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6) からつづく -
図録『
鎌倉の日蓮聖人』所載。

なんともはや、自嘲するしかない。この寺尾師の論攷を拝読しながら、どうも記憶の片隅に引っかかるものがあった。自分のブログを見直すと、この所載本である図録は、この展示に行き、買っていた。その後、しまい込んで読みもしなかったのだ。
2009年11月28日「
特別展 鎌倉の日蓮聖人」と題して、記していた。
正直に告白すれば、当時、日蓮宗に疲れ果てていた。GREE での一般信徒会員との会話にも疲弊していた。それでも気を取り直し、
日蓮墨筆を読むの連載を始めて1か月程経った頃である。
法華経に「雖近而不見」とある。が、こんなたいそうな経文を引くまでもなく、宝の持ち腐れというか、資料を集めるだけ集めて、読みもせず、わかった気になることほど、愚かなことはない。巡り回って、元に戻ったような感がある。
愚痴のような前置きが長くなった。
寺尾英智師が言う「鎌倉の日蓮をめぐる三つの日付」とは、(1)鎌倉進出の時期(2)松葉谷法難(3)伊豆流罪の従来説へ、経年で歴史資料を精査され、改めたものである。
試みに大石寺版『冨士年表』で、この三つを見てみる。
(1)1253 建長5 4.28 ○ 草庵を鎌倉松葉ケ谷に構う(勅願所広布録)
(2)1260 文応元 8.27 松葉ケ谷法難(…霊記)
(3)1261 文応2 5.12 伊豆配流・日興供奉
(1)鎌倉進出時期:建長8年8月
先に挙げた『
日蓮書写の覚鑁「五輪九字明秘密釈」について』でも、寺尾師は解明をされていた。師が根拠とされるのが、冒頭に挙げた『
災難対治鈔』(市川市中山法華経寺所蔵)。
「『吾妻鏡』…建長8年8月6日鎌倉で大風雨があり、山崩れで死者が出た多数出たことが記録されている。ところが日蓮は、災難に言及する場合はこの大風雨をはじめとして、この前後に起きた暴風や地震などについて示すことはない…建長8年8月とは災難興起の起点を示したものではなく、日蓮が鎌倉に進出した時点、それは種々の災難を鎌倉で実際に体験しはじめた時期でもあったのである」(P147)
説得力がある。
(2)松葉谷法難:5月12日
(3)…伊豆流罪:5月13日
さして、気にも留めず、従来説をそのまま、鵜呑みにしていたのだが、松葉谷法難の日付は確定的な証拠に基づいていなかったことには、いささか驚いた。
寺尾師は、遺文はもちろんのこと、経年順に、日澄『日蓮聖人註画讃』、日朝『元祖化導記』、日精『日蓮聖人年譜』、豊臣義俊『法華霊場記』、日省『本化別頭高祖伝』、日諦・日耄『高祖年譜』、小川泰道『日蓮大士真実伝』と精査している。しかも、古来の門下の年中行事には四大法難の一つに松葉谷法難は数えられながら、法難会が営まれなかったことを挙げる。未詳であった証左である。
では、ここに寺尾師が、弘長元年5月12日を松葉谷法難としたのは、断簡が遺る『
論談敵対御書』に拠る。(右図)
偶然といえば、それまでだが、
日蓮墨筆を読むでは、この展示を拝観した1か月後に、(
70)として取り上げている。もし、真面目に寺尾師の論攷を拝読していれば、こうした宗史に係る重大事を掌握できたものを、自らの愚鈍を嘆く。
ここで挙げたが、『日蓮聖人真蹟集成』解説によれば、「『去年五月十二日』とは伊東配流の年月日」(4-346)であるという。しかし、寺尾師は、この日こそ、松葉谷法難の日であるという。
ここで『一谷入道消息』(左図)に着目する。図で読めるが「弘長元年辛酉十三日
尓御勘気をかをむ
里て伊豆国…」とある。12日ではなく、13日である。
つまり、『
論談敵対御書に記される弘長元年5月12日に松葉谷で襲撃を受け、翌日13日に伊豆へ送られた2日間の出来事だという。
従来説では松葉谷法難から8か月を経て、伊豆へ流罪とされるが、これほど時間を空くと読みとることに困難を感じると、寺尾師は指摘する。
結論していうところに頷けた。
「5月12日という日付は、日蓮がいうところの王難の日付として、確定して行く。日蓮が入滅したとき、日興は『宗祖御遷化記録」に
一、弘長元年五月十二日、伊豆国に流さる。御年四十 伊東八郎左右衛門尉の預かりなり。立正安国論一巻を造り西明寺入道に奉る故なり。同じき三年赦免。
と記録したのである」(P149)
こうして、累ねられた研究によって、旧説を改めていくことは、実にけっこうなことであると思う。
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Posted by saikakudoppo at 09:13│
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