
先に『日蓮上人/日興上人』合本を引っ張り出した
*こともあって、改めて熊田葦城著『日興上人』(復刻版)を手に取った。
奥付を見ると、「大正14年5月8日」「藤波書店」からの発刊となっていた。5月8日は妙海寺大漫荼羅(
93)だが、これは単なる偶然だろう。一方、発行所の‘藤波’は由井幸吉(一乗)著『日蓮大聖人』の「藤波商店」と同一だろうか。
巻頭に「唯白蓮」という大石寺第58代日柱氏の揮毫、常在寺蔵<248>日興本尊の写真が載る。すっかり、大石寺信徒として信頼を克ち得た熊田の風景を感じる。
■ 熱原信徒の切頚は弘安3年4月8日
意外だったのは、熊田は熱原信徒の「切頚」を弘安3年4月8日としていることだった。
「時しも弘安三年四月八日、今日は釈尊降誕の聖節なるに、此れは又何の悪日ぞ、神四郎、弥五郎、弥次郎の三人は、発頭人と云ふ
廉を以て、哀れ刑場に引き出されて、其首を刎ねられ畢んぬ。
正応五年四月八日は、神四郎等の十三回忌辰であった。日興上人は此時は既に富士の大石寺に居られたが、神四郎以下三人の為に、寺中に地を卜し、墓を建てゝ、懇に其霊を弔はれた」(P68)
4月8日は大石寺僧俗には馴染みはないが、仏生日である。この記述が事実だとすると、念仏・阿弥陀如来の信者であった頼綱は、日を選びにえらんだ。わざわざ釈迦牟尼仏のお生まれの日に、刑を断行したのだ。見せしめこれに過ぎるところはない。何と惨い話だろうか。しかし、このことは、当時の日蓮教団が、等しく釈迦如来の信仰に立脚していた証左でもある。八日講は日蓮の遺文に見られ、また、日興も仏生日に多くの本尊を書写していることからも窺い知れる。
十三回忌の翌年、しかし、この頼綱一族は謀反を誅され滅亡する。
このことを日興は、弘安3年から30年後の4月8日、本尊を書写して、これを書き留めている。

「徳治三年卯月八日
駿河國富士方熱原郷住人神四郎号法華衆為平左衛門尉被切頚三人之内也 左衛門入道切法華衆頚之後経十四年企謀反間被誅畢 其子孫無跡形滅亡畢」
右図は、その北山本門寺蔵<81>日興本尊である。
*
*著作権保護に関する記述:『日興上人御本尊集』平成8年3月8日発行/編纂 日興上人御本尊集編纂委員会(代表 池田令道)/発行 興風談所 P137
ここで日道作という『御伝草案』を挙げれば「熱原の法華宗二人は頚を切れ畢、その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばす」という。
頚を切られてしまったことに感じ入り、本尊を遊ばしたという文章である。熊田氏の記述に従えば、この本尊の図示は弘安3年4月8日以降というこことになる。しかし、堀日亨氏は、この彫刻の日付を「弘安2年10月12日と明記している。
このあと、熊田氏は「板本尊と云ふは、丈四尺六寸余、幅二尺一寸余の楠に、大聖人
親ら筆を執って認められたもので、施主弥四郎国重とあるのは、熱原法難の中心人物であった神四郎の前名であらうと云うことである」(P77)と記す。
さらに「此大本尊は、大聖人の宗旨建立より二十七年目、愈々出世の本懐を遂げられた弘安二年十月十二日を以て、認め給ふたものであって、特に本門戒壇の四字を明記せられあるは紛ふ方なき本門戒壇に安置し奉るべき閻浮総相の大曼荼羅である」(P77)
しかし、弘安2年10月12日については「ソコで(日興)上人が筆を執って起草せられた上、急使を身延に飛ばして、日蓮大聖人へ検閲を請はれた、大聖人が一二の添削を加えて、又上人の元に戻されたのが、十月十二日のことであった」(P59)という記述にしか当たれない。
真蹟は現存しないが、「大体此の趣を以て書き上ぐべきか。但し熱原の百姓等安堵せしめば、日秀等別に問注有るべからざるか…」で始まる『伯耆殿御返事』と題される手紙がある。これが真筆であれば、この書に、添削を加えた『滝泉寺申状』を付け、日興に送ったのだろう。
該当する事柄はこれだけだ。熊田氏の思惟を辿ると『滝泉寺申状』をもって本懐とするという時系列になる。
文は「出世の本懐を遂げられた弘安二年十月十二日を以て、認め給ふた」というので、本尊を認めたことを出世の本懐であるとは書いていない。逆である。本懐を遂げたから認めたという。
では、本懐とは何であろうか。釈然としない。
それでも、確認できたことは、弘安3年4月8日処刑とするほうが、日興の本尊の記述等と整合性があること。となると、弘安2年10月12日という日が、さらに釈然としなくなること。そして、弥四郎国重が神四郎であるとする節は『悪書「板本尊偽作論」を粉砕す』より先行していることだった。
Posted by saikakudoppo at 19:46│
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