2011年02月17日

彰往考来師頂戴資料(5)寺尾英智著『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』

- (4) からつづく -

寺尾英智著『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』(中尾堯編『鎌倉仏教の思想と文化』(吉川弘文館298頁所載)。

彰往考来師の資料のご呈示は心憎いばかりで、拝読して、起こる疑問が次の資料で解決する。するとそれに基づく過程はどう立つかと思念は連続する。単に学究者であるばかりではなく、秀でた師徳も有すると敬服する。

先の真鍋俊照著『金沢文庫本建長6年写の「五輪九字明秘密釈」について』を拝読し、以下のような疑問が次々と沸く。

建長3年、日蓮は『九字秘釈』はいったいどこで書写したのか。
そのわずか、3年後、「清澄山住人」として、日フーン(吽)が『九字秘釈』を写している。

この両写本はどのような関係にあるのか。清澄寺は若き日蓮が住した寺である。しかし、日フーンが写した建長6年には、日蓮は鎌倉にいた。日蓮と日フーン、両写本には関係がないのか。まず、第1の疑問

不動愛染感見記はいったいどこで書かれたのか。
『五輪九字明秘密釈』との関係はどうであろうか。

修行が神秘体験が経験する場所は庶民が市をなす鎌倉の一隅、草庵のこととは思えない。しかし、従来説では、日蓮は建長5年の清澄寺の説法で所を追われ、翌6年には鎌倉にいることとされてきた。しっくりしない。第2の疑問

不動愛染感見記は虚空蔵求聞持法と関係はないのか。
では、この修法を日蓮は、いつ行ったのか。そもそも虚空蔵求聞持法とはどのようなことをするのか。第3の疑問である。
§


まず、いきなり脱線するが、『五輪九字明秘密釈』の著者は覚鑁と表記される。しかし、これは中世から現代に通ずる漢字文化上の都合であって、たぶん、覚バン(バン)と、漢梵両用で表記するのが正しいのではないか。金沢文庫蔵『五輪九字明秘密釈』書写者名である日フーンの名を見て、ふとそう思った。そんなことは当然。研究者の失笑が聞こえそうだが、懼れず備忘録に記す。

上古、文章は漢文で記した。後にかな・カタカナが混在する。こうした有様は現代にまで及ぶ。しかし、その歴史経緯のなかで、漢字文化圏における密教の現場では、漢字と梵字が混在して用いられる。『五輪九字明秘密釈』は、まさにそうした一書である。この習慣は日本庶民一般社会では根付かなかった。

しかし、『五輪九字明秘密釈』を写した日蓮は、まさに漢梵両用文化圏の一人だった。不動愛染を梵字で記す日蓮漫荼羅が誕生したのは必然的なことであったことになる。

§


第1の疑問について

寺尾師は、複数ある『五輪九字明秘密釈』写本を対校し、その関係を分析している。取り分け、日フーン写本が日蓮写本をさらに写したものであることを突き止めている。この研究は素晴らしい。

こうした優秀な先生が、今年('11)4月から立正大学で教鞭を執られることは、まことに有意義である。また、立正大学は、日蓮教学の拠点として、今一度、蘇生して欲しいと念願する。

寺尾師は言う、日蓮は建長6年には『五輪九字明秘密釈』を持して清澄寺を本拠としていた。まだ退出はしていなかった。その日蓮の許可をもってさらに書写をしたのが日フーンであると。

では、写本は清澄寺に留めて、日蓮は鎌倉にいた可能性はないのだろうか。こうした灌頂に関わる重書はしかし、置き去りにすることは考えづらいということなのだろうか。この点が、寺尾師の論攷から読み取れなかった。爾の後、写本は寂澄の所蔵となる。他筆で「寂澄」と記されることから明らかだが、では、どのような経緯だったか。この点も含めて、いま少し詳しく知りたいと思った。

こうした灌頂に関わる重要写本を置き去りにして、勝手に写させる。そうした矜持のない話はないのかも知れない。教える側・習う側の関係で所持本の書写をするのであれば、疑問の点は一々に教示を受けながらが望ましいからだ。

この「日フーン」という名前は引っかかる。梵字が名前の文字にあることばかりではない。日文字を冠しているではないか。日蓮に許されて、その膝下にあって、所持本の書写をする。さらに日文字を冠した名前を持つ。ならば、この人物は日蓮の弟子ではないのか。しかし、顕教の弟子ではない。梵字名を持つ以上、密教の弟子ということにならないか。

顕密兼学は、伝教以来の学風である。けれど、顕教・法華経の行者と仰がれる日蓮を密教で解釈することを、門下は畏れてきた。しかし、覚バンの『五輪九字明秘密釈』という密教書釈を写し、虚空蔵求聞持法を修し、さらには不動愛染感見記を書く。のちに『大日経』の用句である“漫荼羅”を選んで図す。そこには不動愛染を梵字で記すのみならず、花押を梵字で表象し秘事を籠める。こうした有様は顕教ではない。密教である。ならば、密教には密教の弟子がいたところで不思議はない。生涯を通じてというより、鎌倉に進出する前夜、少なくとも清澄寺に住する日蓮とは、そうであったのではないだろうか。

第2の疑問について

寺尾師は当論攷のなかで、『吾妻鏡』と『災難興起由来』その他の遺文との考証から、建長8年と日蓮鎌倉進出の時期であると結論している。つまり、不動愛染感見記は、鎌倉市中で記したのではなく、いまだ清澄寺にあった時の出来事であったことになる。腑に落ちる。

第3の疑問について

虚空蔵求聞持法とどのような修法か。また、日蓮はいつ行ったのか。不動愛染感見記との関連は?
この疑問に応じた資料呈示が、実に次の宮川良篤師が記す『日蓮聖人に見る虚空蔵菩薩求聞持法の一考察』の論攷テーマである。

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○以下、寺尾英智著『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』おわりP308から転載

 日蓮が開宗前の建長3年に書写した『五輪九字秘釈』の写本について、本文の特徴、諸写本との異同などをめぐって検討を加えてきた。そこで、改めて本稿で指摘した点についてまとめてみよう。

 日蓮真蹟本は書写年次が最も古い写本であるばかりでなく、本文には諸本には見られない独自の部分があり、欠落している部分も見られるなど、仁和寺本をはじめとする代表的な諸本とは系統を異にすることが明らかとなった。

 日蓮真蹟本と時期を接する建長6年9月3日に書写された金沢文庫本は、本文の特徴から、日蓮真蹟本を書写したものであることが判明した。この結果、同日における日蓮の清澄寺在住が確実となり、建長5年4月28日の開宗宣言後まもなく清澄寺を退出して鎌倉に進出したとの従来の日蓮伝は、再検討される必要に迫られた。

 建長6年の清澄寺在住を前提にした場合、『災難興起由来』に示される建長8年8月こそが日蓮の鎌倉進出の時期であると考えられる。なお、鎌倉進出の時期については、東条景信との間にあった対立抗争の問題、下総在住の富木常忍との関係など、さらに検討すべき問題も多い。それらについては後日の課題としたい。

鎌倉仏教の思想と文化
2002年(平成14)12月10日 第1刷発行
編 著 中尾堯
発行者 林秀男
発行所 株式会社吉川弘文館
©Tahashi Nakao 2002 Printed in Japan
ISBN4-642-02816-1


- (6) につづく -

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