2006年12月20日

日蓮と梵字 (3)

日蓮と梵字 (1) (2) からつづく
(1)で日蓮の花押がバンを象ったものである説を記した。権威ある山川智応の用いた説、その後の研究者も多く同意した。すると、解釈は、固着し‘事実’として扱われるようになる。わたしは、こんな構造に常に危機感を懐く。解釈を信じて、時間を無駄にしたわたしは、それがどんな権威者の言であれ、自分が納得できなければ頷かない。

■ 日蓮の花押は摩尼宝珠か

「日蓮花押は、たしかにバンに似ている。しかし、その後につづく、扇形の造形は、では意味はないのだろうか…」、そんなことをぼんやりと考えてきた。
資料を求め近代デジタルライブラリーで検索をした。『悉曇連声伝授切韻口決』という小編が引っかかる。この5頁の最後の行「光明真言」としてマニと記された2文字の梵字に目が釘付けになった。マニとは摩尼宝珠のことである。
日蓮は若き日、虚空蔵求聞持法を修し、明星の如き宝珠を、袂にたしかに受け取ったという。
「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給りし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思食けん。明星の如なる大宝珠を給て右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗並に一切経の勝劣粗是を知りぬ。」とは、身延曽存の書『清澄寺大衆中』の一節である。
花押と摩尼梵字2文字のマニを横に並べて、花押と比較したのが、左の図である。一つの花押と結晶する連綿とした日蓮の筆はさておく。しかし、これはまさに摩尼宝珠の梵字を象ったのではないのか。日蓮が虚空蔵菩薩から受け取った宝珠を花押に籠めた…。「又日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持ざらん者をば御用あるべからず」(一谷入道御書)の一節が俄然、重みを増す。
花押はしかし、まだ、いくつかの要素をもっているのかもしれない。けれど、わたしは、花押は摩尼宝珠を象ったものに違いないと、半ば確信を懐いた。
― つづく ―

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