2016年08月28日

シン・ゴジラ見た

シン・ゴジラ少し前に見てきました。
ちょっと私的感想を。ちょい長文です。
予想以上に面白かったです。

いろんな人のレビュー見てるとエヴァンゲリオンとの類似性を指摘している人が多かったのですが、これ見て一番最初に頭に浮かんだのは宮崎監督の「もののけ姫」でした。
なんでかなあと思って考えてたらギルガメッシュまでたどり着いてしまいましたw

遠い昔人間は神と共存していました。神は気まぐれや怒りで強大な力で災い(=祟る)を引き起こす力を持った存在で、地震が起きれば山の神、洪水が起きれば海や川の神様などなど、災いはそうした神々の産物と考え、祈ったり、生け贄を捧げたりするもので、基本的に神は祟るものだったわけです。
もののけ姫は神は祟るものだと言うことを改めて認識させてくれた作品でした。文明によって神が不在になり科学の力で神(天災)をねじ伏せ、自然を破壊し続ける人間はいつしか神と共存しなくなってしまった。
神と共存すると言うことは自然と共存することだったわけですね。
と考えるとゴジラは自然をないがしろにし自然破壊を続ける人間に対する天罰としての神の祟りなわけです。
最後の方に出てくる「ゴジラと共存する」という台詞は「神と共存する」「自然と共存する」に置き換えられるのかなと思ってしまったわけです。

神に戦いを挑むというお話しは、もののけ姫で宮崎監督が意識したという五千年にメソポタミアで書かれた人類最古の叙事詩『ギルガメシュ』で、人間の世界を広げるためにレバノン杉の原生林を伐るギルガメッシュに怒った半身半獣の森の神フンババが凶暴な姿になってギルガメシュを襲うがギルガメッシュは最終兵器金属―青銅の斧を使って神を殺してしまう。最後にギルガメッシュは神を殺して人間だけの王国を作ろうとした己の傲慢さを恥じ、自然破壊や生命操作は破滅の道だと遺言して果てる。この物語には、自然破壊と人間の破滅という現代にも通じるテーマが打ち出されていることに気づきます。って言うかまんまゴジラのストーリーですね。

てな事で私的には「シン・ゴジラ」-「もののけ姫」-「ギルガメッシュ」でしたね。そう考えるとエヴァンゲリオンも一緒か。あっちはゴジラじゃ無くて使徒だけど。庵野監督が宮崎監督の後継者みたいな話もなんとなく納得できる映画でしたね。
そんなわけでとっても興味深く面白くみられました。日本映画にしては珍しく群像劇としても成り立っていたし、庵野さんらしい突っ込み処もいっぱいあったけど、根底に流れるテーマ(あくまで私見ですが)が面白くてもう一回見に行っても良いかなと思わせてくれる映画でした。

saint2004 at 23:35|PermalinkComments(0)TrackBack(0)日常 

2009年11月17日

AZUKI七歌詞レビューINDEX



2009年11月05日
「Rainy Soul」「人間失格」「太宰治」そして「AZUKI七」

2009年09月21日
「call my name」「名という呪」AZUKI七

2009年09月14日
「ノブレスオブリージュ」とAzuki七

2009年09月12日
「The first cry 」「ゲバラ」 AZUKI七

2009年09月06日
『愛に似てる」「時」そして「愛」 AZUKI七

2009年09月04日
もう一つの「世界はまわると言うけれど」AZUKI七

2009年09月01日
「花は咲いて ただ揺れて」AZUKI七


「上善如水」「花」そしてAZUKI七

2007年11月30日
「世界はまわると言うけれど」 Azuki七

2007年11月19日
「Argentina」 Azuki七

2007年11月13日
死生観とAzuki七

2007年07月09日
「夢か現(うつつ)か幻か」 Azuki七

2007年07月07日
「ないものねだり」とAzuki七 「涙のイエスタデー」

2007年06月14日
in little time Azuki七 与え続けるだけの愛

2007年06月13日
容姿と頭脳と

2007年05月27日
AZUKI七 ワイルド モロー

2007年04月10日
AZUKI七とデカルトとフィリップ・K・ディックと

2007年04月04日
「風とRAINBOW」 AZUKI七「我思うゆえに我あり」

2006年12月14日
「THE TWILIGHT VALLEY」 AZUKI七 アルバムレビューメモ

2006年10月05日
「まぼろし」AZUKI七 レビューメモ

2006年09月11日
今宵エデンの片隅で

2006年08月01日
夢・花火 AZUKI七 (その4)

2006年07月25日
夢・花火 AZUKI七 (その3)

2006年07月21日
夢・花火 AZUKI七 (その2)

2006年07月20日
夢・花火 AZUKI七 (その1)

2006年07月04日
一切有為法 如夢幻泡影

2006年05月12日
試されてる? 何度も見る映画、何度も読む本そしてAZUKI七

2006年04月05日
AZUKI七 「未完成な音色」

2006年03月14日
「籟・来・也」風つながり

2006年03月10日
籟・来・也 (らい・らい・や)

2006年02月20日
水のない晴れた海へ

2006年01月21日
永遠を駆け抜ける一瞬の僕ら

2006年01月03日
CANDY POP

2005年12月30日
たとえば12月の夜に

2005年12月23日
深読み「晴れ時計」レビュー

2005年12月12日
「晴れ時計」

2005年07月02日
「いつかまた会いましょう」

2005年06月21日
Circle Days

2005年06月15日
「君の思い描いた夢 集メル HEAVEN」レビュー1

2005年05月19日
君の思い描いた夢 集メル HEAVEN

2005年04月15日
「空色の猫」再び

2005年04月03日
君の思い描いた夢 集メル HEAVEN

2005年04月01日
「空色の猫」

2005年03月31日
AZUKI七さんと般若心経

2005年01月07日
レビュー第2部 その3最終

2005年01月06日
レビュー第2部 その2

2005年01月05日
「I'm waiting 4 you」アルバムレビュー

レビュー第2部 その1

2004年12月08日
美しい日本語に酔うーーーGARNET CROW New アルバム

2004年11月23日
「flower」「祭りのじかん」レビュー

2004年11月23日
忘れ咲きレビュー

2004年11月16日
「忘れ咲き」



saint2004 at 20:01|PermalinkComments(0)TrackBack(0)azuki七記事INDEX | GARNET/AZUKI七

2009年11月05日

「Rainy Soul」「人間失格」「太宰治」そして「AZUKI七」

なんかモチーフが太宰なのでいつも以上に脱線して太宰論、人間失格レビューになって、しかもやたら長くなりそうな嫌な予感がしますので、読むのがつらそうな方は早めにリタイアを(笑)
とはいえ、AZUKIさんが太宰をモチーフにしたのなら、この曲の歌詞のレビューになっているかと(屁理屈だなあ)自分に言い聞かせましょう。(笑)

「Rainy Soul」雨に濡れた魂、びしょ濡れの魂あるいは心と訳するのか?
この曲はご本人曰く、太宰治の「人間失格」がモチーフとなっているという。
確かに歌詞の最後には「HUMAN LOST」直訳すれば「人間失格」という言葉があるし、歌詞の中にはあきらかに「人間失格」の内容に符合するものも見受けられるですが、はたしてそれだけなのだろうか?と考えてしまったわけです。

「人間失格」の英語題は「No Longer Human」であり「HUMAN LOST」ではない。もっともこの「No Longer Human」は太宰自身が訳したわけではなく、海外での翻訳出版にあたり編集者なり翻訳者なりが訳したのであろう。ではなぜ直訳の「HUMAN LOST」ではなく「No Longer Human」だったのか。
実は太宰は「HUMAN LOST」なる題の小説を書いています。ということで単純に同じ題になってしまうから使えなかったのか、あるいは内容に合わせて意訳したのか、あるいはその両方なのかそんな感じなのでしょう。

この作品は「人間失格」の元となった作品と言われ、太宰が薬物中毒により精神病院へ強制的に入院させられた経験を元に書かれているとされてますが、これを太宰の手記や精神を病んだ人間の散文詩と捉えると間違いで、太宰はどんなときでも小説家だったのでしょう、各所にトラップやトリックがしかけられ、たぶんこれを読んだ人間の知識や精神状態などにより、解釈はそれこそ無限に存在しそうな作品です。誰かがこの作品を表して「細部にこだわると全体が見えなくなるという「詩的」な仕掛けが見事だと」言っていましたが、まさしくその通りだと感じます。

で、この感覚というのは実は「人間失格」を読んでも同じように感じてしまうわけです。「人間失格」を太宰の遺書と捉えてしまうということに私自身は昔から違和感を感じていて、この作品はもしかしたら太宰の壮大な悪戯だったのではないかと思ってしまうのです。この作品高校などの読書感想文なんかによく指定されたりするのですが、この作品の面白さって駄目な大人にならないと解らない話(笑)だし、人は社会に出ていって、多かれ少なかれ駄目な大人になって行ってるわけで、そう考えると、この話って実は、普通の人の当たり前の半生記じゃないかと思ってしまうわけです。

それで「人間失格」ってなにさ?って考えると、狂った世界の中でそれに馴染めなくて精神病院へ行かされて人間失格の烙印を押されることで、はじめて人間は「人」になれるのではという、太宰なりの考えがこの逆説的なタイトルをこの作品につけさせたのではと思ってしまうわけです。
その視点で読んでいくと、結局の主人公である葉蔵は人(女性)に甘えられる能力に長けていて、甘えられた人はそれを受け入れざるを得ないという状況を作れてしまって、社会や周りの環境から浮いていると感じてしまっている。社会に対していつも違和感を感じていても、結局最後は社会に守られているという。そんな可笑しさをこの作品から感じてしまうんですよね。

あえて太宰のトリックにはまってしまうと(笑)HUMAN LOSTの中の一文に次のようなものがある。

「人権」なる言葉を思い出す。ここの患者すべて、人の資格はがれ落されている。

この一文だけ見ていると、人間失格とは他人と異なることではなくて、人権を剥奪されることになるわけですね。

救いのない作品と言われる「人間失格」ですが、実は最後の最後に葉蔵は
「…神様みたいないい子でした」という台詞で、救われてしまっているんですよね。
結局、これは太宰自身も救われてしまっていたという、悲劇ではなくて一種の喜劇と捉えることが出来てしまうわけです。

まあ、「人間失格」が太宰の代表作みたいになっているので、暗い話を書く作家だと思い込まれてしまっていますが、太宰は大変ユーモアもウィットもあり(多分にブラックなところもありますが)、うっかり忘れている人が多いと思いますが、小学校で読んで感動した熱い友情と正義感に溢れた「走れメロス」も太宰の作品なんですよね。
実はそんな太宰に私自身はなんとなくオスカーワイルドを重ねてしまうことがあるのですが、ここでワイルドの話を持ってくるとますます混沌としてきますので、それはまたいずれ機会があればと言うことにします。

あー、話が終わらない(笑)

「人間失格」に話を戻すと、この作品に太宰は大きなトリックを仕掛けています。
この作品は「手記」と「まえがき」、「あとがき」の3部から構成されているのですが、「手記」を書いた人間と、「まえがき」、「あとがき」を書いた人間は別の人間となっている。しかも太宰は「手記」の書き手と作家太宰治とを二重に分離しています。

まず「手記」の書き手が大庭葉蔵であって太宰ではない。
そして「まえがき」と「あとがき」とを書いた作家「私」も太宰ではない。

「人間失格」を読んでいると「手記」を書いたのが太宰そのものという錯覚を受けてしまうのですが、太宰は、「手記」の書き手と自分とを、分離しながら繋げるという複雑な二重構造の構成を行っています。
作家の作品の主役はその作家の虚像ではあるのですが、虚像は虚像であって実像ではないと言うことです。メロスも他の作品の主役たちも太宰の虚像であるわけですね。
しかしながら「人間失格」という作品が興味深いのは、その二重構造のおかげで、「手記」の書き手・葉蔵は太宰の虚像の虚像としてそこに存在しているということになります。

さてここでやっとAZUKIさんの登場です。(笑)
なんか終わるのか自分でも不安になってきたwww

この歌詞さすが太宰の人間失格をモチーフにしただけあって、なかなかトリッキーです。
でまずは、最初の「Rainy Soul」雨に濡れた魂、びしょ濡れの魂あるいは心と訳するのか?に戻るわけですが、このRainy Soulはいったい誰の魂なのか?
私は誰?
君は誰?
あなたとは誰?君とあなたは別人格なのか?
AZUKIさん自身なのか、太宰なのか、葉蔵なのか、まえがき、後書きの書き手なのか?

ただでさえ複雑な二重構造のこの作品を、AZUKIさんは意図して複雑にしているのか、それとも意図していないのか?
先にも書いたように、「手記」の書き手・葉蔵は太宰の虚像の虚像としてそこに存在しているのであれば、仮に私をAZUKIさんとすれば、この歌詞の私はAZUKIさんの虚像であり、この虚像は結局太宰の虚像の虚像のそのまた虚像ということになってしまいます。
しかし、私を葉蔵やしずなど「人間失格」手記の登場人物、あるいは太宰自身とすれば、また違った解釈が生まれてしまいます。
ようするに、この歌詞は誰を私とするかによって、解釈ががらりと変わってしまうということになるわけです。

太宰という作家はパロディの名手であるとやはり何処かの方が書いていた気がします。
そう言う意味ではAZUKIさんもパロディの名手かも知れません。
太宰は小説のなかに自己をありのままに提示することを実は慎重にしかも巧妙に避けてきています。
ですから「人間失格」の主人公は太宰がそれまでにいくつかの小説に描いてきた虚像としての自画像であるにも係わらず、それでも、読者の頭には、太宰像といってよいものが造られてしまっていて、いつしかこの葉蔵と太宰を同一視してしまいます。太宰はあえてそう見えるであろう事を計算してそれを小説の本当らしさの担保としたのかもしれません。

AZUKIさんが太宰の小説の「人間失格」のそんな本質を見抜いた上で、この歌詞は、パロディーのパロディーとして成立しているような気がします。
だとすればRainy Soulは太宰自身の魂であり、同時にAZUKIさん自身の魂なのかもしれませんね。

“トオリャンセ…” さぁ、さぁ…
「人間失格」のなかでは「ここはどこの細道じゃ」と記されているこの童歌の一節は、主人公が薬に手を染めて精神病院へと行き、人の資格はがれ落されて人間失格となる境界線なのでしょう。
そしてそれは同時に実は「人」でないものから「人」になる境界線なのかもしれません。

しかしよりによってAZUKIさんやっかいなものをモチーフにしてくれたものです。
もしかしたら、もっと単純なのかもしれませんが、太宰と人間失格を知っているものにとっては本当に困ったもの以外の何物でもありませんね。
ということで、これ全部検証していくと大変なことになりそうですし、ちょっと野暮な気もするので、今回はパス(笑)
AZUKIさんの悪戯に乗っかって、自分なりに色々想像してみてはいかがでしょうか。
なぜHUMAN LOSTという言葉をあえて持ってきたのかを含めてね。

まあ、興味を持った方はどれも短い小説なので、「人間失格」「HUMAN LOST」「ヴィヨンの妻」あたりをぜひ読んで頂くと良いかと。著作権が切れていますので、本購入しなくてもネットの青空文庫で只で読めます。
どう感じるかは人それぞれですし、読んだ後でこの歌詞をどう感じるかも人それぞれですが、なかなか楽しませてくれる歌詞です。

まあ、ちょっと書き足りないこともあるので、とりあえず次回かあるいはそのうちへ続くと言うことで(笑)
あー。やっぱり長くなった。そのわりにレビューになってないし(笑)


saint2004 at 00:51|PermalinkComments(11)TrackBack(0)

2009年09月21日

「call my name」「名という呪」AZUKI七

初期のGARNETCROWの曲には名曲が多くて、この曲もその一つ。

時間の流れと共に人の心や気持ちは移り変わって行って、たぶんそれはAzukiさんも同じ。でもたとえ、その都度で違うAzukiさんが存在したとしても、Azukiさんであるという事実は変わりようがない。
AzukiさんがAzukiさんたらしめているのはその魂そのものであって、魂は彼女自身のものでしかないのだから、彼女がどのように変化しようとそれは彼女の自由と言うことになる。

人は色々なものに縛り付けられる。
役職だったり、家だったり、土地だったり、そして本人の名前だったりする。

日本には言霊(ことだま)という言葉がある。
一般的には日本において言葉に宿ると信じられた霊的な力のこと。言魂とも書く。声に出した言葉が現実の事象に対して何らかの影響を与えると信じられ、良い言葉を発すると良い事が起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。

夢枕獏さんの「陰陽師」という作品の中で以下のようなやりとりがある。

安倍晴明「なあ博雅……、この世で一番短い呪(しゅ)とは何だろうな」
源 博雅「この世で一番短い呪……? しかし何でおれが考える? おまえが教えるべきじゃないか?」
安倍晴明「さっき言ってやったろう? 名だよ」
源 博雅「おまえの晴明とか、おれの博雅とかの名か?」
安倍晴明「そう。山とか海とか樹とか草とか、そういう名も呪のひとつだ。呪とはようするに、ものを縛ることよ。ものの根本的な在様を縛るというのは名だぞ。たとえばおぬしは博雅という呪を、おれは晴明という呪をかけられている人ということになる。この世に名づけられぬものがあるとすれば、それは何でもないということだ。存在しないとも言える」
源 博雅「難しいな。おれに名がなければ、おれという人はこの世にいないということになるのか?」
安倍晴明「いや、おまえはいるさ。博雅がいなくなるのだ」
源 博雅「だが博雅はおれだぞ。博雅がいなくなればおれもいなくなるだろう?」
安倍晴明「…………。眼に見えぬものさえ名という呪で縛ることができる」

名前という呪は、縛るものであると同時に何かを与えるものなのでしょう。名前を持つことによって、その対象はある実質を持って立ち上がる。そして「文字」はそこに新たな実質を加えるということでしょうか。
実際に日本にも「本当の名前を隠す」習慣はありました。
奈良時代以前の万葉歌謡の時代ですと、男が娘に名を尋ね、娘が「真名(まな)」を名乗ると婚姻を受諾したものと見なされました。「名」が、その本体と同一視される言霊思想の反映と考えられます。
平安時代。女流文学者たちの名前として、紫式部、清少納言、和泉式部、赤染衛門など、多くの女性の名が残されていますが、これらはどれ一つとして彼女らの「本名」ではありません。「女房名」です。本名で呼び合うことを「忌むべきこと」とする習慣が、宮中にはあったのです。やはり、本名が呪詛に使われるのを恐れてのことだったのでしょう。

もう少し日本の名前の話をすると、日本や中国には「字(あざな)」と「忌み名(いみな)」があります。
たとえば、例えば徳川三郎次郎家康。忌み名が三郎次郎で字が家康です。
中国では三国志で有名な諸葛公明がいますが、公明は字で、忌み名は亮です。主人の劉備や父母以外は亮という忌み名は知らなかったはずです。

現代でも、会社の上司の事を階級である「部長」「課長」で呼び「××さん」とは普通呼びません。個人に責任が来ないようにする一種のまじないのようなものかもしれませんが、これは名前による呪を忌むことの名残りだとも言われています。

この「名前」に関してはファンタジー小説の「ゲド戦記」においても重要な意味を持っていました。
本文中には「物象に備わる真(まこと)の名前」を知ることが、魔法を使うために必要なことである」と説明されています。
タイトルにもなっている「ゲド」という名は、主人公である魔法使いの名前であるのですが、それは真の名前であるので、普段は「ハイタカ」と名乗っています。
なぜなら魔法使いは、その真の名前を相手の口から言われてしまうと、魔力を失ってしまうのです。本作中ゲドはその名前を見抜かれ、その名を呼ばれた瞬間、ただの人となってしまいます。
ですがそれは逆に、相手の真の名前を知ることによって、どれほど強大な相手であっても対等に渡り合えることを意味しているわけです。
それがあるいは「悲しさ」であれ、「寂しさ」であれ、仮にどのような名前がつけられるモノであったとしても、それに適切な名前がつけられ、呼びかけられたときに初めて、その支配から逃れることができるというわけです。

で、「call my name」---「名前を呼ぶ」と言う行為が実はとても重要だったりするわけです。逆に考えれば、名前を呼ばれることにより縛られるという反面、名前で呼んで貰うことによりはじめて、そこにその名前の人物として存在できるということにもなるわけです。

「おい」とか「おまえ」とか「あんた」とか呼ぶようになるから、夫婦げんかしたり離婚したりするのかもしれませんね。
「愛」という目に見えない「呪」で相手を縛り付けるためにも、相手のことを名前で呼んでいたら夫婦やカップルはいつまでも円満に暮らせるのかもしれません。

AZUKIさんも彼女がAZUKI七という名前を捨ててしまえば、少なくともAZUKI七という名前にかかった呪は無効になりますし、現在でも本名を知られていないということは、どんな呪も彼女にかけることは不可能なのでしょう。
だからこそ雲のように水のように生きていらっしゃるのかもしれません。

とは言えAZUKI七という名前が独り立ちして歩き出すことを、この歌詞を書いた当時の彼女は何処かで予想していて、「call my name」深読みすればこの歌詞はAzuki七という名前に縛られた自分への呪詛だったのかもしれませんね。

ちなみにネット社会においてはハンドルネームが字なのかもと思ってしまいます。



saint2004 at 23:00|PermalinkComments(4)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2009年09月14日

「ノブレスオブリージュ」とAzuki七

「Noblesse oblige(ノブレス・オブリージュ)。今後も救世主たらんことを」
アニメ「東のエデン」度々に出てくるセリフです。

「ノブレスオブリージュ」の意味はネットで調べれば色々見つかります。

抜粋すると
* 「ノブレス・オブリージュ」はフランス語「 Noblesse(貴族)」と「Obliger(義務を負わせる)」を合成した言葉。
* 身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務があるという、欧米社会における基本的な道徳観。
* 高い地位や身分に伴う義務。ヨーロッパ社会で、貴族など高い身分の者にはそれに相応した重い責任・義務があるとする考え方。
* もとはフランスのことわざで「貴族たるもの、身分にふさわしい振る舞いをしなければならぬ」の意。

「ノブレス・マラード(Noblesse Malade 病んだまたは腐敗した貴族という意味)」という皮肉が出てくる。口では社会正義を叫びながら、内心は脱税、便法、投機などを企む偽ノブレスを例えた言葉だ。

アメリカでは日本の「武士道」という優れた思想は、まさにノブレス・オブリージュそのものだという考えもあるようです。

現在では有名人や富豪のボランティアがノブレス・オブリージュを指す場合も多いようです。

本来ノブレス・オブリージュという言葉は、「ルカによる福音書」12章48節にある、使徒たちに責任の重さを教えた「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」に由来すると言われています。

で、現代においては貴族は存在しないので、ではお金と権力がある人間がノブレス(貴族)かというとちょっと違うような気がします。
もちろん貴族がいた時代においてもノブレス・オブリージュたる貴族ばかりではなかったでしょうが、少なくとも貴族たらんものかくあるべしと言うのがノブレス・オブリージュなのでしょう。

お金や権力ではなく魂が貴族たらんということがノブレス・オブリージュと考えれば、そのような魂を目指すことこそ最も重要なことであると思います。
生き方(道徳)、知識、知恵、形にならないものでも、それらを持つものには義務と責任があり、それらを果たす努力を怠ってはならない。
どんな人間も、またそうなるべく日々努力を積み重ね、魂のノブレス(貴族)を目指すべきなのかもしれません。

日本にも「ぼろは着てても心は錦」なんて歌がありましたしね。
もちろんお金も権力もある人が高潔な魂を持ち、ノブレス・オブリージュを果たしてくれれば、日本は、世界はもっと良い世界になるのかもしれません。

とは言いながら、そんなものに関わらず世捨て人のように暮らしていければ、本当は良いなとか思ってしまう自分もいるのですが。
自分自身の中で許容出来る最低限の社会との関わりの中で生活の糧を得て生きているつもりでも、自分が存在することで色々な他人の生活の責任を知らずに背負ってしまっていることもあるので、そのことを自覚し自分の責任を果たすことは大切なことなのかもしれません。

生き方を強要されるのは望まないでも。人と関わりを持ってしまって生活の糧を得てしまっている以上、責任というものはついてまわってしまうのでしょうね。

人より恵まれた才能と容姿。アーティストとしても成功。そんなふうに「すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される」Azukiさんのノブレス・オブリージュはいったい何でしょうかね?

saint2004 at 22:16|PermalinkComments(6)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2009年09月12日

「The first cry 」「ゲバラ」 AZUKI七

「The first cry 」この曲をはじめて聴いた時、なぜか南米の美しい風景の中を走るオートバイの姿が頭に浮かんだ。
なんだっけと思って記憶の糸を辿ると、米国俳優ロバート・レッドフォードが、ゲバラの著作『モーターサイクル南米旅行日記』と、ゲバラの友人アルベルト・グラナードの著作『トラベリング・ウィズ・ゲバラ』を下敷きにプロデュースした映画『モーターサイクル・ダイアリーズ』だった。

この映画革命家として有名なチェ・ゲバラの若き日の姿を描いた作品で、簡単にあらすじを説明すると、23歳の医学生エルネスト(ゲバラ)は、親友アルベルトとともに中古のおんぼろバイクに駆(の)って南米大陸を縦断する冒険の旅に出る。それは金も、泊まるあてもなく、好奇心のままに10,000キロを走破する無鉄砲な計画だった。
喘息もちなくせに恐れを知らないエルネストは、美しい茶褐色の瞳で出会うすべての人々を魅了する。そんな彼を支えるアルベルト。冒険心、情熱的な魂、旅を愛する心でつながれた二人のゆるぎない友情。心をふれあったすべての人に、惜しみない愛を捧げた、エルネストの瞳に映る南米大陸の様々な風景。その記憶が彼の未来を変えた。
というお話しが南米の美しい風景を背景に語られていくという映画です。

エルネスト・ゲバラは、この南米大陸縦断の旅を通して多くの矛盾ややるせなさを感じたのであろう。おそらくこの旅が革命家ゲバラの誕生に大きな影響を与えたと想像できる。
そして旅の終盤ハンセン氏病患者との出会いの中で革命家として精神的に産声をあげた。

映画の一番最後に流れる音楽は「Al otro lado del ri’o 〜(アル・オトロ・ラード・デル・リーオ)」(川の向こう岸に)と歌われています。
療養所最後の日、エルネストは無謀にも、療養所を隔てている川を泳いで渡ろうとします。冷たい、しかもかなりの距離があります。みんな止めようとしますが、エルネストはとうとう泳ぎきってしまいます。
映画の最後に彼が「Yo no soy yo.(ヨ・ノ・ソイ・ヨ)」(ぼくはもう昔のぼくじゃない)とアルベルトに言うのですが、そのへんとつながっているのですね。

あの瞬間がまさにこの曲のタイトルである「The First cry(産声)」とAzukiさんは感じたのでしょう。

ゲバラと言っても、私の世代がぎりぎりの世代で、今の若い方には馴染みのない人物かも知れませんのでゲバラについて少し書いておくと、ゲバラはマルクス主義革命家で、キューバのゲリラ指導者でカストロと共にキューバ革命を成功に導いた人物である。
最後は一説によるとアメリカのCIAの陰謀によりボリビアで暗殺されたとも言われる。
一般的には1967年10月8日 ゲバラ39歳の時、バジェグランデ近郊のイゲラ村の近くで捕えられ、大統領レネ・バリエントス・オルトゥーニョの命令で10月9日に処刑(銃殺刑)された。

ゲバラの時代、日本も激動に揺れつづけており、学生運動はいわゆる全共闘時代のピークにさしかかっていて、大学はのきなみバリケード封鎖されていった。当時、バリケードと立看板が立っていない大学は、大学ではなかったのである。
「すべての戦争を内乱へ」というゲバラのスローガンは、ベトナム戦争をベトナム・ゲリラが一歩も譲らずに闘っている最中であっただけに多くの学生を奮いたたせ、また世界中の反戦闘士をも納得させました。

ちなみにチェ・ゲバラ。のチェは「ねえ」とか「おい」と呼びかけるときのことばです。

このチェ(ゲバラ)は「アルヘンティーナ」の元ネタの「EVITA」において「チェ」と呼ばれる架空の人物が狂言回しのように全編を通じてストーリー運びを行うが、このチェは革命家で有名なチェ・ゲバラをイメージされたもので、実際ゲバラはJ.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを訪れている。

そう考えるとこの「The first cry」はAzukiさんの南米ゲバラシリーズの2作目と言うことになるのかもしれません。
Azukiさんがゲバラのどこに惹かれたのかは解りませんが、もしかしたら時代が時代ならば重信房子のような革命家になっていたのかも知れませんね。

ゲバラの思想は、重信房子などにも大きな影響を与えていて、この歌詞を読んでいると、パレスチナ問題や日本の学生運動、日本赤軍など色々なものにリンクしていく。
中でも特に重信房子の「ジャスミンを銃口に」が同時に頭の中によぎったりもした。

そういえばAzukiさんとアルヘンティーナの話している時に重信の著書についても話した。ゲバラ、パレスチナ問題、重信房子氏に関してはまたの機会に、Azukiさんの作品と絡めながら少し書いて見たいと思う。

そう言えば「百年の孤独」も作者のマルケスも南米の作者でゲバラとも繋がりがあります。当時Azukiさんの中では、南米がマイブームだったのかもしれませんね。


saint2004 at 22:17|PermalinkComments(2)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2009年09月06日

『愛に似てる」「時」そして「愛」 AZUKI七

「愛に似てる時」
どうもへんな所にひっかかる癖があるのか、ここでひっかかってしまいました。
「愛」と「時」は似てるとすると何が似ているのか。
AZUKIさんの歌詞に表現される「愛」に関してはさんざん書いてきたので、いまさら書いても同じ事の繰り返しになるので、気になる方はバックナンバー(?)の記事をお読み頂くとして、「時」について考えてみたいと思います。

「時」を定義すると
1. 時刻と時刻の間、またはその長さ。
2. 時刻。つまり、時の流れの中の一点のこと
3. 時(とき)そのもの。つまり、過去・現在・未来と流れてゆくものであり、哲学的表現では、空間と共に、認識のまたは物体界の成立のための最も基本的で基礎的な形式をなすもの。
と言うことになるわけです。

時間としての単位を表す「時」については、とりあえず置いておいて、概念としての、あるいは哲学的、宗教的な「時」について考えてみると、

* 時間とは何か
* 時間が流れるとはどのような事か
* 時間の流れを我々はどのように知るのか
これが永遠のテーマですね。

古代キリスト教の神学者、哲学者のアウグスティヌスは、時間を内面化して考えたとされている。ようするに時間は、時間は心と無関係に外部で流れているようなものではない心の働きであると考えたのです。
時間は過去、現在、未来と時間3つに分けて考えるの一般的であるが、過去はすでにないものであり、未来とはいまだないものである。ならば在ると言えるのは現在だけなのだろう。
過去や未来が在るとすれば、それは過去についての現在と未来についての現在が在るのである。
過去についての現在とは記憶であり、
未来についての現在とは期待、
そして現在についての現在は直観である。
現在は永遠であり、過ぎ去るものは何もなく、全体が現在にある。
とアウグスティヌスは述べています。

また、仏教においては時間理解は基本的に現在指向です。
物事はすべて移ろい行くものであり、不変な存在などない(諸行無常)というのが仏教の根本的な認識である。「すべての存在は極分化された一瞬にのみ存在し、瞬間毎に消滅する」(刹那滅)龍樹に代表される空思想(存在という現象も含めて、あらゆる現象はそれぞれの因果関係の上に成り立っていることを論証している。さらに、因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「ユニークな実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、縁起によってすべての存在は無自性であり、それによって「空」であると論証しているのである。においても時間は、現在意識を軸に考察されている)

時間を哲学的宗教的に紐解いていくと、大変小難しいですね(笑
まあ結局「時」というものは「現在」という「時」のみが実在し、「時」そのものは結局、各の人の心の中にのみ存在するものであり、その存在自体もまた空であると言うことでしょうか。

そう考えて行くと、「愛」も同じですね。
「愛」そのものは実在せず、それは各の人の心の中にのみ存在するものであり、その存在自体もまた空である。という事になります。

で、「愛に似てる時」と言うことになるわけですね。
「愛」そのものが存在しないことを前提にすれば、「愛」だと思っているすべてが「愛に似ているもの」ということになり、「愛に似てる何か」だったり「愛に似てる日々」だったりするわけです。

「君という光」で「愛なんて淡い幻想(ゆめ)」と言っているように、基本的にAZUKIさんにとって「愛」は「時」と同じように「あるのかな?ないのかな?」と自問続ける永遠のテーマなのかもしれません。
なぜ人は存在しない「愛」や「時」を信じて夢みようとするのか?
存在しないと理解している(わかっている)自分と、存在するのかもしれないと思っている自分。自分自身を含めてその2つの心の中で揺れ動く人の心の不思議さ。そんな人と自分自身をAZUKIさんは面白がっているのかもしれませんね。

きっと「愛」「時」「水」「雲」そんな移ろいゆく形なき物を愛おしく思っているんでしょうね。


saint2004 at 20:52|PermalinkComments(2)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2009年09月04日

もう一つの「世界はまわると言うけれど」AZUKI七

勢いでもう一つ(笑
と言いながら「花は咲いて。。。」とけっこう関連ありそうなんで。

実はこの曲をはじめて聴いて、頭に浮かんだのは

年年歳歳花相似
歳歳年年人不同

As time Goes By
(時のすぎゆくままに)<意訳ですが


世界は科学の進歩や色々なものが
ものすごいスピードで動いていて
でも同時に大切なものも沢山失ってしまっている。
自然を地球を守ろうとしながら
戦争や文明化という言葉にで多くの人や自然を壊してしまう。
自分のやっていることに気づいたときには
もう何かが壊れ始めてしまっている。

そんな中で流されず自分の世界を見失わず
今いる場所で生きていくこと。
そこにずっと留まれたら良いのに
少しづつ流されていく。
そこに留まって、大いなる生命体である地球がまわっていくのを
自然の流れの中で見守っていけたらどれだけ良いだろうか?

せめて窓の外で季節が移ろうのを見てすごしましょう。

で、前回、前々回の記事と繋がるんですが

「水流元入海月落不離天」
川の水は絶えず流れて行きますが、行き着く先は皆同じ大いなる海です。
そして、その海から上がった蒸気が雲を作り雨を降らせ、また川となって流れて行くのです。
月は、朝になると西へ沈んで見えなくなりますが、決して無くなってしまったわけではなく
地球の反対側の世界を照らしているだけのことであって、また夜になれば東の空から昇ってきます。
ようするに物事はけっして本性を離れることはできないというたとえなわけです。

で、何が言いたいかというと、人の世界も心もそんな自然の世界のものと同じ、絶えず動いてやみません。
昨日はあんなに悲しくて泣いたのに、今日は笑っている。
人それぞれ違った心の動き方があり、異なる方向へと進んで行きますが、行き着く先は同じなのです。
その中で、私たちはものにとらわれず、こだわらず、ただ川の流れに身を任せるように生きる。
そんな風に生きていけば良いのですよ。と教えてくれる禅語です。

ってここに持ってくるとピッタリはまっちゃいます(笑
世界が回る=人の世界も心もそんな自然の世界のものと同じ、絶えず動いてやみません。
となるわけです。

どっちを書こうか悩んだあげく愛だの恋だののバージョンになったのですが
たぶん正解はこっち。
ご本人はあの歌詞は恋だの愛だのではないと仰っていましたので(笑

前記事のコピペの多い手抜きですが(笑
書いておきたかったことなんで取りあえずすっきり(笑

saint2004 at 20:53|PermalinkComments(4)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

「上善如水」「花」そしてAZUKI七

Azukiさんの詩(詞)は深読みして行くと面白い。

「花は咲いてただ揺れて」
前記事を書いた後でふと思った。

冬来たりて春を待つ。
風に舞う雪を花に映すも人の心。
なびく花の心になりて風に身を任せる。

こんなふうに花のことを考えていると、なぜか思考が「水」に向いていく。

老子の言葉に
「上善如水(じょうぜんじょすい・じょうぜんみずのごとし) 」
というのがある。この意味は

「水は万物を助け育てながらも自己主張せず、誰しも嫌う低きへ低きへと下る。
水は低い所に留まっているが、その心は深く静かである。与えるにわけへだてがない。言動に偽りがない。おさまるべき時には必ずおさまる。働きは無理がない。
時にしたがって、変転流動して窮(きわ)まることがない。
水と同様に、自己主張せぬもののみが、自在な能力を得るのである。…」
と述べ、「人間もそういう生き方を心がけよ」と説いています。

「上善」とは、最も理想的な生き方のことで、古代の善とも称されるそうです。
老子はそれを「水の如し」であると言い、処世の理想を水の姿に求めました。

こう生きたいと願うことと実際に生きることは別。
Azukiさんもこんな風に生きたいと思っているのであろうか?
そういえば「水」をモチーフにした曲も結構あったな。
ちょっと違うけれど「君という光」なんか
男女の関係をそのまんま光合成にあてはめてる曲だし。
いずれこの曲もまたレビュー書いてみたいと思いますが。
そちらはまたの機会に。

花は水が無ければ育たない。
太陽も必要。
自然の恵みの中であるがままに生きる。
たとえ人に手折られたとしても、それもまた運命(さだめ)

それでも

川は高きより低きへ流れ、いずれも海へと集まる。
されど流れに逆らってあがくのが人の性(さが)

悲しく愛おしいかな人の性(さが)なり
と言ったところでしょうか。

最後に好きな漢詩で締めくくりましょう。

年年歳歳花相似,
歳歳年年人不同。(劉廷芝)
年ごとに咲く花は変わらないが、年ごとに花見る人は変わっていく。

そういえばこの詩Azukiさんに会った時に贈ったっけ。
忘れてそうだけど(笑)


saint2004 at 11:31|PermalinkComments(2)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2009年09月01日

「花は咲いて ただ揺れて」AZUKI七

本当に久しぶりのレビューです。
薬の副作用やらなんやらでちょっと書き物するというモチベーションがどうにも起こらなくて
多少マシになってきたので、まあボチボチとリハビリかねて。。。
ネタは色々溜まっているんですがそっちはまた追々ということで。
まあ新曲ですし。有り難いことに、こんな偏ったレビューでも楽しみにしていらっしゃる方もいらっしゃるようですので、ちょっとがんばんべえと(笑。

で、相変わらず歌詞中心です。というか歌詞だけ。
この曲聞いて思い浮かんだのが

「水流元入海月落不離天」
(みずながれて もとうみにいり つきおちて てんをはなれず)

これは禅宗のお坊さんがお葬式の時に引導を渡すときに良く話す禅語らしくて

川の水は絶えず流れて行きますが、行き着く先は皆同じ大いなる海です。
そして、その海から上がった蒸気が雲を作り雨を降らせ、また川となって流れて行くのです。
月は、朝になると西へ沈んで見えなくなりますが、決して無くなってしまったわけではなく
地球の反対側の世界を照らしているだけのことであって、また夜になれば東の空から昇ってきます。
ようするに物事はけっして本性を離れることはできないというたとえなわけです。

で、何が言いたいかというと、人の世界も心もそんな自然の世界のものと同じ、絶えず動いてやみません。
昨日はあんなに悲しくて泣いたのに、今日は笑っている。
人それぞれ違った心の動き方があり、異なる方向へと進んで行きますが、行き着く先は同じなのです。
その中で、私たちはものにとらわれず、こだわらず、ただ川の流れに身を任せるように生きる。
そんな風に生きていけば良いのですよ。と教えてくれる禅語です。

花のようにただ咲いて、そして揺れる。
そんな風に生きれたら良いのになあ。
そんなAZUKIさん流のメッセージでしょうか。

花のように生きるというメッセージは、
シェークスピアの「ハムレット」がモチーフの「春待つ花のように」
にも表れています。
もっとも「春待つ花のように」の場合はAZUKIの愛に対する思想の方が
本曲よりも強く表れていましたが。
「愛しています」は「愛してください。」
だから人は愛がそこに確かに存在するのだと信じようとするし、失望もするのです。
だったら見守る愛であれば、それは自分の中だけに存在するものであるし、
失望することも失うことも無い。春待つ花のように愛したい。
ひたすら一途に春の訪れを待つ花(行為?)が彼女の考える「愛」を表していて愛しすぎたゆえの失望。でもやっぱり愛していて、その気持ちを忘れることが出来ないならば、純粋にあなたを愛し続けられるように、君のいない何処か遠い空の下へ飛んでいって、春待つ花のように貴方を想い続けていたい。
と言った具合に。

この曲の場合は、先に書いたように、もう少し人の生き方そのものを、
こんな風に生きられたら良いのにね。的な願望が強く表れているような気がします。
最近の曲はあまり毒がなくてちょっと物足りない気がしているのですが、
AZUKIさんどんどん浮世離れされて仙人化しているんでしょうかね(笑

ちなみに
「水流元入海月落不離天」
の方は拡大解釈して、嬉しい人には共に喜び、悲しい人には共に悲しむ。愉しみあるところで共に愉しみ、愉しみ無き所にも愉しむ。このような心境が、私たちに開けてくれば、いくらかこの世を楽しく過ごせましょうと、円覚寺の足立大進師は語っています。

AZUKIさんの場合は、人と関わらずに生きていくという花の生き方の方でしょうが(笑
リハビリのわりには長文か(笑



花は咲いて ただ揺れて(初回限定盤)(DVD付)
花は咲いて ただ揺れて(初回限定盤)(DVD付)
クチコミを見る


saint2004 at 17:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年11月30日

「世界はまわると言うけれど」 Azuki七

「ふーたりのため、せーかいはまわる。。。」なんて歌詞の歌謡曲が若いころに流行して、結婚式では定番になっていたっけ。今でも歌われているんだろうか?。
「世界はまわる」という言葉は、「俺を中心に世界が回る」「二人のために世界はまわる」のように使われますが、考えてみればこれほど自分勝手で自己中心的な言葉はなかったりします。

「俺を中心に世界が回る」だと自信過剰の某小泉首相や、勘違い系の自称天才さんみたいになってしまいますが、この曲はそっちではなくて「二人のため。。」の方ですね。

「恋」をすれば、回りが何も見えなくなって、まるで世の中全部が自分達のためにだけ動いているように感じてしまうのは、恋の魔法ですね(笑
で、そんな幸せな気持ちも「恋」の終わりと共に去ってしまって、今度は、世界から自分だけが取り残されてしまったような気分になって、いきなり奈落の底に突き落とされたりしてしまうわけです。

二人で過ごす幸せな時間はあっという間に過ぎ去ってしまって、もっとゆっくり時間が流れれば良いのにと思っていたのが、朝も昼も夜もただただ長く、あてもなく時間だけがのらりくらりと過ぎていくだけだ。
生きていく価値を見失ってしまった自分は、今日から明日へと毎日を生きて行くのにさえ、強い意志が必要になってしまった。
もう自分の周りではけっして世界はまわることなどなくなってしまって
ただ呆然と窓の外で、季節が移り変わって行くさまだけを眺めているしかないんだ。

そんな失恋した、あるいは恋が終わってしまった女性の心理を、Azukiさんは、言葉に出来ない言葉を言葉にするように、詩を紡いでいっています。
いつも感心するのですが、本当にAzukiさんの言語感覚は鋭くて、長く感じる時間を「のらりくらり」なんてなかなか出てこないけれど、的確な言葉で表してくれます。

この詩、一見Azukiさんにしてはめずらしく、直球ストレートな失恋した女性の心理を歌った歌ですが、根底にはやはりAzuki哲学とも言える、彼女の詩に共通の思想が流れています。

「愛」も結局は「愛されたい」という打算であり、愛されることを求めるから裏切られるのだし、変わらぬものなどこの世にはなく、永遠と思われるものですら必ず終わりがある。だからこそ、愛は求めるものではなく、与えるものであり、その中にこそ真実の愛が唯一存在するのだという。
「裏切らぬものはない 求めるのならば
だから、ただみているのがいい…」
そう、これは、名曲「忘れ咲き」の
「愛だとか恋だなんて変わりゆくものじゃなく、ただ君を
好きそんなふうにずっとね思ってるような。。。」
を彷彿させる。

変わらぬものなどないと分かっていながら、永遠を求め
愛など無いと思っていながら、愛を求め
何度傷ついても何度でも恋をして
完璧ではないからこそ、
人間は愛すべき存在なのかもしれませんね。

そして、「優しい気持ち冷たい心 人は同時に宿すことも」と
ある意味正反対のものを同時に存在させることも
人間の本質なのでしょう。

不完全なゆえに愛すべき人間賛歌。
そんな風に、この詩読んでみるのも一興かもしれません。


saint2004 at 21:19|PermalinkComments(3)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年11月19日

「Argentina」 Azuki七

なぜか新曲「世界はまわると言うけれど」のカップリングから、レビューです。乗りの良いリズムとメロディーで人気もあるようです。


「Argentina」と聞いてすぐ思い浮かんだのは、「キャッツ」「オペラ座の怪人」などのロングランを続け日本でも有名なミュージカルの作曲者である、サー・ロイド・ウェバーのミュージカル「EVITA」。
このミュージカルの挿入曲で「DON'T CRY FOR ME ARGENTINA」(どうか私のために泣かないでアルゼンチンの人たちよ。あるいは、アルゼンチンよ泣かないでと訳される)のメロディーとシーンが頭に浮かんだ。この曲は主人公のEVITAの冒頭の葬儀のシーンで歌われる。
ロンドンでの初公演は1978年でオリジナルキャストは Elaine Paigeが主役のエヴァ・ペロンを熱演した。
映画化もされており、こちらは「マドンナ」がEVITAを好演している。
ミュージカル映画としては私的に傑作。

ストーリーはアルゼンチンのファン・ペロン大統領が政権を獲得する前後の時代を舞台に、ペロンの二度目の妻であり、国民に絶大な人気を誇ったエヴァ・ペロンの姿を描いている。実在の人物であり歴史的事実も踏まえているが、基本的にはフィクションである。
「チェ」と呼ばれる架空の人物が狂言回しのように全編を通じてストーリー運びを行うが、このチェは革命家で有名なチェ・ゲバラをイメージされたもので、映画ではアントニオ・バンデラスがなかなか良い味を出している。

貧しい村の生まれの少女が、都会に出て自らの美貌と性を売り物にし、さまざまな職業遍歴と男性遍歴を繰り返し、そこで出会った男たちを踏み台として出世。ファーストレディーとなった後は政治にも手腕を発揮した。子宮癌で亡くなるが、ミュージカルはそんなEVITAの半生を、貧しい国民の為に動く部分と贅沢の極みを尽くす二面性を、ある時は肯定的にあるときは批判的にロイド・ウェバーの名曲にのせて描いている。エヴァは国民から親しみを込めてエビータ (Evita) 、サンタ・エビータ(聖エビータ)とも呼ばれ、現在でもアルゼンチン国内では偶像的な存在の女性である。

激しく、生き急ぐように人生を駆け抜けていったエヴァの人生、はまさしくラテンそのもの。
ということで、歌詞の中の「情熱に巻かれりゃいい。。、想い出は ねえ Argentina 重く邪魔なだけね、などなど「エヴァ」の人生にも符合するキーワードがあるんで、てっきり「Argentina」は「EVITA」のことかしらと思っていたのですが、

中村さんのインタビュー記事によると踊り子のことだったようです。
ならばカスタネットの女王として、スペインの宮廷舞踏や民族舞踏に新しい解釈を加え、現在のスペイン舞踏の基礎を気づいた歴史的舞踏家「ラ・アルヘンティーナ」こと「アントニア・メルセ」ですね。
1930年ごろ亡くなっているので、その踊りを今見ることは出来ませんし、映像とかも残っているんでしょうか?少なくても私も名前は以前スペインに興味を持っていたときにフラメンコとか調べて辿り着いていたので、たまたま知っていましたが、まあ、とにかく凄いダンサーで、当時はロシアの名バレリーナのアンナ・パブロワとも並び称されるほどの名ダンサーだったそうです。
日本にも来日していて、日本のダンサーにも多くの影響を与え、特に著名な舞踏家で現在100歳を超えても現役で踊っている大野一雄に与えた影響は大きく、彼の代表作である「ラ・アルヘンチーナ頌」は彼女を讃えて創作された作品として海外でも評価が高いです。とは言っても舞踏に興味のある人しか知りませんよねこんな事(笑

なんで先に思い出さなかったか不思議なんですが、アルゼンチン生まれのスペイン人で、スペイン舞踏ってあたりが、Argentinaとマッチしなかったのかもしれません。
ファーストインプレッションって大きいですよね。
まあ、エヴァにしてもメルセにしてもラテン系らしい激しい生き方をしたことに違いはないですし、自分には出来ない生き方として惹かれますが。
「生きるために食べる」のではなく「楽しむために食べる」国民性の人たちですからね。

Azukiさんもメルセの踊りを直接見たことがあるわけでは無いでしょうから、(もし見ていたら妖怪ですねww)、中村さんが言うようにこのアルヘンティーナがメルセであるならば、メルセという舞踏家の人生からインスピレーションを得てこの作品を書き上げたと言うことでしょうか。
あるいは架空のアルヘンティーナという踊り子なのかもしれませんね。
私個人としては、この歌「EVITA」の方がしっくり来るんですが(笑

と、いうことで長い前置きが終わって(笑 本題に。
本編のほうが短いし(笑

ラテンと言えば「燃えるような恋」でもないんでしょうが、
激しい恋に生き、ひとつの愛が終わればまた次の愛に生きる。
そんなラテンの女性の生き方を情熱的な舞踏になぞらえ、ラテンのリズムにのせて語ってゆきます。
Azukiさんにしてはめずらしく、どちらかと言えばいつもと正反対の女性を描いているような気がします。
音から言葉が生み出されるというAzukiさんのお話しが、しっくりくるような作品ですね。
彼女の詞で興味深いのは、いつもある意味「それをいっちゃあおしまいだよ」的な物事の本質的なところを突いているところでしょう。
本作においても、前半では飾り付けた言葉できれい事に見せようとせず、
一つの恋の終わりを、本音でぶつけてきます。

理屈ではなく感情で生き、想い出は重く邪魔なだけと言い切る
潔い人生。
それは、短い人生を艶やかに、華やかに生きるアゲハ蝶のように
激しく生きる人生を、実在しない紅いアゲハにたとえ、
人生そのものがまるで実在しない夢であるかのように歌い上げます。
ひとつの人生が一つのステージ。
ひとつの恋がひとつのステージ。
ラテンの情熱はもしかしたら舞踏のステージと同じなのかもしれませんね。

アルヘンティーナはアルジェンティーナのスペイン語読み。
英語ではアルジェンティーナと読みます。
あえてスペイン語読みにしたのは、音の響きか何かのこだわりでしょうか。

Argentinaをダンサーメルセと考えれば、スペインが舞台になっちゃうんですが
アルゼンチンとすると、また違った解釈が生まれそうです。
踊りもフラメンコじゃなくてタンゴだよね(笑

ということで、機会がありましたらぜひ「EVITA」もご覧あれ(笑

Azukiさんらしい作品かというと???な部分もありますが、
自分に無いものとしてラテンな生き方にあこがれる部分は、
なんとなくわかりますので、興味深い一曲でした。


saint2004 at 19:12|PermalinkComments(2)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年11月13日

死生観とAzuki七

ほんと久しぶりのブログ更新です。

ちょっと体調崩してまして、というより大げさに言うと生死の境を彷徨いました。
心筋梗塞で救急車で病院へ、緊急手術と入院というまさか夢にも思っていなかった経験をすることになりました。
幸いにして症状も軽く、意識も失わず術後も順調に回復しわずか2週間という短期間で退院もできました。
退院後色々と調べてみると、心筋梗塞での死亡率は結構高く、1割以上の方が亡くなっていることを知り改めて、生死の境を彷徨ったのだなあと実感しました。(笑

病院へかつぎ込まれて、自分が心筋梗塞であること、手術にはベストを尽くすし、症状自体がそれほどシリアスな状態ではないにしても万が一の事もありますのでその覚悟はしてください。と告知されましたが、「あ、もしかして死んじゃうのかもしれないのか。まあ、いいかあ」っと驚くほど冷静に受け止めている自分に結構驚かされました。(笑
日頃からそうはありたいと思っていたのですが、いざそんな局面にたってきちんとそう思えるかは自信がなかった(笑)ので、ある意味自分に感動しましたね。(笑

理屈としては、「死」は日々の生活中でとても身近なところにいつもあって、今回のことのような事だけでなく、道を歩いていても車に轢かれたり、上から何かが落ちてきたり、駅のホームで電車を待っている時に何かの弾みで線路に落ちてとか、普段意識してなくても、本当に数センチ向こう側に常に死が存在しています。
自分に降りかかることだけでなく、親しい人間の訃報を聞いたときも同様です。

自分が死んで無になるということがどういうことか、死んだ後に人はいったいどうなるのだろうか?
わからないだけに、人はきっとそこから目を逸らしてしまうのでしょうか?
死が身近に存在するとわかっていても、あえて意識しないように努めるのでしょうか?
隣にいる「死」を意識することで「どうせいつかは死んでしまうんだ。だから何をやっても無駄さ」と自暴自棄になることが怖いから意識しないように努めているのでしょうか?
誰も逃れられない「死」という恐怖から逃れる為に宗教は存在するのでしょうか?

どんな人にも必ず訪れる「死」から目を逸らすのでなく、「死」と向かい合うことはとても大切な事かもしれません。

と、まあそんなわけで色々あってブログ中断していましたが、
術後の経過は順調だったんですが、薬の副作用か集中力が継続せず、
やっと薬に身体も慣れてきましたし、新曲も発売になることですし再開です。

友人からは「自ら「三途の川」を渡りかけてしまって、「永遠に葬れ」になるところでした。
「七様研究」にこだわるにも程があります! 」と笑われましたが(笑)
今回はレビューではなく死にかけたので死つながりのお話しをAzukiさんに繋げておひとつ。
(何がなんでもAzukiさんに繋げてるし 笑)続きを読む

saint2004 at 08:16|PermalinkComments(8)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年07月09日

「夢か現(うつつ)か幻か」 Azuki七

デジタルの画像補正にリサンプリングという技術があります。
これは画像の拡大時に画像が綺麗に見えるように、本来存在しない情報を補完する技術です。
解りやすく説明すると、テレビのスパイ物なんかで、画面の中に小さく写っている車のナンバープレートを調べるために、技術者がコンピュータを操作すると、ぼやけていたナンバーがくっきりはっきりするやつですね。(現実にはあんなことは出来ませんがww)

これは、この本来存在しない情報を補完というのがミソで、実は同じことが人間にも起こるんですね。
たとえば、病気で急に視力が落ちてしまった人がいます。まったく見えなくなっているわけではないというのがミソで、眼から入った、はっきりしない信号を脳が情報補完してしまうんですね。
脳に蓄えられた今まで見た景色などから、勝手に像を補完してしまうわけです。
で、きちんと補完できれば良いのですが、勝手にやっていることなので嘘の補完をしてしまって、
本来そこに存在しない物なんかを勝手に作ってしまうわけです。
これがひどくなって行くと、常に幽霊みたい物が目の前を動き回ったりしてしまうわけですね。
いわゆる幻覚というやつです。
一番やっかいなのは、脳が勝手に嘘ついていることに本人が気がつかないことなんですね。
もしかしたら心霊現象といわれているものの多くはこれかもしれませんね。

似たような話にファントムペインって言うのがあります。
これは事故なんかで手や足を失ってしまった人が、
失って存在しない足先が痛んだりするんですね。
これも、同じように脳が嘘をついているわけです。

脳が嘘ついても解らない。。。。
となると、今自分が見ているものは本当にそこに存在するのか?
今、手にしている物は本当にそこに存在しているのか?
と、なってしまうわけですね。

現実にこんな事が起こるわけですから、
自分自身の存在だって。。。。。
なんて言うのが哲学だったりするわけですね。

まあ夢のない現実的な話はさておいて、
生命(ゆめ)、幻想(ゆめ)、現実(ゆめ)、幻(ゆめ)、命(まぼろし)
なんて興味深い当て字、Azukiさん使ってます。
そのまんま、「夢・花火」「まぼろし」なんて曲も書いてます。
結構、このへんテーマにした歌詞多いですね。

夢の中で生きていたとしても、脳が嘘ついていることに気がつかなければ
それは現実と一緒ですよね。
そして、
夢(いま)が明日(ゆめ)に続くものだとしたら
明日(ゆめ)は立ち向かい自ら勝ち取るものなのかもしれませんね。
たとえそれが儚い夢だとしてもね。
いえ、儚い夢だからこそね。

Azukiさんはどんな夢の中で生きていらっしゃるんでしょうかねえ。。

saint2004 at 23:18|PermalinkComments(3)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年07月07日

「ないものねだり」とAzuki七 「涙のイエスタデー」

「ないものねだり」というと、自分に持っていないモノを欲しがることと思われることが多いのだけれど、実は実際におきた事実や認識などを、現実の証拠ではなくて、そうあって欲しいという願望に基づいて勝手に解釈してしまうことだったりします。

で、創作物、絵画とか詩と小説とかにおいても、この「ないものねだり」が起こります。たとえば自分の好きな作家がいて、あれっ?て思っても、その作者の作品を好きなあまり、この作家がこんなこと書くわけがないと自分の理解出来る部分や好きな部分を探し出して、それ以外の部分を眼隠して、拡大解釈して自分を納得させてしまうってやつです。
こうなると作品そのものの評価ではなくて、「この作家が好き」から「この作家が書く物なら何でも好き」になってしまうわけです。
これが酷くなっていくと、誤解、歪曲、隠蔽、不誠実、事実の曲解ということになってしまいます。

これは理解できても自分として納得がいかない場合や、全く理解できない箇所があった場合の2つのパターンで起こります。
理解できない箇所があってフィルターをかけてしまう場合に関しては、実は単に本人の勉強不足にしかすぎなかったり、理解しようとする努力を怠っているだけだったりします。

もちろん、理解できる場合によっても、人それぞれの理解度や感覚や感情、判断なんてのは異なって当然ですから、そういうもの含めて、作者側でもそれがわかっているので、「読み手の解釈にお任せします」ってなるわけですね。
そのへん正直に「理解できないなら勉強しろよ」とか言ってしまうと、避難の的になってしまうわけです。

まあ、人の意識なんてのはもともと、いつでも物事を選択的に捉えていて、自分が記憶しているデータや、それに目立つデータを選び出しています。
その理由は、私たちがそうしたデータをすでに信じていたり、信じたいと強く願っているからです。これを選択的思考と呼びます。
ようするに望ましい証拠だけを取り出して論じる一方で、仮説にとって望ましくない証拠は無視するプロセスである。
もっとわかりやすく言うと、人は見たくないものは見ない、聞きたくないものは聞かないという心理が無意識に働いていて、理解できないものや納得できない事項に出会ったとき、簡単にそれを忘れてしまうということなんですね。

で、この選択的思考を意図的に使っていくと、マジックショーの占いや超能力者のコールド・リーディングと呼ばれている読心術になっちゃうわけです。
コールドリーディングについてもう少し説明しておくと、コールド・リーディングの多くは、占星術などの占い師や血液型性格診断などの判断結果、超能力を持っていると自分で信じている霊能力者によって行われていることが多いのです。これらの人たちは非常に洞察力が優れていることが多く、決して悪意ではなく、自分たちの正確な洞察に、相手と同じくらい影響を受けてしまっています。

コールド・リーディングには3つの要因があるとされていて、一つめはディテールの釣りあげで、霊能者が例えば「秋というイメージが頭に強く感じます」と言って、被験者が「兄が秋に死にました」とか「秋に海外に旅行に行こうと思っていたのですがどうも気が進みません」など霊能者が言った曖昧で暗示的な言葉である「秋」という言葉に反応して肯定的あるいは否定的な答えを出したら、霊能者は被験者の答えに自分の答えをすり合わせて「ええ、私には見えていました」と自分の言い分を裏付けるようなことを言って見せるわけである。
もし、被験者から「秋から何も思いつきません」という否定的な答えが出たら、「そうでしょう。貴方は無意識に記憶を押さえつけているのです。何か過去に痛々しいことがあったはずです。そう、たとえば病気とか(ここが釣り)」と答えれば良いわけです。この巧みなところは被験者が何か反応すればそのまま続ければ良いし、それでも何も心当たりが無いという答えが被験者から出れば、霊能力者は、被験者の抑圧する力が大きいのでこれ以上見ることは出来ないと言って、この質問から自分の評価を下げずに逃げてしまえると言うことです。

まあ、このコールドリーディングは、相手があって行われることですが、選択的思考は先に書いたように小説や歌詞などにおいても、ごく自然に行われているわけです。

たとえば、J-POPなど多くの人を対象にされる表現世界においては、本当に自分の言いたいことをストレートに伝えてしまうと、それを理解できない人たちから反感を買うなど、商業的になりたたなくなるばかりでなく、作家生命の危機に陥ったり、会社から契約を解除されてしまうわけです。
そうかと言って、書きたくもない物を書くのは何のために作家活動を行っているのかわからなくなるということになりますので、選択的思考が発動するような巧みな表現力が必要になってくるわけです。

Azukiさんは、どうもこのあたりのバランス感覚が大変優れた作家のようで、実に巧妙にオブラートで包み込んでいきます。
もちろん包み損ねもありますが、そうなるとファン側はファン側でまた、勝手な解釈を行ってくれますので、先ほどの「Azukiさんの書いた物ならなんでも好き!」になってしまうわけですね。(笑)

azukiさんの世界観を会社やグループのメンバーが許容しているうちは良いのですが、世界観を否定して、もっとわかりやすいもの、メジャーなモノをazukiさんに強く要求するようになった時が、彼女が新しい創造の場へ旅立つ時なんでしょうね。
新曲「涙のイエスタデー」を聞いてそんなこと考えていました。
この曲あたりが限界点?(笑)
ま、真実は解りませんがね。
もしかしたら、それこそ私の思いこみだけかもしれませんが。

saint2004 at 11:56|PermalinkComments(5)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年06月14日

in little time Azuki七 与え続けるだけの愛

この歌詞(うた)自分的にはとっても微妙です。
ルコント監督の「髪結いの亭主」のシーンが引用されていますが、
引用であってモチーフでは無い気がします。
はじめて聞いたとき(読んだとき)はちょっとドキッとしましたが、
結構人気のある曲のようですが、いつもながら、自分の場合は、たぶん人とは違うところで反応してるんでしょうね。(笑続きを読む

saint2004 at 01:10|PermalinkComments(7)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年06月13日

容姿と頭脳と

美人でスタイルも良く、しかもとても頭が良く聡明な女性がいます。
「とても恵まれて幸せな女性(ひと)」と普通思いますよね。
では本当に幸せかというと、まんざらそうでなかったりもします。
なまじ頭が良いと言うのが問題だったりします。
こういう人の場合自分の容姿に実はコンプレックスを持っているケースが多かったりします。
普通の場合と逆ですね。
外見でなく実力で能力で評価して欲しいのに、外見ばかりが評価の対象になったりします。
そうすると、スカートや肌の露出の多い服ではなく、肌の露出が少ない、スラックスや暗めのモノトーンの服など男っぽい格好をし化粧もあまりしなくなります。
早く年を取りたいなんて言ったり願ったりしてしまいます。
きちんと実力で評価して欲しいと願うあまり、今度は必要以上に頑張りすぎて、
嫌な女、可愛くない女と言われてしまいます。

美人なので言い寄って来る男も多いのですが、ほとんどすべてが外見だけに惹かれて寄ってくる男ばかりで、中味をきちんと見ようともしてくれません。
ましてや、男と女では脳みその構造が違います。ほとんどの男性は肉体的な快楽でセックスをしますが、女性は脳みそでセックスします。
当然そんな盛りの付いたワンコのような奴とはつきあいたくありません。
お断りすると、今度は「あいつは美人な事を鼻にかけて高ビーな女」と言われてしまいます。
ややもすると、同性からもやっかみやひがみから陰口を叩かれる。
そうなると、男性不信や人間不信にだんだんなって行ったりします。
自分の内面世界に引きこもることが多くなりますが、もともと頭が良いものだから思考はますます活性化し精神面や思想、哲学、宗教などそっちの領域にどんどん脚を踏み入れてしまいます。
開き直って嫌な女になりきって、仕事でバリバリがんばるケースもあるでしょう。
ただ、男性社会で生きて行く以上やはり今度は女性であるという壁が常についてまわります。
どちらにしても大変であることに違いはないということですね。

このように美人で聡明な女性が、自分の能力が生かせて、正当な評価が得られる出口が見つかった女性(ひと)は幸せでしょうね。

逆もありますよね。容姿が人より著しく落ちているのに聡明な女性も同じ苦労を味わっていらっしゃるのでしょうね。ま、この場合男性でもありますけどね。

で、容姿の話ですが、これがまた実は結構いい加減だったりします。
それまではどちらかと言えばブスだと思っていた女性が、ある瞬間から急に可愛く愛おしく思えるようになったりします。いわゆる恋に落ちるという奴ですね。
これは実は種族保存本能のなせる技で、ある種のフェロモンのようなものが出て、視覚から脳に出力される信号にフィルターをかけてしまっていたりします。
だから恋はさめてしまうんでしょうね。(笑
ま、それぐらい容姿なんて実はいい加減なものだということです。

物事の本質を見抜ける眼。とても大切です。
下半身でばかり女性を見ていないできちんと女性のことみてあげましょうね。
世の男性諸君。

てなことを、先日ある素敵な女性とお話ししていた時に
この人も辛い思いされたんやろか?
どうやったんやろか?などと、何気に考えてしまいました。

Azuki七さんも美人やし。。。。
どうなんでしょうね(笑

saint2004 at 09:00|PermalinkComments(0)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年05月27日

AZUKI七 ワイルド モロー

Azukiさんお気に入りの作家ではオスカーワイルド。
お気に入りの画家ではギュスターブ・モローだそうで、しばらく前に出た「ダ・ヴィンチ」という雑誌のエッセイでも熱く語ってます。
モローの画集を挿絵代わりにワイルドを読み、ショパンを聴くって、、、。
やはりただ者ではないですね(笑
(ワイルドの全集もモローの画集も持っている自分があんまり人のこと言えないですが w ちなみにワイルドの全集はすでに絶版で現在入手不可です)

で、モローとワイルドなんですが、これが繋がってたりするんですね。
ワイルドはモローの「出現」など「サロメ」をモチーフにした作品に影響を受けて戯曲「サロメ」を書いていたりします。
モローは絵の具で描かれたデカダン文学と言われていたりして、デカダンスの文学の代表がワイルドだったりします。
この3人いろんなとこで繋がってたりします。
モロー・オルペウスの首を抱くトラキアの娘=Azuki・未完成の音色
ワイルド・薔薇とナイチンゲール=Azuki・Dreaming of love
他にもなんかありそうですよね。

Azukiさんも言ってますが、ワイルドの作品はワイルドそのものなんですね。
「ドリアングレー。。。」のドリアンはまんまポジーだし、画家のバジルはワイルドそのものです。
ワイルドの作品の根底に流れる「愛」はひたすら与え続ける愛であり、求め合うものではないんですね。これってAzukiさんのルーツかなとか思ってしまいます。

ちなみにワイルドはこのポジーとの関係が原因で投獄されてしまうんですが、モローの方も実際にはちゃんと女性と結婚もしているので同性愛者ではないのですが、作品に書かれる女性は中性的でアンドロギュヌス的姿態で、精神的にはそういう嗜好があったのではと言われています。

デカダンス(退廃)メタ芸術この辺がキーワード?
そう言えばAzukiさんの詞、ある意味メタ系多いですよね。
メタJPOPS(笑

なんて事を久しぶりにドリアングレー読みながら考えてました。
うーん。やっぱりワイルドは良いわ〜。

saint2004 at 01:58|PermalinkComments(1)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年04月10日

AZUKI七とデカルトとフィリップ・K・ディックと

前記事で人間が人間であることの証明としてデカルトを引用しているが、気づいた方がいるかどうかはともかく、実は「我思う故に我あり」にはパラドクスが発生している。私が存在することを条件にしなければ私を欺く誰かも存在しないということなのだ。

また、デカルトはその著書の中で「猿またはどれかほかの、理性をもたぬ動物と、まったく同じ器官をもちまったく同じ形をしているような機械があるとすると、その機械がそれら動物とどこかでちがっているということを認める手段をわれわれはもたないであろう。」と言っている。
これはようするに身体的なことに限って言えば、人間以外の理性を持たない動物に限れば区別ができないということである。ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」に出てくる、人造のフクロウやカエルなどがこれにあたるわけである。ここまで来ればわかるように、そう、実はディックの本作はその題名からも推し量れるようにデカルトの人間が人間たる云々がモチーフとなって書かれていることに気がつくはずである。

デカルトは理性が人間特有のものであり、この理性はどんなに精巧に身体をまねても生み出せないものであり、理性や知性を引き起こす「精神」という存在が身体とは別の器官として人間の中に非物質的に存在するとする心身二元論に導かれて行くのだが、この心身二元論は多くの議論を巻き起こすことになる。

実はディックは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」においてデカルトの思想をモチーフにするだけでなく、デカルトの言説に対してのアンチテーゼであり指摘に対する答えとなっていることが大変興味深い。
なぜならディックの本作ではアンドロイドに理性や知性、感情を持たせたことによって引き起こされた悲劇を描いているからである。

アンドロイドの行動や感情が人間によって与えられた記憶や知識によって引き起こされる生体反応であるとしたら、デカルトが提唱している人間が人間として存在する証である理性や知性なども、我々人類よりはるか高次元に存在する何か(神とか宇宙人とか)によってプログラミングされたものでないという保証はどこにも無いわけである。ようするに人間とアンドロイドを最終的に区別するものはその出自しか無いわけであるが、アンドロイドに生殖機能を与えたとしたらそれすら判別がつかないものなってしまうということである。

デカルトの心身二元論に話を戻すと、精神は身体と分離して考えられるのであるが、実際に精神はどこにあるかというと脳を含めて身体構成器官にはそれを見つけることは出来ないわけである。となると非物質器官として存在する精神が身体と連動して行くと言うことになる。こういう場合これを証明する手段として宗教が有効な手段となる。実際にデカルトもキリスト教の神の存在によって精神の存在を具現化している。
ではキリスト教以外の神を信じる人間にとって(たとえば仏教を信仰する民族)は東洋思想における神=仏教神の存在によって精神の存在を証明しようとするわけである。実はここで興味深いのは東洋思想においては、その教えの中に精神を身体の中に蓄える器官としてチャクラというものが胸の下のみずおちの辺りにあり、その中に光(精神・魂)を内包しているとされている。
大変興味深いことに、これは実はキリスト教的神によって説明が出来なかったものが東洋思想と出会うことにより(チャクラの存在の有無は別として)心身二元論は具現化できてしまったわけである。

ディックという作家はその著作の中で「現実とは?」というテーマを追い求めている。映画「トータルリコール」(原題追憶売ります)でも主人公がリコール社の技師から、今あなたが現実だと思っている世界は我々が創り上げた虚構の世界だ。あなたは今火星のホテルにいるのではなく、リコール社のベッドに横たわっている。このまま戻らなければあなたは虚構の世界に取り残されて、現実の世界ではただの廃人になってしまうのだ、と説明するシーンがある。
これは映画「マトリクス」における世界観と同じものであるが、結局どちらが現実なのかは肯定も否定も出来ない。なぜならばどちらにしても本人現実だと信じた世界こそが本人にとっての現実であるからである。
たとえば夢を見る。これは精神が身体から分離されて現実とは別の世界に存在するとも言えるわけで、寝ている自分も夢を見ている自分も現実には違いはないということになる。つまり現実というのは常にひとつに限定されない多様性を持ったものであり、精神という非物質的な存在はこれらの現実の多様性の中にしかあり得ないと言うことになる。

AZUKI七の「風とRAINBOW」が興味深いのは、彼女の作品の多くの根底に流れる、「存在とは」「現実とは」と言った哲学や精神、宗教的なテーマを、ある意味ディック以上にわかりやすい形でJPOPの歌詞に落とし込むその作詞能力であろう。たぶんモチーフはディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」であると想像できるが、アンドロイド。。。のレイチェルよりはるかに女性として魅力的な(原作のレイチェルは幼児体型でボーイッシュ)アンドロイドを主人公にすることにより、人間たらんとするアンドロイドの苦悩を明快に描ききっている。また同時にアンドロイド化し人間性を失っていく人類に対する警鐘すら発しているように感じられる。
精神は身体的制約から切り離されて自由を勝ち取ることが可能である。
物質文明に終焉が訪れつつある現在、我々もより高次元の多次元的意識へと意識変革を迫られているのかもしれない。

と、まあ相変わらずの深読みですが、頭の中の引き出しに色んなものが入っているとこんな風に読み取ることも面白かったりします。
でもAZUKIさん絶対フィリップ・K・ディック読んでると思うな(笑
しかしこんな小難しいレビューあんま無いわな(自爆)

saint2004 at 01:22|PermalinkComments(3)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年04月04日

「風とRAINBOW」 AZUKI七「我思うゆえに我あり」

風とRAINBOW/この手を伸ばせば


「風とRAINBOW」


「ロボットに魂はあるか?」
これってSFの永遠のテーマのひとつで、それこそいろいろな作家が挑戦してます。
アシモフの「私はロボット」、クラークの「2001年宇宙の旅」、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」、手塚治虫の「鉄腕アトム」や「火の鳥」、石ノ森章太郎の「人造人間キカイダー」、士郎正宗の「攻殻機動隊」、ちょっと変化球だとタニス・リーの「銀色の恋人」やエヴァンゲリオンなんかもそうですよね。
科学がどんどん進んで、コンピューターの人工知能が進化していくと基本的に人間と変わらなくなってしまうのでは?というあたりから、そこに発生する悲劇や喜劇が作家のインスピレーションを刺激するんでしょうね。
実際有機コンピューターなんてのも理論的には出来上がっていますから、まんざら絵空事とは言えなくなってきてしまってます。

実際のところ、脳の働きは電気信号を処理してるわけでコンピュータが行っていることと基本的に変わらないわけです。
たとえば良く「勘が働く」なんて言いますが、これも実は観察した事項を経験と照らし合わせて判断して予測しているわけで、経験値を蓄えるデータベースがあって、行動を予測するためにそのデータベースにアクセスして、確率から結果を導き出しているわけです。まあ、ようするにAiですね。簡単に言うと日本語変換のAi辞書と理屈は一緒な訳です。
こういう事が現実に可能であれば、感情なんてのも実は同じように導き出せるわけですよね。現実は反射的にそういう演算を行うにはスーパーコンピュータでも追いつかないわけで、でも理論的には可能ってあたりがミソなわけです。
そうなると、コンピュータがものすごく進歩したらコンピュータが人間の脳と変わらなくなってしまって、ロボットにも魂が宿るかもってなっちゃうわけです。「攻殻機動隊」では人間が人間たらんとする要素をゴーストなんて呼んで、電子頭脳に人間の脳の中身を移したらゴーストが宿るか?ってのがテーマだったりするわけです。

フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」では、ロボット(アンドロイド)が限りなく人間に近づいていって外見的にも区別がつかなくなってきて、アンドロイドと人間を判断するために、アンドロイドには人間の持つ感情移入(エンパシー/共感)能力がないので、 フォークト=カンプフ感情移入度測定法(これはチューリング・テストって言って実際にある)によって、目の前の人間が本当の人間 なのか、それとも人間の姿形をした機械に過ぎないのかを、判断することがで きるっていうのをやるわけです。でもアンドロイドがどんどん人間に近づいてその判定方法すらあやしくなってくるわけです。で、逆説で果たして人間には本当に感情移入があるのか?っていう疑問も生じてきてしまうわけです。そうするとアンドロイドも人間も自分というものが存在しているということは幻想ではないのか?という疑問にぶち当たるわけです。

つまり、デカルトの「我思うゆえに我あり」で、私が思う以上、私は存在する。つまり、誰か神のようなものが、私は存在すると私に思わせておいて、実は私は存在していないのかもしれない。しかし、少なくともこの欺く誰かは私という対象の存在をすでに認めた上で欺いているのである。私が本当に存在しないのならば、この欺く対象さえ存在しないことになる。また、この欺く誰かは存在していたとしても存在しない私にどうやって存在していると欺くのか。ということになるわけです。
実はSFと哲学はとっても近いところにあるんですね。

って全然曲のレビューじゃないですね(笑
「風とRAINBOW」がAZUKI流の「感情移入」ロボットと人間を区別する物なんでしょうね。
アンドロイドも人間も、結局幻想の中で同じ物を求めて続けているんだ。ってとこでしょうか。
結局オチはいつものazukiワールドです。
azukiさん最近こういう創作性の高い物にチャレンジしてるんでしょうか。
どちらにしても表現が広くなって楽しみです。
歌詞読んでたらこんな事が思い浮かんできましたが、これも計算で導き出された生体反応?(笑


saint2004 at 02:04|PermalinkComments(5)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七