元寇のこと書いてある本を読んでたら行きたくなったので行ってみたよ…
DSC01690
かつて太宰府の中心であった政庁跡であります。太宰府天満宮からそう遠くはないところにあります。建物はなくなっておりあるのは礎石くらいかな(笑)

福岡を中心とする玄界灘沿岸は(古代・中世頃の操船技術ではその地形から必然的に)大陸との窓口という要衝にありました。
mapそのため外交や外敵襲来からの防衛の要衝として近畿の中央政府よりの出先機関を九州に設置することになります。太宰府の誕生です。日本書紀には6世紀頃からその機関の存在の記述があるようです。(名称としての「太宰府」が現れるのは671年だそうですが)。

660年、朝鮮半島で唐(中国)の支援する新羅が、倭(日本)の支援する百済を滅ぼす。663年、倭は百済復興をかけて唐・新羅連合軍と白村江の戦いでぶつかるが大敗する。これにより唐が倭(日本)に攻めてくるのではないかという危惧が生まれ外敵の襲来が現実的となる。そこで…
DSC01703
664年、海からの攻撃の防御として巨大な土塁の盾と堀のような「水城」というものを作りました。この土手の森のようなのが現在も残っている水城跡です。

DSC01702
上空から見た水城の写真です。この防波堤で敵の襲来を防ぐのであります。

665年、さらに太宰府の北に「大野城」、南に「基肄城」を築城し防衛網をより強固なものとしました。
DSC01701
博多湾から攻めて来た場合、水城で防御し、それが破られた場合は山城の大野城に籠城するという仕掛けだそうです。

もうひとつ、基肄城(佐賀県の基山)は南の方にあるのですがこれは有明海からの攻撃に備えたものだったそうです。
DSC01732
写真で見る位置関係です。

DSC01740
さらに地図で見る全体的な位置関係です。完璧な守りですな。実際に玄界灘沿岸に外敵の襲来を受けるのはそれから約600年後、鎌倉時代の元寇ということになるのでありますが…

と、いうわけで今回、大野城のあった四王寺山と基肄城のあった基山に登って、この大宰府要塞を堪能してまいったのであります…続く

おまけ…博多の鳥瞰図
DSC02073