2011年02月18日

彰往考来師頂戴資料(6)宮川了篤著『日蓮聖人にみる虚空蔵菩薩求聞持法の一考察』

- (5) からつづく -

宮川了篤著『日蓮聖人にみる虚空蔵菩薩求聞持法の一考察』(小松邦彰先生古稀記念論文集『日蓮教学における源流と展開』山喜房佛書林183頁所載)

先の寺尾英智著『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』項において、第3の疑問として、「虚空蔵求聞持法とどのような修法か。また、日蓮はいつ行ったのか。不動愛染感見記との関連は?」と問を発てた。
宮川良篤師の論攷は、この疑問にばかりではなく、多くの答えを与えてくれた。

第3の疑問について

虚空蔵求聞持法とは、どのような修法かという点について、当論文に詳しい。ここに一々に転載したところだが、繁くなるので載せないこととする。

では、日蓮は修法をいつ行ったか。
遺文から探る限り、具体的に「虚空蔵求聞持法を修した」といった記述は見られない。しかし、宮川師は「本稿で『不動・愛染感見記』『伯耆公御房御消息』等の遺文を考察し、日蓮と求聞持法の関係を明らかにしようと試みる」(P188)として論攷を進められている。
・『伯耆公房御消息』と求聞持法

『不動・愛染感見記』と求聞持法との関連は、何となく、想像できる。だが、『伯耆公御房御消息』を挙げることは、意味を採りかねた。しかし、師の解明を経、大いに納得できるところとなった。この点を先ず、忘れないうちに、先に記してしまおう。

「『伯耆公房御消息』…ここで求聞持法と関係ありとする文は、「明日寅卯辰の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給い候」の箇所のみである。求聞持法の口伝の一つにあげられるものに、閼伽水事がある。『覚禅鈔』では「口云。閼伽水行者汲之。(中略)寅時以前不汲」と説き、『渓嵐拾葉集』では
  一。閼伽水事。示云。求聞持法水作法最極秘事也。灌頂一箇大事有之口傳云云(中略)一。取水時分事 示云。丑者龍神吐時分也。仍難陀跋難陀二龍居2須弥最低大海底1也。故スレハ大海水生波音発
 と説明している。以上によって判る如く、求聞持法の秘事である、取水の刻限を指定しているのである。これは日蓮自身が求聞持法を修した経験の証左といえよう」(P204)

『伯耆公房御消息』は、定本番号:428、祖寿:61、系年:弘安5(1282)著作地:身延、真蹟:日朗代筆、正本富士大石寺蔵である。日朗代筆であるため、日蓮真蹟とは考えず、内容についてよくよく吟味したことはなかった。このような所に、しかし、“ツボ”があるものだと思ったものだ。

・虚空蔵から宝珠を授かった時期

宮川師は「日蓮は12歳の時から毎日作法次第に準じ、虚空蔵菩薩へ供養を捧げ、時には求聞持法を修したであろう。それ故に虚空蔵菩薩から智慧の寶珠を授かるという、顕祈顕応とも云うべき原体験を得た…虚空蔵菩薩が現前に高僧となって現れ、智慧の寶珠を袖に授けたのである。時に日蓮16歳の出家の年とみたい」(P199)とする。

では、12歳から16歳の間に、求聞持法をただ1度修したとするのが宮川師の見解か。そうではないようだ。

「真言宗中興の祖といわれている真言宗信義派の開祖で伝法院流の祖と仰がれる覚鑁(1095〜1143)をもってしても8回目で結願を迎える程の難行」(P187)と例を引く。つまり、日蓮も、ただ一度で満願したのではないと言うのだろう。

師は、虚空蔵菩薩が16歳の日蓮に寶珠を授けたとしたあとに、33歳の書である不動愛染感見記を検討する。実に16年の歳月の隔たりがある。その間、日蓮は何度となく、求聞持法を修す。そして、建長6年正月に、これを成就する。そして、書されたのが不動愛染感見記であると結論される如くである。

・建長6年正月、日蝕と月蝕の意味

近代、天文学上の計算から、旧暦の建長6年元旦、つまり新暦でいえば1254年1月21日に日蝕はなかった。そのために感見記には疑義があるという人もある。しかし、宮川師は佐藤政二著『暦学史大全』上巻「第2編・第1章、鎌倉時代から江戸時代初期までの暦学の沿革について」を取り上げて論攷されている。「1日(朔日)は毎月日蝕であった事が判り、15日は月蝕」(P203)という当時の捉え方を挙げる。

愛染感見記に「元旦」(朔・1日)というのは日蝕(䖵)、不動感見記に15日から17日(望)というのは月蝕を意味する日付という解釈である。

換言すれば、鎌倉時代当時、盛んだった求聞持法は、日蝕月蝕を何年も待つことなく、1日・15日を満願日として修されていたことを意味するのだろう。日蓮もまた、その慣例に倣ったことになる。

宮川師は、不動愛染感見記の存在こそ、日蓮が求聞持法を修した証拠の一つであるとする。腑に落ちる。

師は小結として、以下のように記す。

「日蓮自身が求聞持法を修した行者だったが故に、『伯耆公御房御消息』に見える取水の刻限まで指摘できるのである。さらに『不動・愛染感見記』はまさに求聞持法を修した結果であろう。この『不動・愛染感見記』は筆者(宮川)に疑問を残してくれた。疑問点は建長5年4月28日に清澄山で立教開宗宣言をしているのにも拘わらず、翌6年に法華経に説示されていない不動・愛染を感得し、しかも図絵にしたのか。これは同時に開宗後、日蓮は鎌倉に行ったという日蓮伝を覆すことになる。開宗後、日蓮は清澄山に翌6年6月まで居たとするのは推察することは少々冒険であろうか」(P206)

先の『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』では寺尾英智師は、日蓮の鎌倉進出を建長8年とした。日付の相違はあるが、宮川師もまた、従来説に疑問を呈している。

・「日蓮授新佛」について

わたしは宮川説には齟齬を来すことがあると思う。以下の点である。
感見記には「日蓮授新佛」と書かれている。訓読すれば「日蓮は新佛に授ける」ととなる。しかしそうなると、いくつか疑問が生じる。そもそも求聞持法の結果、感見記が生じたのであれば、日蓮が授けるというのはおかしいではないか。

感見記が求聞持法満願を証する書だとしよう。
新佛とは新発意菩薩、新たに灌頂することと思われる。
感見記は、日蓮が新たに灌頂をしたというのである。
ならば、意味するところはこうではないか。
つまり、日蓮の弟子に当たる者が、建長6年6月に求聞持法を満願成就した。それを期して、日蓮が密教灌頂をした。

そんな弟子がいたのかと、疑問は生じる。だが、この建長6年、日蓮から密教灌頂を受けたおぼしき人物が、一人だけ思い浮かぶ。先の寺尾英智師の『日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』で言及される日蓮写本『五輪九字明秘密釈』を、日蓮の許で、清澄寺で写した日フーン(吽)である。文献に遺る人物で当て嵌めれば、他にはいない、もちろん、これはまったくの憶測に過ぎないが。

違う視点から考える。
わたしは灌頂に係る証文などは見たこともない。だから、感見記がそうした体裁を整えているかどうかも皆目見当がつかない。それでも、「授」という限り、そうした意味が籠もるようには思う。証文や、允可証の類であれば、実際に受け取る者の名前があって然るべきである。しかし、感見記で名前が出るのは、ただ「日蓮」ばかりではないか。あとは大日如来で、已来、23代の相承という。これはいったいどのような訳だろうか。

過日、大木道惠師とも話していたのだが、「日蓮授新佛」の読み方を、私たちは根本的に間違えていないか。“被”が落ちているのではないか。つまり、“日蓮が新佛を授かった”という意味ではないのか。

では、日蓮は誰から授かったのか。求聞持法を修した師から授かったのであれば、感見記は日蓮の字であること自体おかしい。
日蓮が書き、そして、日蓮自身が授かる可能性はあるのか。
あるだろう。大日如来、もしくは虚空蔵菩薩からである。仏菩薩は感得できても字は書かない。となれば、感得した本人自ら書くしかない。
相承したのは大日如来か、虚空蔵、授かったのは日蓮という感得である。
「自解仏乗」、このとき、自ら日蓮を名乗ったという想像は、心躍るではないか。
そしてまた、こう考えれば、宮川説は齟齬を来さないこととなる。

・感見記の図は日蓮が描いたのか

彰往考来師が、まずご指摘下さったことだが、三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅の、独学徒師が「三光図」とご指摘下さった最上部分。ここに描かれる不動・愛染は『仏舎利と宝珠、漫荼羅が天皇受戒の法具となるとき』と題して記したとおり、そのデザイン・キャラクターは、細かい相違はあるものの、感見記とほぼ、同一である。日蓮のオリジナルではない。となれば、日蓮の描画とする従来説は、どうも、納得できない。

当時、求聞持法は盛んだったという。この満願成就をしたものには通じて允可証が出される。その定型的な図柄が、三室戸寺所蔵摩尼宝珠曼荼羅と不動愛染感見記に共通する図だったのではないだろうか。あるいは、虚空蔵求聞持法を達成した者が描く定型図といったものではなかったのか。もし、他に感見記と同じ体裁の古文書が見つかれば、この憶測は成り立つかも知れない。しかし、現段階では、やはり判然としない。

それにしても、感見記が、求聞持法という修法と関連した書であり、そして、摩尼宝珠曼荼羅と同一図形を有する。つまり、この宝珠と不動愛染、そして、虚空蔵求聞持法は一本の糸で繋がっていることは、意味するだろう。

求聞持法は盛んに行われていた。本尊は摩尼宝珠と同一視される虚空蔵菩薩。愛染不動が脇士である。のちに日蓮が自らの漫荼羅に採用する梵字で記す秘事である。

宮川師は、この論文の最後に、以下のように記す。

「櫛田良洪氏の著した『續真言密教成立過程の研究』において、資料紹介されている「悉曇求聞持成就口決事』に見ることのできる「虚空蔵者根本智躰、南方宝生仏内証文殊愛染不動明王惣躰也、成2スレバ求聞持1(中略)文殊愛染不動種子口決アリ」と記述されている。求聞持法においては愛染不動は切り離して考えられない」(P206)

いまのところ、文殊については解明できない。しかし、虚空蔵、宝珠、不動愛染は、虚空蔵求聞持法と不動愛染感見記、そして、日蓮漫荼羅と、同一信仰圏上に延長にあることが判明したように思う。

重要な点。ここに「愛染不動種子口決」とあるように、両明王は種子(梵字)であることも漫荼羅図示と一致している。

さらに付加したい。虚空蔵菩薩の内証である宝生仏を南方という。
四大天玉の図示の位置について』として愚考したことだが、日蓮漫荼羅における四大天玉は東西南北を表し、右側上に持国(東)・下に廣目(西)、左側上に毘沙門(北)・下に増長(南)の方位を決めている。
漫荼羅を立体的に見るとき、上とは奥遠くであり、下とは手前近くとなる。
花押が摩尼宝珠を象ったという愚見は、すでに何度も記した。

宝珠は虚空蔵、宝生仏であり、漫荼羅を立体的に見れば、日蓮(署名)に懐かれた最も手前にある。手前とは南である。「南方宝生仏」と一致する。

摩尼宝珠曼荼羅、宝生仏、日月、明星、虚空蔵、宝珠、不動愛染、覚鑁、『五輪九字釈』、虚空蔵求聞持法、不動愛染感見記といったキーワードは、このテーマを考えるとき、共通関連して、次々に浮上する。そして、それらは渾然一体となって、日蓮漫荼羅へと昇華していく。

日蓮漫荼羅における四大天玉の配置

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○宮川良篤師が『日蓮聖人にみる虚空蔵菩薩求聞持法の一考察』のなかで、求聞持法の関連として挙げる経典等のいくつかは、以下、ネットで閲覧できた。

・『虚空空藏菩薩能滿諸願最勝心陀羅尼求聞持法』(P183)
・『大虚空藏菩薩念誦法』(P184)
・『五大虚空藏菩薩速疾大神驗祕密式經』(同)
・『渓嵐拾葉集』(P205)

日蓮教学の源流と展開
小松邦彰先生古稀記念論文集
平成21年10月13日 発行
編 集 小松邦彰先生古稀記念論文集刊行会
発行者 浅地康平
発行所 株式会社山喜房佛書林
ISBN 978-4-7963-0089-9 C3015


- (7) につづく -
Posted by saikakudoppo at 08:33│Comments(0)