ハンガ・ロア

2015年06月03日

モアイの島 イースター島 その①

東京本社の田村です。
今回は、南海の孤島、南太平洋のポリネシアに浮かぶイースター島の見所をご案内いたします。

太平洋に浮かぶチリ領のこの火山島はもともと現地語では「ラパ・ヌイ」と呼ばれていましたが、1722年の「復活祭(イースター)」の日にオランダ人によって発見されたため、この名前が付けられました。

観光の拠点は、島唯一の街「ハンガ・ロア」。イースター島の人口約4000人のほとんどが住んでいる割には、こじんまりとしてノンビリした街です。

ハンガ・ロア


イースター島と言えばいえば真っ先に思い浮かべるのが、そう、もちろん「モアイ像」。建造途中で放置されたものも含めると島全体に約900体程あります。
モアイ像がなぜ造られるようになったかという点に関しては、イースター島に住む人たちのルーツが大きく関わっているとされます。イースター島の住民の祖先は、優れた航海術も持っており、はるか昔に遠くアジアの方からポリネシアを越えてやってきたという説があり、モアイ像も同じルーツを辿るとされます。その説では、モアイ像の原型はポリネシア文化圏に見られる先祖を祀る「祭壇=アフ」にあり、最初は祭壇だけであったものが、次第に人の形をなすようになったというのです。
モアイは作られた時期によってその特徴が異なり、初期のモアイは小型でより人間の顔に近い形をしています。その後、時代を経るに従って次第に大型化し、顔の形も細長く抽象的な造りになっていき、後期のモアイには「髪型=髷(マゲ)」を表現する「プカオ(赤い岩)」が乗せられている点も特徴です。

イースター島内にはモアイ像が建つポイントが数多くあります。
そのいくつかをご案内させて頂きます。

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<タハイ儀式村>
ハンガ・ロアの街外れにあるタハイ儀式村。ここには三つのアフ(祭壇)があり、それぞれにモアイが立てられていますが、ここの三つのアフは初期・中期・後期のものが並んでおり、それぞれに特徴のあるモアイが立っているので、それぞれの特徴を比べる事が出来る貴重な場所です。

タハイ儀式村


◆アフ・コテリク(後期)
目がはめ込まれ、立派なプカオを頭にのせており、かつての全盛期(後期)の姿を最も良く表わしているモアイが立ちます。

コテリク


◆アフ・タハイ(中期)
この周辺「タハイ儀式村」の地名の元となったアフで、ここのモアイは中期のものとされています。

◆アフ・バイウリ(初期)
このアフからは700年代の燃えた木片が出土しており、イースター島で発見された最も古い出土品とされています。初期のアフと考えられており、そこに立つモアイも全体的に小ぶりで人間的な顔つきをしているのです。

また、タハイ儀式村には、アフの周囲に形成されていた部族の集落の様子が残されています。

【ハレ・バカ】
「ハレ=住居、バカ=カヌー」を意味する。別名ボートハウス。住居というよりは、首長の寝室だったり、何かの儀式で使う空間だったと推測されています。

【ハレ・モア】
ニワトリ小屋。もともと島には動物がおらず、ポリネシアから持ち込まれたニワトリは貴重な食料だったそうです。

このタハイ儀式村は夕日スポットとしても有名で、大海原に沈む夕日をバックに立つモアイ像の風景をご覧いただくことが出来ます。

タハイ夕日


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<ラノ・ララク>
島の東に位置する「ラノ・ララク」はラノ・ララクはイースター島のほとんどのモアイが切り出されたまさにモアイ製造工場とも言える場所で、イースター島観光のハイライトの一つでもあります。
この凝灰岩で出来た死火山の山腹には、切り出し途中のモアイや、切り出されてどこかに運び出される途中で放置されたモアイなど、何と合計で397体のモアイが野ざらしで残されており、整備された遊歩道を行くと、あちらこちらにモアイが放置されています。

ラノララク②


顔の形がシャープで良いため名前が付けられている「モアイ・ピロピロ」。
立っている姿の構図が良く、ガイドブックに引っ張りだこの有名な2体のモアイ。
その他にも20mを越えるイースター島最大の切り出し中のモアイなどもありました。ただ、この最大のモアイは大き過ぎるため、アフに乗せる本来の目的ではなく、切り出さずに磨崖仏のようにする予定だったと推測されています。
ラノララク


モアイ達を良く見るとその一体一体に顔の特徴がちゃんと違っていて、ちゃんとモデルとなった人(部族の首長など)に似せて造っていたことが良く分かります。
数あるモアイの中でも、このラノ・ララクで一番印象的なモアイは、やはり正座するモアイ「モアイ・トゥクトゥリ」ではないでしょうか。トゥクトゥリとはラパ・ヌイ語で「ひざまづく」という意味だそうで、このモアイは足があり姿勢正しく正座しています。さらにはあごひげを生やし、手をお行儀良くひざに置いて、何とも人間的なモアイです。あまり大きくないサイズや、この人間的な表現から、このモアイはかなり初期の頃のモノと推測されています。
ちなみに地元ラパ・ヌイの人達は、今でもお祭りの時などには正座をするそうなので、このモアイは文化的に整合性が取れており、とても興味深いです。

ラノララク④


それにしても、柔らかいとはいえこうした岩で出来たモアイを石の道具(黒曜石)で切り出したというのですから、気が遠くなる話です。高さ4mの小ぶりのモアイを切り出すのに、男30人がかりで一年半かかったという記録も残っているようなので、15m近くのモアイなどはどれくらいの時間と人間を必要としたのか想像も付きません。

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<アフ・トンガリキ>
イースター島観光のもう一つのハイライトがこのアフ・トンガリキです。

トンガリキ①


ここには立派なモアイが15体も悠然と立っており、これらのモアイが日本のクレーン車と日本の援助によって復元されたのは有名な話です。
元々、長さ100m・幅6mもあるこのアフ・トンガリキはイースター島はもちろんの事、同じような文化を持つポリネシアの中でも最大級規模のアフでして、イースター島の中心部族の集落が周囲に広がっていたと推測されています。

そんなアフも1960年のチリ地震による津波で大ダメージを受け、野ざらしにされたままになっていましたが、日本のテレビ番組で当時の知事「セルヒオ・ラプさん」(何とこの方、考古学者でもあります)のメッセージが流れたのをきっかけに、四国のクレーン会社「タダノ」がクレーンの提供と援助に乗り出し、その後日本の各方面を巻き込んでの「モアイ立ち上げプロジェクト」となりました。1992年にクレーン車が上陸し、約3年後の1995年までに15体全てのモアイを立ててプロジェクトは終了しました。

一体だけモアイ


またここで忘れてはならないのが、このアフの入り口に一体だけ立つモアイ。
このモアイは1982年に開催された「イースター島巨石像展」で来日した事のあるモアイでして、元はラノ・ララクにあり、考古学者ヘイエルダール氏のモアイ運搬実験(どのようにモアイを移動させたかを検証する実験)によってここまで運ばれたという、とても波乱万丈な人生を送っているモアイなのです。

このアフ・トンガリキは15体のモアイ越に朝日を見ることが出来る、日の出スポットとしても有名です。

トンガリキ②


まだまだイースター島の見所はたくさんありますので、続きはまた次の機会にご案内いたします。


イースター島を訪れる旅は、こちらです。
イースター島とガラパゴス諸島
 09月20日(日) ~ 10月01日(木) 12日間 998,000円 <まもなく催行決定(6/3時点)>
 11月08日(日) ~ 11月19日(木) 12日間 998,000円 <まもなく催行決定(6/3時点)>

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