしない。

中条 そういう論理は書店がサボっているということを言っているのに等しい。書店に積極性がないのは、自分で決められないからなんです。展示効果のこともおっしゃいましたが、本屋さんは自分に経営イニシアティブがない。自分で価格をつけられない。今の本屋さんはほとんど場貸し業の形になっている。

これはもう一つは取り次ぎの問題があるわけです。パターン配本でどんどん本が入ってきます。一日に四百冊、五百冊の本が出版されるわけですから、置いてあるのは三日か四日の間で、その間に展示効果はほとんどないわけです。本屋さんは小さいですから、そんなにたくさん置くわけにはいかない。出版量の多い本でないと、まず手元にないですね。二千部、三千部の本は小さな本屋さんには全く回って来ないし、置いてあっても時間が非常に短い。展示効果はほとんどないわけです。


本屋がこの地域にはこういう傾向の本を買う人がたくさんいるという、そういうマーケットリサーチをちやんとして、ではうちはこういう本をたくさん仕入よう、そういう経営の視点が必要です。そういうところでは割引をしなくても、安くなくても専門的な本だったらちやんと売れるはずなんです。

再版制による委託販売制は取り次ぎの問題とあいまって、そういうことを一所懸命にやろうという小売店側の意欲をそいでしまうんです。そのために小売店がみんな画一的になってしまって、いま本屋さんを見て回られるとわかりますが、その辺にあるような中小の本屋さんは置いてある本がみんな同じなんです。画一的なんです。結局、文化の画一化をもたらしているだけなんです。

平野 程度の問題で、紀伊國屋さんを筆頭に、私どもも大規模書店に入りますが、全国二万五千軒の書店を十把一からげで論じられる発言は受け入れられません。

中条 「再版制がないと二千部、三千部の本が出しにくい、そういう本をちゃんと店頭に置いていなければ意味がない」とおっしゃるから「その辺の中小の本屋にそういう本が置いてありますか」と申し上げているのです。そういう本が小さな本屋さんにも置いてあるというのであれば展示効果は出てくるかもしれないけれど、置いてないでしょ。置いてあるのはよほど大きな書店だけです。

平野 二万五千軒すべてに置けるかどうか、これは自由市場ですからね。

中条 大きな本屋さんは品ぞろえが一つの経営戦略です。こういう経営戦略は、大きな書店では再販制がなくてもとるはずです。それがなくなったら大きな書店の意味がなくなってしまう。

平野 大手の書店は売れ行き良好書は買い切りで仕入れます。私どもも仕入れるだけの準備をしています。再販が外れますと先に述べた現象により今より安く売りますね。

では回転率が必ずしもよくないけれども、いろいろな知識層にとって必要な文献はどうだろうか。返品条件付きで仕入れますが、マージンミックスからは高く売る可能性が出てきます。それは読者にとってプラスだろうか。

中条 それはまさに関根さんがおっしゃったスウェーデンの話と関係してくるわけですが、Aという本の費用をBという本の読者に負担させているわけです。それがいいことかどうかです。

平野 それはやはり文化の停滞につながります。

中条 ある人の文化に対して、なぜ別の人がそのコストを負担しなければいけないのか。自分が支持する文化のコストは自分で負担すべきです。

平野 二兆円全部が文化ということで、それにかなうものばかりではないですが、広い意味の文化ということで考えれば、再販制はあったほうが間違いなくいいなと思います。続きを読む

【再販論争1996】三田評論の座談会(2)

以前は、活字文化の日にマスコミ族議員が芸能人を引き連れて官邸に本を持っていくようなパフォーマンスをしてましたが、最近はやらなくなりましたね。
まあ小沢の舎弟の山岡賢次・活字文化議連会長と反小沢の菅・仙谷とではかなり相性が悪そうですが(皮肉

というわけで「三田評論」1996年2月号、「座談会 出版物の再版売価格維持制度の見直しをめぐって」の続き。
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再販制は文化の問題

江藤 さっき中条さんが、これだけ抵抗が強いのは既得権がよほどあるのだろうとおっしゃいましたが、少なくとも文芸家にとっては、既得権という言葉が経済制度上の既得権ということであれば、そんなものはおそらくないだろうと思います。あるような、そんな大した市場ではないのです。出版事業は全部でわずか二兆円の市場ですから、年間十八兆円のパチンコ業界に比ベてもごく小さな市場です。

むしろこの中間報告や行政改革委員会の規制緩和小委員会の報告書が猛烈な反発を生んだのは、虎の尾を踏んだように根本的なものにかかわっているからだと思うのです。

根本的なものというのは、一つは著作権、つまり著作財産権と著作人格権です。もう一つは文化そのものだと思います。それは国語文化、日本語の文化そのものにかかわっている。だから猛烈な反発があったわけで、この点はぜひ斟酌していただきたいというのが私どもの考えです。書籍は保存されています。そして繰り返して読まれるものです。繰り返して読まれることによって、著者も予測し得なかったことを読者のなかにクリエートしているものなのです。

化粧品、医薬品も平成九年、十年にそれぞれ適用除外が解除されるそうですが、コティの香水でも、ラックスの石けんでも使えばなくなってしまう。かぜ薬は飲んだら汗と一緒に出てしまうわけで、まさにコンシュームされるものですから、かぜ薬を飲む人や化粧品を使う人はいかにもコンシューマーでしょう。ところが読者は単なるコンシューマーではない。むしろクリエーターかもしれないのです。

そういう特殊な商品をほかの商品と同列にお考えになるというのは、ずいぶん浅はかな考えだなとわれわれは考えるわけです。ですから医薬品や化粧品を適用除外から外したとしても、本も同じ再販商品だから同列に扱うという考え方をわれわれはとりえないのです。


もうひとつは競争という言葉ですが、私は競争はすべておのずから善だという考え方がよくわからない。というのは、文芸家協会員は文芸書を書いて生活しているのですが、文芸書は年間四万八千点出ている書籍のうちの大体九千五百点といわれています。この九千五百点の平均発行部数は三千部から六千部です。この文芸書が単なる商品としての扱いを受け、露骨な競争原理にさらされますと、その影響はまず最初に出版社にくる。私どものシンポジウムで、講談社文芸局長の天野取締役が、今までは職業柄文芸書を大切に扱って来たけれども、再販制度が見直されて、全く弱肉強食の競争原理一点張りということになれば、商業上のメリットのない文芸書は出せなくなります式と言つていました。平均部数わずか三千から六千の文芸書が日本の文芸文化と言いますか、文学そのものを維持していることを考えると、これは由々しい事態になります。

これを経済制度上の問題としてだけ考えるわけにはいかない。文化の問題でもあると申し上げたのはそういう意味です。

金子 いまのお話ですが、出版物が競争メカニズムになじまないものであるとお考えになっていらっしゃいますか。

江藤 出版物の点数で言うと約五分の一を占める文芸書の場合、競争メカニズムにそのまま露出されると著しい不利を蒙る性質のものですから、そういう意味でなじまないと思います。

金子 そうすると事は再販だけの問題ではなくて、そもそも出版物は全面的に競争メカニズムによる取り扱いになじまないというお考えになってくるのでしょうか。

江藤 経済制度外の競争という点なら、個々の作家は作品のうえで激しく競争をしているわけです。

中条 まず最初に言っておきますが、本を買って読むのも借りて読むのも「消費」です。また、そこに金銭的授受がなくても「消費」です。それは言葉の定義の問題なのでこれ以上言いませんが、もっと重要なことは、今は「本に市場競争を認めるべきか否か」を議論しているのではないということです。こういう議論になると困るので、再販制とは何かを、さきほど、くどいぐらい説明したのですが、もう一度言いますと、再販制というのは、メーカーすなわち出版社が小売価格を決めてしまい、小売店すなわち書店に小売価格を設定する自由を与えない制度です。したがって、再販制のもとでも、出版社間の競争や著者間の競争、異なる本と本の間の競争は存在する。ここでは、本について一般的に競争が望ましいか否かを議論するべきではないし、公取の報告書もそんなことは何も言及していない。本はすでに基本的に市場メカニズムのもとで供給され、消費されている。それを前提としたうえで、出版社による小売価格の拘束が望ましいか否かについてここでは議論すべきです。それとも、そういう現状を全部否定するというご意見ですか?

江藤 そうではありません。作品のうえで競争するということは、たくさん売ろうと思って競争しているのではないのです。いい質のものを書こうという競争です。

中条 それも競争です。価格競争だけが競争ではない。

江藤 その意味での競争です。

たとえば文芸書の場合、出版社はたくさん売れなれども、この作品で野間文芸賞を取ろうと競争をするわけです。十年に一遍しか出ないような醇乎たる、短編集が出た。実際には五千五百部しか売れていないけれども、野間文芸賞に相当する今年度最高の傑作である。これに何とか注目させようと版元は非常に努力すると思うのです。これが文芸書をめぐって出版社が現に行っている競争です。

金子 それぞれの商品、サービスにかなった形での競争が行われていると思うんです。出版物をめぐっても、いま言われたような形での競争があって、実はそれが機能していると思うんです。競争によってより質の商い出版物が生み出される。また流通段階における競争によって、読者により迅速に、確実に出版物が提供される。その意味では全体として競争メカニズムになじまないということではないのではないでしょうか。

中条 それを否定したら、今の制度を全部否定することになりますね。

金子 再販の間題が、実は、出版物はそもそも競争になじまないということで、話が非常に大きくなっているような気がするんです。出版物は全体としては競争になじむ。それを前提とした上で再販を認める必要があるのかを議論する必要があります。

江藤 これは大きくなる性質の話だと思います。

中条 出版社の間でも競争がありますし、作家の間でも競争があります。その競争の中で消費者は安いものだけを買っているわけではなくて、この小説家が好きだとか、そういう選択もしているわけで、そういう競争メカニズムが明らかに働いているわけです。「本には市場メカニズムは機能させるぺきではない」と言うなら、それらを全部否定することになる。

定価販売から再販制ヘの道のり

金子 議論がだいぶ激しくなってきましたが、平野さん、関根さんに伺います。いま江藤さんが言われたような意味での出版物の競争も含めて、競争による秩序づけ、あるいは競争機能を前提にした出版流通は妥当ではないとお考えなのか。そうではなくて、競争になじむか再販に関しては適用除外をする必要があるとお考えなのか。いかがでしょうか。

平野 今の江藤さんの著作物渉競争になじむかどうかについて、私は明快な判断を即座にいたしかねますが、もし適用除外が外されて、一般の消費財と同じ状態になったとしますと、間違いなく我が国の文化は停滞、衰退の方向に行くのではないかと思われます。

中条 そういう議論をしているのではありません。何度も言いますが、「本が競争に刷染むか否か」を議論しているのではなくて、出版社による小売店の価格拘束を認めてよいか否かを議論しているんです。出版物の市場は基本的には競争的な市場メカニズムで動いていると私は認識していますが、それを否定されるのですか?

平野 著作物という特殊性がゆえに、市場原理をあてはめてはならない非常に数少ないものだと思います。

中条 ということは、市場に任すのではなく、政府がこの本は出してはいけないとか、この本を出すぺきだとか、政府がこの本の価格はいくらというように決める、そういうのが望ましいということでしょうか。

平野 政府とか国家の問題ではありません。

江藤 そんなことをしたら、それこそ憲法条項に抵触するでしよう。

中条 ということは、いま作家は書きたい本を書き、消費者は読みたい本を読み、出版社はこれで野間文芸賞を取りたいと思う。そういう形で作家を育てたりとか、自由に行われている状態が基本である、ということでしよう。それはつまり自由な市場で本の生産、消費が行われていることです。その中で、自由でないのは再販制の部分だけなんです。それがなぜ必要なのかを議論しているのです。

江藤 というふうにお考えになるのが納得いかないんです。そうではなくて、われわれは再版制度はあなたが一番理想的と思われている自由競争にもとづく市場経済の中で有効なバッファーをつくっている。日本の商慣習と文化を的確に反映しているバッファーをつくっている。そのバッファーが機能しているのに、なぜ壊すのかという議論です。

中条 バッファーだとおっしやるなら、そのバッファー、すなわち、「出版社による小売価格の拘束」が消費者や業界にとってどういうメリットを有しているかを具体的に論じるペきです。「出版物は文化だから市場メカニズムにはあわない」という類の議論をいくらしても、再販制の是非の議論とはなりえません。

江藤 そうですね。続きを読む

【再販論争1996】三田評論の座談会(1)

今日は五年前に文字・活字文化振興法で定められた文字・活字文化の日です。
…全然普及してませんけど(毒

もともと国民が望んだものではなく、業界が「再販制度死守」という邪悪な目的をもって政治家に働きかけたものですからね(出版業界よりも新聞業界が積極的でしたが)。
2005年07月07日 活字文化振興法批判(1)政官マスコミ癒着の十年史・前編
2005年07月09日 活字文化振興法批判(2)政官マスコミ癒着の十年史・後編

そこに至る歴史を改めて振り返ってみましょう、ということで、慶應義塾の機関誌「三田評論」1996年2月号の座談会から。当時、議論の中心にいた人たちそれぞれの立場が伺えます。

座談会
出版物の再版売価格維持制度の見直しをめぐって

出席者(敬称略・発言順)
日本文芸家協会理事長・本塾大学環境情報学部教授 江藤 淳
平安堂社長・塾員 平野瑛児
講談社書籍販売局長・塾員 関根正之
本塾大学商学部教授 中条 潮
同法学部教授 金子 晃

再販売価格維持制度とは

金子(司会) 本日は「出版物の再販売価格維持制度の見直しをめぐって」という論題でご議論いただくということで、お集まりいただきました。それぞれのお立場から忌憚のないご議論をしていただければと思います。なお新聞については、別に論稿が予定されておりますので、この座談会では出版物に関してだけご議論をお願いします。

ご承知のように、再販売価格維持制度は昭和二十八年の独占禁止法の改正で導入されました。その後、昭和三十年代後半から昭和四十年代初めにかけ、高度経済成長政策の弊害の一つとして物価の高騰が生じ、物価対策が大きな政策問題となりました。そのときに再販売価格維持制度が物価の高値安定の原因となっているということで、再販売価格維持制度の弊害の除去と見直し、同時に適用を除外されていない再販売価格維持行為については厳しく規制していくという方向が打ち出されました。

その後、昭和五十四年に、出版物については再販売価格を指示して売らなければいけないという認識が業界にあることが判明しました。再販売価格維持制度は出版社が出版する本について、流通段階における価格を示し、それを維持してもよいという制度であって、再販売価格を指示してその価格で売らなければいけないという制度ではないということを明らかにするために公正取引委員会の指導がなされました。

同時に出版社と取次書店の間の再販売価格維持契約についても一括契約し、その中の一部を例外にすることも、一度再販価格を指示して売り出した本でも、その後、自由に価格を設定して売ることもできるという、いわゆる部分再販、時限再販が公正取引委員会から指導されました。

誤解があるといけないので申し上げますが、このときからこれらの制度が始まったと言われていますが、当然そういうことはそれ以前でもできることであって、このときから始まったわけではありません。この指導にもかかわらず部分再販売、時限再販はこれまでほとんど行われていません。


最近の情勢としては、より自由な事業活動を実現し、国民生活の充実を実現しようということで規制緩和が進められています。その中で、一方で規制を緩和しながら、他方で独占禁止法の適用除外制度が大幅に残っていたのでは規制緩和にならないわけで、車の両輪と言いますか、規制緩和と適用除外制度の見直しが進められています。適用除外制度の見直しの一つとして再販売価格維持制度の見直しがなされています。

公正取引委員会は「政府規制と競争政策に関する研究会」に検討を依頼し、研究会は平成三年に報告書を公表した。この結果を踏まえ公正取引委員会は、指定再販については縮小し、将来的にはこれを廃止するという方向が示され、平成十年度中には指定再販はすべてなくなります。

著作物の再販については、報告書ではとりあえずCDは外し、出版物と新聞は実態を調査したうえで検討することとされました。容認したという意見が一部にありますが、そうではなくて当面この二つは将来の検討課題ということで先に延ばしましょうという趣旨でした。

その後、公正取引委員会は、CDについて、著作物でありながらCDだけを除くのは法律的におかしいではないかということで、許される著作物の範囲を新たに前記研究会に検討を依頼しました。

研究会では小委員会を設け、著作物全般について見直しすると同時に、残すとすればどの範囲のものが残るかということで検討が進められ、昨年の七月に小委員会の中間報告が発表され、現在この中間報告をめぐって出版業界、取次、書店、文芸家協会からいろいろな意見が出されている状況です。

それでは、中間報告についてどんなお考えを持っているかご意見を伺うことから始めたいと思います。江藤さんからお話をお願いします。

中間報告に思う

江藤 私が理事長をしている日本文芸家協会では、この問題が起こる前から、いずれにしてもいま書籍流通業界はたいへんなところに来ている、本を書いてもどういう手順で、どういうふうに読者の手に渡るか甚だ不透明であると考えていましたので、「本と読者を近づけるシンポジウム」を平成七年十月二十七日に開催しました。

そこには公取の大熊取引部長はじめ、文化庁の西沢文化部長、通産省の大宮商務流通審議官という三省庁を代表する方々、および文芸家協会を含めて関連五団体の代表者が一堂に会して、三時間熱心な討論をいたしました。

そのとき公取の大熊取引部長が金子さんが座長をされている小委員会の中間報告の趣旨をご説明になりましたが、これに対しては、まことに反発が強うございました。大熊さんは終始毅然としておられましたが、針のむしろ四面楚歌という状態で、だんだん会場の熱気が高くなって三時間が過ぎたという状態でした。間接的ですがこれが中間報告についでの関連省庁と団体の反応でした。

平野 今日は出版物の再版制度見直しということがテーマになっておりますが、本来制度とか法律というものは国民の利益や幸福に沿う形でつくりあげられていくべきものだろうと思います。ところが現実の間題としてはたいへん残念なことに独禁法があり、その適用除外例として再販制度があって、原則違法だと。ここから今回の議論がスタートしていることは、いささか不幸に思います。なぜならば"例外のない規則はない"という諺もあるくらいなのですから。ただ、物事にはすべて両面性がありますから撤廃した場合のメリットもまったくないわけではないでしょうが、大局的に見れば、後に述ベる理由からしても撤廃すペきではないと考えます。著作物をどういうふうにしようかということからすれば、初めに撤廃ありきということではないだろう、そんな感想を持ちました。

関根 中間報告を読む前から感じていたことを申し上げると、現在、新聞、テレビを始めさまざまな報道を通じて規制緩和がすべて善であるといった報道がなされていることに対して、非常に疑問を持っております。

規制というのはいい規制もあれば、悪い規制もあるのは当然ですが、出版における再販制が悪であるというとらえ方が図式的に進められていることにたいへん疑問を感じているというのが最初にあります。

それから再販制度を廃止することによって流通改善が実現するというのは、規制緩和することによってあるものが実現するという論理に非常に近いものがあり、この業界の実態からストレートに改善につながるとは思っておりません。

また、後で詳しく申し上げますが、出版における再販制がなくなるということが、広い意味での文化の問題と出版社自身の衰退につながるという危機感を一方で持っております。


中条 中間報告の指摘はまつたく合理的です。むしろ、反対論がなぜこんなに強いのかが理解できない。どこの業界でも、規制緩和要求に対しては、「ウチは他の業界と違って公共性が高い」といった常套的な反応がみられるのは共通ですが、出版物の再販制は業界にとつては大した影響はないと私は考えていたので、こんなに強い反対キャンペーンがされるのは、もしかしたら、私が知らない大きな既得権が隠されているのではないかとさえ思ってしまいます。

再販制は「縦のカルテル」

金子 いまご意見を伺っただけでも、かなりいろいろと意見がありますし、また対立点があります。そこで最初に論点を整理したうえでご議論をいただきたいと思います。

先ほど、再販売価格維持行為が独禁法上原則禁止とされており、そこからスタートしているのは不幸なことだというご意見もありました。なぜ独禁法上、再販売価格維持行為が原則禁止となっているのか。そしてまた独禁法の適用除外とする場合、基本的にどういう考え方で適用除外していけばいいのかという点を、学者の立場から中条さんに整理していただいて、その前提を皆様にご了解いただいてから、次の議論に進んでいきたいと思います。

中条 再販制というのは、メーカーが卸売価格と小売価格を決め、それを問屋や小売店に守らせる制度のことをさします。卸の話はここでは省略して、小売価格の問題にだけ焦点をあてて話しましょう。メーカーが小売価格を拘束するということは、価格をつける自由を小売店から奪うということを意味します。したがって、小売店の独立性を侵すことになり、かつ、小売店相互の間では、当該商品については価格競争が行われないことになるわけです。

メーカーや小売店が再販制をとりたがるのは、小売間の競争が抑制されますと、値下げがなされないので小売のマージンが確保されますし、出荷価格も安定するからです。メーカー、卸、小売の縦の関係で共謀して価格を一定の水準に拘束することになるわけで、「縦のカルテル」とも呼ばれています。したかって、消費者の犠牲においてメーカーと流通業者の利益を確保することになるわけですから、独禁法では再販制は禁止されています。

ただし、ごく例外的に、今回、問題になっている新聞、雑誌、書籍、音楽用CD・テープだけが、特別に独禁法の適用を除外されて「再販制をやってもよろしい」ということになっている。化粧品と医薬品の一部も再販制が認められていますが、これらは廃止が決まっています。したがって、右記の出版物等についてだけ、小売店の価格をメーカーが拘束することを許す積極的な理由があるのかどうかが現在議論されているわけです。

金子 中条さんからご説明いただいたょうに、いろいろな商品、サービスの販売価格をメーカーが決めることは独禁法上違法という取り扱いがなされています。

ただし現在のところは、適用除外制度が設けられていて、一定の商品について定価販売が認められている。この点についていま見直しが行われています。適用除外は再販だけではなく、不況カルテル、合理化カルテルもあります。適用除外されるだけの理由がある場合に、独禁法を適用除外しますという形になっています。適用除外を認めることは競争が制限されますので、競争が行われないことによるデメリットが当然生じるわけです。しかし、適用除外することによって得られるメリットが、デメリットよりも大きい場合に適用が除外されることになります。

この点に皆さんご異論がなければ、出版物について考えてみたいと思います。出版物を一般の商品あるいはサービスと同じように禁止にするのか。もし出版物は商品特性あるいは産業の特性から見て、競争を制限することによって得られる利益のほうが大きいから、適用除外が妥当なんだということになるとすれば、出版物について再販が認められることになります。その場合、出版物の商品特性とは一体何なのか。そして再販を認めることによって達成される目的は何なのかということが、再販の必要性の問題になります。それではこの点についてご議論いただきたいと思います。続きを読む

山崎正和の新聞擁護・ネット叩きがかなり酷い

H22.8.8 読売H22.8.8 読売いささか旧聞に属しますが、8月8日の読売新聞1面「地球を読む」より。
そこ、二匹目の泥鰌とか言わない!

報道の電子化 山崎正和 劇作家
「情報選択する責任」 拡散
「紙」の権威 近代の知恵

現にブログもツイッターも人の一回の発信量を短くし、短い断片的な文章になじんだ若者を生みだしている。どちらも粘り強い論理的な発言には不向きであり、刹那的で情緒的なやりとりを誘いやすい。携帯電話メールにいたっては、日に数十回も送受信する高校生がいるというが、これでは内容は空疎どころか、朝夕の挨拶以上のものになるのは難しいだろう。

今日の新聞の役割は社会的権威の是非はもちろん、日々の事件についてもその重要性を判別し、多忙な現代人が最低でも知るべき情報を限定することだろう。専門分化の進む社会の中で、万人が共有すべき知識を選別することである。啓蒙とはいわないまでも、注意喚起が新聞の使命であり、そのためには熟達のプロが必要なのはいうまでもない。

出版も同じであって、編集者の仕事はまず筆者を選ぶことであり、原稿の主題と文体を評価することである。時流に反した言い方だが、言論の自由とは誰でも好きなことを好きなように書く自由ではない。電子出版はそれを可能にしたようだが、これは議長のいない大衆討論のようなものであって、言論が言論を打ち消しあう効果を招くだけだろう。出版社とプロの編集者は、真に自由で上質な言論の関守(せきもり)としてこそ不可欠なのである。

今のところ日本の新聞はまだ健全だが、それは宅配制と再販制の維持によって守られているからである。この小論でわかりきったことをあえて書いたのも、この制度の必要性を一部の「市場自由論者」に教えたいからであった。

そしてこの現状を維持してゆけば、広告料の問題もやがて新聞、雑誌の勝利で終わるかもしれない。「電子チラシ」は有料で掲出される掲示板に過ぎないから、求人広告などを除いて、読者が積極的に探してサイトを見るとは考えにくい。読者にとって、商品の広告は優れた記事の横にあるから見るものであり、発行者に権威があるから信用するものである。もし電子検索会社がこの真似をしようとすれば、結局、彼ら自身が新聞社になって、時間と金をかけて権威を養うほかはないだろう。

酷いな。最初に一読した感想は「こんなに粗雑な文章を書く人だったっけ?」というものでした。
「一回の発信量が短い」「断片的」なものを否定するなら短歌や俳句はどうなんだとか(それも微妙だけど)、新聞が老人向けに文字を拡大して情報量を減らすなど愚の骨頂でしょう。

新聞広告に信用があるなら、それを裏切ったこの事件では責任を負うべきでは?
平成電電匿名組合募集新聞広告/記録・雑記
素晴らしい権威をお持ちのはずの新聞の頂点に君臨する渡辺恒雄が、大連立騒動はじめどれだけ日本に害悪を及ぼしたかを直視しろ!とか突っ込みどころが多すぎです。

ツイッターで取り上げて西村幸祐氏より返信を頂きました。
  1. マスコミ不信日記
    mediadistrust http://bit.ly/92W5bv 山崎正和「ブログもツイッターも粘り強い論理的な発言には不向き」「言論の自由とは誰でも好きなことを好きなように書く自由ではない」「日本の新聞は宅配制と再販制に守られているからまだ健全」(8/8 読売) 耄碌したな… #katsuji
  2. 西村幸祐
    kohyu1952 山崎正和氏は70年代初頭までです。新潮の「鷗外闘う家長」からちょっと変になった。また宣伝になりますがw、8月16日発売「表現者」9月号で拙論「幻の黄金時代」の連載完結。この連載でも80年代の山崎氏を改めて批判しました。単行本になるのは先ですが・・ @mediadistrust
  3. 西村幸祐
    kohyu1952 山崎正和氏について追記。実は僕も80年代当時は山崎氏の『柔らかい個人主義の誕生』の脆弱性を見抜けませんでした。当時はあれを読んで納得してた。反省するしかありませんが、今になって80年代の同時代史を書く事によって彼の嘘や論理の駄目さが分かった次第。@mediadistrust
  4. マスコミ不信日記
    mediadistrust http://bit.ly/d3qAGw 私も敬意を払っていましたが、道徳・歴史教育軽視の発言で中教審会長としての適性に疑いを持ちました @kohyu1952 山崎正和氏は70年代初頭までです。〜今になって80年代の同時代史を書く事によって彼の嘘や論理の駄目さが分かった次第。
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■道徳教育も歴史教育も不要とは…
山崎正和・中教審会長が語る「教育」観への疑問 それでは国籍不明の地球市民は育っても「日本人」は育たない
産経新聞論説委員 石川水穂(「正論」07年9月号)
 最も懸念されるのは、今年二月から第四期中教審会長に就任した劇作家、山崎正和氏の発言である。

 山崎氏は四月二十六日、日本記者クラブでの講演で、道徳(倫理)教育について、「個人の見解」と断りつつ、次のように述べた。「私はアドバイスを求められれば、現在の教育システムの下で倫理教育を行うのは無理だと思っている。なぜかというと、現代社会は一面で価値観の多様化を認めている。他人のものを盗まない。暴力を振るってはならない。女性を差別してはならない。これくらいは共通認識で教えられるが、本当に倫理の根底に届くような事柄は、学校制度になじまない」

 山崎氏は平成十二年に出版した著書『歴史の真実と政治の正義』(中央公論新社)の中で、こう書いている。「国家は特定の民族文化の伝統から離れ、純粋に合理的な法と制度の体系として働くほかに生きる道はない」「そのための具体的な一歩として、国家は初中等学校における歴史教育を廃止すべきだ、ということを重ねて繰り返しておきたい」

 また、山崎氏はこの著書で、こう書いている。「『東京裁判』の描いた戦争の姿はまさに法的真実であって、戦後の日本はそれを政治的正義の立場から受けいれたのであった」「サンフランシスコ講和条約の条文のなかに、日本は『東京裁判』の判決を否定しないという誓約を明記した。それを前提にして日本は新しい国内体制をつくり、旧敵国とさまざまな条約を結び、結果として平和で豊かな社会を楽しむことができた」「『南京虐殺』にしても『慰安婦問題』にしても、日本があの『侵略戦争』を全体として認めた以上、そこから状況証拠によって問われている罪なのである。日本人の目から見て非難の証拠が曖昧であり、事件の存否に論争の余地があるとしても、それは法の性質として当然だといわなければならない」

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柔らかい個人主義の誕生―消費社会の美学 (中公文庫) 文明としての教育 (新潮新書) 日本人の内と外―対談 (中公文庫) 社交する人間―ホモ・ソシアビリス (中公文庫) 不機嫌の時代 不機嫌からの精神史的考察 (講談社学術文庫)

この本の内容と比べても更に劣化しているようにみえます。
「教養の危機」を超えて 『This is 読売』一九九九年三月

市場は刻々に商品を評価し、流行の創造と陳腐化を繰り返すが、この構造はまさに情報の販売にこそふさわしい。これが知識商品に適用されると、市場はたえまなくベストセラーを氾濫させ、その波のなかにロングセラーを沈めて失わせる。今日の日本の出版界では、年に二百種類の雑誌が創刊されては廃刊され、単行本は一日に二百点以上が刊行されているというが、これはどう見ても健康ではない。読者を脅かす情報化とは、テレビやインターネットの映像ではなく、知識を情報のように取引する市場の欠陥のことなのである。

具体的にいえぽ、とくに日本の場合、書評の機能を強め、編集者の能力と権威を高める必要があるのは明白である。欧米諸国に比ペて日本の書評は行数も少なく、専門の書評家も育っていない。業績としての評価が低く報酬も乏しいために、書評は著者たちの片手間仕事にならざるをえない。書評と論壇時評こそ市場の大衆投票の歪みを補い、先導的消費者の役割を果たすものであるのに、そのカが構造的に弱いのである。また筆者にエージェント制度のない日本では、かつては編集者が新人を育て、時間をかけて庇護も選別もおこなってきたが、その機能も弱体化している。出版社や雑誌どうしの競争が激しすぎて、編集者にそのための金も時間もないからである。

THE DAILY YOMIURI Aug 10, 2010このときはまだ、知識人も従来のままでは存在意義を失うから変わらなければならないという自覚があったのに、今ではただ変化を拒否するだけの存在に成り下がったように私にはみえますね。

英訳がデイリー・ヨミウリにも載りましたが、海外の人の感想も聞きたいものです。
「民主主義を支える活字文化を支える再販制度」というのが業界の論理ですから、再販制のない英米や北欧の民主主義は日本より劣ったものなのか?とかね。

In Japan, newspapers still are good shape due to home delivery service chains and the resale price maintenance system, which means newspapers are sold at the same price across the country. I mention the price system because I want to remind advocates of market liberalization of the necessary of the system.

当然ネット上でも批判が多くなります。
活字媒体の電子化とマスメディアの権威の消失 -山崎正和 「報道の電子化」(読売新聞 地球を読む 2010/8/8)を読んで - おれのオレによる俺のためのブログ
一般的に考えて、紙を用いる新聞よりも電子メディアの方が紙や印字、配達などの諸々のコストを削減でき、言葉を発するのに費用を必要としないはずではないか。もちろん、ネット上の記事に対して対価を支払う意識の無い昨今のネットユーザから費用を回収するシステム作りは必要となるが、それさえ実現できれば、諸々のコストは現在より減少し、より記者を囲い良質な記事を生産するための費用に充てる事が出来るはずではないか。

こういった新聞社の怠慢に基づく紙新聞の凋落を、ネット上のまるで性質を異にするポピュリズム的発言の悪に押し付けるこの論は、なんの事はない。結局、巷に溢れるただの紙信奉主義者の懐古主義的論調に他ならなかった。それは氏の以下の一文にも示されている。

さらに忘れてはならないのは、従来の紙媒体が「もの」としての存在感を持っていて、これが無関心な人をも情報に振り向かせたことである。毎朝の新聞は、その手触りとインクの匂いで目を覚まさせたし、書店に足を踏み込めば、列をなす本が装丁と帯の惹句によって読書欲を刺激したものであった。

思わず笑ってしまった真面目な寄稿文 読売新聞『地球を読む 報道の電子化』2010年8月8日付 - feel the wind
新聞社の記事は記者が書いたものがそのまま掲載されるわけではなく、何重にもチェックを受けた上で掲載される構造になっているため、裏付けがない内容は基本的には掲載されないだろう。が、メディアの情報が必ずしもニュートラルで正しい情報とは言えない、ということがこの寄稿文を読むだけで証明出来てしまう。メディアに限らず、どんな業界も法律の変化やテクノロジーの躍進によって構造の変化をしながらビジネスを継続している。比較的近しい分野で言えば、固定電話は携帯電話に取って代わられ、公衆電話はかなりの数が消滅し、今や都心部での若者の一人暮らしでは固定電話を持たない人の方がマジョリティになりつつある。そんな中、NTTの地域会社は徐々にではあるが構造変化をしながら『音声』以外の情報も同時に利用できるライフラインとしての地位を確保すべくビジネスをしている。もっと将来は固定回線そのものが意味の無いものになってしまうかも知れない。でもそれは、時代が求めている変化であって回避しようがない現象だろう。

実は新聞も同じで『宅配制度』、『紙』、『広告依存収益モデル』から変化を求められているのであって、懐古主義を押しつける方が筋違いであり、またその文面が1-2面に堂々と掲載されていることが不思議である。プロパガンダとして掲載するのであれば、中学生にも論破されるようなロジックはあり得ないだろう。もし山崎氏が言われるような『深刻な危機』ということであれば、このレベルの文章をメインのコーナーに載せた新聞社の体制のことを指しているのだろう。

2010年8月8日付読売新聞コラム〜地球を読む〜|合言葉は「日本が大好き!」
だとするならば、このコラムから読み取れる読売新聞の本音は

新聞社の権威によって情報操作を可能なさしめ、もって国民を「誘導」する

という、考えたくもない情報統制の是認である。いや、もっと言ってしまえば、それを未来永劫保証するためには宅配制度と再販制を維持せよ!と要求しているのである! まさに読売新聞社が希求してやまないものは「国民を自らの主張によって洗脳し続ける」ことであるという恐ろしい結論に到達せざるをえない。

これは多分読売新聞のみならず新聞・テレビといったマスメディアに共通する「欲求」であろうから、今の日本がどれほど危険な状況に置かれているか理解できるだろう。

なんとしてもマスコミから権威を奪い取らない限り、「操作されていない生の情報」に接することが不可能になるだろう。

あまりにも危険な思想の一端を垣間見せてくれたという意味において、このコラムは極めて秀逸であると評価したい。

木星にでも行ってたんだろうか。: Vanityの雨乞いブログ(Dragon Age: Origins編)
 デンバーでは地方紙が廃刊となり、記者たちはしょうがないから読者の自発的な投稿をベースにニュース発信をはじめたが、イラクやリーマンの記事はまったくなくなり、デンバーの市街電車の路線や存続の話ばかりになった。
 
 え、それのどこがダメなの?
 アメリカの市長なんて交通渋滞を放置したらすぐクビになるよ。市民の興味として、毎日の通勤や買い物のための移動の安全・安定を願ってるんじゃないの? まずインフラストラクチャーの整備を市(なのか郡なのかグレーター・デンバーなのかしらんが)に期待してるんでしょ?
 それは「低俗」なのか? まあ「小市民的」ではあるけど、えー、だめなんだあ。
 全部のジャーナリズムがこぞってイラクやリーマンばかり書いてるから破綻したんじゃないの?


 「権威」とは知的な分業のための社会制度なんだって。僕は権威ありますけどね、ってことですかね。権威がないと発言してはいけないんだって。だからこの人物にとって、得体の知れない連中が跋扈するネットは忌々しいのだ。まあ事実、自分も入れて何事も90%はカスだけどね。

 あとよ、「啓蒙」って何よ? 劇作家なら「蒙」の意味くらいしってるよね?
 誰が「蒙」なんだろう。少なくともこの人物はその範疇にはいないところからしゃべってるんだろうね。


 こうやって一個一個つっこんでると、楽しんでるのが私だけになりそうなくらい、イヤーな話のオンパレードになってしまいそう。

そりゃネットも暴走する小沢一郎信者とか、的外れなことを言って失笑を買う売れっ子識者とか(誰とは言いませんが)ダメなところもあるけど(お前が言うなという声も聞こえそうですが)、こんな駄文を新聞の一面に載せて平気でいられる輩に言われたくないですね。
<9/27 更新>続きを読む

【電子書籍を阻む?】出版社の闇「紙流通」(下)

(上)より続く。
タイミングがいいのか悪いのか、こんな記事が出ましたね。

講談社、iPadで京極夏彦氏の新刊発売(5/20 朝日)
 「死ねばいいのに」は紙の本は税込みで1785円だが、電子版のiPad、iPhone向けは販売開始から2週間がキャンペーン価格で700円、その後は900円とした(パソコン向けは税別で同価格)。紙の本と比べて価格が安いのは、製本・印刷費、運送費、倉庫など管理費、取次会社や書店への報酬がいらないため。講談社内では議論があったが、社会的にインパクトを与えようと、紙の本の半額ほどに設定した。今後の電子書籍の値段に影響を与えるのは確実だ。

なかなか思い切った価格設定です。これが続くのかどうか。
会見にはジュニアこと副社長の野間省伸が同席。代表会社が独断専行でできるなら、電書協なんて最初からいらんかったんや!ということになりそうですけど。

そういえば「日本ではアメリカより本の価格が安いから電子書籍は普及しない」という主張も散見します。
ふたたび、当事者たる講談社の「現代ビジネス」より。
 取材班が聞いたところ、多くの出版関係者は一様に、日本ではアメリカほど急速に広まることはないという意見だった。その理由の一つには、日本の本がアメリカなどに比べてもともと安いことが挙げられる。アメリカのハードカバーは25ドル(約2300円)程度が当たり前で、それが電子書籍では10ドル以下で読めることから一気に広がった。

 一方、日本の本は2000円以下のものが多く、さらに定価の安い新書や文庫も豊富だ。価格が電子書籍普及の動機になるとは考えにくい。また、現状では日本語のコンテンツは少なく、マンガを除けば、著作権が切れた古典などが中心になっている。

電子書籍は本当に便利か 日本人は紙の本への愛着が深く…(5/9 産経)
 また、日米の読書文化の差も理由の一つだ。アメリカでは、紙の本より安い値段設定となっているが、日本はハードカバーならおおむね2千円以下、文庫本なら500円程度と、もともとが手軽に買える値段設定だ。

 植村局長は「アメリカでは、本は読み終わった後に捨ててしまう人も多く、消費されるものだが、日本は違う。装丁が凝ったものもあるし、日本人は本への愛着が深い」と話す。

tok_ama日本だって安くはないと思いますけどね。
そもそもアメリカには再販制度がないのだから定価という概念はないわけで、時間の経過とともに値下がりするのでは?
ということで表は昨年の東洋経済「アマゾンの正体」より。ベストセラーの紙の本の実売価格は高くて16ドル台、日本よりよほど安いです。

産経記事に登場する東京電機大出版局長・植村八潮って、この発言で失笑を買った人物ですね。


紙に執着してるのは読者より業界だろ!というわけで、「選択」の記事の続きです。

では雑誌を作る場合に紙の占めるコストはどのくらいなのか。ある週刊誌元編集長は「バカにならない。高い紙を買わなけれぱもっと本作りに金を使える」と語る。

出版物の原価において紙代が占める割合は六〜七割といわれている。媒体によって変わるが、定価三百五十円の一般的な週刊誌の場合、百円が原価とすると六十円が紙代となる。このなかには「幽霊会社」のピンハネ分が載っている。「この歩合は出版社、紙卸によって違うが、五%程度が相場ではないか」(前出調査員)。つまりピンハネ分は三円になる。

たった三円だが、相手は週刊誌だ。たとえ二十万部の発行部数でも、一週当たり六十万円、一年(約五十冊)では三千万円弱になる。一媒体だけでこの数字だ。媒体、出版物、発行部数が多けれぱそれだけこの数字は大きくなり、無視できない数字になる。七十六万部を印刷するといわれる『週刊文春』の場合、大幸による「ピンハネ」がたとえ一冊当たり一円だったとしても、一号七十万円以上が同社の懐に入る計算になる。


「編集長になってまず行ったのは、表紙とカラー十六ページ分の紙を安いものに変えたこと。それだけで年間一千数百万円のコスト削減になった」と語るのは前出の週刊誌元編集長。表紙裏表紙と十六ページの紙を幾分安くしただけである。「たかが紙」と侮れない。

出版不況が叫ぱれて久しいが、なぜこのようなシステムが温存されているのか。それは「化石とも呼ぶべき紙流通業界の旧態依然とした体質が原因」(業界関係者)だ。

今、ありとあらゆる商品で「流通革命」の名の下、卸商飛ばしが行われている。「多重卸の巣窟」と前述した糸偏業界も変わりつつある。ユニクロに代表されるファスト・ファッションの台頭に後押しされるように、小売店による直接購入が普通になり、安い衣料品が巷に溢れるようになったことを見れば明らかだろう。

明治以来続く「しがらみ」

しかし同じ糸偏でも紙業界にはその動きは極めて少ない。それを理解するためには少し歴史を紐解かなくてはならない。

明治維新後、それまで専売制だった紙は解禁されることになった。その際に、地域の行商人たちは協力し合い、和紙のほかに洋紙の販売も始めた。まだ物流量が少なかった頃の話だ。これが現在の洋紙流通システムの端緒である。

代理店制度は日本で初めて洋紙販売を行った越三商店(現在の日本紙パルプ商事)と、渋沢栄一により設立された抄紙会社(現在の王子製紙)が明治十五年に結んだ販売特約を皮切りに、明治三十年ごろまでに確立されたといわれている。大きな案件は代理店が、細かい案件は代理店を通して紙卸商が扱うという棲み分けが決まった。そのシステムが連綿と現在まで続いているのである。

そして、一九七三年には現在の紙業界結束の原因となる事件が起きた。言わずと知れたオイルショックである。トイレットペーパー争奪戦に現れたように紙不足が喧伝された。当然、紙卸商のなかには「売り惜しみ」や「買い占め」を行うところもあった。

ここで活きたのが明治時代から引き継がれてきたコネクションだ。親密な取引先から紙をかき集め、オイルショックを乗り切った。「自分が社長でいる限り、あの時に紙を入れて助けてくれた業者から買い続ける」(印刷業者)という声をよく聞く。二十一世紀に入って間もなく十年目になろうというのに、そんな時代がかった科白が当然のように出てくる世界なのだ。

この業界では、しがらみのある紙卸商同士で商品の融通をすることが常態化している。つまり、通す必要もないのに別の紙卸商に紙をいったん「卸す」のである。この場合、出版社に届くまでには三次卸、四次卸を通過してくることになる。「最悪のケースでは中間マージンが最終的に五割を超えたものもあった」(製紙業界関係者)というから、目も当てられない。

「紙は人間関係で売る」という紙流通関係者の言葉は象徴的だ。「実は日本で手に入る紙にメーカー間の差はほとんどない」(前出調査員)という。それを象徴する事件が〇八年に起きている。大手製紙会社すべてが再生紙における古紙の配合率を偽っていた「古紙パルプ配合率偽装問題」だ。この事件で「製紙会社の技術カは均衡しているということが、望ましくない形で証明されてしまった」(前出関係者)という。

現在、製紙会社のほとんどは、メッツオ社(フィンランド)製とフォイト社(ドイツ)製の機械を組み合わせて生産している。当然と言えば当然だが、出来るものに差はない。商品に差がなけれぱ活きるのはコネクションなのだ。接待に盆暮れの付け届け、出版記念パーティーの際には仕入れ窓口担当者の前に長蛇の列ができる。某紙代理店の場合、一つの課に一名は出版社のコネ入社がいる。

出版不況の今こそメスを

一年前には紙業界と出版業界がグルになった「カルテル」とも呼ぶべき事態も起きている。製紙会社が一斉に出版洋紙を値上げしたのである。このとき結果として起きたのは雑誌の一斉値上げだ。一般的な週刊誌はそれまで三百二十円だったが、同時期に三百五十円に値上げされた。本来、健全な商取引、競争が行われていればこんな事態にはならない。しかし、「上流」であるメーカーの値上げ通告に紙代理店は逆らわない。紙卸商にその値段を転嫁すれば腹も痛まないからだ。出版社にしても、「トンネル会社」や独占卸商のいいなりの値段で紙を買うだけである。

そのような紙卸商を持たない出版社は当然のように値段交渉がなされ、値上げを阻止したところもある。それまで基本的に同価格で販売されていた『週刊文春』と『週刊新潮』の値段が異なるようになったのが代表例だ。三百五十円に値上げされた『文春』に対し、『新潮』は三百二十円のまま(特別号等除く)である期間があった(直近の『新潮』は三百四十円)。「新潮社には文春における大幸のような会社がない」(前出調査員)のがひとつの理由だという。
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【電子書籍を阻む?】出版社の闇「紙流通」(上)

最近「日本の出版社は電子書籍に消極的なわけではない」という主張を時々見かける気がします。

本と本屋がなくなる日 そんなバカな!?  出版業界騒然黒船ついに襲来 | 経済の死角 | 現代ビジネス [講談社]
 こうした懸念が拭えないなか、今年3月、国内の出版社31社が集まって日本電子書籍出版社協会(電書協)が発足した。著者の権利確保や紙とデジタルの共存を目的とした組織だが、アマゾン、アップル、グーグルといった企業に対して、出版界全体で対応しようという狙いもある。

 もちろん、電書協では巨大企業を敵対視しているわけでも、電子書籍そのものを否定しているわけでもない。文化的側面から見ても、絶版になった本や、100年以上前の本を電子化して保存することは歓迎すべきことだし、国会図書館でも現在、蔵書のスキャンを行っている最中だ。


  1. fukuyuki
    fukuyuki そーなんですよ。旧勢力な3大出版社も普通にケータイコミック出してますし業務提携までしてます。 RT @raf00: @fukuyuki ガラパゴスだ電子書籍元年だ旧勢力の抵抗だと、今年の電子書籍話はかなり無知から来る誤解をもって語られているので、こうした現状はもっと知られると
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Togetter - まとめ「ケータイコミック関係者による最近の電子書籍ブームへのぼやき」より。

他方でこんな「抵抗勢力」ぶりも。

発言の主は光文社デジタル事業部の細島三喜だそうで。そりゃフルボッコにもなります。
  1. 佐々木俊尚
    sasakitoshinao 案の定。ふざけるな、と思う。電書協の細島氏(光文社)本音トーク。「紙の出版を維持できないなら協力はできない。こちらがコンテンツを出さなければ向こうも(電子書籍端末を)出すことはできない」 http://bit.ly/cEeFS7
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電書協の錯覚 - 池田信夫 blog
日本の経営者に「長期的視野」があると賞賛されたことがあるが、それは将来の利益の成長率が割引率(リスク)よりも大きかった1980年代までの話だ。業界全体が沈没するときはリスクが長期的利益を上回り、約束を破る合理的行動が有利になる。電書協に入っている出版社はわずか31社で、その時価総額を合計してもアップルの1/100にもならない。アゴラブックスは、電書協を無視して電子出版する。どっちが「協力してもらう」側なのか、細島氏は冷静に考えたほうがいいのではないか。

ロイターの記事は原文だともっと日本に容赦ない感じですね。
Japan book market resists digital shift
This loose but potentially influential alliance of 31 publishers is not out to stop digital distribution, but its attempts to control it could slow growth and hinder the ability of Amazon.com and others to make money in Japan.

Big publishers are wary of changing a decades-old business model under which they set the retail prices and discourage discounting. This helps put a floor under their profits and, they argue, protects the country's culture.

やっぱ再販制度が諸悪の根源でしょ、というのは前に書いたので、今回は別のアプローチを取ってみます。…って前置きが長くなりました。

2009.11 選択
日本のサンクチュアリ シリーズ422

誰も手出しできない世界
出版社の闇「紙流通」

出版不況が止まらない。特に雑誌業界で景気のいい話を聞かない。昨年来、休刊という名の廃刊が相次いでいる状況だ。各種リストラ、経費節減も断行されているようだが、そのなかで一つだけ手の触れられていない領域がある。本の原材料とも呼ぶべき「紙」である。古くからの慣習が罷り通る紙流通の世界。そのなかで、特定の出版社に独占的に紙を卸す小さな会社が多数存在する。そこで「ピンハネ」とも呼ぶべき所業が行われていることは知られていない。出版業界における「タブー」とも呼ぶべき紙ビジネスとはなんなのか。

トンネル会社経由で「ピンハネ」

大幸商工株式会社(以下、大幸)と聞いてピンとくるのは紙業界の人間だけであろう。同社は文藝春秋向けのみに出版洋紙を仕入れ、卸す会社だ。登記上、この両者は別の会社になっているが、大幸の「本社」は千代田区紀尾井町の文藝春秋本館の、資材製作部の中にある。

三名いる代表以下、取締役はすべて文藝春秋の取締役だ。大幸の株式についても文藝春秋の役員などが保有している。大幸の業務は文藝春秋およびそのグループ会社へ出版洋紙の納入を行っているのみである。そして、文藝春秋は使用する出版洋紙の大部分を大幸から購入している。同社の雑誌や単行本に使われる紙は、ほぼここを通して卸される。大幸はいわゆる「営業活動」は一切行っていない。それどころか、実質的な業務を行っているであろう「社員」は一名のみだ。

大幸は客観的に見てかなりの優良企業だ。二〇〇八年三月期の決算を見ると、年商は約三十一億円。経常利益も約四千万円を計上している。自己資本比率も六〇%と非の打ちどころのない会社だ。

しかし問題は、「大幸はそもそも必要な会社なのか」ということである。
それを知るためには紙流通の基本を知らなければならない。

まず製紙会社は出版洋紙を製造し、紙代理店と呼ばれる会社に卸す。これが一次卸だ。次に紙卸商(二次卸)で、さらに場合によっては三次卸を通して印刷会社に納入される。大幸はこの二次もしくは三次卸に該当する。

社員一名で、膨大な量の出版物に使う紙を差配し、仕入れや納入の業務を行っているはずはない。実際に印刷会社に納入するのは、一次卸(もしくは二次卸)である。つまり、大幸は「紙を仕入れた」ことにし、「文藝春秋に卸した」ことにする過程で利益を生みだす会社なのだ。これこそ「トンネル会社」「ピンハネ」と言われても文藝春秋と大幸は果たして反論できるであろうか。

このような中間業者による多重の卸システムは、いわゆる「糸偏業界」でよくみられる。原価は僅かな服が、デパートの店頭に並ぶ頃には数十倍に化けているのは当たり前。問題なのは大幸の場合、文藝春秋自らが設立、「ピンハネ」を行っていることである。

ここまで、話をシンプルにするために、大幸と文藝春秋のみを例にとった。しかし、同様のシステムはほかの出版社にもある。代表的なところでは、講談社の第一紙業、マガジンハウスの平凡商事、秋田書店の秋田商事と、枚挙に暇がない。

大幸のように親会社の幹部社員が関わるところもあるが、秋田商事の場合、役員には秋田書店の創業者である秋田一族が名を連ねる。中小出版杜の場合、創業者一族のみが社員である別会社をつくり、不動産管理などと併せて紙卸をしている場合もある。

多くの出版社の場合、その紙ビジネスの存在自体が曖昧にされている。たとえぱ大幸を全く知らない文藝春秋の社員が存在する。社内でもヴエールに包まれた組織なのだ。

このほかに、出版社が直接関わってはいないものの、窓口の紙卸会社がほぼ一社独占という出版社もある。この場合でも、多少の違いこそあれ、その卸会社から紙を買わなくてはならない明確な理由はない。

あえていうならぱ、二次卸、三次卸となるにつれて一般に規模が小さくなるので、少量取引に素早く対応できるという点がメリットだろう。しかし「これも有名無実化している」(民間調査会社調査員)という。最近では紙販売業界も競争が厳しく、一次卸である紙代理店が細かい商いをも手掛けるようになっているからだ。
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【再販論争1996】中条潮慶大教授「再販制は消費者にも業界にもマイナス(下)」

『経済広報』1996年7月号、「再販制は消費者にも業界にもマイナス(上)」の続きです。

経済広報 1996年8月
再販制は消費者にも業界にもマイナス(下)
中条潮(慶応義塾大学商学部教授)

展示効果と再販制

再販制擁護の理由として「展示効果」があげられることがある。「本は手にとってみて内容を知ることが必要だから、店頭陳列しておく必要があり、このためには委託販売制によって書店のリスクを小さくしないと、書店が売れ筋の本しか置いてくれなくなる」という理屈である。

しかし、展示スペースのある大規模店の場合には、多品種・多在庫を売り物にしているのだから、再販制かなくても展示効果を重視した経営戦略を選択する。

また、中小書店の場合には、展示スペースが売れ筋の本にしかあてられていないことは、その辺の中小書店をみてみれば一目瞭然である。拙著「規制破壊」は、この種の本としては比較的売れた本だが、それでも、山手線の駅前の比較的大きな書店でさえ置いていない。再販制があるからといって、それが多品種の本の普及に役だっているとはとうてい考えられない。

同様にして、「再販制が無ければ地方では本が手に入らなくなる」という主張も誤りである。地方の人々も、どうやらこの点を誤解しているようである。再販制に挑戦して自由価格本を出版した吉本隆明氏は、「地方ではこの本が手に入りにくいという読者からの批判に対して、「それは自由価格だからではなくて、この程度の部数(約1万部)の本では、再販制があっても地方部まではまわらない」と述べている。

すなわち、発行部数の少ない売れにくい本が消費者の目にふれるようにするには、書店が画一的な経営政策をとるのではなく、専門化することが必要である。半径1キロ四方にある10軒の中小書店が全部同じ本しか置いていないのが現状であるが、その10軒が、たとえばA書店は料理の本、B書店は車の本というように専門化すれば10倍の種類の本が展示されることになる。しかし、再販制のもとで楽に営業している書店には、そのような消費者ニーズに対応した改善努力は働かない。

フランス財政経済省のデータによれば、フランスでは再販制を一時やめた79年以降中小書店は急速に成長し、専門店化したが、再販制を再導入したあとは再びすべての書店が売れ筋のよい商品を扱うようになった。


新しい流通形態の出現・発展を阻害

書店がただの「場貸し業」になってしまうのは、実は流通の寡占化にも問題がある。本の流通は、問屋にあたる「取次ぎ」の寡占状態が特徴であり、東販と日販の2社によって取次ぎの約7割が占められている。

現行の取次ぎによる配本はパタン化されており、それが寡占2杜によって占められているから、配本パタン化は画一化する。書店には配本のイニシアチブがなく、消費者が望んでいる川下のニーズとは関係なしに川上から一方的に配本されてしまうため、種類や部数について小売店の多くが不満を表明している。

また、パタン配本のもとでは、展示されるのはよほどの売れ筋の本でない限りせいぜい2、3日であり、中小小売店では展示効果は期待できない。

パタン配本については、「本は多品種で、多品種の流通にはパタン配本は効率的」という擁護論もあるが、取引コストを下げるという効率性でしかなく、多様な流通経路は発生しにくい。同じ多品種であっても、たとえば食料品には様々な流通経路があり、その中で競争によって新しい流通形態や流通勢力が台頭してくるのと対照的である。

したがって、書店の画一化は必ずしも再販制だけではなく取次ぎの寡占状態にも理由があるのだが、この現行の流通形態がくずれない大きな要因の一つは、再販制の存在およびそれに業界が安住している点にある。

再販制の認められていない他の流通業界では、価格設定をはじめ小売店の経営自由度が高く、流通体系の流動化の可能性が高い。他の流通業界でもメーカーによる流通支配カは従来強かったが、価格破壊の流れの中で小売店が自由な活動を始めることを阻止できず、新しい流通形態や流通経路が発生してきた。
一部商品について再販制が認められており、かつ、闇再販の疑いの強い化粧品業界で価格破壊がおこりにくいのも、流通支配カと価格拘束力の間に大きな関係があることを示唆している。

むろん、本の場合にも、他の流通業と同様、大規模書店が地方都市郊外に進出したり、中小書店の中にも、「現在の流通システムの下では欲しい本が手に入らず、しかも注文して2〜3週間もかかる」といった消費者の苦情に対応して、パソコンネットによる独自の流通システムを開発したり、徹底して専門化を図る先進的な経営者もみられるが、他の流通業界に比べればその規模も速度も遅い。

すなわち、再販制は、それ自身の効果によって、かつ、現行流通システムを支えるという効果によって、意欲ある小売書店の発展をも阻害していると言えよう。

非効率な書店はつぶれる

書店のケースに限らず、「競争は中小を不利にする」とよく言われるが、不利になるのは大中小を問わず効率の悪い企業であって、中小は規制緩和でむしろチャンスを広げる。再販破りのブックオフの成長はその好例である。

もっとも、再販制をはずせば新古本による二次マーケットが活性化するとともに、大規模小売書店が価格を若干下げることはあるだろうが、新本について小売書店間で他の商品のようなレベルで価格競争が激化するというのは非現実的である。

なぜなら、価格競争は大量販売商品でないと発生しにくいし、また、本の場合には他の商品のように輸入品やPBの開発による安い供給源の開拓は非常に限定されるからである。たしかに、大規模書店では出版社希望小売価格を下回る安い価格も登場するだろう。しかし、前記吉本隆明氏の非再販本では、希望小売価格1,200円に対し、小売価格は安くて1,000円弱であり、新本の場合に他商品のような激烈な価格競争の対象となるのは、毎日ヒラ積みされる超売れ筋の本だけだろう。

したがって、小売店間の競争は品ぞろえや専門化などのサービス競争に重点が置かれ、大規模書店は前者プラス価格競争、中小書店は後者に分化し、従来の没個性から脱却できない書店は淘汰されるだろう。

そのような淘汰されるべき非効率なものを残せというなら、市場経済は放棄したほうがよい。低所得者への所得再分配政策は各産業ごとではなく、別途に包括的な制度で対応すべきである。(なお言うまでもないが、値引きが起こるからこそ商品は売れる。吉本氏の非再販本は、同氏の同種の本に比べて2倍以上売れているという。)

音楽CDの再販制

音楽用CD(テープ、レコードを含む)についでも、再販制と文化の普及との関係は書籍と同じである。書籍と異なるのは、書籍の場合にはメーカーである出版社の集中度が低い(すなわち、出版社間の競争はかなり行なわれている)のに対し、CDの場合にはメーカーの集中度が高く(上位3社で41%、5社で58%)、かつ、企画から製作、製造、販売まで一貫して行なう企業は4社しかなく、流通支配力も強い点である。

メーカー段階での市場支配カが強いところで再販制を認めることは、価格硬直化を確実にもたらす。メーカーの仕切り価格は70%ないし75%で固定的であり、CDの価格も収録曲数と収録時間を基準に各社横並びになっており、協調的な動きが顕著である。

CDの価格は、平成元年で12インチ邦版の場合いずれも3000円とほぼ一律に設定されていた。平成4年に公取が自主改善要請を出したのにともない、自主的設定と値下げを約束し、その後一部のメーカーは引き下げたが、このこと自体、それまでの横並び価格が協調的であったことを示している(以上の数値はいずれも公取調べ)。


書籍と同じく、レコード業界は、「再販制をやめると文化としての内容か濃いが売りにくい商品か売れない」というが、CDの場合には、再販制度および委託販売制度による展示効果は書籍よりも稀薄である。

公取の消費者アンケート調査では、「購入するCDを決めてから店に行く人」が84%を占めており、店頭で展示されたものをみて初めて購入判断をする人は少ない。しかも、書籍ならぱ手にとって概要を知ることかできるのに対し、CDでは試聴してみなれば意味がないが、「試聴して買ったことはない」人が86%を占めている。

CDも書籍と同様、売れ残りたものは廃盤として処理されるが、試験的に行なわれた廃盤即売会では、東京の会場だけで1日平均2万5千枚が販売され、1日あたり2千万円の売上が得られたことを考えると、CDについても再販制を廃止すれば書籍同様の二次市場の出現やディスカウンターのいっそうの発展が見られることは疑いない。

新聞に文化を語る資格があるか

再販制についておそらく最も問題なのは新聞だろう。その理由は、市場集中度が書籍や音楽CD以上に高く、小売店の系列化も強く、そのうえ景品についでの規制も強く、さらに、独禁法の不公正競争の特殊指定条項によっても価格競争が制限されているからである。
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【再販論争1996】中条潮慶大教授「再販制は消費者にも業界にもマイナス(上)」

いまいちこれが書きたい!という題材が見当たらないので、また在庫から引っぱり出してきました。
このシリーズです。
【再販論争1996】「内橋克人は問題を捏造」「米国の地方紙をバカにするな」
【再販論争1996】読売新聞・滝鼻卓雄「新聞再販は商習慣の追認」
中条教授は航空行政が専門ですね。アンチ規制緩和論者からは毛嫌いされてきた学者の一人です。では。

経済広報 1996年7月
再販制は消費者にも業界にもマイナス(上)
中条潮(慶応義塾大学商学部教授)

ちゅうじょう・うしお 1973年慶応義塾大学商学部卒。同大学院博士課程修了後同大学商学部助教授を経て1992年教授。行政改革委員会規制緩和小委員会参与。公正取引委員会「政府規制と競争政策に関する研究会」会員。著書『規制破壊』『日本の流通(共著)』ほか。

新聞・出版が信頼を失う可能性

筆者は、従来、著作物の再販制は、「無いほうが良いけれども、公共料金分野などの規制に比べれば相対的に重要度は低い」と考えていた。

しかし、近来の再販制廃止反対キャンぺーンの激しさをみていると、筆者の考えは誤りであったと反省せざるを得ない。これだけ激しく反対をするところを見ると、よほど旨みがあるに違いないからである。

とくに、文化の担い手を自負する大新聞や多くの雑誌が、あるいは大新聞に噛みつくのが得意な夕刊紙が、その旗印である「言論の自由」を捨ててまで再販制を守ろうとするからには、筆者の知らないところでかなり大きな既得権が存在すると考えざるを得ない(言うまでもないが、再販制反対論を一切掲載しないでいたり、再販問題を意識的に扱わないできたのは、「言論の自由」を自ら放棄してしまっていることを意味する)。

だが、出版業界も新聞業界も少し冷静になって考えてほしい。冷静に考えれば、再販制は、消費者のみならず、(特定の新聞や特定の出版社にとってはいぎ知らず)業界全体にとってもそうまでして守るほどのものではないことがわかってくるはずである。

むしろ、問題なのは再販制自体よりも、再販制擁護キャンペーンの不公平と不正確さがいずれ国民に理解されることによって新聞・出版業界が国民の信頼を失ってしまうこと。および、再販制にしがみつく新聞・出版業界の「現状維持」の「姿勢」が、変化の激しい現代社会において結果的に業界の発展を阻害してしまう点にある。

経済発展に伴う適用除外の解除

再販制は激しいキャンペーンをしてまで守るほどのものではないにしろ、既得権が存在することは明白である。その証拠は、「既得権があるところにビジネスチャンスあり」と考えて参入したという、新古本を扱うブックオフの社長の言葉につきる。安売り本のビジネスが発生するということは、あるいは音楽CDの安売りディスカウンターが発生するということは、既得権が存在するということ以外の何物でもない。

そして、再販制のメカニズムから考えて、既得権擁護の犠牲となっているのは消費者利益にほかならない。本誌の読者には今さらだろうが、再販制とは、一定の卸売価格や小売価格をメーカーが問屋や小売店に守らせ、問屋や小売が自由に価格を設定できないようにする行為をさす。したがって再販制は小売間の競争を抑制することになるから消費者利益を阻害する。

逆に、小売業には一定のマージンが保証されるから、小売業は安定し、したかって出荷価格も安定するからメーカーにも有利となる。再販制の独禁法適用除外が昔は電化製品、Yシャツ、キャラメルなど、かなり広くいろいろな商品に認められていたのは、経済の発展段階では消費者の犠牲によって産業・流通を保護することが是とされたからである。

しかし、経済発展に伴い産業・流通保護の理由がうすれ、他の商品では次第に適用除外が解除されるか解除が決まっているなか、「一部著作物」についてだけ例外を設けるなら、「小売店が自由に価格を決めるシステムではどういう不都合が発生するのか」についで確固たる理由が必要である。理由が乏しいなら他の著作物や他の商品と同じに小売価格を自由にすべきであることはいうまでもない。

商品の文化性と再販制

「再販制をやめると何が不都合か?」という問いに対して、まずかえってくる再販制擁護論は「著作物は文化であり、他の商品と異なる」という主張である。

しかし、現在再販制が認められている「一部著作物」だけが文化ではないのは明らかである。ビデオや映画、コンビュータソフト、絵画、音楽以外のCDなどは再販制度は認められていない。「文化性のある商品」は他にもたくさんある。お祝に使う水引や祝儀袋、正月用品のしめ飾りなど、芸術品と呼びたくなるようなものさえある。あるいは和菓子はどうか?日本文化の伝統の粋ではないか。

筆者は揚げ足をとっているわけではない。「文化性かあるから再販制を認めるぺき」だというなら、こういうものすべてに再販制を認めなければならない。そういう主張なら論理の首尾一貫性の点では理解できるが、「一部著作物」だけが文化というのは思い上がりも甚だしい。漫画雑誌は再販の対象となっているが、漫画に文化性があることを筆者は否定しないけれど、それならぱ、およそ商品・サービスの中で文化性の無いものを探すほうが難しいということになる。パチンコだって釣りだって、まさに庶民の文化だろう。


仮りに「一部著作物」に他の著作物や他の商品にはない「文化性」を認めるとしても、それだけでは再販制を正当化しない。「小売価格の拘束が文化性のある一部著作物について必要である」という理屈が必要である。

ところが、一部文化人が主導する再販制擁護論では、この論点を回避して、「一部著作物は文化であって他の商品と異なる」→「他と異なるから再販制が認められるべきである」という非常に短絡的な議論がなされている。この種の擁護論では、本の文化性が強調されるだけで、再販制との関係が全く述べられないのが特徴である。

これは、この種の再販制擁護論が、「再販制とはどういう制度か」を理解していない一部文化人が、文化を大義名分にする業界の主張を鵜呑みにして業界に都合良く利用されているに過ぎないからである。あるいは、理解してはいるが業界とのつきあい上仕方なく業界の求めに応じているに過ぎない。再販擁護論者の文化人が、再販制是非の論点が「小売店に価格を自由に決めさせてよいか否か」という点にあることを理解しておらず、その点について議論しようとすると議論をはぐらかしてしまうのは、『三田評論』96年2月号の座談会記事を見て頂ければ一目瞭然である。

「葵の御紋」症候群

このような当該制度と関係の無い大義名分を持ち出して議論を有利に導こうとするのは、規制擁護論の典型である。そして、その際の大義名分としては、人々が頭から信じ込んでいる「葵のご紋」的要因を用いるのが常道である。安全、環境、弱者、社会秩序、公序良俗、射幸心の抑制、そしてこれらを総称して使われる「公共性」と言う言葉も、「葵のご紋」としてしばしば利用される。

「葵のご紋」を出きれると、それが本物であるかどうかを確かめることなしに、あるいは黄門様の考え方か正しいか否か関係無しに、人々が恐れ入ってしまうところが規制のつけめなのである。

読売新聞社の渡邊恒雄氏は、国会規制緩和特別委員会で金子、鶴田、三輪の三教授を、要約すると「自由競争を葵のご紋に掲げる再販制反対のイデオローグ」と評したが、小売流通規制のありかたを論じている公取研究会の提言に対して流通規制と関係のないイデオローグ的な文化論で対抗してきたのは業界のほうである。三教授を含めてまともな学者は、再販制賛成にしろ反対にしろ、再販制が流通にどういう影響を与えているかという視点で議論しているのである、再販制を理解していない一部文化人と同一視するのは問題である。

市場メカニズムヘの誤解

もう少しましな擁護論は、「一部著作物は文化であって市場メカニズムには馴染まない」→「ゆえに再販制が望ましい」という議論である。

しかし、「文化性のある商品は市場メカニズムに馴染まない」という理由が筆者には全く理解できない。現在でも一部著作物の商品間競争は認められており、著作物の生産・消費は市場原理に基づいてなされているのであり、再販制自体、市場原理の上に成り立っている制度である。「著作物は市場原理に任せるペきではない」というなら、現在のシステムさえ否定することになる。

もっとも、公共料金のように、「国が売るべき本を決め、くだらない本は書かせないようにし、価格も公定価格にせよ」とまで言うなら、それはそれで筋のとおった意見ではあるけれど。

つまり、再販制を認めるか否かは、「小売店間の競争を認めるか否か、小売店に自由に価格を決めさせてよいか否か」ということであって、著作物への市場原理の適用の是非を論じるのは筋ちがいである。判り易くいえば、「和食にしようか中華にしようか」を相談している時に、「食事はすべきではない」と言う議論を持ち出すようなものである。

また、この種の議論には、市場メカニズムに対する誤解もあるように思える。井上ひさし氏は『週刊現代』で、「消費者はトイレットペーパーについではその実用価値を求めて購入するのに対し、本を購入する場合には本が有する情報価値を求めて購入するのであって、両者は同列に議論するぺきではない」といったことを書いている。

しかし、稀に昼寝の枕になるという物理的な価値もあるものの、本が市場で売り買いされているのは本の有する情報価値・文化価値であって、本そのものではないことは子供でも知っている。そんなことを井上氏に教えられなけれぱならないほど公取の研究会はアホではない。


場合によっては井上氏のいう「情報価値」さえない本もあるだろうが、読者の知識欲を満たせば、あるいは、たとえば「ダウンタウン」のまっちゃんの本であろうと井上氏の高邁な小説であろうと、読んで読者が「おもしろい」と思えば、それが本の消費者に与える価値であり便益である。

トイレットペーパーから受ける便益と本から受ける便益は種類かちがうというだけであって、消費者が便益を受ける点では同じであり、それにどれだけの価値を認めるかは消費者の自由であり、市場メカニズムがその消費者ニーズと生産者を結び付けるという役割を果たしている点は、本についてもトイレットペーパーについでも同じである。

そして、市場メカニズムか有効に機能するようにすることが、消費者の多様なニーズを生産者に伝え、消費者ニーズに見合う本やトイレットペーパーを供給することにつながる。再販制は、この市場メカニズムの機能を損なうものであるから、トイレットペーパーについても本についでも認めるべきではないのである。

もっとも、市場メカニズムは完全ではない。市場には欠陥があり、その欠陥を補正するためには市場への介入が是とされる場合もある。その点を理由として再販制を擁護するのであるならば論理的には理解できる。

しかし、以下で示すように、一部著作物についでそのような市場の失敗要因が他と比ベて顕著であるとは言えないし、仮りにあっても、それを補正するのに再販制が有効とは考えられない。

売れないものは価格拘束しても売れない

小売価格拘束は、広く国民に多様な著作物を普及させるうえで寄与しているという主張がある。

しかし、第一に、広く国民に文化を普及させることが目的なら、なるべく安い価格でなるぺく多くの人々に著作物を読んでもらう、CDであれば鑑賞してもらう、のが筋である。

第二に、「小売価格の拘束をやめると文化的・学術的に価値は商いが売れない本、CDが売れなくなり、人気のあるものしか売れなくなる」という主張があるか、これも誤りである。

本やCDが「売れる・売れない」は内容と価格の問題であり、再販制のある無しとは関係ない。売れない本を価格拘束しても売れはしない。売れないものは売る努力をしなければ、あるいは価格を下げなければ売れない。

むしろ、書店やレコード店から返品された著作物が廃棄処分されることを考えれば、文化の維持・発展にはマイナスであるといってよい。売れ残りが廃棄処分されるよりも、ブックオフの新古本のように安く二次市場に出回ったほうが文化の普及に貢献するはずである。


また、著述家やアーチストは、必ずしも金儲けを第一目的に創作活動を行っているわけではない。広く自分の意見や作品を知ってもらうことを願っており、そのためにも二次市場の発展は望ましいことのはずである。二次市場に回すことを嫌う著者やアーチストもいるにはいるが、その点は、二次市場にまわしてもよいかどうかを著者やアーチストに確かめれぱよいだけの話である。

しかし、現行の再販制はこうした二次市場の発展を阻害しており、また二次市場に対する業界のバッシングも激しい。バッシングが許されるのは再販制が認められているからである。
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【再販論争1996】東洋経済「再販に守られる言論・文化の質とは?」

週刊ダイヤモンドの消えた特集 - 池田信夫 blog
週刊ダイヤモンドの4月6日発売号の特集は「電子書籍と出版業界」(仮題)という60ページの企画だった。私は1ヶ月ぐらい前に担当者から相談を受け、企画の内容や私のビジネスについても何度か話をした。メインは電子書籍の話で30ページぐらいだが、その背景として出版不況の現状や出版社・取次などの対応を取材するという話だった。

ところが先週の金曜になって、担当者から「あの特集は没になりました」という連絡を受けた。なんと60ページの特集がすべて中止になったというのだ。〔中略〕

彼によれば、通常は部員や副編集長が出した企画をデスク会議で話し合って最終的には編集長が決定し、局長などはこの意思決定には関与しない。ところが今回は、特集が決まったあとで取締役から内容について「質問」があり、それを受けて編集長が中止を決めたという。その理由は、編集長の説明では「電書協の件や講談社との関係」とのことだった。

これはひどい。本当に「言論の自由」を尊重するジャーナリストや学者なら即刻抗議すべきレベル(皇室誹謗中傷の劇や書籍、反靖国映画が問題になったときの左翼の騒ぎ立てようを想起されたい)。
これは一週刊誌の内紛といえばそれまでだが、見過ごせない問題を含んでいる。それはこの特集の入口は電子書籍だったが、本質的なテーマは日本で書籍の電子化が進まない背景に再販制度や委託販売などの不透明な流通機構がある、という当事者の「内部告発」でもあったことだ。

「記者クラブ開放」とか浮かれてる場合じゃないですよね。てか記者クラブやクロスオーナーシップは雑誌や本でも議論されるだけまだましです。再販は新聞・出版とも利害関係者だから全くといっていいほど取り上げられない。

ここはライバルの週刊東洋経済の出方に注目したいところ。
もう14年も前の話ですが、新聞・雑誌で再販死守のプロパガンダが吹き荒れた最中に、一般の刊行物で唯一といっていいほど批判的な主張をした「実績」があります。ではさっそくどうぞ。

週刊東洋経済 1996.11.2
特集 "救世主"規制緩和の真実 著作物再販

新聞のキャンペーンだけでは、議論は深まらない
再販に守られる言論・文化の質とは?

H8.10.13 日経日経、お前もか……と、規制緩和派をうならせたのは、10月13日付の「民主主義支える再販制度」。本文で全面的に再販擁護を唱え、二人の「識者の声」も再販維持だ。社長以下ヒステリックに再販維持を叫ぶ読売はともかく、経済紙という特性を持つ日経は、再販廃止でもそれほどの影響は受けないと予想され、比較的冷静と見られていただけに、良識派は眉をひそめる。

労組も「再販が外れると、資本力がなけれぱ新聞が出せなくなり、民主主義の土台が揺らぐ」(新聞労連)と、がっちり"労使協調"。新聞が嫌う「偏向報道」も、キャンペーンならぱ構わないそうだ。

出版界は、キャンペーンこそしないが、「現在でも年間一〇〇〇軒以上の中小書店が廃業している。図書館が充実していない日本では、中小書店の役割がまだ大きいのに、競争促進で淘汰のスピードを今以上に速める必要はない」(相賀昌宏・小学館社長)、「価格が書店ごとに違っては、かえって消費者を混乱させるし、年々発刊点数が増える中、書店がいちいち価格をつけるのは物理的に不可能」(日本書店商業組合連合会副会長の中村義治・教文館社長)と、川上から川下まで再販維持で一致。

出版労連も「競争が激化すると、売れ筋の書籍が主流となり、少部数の専門書が出せなくなる」などとしており、まさに"業界挙げて"だ。

土俵に上からない規制維持派

週刊東洋経済 1996.11.2昨年の規制緩和小委の論点公開で再販が取り上げられ、公取委から委嘱を受けた再販問題検討小委(金子晃・慶大教授が座長)が再販見直しを打ち出して以来、緩和派と維持派が真っ向から激突する構図だが、実は議論がまったくかみ合っていない。

再販の争点は、せんじ詰めると「メーカーによる価格拘束の是非」。再販は"縦のカルテル"と呼ぱれ、生産者利益を犠牲にする。その犠牲を補って余りある社会的利益が得られ、かつ他の方法がない場合にだけ再販が認められる。緩和派は、弊害が増え、社会の変化により導入当初の条件(左表参照)も薄れたとする。

対する維持派の主張を大まかに要約すると、新聞は「再販廃止→値引き競争→販売店の経営不安定→戸別配達崩壊、新聞本社の経営不安定→知る権利、言論の自由侵害」、出版は「再販廃止→大手書店が書籍買切制導入、返本可能な委託販売制の崩壊→売れ筋中心の出版、中小書店の倒産→専門書の排除、陳列機会の減少→文化の多様性の喪失」。

「風が吹けば桶屋が儲かる」的に「言論」「文化」に行き着くが、価格拘束の是非が拡散してしまうのだ。過程が複雑なだけに疑問も残る。

本当に戸別配達は崩壊するのか。戸別配達がなくなれば、それだけでも部数は激減するだろう。新聞本社は是が非でも維持する努力をするのではないか。また、専門書が出なくなるという問題も、「専門書は売れる店、部数、価格帯が決まっているので、再販とはあまり関係ないのではないか」(出版社販売担当役員)という証言もある。価格自由化後の、新聞販売店・書店による創意工夫の発現という視点も欠落している。

金子慶大教授は、「文化、言論という観点で議論するのは構わないが、まず価格拘束との因果関係を明確にすぺきだ。そうしないと議論が深まらない」と、同じ土俵に上がることを促す。

一方で、弊害は多々ある。

例えぱ新聞では、価格競争が封じられているため、景品を使った拡販に走らざるをえず、その過程で強引な勧誘が後を絶たない。国民生活センターに寄せられた新聞の勧誘に関する苦情は、95年度四六七二件と過去最高(前年比二七%増)、96年度もも10月半ばですでに二六○〇件を超えている。引き続く販売適正化努力にもかかわらず、だ。

出版では、他商品では当然となった流通革命がなく、書店の発言力が弱いために、読者の需要を無視した発刊が続いている。96年は六万点を超えるといわれ、一日当たり一六○点以上の新刊が書店に流れれ込む計算だ。既存店の場合は増床しなければ、維持派の主張する陳列効果は減殺されてしまう。「利益を生まない返本作業ばかり増え、店員が商品知識を仕込もうにも物理的に限界だ」(大手書店役員)。

再販の趣旨を生かしてきたか

維持派からすれば、こうした弊害に対抗するのが「言論」「文化」ということになる。かりにその議論に乗るとすると、その守るべき価値の中身が問われる。つまり、「再販に守られてきた言論・文化」とは何か、だ。

1953年以来、法定再販がある以上、今の日本の言論や文化は再販で培われてきたことになる。その結果は、新聞は「大事件中心主義、政府主導の情報操作で似たり寄ったり」といわれ、出版界では純文学が廃れ、文芸誌や総合誌の休刊が相次ぎ、売れるのはマンガだけ。活字文化の危機、である。日本の文化水準なるものが、再販のないアメリカよりも上だ、といえる人はよほどの度胸の持ち主だろう。

「再販がなくなると、もっとひどくなる」という意見もあるが、これは詭弁。活字文化の危機は、作り手の側の問題であり、教育の問題だ。

さらには、趣旨にのっとって再販を利用してきたか、という指摘もある。書籍の場合、販売委託制度では新刊の返本可能期間は三カ月だが、代金決済は仕入れ月の末日だ(返本可能でも一度決済はする)。書店は仕入れ月には売れないと判断すれぱ、資金の固定化を避けるため、月末までに返本してしまう。決済も三カ月にしなけれぱ、陳列期間は短くなる。

再販の趣旨を生かす努力をしなければ、「売れる本を定価販売で売りまくり、利益を業界内で分配してきた」と、批判されてもしかたない。

実際、ある出版社幹部は、「自由競争の流れが変わらない以上、著作物だけがいつまでも価格拘束できるのか」という冷静な声も聞かれる。

行革委の動きと運動して、公取委は98年3月末までに結論を出す。おそらく新聞だけは、政治家ヘの圧力でも何でも駆使して、反対し続けるだろう。その結果、再販が残ったとしても、安定した経営基盤がなけれぱ、言論の多様性が守れないなどといっているようでは、日本の言論、文化の将来は暗い。 (筒井幹雄記者)


今でも通用する内容ですね。変わったことといえばマンガでさえ売れなくなっていることぐらいw
親会社がご覧の有様ですから、日経ビジネスも再販制度のタブーに踏み込んだ出版業界特集なんてできっこない。続きを読む
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    平成20年1月1日より


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