2025年06月25日
非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動
顔淵第12凡第12章
子曰 非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動
顔淵曰 回雖不敏請事所欺語矣
「見ざる聞かざる言わざる」の元となる『論語』の該当箇所、「子曰 非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動 顔淵曰 回雖不敏 請事斯語矣」
子曰く、礼にあらざれば視ること勿れ、礼にあらざれば聴くこと勿れ、礼にあらざれば言うこと勿れ、礼にあらざれば動くこと勿れ。顔淵曰く、回、敏ならずといえども、請う、この語に事えん。
解説:
子曰:孔子が言った。
非礼勿視:礼に反するものは見るな。
非礼勿聴:礼に反するものは聞くな。
非礼勿言:礼に反するものは言うな。
非礼勿動:礼に反するものは行動するな。
顔淵曰:顔淵(孔子の弟子、顔回)が言った。
回雖不敏:私は(顔回)鈍いけれども。
請事斯語矣:どうかこの言葉に従いましょう。
この訓読は、原文の意味を日本語の古典的な語順で自然に表現したものです。顔淵が孔子の教えを謙虚に受け入れ、実践しようとする姿勢が表れています。
Grok3
子曰 非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動
顔淵曰 回雖不敏請事所欺語矣
「見ざる聞かざる言わざる」の元となる『論語』の該当箇所、「子曰 非礼勿視、非礼勿聴、非礼勿言、非礼勿動 顔淵曰 回雖不敏 請事斯語矣」
子曰く、礼にあらざれば視ること勿れ、礼にあらざれば聴くこと勿れ、礼にあらざれば言うこと勿れ、礼にあらざれば動くこと勿れ。顔淵曰く、回、敏ならずといえども、請う、この語に事えん。
解説:
子曰:孔子が言った。
非礼勿視:礼に反するものは見るな。
非礼勿聴:礼に反するものは聞くな。
非礼勿言:礼に反するものは言うな。
非礼勿動:礼に反するものは行動するな。
顔淵曰:顔淵(孔子の弟子、顔回)が言った。
回雖不敏:私は(顔回)鈍いけれども。
請事斯語矣:どうかこの言葉に従いましょう。
この訓読は、原文の意味を日本語の古典的な語順で自然に表現したものです。顔淵が孔子の教えを謙虚に受け入れ、実践しようとする姿勢が表れています。
Grok3
Posted by saikakudoppo at
17:13
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2025年05月14日
清正公堂内(池上本門寺)
ふと通りかかると柵が開いており堂の目の前まで行けたガラス扉越しに撮影
さて許可されることかどうか
解像度と明度を下げて配慮
いちばん奥の曼荼羅は経蔵と同型のものか
その前に厨子に入った御影は日蓮か
さらに前に清正像が置かれ八巻経
この奉安結界からすると清正は神の扱いなのだろうか、当てずっぽうなので、どなたかご教示をいただければ有り難い
2025年05月12日
菅田正昭先生の詩が産経新聞に

朝の詩
『賽銭の散らばる社』
東京都大田区
菅田正昭 80
森の中の小さなほこら
何神がおわしますのか
木漏れ日の中
賽銭が散らばっている
社からこぼれたのか
地面に落ちている
誰も参拝しないのか
拾う人もいないのか
それでも
神さびていと尊とし
誰かが参拝している
(選者 八木幹夫)
産経新聞2025.5.11
菅田正昭先生の詩は2020年にも産経新聞で選ばれた
「2度目ですか」とお尋ねすると「4度目」とのことだった
こんな才能もお持ちなのかと敬意を覚える
2025年05月06日
日蓮墨筆を読む(19) 転重軽受法門�┌源�
2025年05月05日
日蓮墨筆を読む(19) 転重軽受法門�В兄�
−6紙よりつづく−

第七紙
當事は日蓮一人みへ候か
昔の惡王の御時 多の
聖僧の難に値候ける
には又所從眷屬等弟子
檀那等いくそばくかなげ
き候けんと今をもち
てをしはかり候 今日蓮
法華經一部よみて候 一句
一偈に猶受記をかほれり
何況一部をやといよいよ
たのもし 但をほけなく
國土までとこそをもひて候へ
ども我と用られぬ世なれ
ば力及ばず
本紙冒頭は5紙「彼の経文のごとくふれまう事わかたく候か」に対応するように6紙終わり「正像二千年はさてをきぬ。末法に入つては、この日本国には」には続き「当時(事)は日蓮一人みへ候か」と経文符号を力強く語る
まさに4紙から5紙にかけてあげる「観行即と申すは所行如所言 所言如所行(行ずる所言う所のごとく、言う所行ずる所のごとし)」」に自らが契当する宣言とも採れる。
しかし、本紙末の2行「我と用られぬ世なれば力及ばず」という
『転重軽受法門』は、日蓮の数少ない摂受折伏を主題にした書であるがとても“折伏”をしている言葉ではない
捕縛され折り伏せられた心情だろう
だが、日蓮が敗北したわけではない。揺れ動く心情と摂受折伏観は深く絡み合い、漫荼羅図顕をはじめ、本門寿量仏像本尊を据えて、三法門(のちにいう三大秘法)確立へ、さらに進んでいく

第七紙
當事は日蓮一人みへ候か
昔の惡王の御時 多の
聖僧の難に値候ける
には又所從眷屬等弟子
檀那等いくそばくかなげ
き候けんと今をもち
てをしはかり候 今日蓮
法華經一部よみて候 一句
一偈に猶受記をかほれり
何況一部をやといよいよ
たのもし 但をほけなく
國土までとこそをもひて候へ
ども我と用られぬ世なれ
ば力及ばず
§
本紙冒頭は5紙「彼の経文のごとくふれまう事わかたく候か」に対応するように6紙終わり「正像二千年はさてをきぬ。末法に入つては、この日本国には」には続き「当時(事)は日蓮一人みへ候か」と経文符号を力強く語る
まさに4紙から5紙にかけてあげる「観行即と申すは所行如所言 所言如所行(行ずる所言う所のごとく、言う所行ずる所のごとし)」」に自らが契当する宣言とも採れる。
しかし、本紙末の2行「我と用られぬ世なれば力及ばず」という
『転重軽受法門』は、日蓮の数少ない摂受折伏を主題にした書であるがとても“折伏”をしている言葉ではない
捕縛され折り伏せられた心情だろう
だが、日蓮が敗北したわけではない。揺れ動く心情と摂受折伏観は深く絡み合い、漫荼羅図顕をはじめ、本門寿量仏像本尊を据えて、三法門(のちにいう三大秘法)確立へ、さらに進んでいく
−8紙につづく−
2025年05月04日
教学メモ108:“かわたく”とは“私”のことか(転重軽受法門5紙)

『転重軽受法門』5紙の末行に「事かわたく候か」という一節がある
神保辨靜は『對照録』で「事かかたく候か」
片岡随喜は『對照録』で「事わかたく」とした。事、わかたく、とはどのような意味なのか。古語辞典でも見当たらない。「事わかたく」の意味としていようにも見えるが、日蓮は「〜は」を「〜わ」とすることはなく、もっぱら「〜ハ」と書いていた
「事かわたく」の“わ”は衍字で「事かたく候か」とも考えられるか
しかしながら“かわたく”であれば何か意味があるか
Grok3頼みは短絡だが、訊いてみると、平安末期から鎌倉にかけて用語として「私」の意味があったという。とすると、「事、私候か」となる。「ことは私に関係があります」「その事柄は私のことです」と自然に現代語に訳せる文だという
前文から続けると「経文のごとくふれまう事かわたく候か」、経文のごとくにふれまうことは私のことか」と自然な文章となる
しかし大きな古語辞典がなく確証が取れてない
断定は勿論できないのであるが、「かわたく」は“私”で正解ならば、なかなかの発見なのだが
日蓮墨筆を読む(19) 転重軽受法門�Γ胸�
−5紙よりつづく−

第六紙
見有読誦書持経者
軽賤憎嫉而懐結恨
法師品云如来現在猶多怨
嫉況滅度後 勧持品云
加刀杖乃至数々見擯
出 安楽行品云一切世間多
怨難信 此等は経文には候へ
ども 何世にかゝるべしとも
しられず 過去の不軽菩薩
覚徳比丘なんどこそ身
にあたりてよみまいらせて
候けるとみへはんべれ 現在
には正像二千年はさてをき
ぬ 末法に入ては此日本国には
本紙冒頭からの経文は前5紙終わりに記述のある
譬喩品、続く法師品、勧持品、安楽行品と、当然といえば当然なのだが、700年以上前の経文の引用が、現在のデータベースと一致する。これは漢文訳として固定されたものを正確に暗誦伝承する伝統があったらばこそだろう。近現代のように安直に時代の言葉にしていれば、こうはならなかった。この伝統は今後も厳守されることを願う。
些少であるが、日蓮が使用する経釈でデータベースにないものがある。しかし、これは日蓮が勝手に捏造したりしたものではないと思う。本紙のような正確な転載を見ると、日蓮当時に存在して現在に伝わらないものがあったのだと思う。こうした点における安易な日蓮批判は慎みたい。

第六紙
見有読誦書持経者
軽賤憎嫉而懐結恨
法師品云如来現在猶多怨
嫉況滅度後 勧持品云
加刀杖乃至数々見擯
出 安楽行品云一切世間多
怨難信 此等は経文には候へ
ども 何世にかゝるべしとも
しられず 過去の不軽菩薩
覚徳比丘なんどこそ身
にあたりてよみまいらせて
候けるとみへはんべれ 現在
には正像二千年はさてをき
ぬ 末法に入ては此日本国には
§
本紙冒頭からの経文は前5紙終わりに記述のある
譬喩品、続く法師品、勧持品、安楽行品と、当然といえば当然なのだが、700年以上前の経文の引用が、現在のデータベースと一致する。これは漢文訳として固定されたものを正確に暗誦伝承する伝統があったらばこそだろう。近現代のように安直に時代の言葉にしていれば、こうはならなかった。この伝統は今後も厳守されることを願う。
些少であるが、日蓮が使用する経釈でデータベースにないものがある。しかし、これは日蓮が勝手に捏造したりしたものではないと思う。本紙のような正確な転載を見ると、日蓮当時に存在して現在に伝わらないものがあったのだと思う。こうした点における安易な日蓮批判は慎みたい。
−7紙につづく−
2025年05月03日
日蓮墨筆を読む(19) 転重軽受法門�ィ技�
−4紙よりつづく−

第五紙
所言如所行と云云 理即
名字の人は円人なれども
言のみありて真なる事
かたし 例せば外傳の
三墳五典等は読人かずを
しらず かれがごとくに世
ををさめふれまう事
千万が一もかたし されば
世のをさまる事も又
かたし 法華経は紙付に
音をあげてよめども 彼の
経文のごとくふれまう
事かわたく候か 辟喩品云
本紙は、自分にとっては難読だった
前の4紙を翻刻したのは、なんと2009年の秋で16年も前のことだ。この末が「所言」なので、続けて読めば、本紙頭の「所言」もすんなり、読めるところ、少し貌の違う“所”で躓いた
また、末行「事かわたく」で引っ掛かる。山中對照録を覧ると“かわ”は“わか”で「事わかたく」で、さらに神保對照録では「事かかたく」となっている。
“かたく”が“難く”なのだろうが、“わ”を“か”とするのはどうか。“わ”は“は”ではないか。つまり「事は難く」だろうか
しかし、日蓮は「〜は」は常に「〜ハ」と書くのが常であったから“わ”は如何にもおかしい
こんな次第で、先哲の翻刻も鵜呑みにできない…という意味でも難読だった

第五紙
所言如所行と云云 理即
名字の人は円人なれども
言のみありて真なる事
かたし 例せば外傳の
三墳五典等は読人かずを
しらず かれがごとくに世
ををさめふれまう事
千万が一もかたし されば
世のをさまる事も又
かたし 法華経は紙付に
音をあげてよめども 彼の
経文のごとくふれまう
事かわたく候か 辟喩品云
§
本紙は、自分にとっては難読だった
前の4紙を翻刻したのは、なんと2009年の秋で16年も前のことだ。この末が「所言」なので、続けて読めば、本紙頭の「所言」もすんなり、読めるところ、少し貌の違う“所”で躓いた
また、末行「事かわたく」で引っ掛かる。山中對照録を覧ると“かわ”は“わか”で「事わかたく」で、さらに神保對照録では「事かかたく」となっている。
“かたく”が“難く”なのだろうが、“わ”を“か”とするのはどうか。“わ”は“は”ではないか。つまり「事は難く」だろうか
しかし、日蓮は「〜は」は常に「〜ハ」と書くのが常であったから“わ”は如何にもおかしい
こんな次第で、先哲の翻刻も鵜呑みにできない…という意味でも難読だった
−6紙につづく−
2025年05月02日
日蓮墨筆を読む(19) 転重軽受法門�。瓜�

第一紙
周利槃特と申は兄
弟二人なり 一人もありし
かば すりはんどくと申
なり 各々三人は又かくの
ごとし 一人来せ給へば三人
と存候なり
涅槃経に転重軽
受と申法門あり 先業
の重き今生につきず
して
転重軽受法門は2紙4紙を2009年に翻刻したが、1紙3紙を飛ばしていた
よって昨晩3紙は補ったのだが、そうなると1紙を遣り残すのは如何にも、と思い手がけた次第
さて
冒頭「周利槃特」だが
1行1字「修」の傍らに明らかに他筆と思える「周」、左傍らに“止”、對照録では止点というのだが、訂正を意味するのだろう
続きを「禾」としたが、用語として「利」だろうが禾偏のみ略したと判断
「般」は「槃」だろうが木が略される
誤字は「修」のみで、あとは略と見なしたい
4行「各々三人」とは末8紙にある「大田左衛門尉、蘇(曽)谷入道、金原法橋」を指すのだろうが、周利槃特に譬えられるのは気の毒のような、しかし、仏弟子に充てたとすれば、愚鈍を意味することでもないのか
−2紙へ−
日蓮墨筆を読む(19) 転重軽受法門��3紙
−2紙からつづく―

第三紙
(三
是一)
又付法蔵二十五人は 仏
をのぞきたてまつりては
皆佛のかねて記をき給
る権者なり 其中第十四
提婆菩薩は外道にころされ
第二十五師子尊者は檀
弥栗王に頸を刎られ
其外仏陀密多 龍樹
菩薩なんども多難にあへり
又難なくして 王法に
御帰依いみじくて 法を
ひろめたる人も
本書は『日蓮聖人真蹟集成』1巻に所載されてしかるべきだが、なぜか国立国会図書館デジタルコレクションには載らない
よって、わたしのHPに補っている
本書は2009年に2紙、4紙を翻刻したが、16年を経て、3紙を補った。時間の経過の割には学力が伸びていないことを反省する。

第三紙
(三
是一)
又付法蔵二十五人は 仏
をのぞきたてまつりては
皆佛のかねて記をき給
る権者なり 其中第十四
提婆菩薩は外道にころされ
第二十五師子尊者は檀
弥栗王に頸を刎られ
其外仏陀密多 龍樹
菩薩なんども多難にあへり
又難なくして 王法に
御帰依いみじくて 法を
ひろめたる人も
§
本書は『日蓮聖人真蹟集成』1巻に所載されてしかるべきだが、なぜか国立国会図書館デジタルコレクションには載らない
よって、わたしのHPに補っている
本書は2009年に2紙、4紙を翻刻したが、16年を経て、3紙を補った。時間の経過の割には学力が伸びていないことを反省する。
−4紙へつづく―
2025年04月22日
圭室文雄『明治維新の神仏分離政策』を読む
高井義悠さんから頂戴した圭室文雄『明治維新の神仏分離政策』を読む
殊に薩摩藩の廃仏毀釈はすさまじく、その後、仏教側は復興を果たせなかったが、浄土真宗が独り勝ちになったという分析
氏子は古来からあったと思っていたが、明治5年に檀家制度に代わって制定されたものであることも知った
還俗させ、兵士するという措置は憤りも覚えた
〇一部抜書
・国に数多く散在していた八幡社の神名を、これまでの八幡大菩薩から八幡大神や八幡宮に変えるように命じています。その理由としては、大菩薩は仏より低い位階であるということでした。つまり神を仏の風下に置いてはいけない
・寺院の付属物であった神社の独立をはかり、神社の神官を僧侶から神職に交代させていた
・明治3年(1870)には寺院の檀家制度に匹敵するものとして、全国各地の神社に氏子帳を作成させ氏子組織をつくらせています。明治5年(1782)の壬申戸籍では家ごとに氏寺と氏神(産土神)を記入させ、村単位での氏子組織を作らせています
・島津久光はまず廃仏毀釈に着手して藩財政を立て直そうとしました…僧侶は全員で2744名いましたが、全て還俗させるべき、としました。僧侶の身の振り方については、全員を四分野に均等に分け、一分野686名ずつとしました。第一に18歳〜40歳で健康な者は兵隊にすること、第二に学識ある者は教員(寺子屋)にすること、第三には農民・職人・商人に転職させること、第四に老僧は養育料を与えて生活を保証すること、などを提言しています
・明治元年3月…「僧侶は遊民なり、宜しく還俗して本貫に復すべし、梵鐘・仏具は改鋳して大砲をつくり、海防に役立てるべし」と布達
・明治元年11月には再度領内の全寺院(1066か寺)、全堂宇(4286堂)の廃止を命じ、また一方では全僧侶の還俗を命じています
・明治3年までに薩摩藩では廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、領内から全ての寺院がなくなり、僧侶も全員追放されました。薩摩藩は明治政府の中核であるという意識のためかとりわけ寺院への弾圧政策は激烈でした
殊に薩摩藩の廃仏毀釈はすさまじく、その後、仏教側は復興を果たせなかったが、浄土真宗が独り勝ちになったという分析
氏子は古来からあったと思っていたが、明治5年に檀家制度に代わって制定されたものであることも知った
還俗させ、兵士するという措置は憤りも覚えた
〇一部抜書
・国に数多く散在していた八幡社の神名を、これまでの八幡大菩薩から八幡大神や八幡宮に変えるように命じています。その理由としては、大菩薩は仏より低い位階であるということでした。つまり神を仏の風下に置いてはいけない
・寺院の付属物であった神社の独立をはかり、神社の神官を僧侶から神職に交代させていた
・明治3年(1870)には寺院の檀家制度に匹敵するものとして、全国各地の神社に氏子帳を作成させ氏子組織をつくらせています。明治5年(1782)の壬申戸籍では家ごとに氏寺と氏神(産土神)を記入させ、村単位での氏子組織を作らせています
・島津久光はまず廃仏毀釈に着手して藩財政を立て直そうとしました…僧侶は全員で2744名いましたが、全て還俗させるべき、としました。僧侶の身の振り方については、全員を四分野に均等に分け、一分野686名ずつとしました。第一に18歳〜40歳で健康な者は兵隊にすること、第二に学識ある者は教員(寺子屋)にすること、第三には農民・職人・商人に転職させること、第四に老僧は養育料を与えて生活を保証すること、などを提言しています
・明治元年3月…「僧侶は遊民なり、宜しく還俗して本貫に復すべし、梵鐘・仏具は改鋳して大砲をつくり、海防に役立てるべし」と布達
・明治元年11月には再度領内の全寺院(1066か寺)、全堂宇(4286堂)の廃止を命じ、また一方では全僧侶の還俗を命じています
・明治3年までに薩摩藩では廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、領内から全ての寺院がなくなり、僧侶も全員追放されました。薩摩藩は明治政府の中核であるという意識のためかとりわけ寺院への弾圧政策は激烈でした
2025年04月19日
平川彰『戒壇の原意』を読む
盥喇嘛さんお薦め
平川彰『戒壇の原意』を読む
ほんの少し抜き書き
・具足戒を授けるのは「サンガ」(教団)であつて、和尚とか戒師とかいうような「個人」ではない
・比丘は、和尚を指導者として修行する
・比丘になる前に、頭を剃つて十戒を受け、沙弥 sāmaṆeraになる。これを「出家」pabbajjā, pravrajyāa と呼んで、具足戒(upasampadā, 比丘になる儀式)と区別する。出家は和尚一人で授けることができる
・現前僧伽成立の根拠は地域的限界としてのシーマー(sīmā,界)にある。シーマーの廣さには定量はないが、「極大三由旬」と規されている。したがつてそれより大きくすることはできないが、小さいぶんにはいくらでも小さくすることができる。
シーマーの中には精舎が一つの場合もあるが、二つ以上の場合もある…共同生活の単位となるシーマーを、「布薩界」とよび、また「共住界」saṁvāsakasīmā ともいう。
・シーマーの中に四人以上の比丘が居るとき、僧伽が成立する
・僧伽の会議には、人数の條件と、界内の比丘が全員集合すること(病気等の時には、届出によつて欠席が認められる)との二つの條件がある
・upasampadāpadasīmāmaṇḍala
補:文中「秉」が使用されているが、この字を知らなかった
平川彰『戒壇の原意』を読む
ほんの少し抜き書き
・具足戒を授けるのは「サンガ」(教団)であつて、和尚とか戒師とかいうような「個人」ではない
・比丘は、和尚を指導者として修行する
・比丘になる前に、頭を剃つて十戒を受け、沙弥 sāmaṆeraになる。これを「出家」pabbajjā, pravrajyāa と呼んで、具足戒(upasampadā, 比丘になる儀式)と区別する。出家は和尚一人で授けることができる
・現前僧伽成立の根拠は地域的限界としてのシーマー(sīmā,界)にある。シーマーの廣さには定量はないが、「極大三由旬」と規されている。したがつてそれより大きくすることはできないが、小さいぶんにはいくらでも小さくすることができる。
シーマーの中には精舎が一つの場合もあるが、二つ以上の場合もある…共同生活の単位となるシーマーを、「布薩界」とよび、また「共住界」saṁvāsakasīmā ともいう。
・シーマーの中に四人以上の比丘が居るとき、僧伽が成立する
・僧伽の会議には、人数の條件と、界内の比丘が全員集合すること(病気等の時には、届出によつて欠席が認められる)との二つの條件がある
・upasampadāpadasīmāmaṇḍala
補:文中「秉」が使用されているが、この字を知らなかった
マーク・テーウェン『民俗宗教の概念化:ミャンマーのナッ信仰、ヒンドゥー教、神道』を読む
盥喇嘛さんお薦め
国際宗教同志会平成30年度第二回例会 記念講演
オスロ大学教授 マーク・テーウェン『民俗宗教の概念化:ミャンマーのナッ信仰、ヒンドゥー教、神道』を読む
「「ヒンドゥー教」という言葉は、インド起源の言葉ではなく、実は英語の「ヒンドゥーイズム」のほうが先にできました。「ヒンドゥー教」を意味する「ヒンドゥー・ダルマ」というサンスクリット語があるのですが、この言葉は先に創られた英語の「ヒンドゥーイズム」を翻訳するために後から創られた言葉です。日本語の「宗教」と同じように、幕末維新期に欧米から入ってきた「レリジョン」という概念を翻訳するために創られた言葉です。もちろん、よく探すと中国の古典の中に「宗」と「教」という漢字が並んでいることもありますが、そこで表されている言葉の意味は、いわゆる「宗教」のことではありません。同様に「ヒンドゥー・ダルマ」もよく探すとインドの古典の何処かに出てくるかもしれませんが、それは「ヒンドゥーイズム」から相当遠い意味で使われていたものを、新しく「ヒンドゥーイズム」の翻訳語として使い出したのです。」
「あらためて「神道と一番良く似ているのは何だろうか」と考えてみたのですが、私はチベットのボン教かなと思ったりもします。ボン教の専門家は「違う!」と仰るかもしれませんが、例えばチベット仏教はチベット語の影響が非常に強く、「インド由来ではない仏教を創ろう」という気概を持った宗教です。普遍的な仏教はあるのだけれど、チベットの神々は、その上にあるという発想…。そこだけが神道と似ているような気がします。異なるところもたくさんあるのですが…。」
国際宗教同志会平成30年度第二回例会 記念講演
オスロ大学教授 マーク・テーウェン『民俗宗教の概念化:ミャンマーのナッ信仰、ヒンドゥー教、神道』を読む
「「ヒンドゥー教」という言葉は、インド起源の言葉ではなく、実は英語の「ヒンドゥーイズム」のほうが先にできました。「ヒンドゥー教」を意味する「ヒンドゥー・ダルマ」というサンスクリット語があるのですが、この言葉は先に創られた英語の「ヒンドゥーイズム」を翻訳するために後から創られた言葉です。日本語の「宗教」と同じように、幕末維新期に欧米から入ってきた「レリジョン」という概念を翻訳するために創られた言葉です。もちろん、よく探すと中国の古典の中に「宗」と「教」という漢字が並んでいることもありますが、そこで表されている言葉の意味は、いわゆる「宗教」のことではありません。同様に「ヒンドゥー・ダルマ」もよく探すとインドの古典の何処かに出てくるかもしれませんが、それは「ヒンドゥーイズム」から相当遠い意味で使われていたものを、新しく「ヒンドゥーイズム」の翻訳語として使い出したのです。」
「あらためて「神道と一番良く似ているのは何だろうか」と考えてみたのですが、私はチベットのボン教かなと思ったりもします。ボン教の専門家は「違う!」と仰るかもしれませんが、例えばチベット仏教はチベット語の影響が非常に強く、「インド由来ではない仏教を創ろう」という気概を持った宗教です。普遍的な仏教はあるのだけれど、チベットの神々は、その上にあるという発想…。そこだけが神道と似ているような気がします。異なるところもたくさんあるのですが…。」
2025年04月17日
菅田正昭先生と少々話す:近代3人の日蓮者ほか
・日蓮者3人の丸山照雄

(スマホ写真なのでやや不鮮明)
『佛教タイムス』(2025.1.23-3064)からのインタビューで近代、日蓮に関わる3人を挙げられたという話
宮澤賢治、小島愛之助、そして、なんと丸山照雄
丸山先生と菅田先生の付き合いは深かった
過去に何度か
そんな話をうかがった
「下丸子文化集団」と“玉体”についてetc.
今回の記事では丸山先生を清水雅人・梅原正紀と併せて、近代三大宗教評論家とされ、その3人のエピソードを紹介されている
・川崎にある池上

(上記画像をクリックすると拡大)
日蓮寂荼毘の跡地に建つ本門寺は東京大田区池上
ところが神奈川県の川崎大師近隣に池上町と池上新町という地名があるのはなぜか、そんな話を『城南タイムス』(2025.4.6)で掲載
・十二天とは

(上記画像をクリックすると拡大)
東京都大田区中央のスーパーマーケット跡地から奈良朝から平安初期にかけての遺跡が発見されたという
はて、十二天とは、Grokで訊くと1帝釈天(東)2梵天(東北)3地天(東南)4毘沙門天(北)5伊舎那天(西北)6風天(西南)7水天(南)8火天(北東)9羅刹天(北西)10日天(南東)11月天(南西)12金剛夜叉天(中)との答え
記事に載る堤方十二天もそうなのか不詳だが、曼荼羅配置を想起させる
坂口安吾が住まっていたアパートは、堤方十二天の地に建っていたことを紹介されている
以上、東京都大田区の風土史に詳しい菅田先生ならではの話題
高井さんのリクエストをいただき、近く講演会を開催しようかと思っている
菅田先生だから、むしろ講談会といったほうがよいか

(スマホ写真なのでやや不鮮明)
『佛教タイムス』(2025.1.23-3064)からのインタビューで近代、日蓮に関わる3人を挙げられたという話
宮澤賢治、小島愛之助、そして、なんと丸山照雄
丸山先生と菅田先生の付き合いは深かった
過去に何度か
そんな話をうかがった
「下丸子文化集団」と“玉体”についてetc.
今回の記事では丸山先生を清水雅人・梅原正紀と併せて、近代三大宗教評論家とされ、その3人のエピソードを紹介されている
・川崎にある池上

(上記画像をクリックすると拡大)
日蓮寂荼毘の跡地に建つ本門寺は東京大田区池上
ところが神奈川県の川崎大師近隣に池上町と池上新町という地名があるのはなぜか、そんな話を『城南タイムス』(2025.4.6)で掲載
・十二天とは

(上記画像をクリックすると拡大)
東京都大田区中央のスーパーマーケット跡地から奈良朝から平安初期にかけての遺跡が発見されたという
はて、十二天とは、Grokで訊くと1帝釈天(東)2梵天(東北)3地天(東南)4毘沙門天(北)5伊舎那天(西北)6風天(西南)7水天(南)8火天(北東)9羅刹天(北西)10日天(南東)11月天(南西)12金剛夜叉天(中)との答え
記事に載る堤方十二天もそうなのか不詳だが、曼荼羅配置を想起させる
坂口安吾が住まっていたアパートは、堤方十二天の地に建っていたことを紹介されている
以上、東京都大田区の風土史に詳しい菅田先生ならではの話題
高井さんのリクエストをいただき、近く講演会を開催しようかと思っている
菅田先生だから、むしろ講談会といったほうがよいか
2025年04月13日
2025年04月09日
別府良孝『統一協会もしくは創価学会に協力した塑職者たち−協力聖職者問題の闇』を読む

カルト問題でお世話になっている別府良孝先生「カルト問題から考えるキリスト教社会倫理の課題」研究会における『統一協会もしくは創価学会に協力した塑職者たち−協力聖職者問題の闇」を読む
創価学会を統一協会と同等の宗教と社会の問題として論評されている点で実に価値がある内容だ
統一協会の協力する宗教者の実名を挙げた告発である
第一章:協力聖職者問題
第二章:統一教会に協力した聖職者たち
第三章:創価学会を警戒すべき理由
附録:創価学会の理解に必要な基礎知識
(ここで「いわゆる本門戒壇之大御本幕の真偽について」に詳しい。
とわたしの論考を紹介してくださっている)
曹洞宗龍潭寺住職
現代宗教研究会会長
別府良孝
異体字と悉曇文字(種子)
【異体字】 ☆異體字|梵字|一覧表
※以下、表記ができない漢字は数式記号を使って示した
・表記できる文字を使い例示
仁=イ*二,イ+二。二=仁-イ。圭=土/土。道=辶@首。侍=(仁-二)+寺
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※以下、表記ができない漢字は数式記号を使って示した
・表記できる文字を使い例示
仁=イ*二,イ+二。二=仁-イ。圭=土/土。道=辶@首。侍=(仁-二)+寺
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2025年04月07日
門屋温「書評 Mark Teeuwen & Fabio Rambelli.BUDDHAS AND KAMI IN JAPAN:Honji Suijaku as a combinatory paradigm」を読む
盥喇嘛さんお薦め門屋温「書評 Mark Teeuwen & Fabio Rambelli.BUDDHAS AND KAMI IN JAPAN:Honji Suijaku as a combinatory paradigm(テーラウエン&ラベッツリ編『日本の神と仏』)
現代の神道、取り分け、本地垂迹説はこの世界水準か
書評に採りあげている論文を備忘録に
(題名の邦訳はGrok3)
Irene H. Lin. From thunder child to Dharma-protector:Dōjō hōshi and the Buddhist appropriation of Japanese local deities(アイリーン・H・リン。雷の子から法の守護者へ:童子法師と日本の在地神の仏教的取り込み) 『日本霊異記』上巻第3「雷の憙を得て生ましめる子の強力在りし縁」に語られる元興寺道場法師譚を題材に、雷神の子が護法神となるメカニズムを分析
Allan Grapard. The source of oracular speech:Absence? presence? or plain treachery? The case of Hachiman Usa-gū gotaksenshū(アラン・グラパール。神託の言葉の源:不在か?存在か?それとも単なる裏切りか?八幡宇佐宮御託宣集の事例) 神吽の『八幡宇佐宮御託宣集』の分析を通して、「託宣」の持つ社会的メカニズムを明らかにする
Satō Hiroo:Wrathful deities and saving deities(佐藤弘夫:怒りの神々と救いの神々)
Mark Teeuwen. The creation of a honji suijaku deity: Amaterasu as the judge of the Dead (マーク・テーウェン「本地垂迹神の創造:死者の審判者としての天照大神」)
Iyanaga Nobumi. Honji suijaku and the logic of combinatory deities(伊永信美「本地垂迹と結合神の論理」)
Susan Blakeley Klein. Wild words and syncretic deities: Kyōgen kigo and honji suijaku in medieval literary allegoresis (スーザン・ブレイクリー・クライン「野卑な言葉と融合神:中世文学的寓意解釈における狂言綺語と本地垂迹」)
Bernhard Scheid. "Both parts" or "only one"? Challenges to the honji suijaku paradigm in the Edo period(ベルンハルト・シャイド「『両部』か『一つだけ』か?江戸時代における本地垂迹パラダイムへの挑戦」)
Lucia Dolce. Hokke shinto: Kami in the Nichiren tradition (ルチア・ドルチェ「法華神道:日蓮伝統における神々」)
Fabio Rambelli. Honji suijaku at work: Religion, economics, and ideology in pre-modern Japan(ファビオ・ランベッリ「本地垂迹の実践:前近代日本における宗教、経済、イデオロギー」)
Inoue Takami. The interaction between Buddhist and Shinto traditions at Suwa shrine(井上隆見「諏訪神社における仏教と神道伝統の相互作用」)
Irit Averbuch. Dancing the doctrine: Honji suijaku thought in kagura performances(イリット・アヴァーブーフ「教義を舞う:神楽公演における本地垂迹思想」)
以下、今後の参考にメモ
・黒田俊雄『顕密体制論』
・村山修一『本地垂迹』
・日本文化特殊論
現代の神道、取り分け、本地垂迹説はこの世界水準か
書評に採りあげている論文を備忘録に
(題名の邦訳はGrok3)
Irene H. Lin. From thunder child to Dharma-protector:Dōjō hōshi and the Buddhist appropriation of Japanese local deities(アイリーン・H・リン。雷の子から法の守護者へ:童子法師と日本の在地神の仏教的取り込み) 『日本霊異記』上巻第3「雷の憙を得て生ましめる子の強力在りし縁」に語られる元興寺道場法師譚を題材に、雷神の子が護法神となるメカニズムを分析
Allan Grapard. The source of oracular speech:Absence? presence? or plain treachery? The case of Hachiman Usa-gū gotaksenshū(アラン・グラパール。神託の言葉の源:不在か?存在か?それとも単なる裏切りか?八幡宇佐宮御託宣集の事例) 神吽の『八幡宇佐宮御託宣集』の分析を通して、「託宣」の持つ社会的メカニズムを明らかにする
Satō Hiroo:Wrathful deities and saving deities(佐藤弘夫:怒りの神々と救いの神々)
Mark Teeuwen. The creation of a honji suijaku deity: Amaterasu as the judge of the Dead (マーク・テーウェン「本地垂迹神の創造:死者の審判者としての天照大神」)
Iyanaga Nobumi. Honji suijaku and the logic of combinatory deities(伊永信美「本地垂迹と結合神の論理」)
Susan Blakeley Klein. Wild words and syncretic deities: Kyōgen kigo and honji suijaku in medieval literary allegoresis (スーザン・ブレイクリー・クライン「野卑な言葉と融合神:中世文学的寓意解釈における狂言綺語と本地垂迹」)
Bernhard Scheid. "Both parts" or "only one"? Challenges to the honji suijaku paradigm in the Edo period(ベルンハルト・シャイド「『両部』か『一つだけ』か?江戸時代における本地垂迹パラダイムへの挑戦」)
Lucia Dolce. Hokke shinto: Kami in the Nichiren tradition (ルチア・ドルチェ「法華神道:日蓮伝統における神々」)
Fabio Rambelli. Honji suijaku at work: Religion, economics, and ideology in pre-modern Japan(ファビオ・ランベッリ「本地垂迹の実践:前近代日本における宗教、経済、イデオロギー」)
Inoue Takami. The interaction between Buddhist and Shinto traditions at Suwa shrine(井上隆見「諏訪神社における仏教と神道伝統の相互作用」)
Irit Averbuch. Dancing the doctrine: Honji suijaku thought in kagura performances(イリット・アヴァーブーフ「教義を舞う:神楽公演における本地垂迹思想」)
以下、今後の参考にメモ
・黒田俊雄『顕密体制論』
・村山修一『本地垂迹』
・日本文化特殊論
マーク・テーウェン『神道(ジンドウ)から神道(しんとう)へ―ある概念の形成―」を読む
盥喇嘛さんお薦めマーク・テーウェン(Mark TEEUWEN)『神道(ジンドウ)から神道(しんとう)へ―ある概念の形成―』を読む
中国語神道が日本で仏教の用語として神道→神道→神道へと展開していった経緯を見事に論述されている。「ソシュール的トライアングル」を用いて考え出される文の運びは見事というほかない。
〇やや抜き書きをすれば
・用語の語義の展開を検討するとことによって、神学的概念としての神道の出現を露わに描き出すというものである。この論文において意図されているのは、この用語が鎌倉時代の間に「言葉」から「概念」へと変容した
・神道は仏教語として日本にもたらされのであり、そこでカミは非仏教的な土着の神々を指し示すものとされていたと論じた。そして11世紀頃にこの語は、本地垂迹の枠組において、カミは仏の化身であるという多少なりとも固定された文脈を獲得し、そこでこの言葉は仏教的言説の一部となり、その用法は固定されていくことになる。しかし、12世紀後半以降、この語に根本的に新たな意味が与えられることになる。それはそれまでのものとは異なり、その数世紀前から日本において使用されてきていた仏教語の同音異義語である中国語の神道という語から引き出された可能性を持つ。この新たな用語は『易経』に由来するものであり、天地の生成と、また混沌にまつわる諸々の道教的な思想や実践とつながりを持つものであった。日本において、それらの観念は本覚思想へと収束し、またこれが概念としての神道の発展の基礎を形作ることになるのである。
・神道という用語の用例がきわめて孤立したものであるということである。これら以外に日本書紀の中に神道という言葉は登場せず、その続編である浩瀚な『続日本紀』の中には、ただ一度だけしか現れない。そして、同時代における他の公的な文書やあるいは公的に編纂された文書には全く登場しない――『古事記』、『万葉集』、そして『風土記』には全く用例がない。公的な文書についていえば、実にこの語はきわめて稀なものであったのである。
これらの事実からは幾つかの異なる結論が引き出される。おそらく最も一般的なものは、この用語が『日本書紀』においてのみ見られるのは、それが外交における専門用語として見なされるべきであるからということになる。こうした見方では、この言葉が『日本書紀』においてのみ用いられたのは、それが外国(中国)の外交官が目にすることを念頭に置いて著された公的な文書であるからだということになる。そこで神道は、カミの血を引く天皇をその長とする新たな日本の国家的アイデンティティを表現するために発明された政治的な用語であった。
しかし私自身の見解は異なる。まず第一に、この時期における日本人は、天皇の権力は、天皇が土着の神々の子孫であり、またそれらを支配しているということに由来するという修辞が中国人に感銘を与えると信じることができるほど単純な手法で外交を行っていたわけではなかった。この種の修辞は、明らかに対外的なものというよりは、むしろ国内的な影響を意図して用いられていた。更に、神道という用語が『日本書紀』の日本仏教の成立を取り扱う箇所でのみ用いられていることと、おそらく仏僧によって用いられたということは、偶然の一致ではあり得ない。このように見るならば、外交における専門用語というよりも、この語を仏教用語として考える方が論理的であるように思われる。…仏教用語として考える方が論理的である。そしてこの見解は、八世紀後半以降の早い時期における日本仏教の文書においてこの語が比較的頻繁に用いられているという事実によって補強される
〇和語の読みについても正確に記される
天皇、仏法、惟神、文史(儒教)、愛、生國魂社など
中国語神道が日本で仏教の用語として神道→神道→神道へと展開していった経緯を見事に論述されている。「ソシュール的トライアングル」を用いて考え出される文の運びは見事というほかない。
〇やや抜き書きをすれば
・用語の語義の展開を検討するとことによって、神学的概念としての神道の出現を露わに描き出すというものである。この論文において意図されているのは、この用語が鎌倉時代の間に「言葉」から「概念」へと変容した
・神道は仏教語として日本にもたらされのであり、そこでカミは非仏教的な土着の神々を指し示すものとされていたと論じた。そして11世紀頃にこの語は、本地垂迹の枠組において、カミは仏の化身であるという多少なりとも固定された文脈を獲得し、そこでこの言葉は仏教的言説の一部となり、その用法は固定されていくことになる。しかし、12世紀後半以降、この語に根本的に新たな意味が与えられることになる。それはそれまでのものとは異なり、その数世紀前から日本において使用されてきていた仏教語の同音異義語である中国語の神道という語から引き出された可能性を持つ。この新たな用語は『易経』に由来するものであり、天地の生成と、また混沌にまつわる諸々の道教的な思想や実践とつながりを持つものであった。日本において、それらの観念は本覚思想へと収束し、またこれが概念としての神道の発展の基礎を形作ることになるのである。
・神道という用語の用例がきわめて孤立したものであるということである。これら以外に日本書紀の中に神道という言葉は登場せず、その続編である浩瀚な『続日本紀』の中には、ただ一度だけしか現れない。そして、同時代における他の公的な文書やあるいは公的に編纂された文書には全く登場しない――『古事記』、『万葉集』、そして『風土記』には全く用例がない。公的な文書についていえば、実にこの語はきわめて稀なものであったのである。
これらの事実からは幾つかの異なる結論が引き出される。おそらく最も一般的なものは、この用語が『日本書紀』においてのみ見られるのは、それが外交における専門用語として見なされるべきであるからということになる。こうした見方では、この言葉が『日本書紀』においてのみ用いられたのは、それが外国(中国)の外交官が目にすることを念頭に置いて著された公的な文書であるからだということになる。そこで神道は、カミの血を引く天皇をその長とする新たな日本の国家的アイデンティティを表現するために発明された政治的な用語であった。
しかし私自身の見解は異なる。まず第一に、この時期における日本人は、天皇の権力は、天皇が土着の神々の子孫であり、またそれらを支配しているということに由来するという修辞が中国人に感銘を与えると信じることができるほど単純な手法で外交を行っていたわけではなかった。この種の修辞は、明らかに対外的なものというよりは、むしろ国内的な影響を意図して用いられていた。更に、神道という用語が『日本書紀』の日本仏教の成立を取り扱う箇所でのみ用いられていることと、おそらく仏僧によって用いられたということは、偶然の一致ではあり得ない。このように見るならば、外交における専門用語というよりも、この語を仏教用語として考える方が論理的であるように思われる。…仏教用語として考える方が論理的である。そしてこの見解は、八世紀後半以降の早い時期における日本仏教の文書においてこの語が比較的頻繁に用いられているという事実によって補強される
〇和語の読みについても正確に記される
天皇、仏法、惟神、文史(儒教)、愛、生國魂社など


昭和29(1954)年、東京都と神奈川県の境に流れる多摩川、瓦斯橋での父と母
