2012年10月

2012年10月30日

死海で浮遊体験

皆様、こんにちは。大阪支社の中田です。

今回ご紹介するのは、イスラエルの見所の一つ、「死海」です。

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死海は海抜下400メートルと、世界で最も低地にある塩水湖です。
ヨルダンとの国境に位置し、ヨルダン川の流れ込む北側から南の端まで、全長78キロにも及びます。
ヨルダン川から流れ込み出口を無くした水が、強烈な太陽光の下で蒸発し、海水の10倍、約33パーセントもの塩分濃度の湖を形成しました。
その塩分濃度の高さで、生き物が生息出来ないことから「死海」と名付けられました。
水の中にいるにも関わらず、浮きながら新聞を読む姿などは、テレビなどで一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。

「聖地エルサレム滞在」では、エルサレムから少し足を延ばし、死海も訪れました。
エルサレムから、どんどん砂漠を下るように進むと、死海は見えてきます。

強烈な太陽の日差しは、現在でも死海の水を蒸発させ続けており、蒸発した場所に塩が残っている光景を何度も見かけました。
太陽の日差しに加え、近年の雨不足も原因の一つだと言われており、300年後には死海の水が全てなくなるという予想もあります。

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いざ死海へ進むと、少しヌルっとした水に驚きます。
今までに経験したことのない「沈まない」感覚は、コツを掴むのに少し時間がかかります。
この時、水が口に入った方は、とても驚かれます。
塩辛い感覚を通り越して、少し苦味を感じるからです。


周辺には、死海の泥使い、パックの様にしている観光客の姿もありました。

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死海にあるホテルには、死海と同じ濃度のプールがあり、そちらで浮遊体験も楽しんでいただきました。

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強い日差しを避け、こちらでのんびりと浮かぶのもオススメです。


死海での浮遊体験が楽しめ、聖書の中を旅するツアーはこちら「シナイ半島とイスラエル周遊の旅」。
来年2月、3月に設定しております。
野花の咲く中の、巡礼シーズンです。この機会に是非、ご検討下さい。


西遊旅行で行くイスラエルの旅
関連ツアー:「シナイ半島とイスラエル周遊の旅

nakata_saiyu at 18:42|Permalink イスラエル | 死海(イスラエル・ヨルダン)

2012年10月16日

中央アジアへの扉・タシケント

こんにちは、東京本社の近藤です。


9月に「文明の十字路 ウズベキスタン」へ同行させていただきました。
今回は、このツアーで訪れる町の風景を2回にわたり紹介させていただきます。
まずは、ウズベキスタンの玄関口タシケントです。

【タシケント】
町の歴史は古くチルチク川の流域に位置するオアシス都市として栄えました。立地も良く古代よりシルクロードの交易路の要所として栄えました。三蔵法師もここを訪れています。有名な交易地として中国でもその名は知れ渡り、唐の時代には「石国」と呼ばれていました。

その後、唐がタシケントに侵攻した際にイスラム帝国であるアッバース朝に支援を求め、起こった戦いがタラス河畔の戦いです(戦は現在のキルギスのタラス地方で繰り広げられました)。アッバース朝の勝利をきっかけに、タシケントのみならず中央アジア全体でイスラムが進みました。イスラム文化は現代まで根強く続いています。

19世紀、タシケントは帝政ロシアの植民地となり、ロシア人が移住しロシア文化が入り込んできました。
この頃から20世紀初頭にかけて、タシケントは英国と帝政ロシアの間で繰り広げられた領土の争奪戦「The Great Game(グレート・ゲーム)」の舞台になり、スパイ合戦が繰り広げられ別名「スパイの街」とも呼ばれていました。


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《写真左:チョルスー・バザール内はウズベキスタンで一番大きく、実際に訪れるとまるで迷路》
《写真右:とあるスーパーにて。様々な民族がウズベキスタンを行き交っている過程で混血化が進んだ》

以前はブハラなどと変わらないような入り組んだ路地が多い日干し煉瓦の建物が並ぶ街でしたが、1966年の大地震で建物のほとんどが倒壊されました。




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《写真左:広々と拡張された道路が続くタシケント市内》    
《写真右:1966年の地震で多くの建物が倒壊したが、日本人が建てたナヴォイ劇場はまったく無傷だったといわれる》

その後、ソ連の政権の下、支援を得て震災から立ち直りました。その際、当時はソ連内の一共和国ということもあり、街並みも統一され道路も広く整然とした街並みになりました。

数々の歴史を経て街の拡大・崩壊を繰り返し現在のタシケントはウズベク人を始め多くの民族が混住する街となりました。街の多彩さは中央アジア一です。いまや人口200万人以上を要しする中央アジアの首都といえます。







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《歴史を語るうえで外せないのが歴史博物館。タシケントでは各地の出土品が展示されています。
写真はファヤズ・テパで発掘された三尊仏像》


次回はティムール帝国の中心サマルカンドを紹介します。



▼文明の十字路ウズベキスタン

kondo_saiyu at 20:59|Permalink ウズベキスタン | シルクロード

2012年10月12日

ヴィア・ドロローサ

皆様こんにちは。大阪支社の中田です。
先日、「聖地エルサレム滞在」へ同行させていただきました。

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≪オリーブ山から旧市街を眺めて≫

エルサレム旧市街に滞在することで、聖地の雰囲気を肌で感じ取っていただいた、こちらのツアー。
今回は、イエスが十字架を背負って歩いた「ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)」をご紹介したいと思います。


1キロ近くにもわたるその道は、イエスがローマ総督ピラトに死刑の宣告を受けてから、十字架に処刑され墓に納められるまでをたどったものです。現在のエルサレム旧市街ではこちらの道が、様々な場面ごとに14ステーションに指定されています。
ラテン語で「悲しみの道」を表すこの道の名の由来は、「イエスの苦しみを偲んで名づけたもの」や、「イエスの姿を見て悲しむ人々を表したもの」など、諸説あります。

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≪第4ステーション 母・マリアがイエスを見つめた様子≫ 

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≪写真左:第3ステーション 十字架の重さに耐えかねて最初につまずいた場所≫ 
≪写真右:第5ステーション クレネ人・シモンがイエスに代って十字架を背負った場所≫

また、第10ステーションからは、聖墳墓教会の内部に存在します。
聖墳墓教会は、ビザンチン時代や十字軍時代、19世紀の各時代に造られた教会の集まりで出来ている、大建造物です。イエスの昇天後はローマの異教の神々が祀られていましたが、326年にコンスタンティヌス帝の母・ヘレナの聖地巡礼をきっかけにキリスト教会の聖域が定められ始めました。破壊と修復を繰り返し、現在の建物がゴルゴダの丘に建てられたのは1099年でした。

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そしてここは、ヴィア・ドロローサを歩いてきたイエスが処刑され、息を引き取った場所。
教会内部は熱心に祈りをささげる信者の神聖な空気で包まれていました。

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≪写真左:イエスが十字架から降ろされ香油を塗られた台≫ 
≪写真右:第12ステーション イエスが十字架に磔にされ、息を引き取った場所≫

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イエスが埋葬されたとされる第14ステーションには、今日でも大勢の信者長蛇の列を作っています。その中には涙しながら墓から出てくる人の姿も見受けられました。

「祈り」について考えさせられることが多い、エルサレムでの滞在。
中でもここヴィア・ドロローサは、祈る人々の涙に、心揺さぶられるものを強く感じた場所でした。


西遊旅行で行くイスラエルの旅
関連ツアー:「シナイ半島とイスラエル周遊の旅

nakata_saiyu at 21:10|Permalink 聖地巡礼 | イスラエル