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2015年10月27日

ムガール帝国の古都ラホール満喫 - シンド・パンジャーブ紀行 2014 (6)

ラホール  バドシャヒモスク (1)

2014年の年末年始はパキスタンへ。カラチからイスラマバードへとシンド州・パンジャーブ州を旅した記録です。

カラチは商業都市、イスラマバードは首都・政治の中心都市、そしてラホールは大学などがたくさんある学研都市で、人口は約1000万人と意外に大きな町です。2015年1月現在パキスタン首相のムハンマド・ナワーズ・シャリフさんの出身もラホールです。

そしてこの町はムガール帝国の栄華を見ることができる町。インドのアグラにも決して負けないほどの文化遺産が残されています。

朝、まずバドシャヒモスクへ、パキスタンで最も美しいモスクです。

ラホール  バドシャヒモスク (2)

オールド・デリーにあるジュマ・マスジッドやアグラの建築物などと同様、ムガール美術の決定版ともいえる建築物です。

バドシャヒモスク
 ラホールの象徴といえる、世界最大規模を誇るモスク。「バードシャーヒー」というのは「皇帝の」という意味で、このモスクを建設したムガール朝第6代皇帝アウラングゼーブを指します。中央の広場は一辺が160mあり、一度に10万人の人が礼拝できるほどの大きさです。そして四隅に立つミナレット
(尖塔)の高さは約50mもあります。礼拝堂は赤砂岩と大理石で造られていますが、この赤砂岩は「ピンク・シティ」と呼ばれるインドのジャイプールから運ばれたもの。このことからも、当時広い領土を支配したムガール帝国の繁栄が伺えます。


そしてそばにあるラホール城。通常、「セット」で訪問します。

ラホール城
 ラホール最古の建築物と言われるラホール城は、歴史的に何度も手が加えられ、現在の壮大なラホール城に仕上がりました。最も初期の築城は11世紀。当時は泥製でした。17世紀、ムガール帝国第3代皇帝アクバルがラホールを都とした際、この泥の城を基盤とし、泥を撤去しながら新たな城の建築を開始。その後、歴代皇帝が建築が重ね、拡張し、今の姿になりました。内部には王族の宮殿、謁見所、女王の宮殿シーシュ・マハル(鏡の間)等、どれもすばらしい装飾に、当時のムガール帝国の栄華を偲ぶことができます。シャリマール庭園とともに世界遺産に登録されました。


ラホール (8)

バドシャヒモスクの対面にあるラホール城

ラホールフォート (1)

アクバルの時に建築がはじまり、第4代皇帝ジャハーンギールの時に完成した「ジャハーンギール庭園」

ラホールフォート (2)

シャー・ジャハーンによって作られたディワニアーム(謁見所)

ラホールフォート (3)

城内で最も美しいとされる「シーシュ・マハル(鏡の間)」。その名の通り、ガラスの破片をアラベスク模様に壁に埋め込んであり、明かり一つで全体を照らせます。第5代皇帝シャー・ジャハーン、第6代皇帝アウラングゼーブの2代に渡って作られました

ラホールには「ムガール帝国」の象徴とも言える、ペルシャの影響が強いムガール庭園も残されています。それが世界遺産にも指定されているシャリマール庭園。

シャリマール庭園
ムガール帝国第5代皇帝シャー・ジャハーンにより王族の保養地として造られた庭園。左右対称の水路はペルシア様式で、運河により運ばれた水を利用した噴水やテラスがあり、当時の技術の高さに驚かされます。全体の構造は3段階になっていて、それぞれの階に王座や、王の家族座る席があります。1981年に世界遺産に登録されました。


ラホール (4)

シャリマール庭園の美しい噴水は、以前は100ルピーほど支払うと、噴水を少し上げてくれましたが、今はデング熱を媒介する蚊が発生するのを防ぐため噴水は禁止になってしまいました。


そして、もうひとつのみどころが「ラホール博物館」。パキスタンで収蔵量No.1の博物館です。目玉は何と言ってもガンダーラ美術の「断食する仏陀」(旧北西辺境州のマルダン近く「シクリ」から出土と言われています)。「ガンダーラ」に関する収蔵品は「ペシャワール博物館」が一番ですが、残念ながら今はツアーでは訪問できないため、この「ラホール博物館」のガンダーラ美術に関する展示は見逃せません。

ラホール博物館 ガンダーラ (2)

ゴータマシッダールタの出城の様子 愛馬カンタカに乗っていますこのような彫刻は片岩に彫られ、当時僧院にその地方の有力者が寄進した「奉献ストゥーパ(仏塔)」の表面に装飾としてつけられていたレリーフの一部です。釈尊が釈尊として誕生する前(前世)のお話「本生譚」や釈尊の一生などがモチーフになっています。

ラホール博物館 ガンダーラ (3)大変有名な仏陀像、「断食仏陀」。もう一体はペシャワール博物館にあります。
断食するゴータマシッダールタ(悟りを開く前) この後、牧女・難陀婆羅(一般的にはスジャータと呼ばれています)から乳粥を施されます。



















ラホール博物館 ガンダーラ (1)ガンダーラ美術の特徴のすべてを押さえたような弥勒菩薩、隆々とした上半身、右側に体重をかけた立ち方、ウェービーヘヤー、切れ長の目、ドレープをたっぷりと取った衣など。




















ガンダーラ
紀元前6世紀から紀元後11世紀まで、アフガニスタン・バーミヤンあたりからパキスタン中部・タキシラあたりまでを範囲として栄えた王国。1~5世紀頃、クシャーン朝で仏教が信奉されました。
この地域には、紀元前320年頃にアレキサンダー大王が訪れており、ヘレニズム(ギリシア)の影響が色濃く残っていました。仏教では、当初偶像の崇拝はされていませんでしたが、紀元前50年から紀元後75年頃にこの地でヘレニズム様式の像が作られ始まました。従って、中高の顔、アーモンド型の目、前に出た顎、波打つ髪型、厚い胸板などヨーロッパ人の身体的特徴が見られます。また、西洋の古典芸術の勃興期から用いられた「コントラポスト」という体重の大部分を片側にかけて立つ人を描く視覚芸術も用いられています(ミケランジェロのダビデ像と同じ)。その他、執金剛神がギリシア神話のヘラクレスのように彫られていたりもします。


でも、本日のヒットはこちら。

ラホール (11)

ラホールの入口すぐのところにある木製の橋げたにいたフクロウ、Barn Owl。
お面をつけているように見えることから和名は「メンフクロウ」です。

みどころたっぷりのラホール。そしてお待ちかね、一番人気の「ワガ国境・フラッグセレモニー」へ。

文・写真 by 村田知香 Murata Chika

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2015年10月26日

「ハラッパは本当に原っぱです」 - シンド・パンジャーブ紀行 2014 (5)

2014年の年末年始はパキスタンへ。カラチからイスラマバードへとシンド州・パンジャーブ州を旅した記録です。

ムルタンから北は、冬には濃い霧が出ることで有名なので、余裕をもって早めの7時出発にしました。約3時間走ってハラッパへ到着。世界遺産のモヘンジョダロに比べて、「ハラッパは何も残っていない。まさに文字通り、ハラッパは原っぱです」というのが、現地日本語ガイドさんの定番のダジャレです。今回のガイド、サリームさんが同じダジャレを言わなくてホッとしました。しかしながら、ハラッパには派手な遺稿はなく修復もろくにされていませんが、十分に見応えのある遺跡です。

ハラッパ
ラヴィ川南岸に位置するインダス文明の都市遺跡。1920年にインド考古局のD.R.サハニ氏により発見されました。ハラッパの南西に栄えたモヘンジョダロと同様に、城塞区と市街地から成り、最盛期には2万人の人々が暮らしていたと考えられています。発掘当初はモヘンジョダロと同時代のものと言われていましたが、最近の研究ではそれぞれの場所で発掘された土器の違いや、穀物倉の違いから、ハラッパの方が後期のものだという説もあります。しかし、インダス文明として発見されたのはハラッパの方が先。そのため「ハラッパ文化」や「ハラッパ土器」と呼ばれることもあります。現在も遺跡の発掘作業は続いていますが、全体的な遺跡の復元は難しいといわれています。なぜなら既にこのあたりは様々な理由で遺跡の破壊が進んでいるからです。ラヴィ川の氾濫の影響や、そして英国領時代にここがまだ貴重な遺跡と知らずに、遺跡のレンガがラホール・カラチ間の鉄道建設使われました。なんと、インダス文明のレンガが線路の敷石にするために持っていかれたのです。


霧のハラッパ (1)

城塞区。城塞区はあるものの、モヘンジョダロのように権力者の住んでいた宮殿や王宮が見つかっていないため、この社会が誰に、どのように支配されていたのかは未だ謎に包まれています。

霧のハラッパ (2)

穀物倉庫。作業台より一段低い地に整然と広がっています。床下には通風施設もあり、優れた倉庫であったとされています。またモヘンジョダロ同様、公共の場に設置したと思われるごみ箱も見つかっています。

観光客は私たちだけ、博物館も停電したままでしたが、それでもハラッパはまだまだ研究の余地と価値がある遺跡です。

羊

見学後、ハラッパのすぐ近くの家畜市にたちよりました。ヤギ、ヒツジ、牛などが売買されています。ちなみに、子ヤギは1匹1000ルピー以下で買えるそうです。

そして、旅は北へ。パキスタン第2の都市ラホールを目指します。

文・写真 by 村田知香 Murata Chika

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2015年10月25日

聖者廟の町ムルタン - シンド・パンジャーブ紀行 2014 (4)

ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (4)

2014年の年末年始はパキスタンへ。カラチからイスラマバードへとシンド州・パンジャーブ州を旅した記録です。

昨夜12時頃から深い霧が出始めました。朝6時でもまだ視界2mくらい。真っ白な朝でした。8時頃、ようやく霧も薄くなり出発しました。一路、ムルタンへと急ぎました。

ムルタン
パンジャーブ地方南部の交易の場として古くから栄えた町。当時はラヴィ川とチェナブ川の合流点に位置しました(現在はその合流地点は40キロ北にあります)。姉妹都市のウチ・シャリフと並び13~14世紀に中央アジアから多くのイスラーム聖者が集まり、イスラーム信仰、文化、政治の中心となった町でもあり、今でも街中に聖者のダルガー(墓廟)が残っています。またこれまでの考古学的な発掘により、モヘンジョ・ダロやハラッパと同時期に興った町という説もあります。町は東の旧市街と西の新市街に分かれ、かつて旧市街は城壁と6つの門で囲まれていました。今でもその一部の城壁と4つの門が残っています。


ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (8)

ムルタンの町の中心。中央にあるのはイギリス(英国領インド)植民地時代に建てられた時計台。

ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (2)

シャー・ルクネ・アーラムへ向う歩道、参拝に向う家族の姿。

ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (1)

途中、こんな光景も見ました。「手相占い」です!


シャー・ルクネ・アーラム
偉大なスーフィー指導者、シャー・ルクヌッディーンの廟。彼はその偉業から、「シャー・ルクネ・アーラム」(世界の柱の意)と呼ばれています。1334年、83歳で亡くなり、初めは別の場所に彼の祖父と葬られました。その後、当時のトゥグルク王朝の皇帝が自分の墓として建設したこの建物をルクネ・アーラムの墓として使うよう遺言に残したので、廟はここに移動されました。


ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (3)

ムルタンで一番有名な建築物、シャー・ルクネ・アーラム。

ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (5)

内部はこんな感じです・・・霊廟に寄り添い、祈りをささげる人々の姿(2013年撮影)


バハー・ウル・ハックの廟
シャー・ルクネ・ アーラムの祖父であるバハー・ウル・ハックは1257年モンゴルの略奪団がムルタンにやってきた時、無差別の虐殺を思い留まるよう彼らを説き伏せたそうです。シャー・ルクネ・アーラム廟と同様、2階の八角形建築の上に白いドームが載せられた1262年築の建物で、バハー・ウル・ハック本人が造ったとされています。南アジアにおける初期タイル建築として重要な建物です。


ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (10)

バハー・ウル・ハックの廟


シャー・シャムズ・タブレーズの廟
アフガンのシーア派のスーフィーであるシャー・シャムズ・タブレーズはイスラームを伝承するため各地を旅しました。イランのタブリーズからこの地にやってきた彼は長旅のため、みすぼらしい格好をしていました。地元の人々はそんな彼に傷みかけた肉を与えました。神は彼の偉業を知っていたため、彼のために太陽を引き下げ、その太陽熱で彼は肉を焼きました。そのため、ムルタンはとても暑い場所になったという伝説があります。


ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (11)

シャー・シャムズ・タブレーズの廟


その後、ムルタンのオールドバザールへ。パキスタンでも昔ながらの情緒あるバザールです。

ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (6)

日よけで覆われた細い路地には、生地・衣服、雑貨などを売る店が所狭しと軒を連ねます。

ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (12)

ここでは、パキスタン人が大好きな「ソーハンハルワ」の有名店へ行きました。小麦、砂糖、ミルク、ナッツを混ぜて作った甘いお菓子です。このお店は1930年、神学校の先生ハフィズ・アフメッドさんが生徒の毎日のおやつとして作ったことが始まりだそうです。イスラマバードのスタッフも、「ムルタンに行くなら買ってきて!」と言うほどの人気の高いお菓子。

ムルタン シンド・パンジャーブ紀行 (7)

個人的にムルタンで一番気になるのはこれ、ヘンナで毛を染めてもらったロバや馬。

そして旅は北へ、ラホールを目指します。

文・写真 by 村田知香 Murata Chika

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2015年10月24日

チョリスタン砂漠とイスラム聖者の町、ウチ・シャリフ - シンド・パンジャーブ紀行 2014 (3)

チョリスタン砂漠 (4)

2014年の年末年始はパキスタンへ。カラチからイスラマバードへとシンド州・パンジャーブ州を旅した記録です。

サッカルより州境を越えてパンジャーブ州に入り、チョリスタン砂漠を目指します。途中、かつて中央アジアから伝わったイスラム神秘主義が栄えた町、「ウチ・シャリフ」へ立ち寄りました。ここで有名なのは、よく写真にあるビービー・ジャヴィンディの聖者廟(ダルガー)。真正面から見ると、青いタイル、丸いドームが美しい建物ですが、後ろへ回ると見事なほどに崩れています。これはすぐ近くにあったサトレジ川が氾濫した際に流されたためです。

チョリスタン砂漠 (5)

正面から見ると美しい、ビービー・ジャヴィンディの聖者廟(ダルガー)

ウチ・シャリフ
13~14世紀に中央アジアから多くのイスラム聖者が集まったウチ・シャリフは「崇高な聖地」という意味。姉妹都市のムルタンと並び、この時期、イスラム信仰、文化、政治の中心となった町です。
 しかし、この町にはもっと古い歴史があります。前4世紀に活躍した、あのアレキサンダー大王もここに滞在したと言われています。彼は各地に「アレクサンドリア」と名付けた多くの都市を建設しましたが、このウチ・シャリフはその一つだったという説もあります。
 この地にイスラム信仰が根ざしたとき、ここに集まった聖者は神秘主義のうち、スフラワルディー派と呼ばれました。彼らはムルタンとウチ・シャリフを拠点としており、ここに残るダルガー(聖者廟)がそれを象徴しています。この近くを流れるサトレジの流れが変わったことから町が衰退し、さらには19世紀の洪水により破壊されてしまったものもありましたが、今でもいくつかのダルガーが残っており、人々の信仰を集めています。


で、後ろから見ると・・・

チョリスタン砂漠 (6)

周囲の建物もダメージイが・・・

チョリスタン砂漠 (2)

パキスタンに残された、中央アジアからやってきたイスラム神秘主義者たちの記憶です。

そして、日が高いうちに到着するようにとチョリスタンのキャンプへと急ぎました。到着すると、チョリスタン風の鮮やかな色使いのテントが並んでいました。日が沈む時間にあわせてデラワール砦までキャメル・サファリ。

チョリスタン砂漠 (7)

「チョリスタン・カラー」のテントたち。うちのスタッフは「ムガール・テント」と呼びます。

チョリスタン砂漠はパキスタンのシンド州とインドのラジャスラン州の「タール砂漠」につながる砂漠です。1000年前まではチョリスタンはハクラ川(チャガル川)に育まれた肥沃な平野でしたが、この川が枯渇してから砂漠化が進みました。 最近では昔の用水路を再度発達させるなどして水を供給させ、およそ10万人の人々が放牧などをして暮らしをしています。

チョリスタン砂漠 (8)

キャメル・サファリでデラワール砦で。私たちを待つラクダさん。

チョリスタン砂漠 (9)

ラクダに乗って出発です。

チョリスタン砂漠 (3)

美しい、夕方のデラワール砦。

デラワール砦
パキスタンには昔の交易路に沿っていくつかの「砂漠の要塞」が残されています。デラワール・フォートはジャイサルメール(インドのラジャスタン州)まで300キロの位置にあり、よく保存された要塞です。
デラワールには古来より要塞が築かれてきましたが、城壁の高さ40m、直径1.5キロの現在の要塞は、1733年にジャイサルメールの王、ラジャ・ラワル・シンにより占拠され建築されたものです。当時のデラワールはよく灌漑され、18世紀には12000人の人が暮らしましたが1960年以降の国際条約によりサトレジ川からの用水路はインドへ方向を変え、デラワールは衰退しました。現在は再びこの用水路を利用し人々の定住が始まっています。現在の砦はパキスタン軍が使用しており中に入ることはできません。


そしておもてなし尽くしの夕食後、村人たちが集まり、キャンプファイヤーを囲み歌に踊りにと大賑わい。砂漠の夜は更けていきます・・・。

チョリスタン砂漠 (10)


そして旅は北へ、ラホールを目指します。

文・写真 by 村田知香 Murata Chika


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2015年10月23日

世界遺産の町タッタ  - シンド・パンジャーブ紀行 2014 (2)

タッタ パキスタンの世界遺産 (6)

2014年の年末年始はパキスタンへ。カラチからイスラマバードへとシンド州・パンジャーブ州を旅した記録です。

カラチから北上し、1981年世界文化遺産に指定されたタッタへ向いました。タッタは町自体が世界遺産になっています。

タッタ
タッタはシンド州南部、カラチから北東約100km離れたインダス川デルタ地帯にある古都。14~16世紀、サムマ朝、アルグン朝、タルハーン朝の首都として栄えました。16世紀後半にムガール帝国の支配下におかれましたが、オランダ東インド会社がこの港湾都市を交易所としたため、18世紀までその繁栄を維持しました。しかしインダス川が流れを変え、衰退し始めた1739年、ペルシャのアフシャール朝との戦いに負け、領土を割譲されました。ここには1981年に世界遺産に登録されたマックリーヒルやシャー・ジャハーン・モスク等のイスラームの歴史的建造物が多くあります。これらペルシャ式の美しい青いタイルでできた優美な建築や石やレンガを使った精巧な建築が、歴史的に価値ある建造物として評価されました。しかしこの地は2010年のパキスタン大洪水の際、最も大きな被害を受けた地域の1つでもあります。当時は17万人以上の人が被害を受けたと言われています。


タッタでは、マックリーヒルシャー・ジャハーン・モスクを訪れました。シャー・ジャハーンはムガール帝国5代皇帝でムガール時代で最も安定した時代を築きました。また、インド・イスラム建築を大きく発展させた人物で、代表作は知らない人がいない「タージ・マハル」です。また、パキスタンのムガール時代の世界遺産のすべてに携わっています。

マックリーヒル(マックリーの丘)
 リトル・メッカと呼ばれるマックリーヒルは世界最大のネクロポリス(墓地)で、100万にも及ぶ墳墓が残っています。ここにはタッタを都に栄えた3つの王朝(サンマー朝、アルグン朝、タルハーン朝)の時代の王や聖者の廟が残されています。ペルシャによってこの地が侵略された後も、これらの建築はそのまま保存され、現在まで残っています。今なお、シンドの人々はこのマックリーを神聖視し、なにか独特の空気が流れているといいます。


今回、4つの特徴ある建築様式を持つ聖者廟を訪問しました。

タッタ パキスタンの世界遺産 (1)

イサハーン・タルカーン廟

タッタ パキスタンの世界遺産 (2)

バキ・ベグ・ウズベク廟

タッタ パキスタンの世界遺産 (3)

デワン・シュルファ・カーン廟

そして、このタッタで最も美しく壮麗なのが、シャー・ジャハーンによる金曜モスク、ジャマ・マスジッドの装飾です。

シャー・ジャハーン・モスク
 ムガー ル朝第5代皇帝シャー・ジャハーンの命を受け、1647年に完成したモスク。かつてまだ皇子だったシャー・ジャハーンが宮廷内の紛争からこの地に逃れた時、彼を保護してくれた人々にお礼の意を込めてこのモスクを作ったと言われています。現在では特別な行事でしか使われていませんが、当初は金曜日の集団礼拝に使われる「ジャマ・マスジッド」でした。長方形の中庭を囲み、4辺の回廊中心にアーチが向かい合うこの造りは、ペルシャに多い「イーワン様式」。大小のドームは全て合わせて93あり、これらのドームによって、説教師の声がモスクの隅々まで響き渡るような設計になっています。また、このモスクにはミナレット(尖塔)がないのも特徴です。


タッタ パキスタンの世界遺産 (7)

イランに見られる、「イーワーン様式」のモスクの内庭

タッタ パキスタンの世界遺産 (5)

圧巻のドーム天井装飾。

シンド特産の釉薬青タイルで彩られたドームに、パキスタンが「ペルシャ世界」と「インド世界」の間にあることを実感させられます。

そして旅は北へ。パンジャーブ州を目指します。

文・写真 by 村田知香 Murata Chika

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2015年10月22日

モヘンジョダロ - シンド・パンジャーブ紀行 2014 (1)

Moenjodaro-saiyu (1)

2014年の年末年始はパキスタンへ。カラチからイスラマバードへとシンド州・パンジャーブ州を旅した記録です。

12月29日、いよいよ旅のハイライトのひとつ、モヘンジョダロへ。南から北上する途中、ラルカナ村付近を通りました。ラルカナ村はパキスタンの有名政治家ファミリー「ブットー一族」の出身地。2007年12月27日に暗殺され、のちにイスラマバード空港の名前にもなっているベナジール・ブットーは今でもカリスマ的な人気を持つ政治家です。暗殺の直後、カラチからこの一体は驚きと抗議の人々で騒然となりましたが、今では「田舎の村」。ここからさらに北上したところに「モヘンジョダロ遺跡」があります。

モヘンジョダロ遺跡とは
紀元前2600年~1700年に栄えたインダス文明最大の都市遺跡。モヘンジョ=ダロとは「死者の丘」を意味し、発掘前、人々はこの地に得体のしれない死者が眠ってあるだろうと思い込み、近づくのを恐れていました。一番初めに発見したのはインドの考古学者、R.D.バネルジー。ここで見つかった印象が、ハラッパで見つかったものと同じであったことから、ここがインダス文明の都市であることが分かりました。
遺跡は城塞区と市街地から構成され、高度な水利システムと都市計画のもとに造られたこの街には、最盛期で3万人の人口を抱えたと推定されています。インダス文字が解読されていないため、未だ解明されていないことが多く、遺跡の発掘もまだ3分の1も進んでいないとされ、まだまだ多くの謎が残る遺跡です。
遺跡が属する地域一帯では地下水位の上昇による塩害が進行し、モヘンジョダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化していく塩分砕屑現象が止まりません。半乾燥気候で地下水の塩分濃度が高いこの地域は、建物跡の焼成レンガに地下水が入って塩分が結晶化し、内部から破壊が始まっています。90年代に乾燥を防ぐため泥モルタルでレンガの表面を覆いましたが、現在は一部のモルタルははがれてきています。さらに地表面に塩が噴き出て、建造物は根元が崩壊し始めています。 モヘンジョダロの特徴は、発達した排水システムや、タテ・ヨコ・厚みが4対2対1の大きさに規格化されたレンガ等、高度な技術をもって造られた計画都市であることです。よく整備された下水道網は建物の間に張り巡らされ、また排水溝も設置されていたため、ごみで溝が塞がらない構造になっています。
 城塞区の12倍の面積を持つとされる広大な居住区は、発掘者の頭文字をとって区画に名前が付けられています。DK地区は貴族や職人階級の人々が、VS地区には農民が、HR地区には職人が住んでいたとされ、壁の厚さや家の広さに違いがあります。また市街地を貫くように「第一大通り」があり、DK地区、VS地区、HR地区はこの通りに面しています。


では遺跡見学にでかけましょう。

Moenjodaro-saiyu (2)

司祭階級が住む地区 SD区と呼ばれています。

Moenjodaro-saiyu (3)

SD区のシンボルの仏塔(紀元後2~3世紀建) インダス遺跡とガンダーラ遺跡のコラボレーション!

Moenjodaro-saiyu (4)

絵はがきなどで最も有名な角度からのモヘンジョダロですね。インダス文明の特長ともいえる上下水システムを駆使した沐浴地から見る仏塔と司祭階級の居住区。

Moenjodaro-saiyu (5)

二階建て井戸 富裕層暮らしたエリアといわれるDK区にあります。

Moenjodaro-saiyu (6)

塩害の影響は深刻です。モヘンジョダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化していく現象が止まりません。90年代に乾燥を防ぐため泥モルタルでレンガの表面を覆いましたがその後、パキスタンの治安のせいか、政府のせいか、発掘や遺跡の保護はなされず放置されたままです。現在は公園を管理する職員が掃除をしたり崩れたところを簡単に補修するのみで外国からの専門家の指導や支援はありません。

Moenjodaro-saiyu (7)

レンガの間に時折見つかる人骨

Moenjodaro-saiyu (8)約3時間、休憩なしにノンストップで見学をしました。その後、お昼ご飯を食べ博物館へ。
これは博物館にあったモヘンジョダロの復元想像図(以前、写真撮影可能だった時のもの)。
もちろん「想像図」ですが、その文明と高レベルな都市計画には驚かされます。モヘンジョダロ、考古学ファンにはたまらない遺跡です。





そして旅は北へ。パンジャーブ州を目指します。

文・写真 by 村田知香 Murata Chika

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2015年10月20日

発表!春のフンザ特集パンフレット

お待たせいたしました!今年も春のフンザのパンフレットが完成しました。
皆様お手元に届きましたでしょうか?

以下の写真は、2015年に弊社添乗員が撮影したものです。
来年は、どんな景色に出会えるのでしょうか?

funza (6)
桃源郷フンザにて。背後に見える建物はかつての領主ミールの城バルチット城です。

funza (1)
バルティスタン・シガール村にて

funza (4)
シガール・フォートホテルの中庭にて(バルティスタン)

天気、治安、服装、道路状況等…ご不明な点、気になる点がありましたら、
お気軽に担当までお問い合わせください。

フリーダイヤル:0120−811−391
ツアーお問い合わせはこちら

春の桃源郷フンザ・バルティスタンのツアーページはこちら

花の桃源郷フンザの旅9日間〈東京・大阪発着〉
・お仕事をされている方でもご参加いただきやすい土曜発日曜帰りの9日間コース。
2名様から催行、8名様より添乗員が同行。添乗員が同行しない場合現地日本語ガイドがご案内します。

花の桃源郷フンザとバルティスタン11日間〈東京発着〉
・「桃源郷」フンザに加えバルティスタンも訪問

春の大パキスタン紀行18日間〈東京・大阪発着〉
・今年はモヘンジョダロを終日じっくり観光。カラコルムの好展望地ドゥイカルにも宿泊します!

花の桃源郷フンザを歩く9日間〈東京・大阪発着〉
・お仕事をされている方でもご参加いただきやすい土曜発日曜帰りの9日間コースになりました!

シムシャール村・タガムの祭りと杏の里めぐり15日間〈東京発着〉
・パキスタン北部再訪の方のための特別企画バルティスタンも訪問

funza (5)
おまけ:西遊旅行東京本社のエレベーター内。一足(?)早く、春の装いです。