2017年02月21日

東田直樹『自閉症の僕が飛びはねる理由』を読む

自閉症の僕が跳びはねる理由表紙この本に評を書く蛮勇は起きない、わたしは何もわかっていないからだ。
多くの方に読んでほしい一冊だ。

会話の出来ない自閉症の中学生が綴ることで、心の世界を知らせる。
質問と答で綴られている。
題名の「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」もその答だ。
わたしがもっとも印象に残ったのは以下の問答だった。

「自閉症についてどう思いますか?」
「僕は自閉症とはきっと、文明の支配を受けずに、自然のまま生まれてきた人たちなのだと思うのです。
 これは僕の勝手な作り話ですが、人類は多くの命を殺し、地球を自分勝手に破壊してきました。人類自身がそのことに危機を感じ、自閉症の人たちをつくり出したのではないでしょうか。
 僕たちは、人が持っている外見上のものは全てもっているのにも関わらず、みんなと何もかも違います。まるで、太古の昔からタイムスリップしてきたような人間なのです。
 僕たちが存在するおかげで、世の中の人たちが、この地球にとっての大切な何かを思い出してくれたら、僕たちは何となく嬉しいのです」(P140)


自閉症の僕が跳びはねる理由
会話のできない中学生がつづる内なる心
2007年2月28日 初版第1刷 発行
2014年10月10日 初版第15刷 発行
著者 東田直樹
発行者 鈴木弘二
発行所 株式会社エスコアール出版部
©Naoki Higashida 2007 ISBN978-4-900851-38-2

東田直樹 オフィシャルブログ 自閉症の僕が跳びはねる理由
  
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2017年02月13日

菅田正昭先生とのお茶談義(5)

久しぶりに菅田先生とお茶。
今回は、かつて先生が赴任されていた青ヶ島の話から、広く伊豆諸島から南に散在する島々、竹島・鬱陵島・済州島の歴史と、韓国の廃仏毀釈、戦後の「難民」問題についてお聞きした。また、伊豆諸島までの文化圏について、言語から独自の御説を拝聴。
かなり、ディープなお話だったが、先生、にやりと笑い「独歩さんのブログに書かないでね」と釘を刺された(笑)
追って、会報の執筆をお願いした。  
Posted by saikakudoppo at 08:00Comments(0)TrackBack(0)菅田正昭師

2017年02月10日

小川寛大師「日本を騒がす、「日本宗教家7人」を読む

宗教団体の「政治と信仰」マトリックス


小川寛大師から『SAPIO』'17/3号を頂戴。
図は「安倍政権誕生で、宗教界に地殻変動が起こっている 宗教団体の「政治と信仰」マトリックス」」という図を掲載(上図)
縦を“政権との距離”として上は親安倍・下は反安倍、横を“思想”として右に保守・左にリベラルと軸を採り、日本の宗教団体を挙げて配置。それぞれの代表の顔写真・創立年・信者数・本部所在地と代表者に関する簡潔な説明を付している。たぶん、この図は、小川師がまとめたものではないか。よくまとまっており、参考になる。
1点。幸福の科学の信者数が「世界1200万人」となっており、掲載団体でトップとなっている。同団体の公称なのだろうか。反対に神社本庁の7.9万社は実数に近いのだろう。

この特集の冒頭は島田裕巳師:潮流 新宗教の信者が激減が意味すること『神が死に、宗教が消えゆく時代を考える』。
神よりスマホ、新たな信仰が始まるという2つのテーマが書かれる。
仏ではなく、神。
「日本社会から神聖な存在が失われていく。その最たるものが天皇だ」(P29)だという。
新たな信仰とはスマホに代表されるAI(人工知能)だというが、結論部分には「神社にお参りした日本人は、何かに支えられた気分になる」と言いながら、「神が死んだ時代」という脈絡が、どうもわたしにはわからなかった。
結論からすると、新しい信仰は手に持つスマホと、訪れる神社の境内ということだろうか。

さて、小川寛大師は7宗教の内、まず生長の家について書く。
「日本会議の源流の一つといわれる団体の変容 かつての「反共・愛国教団」はなぜ「反安倍政権』路線に転じたのか」
この団体については'16.6.20号『週刊ポスト』に『宗教戦争に異変!? あの宗教団体が安倍自民を見限った』と題し書かれていた。“あの宗教団体”とは生長の家のことだった。
また、『宗教問題』16号でも、日本会議に係り触れていた。
以上、師の主張と本稿は軌を一にしている。

次に靖国神社“徳川家末裔”宮司の発言が招いた「賊軍合祀論」で議論百出!」
こちらも 16.6.20号『週刊ポスト』に載った『靖国神社の存在気に関わる? 徳川宮司「明治維新という過ち」発言の波紋」の続編といった内容。
この結論は効いている。「明治維新から150年、いま「徳川の逆襲」始まろうとしているのか」(P38)

創価学会については首都大学・玉野和志教授が書く。
タイトル「絶対幸せになろうね」と人々を励まし続けたカリスマ指導者」
この「絶対幸せになろうね」というのは池田大作氏の言葉とするが、元創価学会員であるわたしからすれば、極度の違和感がある。
本文を読めば、どうやら婦人部会員に向けた言葉ということらしいが、池田会長というのは、こんなおもねった口調ではなかった。「絶対に幸せになりなさい。そのために信仰があるんだ」といったような口調である。
また「学会活動の中で社会の底辺にいる人々を引き上げるシステムを作り上げ、“頑張れば何とかなる”という日本高度成長を支えた日本的なエートスを体現」(P39)という。
要するに人間革命ということだろう。この点は無碍に否定しないが、現況、創価学会のトップは原田会長を筆頭に東大卒他、一流大学と創価大卒で固められ、底辺にいる人々とは隔絶している現実も併記すべきではないか。

以上、いつもながら、勝手な読後感。
小川寛大師には御礼申し上げると共に、ますます活躍を期待する。  
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2017年02月05日

2月度:独歩の会を開催 ('17.02)

昨日、本年初の独歩の会を開催。

川弘志師から『日蓮聖人御影に関する一考察()の講義をいただく。
富士大石寺の御影像、「鏡の御影」の系列画像、富士大石寺蔵「鏡の御影」の作者、保田妙本寺蔵大石寺正御影の移設経緯、色々な宗祖御影像の製作年について、保田妙本寺蔵大石寺正御影について
画像35点を提示は圧巻であった。
先に『日蓮聖人御影に関する考察(機は拝読し、また、<会報a href="http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/archives/52116044.html">創刊号にも掲載させていただいたが、今回の論攷は、その続編に当たる。追って掲載させていただく所存である。

なお、保田妙本寺蔵御影については、独学徒師が『冨士教学研究会会報』創刊号に伊豆實成寺「房州妙本寺御影尊写」と対照した論攷をされていたことが思い出された。

菊水護国師からは、改憲問題ほか、サイバー犯罪、宗教詐欺といった事件対処について、お話をいただいた。

閉会後、忘年会・新年会を併せて、楽しい時間を過ごした。
  
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2017年01月16日

菅田正昭先生から道場親信「下丸子文化集団」と“玉体”について

下丸子


菅田正昭先生との、先のお茶談義の際に話題になった下丸子文化集団につき、新聞の切り抜き2点を送ってくださった。
共に昨年('16)急逝された道場親信師の記事。著者の冥福を祈るばかりだ。

1点は『東京新聞』'16年12月24日付『力振り絞り著した「社会運動」』、近く遺稿が発刊される紹介の記事だった。
もう1点は『毎日新聞』'17年1月5日付、論の周辺『草の根の歴史を掘り起こす』(大井浩一)

この記事を通じて、菅田先生は、故丸山照雄師の名が下丸子文化集団の紹介に顔を出さないことを嘆かれた。
わたしもかつて出版社に勤務していたとき扱った、丸山師の独特の肉筆が思い出された。
日蓮宗身延山に建った五重塔の経理報告が出されないことを糾弾するものだった。
そのことに限らず、権力者に挑む方であった。没後もさらに敬遠されているのではないか、殊に関係の深い下丸子文化集団が語られる上でも、というのが菅田先生の嘆きである。

社会運動、文化サークル、草の根には、コマーシャリズムに乗らない(いや、相手にされない)からこそ、政財界に何ら遠慮のない庶民の本音と実生活が描写されると、わたしは思う。
その研究者であった道場師の夭逝はあまりにも惜しい。
多くの方の目が向くことを願う。

§


もう一つ。先のお茶談義の話題。日蓮の“天皇霊”観についても講説をくださった。

「日本国の王となる人は天照太神の御魂の入かわらせ給王也」(『高橋入道殿御返事』)
「天照太神は玉体に入かわり給はざりけるか」(『神国王御書』)

“御魂”“玉体”は同義なのだろう。魂(たま)であり、玉(たま)である。
わたしは、この玉体をあまり深く考えてこなかったのだけれど、改めて読んでみると、「あ!」とばかり気付くことがあった。
「日本国の“王”」の“玉”体とは、つまり、“王体”に関わるのではないか。
将棋の駒も王将は玉将と書き、日蓮は天王を天玉と書いた。
まったくの資料手放しではあるけれど、王に打つ“丶”こそ“たま”なのではないか。
王位は武力、財力でもつける。この段階では王体だ。しかし、天皇となることは、天照大神の魂(たま)、玉体が入られるということだ。この点は天皇族の秘儀であり、譲位が憲法によらなければどうだという話とは次元を異にする。

わたしは所謂、右翼ではないし、神道信仰者でもない。
けれど、こうした点には大いに興味がある。
先には小川寛大師の『AERA』掲載の神道に関する玉稿を紹介したが、菅田先生といい、朋友・菊水護国師といい、最近は神道に関わる引力を感じる。日本が、改めて神道を看過できない時代に入った実感を覚えるのだ。  
Posted by saikakudoppo at 08:00Comments(0)TrackBack(0)菅田正昭師

2017年01月15日

小川寛大『神主は食べていけない』(AERA '17.1.16)を読む

AERA170116_3sお世話になっている小川寛大師から『AERA』'17.1.16号を頂戴した。
写真は玉稿の『神主は食べていけない』(P17〜20)
食べていけない貧窮神主を“食わん主”と洒落、改憲に奔走する宗教法人神社本庁下の一部特権階級を金満神主と分別。寺院もそうであるが神社も貧富の格差は著しいようだ。

日本会議と連携する神社本庁が改憲の署名用紙を社務所に平積み。
宗教ではないが謳い文句の宗教法人では政教分離は意識しないでよいらしい。

神社、神さまについては、菅田正昭先生や、菊水護国師にレクチャーを受けることが多いが、小川寛大師も加わるとは何とも心強い。

今回、ご送付をくださったのには、もう一つお気遣いがあった。
『さよなら「連立」悩める巨大宗教』と題し創価学会を取り上げているからだ。
連立解消は都議会の話で、国政は連立が解消するとは思えない。「勇み足」とも思えたが、もう一点。
「創価学会という名称も「日蓮世界宗」に変更される可能性がある」という。
俄には信じがたいが、たしかな情報なのだろうか。
記事では名称を変更後の池田氏の呼称に話題が傾いているが、それよりも何よりも、創価学会仏は、どこかに言ってしまうではないか。まさか日蓮世界仏か・世界日蓮仏と抱き合わせるわけでもないだろうと、余計なことを考えてしまう。

やや横道であるが、この「日蓮世界宗」は、平成のはじめ、創価学会が日蓮正宗と分断する時に池田大作氏の口から出た。当時、わたしは大石寺の内事部『大日蓮』編集室と共に、宗務院教学部からも仕事を請け負っていた。後者ではもっぱら創価学会の内部アンチが送り付けてくる創価学会会合の池田スピーチの盗み録りテープを文に起こす仕事であった。

正確な発言は忘れたが、池田氏が「私どもは永遠に、……宗で行きましょう!」と絶唱する声が万雷の拍手でかき消され、あたかもラジオ・ドラマのワン・シーンを聞くようだった。
この時に池田氏が言った名称が、日蓮世界宗ではなかったか。

『AERA』の記事では、単に「日蓮世界宗」となっているが、SOKAnetでは「日蓮世界宗創価学会」と記されている。

30年前まで「日蓮正宗創価学会」で、その後、創価学会のみとなった。
なぜ、いまさら宗名をぶり返さなければならないのか。先の創価学会仏といい、どうも最近の創価学会の動向は、よく飲み込めない。

わたし個人としては、創価学会は宗教一色になってくれることを望ましいと思うが、しかし、公明党を擁するのであれば、連立してまで与党とならず、野党第一党として与野党の両方を牽制することで存在感を示してほしい。そうすれば、創価学会の主義に反する軍事、原発に与する必要もなく、宗教とはほど遠いカジノに右往左往することもない…、なんて記すと、「何を表面的なことを」という檄が飛んできそうなので、この辺としよう。

小川寛大師の、ますますのご活躍を祈り、お礼に代えたい。  
Posted by saikakudoppo at 08:00Comments(0)TrackBack(0)

2017年01月14日

創価学会仏への小考「謂己均佛」

先に吃驚仰天と書いた創価学会仏であるが、この構造がまた、まったく理解できない。

日蓮門下は、本仏の許、本化地涌菩薩の自覚という。
門下一般では本仏は、久遠釈尊、大石寺では日蓮であるが、しかし、その僧俗は通じて地涌菩薩の自覚である。しかし、創価学会は、自分たちを仏なんだというわけである。

多少、日蓮の教学に親しんできた者であれば、直ちに『開目抄』に引く『摩訶止観』の一節を思い出すことだろう。

「若無智起増上慢謂己均佛」(若し無智にして増上慢を起し、己は佛に均(ひと)しと謂ふ)

日蓮聖人は、上行菩薩としての確固たる自信を持っていただろう。それでも、人に語る時は「もしかしたら、そうかもしれない」といった謙遜で終始した。菩薩でもないかも知れないといったのだ。

一方、創価学会は、菩薩どころか、自分たちは仏だという。
仏の許に集う和合僧団の元意は四衆僧伽藍だから、在家集団が和合僧、僧宝だという言うまでは、百歩譲ってまだわかる。大乗戒出家僧の菩薩の自覚のシフトだ。

しかし、創価学会・員が、菩薩はおろか、自分たちは仏であると言うのは、あまりの無智、まさに増上慢というほかないのではないか。

もちろん、日蓮聖人を本仏とすることにも異論がある。それは措て置く。
本仏以外の仏とは、では何仏か。迹仏であるというのが仏法通念である。
しかし、大石寺日寛は『本尊抄文段』に「我等この本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即ち一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」という。
ここでいう“この本尊”とは所謂「本門戒壇の大御本尊」という彫刻板を指す。この彫刻との決別を、ついぞ最近したばかりの創価学会だから、この本尊を「宇宙に遍満する妙法」だとするのか。
そうなると、池田大作氏を代表に創価学会は本仏であるという“池田本仏論”の補填となる。
つまり創価学会仏=本仏とは説明できないはずだ。
ならば、創価学会仏とは、いかなる仏だというのか。

理解に苦しむ。ここは創価学会の説明を待つこととしようか。
  
Posted by saikakudoppo at 09:31Comments(0)TrackBack(0)創価学会

2017年01月10日

菅田正昭先生から未発表の玉稿3作を頂戴

未発表とは、今後もそのままとは限らず、発表に転じる可能性を孕んでいる。換言すれば、印税という営利を生じる可能性を孕んでいるということだ。だから、いまは“未発表玉稿”とし、題名や、具体的な内容は記さない。それにしても未発表に終わらせるのは余りに惜しい。

主に、触れている人物は3人・団体は2つ。

1人は平成25年当時の島田裕巳先生である。
「おっ」とばかり注視したのは、「事件」といってよいかどうか悩むが、ヤマギシ会の実顕地の住人の『死亡届』未提出の埋葬の記述。
島田先生といえば、わたしなどは“ヤマギシ会”を思い出すのだが、以上の出来事と、近年、発刊されてきた葬式、墓地の不要論は1本の糸でつながるかどうか。
この点、菅田先生は言及されていないが興味を懐いた。

もう1人は牧口常三郎であり、創価学会である。この人と団体に触れる大木道惠氏を含めて3人である。
大木氏は、ここのところ、新たな執筆を見ないが、しかし、その創価学会と牧口常三郎を分かつ解析に、菅田先生は注目している。

未発表であるから、これ以上は触れられないが、埋もれさせるには惜しい玉稿だ。
何とかしたい。  
Posted by saikakudoppo at 07:34Comments(0)TrackBack(0)菅田正昭師

2017年01月09日

菅田正昭先生とのお茶談義(4)

本年、初のお茶談義。備忘録。

故丸山照雄師のことから、下丸子文化集団に話題が及ぶ。(
わたしの出生地から自動車ならば10分ほどの下丸子。
ここでの光芒は1950年代のことで、'55年生まれのわたしには、地元の出来事であるという実感がない。

さらに話は思想の科学から、鶴見俊輔の語る創価学会二代会長・戸田城聖について。
近江神宮のカルタの始まり。かつていた滋賀県大津市に昭和15年に創祀。2、3度訪れたことがあるが、たぶん、2度と行くこともあるまい。いまとなっては、一つの思い出の場所となった。

昨日は小脇義秀師と電話で話したが、話題は「神道は宗教か?」
同じ質問を菅田先生に向ける。
詳細は、本にもまとまる濃い内容であったので、いまは割愛。
「日蓮には天皇霊の考えがあった」というご指摘をいただく。
また生前譲位についてもお聞きした。併せて、天皇と伊勢、出雲、八幡宮、靖國について、“立ち”位置関係に就きレクチャーをいただいた。

いつもながら、たいへんに参考になった。  
Posted by saikakudoppo at 18:15Comments(0)TrackBack(0)菅田正昭師

2017年01月07日

備忘録:諸師との対話

年末年始、実に示唆に富む方々と話すことが出来、新たな知見を得た。ここは名前は伏せて、備忘録。

:先に『吃驚仰天「創価学会仏」とは』と題して管見を記したが、まさに文字どおり、これを管見であると弾劾する書が出る。その玉稿を通読したが、創価学会の密かに流れ継がれた“創価学会仏”を、まことに精緻に語りつくしている。先に「吃驚仰天」と書いたが、さらに吃驚仰天。
今後、創価学会が“創価学会仏”路線を採るのであれば、この書は最上の“文証”となる。近く出版されるだろうが、以後、「創価学会仏なんて聞いたことがない」とは二度と言えない。

:昨日『「臨終正念起請文事」を読む』を書いたが、この題材については、もう数年前から、胸佞ら情報の提供を受けてきた。今回もブログに投稿すると、LINE にさらに詳しい情報を寄せてくださった。偽書であるという表面的なことではなく、何故偽書が造られたかという視点を、胸佞倭派舛垢襦

:上述、『臨終正念起請文事』と『天部信仰読本』をくださった。
元は日蓮信仰であったが、いまは天台宗と真言宗を兼学され、そこに共通する密教→加持祈祷→天部といった興味を懐かれている。
わたしは密教を日蓮分析の一つの材としかとらえていないが、兄佞砲録仰面から視点がある。対話で見落としがちな行者と信者の心象を確認させられた。

:年末、兄佞数年ぶりに引き合わせてくださった。元は大石寺と深い関係にあった方である。
大石寺の末寺に通っていた頃にお世話になった在勤僧侶と同世代、また『大日蓮』の仕事をしていた時の、担当者のこともよく、御存知だった。
大石寺信仰も、もはや遠い昔の思い出となったと実感。

胸奸Ν兄佞箸錣燭靴剖δ未垢襪海函F韻現ゞ戯承修冒遇したこと。2師は直前で被害を免れたが、わたしは5年以上の時間を無駄にした。

:この方も兄佞紹介くださった。所謂「本門戒壇の大御本尊」彫刻に関する広汎な情報をお話くださった。“額面通り”の大石寺信仰をしている人が聞けば、腰を抜かすような内情の数々である。彫刻の“復造”について確証を得た。
再度の面会をお願いすると快諾くださる。

:もう15年来の付き合いであるが、備忘録。
とある高僧と面会すると、わたしを知っていたこと、鑑別について評価していることなどを話してくださる。
偶然なことであるが、校佞お話くださった“復造”について大石寺の本音の見解が聴けた。
何故か、いまの大石寺信徒は彫刻を法体であると思い込んでいる。しかし、法とはモノではない。形がないからこそ法である。その法をもって、モノで造るのが紙幅・彫刻の本尊である。法体相承とは、そのようなことだ。その点で意見が一致する。「戒壇本尊は復造できるからこそ、法主の権威は格段に上がるではないか」とわたしが言うと、「法華講より、大石寺信仰がわかっている」と冗談交じりにそう言い、笑った。

以上


立ちはだかっていた宗教詐欺を押しのけると、風向きが変わった。
無理やり引き離された方々、話を出来なかった方々と自在に会話が出来る。
何と心地がよいことか。
格段に視界は開け、一重、立ち入った思索が出来る。
自由は素晴らしい。  
Posted by saikakudoppo at 09:09Comments(0)TrackBack(0)