2009年10月15日

日蓮墨筆を読む 雑感(1) 改めて手書き

ここのところ、日蓮の真蹟、墨筆を読んだ備忘録をアップしている。
改めて、日蓮の肉筆を見ると、実に味わいがある。

わたしが物書きになったのは、かれこれ20年前。当時は、まだ、原稿用紙に手書きでマスを埋めていた。それをかなり早い時期で、データで、当時はフロッピーで入稿して、重宝がられたものだった。そうこうしているうちに、データ入稿が主流となっていった。
 
昭和の時代から、わたしは手紙はワープロ打ちで出していた。その頃、手紙は手書きで、といった類の文章はよく眼にしたものだった。
 
いまでは年賀状も、パソコンが主流となった。
 
そうした先端で、物書き・編集をやって来たのだが、いまになって、日蓮の墨筆を振り返り、少しばかりノスタルジアに浸る。
 
人類が手書きで文字を扱うようになって、いったい、どれくらいの時間が経過したのだろう。たぶん、数千年というスパンである。つまり、数千年間、文字は手で書かれてきた。もちろん、石に刻むなどのこともあったが、これとて、手作業である。
 
しかし、わたしが物書き編集に携わって20年、その間に手書きが廃れ、パソコン入力が取って代わった。はっと気が付いたのだが、まさに数千年、変わらなかった時代を、いま跨いだのだ。
 
数千年、変わらなかった手で文字を書く時代から、機械で字を打つ時代を共に跨いだ。たぶん、近い将来、今度はキーボード入力も廃れ、音声からとか、また、新たな入力方式へと変わっていくかも知れない。
 
思えば、わたしが社会に出た頃は、ポケットベルが全盛だった。いまの若い人びとは、この機器を知らないだろう。やがて、PHPが先行し、あっという間に携帯電話が普及した。インターネットもまだ普及していなかった。やがて、ネットは当たり前となり、携帯電話は、単に電話をすることから、メールを打つという新機能が付加された。スチール撮影機能が付いたかと思えば、いまでムービーまで撮れる。
 
字を書くことは極端に減り、ペーパーレスが、どんどんと進んだ。
木材資源という点からすれば、これはよかった。
 
しかし、手書き、それも日本で数百年来、培われた墨筆文化。
ただ、過去の遺物にしてしまうのは、なんだか惜しい気がしている。
少なくとも、日蓮の考えを文章から斟酌しようとするのであれば、墨筆は、活字化された活字の、数倍、いや、数十倍の情報量がそこに息づいているからだ。

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