ケープタウン

2011年04月27日

虹の国・南アフリカ

大阪支社の中島です。中南米を担当してブログを書いていますが、ちょっと越境しました。南アフリカのケープタウンを訪ねた時のエピソードをお話ししてみたくて。

広い荒野をひた走って駐車場でバスを降りると、悪戯者のヒヒが乗用車のボンネットに乗っかって、どこかから拝借してきたパンを袋ごとかじっていました。そんなのを見ながら、今度はフニクラーというケーブルカーに乗ってやっとそこにたどり着きました。しかし、立つのも困難なほどの強風が、まだそこへ向かわせることを拒んできました。京風ならまだしも、狂風なのです。そんなふうにして、そこは、左にインド洋、右に大西洋の境界線。アフリカ大陸の最南西端。ずっと先には南極大陸があるだけ。この風景を言い表そうにも、単純明解で使い古された言葉しか出てきませんが、つまらない悩みなんか一瞬にして忘れさせてくれるような雄大さでした。
P10708824人の日本人少年使節は、喜望峰を通ってヨーロッパを目指しました。ペリー提督の黒船も、メリケンから喜望峰を通って浦賀へ向かいました。そして、ザビエルも。みんな、海の向こうを想像しました。みんな、世界が見たかったのです。いつの時代も。地図を広げて、その上に羅針盤を置いてみて。日本人が見たガイコク。外国人が見たニッポン。ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を開拓したのは、喜望峰が発見されて十年後のことでした。彼らが見た景色を眺めました。この岬から、彼らが乗っていた船を思い浮かべてみました。僕はコロンブスと誕生日が同じなので、勝手に運命を感じています。彼らは船からこの岬を見て何を思ったのでしょうか? インド洋の航海中、船酔いしなかったのでしょうか?

ケープタウンの沖合に浮かぶロベン島の港湾で、アザラシがゆらゆら泳いでいました。ボンティボックがのろのろと、アスファルトの道路を歩いていました。墓地には、この島に隔離されていたハンセン病のたくさんの患者が眠っています。
ロベン島は、アパルトヘイト(人種隔離政策)に抵抗した人たちの強制収容所だった島で、世界遺産にも登録されています。無意味な強制労働を強いられた採石場を見た後、旧刑務所を訪ねました。そこでは、元囚人が所内を案内してくれるのです。ルウェリンさんは14年間、ここに収監されていました。両手、両足に手錠をかけられて島へ連れてこられ、強制労働と拷問の日々だったそうです。
狭い雑居房に、100人以上も押し込められていました。囚人一人に対して毛布を3枚支給されていましたが、それも蚤だらけだったそうです。汚れの落ちない石鹸。水回りは海水なので、シャワーを浴びる時、看守から受けた拷問のせいで体の傷が沁みました。寝返りを打つことも困難でした。毎日、午前4時に起こされました。政治的な話は一切禁止され、囚人たちの会話は盗聴されていました。人種、つまり肌の色によって食事の量が違い、牢獄も分けられていました。そうやって、人種間で争いが起きるように仕向けられていたそうですが、リーダー的存在の囚人がそれをいつも抑えていました。こんな所でも人種の分離は徹底していたのです。白人の看守は激しい音を響かせて、乱暴にドアを閉めていきました。
希望の光は消え、不幸の波は引きません。行き場を失った脆弱な心情を、誰が慰めてあげることができるのでしょう? 彼らの心は、闇夜の中を漂流し続け、やっと見つけた灯台の灯りのように、たどり着くべき場所を見つけました。そこで生を選び、死を選んだのです。そこには最大公約数も最少公倍数もありません。奇跡の積み重ねが人間を創りました。しかし、人間は生き方が判らず迷走しました。ただでさえ、生きることは大変なのです。その権利を奪ったり、制御することは、誰もしてはいけないことなのです。
「18年間も収監されていたマンデラさんも、たまにここにやって来てガイドをしていたんだが、彼は10分ぐらいで終わらせてしまっていたよ」
高級政治犯たちが収監されていたブロックB棟のネルソン・マンデラの独房を覗きました。こんな所に18年も……。愕然としました。
「彼は何度も脱獄を考えていた。島の周りの海には、サメもうようよしているのに。泳ぐのは到底無理なのに」
2011年4月現在、ネルソン・マンデラ氏は90歳を過ぎた今も健在で、静かに余生を過ごされています。

南アフリカ、ジンバブエ、ザンビア、ボツワナ、ナミビアを大周遊
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