2007年04月

2007年04月10日

AZUKI七とデカルトとフィリップ・K・ディックと

前記事で人間が人間であることの証明としてデカルトを引用しているが、気づいた方がいるかどうかはともかく、実は「我思う故に我あり」にはパラドクスが発生している。私が存在することを条件にしなければ私を欺く誰かも存在しないということなのだ。

また、デカルトはその著書の中で「猿またはどれかほかの、理性をもたぬ動物と、まったく同じ器官をもちまったく同じ形をしているような機械があるとすると、その機械がそれら動物とどこかでちがっているということを認める手段をわれわれはもたないであろう。」と言っている。
これはようするに身体的なことに限って言えば、人間以外の理性を持たない動物に限れば区別ができないということである。ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」に出てくる、人造のフクロウやカエルなどがこれにあたるわけである。ここまで来ればわかるように、そう、実はディックの本作はその題名からも推し量れるようにデカルトの人間が人間たる云々がモチーフとなって書かれていることに気がつくはずである。

デカルトは理性が人間特有のものであり、この理性はどんなに精巧に身体をまねても生み出せないものであり、理性や知性を引き起こす「精神」という存在が身体とは別の器官として人間の中に非物質的に存在するとする心身二元論に導かれて行くのだが、この心身二元論は多くの議論を巻き起こすことになる。

実はディックは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」においてデカルトの思想をモチーフにするだけでなく、デカルトの言説に対してのアンチテーゼであり指摘に対する答えとなっていることが大変興味深い。
なぜならディックの本作ではアンドロイドに理性や知性、感情を持たせたことによって引き起こされた悲劇を描いているからである。

アンドロイドの行動や感情が人間によって与えられた記憶や知識によって引き起こされる生体反応であるとしたら、デカルトが提唱している人間が人間として存在する証である理性や知性なども、我々人類よりはるか高次元に存在する何か(神とか宇宙人とか)によってプログラミングされたものでないという保証はどこにも無いわけである。ようするに人間とアンドロイドを最終的に区別するものはその出自しか無いわけであるが、アンドロイドに生殖機能を与えたとしたらそれすら判別がつかないものなってしまうということである。

デカルトの心身二元論に話を戻すと、精神は身体と分離して考えられるのであるが、実際に精神はどこにあるかというと脳を含めて身体構成器官にはそれを見つけることは出来ないわけである。となると非物質器官として存在する精神が身体と連動して行くと言うことになる。こういう場合これを証明する手段として宗教が有効な手段となる。実際にデカルトもキリスト教の神の存在によって精神の存在を具現化している。
ではキリスト教以外の神を信じる人間にとって(たとえば仏教を信仰する民族)は東洋思想における神=仏教神の存在によって精神の存在を証明しようとするわけである。実はここで興味深いのは東洋思想においては、その教えの中に精神を身体の中に蓄える器官としてチャクラというものが胸の下のみずおちの辺りにあり、その中に光(精神・魂)を内包しているとされている。
大変興味深いことに、これは実はキリスト教的神によって説明が出来なかったものが東洋思想と出会うことにより(チャクラの存在の有無は別として)心身二元論は具現化できてしまったわけである。

ディックという作家はその著作の中で「現実とは?」というテーマを追い求めている。映画「トータルリコール」(原題追憶売ります)でも主人公がリコール社の技師から、今あなたが現実だと思っている世界は我々が創り上げた虚構の世界だ。あなたは今火星のホテルにいるのではなく、リコール社のベッドに横たわっている。このまま戻らなければあなたは虚構の世界に取り残されて、現実の世界ではただの廃人になってしまうのだ、と説明するシーンがある。
これは映画「マトリクス」における世界観と同じものであるが、結局どちらが現実なのかは肯定も否定も出来ない。なぜならばどちらにしても本人現実だと信じた世界こそが本人にとっての現実であるからである。
たとえば夢を見る。これは精神が身体から分離されて現実とは別の世界に存在するとも言えるわけで、寝ている自分も夢を見ている自分も現実には違いはないということになる。つまり現実というのは常にひとつに限定されない多様性を持ったものであり、精神という非物質的な存在はこれらの現実の多様性の中にしかあり得ないと言うことになる。

AZUKI七の「風とRAINBOW」が興味深いのは、彼女の作品の多くの根底に流れる、「存在とは」「現実とは」と言った哲学や精神、宗教的なテーマを、ある意味ディック以上にわかりやすい形でJPOPの歌詞に落とし込むその作詞能力であろう。たぶんモチーフはディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」であると想像できるが、アンドロイド。。。のレイチェルよりはるかに女性として魅力的な(原作のレイチェルは幼児体型でボーイッシュ)アンドロイドを主人公にすることにより、人間たらんとするアンドロイドの苦悩を明快に描ききっている。また同時にアンドロイド化し人間性を失っていく人類に対する警鐘すら発しているように感じられる。
精神は身体的制約から切り離されて自由を勝ち取ることが可能である。
物質文明に終焉が訪れつつある現在、我々もより高次元の多次元的意識へと意識変革を迫られているのかもしれない。

と、まあ相変わらずの深読みですが、頭の中の引き出しに色んなものが入っているとこんな風に読み取ることも面白かったりします。
でもAZUKIさん絶対フィリップ・K・ディック読んでると思うな(笑
しかしこんな小難しいレビューあんま無いわな(自爆)

saint2004 at 01:22|PermalinkComments(3)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七 

2007年04月04日

「風とRAINBOW」 AZUKI七「我思うゆえに我あり」

風とRAINBOW/この手を伸ばせば


「風とRAINBOW」


「ロボットに魂はあるか?」
これってSFの永遠のテーマのひとつで、それこそいろいろな作家が挑戦してます。
アシモフの「私はロボット」、クラークの「2001年宇宙の旅」、フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」、手塚治虫の「鉄腕アトム」や「火の鳥」、石ノ森章太郎の「人造人間キカイダー」、士郎正宗の「攻殻機動隊」、ちょっと変化球だとタニス・リーの「銀色の恋人」やエヴァンゲリオンなんかもそうですよね。
科学がどんどん進んで、コンピューターの人工知能が進化していくと基本的に人間と変わらなくなってしまうのでは?というあたりから、そこに発生する悲劇や喜劇が作家のインスピレーションを刺激するんでしょうね。
実際有機コンピューターなんてのも理論的には出来上がっていますから、まんざら絵空事とは言えなくなってきてしまってます。

実際のところ、脳の働きは電気信号を処理してるわけでコンピュータが行っていることと基本的に変わらないわけです。
たとえば良く「勘が働く」なんて言いますが、これも実は観察した事項を経験と照らし合わせて判断して予測しているわけで、経験値を蓄えるデータベースがあって、行動を予測するためにそのデータベースにアクセスして、確率から結果を導き出しているわけです。まあ、ようするにAiですね。簡単に言うと日本語変換のAi辞書と理屈は一緒な訳です。
こういう事が現実に可能であれば、感情なんてのも実は同じように導き出せるわけですよね。現実は反射的にそういう演算を行うにはスーパーコンピュータでも追いつかないわけで、でも理論的には可能ってあたりがミソなわけです。
そうなると、コンピュータがものすごく進歩したらコンピュータが人間の脳と変わらなくなってしまって、ロボットにも魂が宿るかもってなっちゃうわけです。「攻殻機動隊」では人間が人間たらんとする要素をゴーストなんて呼んで、電子頭脳に人間の脳の中身を移したらゴーストが宿るか?ってのがテーマだったりするわけです。

フィリップ・K・ディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」では、ロボット(アンドロイド)が限りなく人間に近づいていって外見的にも区別がつかなくなってきて、アンドロイドと人間を判断するために、アンドロイドには人間の持つ感情移入(エンパシー/共感)能力がないので、 フォークト=カンプフ感情移入度測定法(これはチューリング・テストって言って実際にある)によって、目の前の人間が本当の人間 なのか、それとも人間の姿形をした機械に過ぎないのかを、判断することがで きるっていうのをやるわけです。でもアンドロイドがどんどん人間に近づいてその判定方法すらあやしくなってくるわけです。で、逆説で果たして人間には本当に感情移入があるのか?っていう疑問も生じてきてしまうわけです。そうするとアンドロイドも人間も自分というものが存在しているということは幻想ではないのか?という疑問にぶち当たるわけです。

つまり、デカルトの「我思うゆえに我あり」で、私が思う以上、私は存在する。つまり、誰か神のようなものが、私は存在すると私に思わせておいて、実は私は存在していないのかもしれない。しかし、少なくともこの欺く誰かは私という対象の存在をすでに認めた上で欺いているのである。私が本当に存在しないのならば、この欺く対象さえ存在しないことになる。また、この欺く誰かは存在していたとしても存在しない私にどうやって存在していると欺くのか。ということになるわけです。
実はSFと哲学はとっても近いところにあるんですね。

って全然曲のレビューじゃないですね(笑
「風とRAINBOW」がAZUKI流の「感情移入」ロボットと人間を区別する物なんでしょうね。
アンドロイドも人間も、結局幻想の中で同じ物を求めて続けているんだ。ってとこでしょうか。
結局オチはいつものazukiワールドです。
azukiさん最近こういう創作性の高い物にチャレンジしてるんでしょうか。
どちらにしても表現が広くなって楽しみです。
歌詞読んでたらこんな事が思い浮かんできましたが、これも計算で導き出された生体反応?(笑


saint2004 at 02:04|PermalinkComments(5)TrackBack(0)GARNET/AZUKI七