OTOMO

2016年08月02日

天空の大自然 バレマウンテン国立公園でオオカミを追う!

アフリカ大地溝帯が貫くエチオピアは、ダナキル砂漠のような海抜-120mにもなる低地から、標高4,000mを超える高原地帯まで、変化に富んだ大地が広がります。

今回紹介させていただくバレマウンテン国立公園は首都アディスアベバから420kmほど南に位置し、車で8時間ほどの距離にあります。この国立公園は東京都の面積とほぼ同じ2,165平方㎞2

森林から草原、高原地帯と変化に富む地形で、特筆すべきはアフリカ最大のアフロアルパイン(高山植物相)を持ちます。この珍しい景観を高原に暮らす動物を捉えた写真とともにご覧ください。

map
【バレマウンテン国立公園の概略図】

c1
【サネッティ高原と群生するロベリア】森林限界を超えた4,000mの大地ではジャイアント・ロベリアの大木のみ見られます。 

c13
【ハレナの森を眼下に望む】山地南の急な崖を下った山麓には豊かな森林が広がります。

c14
【苔むしたハレナの森】針葉樹ではなくサルオガセが糸状の枝をたらす、高山性熱帯雲霧林となっています。

c4
【エチオピアオオカミ】絶滅危惧種であり、バレマウンテンには250頭ほどが生息しています。

c3
【マウンテンニアラ】エチオピアの固有種で高地のみに生息する大型のアンテロープ。褐色の肌に4本ほどの白い縦じまが神秘的で優美。

c7
【ゲレザ】別名アビシニアコロブス。白と黒の体毛のコントラストがはっきりしていて美しい。樹上生活が一般的。

c9 (2)
【エチオピアコウチノウサギ】エチオピアの固有種でオオカミの食糧となります。

c6
【オオタケネズミ】バレマウンテンの固有種。地中に張り巡らされたトンネルと植物の根を食べては掘り返す行動が、サネッティ高原の豊かさの元になっています。

c5
【ネズミを探すエチオピアオオカミ】巣穴に隠れるネズミを掻き出したり、垂直にジャンプしたりして脅かし、出てきた所を捕食します。多彩な技を使った、貴重な狩りの瞬間に出会えるといいですね。

関連ツアーはこちらから。
バレマウンテン国立公園とリフトバレー湖沼群
固有種の宝庫 エチオピア自然紀行

otomo_saiyu at 09:00|Permalink

2016年06月24日

知られざるインド洋の島国 コモロ諸島の魅力

アフリカ大陸とマダガスカルのほぼ中間、モザンビーク海峡の北端にコモロ諸島はあります。4つの島から構成されておりすべて火山性で山がちです。15世紀頃よりアフリカの内陸部やインドネシア、アラビア半島から移民が到来し、イスラム教徒のスルタンが治める国となりました。フランスの保護領となった後、1975年に南東にあるマヨット島を除く3島がコモロ連合共和国として独立。マヨット島は住民投票の結果フランス海外領としてとどまりました。

日本ではあまり知られていないマヨット島を含むコモロ諸島の様子をお届けします。

DSCF6368

インド洋に位置しながら、フランス海外県であるマヨットは完全に周囲をサンゴ礁で囲まれ、世界でも最も美しい礁湖ともいわれます。

DSCF6391

ボートに乗り、ウミガメがやってくるというサジル自然保護区へ。

DSCF6376

実際にカメは見られませんでしたが、静かな浜辺には研究者が滞在していて、昨晩孵化して海に旅立っていった子ガメを映像を見せてもらいました。

DSCF6358

船内で読書にふける地元の女性。樹皮から作られる日除けの為の粉を塗っていました。

DSCF6373

島の東部にある巨大なバオバブ。

IMG_1521

イランイランはこの島の特産。蒸留所でかいだオイルはとてもいい香りがしました。

DSCF6434

IMG_1500

グランドコモロ島にわたると国教がイスラム教というだけあり、女の子もシロマニという女性用の衣装をきています。

島は美しいマンゴーの木と、近年移植されて高い繁殖率をもつアボガドの木が見られます。ホテルの朝食でも大人の両手ほどもあるような熟したアボガドが。醤油をつけるとマグロのトロというのは、本当でした。

DSCF6432

首都モロニ近くの砂浜。

DSCF6454

活気のある市場では獲れたばかりの近海の魚たちや新鮮な野菜・熱帯の果物が並んでいました。
DSCF6598

DSCF6456

DSCF6604

CIMG0057

白亜紀に絶滅していたと考えられていた「生きた化石」シーラカンス。コモロの近海で捕獲された。
DSCF6477

港の金曜モスクと、後方は楯状火山である最高峰カルタラ山(2,361m)。
IMG_1052

頂上には幅3~8kmもある世界でもっとも大きなクレーターのひとつがあり、いまだに活動中。(個人撮影)


コモロ諸島と、絶景レユニオンも一度に訪れます!西遊旅行のツアーはこちら!

otomo_saiyu at 09:30|Permalink

2016年04月06日

大地の裂け目にできたウガンダの景勝地エドワード湖でのボートサファリ

コンゴ民主共和国とウガンダとの国境に、全長約 6400kmにもなるアフリカ地溝帯が西に枝分かれした位置に、アルバータイン地溝帯と呼ばれる地域が存在します。世界でも800頭ほどしか生息してしないマウンテンゴリラ、また4,000頭ほどのゴールデンモンキーなどの希少な霊長類がこの地域にのみ見られます。

DSC_1908

















【アルバータイン地溝帯の高地にのみ生息するマウンテンゴリラ】

大地溝帯が部分的に隆起したことによって形成されたビクトリア湖やタンガニーカ湖、マラウィ湖などの大湖地域が存在し、エドワード湖はその中で最も面積が小さい湖です。19世紀のイギリスの探検家、ヘンリー・モートン・スタンリーによって命名されました。

DSC03656DSCF5659










【ブジュンブラより臨むタンガニーカ湖】












【ンカタベイより臨むマラウィ湖】

スタンレーは、1875年に初めて湖を見て、さらに北側にあるアルバート湖の一部と考えましたが 1888年に2度目の探検で、彼は2つの独立した湖があることに気づき、それに現在のエドワード湖という名前を与えました。ウガンダが独立した後、1973年に当時のウガンダの独裁者であるイディ・アミンが湖に自分の名前をつけました。

DSC_1632



DSC02112

































【上2枚:クイーンエリザベス国立公園内にあるエドワード湖】

湖南部と東部の海岸は平坦な溶岩平原ですが、西側の急斜面は2,000メートルまでの断崖を作り、20キロ北に位置するルウェンゾリ山地へと伸びています。湖に供給するいくつかの川はこのルヴェンゾリ山系の氷河を水源としています。エドワード湖はアルバート湖とセムリキ川でつながっており、北東に位置するジョー ジ湖へは自然に形成されたカジンガ水路でつながっています。

DSC_1702








DSC02081




























【カジンガ水路を進むボート】


このカジンガ水路は、クイーンエリザベス国立公園内でも特に特徴のある景観で、32キロの長さがあり、カバ、多数のナイルワニの生息密度は世界でも有数です。また水路や湖が作り出す湿原には動物のほか、多くの水鳥が訪れる人を魅了しています。

DSC_1734DSC_1728DSC02080DSC_1688









































































【上4枚:水路でのボートクルーズで見られる動物たち】

アフリカの大自然が作り出した絶景とともに、野生動物の観察をぜひお楽しみいただけるでしょう。

今年も人気です!クイーンエリザベス国立公園でのサファリを行うウガンダ・ルワンダを進むツアーはこちらから。

西遊旅行ツアーはこちら!2016年6月5日発、7月10日発は残席わずかです!


otomo_saiyu at 12:09|Permalink

2015年12月09日

西サハラ、そしてモーリタニアへ

西サハラのライユーンを目指します。アガディールからの距離は630Km。

DSCF9101




















しばらく走っていくとこの地独特のアルガンツリーがたくさん生えていました。この木の実は若返り効果があるとされ高価な女性用の化粧品や食物油などにも利用されています。面白いことに太古の昔に陸続きだったメキシコにも同じ種類の木があるそうですが実はならないそうです。
DSCF9106




















絵本「星の王子様」で有名なサンテグジュペリはタルファヤの飛行場で勤めていました。絵本の中で描かれた世界はこの町のジュビー岬で過ごしていた時の記憶から生まれました。
DSCF9145




















アンチアトラス山脈を越えて標高を下げていくとまた景色は変わり緑の少ない平原が広がっていました。

サギアエルハムラ川越えるとライユーン市内です。
DSCF2291


DSCF2303





































ライユーンは内陸にありますが港としての機能は車で15分ほど離れた海岸の工業地区にあり、西サハラ最大のリン工場やその付近に風力発電もあります。モロッコの電力のほとんどはアトラス山脈中にある水力発電によって得られています。西サハラまではアガディールから電線が引かれています。

砂丘地帯からすぐに礫砂漠へと入り、南のダクラを目指します。ライユーンから510Kmの距離です。
DSCF9147




















ダクラは1884年にスペイン人が西アフリカではじめて恒久寄港地として建設した町です。人口18000人の町は湾での漁業やウインドサーフィンなどが盛んに行われています。市場へ行くと鮮魚やオリーブ、デーツなどが並んでいました。ここで漁獲されたタコは日本向けに輸出されます。
DSCF9183









DSCF9179









DSCF9176








































北緯23度27分は北回帰線。ボロボロのTropic cancerの看板も発見しました。
DSCF9196




















西サハラから緩衝地帯を抜けてモーリタニアのヌアディブへ。途中、モーリタニア北部最大都市ズエラットから鉄鉱石を運ぶ、世界一長い3000mの列車も運よく見ることができました。
DSCF2355




















大西洋に突き出した半島先端のブラン岬まで行くと、2003年に座礁したままの錆びついた船や古びた灯台、さらに荒い波間を泳ぐチチュウカイモンクアザラシやきれいな夕日も見ることができました。
DSCF9207



DSCF9209



DSCF2341




























































最後のシーズン迫っています!カサブランカ(モロッコ)~西サハラ~モーリタニア~ダカール(セネガル)まで大西洋岸を進むツアーはこちらから。

西遊旅行ツアーはこちら!2016年2月1日出発は催行間近です!

otomo_saiyu at 09:12|Permalink

2015年09月02日

火山諸島カーボヴェルデ 緑の島サント・アントンを歩く

アフリカ大陸北西の沖合いにある島国、カーボヴェルデをご紹介します。

セネガルのベルデ岬の沖合い約600㎞の大西洋上に散在する大小15の島からなります。すべての島々は海底下にある熱いマグマ溜まりに起因する火山活動によって形成されてきました。時々これらのマグマ溜まりは海から上昇し、火山の噴火を引き起こし、その結果、新たな島を造りだしました。ソタベント(風下)諸島にあるフォゴ島がその中でも一番若く、10万年前に形成された最新作です。アフリカンプレートの上に位置する火山帯ですが地震は全くありません。

たくさんの見所がありますが、北部のバルラベント(風上)諸島にある、緑の島として知られるサントアンタン島をとりあげます。

二つの島はわずか15kmの海峡を挟んで向かい合っており、サン・ヴィセンテから先に浮かぶサント・アンタン島の1000m以上ある山容はさすがに群を抜いて海上に突き出ています。北西貿易風に乗って、大西洋を渡ってきた湿った雲はこの1000mの山にぶつかり西側の斜面に雨を降らすため、緑溢れる景観となりますが、東側の斜面、及びさらに東に位置するサン・ヴィセンテは乾燥した気候となるといいます。

弓状に湾曲したサン・ヴィセンテのミンデロ港ははるか昔の巨大なクレーターの跡です。

サント・アンタンの港町ポルト・ノボから山の頂上まで車で進んでいくと、直径500mのクレーターが見えてきます。その淵ではガスが発生しては風で飛ばされ晴れ間が覗くという、天候が目まぐるしく変わっていき、幻想的な世界が広がります。
DSC_2397



















霧が晴れてくるとクレーター内に集落が形成されているのがよくわかります。牛が放牧され、サトウキビやトウモロコシの畑の世話をしている人が見えます。村の入り口まで散策すると水汲みにクレーターの途中まで集落から上がっていたロバの群れも下りてきました。
DSC_2413




















クレーターから北側へと下り始めると、深く伸びるリベイラトーレ(タワー渓谷)と、崖に張り付くように斜面にある集落を見渡せます。この尾根上で、360度の渓谷美を見ることができ、この道を通るだけでこのサントアンタン島にきたかいがあると言いきってもよさそうな、素晴らしい景色です。
IMG_4383













DSC_2428


























グローグ(ラム酒)の製造元を見学。トイレもこちらで借りる。かつて牛馬に引かせていた木製の絞り機は効率の良い機械に取って代わられ、糖蜜を煮込んで蒸留するのも機械になっている。試飲もできる。5年寝かせたダークのものが700エスクード、糖蜜、また糖蜜とグローグを混ぜた少し甘みのあるお酒ポンチなども販売している。
DSC_2501



















緑溢れるサント・アンタンの北から東側にかけて、ハイキングを楽しみました。サトウキビやキャッサバ、コーヒーといったプランテーションの中や、集落の間を抜けて行きます。プランテーション畑と、マンゴーやパンノキなどの木々が谷を埋め尽くす緑の中を、対岸の岩肌に張り付くように建つ集落を見ながらのハイキング。そこそこ歩きがいもあり良いコースでした。
DSC_2527






























ジャネラ灯台の近くにあるミステリアスな岩には、十字架や、解読不可能な文字がたくさん彫られています。15世紀にポルトガル人が上陸した地や、彼らの進んだ道に名前や十字架を残すように、ここも1460年代のディエゴ・ゴメスの一団、もしくは1480年代のディエゴ・カオンの一団と見られていますが、その文字は現代ポルトガル語やアラビア語、ヘブライ語、ベルベル語とはまったく違い、アラム語やフェニキア語、ポルトガル古語などではないかと言われています。また一説によるとポルトガル人達よりもさらに先に到達した中国人によるものではないかとも言われているそうです。
DSC_2588




















石段を10分弱登ると灯台までたどりつけます。現在は太陽光発電で動いているこの灯台から、島の北東部海岸線が見渡せ、サン・ヴィセンテ、またバルラベント諸島のほかの島々までも天気が良ければ見えそうです。
IMG_4422














渓谷の中の村で手作りのジャムを売っていた少女。カーボヴェルデにはアフリカ系とヨーロッパ系の混血であるクレオールと呼ばれるこうした人々が多く暮らします。
IMG_4390






























西遊旅行で知られざる西アフリカの島国・カーボヴェルデへ!ツアーの詳細はこちらから。
西遊旅行 4つの島々を訪問、カーボヴェルデのツアーページへ

otomo_saiyu at 09:19|Permalink

2015年07月11日

ウガンダ カンパラからアフリカ大地溝帯の湖群を抜けゴリラの棲む森へ

ウガンダはアフリカの真珠と詠われるほど緑あふれる景色が広がる国です。観光資源としては世界でも希少な野生のマウンテンゴリラに会いに行くトレッキングが有名ですが、今回はゴリラの生息するブウィンディ国立公園までの道中で見る景観を、お話とあわせてご紹介します。

エンテベ空港到着した後、首都カンパラへ。
カンパラでは遠くからひときわ高いミナレットが目立つモスクへ。キリスト教徒が多いウガンダですが、このモスクは2008年にリビアのカダフィ大佐の援助で建設されました。礼拝堂にはいると、案内の方が素敵な声で礼拝前の呼びかけであるアザーンを聞かせてくれました。ミナレットにも登ることができました。330段の螺旋階段を最上段まで登ると、発展を続けるカンパラ市内が一望できます。

DSCF2696








DSCF2693































【写真上:カダフィモスク外観 下:ミナレットの内部の螺旋階段】

ナカセロ丘…政府系の建物、高級ホテルがたち、周りはダウンタウンです。
ムラゴ丘…大きな病院があります。
マケレレ丘…アフリカで最初の大学があり、この大学あ1912年にイギリスのケンブリッジ大学により建てられました。
ナミレンベ丘…プロテスタントの宗教センターがあります。
ルバガ丘…こちらにはカトリックの宗教センターがあります。
ルビリ丘…ブガンダ王宮があり、現在でも継承者は国民の尊敬を集めています。
ムイエンガ丘…昔からビジネス地区でした。

DSCF2692




















【写真上:ミナレット頂上からカンパラの町を展望】

7つの丘から発展したカンパラの町も現在丘の数は21を数えるといいます。

角の長いアンコーレ牛は地方で放牧されているのをよく見ますが、かつてアンコーレ王国が北の部族と戦った時に戦利品として奪ってきて、それから普及したと言い伝えられています。また当時の王国は戦いで男性が少なく王室にも女性しかいなかったので、当時の王妃はルワンダから結婚相手としてひとりの王子を受け入れました。結婚し、子どもをもうけた後王妃を殺害したその王は霊を慰めるために神殿を建てました。そこから新たな信仰が始まり現在でもエチオピアや、遠くカリブ海の地域でその信仰が残っているそうです。

DSCF2974




















【写真上:アンコーレ牛の群れ】

ウガンダの国鳥であるカンムリヅルは国の西部に多く、畑につがいでいるところをよく見かけます。北アフリカにもいますがそれは亜種です。つがいは生涯相手を変えず、一方が死んでも新しいペアは探さないという習性をもっています。

DSCF2706




















ブニョニ湖はカバレ付近から30キロ程伸びる細長い湖です。タンガニーカ湖の次にアフリカで深いと考えられていますが、まだ調査結果は出ていないようです。最深部は900mともいわれ、ウガンダのお札5000シリング札に描かれています。ブニョニは"小鳥がたくさんいる場所"の意味です。湖には29の島があり、いくつかの伝説が残っています。そのいくつかをあげると。。。

・未婚のうちに妊娠してしまった女性を処罰のために送り、自ら泳いで戻るしかなかったAkampene( 英語でPunishment island”処刑”)という島。当時泳げる女性は少なかったようです。
・Bucuranuka ( 英語でUpside Down "ひっくり返る")という島では、あるときソルガム(雑穀でシコクビエ)のビールを一杯お願いした老婆をひどい言葉で追い返した島民達がいて、老婆が島から離れた途端に島ごとひっくり返り全員しんでしまったという。

DSCF2718

DSCF2717






































【写真上2枚:多くの伝説が残るブニョニ湖】

ヴィルンガ山系の山並みが眼前に入ってきます(下の写真)。手前の三角形をした大きい山はムハバラ山4,127m、背後にあるのがガヒンガ山3,474m、さらにその背後、雲の中に隠れているのがサビーニョ山3,634m。またさらに奥にはビソケ山3,711mや、ヴィルンガ山系の最高峰カリシンビ山4,507mがあります。世界に800頭程のマウンテンゴリラは、東アフリカ大地溝帯の西淵を成すアルバータイン地溝帯(タンガニーカ湖からアルバート湖まで)のこのヴィルンガ山系にしか生息していません。ムハバラ山は日帰りで往復トレッキングする事ができ、最近コンゴ側からウガンダ側に行動範囲が定着したこの山のゴリラにトレッキング中に遭遇することもあるそうです。このムハバラ山頂まで登ると小さなクレーター湖を見ることができます。ビソケ山とカリシンビ山の間の3,000mの高地には、マウンテンゴリラの世界的な研究機関としてダイアンフォッシーが創設したカリソケ研究所があります。

DSCF2884






















バナナのプランテーションにも訪れました。このプランテーションでは4種類のバナナを栽培しており、果物用、プランテン(甘くなく調理用)、ビール用のバナナ(幹が真っ黒い)、モンキーバナナで。それぞれ幹の色や触ったときの感触が微妙に違うようです。バナナはまだ青い状態で収穫し、1週間ほど経つと熟し、食べごろとなります。早く熟させるには温かい台所などに置いておくと2、3日で食べごろとすることができるようです。一度収穫した木は切り倒して畑の肥やしとするか、新しい苗木だけ移植するようです。

IMG_5304




























ウガンダとルワンダに両方訪れるコースはこちらから!
西遊旅行で行くウガンダ・ルワンダ9日間 ツアー詳細

otomo_saiyu at 09:30|Permalink

2015年04月02日

南部アンゴラ、ルバンゴ周辺で出会った少数民族の人々

南部アンゴラのウィラ州は標高2,000Mの高原地帯が広がり、大西洋岸の砂漠地帯とは断崖で区切られています。

この地域へのヨーロッパ人の入植は1627年に始まり、象牙、奴隷、家畜、商業の主要積み出し港だったベンゲラとのルートができたことにより18世紀には多いに発展しました。19世紀後半になると、南アフリカからイギリス人に追われてカラハリ砂漠を越えてきた300人のボーア人、さらにポルトガル領マデイラ諸島からの入植者も増えました。現在でも州都ルバンゴはアンゴラ国内における彼らヨーロッパ人達の子孫の最も占める割合の大きい町です。

このルバンゴ周辺には現在でも遊牧生活を営む少数民族が暮らしています。彼らの生活をその特徴的な装飾品を中心に紹介します。

・ムウィラの女性は泥とビーズでできた太い首飾りをつけて一生を過ごします。彼女達はイカのような飾りの髪型をしていて、それは牛馬の糞とバター、黄土を混ぜて作られます。思春期になると少女は大きな赤い首飾りをつけ、ヴィケカと呼ばれるその首飾りは結婚後で黄色とするようです。一度結婚した時につけたその首飾りは二度と外しません。シビアという町で出会った女性は、その太い首飾りの形状は年齢とは関係なく、結婚しているかどうかによってその使われるビーズの色も変えるのだと教えてくれました。夜寝ている時は外れるのを防ぐための、母から子に受け継がれる木製の枕を使用しています。髪型もステータスの一つとして考えられ、オンクラと呼ばれる赤石を砕いて作るペーストを用意し、オイル、木の皮、ハーブもそのペーストに混ぜます。

DSCF1340DSCF1361








































・ムクバルの女性は胸を縛るロープを使う。一夫多妻制で、人は労働力として家畜と交換されることもあります。

IMG_4050ムクバルの言葉を教えてくれました。
ワラアレ(お元気ですか?) 
   -ダラアレ(元気です)
ダパンドゥーラ (ありがとう)

















・ムカワナ族の女性も髪飾りのドレスアップには凝っている。使い古しのものでカパポと呼ばれる髪飾りを作ります。写真には写せませんでしたが西欧の古い人形を方に乗せいている少女もいました。

DSCF1368


DSCF1386






































アンゴラは現在ダイヤモンドや金、銅、石油などの地下資源が豊富で、取れない鉱物は3種類だけという話も聞きました。アンゴラはその地下資源の富を独占しようとすることに集中し、国内で争いが生まれました。その紛争は30年以上も続き、地方には地雷が埋められ、現在でもその撤去作業が続けられています。経済状況が上昇して、西欧のぜいたく品が入ってきているようで、ムウィラ族に近縁のムガンブエ族の少女はディズニーのシャツや、イタリアのサッカーチームのシャツを着ている事からも納得がいきます。

新企画!西遊旅行で行くアンゴラのツアーはこちらから!
http://www.saiyu.co.jp/itinerary/new/GAAO11/index.html

otomo_saiyu at 21:26|Permalink

2014年12月31日

WHAT IS GORILLA? 希少な野生ゴリラの生態を知る

ゴリラはチンパンジーとボノボの次に、私たち人間に近い霊長類です。
今回は世界に生息している野生ゴリラについて、まとめてみました。

種類は?
大きく分けてゴリラは2種、アフリカの赤道地域に住んでいますが、東西約900キロの長さを持つコンゴ盆地の森林で区切られ、それぞれが低地と、高地の亜種を持っています。

野生のゴリラはどこに、どれだけいるのでしょうか?
ニシゴリラの仲間は海辺など標高の低い熱帯雨林に生息しています。

ニシゴリラの生息数は?

・クロスリバーゴリラ・・・ナイジェリアとカメルーンの国境付近に250~300頭程しか生息していません。一番新しく発見され、生態についてはわかっていないことが多いです。

・ニシローランドゴリラ・・・一番生息数が多く10万頭で、世界中の動物園にいるのはこのゴリラです。コンゴ共和国にその多くが生息しています。


gal-1477031


















gal-1477032


















【上2点:野生のニシローランドゴリラ (写真提供 コンゴ共和国大使館)】



C10_LAND

    【上:保護施設で飼育されているニシローランドゴリラ (ガボンのイベンゲ島)】

・ヒガシゴリラは標高の高い熱帯雨林に生息しています。

ヒガシゴリラの生息数は?

・ヒガシローランドゴリラ・・・動物園ではベルギーのアントワープ動物園に2頭いるのみ、20世紀までに17,000頭いましたが、コンゴ紛争によって4,000頭前後に激減してしまいました。

・マウンテンゴリラ・・・1902年ヒガシゴリラの亜種として発見されました。ヴィルンガ山脈とブウィンディのエリアに880頭程が生息しています。4000mを超える高地でも目撃されています。


FH000004

【上:野生のマウンテンゴリラゴリラ (ルワンダのヴォルカン国立公園)】

危険にさらされているゴリラ
これら4種のゴリラの仲間は、絶滅危機もしくは絶滅寸前として、国際自然保護連合のレッドリストに登録されています。
狩猟・・・違法な競争目的、肉目的、特にペット目的の子ゴリラ
森林の破壊・・・石油や天然ガスなど地下資源を目的として容認されたヨーロッパの企業による国立公園内の採掘
内戦による被害・・・ルワンダやコンゴの内戦での環境破壊や、避難民流入による生息地域の減少
病気・・・生息地域に人間が入ることによって様々な病気がゴリラにうつされます。このため国立公園入域の際には健康チェックがある場所も多いです。

見かけの違いは?
ニシゴリラは短毛で、大人になると頭のてっぺんから赤茶色になります。ヒガシゴリラは長毛で大人になっても頭の色は変わりません。

食べ物の違いは?
ヒガシゴリラの主食は植物の葉っぱですが、ニシゴリラは果物ばかり食べて、1~3月の実りの少ない乾季の時期にのみ葉やハーブなどを食べます。

さらにマウンテンゴリラを細かく見ていくと、、、

生息数は?
約880頭です。保全への取り組みのおかげで、1989年に確認された620頭から増加しています。この数は、1950年代から厳しく監視されていて、かなり正確であると考えられています。

国ごとの国立公園で分けると、、、
ヴィルンガ山脈のエリアでは2,300~4,500mの高地に480頭
・ヴィルンガ国立公園(コンゴ民主共和国)・・・480頭のうち、ほとんどがここに生息しています。
・ほかにムガヒンガ国立公園(ウガンダ)、ヴォルカン国立公園(ルワンダ)にも少数が生息しています。
 
ヴィルンガとは別のブウィンディ国立公園のエリアでは、1,500-2300mの標高に生息していて、2011年に400頭を記録しています。

マウンテンゴリラは、1902年10月17日にヒガシゴリラの亜種であると報告されました。これは、ニシゴリラやヒガシローランドゴリラよりも長い髪と顎そして歯、さらにわずかに短い腕が特徴です。オスは成獣になるにしたがって背中や腰が銀色に変わっていくため「シルバーバック」とよばれます。

大きさは?
平均して、オスは成獣で160キロ、メスは98キロまで成長します。

FH000024


















IMG_5512


















【上2点:野生のマウンテンゴリラ(ルワンダのヴォルカン国立公園)】

DSC_5148

















【上:野生のマウンテンゴリラ(ウガンダのブウィンディ国立公園)】

西遊旅行で行くゴリラ観察ツアー!
マウンテンゴリラ観察ツアー
「ウガンダ・ゴリラ&ゴールデンモンキートレッキング」
・・・ウガンダのブウィンディ原生国立公園でのゴリラトレッキング、そしてムガヒンガ国立公園でのゴールデンモンキートレッキングをお楽しみいただきます。5月のみの設定です。
「ウガンダ・ルワンダ」
  ・・・ルワンダのヴォルカン国立公園でのゴリラトレッキング、ウガンダのキバレ森林公園でのチンパンジートレッキング、さらにクイーンエリザベス国立公園でのサファリドライブもあり、充実のツアーです。

ニシローランドゴリラ観察ツアー
「ガボン・ロアンゴ国立公園」  ・・・イベンゲ島でのゴリラ保護施設を訪問します。またロアンゴ国立公園に滞在して野生動物をたっぷり観察いたします。9月に1本のみの設定です。
 「コンゴ・ンドキの森をゆく」
  ・・・コンゴ共和国のヌアバレ・ンドキ国立公園で野生のゴリラを観察する冒険ツアー。※こちらのコースにご興味のある方は別途お問い合わせください。

otomo_saiyu at 09:30|Permalink

2014年11月03日

世界遺産モザンビーク島 大航海時代、日本から辿りついた少年たちの軌跡

東南アフリカに位置する国モザンビーク。日本ではあまり知られていませんが、実は日本史とのつながりもあったのです。

「モザンビーク島」はアフリカ大陸本土からわずかにインド洋に離れた島で、モザンビークで唯一、ユネスコ世界遺産に登録され、国名の由来にもなっています。1505年に最初のポルトガル植民地が建設された場所でもあります。

本土とマダガスカル島の間に位置するモザンビーク海峡に臨むこの港湾都市は、10世紀から15世紀にかけて海岸地帯に侵攻したアラブ人が築き、 1498年にはポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰回りを開拓したことによって、ヨーロッパにその名が知られるようになり、前述のように16世紀からポ ルトガル領となりました。島には現在もポルトガル時代の豪華な建物が残されます。

サンパウロ宮殿とバスコ・ダ・ガマ












【写真左】ヨーロッパ人として初めて島に到達したヴァスコ・ダ・ガマ

この日本からも距離にして12000キロ近く離れた遠いモザンビーク島が、日本の戦国時代に実は関わりがありました。というのも、安土桃山時代には、大友宗麟など九州のキリシタン大名が派遣した天正遣欧少年使節の4人がヨーロッパからの帰路、1586年9月に喜望峰からモザンビーク島に着き、南西モンスー ンが吹き始めるまでの6ヶ月間滞在しました。彼らは1587年2月にインドのゴアに向け出発し、1590年に帰国しています。さらに、宣教師フラン シスコ・ザビエルも日本へ向かう道中の1541から1542年、モザンビーク島に6ヶ月間滞在しました。



ちなみに、NHKで現在放映されている大河ドラマ「軍師官兵衛」でも、宣教師ヴァリニャーノが連れて来る弥助という黒人が登場しますが、彼もモザンビーク出身と伝えられています。

長さ3キロほどの細長くも小さな島にはこれらの時代からの史跡が多く残ります。北端防御のため建てられた聖セバスチャン要塞は16世紀から17世紀にかけてのものです。その敷地内の奥には、南半球における現存最古のヨーロッパ建築と見なされているノサ・セニョラ・デ・バルアルテ礼拝堂が建ちます。

KOJI0451







【写真左】聖セバスチャン要塞

ノサ・セニョラ・デアルバルテ大聖堂ノサ・セニョラ・デ・アルバルテ大聖堂内部

【写真上】ノサ・セニョラ・デ・アルバルテ大聖堂の外観と内部

400年以上前に大志を抱いて海を渡っていった少年たちの、その目で見た景色が今も残るモザンビークへ是非訪れてみてください。

KOJI0440KOJI0434

【写真左上】島の小学校で学ぶ元気な児童たち
【写真右上】コバルトブルーの海岸が広がる

モザンビークの旅行はこちらから!ドラケンスバーグ山脈やクルーガーでのサファリなど他にも魅力が満載です!

otomo_saiyu at 10:00|Permalink

2014年04月26日

チャドのボロロ族、その生活と美への執着!

ボロロ族(ウォダベ)の人々はサヘル地域に暮らすフラニ族のグループのひとつです。フラニは1000年以上にわたってアフリカ西部全体で、地域の政治、経済、歴史に影響を与えてきている遊牧民です。 ボロロ族はカメルーンとてナイジェリア北部、そしてチャドの一部住んでいます。

DSCF7925
DSCF7920


年間を通じて、ボロロ族やフラニ族は群れとなって移動しつづけます。ファミリーのそれぞれのメンバーは、特定の仕事があります。男性は牛を放牧すること、病気となったものの治療、遊牧のルートを考えることです。

DSCF8099
DSCF7932




女性の仕事は、牛の乳搾り、バターとチーズをつくること、服や毛布をつくること、そして毎日の食事の準備です。

DSCF8237
DSCF8071


ボロロ族は美しさを強く意識します。乳児のころから美の象徴として顔に装飾として傷をつけます。子供たちは額や鼻、頬に細かい瘢痕つけて成長していくのです。【右上】

DSCF8179









DSCF7923
DSCF7941



ボロロ遊牧民はこれでもかと言わんばかりの長い角を持つ牛を連れ、その群れの世話に命を捧げているともいえるほどです。牛を所有することは、すべてのフラニの間で健康と幸福の象徴であるといい、実際に、牛の頭数、どのくらい牧畜の知識・技術があるかでグループの中での地位が決まります。またボロロ族は愛情をもって接し、その証拠に自分の牛に名前をつけています。


彼らが行う「ゲレウォールの祭り」はナショナルジオグラフィックの記事や映画、テレビのドキュメンタリーを通じてその独特の生活が多く取り上げられてきました。そのお祭りは、若い男性の中から女性たちが目の前でその年のベストを選ぶもので、どこからともなく輪をつくって始まる歌や踊りが儀式を盛り上げていきます。出演する背が高くてハンサムな男性は、伝統的な衣装を着て、長く時間をかけて施した創造力あふれるフェイスペイントで自分自身を飾ります。

DSCF8127
DSCF8225


DSCF8266
DSCF8130


DSCF8193
DSCF8211


最後に下の動画で、ボロロの人たちのお祭りの臨場感をお楽しみください。




今年もやります!「9/21発 チャド民族紀行」
ボロロ(ウォダベ)遊牧民の祭典とチャド湖の旅

otomo_saiyu at 10:00|Permalink

2014年02月19日

タンザニアの遺跡を訪ねる!ザンジバルのビーチにも滞在!

昨年から問い合わせの増えてます、タンザニアの遺跡ツアーについて紹介します。

《スワヒリ地域とインド洋交易》
スワヒリと呼ばれるこの地域は、古くからインド洋を舞台にアラビアやペルシャ、インドと交易を行い、規則的に風向きを変えるモンスーンと海流を利用して、西アジア地域と結ばれ、香辛料や乳香を輸入し、象牙や奴隷、金が帆船によって運ばれました。元々暮らしていたバントゥーなどの黒人とアラブ人、ペルシャ人の商人との通婚で混血化が進み現在のスワヒリ人が生まれたと考えられています。スワヒリ語に代表されるスワヒリ文化が花開いたのも12世紀の事でした。西欧や東イスラム圏、中国における象牙や金の需要の高騰によってスワヒリ地域の交易も刺激を受け、スワヒリ人自身も商業の為に海へ乗り出すようになります。
DSCF7027DSCF6837













〈写真左:スワヒリの漁村風景〉          〈写真右:現在もザンジバルの周辺の海で活躍する帆船〉


《キルワ・金貿易による繁栄 と衰退》
タンザニアの最大都市ダルエスサラームから南へ300kmの洋上にキルワ・キシワニ島はあります。伝説では8世紀に現在のイラン・シラーズ出身のハッサンという王が兄弟7人でアフリカ東海岸へ七艘のダウ船でやってきて、それぞれキスマユ(ソマリア南部)、モンバサ、ラム(ともにケニア)、マフィア、ザンジバル、キルワ(いずれもタンザニア)、ソファラ(モザンビーク)の海岸に流れ着き、このスワヒリの各都市で強大な王国を築き、キルワは6番目の王子によってその基礎が築かれたと言われています。12世紀末に現在のジンバブエに繁栄していたモノモタパ王国の産金地帯とソファラを結ぶ交易路を支配し重要な交易都市として発展しました。14世紀には東アフリカ最大の都市として全盛期を迎え、アラブ人の大旅行家イブンバットゥータも1331年に訪れ、「世界で一番美しい整然とした町の一つで町全体のつくりが上品である」とその旅行記の中で伝えています。しかし1500年に来航したポルトガルによってキルワの状況は変容します。ポルトガルの朝貢国となることを拒否した為、ソファラとの金交易の道を遮断されたあと略奪、破壊、そして徐々に衰退して行きました。1569年に訪れたイエズス会の神父によると「かつては町に人々があふれ繁栄していたが今は貧しく権力も失われてしまった。王というよりは族長と呼ぶ方が似合っている」とその変わり様を伝えています。その後住民も本土へと移り住み、キルワ・キシワニは廃墟と化してしまいました。

DSCF6962
DSCF6923
〈写真左:キルワの島全体に群生するマングローブの林〉     〈写真右:キルワ・キシワニのモスク跡〉


DSCF6947DSCF6894
〈写真左:キルワ・キシワニのポルトガル要塞跡〉    〈写真右:ソンゴムナラのモスク跡に残るミフラブ〉

《ザンジバルとマスカットオマーン》
ポルトガルの後にスワヒリ地域にやってきたのはマスカットオマーンです。インド洋仏領諸島でサトウキビプランテーション経営が始まり、また西アフリカで奴隷交易の取り締まりが厳しくなり喜望峰を越えて東アフリカまで来るようになった奴隷交易の拡大・需要を受けて、18世紀のスルタン、サイイド・ザイードは1840年にその拠点を本国からザンジバル島に移します。奴隷交易が廃止された後もオマーン人商人によってクローブ(丁子)が導入され現在まで続く重要な外貨獲得源となりました。ザイードが珊瑚石の壁で建設したストーンタウンの街並みは現在ユネスコの世界遺産として登録されアラブ人による支配時代の宮殿跡やイギリス統治時代の教会などが残ります。

DSCF7047










〈写真左:ストーンタウンの町並みを海上から見る〉

DSCF7077DSCF7083













〈写真左:珊瑚石の石壁が立ち並ぶストーンタウン〉      〈写真右:街の中のドアも様々なスタイル〉


《西遊旅行で行く 「キルワの史跡群とザンジバルの休日」》
キルワでは連泊し、キルワ・キシワニ島とソンゴ・ムナラ島の二つをボートでじっくりと巡ります。キルワ・キシワニのシンボル的な存在である島北部のポルトガル要塞、さらにマングローブ林の間の狭い水路を南へ移動して石段を登ると外洋まで見渡せる位置に宮殿跡があります。フスニクブワ(大きな城の意)宮殿跡は14世紀のスルタン・スレイマンによって建てられたもので、当時訪れたイブン・バットゥータもここでスルタンに謁見したといわれます。宮殿中庭のプールはマムルーク朝エジプトで流行していたもの、円錐形のドームはイランやアナトリアなどイスラム地域で、テント型のドームはセルジューク朝時代の北イラクやトルコ、ペルシャでも見つかり、フスニクブワが建設される少し前にこれらは広く流行していたもので、インド洋交易がもたらしたキルワの栄華を見て取ることができます。ソンゴ・ムナラの遺跡にはスルタンの暮らした宮殿とモスク跡が残りますが、現在は押し寄せる波やマングローブの気根、バオバブの密林に侵食されほとんどが廃墟と化してしまっています。しかしモスクにはメッカの方角を示す精緻なミフラブ(聖龕)があり、スワヒリに定着したイスラム教徒の敬虔な信仰が形として残っています。修復活動、研究が続けられていますがいまだ謎に包まれたままです。
ザンジバル・ストーンタウンは連泊にし、滞在中は史跡以外にもこの地に生まれたイギリスのロックヴォーカリスト・フレディマーキュリーの家や、元奴隷市場があった広場にイギリスの聖職者により建てられたカテドラル、奴隷をつないでいた木や地下の幽閉されていた場所、聖職者の死後家族から送られたパイプオルガン、またザンビアのタンガニーカ湖畔で息を引き取った著名な探検家リビングストンを入れた棺桶と同じ木で作られた十字架などザンジバルの歴史を飾る数々の史跡をじっくりと見学します。また他にも市場でザンジバル名産のスパイスや新鮮なマグロやタコ、イカ、カニなどの魚類を見ることができます。ザンジバル島東海岸のパジェのビーチにも連泊し、新鮮なシーフードの食事とインド洋を望む快適なホテルでののんびりとした時間をお楽しみいただけます。ご希望の方はスパイス農園やドルフィンスイムにオプションでご案内できます。

DSCF7093IMG_2264













〈写真左:ストーンタウンの市場に並ぶ海産物の干物〉  〈写真右:スパイス農園で栽培されるクローブ〉


DSCF7132
DSCF7186

〈写真左:フレディ・マーキュリーの生家〉       〈写真右:遠浅の海が広がるパジェのビーチ〉


海のシルクロードに興味をお持ちの方はぜひお申し込みお待ちしております。
ツアー詳細はこちら!
キルワの史跡群とザンジバルの休日

otomo_saiyu at 20:22|Permalink

2013年09月06日

スーダン 古代の遺跡発掘と伝わる風習

今回は遺跡現場で発掘の進むスーダンをクローズアップします。

ケルマはスーダンのセムナの南方 240km,ナイル川東岸にある遺跡で、上ヌビアにおける文化の中心地として古くから栄えましたが,中王国時代 (前 2133頃~1786頃) になってエジプトの南方における貿易上の拠点となりました。 1913~15年の G.ライスナーの発掘で,中王国時代の城塞跡や墓地が明らかにされましたが,エジプトの行政官の塚上の墓で,多数の召使たちが犠牲として埋葬されたことが明らかにされました。死者をベッドに寝かせて埋葬する当時のユニーク風習は現在でも行われているそうです。

DSCF5674
上:ライスナー博士(カリマにある博物館より)


クシュ王国の遺跡見学の拠点・カリマではクライマックスであるナパタ地域において、クッル遺跡を見学します。この場所は、クシュ王国時代の王墓エリアです。ピラミッドらしき形が残るのはひとつ、ピアンキ王の墓とも言われていますが違うという説も実際はあるようです。9日間のツアーで玄室内部を見学できるのは唯一この遺跡だけです。タヌタアメン王はエジプトを支配した最後のヌビア王で、紀元前656年の彼の死をもって第25王朝の終焉とみなされています。ベッドに寝かせるのが紀元前2400年頃のケルマ時代から伝わるヌビア流で、彼の墓室の壁画にもライオンのベッドに寝かせられた王のミイラが描かれていました。アメン神やイシス、ホルス、アヌビスといったエジプトの神々も葬送を見守り、太陽の船に乗って渡った死後の世界で復活を遂げています。続いて入った玄室はタヌタアメン王の母であるタハルカ王妃で内部はナイル川の氾濫による侵食を高い位置まで受けていて、死の書を綴ったヒエログリフの多くが失われていました。しかし死後の世界を描いた右手の壁では墓室で横たわっていた王妃がアメン神より生命の象徴であるアンクを口に与えられ起き上がっているのが鮮やかな彩色で描かれていました。天井にはこちらも鮮やかなブルーの星空が広がっていました。
現在このクッル遺跡では考古学局とミシガン大学の研究者による発掘が進められている区域があり、幸運にもその現場を見せていただくことができました。確かに崩れやすい小部屋は円柱で支えられ、先まで部屋が続いているように見え、現場で発掘に携わっている研究者の方々から貴重なお話を聞くともできました。

IMG_1804
IMG_1800
左と右:生命の象徴アンクを与えられて蘇る死者(クッル遺跡の玄室内)

ちょうどメロエ遺跡の王宮跡でも、ドイツの大学の発掘チームが作業をしていて、実際に作業風景や発掘を進めている箇所のプランなどの説明を聞くことができました。とても貴重な話を聞け考古学者の地道な作業に頭が下がりました。夕日に合わせて再びメロエの北のピラミッド群へ。この日は薄い雲が多かったのですが2000年前の王墓に西日がかかって行くのは悠久の時を感じさせるようでした。

DSCF5568
DSCF5659
左と右:炎天下の中発掘を続ける研究者たち

DSCF5600








左:ピラミッド群に沈む夕日(メロエ遺跡)


ケルマって?カリマって?スーダンのみどころマップで場所を確認!

西遊旅行のスーダン旅行はこちらから!
2013年11月14日発 スーダン・ナイル川紀行 間もなく催行決定!
ナイル川流域をエジプトまで縦断するコースはこちら!

otomo_saiyu at 09:30|Permalink

2013年04月13日

キルワ・キシワニ 密林に沈んだ遺跡

東京本社の大友です。
今日は新コース「キルワの史跡群とザンジバルの休日」で訪れます。キルワ遺跡をご紹介します。

10世紀頃より東アフリカではオマーンなどから来訪したアラビア商人達が来訪し、布、ビーズと交換に金、象牙、奴隷などを買い付けていったことが12世紀のイドリーシーによって書かれた文献によってわかっています。西欧でも象牙や金の需要が高まり、世界的なイスラムの拡大の影響を受けて、東アフリカのスワヒリ地域でも国際的な交流が活発してきました。タンザニア南部にあるキルワ・キシワニにある大モスク跡も当時進められた石造建築の一例で、14世紀には東アフリカ最大の都市として全盛期を迎えたキルワが、重要な地位を占めていたことを雄弁に物語っています。

On the way to Songo Mnara
Portuguese Fort from sea

(左)ボートでキルワ・キシワニへ  (右) 海上から望むポルトガル要塞

同じキルワ・キシワニにある14世紀に建造されたフスニ・クブワは宮殿兼城塞というように考えられていて、当時の建築水準の高さを示す石造建築の代表例といえます。

1331年にキルワを訪れたモロッコ出身の大旅行家イブン・バトゥータは、「三大陸周遊記」の中で、世界で一番美しい町というように記録しています。

現在石造りの宮殿は密林に沈み、訪れる旅行者は行く手を虫に阻まれ、荒れ果てた遺跡に出会うことでしょう。それでも、イエメンのアデンにあるモスクに倣って設計された大モスクの、天蓋に向かって伸びる柱とその美しいフォルムは印象的で、南国の照りつける太陽の下、黄金交易によって栄えた往時の輝きを取り戻すようです。

Friday Mosque 4
Friday Mosque 2




(上2枚)キルワ・キシワニの朽ちた大モスクとその内部




世界遺産のザンジバルも散策、海辺での自由な時間も。ツアー詳細はこちら!



otomo_saiyu at 14:11|Permalink

2012年12月07日

カメルーンに残る王国とそのユニークな習慣

アフリカの大西洋岸に面したカメルーンは北から南まで変化に富み、自然や景観、人々の暮らしも異なります。
各地では熱帯アフリカに特有の王政というのが村単位で残っている地域が多く、今度の旅行でもいくつかそんな興味深い村を訪れました。

ウジラ村は北部の山間にある集落です。岩がちな山をガタガタ揺られながらすすむとその村はあります。ウジラ村には900年前からつづくポドコ族の15代目の王モゾコがいます。王は2万人のポドコ族の頂点にたち、彼の命令は絶対ということです。御年99歳の王には52人の奥さんとの間に76人の娘さんに112人の息子さんをもうけていて、お孫さんの数になるととんでもない数になるようです。宮殿の中にはポドコ族の聖なる石や先代の王のお墓、王を象徴するお祭で使う壺、奥様の部屋の一部を見せていただきました。食事は2回、26人の奥さんが交代でファミリーの食事を作る事や、跡取りは1番目の奥さんとの間にできた次男に継がせるなどユニークな習慣があることを伺いました。


DSCF4811
DSCF4814

ポドコ族の王                           52人の王妃のひとり   

DSCF4819








ポドコ族の女性たち



南部にもさらに支配範囲の広い王国が現在もあります。バフット王宮は16世紀初頭から現在まで11代の歴史があります。39人いる奥様の一人ロウさんが案内してくれました。子どもは175人いて敷地内の建物にお母さんと住んでいます。お手伝いはいないようで、洗濯などの家事も自分たちで行います。赤ちゃんや青年に至るまでたくさんの王子王女が生活していました。ドイツに植民地化されるまでは人身供儀が王の葬儀の際などに行われていました。浮気をしてしまった男女は広場で磔にされ身体の部分を徐々に落とされ殺されるという残酷な刑も行われていたようです。また祭事の際はトーキングドラムで村へ伝えられ、さらに先の区画までそのドラムの音は復唱するような形で伝わりました。毎年12月のお祭りでは王室含めバフットの人々が踊り、歌に興じるとのことです。かつての迎賓館を利用した博物館にようやく入ると現在に至るまでの王朝の遺産が展示されていました。象牙の足おきやヒョウの毛皮のカーペット、パイソンの皮を飾った王、そのお母さんの部屋、ドイツから奴隷と引き換えに送られたマグカップなどの品々、戦士などをモチーフにした彫像、100以上前の王宮の風景写真、夥しい釘を打ち込まれた願いごとを叶える人形など興味深いものばかりでした。木琴のリズミカルな調子に合わせて踊り回る、動物の仮面を用いた舞踊を見学して、バフットをあとにしました。

DSCF4990
DSCF4991

バフット王宮で先祖の霊を祀る「魂の家」           王が即位するごとに建てる木彫り

DSCF4981











バフットの人による仮面舞踏


ツアーの最後ではフンバンヘ。カメルーンはその半数の人がキリスト教徒ですが、西部州の中でもヌン川を越えるとまた民族・文化が変わり、その8割がイスラム教を信仰するバムン族の土地となります。フンバンに到着して早速バムン族の14世紀後半から19代続いている王宮の、一部を開放した博物館を見学しました。19代目の王に至るまで歴代の王の素晴らしい遺品を集めた展示でとても充実していました。その幾つかあげると、

・2m60cmあった11代目の王の特大の服や杖
・敵のあごを無数につけたカラバッシュ製のヤシ酒のツボ
・東西の敵と対峙していた時に考案された双頭の蛇の盾
・かつて生息していたカバやゾウ、ヒョウのミイラや毛皮

中でも偉業が知られているのが17代目のンジョエア王で、生涯に681人の妃を娶り、シムン文字という現在でもバムンの学校で教育に使われている独自の文字を考案しました。製粉機も開発したりするなどその多才ぶりを発揮しましたが、最後はフランスとの戦いに敗れ1933年にヤウンデで処刑されました。徒歩で王宮前広場で開かれていた市を見学しました。ンジョエア王の銅像もおかれ、今でも人々の生活と共にあるようです。

DSCF4992
DSCF4994

      現在19代目の王が生活するバムン族の王宮と伝説的な17代目のンジョエア王


2/15出発は残席わずかです。コース詳細はこちら!

otomo_saiyu at 10:00|Permalink

2012年10月17日

アシャンティ王国の栄枯盛衰(ガーナ)

ギニア湾岸沿いの首都アクラから内陸に270km移動した先に、アシャンティ州の州都であるクマシの街はあります。人口およそ150万人で、17世紀から19世紀にかけてこの地方を支配したアシャンティ王国の古都でもあります。



アシャンティの伝統的な建築方法で建てられた神殿を見学すると、ヤシの茅葺で作る傾斜の屋根をもつ神殿の多くはイギリスとの戦いでそのほとんどが失われてしまったようですが、独特の建築のいくつかはは1950年代以降修復が行われユネスコ世界遺産に登録されています。構造は正方形の中庭を取り囲むように両端が竹のせいの壁でつなげられた4棟の建物からできており、壁の装飾は様々なレリーフからなり、うずまきや鳥、カメレオンやヘビなどそれぞれに象徴しているものがあります。天から降る雨は神からの霊力が宿るとされツボに集められ祈祷に用いられたそうです。

DSC03325DSC03330










《左:世界遺産に登録されたアシャンティの伝統建築の神殿》 《右:神官の占いを待つ人々》



郊外にある、ケンタ織りの工房のあるボンウィレ村へ。村の男性が機織りを行っていました。代々王族に献上されたケンテ織りは現在ヨーロッパでも人気を博しています。工房さまざまなパターンの織物を見ることが出来ます。


DSC03335

《カラフルなケンテ織りを作成している男性》

クマシ市内に戻り昼食。甘くない品種のプランテンバナナと牛肉のほうれん草ソースがけを召し上がってもらいました。ここもたっぷりの量でしたがとても美味でした。


 
アシャンティの王族が現在もくらすマンヒヤ王宮を訪ねました。

【アシャンティ王国について】
アシャンティ族は17世紀末にクマシの首長にオセイトゥトゥ1世が即位し連合王国を築きました。18世紀末までにこの地方の森林地帯を支配し、海岸に奴隷と金などを送り、銃を得る交易を独占することに成功します。沿岸地方にまで進んだ王国に対してイギリスは遠征隊を送りクマシを破壊します。ヴィクトリア女王の命令によりホジソン提督は有名な「黄金のスツール(床几)」を引き渡すよう要求します。この要求に対してプレムペ1世は民衆とともに蜂起し最終戦争を仕掛けます。イギリス軍は王朝に入場しスツールを発見できなかったことに失望しそれに火を放ちました。その後イギリスは首長をセーシャルに追放しました。1931年にプレムペー1世が戻ると不思議とスツールは再び姿を現したと言います。
 

3代の王が王宮として使用していた博物館を見学しました。王の蝋人形やレトロな冷蔵庫、執務室、各国からのプレゼントなどが展示されていました。アシャンティ王家は女系の集団で、父から息子に継承するのではなく、王の母を通じてその親族関係の優位である男子が王位を継承します。この日は週2回行われる民の前に姿を現す日で、現在16代目であるオセイトゥトゥ2世を偶然王宮前広場で拝むことができました。新しい地方長官や地元のサッカークラブのコーチの就任報告が王の前で行われていたようです。

DSC03347DSC03345








《左:王宮前広場に現れたアシャンティ王族の末裔》 《右:王にささげる動物などを持ち寄る人々》

 
別の地方長官にも会い、一緒に写真を撮らせてもらうこともできました。その後西アフリカ最大と言われる市場を隣接する建物の上から望みました。ガーナだけでなく周辺の国々からも知り合いなどを頼って市場を訪れるそうです。現在でも人々から尊敬の念を集める首長や、にぎわう市場は当時繁栄していた王国の様子を垣間見た気がしました。

DSC03354DSC03364






《左:従者を従えた地方長官》 《右:にぎわう巨大な市場》


西遊旅行でゆくガーナ、トーゴ、ベナン、ナイジェリアの旅はこちら
西アフリカ湾岸4ヶ国横断
2012年12月24日発コース 催行決定 残席僅かです!

otomo_saiyu at 21:26|Permalink

2012年07月08日

アルジェリアの隠れた名所ベニ・ハマッド

こんにちわ。アルジェリア大好き、営業の大友です。6月は11日間のツアーへ添乗いたしました。

すでに照りつける太陽がじりじりと肌を焦がす、アルジェリアはすでに真夏のもようです。

昨年8月に南スーダンが分離独立し、それまでスーダンに次いでアフリカ2位の面積だったアルジェリアも現在大陸最大の広さを誇ります。

その広い国土では北の古代ローマ遺跡などの名所旧跡から南のサハラ砂漠などの景観など、北アフリカでも見どころが満載で個人的に大のおすすめです。
その中でも今回は隠れた世界遺産、ベニ・ハマッドの要塞都市にスポットを当てます。

ベニ・ハマッドはアルジェから南東190Kmの高原にあります。1007年、エジプトのファティマ朝から逃れたベルベルの王ブロギンヌがハマッド朝を興し、その要塞都市として建設されました。その後北アフリカを東西に結ぶ内陸の交通の要衝として発展しました。

その当時の宮殿跡で現在姿を残しているのは2つの宮殿とモスク跡のミナレットです。周りを自然の障壁とした山々に囲まれ、現存する水の宮殿にはロイヤルファミリーが小舟を浮かべて遊ぶことのできる、タイル張りの大きなプールを備えていました。また、モスクは当時のベルベル世界で2番目の大きさだったと言われています。今も残る高さ25メートルのレンガ造りのミナレットは、その方形のユニークなデザインが特徴で現在モロッコやチュニジアなど北アフリカの各地のミナレットに影響を与えたと言われています。ハンマド王朝の栄華を誇っていたベニ・ハマッドですが、ファティマ朝から送られた軍勢によって攻め入られ、およそ100年で放棄されてしまいました。

このミナレットは誰でも上ることができ、そのてっぺんから周囲の山がちな地形や当時のモスクの遺構など見渡すことができます。皆さんもアルジェリア高原を渡る風に吹かれて、今は亡き王朝の栄華に思いを寄せてみませんか?

DSCF3551



アルジェリアのほかの世界遺産もとにかくおすすめ!ご興味のある方はこちらをクリック!
10月のツアーが催行決定、9月も確実!どちらも暑さの和らいだいい季節です!

otomo_saiyu at 00:08|Permalink

2012年05月31日

ナミビアの民族を紹介!

団体ツアーも個人旅行もおまかせください!アフリカ大好き、営業の大友です。


今回は南部アフリカ方面でも抜群の人気のナミビアを取り上げます。砂漠好きな人はかならず訪れるという、迫力満点のナミブ砂漠が有名ですが、それは前のブログでも紹介されてますので、今回は民族をピックアップします。

DSC01430


まずはヘレロ族の女の子です。
南部アフリカでもこのナミビアやボツワナなどで23万人ほどが暮らしています。かつて帝国主義のドイツが侵攻したとき、蜂起しましたが、悲しいことにそのとき人口の80%を失いました。
現在街で見かける彼らはお人形のようなおしゃれな衣装を着ており、特徴的なのが突起のような棒が横に突き出た帽子(?)です。牛の角を形どっています。


DSC01324DSC01332



ご存じ、ヒンバ族の女性です。アフリカでも原始的な生活スタイルを守っています。人口は数万人、北部のアンゴラとの国境沿いで、放牧などで生活しています。男性はもっぱら放牧で村を離れていて、訪れた時は村長以外は全員女性でした。体の赤銅色は化粧と、虫除けとして「オカ」と呼ばれるバターを塗ったものです。水浴びの習慣がないので、お香などをたいてその煙で臭いを消しているそうで実際におうちの中で見せてくれました。あまり取れていませんでしたが。。。

5月~10月の間乾季のベストシーズンを迎えるナミビア。
9月14日発コースが催行決定し、8月1日発コースも間もなく催行決定という所まできております。
今年の夏は是非、ナミビアへお出かけ下さい。


【ベストシーズンに行く西遊旅行ナミビアツアーはこちら】
「ナミビア 孤高の民ヒンバ族とナミブ砂漠」
9/14出発が催行決定!

otomo_saiyu at 10:00|Permalink