ウズベキスタン

2017年06月23日

【ウズベキスタン】城壁の町・ヒヴァ

東京本社の荻原です。
本日はツアーで訪れるヒヴァの町をご紹介いたします。

砂漠気候で年間300日は快晴であるヒヴァは、二重の城壁に囲まれており、内城のイチャン・カラは450メートル×600メートルの小さな城壁内全体が1990年に世界文化遺産に登録されています。
17世紀、ヒヴァ・ハン国の首都となり、政治・経済・宗教の中心としてモスクやミナレット、メドレセが続々と建設されました。

西門を抜けるとまず目に飛び込んでくるカリタ・ミナルは高さは26m、直径は14.2mの巨大なミナレットで、1852年に建設が着工されました。その後ムハンマド・アミン・ハンがペルシャとの戦いで死亡したため工事は中断され、未完のまま残っています。

DSC_0002_ogihara
▲未完の塔カリタ・ミナル


ジュマ・モスクは213本の木の柱が建てられた多柱式建築で、中央アジアで最も古いモスクといわれています。

DSC_0871_ogihara
▲ジュマ・モスク内部


ヒヴァで一番高く新しいイスラム・ホジャ・ミナレットは1910年に建てられました。118段の階段があり、ご希望の方はフリータイムに登って頂くことができます。階段はとても急で、翌日筋肉痛になるほどですが、頂上からの景色は格別です。

DSC_0966_ogihara
▲イスラム・ホジャ・ミナレット外観


DSC_0977_ogihara
▲イスラム・ホジャ・ミナレット頂上からイチャン・カラを一望


ヒヴァはサマルカンドやブハラと比較すると小規模ではありますが、こじんまりとした良さがあり歩いていて非常に落ち着く街並みとなっています。

--------------------------------------------------------------------------------------------------------

3回に渡ってサマルカンド、ブハラ、ヒヴァとウズベキスタンの代表的な3都市をそれぞれご紹介してまいりました。

2017年のウズベキスタンツアー、次回は8月に2つの出発日をご用意しており、いずれも催行が決定しております。
団体旅行では10月までの限定ツアーとなるウズベキスタン。ぜひこの機会に、ブルーの建造物が織り成す世界に足を踏み入れ、文明交差路の歴史を感じてみませんか。

世界遺産のヒヴァ、ブハラ、シャフリサブス、サマルカンド四都周遊
文明の十字路ウズベキスタン


ogihara_saiyu at 20:19|Permalink

2017年06月15日

【ウズベキスタン】中世隊商都市・ブハラ

東京本社の荻原です。
本日はツアーで訪れるブハラの町をご紹介いたします。

紀元前5世紀には都市が造られたとされるブハラは、9世紀のサマン朝の時代に黄金期を迎え手工業、商業が盛んになり、交易の十字路となりました。
サマン朝最後の王がイスマイル・サマニが父親のために建てた、中央アジア最古のイスラム建築「イスマイル・サマニ廟」は、レンガだけで様々な組み方がされ、陰影があるため日差しの強弱などで凹凸の見え方が変わるといわれています。

DSC_0614_ogihara
▲イスマイル・サマニ廟

大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザール「タキ」は、かつて専門店的要素が強く何でも見つけることができるといわれ、多くの民族が集まりました。丸屋根は高く大きく、外の光が入りやすいようたくさんの窓があります。現在のタキはスパイス、スザニ(布製品)、その他お土産物などの多くの店があります。

DSC_0669_ogihara
▲丸屋根市場「タキ」の外観

DSC_0677_ogihara
▲「タキ」の内部

DSC_0659_ogihara
▲スパイス屋

ブハラは13世紀にはモンゴル軍に破壊されましたが、16世紀、ウズべク人のシャイバニ朝時代に再びよみがえり、多くのモスク、メドレセが建築され宗教的に充実した都市となりました。

DSC_0549_ogihara
▲ブハラ・ハンの居城「アルク城」

DSC_0587_ogihara
▲ブハラ・ハン専用のモスク「ボロハウズ・モスク」

ツアーでは、民族舞踊のディナーショーにもご案内いたします。

DSC_0723_ogihara
▲民族舞踊ディナーショーの様子

先日ご紹介したサマルカンドの全盛期以前に賑わっていたブハラの町。
ツアーでは2連泊し、建造物や町を見学しその雰囲気を堪能していただくことができます。
ぜひ中世隊商都市の趣きを感じてみませんか。

次回は城壁の町・ヒヴァをご紹介いたします。

世界遺産のヒヴァ、ブハラ、シャフリサブス、サマルカンド四都周遊
文明の十字路ウズベキスタン

ogihara_saiyu at 17:53|Permalink

2017年06月13日

【ウズベキスタン】青の都・サマルカンド

東京本社の荻原です。

先日「文明の十字路 ウズベキスタン」のツアーに同行させていただきました。
本日はツアーで訪れるサマルカンドの町をご紹介いたします。

サマルカンドは中央アジアで最も古くから繁栄した都市で、「青の都」とも呼ばれています。
かつて13世紀にはチンギス・ハン率いるモンゴル軍により徹底的に破壊されましたが、
その後14~15世紀にはティムール朝の首都となった際に多くの青い建造物が建てられました。

DSC_0084_ogihara
▲英雄ティムールとその息子たちが眠る「グル・エミル廟」

DSC_0276_ogihara
▲ティムールが愛妃のために建造した「ビビ・ハニムモスク」

DSC_0456_ogihara
▲かつてサマルカンドの都が築かれ、その後モンゴル軍に破壊された「アフラシアブの丘」

何本ものシルクロードが交わり、様々な文明の交差路となっていたサマルカンド。
その中心地となっていたレギスタン広場には3つのメドレッセ(神学校)が配置されています。

DSC_0092_ogihara
▲3つの神学校があるレギスタン広場

メドレッセの1つ「シェルドル・メドレッセ」の入り口に動物と人間が描かれた面白い絵柄があります。これは偶像崇拝が禁止されているイスラム教で、建築家が自分の権力を誇示しようとしたためだといわれています。しかし信者たちから強い批判があり、建築家は責任をとって自殺したという伝説が残されています。

DSC_0099_ogihara
▲200スム札にも描かれているシェルドル・メドレッセ入口アーチの絵

ツアーでは、ティムールの孫で天文学者であるウルグベクが建造した「ウルグベク天文台」にも訪れます。ウルグベクは聡明な学者肌の人物で、詩や音楽の鑑賞も好んだといわれています。

DSC_0405_ogihara
▲ウルグベク天文台

ウルグベクは恒星時1年間を365日6時間10分8秒と計算しましたが、これは現在の精密機器で計算した時間とわずか1分の誤差で、当時の技術でどう割り出したのか詳細には判明していません。

DSC_0406_ogihara
▲ウルグベク像

ティムールやその孫・ウルグベクの人物像や、彼らの建てたブルーの建造物が織り成す世界に魅了されながら、文化・文明・歴史の交差路であったことを肌で実感できるサマルカンド。

ツアーではサマルカンドに2連泊し、じっくりと建造物や町をじっくり見学いたします。
ぜひ青い世界に足を踏み入れてみませんか。
次回は中世隊商都市・ブハラをご紹介いたします。

世界遺産のヒヴァ、ブハラ、シャフリサブス、サマルカンド四都周遊
文明の十字路ウズベキスタン


ogihara_saiyu at 14:02|Permalink

2015年12月16日

青の都・サマルカンド

 シルクロード最古の都市と呼ばれるサマルカンド。その名前だけでもシルクロードの郷愁がただよう古都です。今日は、サマルカンドの歴史と魅力をご紹介します。

 多くのシルクロードのオアシス都市は、水を得やすい河の近くに発展していきましたが、サマルカンドはアム・ダリヤの支流、ザラフシャン川のほとりで発展しました。紀元前10世紀から人々が住み始めた歴史があります。
 アレキサンダー大王も東方遠征の際にサマルカンドを攻略しました。当時の名前はマラカンダと呼ばれ、大王はソグド人の長期に渡る徹底抗戦に会いました。
紀元7世紀から8世紀にかけては、ソグディアナに生きたソグド人の都市として繁栄を極めます。サマルカンドで音楽や踊りを教え込まれた奴隷達が、シルクロードを伝って唐へ向かい、唐では西域の文化が大流行しました。

174_yamada_yamada

           【アフラシアブの丘にあったソグド人の邸宅内にあったフレスコ画】

 1220年には、東からの侵略者、モンゴルの襲来を受けます。水利システムも含め、サマルカンドの街は徹底的に破壊されました。2,000年以上栄えたサマルカンドの歴史は、この時に一度終わったと言っても過言ではないでしょう。
 サマルカンドに残るアフラシアブの丘。ここはモンゴル襲来までサマルカンドの街があった場所です。発掘により、この丘は11もの時代の層に分かれていることが判明しています。

177_yamada_yamada

                 【かつてのサマルカンドの街が眠るアフラシアブの丘】

 一度死の街を化したサマルカンドに、現在まで残る壮麗な建築物を建て、再びシルクロードの一大都市に変えたのが、中央アジアの覇者・ティムールです。彼はサマルカンドを自分の帝国の首都と定め、帝国各地からの建築家や職人をサマルカンドに送り、各地の技術を駆使した建築物を建造しました。現在サマルカンドで目にする建物のほとんどが、ティムールの時代の後のものになります。

161_yamada_yamada

                    【サマルカンドにある玉座に座るティムール像】

 彼は死後、自分の生まれ故郷のシャフリサブスに埋葬するように命令を出していましたが、没地オトラルからシャフリサブスへ遺体を運ぶ際に大雪に遭い、シャフリサブスまで到達できずに、首都のサマルカンドに葬られることになりました。墓地はグル・エミル廟と名付けられ、中央アジアの覇者にふさわしい荘厳な建物が現在もサマルカンドに残っています。

KOJI2002_yamada

                      【ティムールの眠るグル・エミル廟】


 ティムールの死後、彼の建築を引き継いだのが孫のウルグ・ベクです。支配者の顔の他、天文学者でもあった彼は、天体観測のためにサマルカンドの高台に天文台を建設しました。
 またレギスタン広場にメドレッセ(神学校)を建設し、17世紀に建設された2つのメドレッセと合わせてサマルカンドの3つのメドレッセとともに、サマルカンドを代表する建築群となっています。

KOJI2013_yamada

                   【3つのメドレッセが並ぶレギスタン広場】

KOJI2014_yamada

                【ライオンの装飾が施されたシルダール・メドレッセ】


 また、サマルカンドの聖地がシャーヒ・ジンダ廟です。この地で殉教した、預言者ムハンマドの従兄のクサム・イブン・アッバースの廟には、現在も沢山の巡礼者が訪れています。また古来から聖地であったため、ティムールは自分の親族や側近をこの地に葬り、壮麗な廟を建設しました。

153_yamada_yamadaKOJI2034_yamada
















      

   【シャーヒ・ジンダ廟のタイル装飾】               【廟が連なるシャーヒ・ジンダ廟】


156_yamada_yamada

           【シャーヒ・ジンダ廟最奥にあるクサム・イブン・アッバースの廟】

 ソビエト時代に荒れ果てたままだったサマルカンドの建築群は、当時の技法を引き継いだ現在の職人の手によって、完全に修復されました。
そして、現在も中央アジアを代表する街として、世界各国の人々をひきつけてやみません。


                     ↓↓↓【まもなく催行する関連ツアーはこちら】↓↓↓

早春のウズベキスタン

yamada_saiyu at 19:46|Permalink

2013年10月18日

「早春のウズベキスタン」発表!

 毎年ご好評いただいております「早春のウズベキスタン」のツアーを発表しました。
夏の強い日差しの下のウズベキスタンも、秋風吹くウズベキスタンも素敵ですが、早春ならではのウズベキスタンの魅力をご紹介いたします。
C2

                【サマルカンドの華・レギスタン広場】

  この季節は、菜の花が咲き始める時期で、古代サマルカンドが眠るアフラシアブの丘は緑で覆われ始めます。夏の時期は、強い日差しで草が枯れてしまい土色の風景ですが、緑多い風景が見られるのは春ならではです。この丘の下には、アレキサンダー大王がこの地を訪れる前の頃から、チンギス・ハーンの襲来までの時代のサマルカンドが眠っています。大王の時代はマラカンダと呼ばれ、中国の史書では康国と呼ばれた中央アジア最古の都は、シルクロードの主要なオアシス都市として栄えましたが、チンギス・ハーンの襲来によって町は塵と化しました。かつては、ソグド人を中心とした国際都市で、家の中に下の写真の壁画を描くほど裕福な人が住んだ町でした。

画像 217










【12層もの時代の地層が残るアフラシアブの丘】

175









【アフラシアブの丘から出土したソグド人の使節団を描いた壁画】
 
 
 

 その後、サマルカンドを首都として広大な帝国を支配したティムールによって、中世の一大文化都市に変貌し、現在の私達が見学するモスクやミナレットがこの時代に建てられました。今も見る者を圧倒する壮麗な建築群が、春の季節に皆様をお待ちしています。

KOJI0163

                 【タシケントのアムール・ティムール像】

  次に料理のご紹介です。暑い時期ですとどうしても食欲が落ち、折角のスープも夏ですと少々ありがたみがないかもしれません。気候の和やかな春の時期、食事の最初に出てくるスープの味も格別です。
 ソビエト時代の名残で、赤いビーツ(甘藷)を用いたボルシチの他、肉団子や、日本のそうめんに近い麺の入ったものまで様々なスープがあります。

【ボルシチ】IMG_6308










【サワークリームが浮いたボルシチ】


【ヌードルスープ・マンチザ】【マンチザ】IMG_6008

 どのスープにも、細かく刻んだイノンド(ディル)という香草が浮かんでいます。中央アジアが原産のイノンドは、バザールでも束になって売られています。食事でもバザールでもこの香を嗅ぐと、シルクロードに来たと実感されるのではないでしょうか。


 

 最後はザラフシャン山脈のお話しです。ティムールの故郷・シャフリサブスに残る彼の宮殿アク・サライの上からは、遠くザラフシャン山脈が見えます。その向こうはタジキスタン。春の時期は、山の上に真っ白な雪が被り、緑多き田園風景が見渡せます。この光景も春ならでは。自然の景観が楽しめるのもこの時期です。

画像 138

                       【雪を頂くザラフシャン山脈】

 現地手配会社と、利用航空会社のアシアナ航空のご協力によって、今年も謝恩価格で発表しました。サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、世界中から多くの旅行者を引き付けて止まないウズベキスタンはこれから厳しい冬を迎えますが、冬が開けた頃、皆様をお待ちしています。

↓本日アップのツアー紹介はこちら
早春のウズベキスタン

yamada_saiyu at 20:32|Permalink

2013年09月12日

ウズベキスタンに語り継がれる伝説

東京本社の荒井です。

シーズン真っ只中のウズベキスタンに添乗に行ってきました。

ウズベキスタンにはブハラやヒヴァ、サマルカンドといった
歴史ある魅力的な街が沢山あります。

そのすべての街に共通して言えること、それは【伝説】です。
嘘か誠かは分かりませんが、今回はそんなウズベキスタンに
語り継がれる伝説についてお話したいと思います。

P1060257P1060321
グリエミル廟                   イスマイルサーマーニ廟



【伝説その①】 ビビハニム・モスク
P1060130

かつてイスラーム世界で最大の規模を誇ったモスクの跡。
【ビビハニム】というのは中央アジアの覇者ティムールの正妻の名前。

正妻ビビハニムはティムールのインド遠征の凱旋に備えて
彼の功績に負けずとも劣らない壮大なモスクをプレゼントすることに決めました。

各国から著名な建築家を集めティムールの帰国に備えるも、その壮大すぎる計画の為
凱旋前に完成させることは非常に難しい状況に陥りました。

そんなある日、一人の容姿端麗な建築家が
「王妃、もうこれ以上は働けません。しかし、あなたからのキスがあれば頑張れます。」
と王妃を誘惑しました。ビビハニムは愛するティムールの為、どうしてもモスクを完成させたかったので
この要求を呑むことに…

こうしてティムールの凱旋前に無事にモスクを完成させることに成功!
帰国したティムールは、モスクの美しさ、壮大さに感動し
ビビハニムに一刻も早くお礼の意を伝えようとビビハニムの元に向かうも

ビビハニムの首筋にはキスの跡が…!!

中央アジアの覇者ティムールの復讐は恐ろしく、早速建築家を処刑。
しかも自身で造ったミナレットから投げ落としたと言われています。
ビビハニムに関しては命だけは助かったものの、黒いベールで一生顔を覆うことを強制されたとか
同じく処刑されたとか、そもそもビビハニムという王妃など
存在しなかったのではないか…とも言われています。

P1060148P1060134




【伝説その②】 カリヤン・ミナレット
P1060348


カリヤンとは『大きい』との意味で、その名の通りブハラで最も高く、高さは46Mです。
ブハラのシンボル的建築物で装飾の面では少量ながら既に青色のタイルが使用されていました。

侵略してきた都市を徹底的に破壊し尽くしてきた破壊王の異名を持つチンギスハンが
この地に訪れた際、あまりの大きさに塔を見上げるとハンの帽子が落ち
その帽子を拾い上げる際に彼は「この塔は私に頭を下げさせた立派な塔だ。取り壊すことは許さぬ。」
といって、この塔だけは唯一保護したと言われています。

また、この塔は1920年の革命で赤軍がブハラ市内に攻め込んできたときも
銃弾をわずかに受けただけで破壊は免れたと言われています。

ミナレットは度々修復されてきましたが
1127年当時からこの地に立ちブハラの歴史を見続けてきました。
これらの伝説が本当か否かはこの塔だけしか知りません。

DSC02922


DSC02911
カリヤンミナレットからの眺め

さて、ウズベキスタンに語り継がれる様々な伝説は如何でしたでしょうか。
今回は紹介しきれませんでしたが、他にも面白い伝説が沢山あります!
冒険心、好奇心を駆り立てられるウズベキスタンに是非旅立ってみてはいかがでしょうか。


ウズベキスタン4都市を訪れるツアーはこちら。
文明の十字路ウズベキスタン

arai_s_saiyu at 10:34|Permalink

2013年03月15日

「緑の街」シャフリサブスで結婚式に遭遇しました!

今年も好評いただいてます、西遊旅行のウズベキスタンツアーは、これからシーズンを迎えます。

ウズベキスタンはホラズム王国の都ヒヴァや「青の都」サマルカンド、隊商都市ブハラなど、中央アジア5カ国の中でも屈指の見所満載の国です。今回はサマルカンドからブハラまでの移動の途中に見学いたします、シャフリサブスの街をご紹介します。

サマルカンドがその壮麗な建築物の色から「青の都」と呼ばれているなら、シャフリサブスは名前が「緑の街」という意味です。この地域もほかのウズベキスタンの地域同様乾燥していて、土漠に囲まれていますが街に近づくとポプラ並木や牧童が羊やヤギなどをつれている緑のまばらな牧草地も広がります。ティムールが活躍した700年ほど前はもっと緑が広がっていたのでしょうか。

ツアーではサマルカンドを朝出発して、5時間ほどでティムールの故郷であるこのシャフリサブスへ入ります。ティムールはシャフリサブス近郊の小さな村で生まれました。アクサライ宮殿はティムールの夏の宮殿で、彼が残した最も壮大な建築物ですが、現在は宮殿入り口のアーチのみが残ります。ホラズムの職人たちを移住させて1380年にはじめ1404年になって完成したという巨大な建築であった。現在はその門にだけその壮大さがみてとれる。中央部のアーチ部分は破壊で落ちてしまい左右にその巨大なフレーム分かれた形でありますが、高さは現在38m。それでも十分すぎるほど大きいのですが、中央のアーチ部分があった当初は65mとも言われています。残された門には青のアラビア語のカリグラフィーと幾何学文様がきれいにみてとれました。


IMG_6152画像 081


宮殿の中心だった所には現在ティムールの立像があり、ちょうど訪れたとき、隣の結婚式場から出てきた数組のカップルがこの立像の前で記念写真を取っていました。炎天下の中、大音量を響かせながらお祝いしてくれる親戚に囲まれながら、恥ずかしそうに歩いていく花嫁の姿が印象的でした。

CIMG8417IMG_1026

CIMG8421












西遊旅行で行く「文明の十字路ウズベキスタン」はこちら!

ひとりで自由気ままに、シルクロードへ。個人旅行で行くウズベキスタンはこちら!


otomo_saiyu at 19:29|Permalink

2012年11月18日

春の新コース発表しました!

こんにちは。大阪支社の米谷です。
先日、「早春のウズベキスタン」「早春のペルシャ」2つのパンフレットを発表しました。
既にホームページにもコース内容を更新しておりますので、是非ご覧下さい。

早春のウズベキスタン
10D_000-999_UZBEKISTAN_2-1東京・大阪からの発着で、9日間のコンパクトな日程です。
サマルカンド、ヒヴァ、ブハラ、シャフリサブスとウズベキスタンの4つの世界遺産を全て訪問する充実のツアー内容です。早春の季節を迎える3月~4月上旬。特別価格198,000円でのお届け。大変リーズナブルなツアーとなっております。

また、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァではそれぞれ2連泊とゆとりある行程。世界遺産の町並みをゆっくりとお楽しみいただけます。ヒヴァではイチャン・カラより徒歩圏内のホテルに宿泊しますので、時間を気にせずに散策することができます。




◆早春のペルシャ
10D_PERUSHA_000_1こちらのパンフレットでは下記の3つのコースを掲載しております。

・ペルシャ歴史紀行 11日間
・イラン北西部周遊 12日間
・大ペルシャ周遊   20日間

イランが初めての方には「ペルシャ歴史紀行 11日間」がお勧め。
イランを代表する観光地のイスファハン、ペルセポリスはもちろんのこと、エラム王国の都市遺跡チョガザンビルも訪問。メソポタミア文明で最も保存状態が良いと言われる巨大ジグラットの基礎が残り、太古の昔に栄えた高度な文明をご覧いただきます。その他、世界遺産のフィン庭園や、ササン朝時代のビシャプール遺跡など、ペルシャの地で栄華を極めた数々の帝国の史跡も訪問する充実の内容です。

イラン再訪の方へのお勧めは「イラン北西部周遊12日間」
エラム王国の史跡が眠るフーゼスタンを出発し、イラン北西部のザグロス山脈を越えて高原地帯のクルディスタン地方をめぐります。ビストゥーンやタフテ・スレイマン、マクーに残る黒の教会、新たに世界遺産に登録されたシューシュタルの歴史的水利施設やタブリーズのバザール、アルダビル聖者廟も加え、7つの世界遺産を訪れる充実の内容です。 歴史遺産だけでなく、険しい岩山に肥沃な大地、荒々しく変化に富んだ雄大な自然もたっぷり満喫いただくことができます。

どちらも一度に巡ってみたいという方には「大ペルシャ周遊20日間」がお勧めです。
イランの見所を一度に巡る大紀行。これ1回の旅でイランの主要な見所を巡ります。ペルシャの歴代帝国の歴史を刻む遺跡、多様な民族の暮らし、そして広大な国土に残る自然。イランのすべてを凝縮したコース内容です。

どれも例年大好評をいただいているコースばかりです。
是非、今年の春のご旅行の候補にご検討下さい。

yonetani_saiyu at 09:21|Permalink

2012年11月01日

サマルカンド 3つの歴史

こんにちは、東京本社の近藤です。


先週のタシケントに続き今回は、ウズベキスタンの代表的な観光地サマルカンドを紹介します。


【サマルカンド】
現在の首都はタシケントですが、サマルカンドはその歴史的背景からタシケント以上に重要な役割を果たしているのではないでしょうか。

古くはアレクサンダー大王、三蔵法師、チンギス・ハーン、そしてティムールと…多くの偉人がサマルカンドを訪れました。


120914文明の十字路ウズベキスタン 231

《ティムールの生地はここから180Km離れたシャフリサブス近郊の村ですが、活動の中心はサマルカンドでした》

サマルカンドは大きく分けて3つに分かれ、それぞれ異なった歴史から産まれました。


【アフラシアブの丘】
サマルカンドのルーツはここにあります。始まりはイラン系住民がオアシス都市としてここに街を起こしました。

そして、現在のギリシャから中近東を勢力下に置いたアレクサンダー大王がこの地にやってきました。サマルカンドに住んでいたソグド人は果敢に抵抗し、その抵抗振りはアレクサンダー大王の部隊の内部崩壊を起こさせるほどでした。


120914文明の十字路ウズベキスタン 228120914文明の十字路ウズベキスタン 220
《写真左:アフラシアブの丘。この荒野には数多くの歴史が眠っています》
《写真右ソグド人の壁画。現在は考古学博物館に展示》


三蔵法師も天竺を訪れる際にここを訪れています。

更なる発展を遂げようとしたその時、東の空からやって来たチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国の大群がこの街を破壊・略奪行為を行い、それは容赦のないものといわれました。

今の街はここには再建されずに今日に至ってます。元々あったこの街の上に考古学博物館と遺跡の発掘跡、そして悠久の彼方にあった歴史の断片だけが残っています。


【旧市街】
チンギス・ハーンに破壊された後、この街は野ざらしにされていました。

そして、忘れさられようとした時に、英雄はやってきました。その名はティムール、サマルカンドをティムール朝の首都に置き、イスラム世界各地から連れ帰った職人・建築家を総動
員させ、世界に名だたる大都市を造り上げました。


中央アジア最大のモスク「ビビハニム・モスク」、ティムールの眠る「グル・エミル廟」は
この頃に建設されました。

IMG_0861
  
《写真左:ビビハニム・モスク。写真だけでこの大きさが伝えきれないのがとても悔しいです…》




120914文明の十字路ウズベキスタン 042
IMG_0988

《写真中:外観ではとても墓には見えないグル・エミル廟。中は黄金色に輝いています》
《写真右:ウルグ・ベク天文台の六分儀の遺構》


造り上げたのは街だけではありません、彼の孫にあたるウルグベクは、年間通して爽やかな
天候に恵まれたこの地に天文学を発達させました。それがウルグ・ベク天文台です。

旧市街の一角に商業の中心として栄えた場所があります。そこが「レギスタン広場」であり
、ウズベキスタンといえば真っ先にレギスタン広場を想像されると思います。ティムール帝
国没落後も中央アジアの中心都市として機能しました。


120914文明の十字路ウズベキスタン 063 120914文明の十字路ウズベキスタン 071  《写真左:レギスタン広場。広場になったのは17世紀。神学校に囲まれ、今は市民憩いの場となっている》
《写真右:シェルドル・メドレセのアーチに描かれたライオンと日光。偶像崇拝が禁じられたイスラム教では珍しい》



【新市街】
サマルカンドはその立地から様々な民族からの侵略を受けてきました。
歴史上一番新しい侵略者とされるロシア人によって占領され、帝政ロシアの植民地としての
道を歩むこととなりました。しかし住民達の抵抗に遭い、旧市街に街を造らず旧市街とは異
なる新市街を造り出しました。
広く拡張された道路の脇には沢山の緑あふれる木々が植えられています。そして、建物も欧
風建築でウズベキスタンとは思えない雰囲気をかもし出しています。

120914文明の十字路ウズベキスタン 233120914文明の十字路ウズベキスタン 229  《写真左:帝政様式の建築物が数多く残る新市街》
《写真右:他の旧ソ連の例に漏れず整然とした道が広がります》



サマルカンドは数多くの偉人や民族によって崩壊と再建を繰り返し、民族も町並みも建築物もバラエティに富み、私の中に強く焼き付いています。


▼文明の十字路ウズベキスタン

kondo_saiyu at 19:41|Permalink

2012年10月16日

中央アジアへの扉・タシケント

こんにちは、東京本社の近藤です。


9月に「文明の十字路 ウズベキスタン」へ同行させていただきました。
今回は、このツアーで訪れる町の風景を2回にわたり紹介させていただきます。
まずは、ウズベキスタンの玄関口タシケントです。

【タシケント】
町の歴史は古くチルチク川の流域に位置するオアシス都市として栄えました。立地も良く古代よりシルクロードの交易路の要所として栄えました。三蔵法師もここを訪れています。有名な交易地として中国でもその名は知れ渡り、唐の時代には「石国」と呼ばれていました。

その後、唐がタシケントに侵攻した際にイスラム帝国であるアッバース朝に支援を求め、起こった戦いがタラス河畔の戦いです(戦は現在のキルギスのタラス地方で繰り広げられました)。アッバース朝の勝利をきっかけに、タシケントのみならず中央アジア全体でイスラムが進みました。イスラム文化は現代まで根強く続いています。

19世紀、タシケントは帝政ロシアの植民地となり、ロシア人が移住しロシア文化が入り込んできました。
この頃から20世紀初頭にかけて、タシケントは英国と帝政ロシアの間で繰り広げられた領土の争奪戦「The Great Game(グレート・ゲーム)」の舞台になり、スパイ合戦が繰り広げられ別名「スパイの街」とも呼ばれていました。


120914文明の十字路ウズベキスタン 714120914文明の十字路ウズベキスタン 770








《写真左:チョルスー・バザール内はウズベキスタンで一番大きく、実際に訪れるとまるで迷路》
《写真右:とあるスーパーにて。様々な民族がウズベキスタンを行き交っている過程で混血化が進んだ》

以前はブハラなどと変わらないような入り組んだ路地が多い日干し煉瓦の建物が並ぶ街でしたが、1966年の大地震で建物のほとんどが倒壊されました。




120914文明の十字路ウズベキスタン 694IMG_1417








《写真左:広々と拡張された道路が続くタシケント市内》    
《写真右:1966年の地震で多くの建物が倒壊したが、日本人が建てたナヴォイ劇場はまったく無傷だったといわれる》

その後、ソ連の政権の下、支援を得て震災から立ち直りました。その際、当時はソ連内の一共和国ということもあり、街並みも統一され道路も広く整然とした街並みになりました。

数々の歴史を経て街の拡大・崩壊を繰り返し現在のタシケントはウズベク人を始め多くの民族が混住する街となりました。街の多彩さは中央アジア一です。いまや人口200万人以上を要しする中央アジアの首都といえます。







120914文明の十字路ウズベキスタン 751

《歴史を語るうえで外せないのが歴史博物館。タシケントでは各地の出土品が展示されています。
写真はファヤズ・テパで発掘された三尊仏像》


次回はティムール帝国の中心サマルカンドを紹介します。



▼文明の十字路ウズベキスタン

kondo_saiyu at 20:59|Permalink

2011年08月02日

最新の英雄達:ジャラルッディーン

前回に引き続き、英雄達の最新の顔をご紹介します。

シルクロードⅠのツアーでは、ウズベキスタンのウルゲンチに立ち寄る機会がありました。
この町で、社に写真がなかったジャラルッディーンの銅像を見ることができたのです。

ジャラルッディーン













【写真:ジャラルッディーン・マングベルディ像】

1219年のモンゴル襲来時、帝国の町々をこてんぱんに破壊されたホラズム・シャー朝でしたが、若き王子ジャラルッディーン・マングベルディは一人、数少ない軍勢を引き連れてモンゴルに立ち向かいました。中央アジアの人々から、憎きモンゴルに徹底抗戦したジャラルッディーンは、今でも英雄視されているのです。

彼の肖像画はなんと、ヒワのアルク内にあった小さな歴史博物館にもあったのです。
鼻息の荒そうな白馬に跨った、いかにも強そうな姿でした。モンゴル襲来の後12年間、イラン、コーカサス、トルコと転戦した彼の姿です。

ジャラルッディーン2





【白馬に跨るジャラルッディーン】

ツアーはトルクメニスタンに入り、モンゴルに敗れたホラズムシャーの都、クニャ・ウルゲンチにも立ち寄りました。暑い日光に照らされながら、英雄達が闊歩した時代が走馬灯のように巡りました。

292
301


【写真左:クトゥルグ・ティムールのミナレット】
【写真右:ナディム・アッディーン・クブラ廟】   ともにクニャ・ウルゲンチ

そして、様々な時代に様々な英雄達が活躍したシルクロードの地を、またいつか訪れたいと後ろ髪引かれる思いで、イランから帰国の途についたのでした。

関連ツアー
中央アジア世界遺産紀行

関連ブログ
悲劇の王子・ジャラルッディーン

yamada_saiyu at 17:44|Permalink

2011年07月05日

最新の英雄達:ティムール

先日、「シルクロードⅠ」のツアーの添乗に行ってまいりました。
中国のカシュガルから、トルガルト峠の国境を越え、キルギス、カザフスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンと中央アジアを4ヶ国巡り、イランまで抜ける27日間のツアーでした。
以前に「シルクロード英雄列伝」でご紹介した英雄達の最新の素顔を見てきましたので、ご紹介します。
今回はウズベキスタンのティムールから。

ツアーではカザフスタンに滞在中、まずホジャ・アフメッド・ヤサウィ廟を訪れました。
ここは世界遺産に登録された、12世紀のイスラム神秘主義者の廟です。彼の死後、ここに壮大な廟を建てるように命じたのはティムールでした。彼は自分の力を誇示するため、そして支配したトルケスタン一体の住民の信頼を得るために廟を建てたといわれています。
ツアーで訪れた際も、中央アジアから沢山の巡礼者達が訪れていました。
116
118

【ホジャ・アフメッド・ヤサウィ廟】

その後ツアーでは、1405年にティムールが没したオトラルの遺跡に立ち寄りました。
ここは1218年の「オトラル事件」で有名ですが、中国(当時の金)遠征中に、ティムールが没した場所でもあります。前に訪れた時よりも発掘が進み、ハマムや、城壁の一部が発掘されていました。
121
123

【左:ハマム跡 右:城壁の跡】

カザフスタンからウズベキスタンに入り、国内にある3つのティムールの像を見ることができました。
首都タシケントの馬上のティムール、生まれ故郷のシャフリサブスの立像、そしてティムール帝国の首都サマルカンドの王座のティムール像です。
138
162

【左:タシケントの馬上のティムール 右:サマルカンドの玉座のティムール  下:シャフリサブスの立像】

200
オトラルで亡くなった彼の遺体は、生まれ故郷のシャフリサブスに埋葬される予定だったのですが、大雪のためシャフリサブスまで遺体を運ぶことができず、現在のグル・エミル廟に埋葬されることになったのです。
何度見ても、中央アジアの覇者にふさわしい立派な建物です。







【左:グル・エミル廟 右:グル・エミル廟内部 】
180
178


その他、彼の妃のために建てた中央アジアでも最大級のビビ・ハニムモスク、彼の親族や将軍達が眠るシャーヒ・ジンダ廟など、サマルカンドでは彼にまつわる史跡をたくさん見学しました。
141
160

【左:ビビ・ハニムモスク 右:シャーヒ・ジンダ廟 】

ティムール帝国の首都サマルカンドは、彼の時代から600年近くたった今も、輝きを失せることない、中央アジア一の都でした。

次回はジャラルッディーンの登場です。

関連ツアーはこちら
文明の十字路 ウズベキスタン
中央アジア世界遺産紀行



yamada_saiyu at 17:52|Permalink

2011年02月14日

「英雄聳え立つ」イスマイル・サーマーニー:タジキスタン

今回はタジキスタンの英雄です。

紀元10世紀、中央アジアからイランまで治めた国がありました。
サーマーン朝です。
首都をウズベキスタンのブハラに置き、二代目の王、イスマイル・サーマーニーの治世に全盛期を迎えました。
彼はタジキスタンの出身。首都ドゥシャンベの独立広場には彼の像が建ち、その後ろには全盛期のサーマーン朝の勢力地図があります。両脇に獅子を従えた、いかにも強そうな像です。
IMGP8575

【独立広場のイスマイル・サーマーニー】

彼は没後、首都のブハラに葬られました。彼のお墓は、現存する中央アジア最古の建築物といわれるイスマイル・サーマーニー廟です。
巨大なルービック・キューブの上に、ドームが乗っかっているかのようなのシンプルなデザイン。サマルカンドブルーのような装飾は一切なく、レンガだけで作られています。数ある中央アジアの建築物の中でも、私が一番好きな建物です。
イスマイール・サーマーニー廟 (5)

【イスマイル・サーマーニー廟】

何が素敵かと言うと、レンガの組み方だけで何十通りものデザインを、表面と内部に施してあるのです。見た目は地味ながらも、当時の匠の技に唸らさせられます。
この廟の周りを、反時計周りに3回廻ると願い事が叶うとのこと。私は添乗で20回近く廻りましたが、遠い国の者には、すぐに効果はないようです。

さて話は変わり、ソビエト時代、ソ連最高峰はタジキスタンにありました。7495mの、コミュニズム峰です。訳すと、「共産峰」、「Mt.共産主義」と言ったところでしょうか。
タジキスタン独立後、この山の名前は「イスマイル・サーマーニー峰」と変わりました。
日本では、「徳川家康山」とか、「聖徳大使峰」など、人の名前をつけることはないのに、山の名前になるほど、彼はタジクが産んだ英雄なのですね。

この山は見ることはできないのですが、弊社のタジキスタン・ワハーン渓谷を行くツアーでは、同じように雪を被った絶景を見ることができます。
添乗で行くといつも4WDに揺られて雪山を見ながら、かつて自分が領土とした国々を、まるでイスマイル・サーマーニーが見下ろしているかのような気持ちになります。

次回は、私が中央アジアで一番好きな国、トルクメニスタンのお話です。

yamada_saiyu at 21:35|Permalink

2011年02月09日

悲劇の王子・ジャラルッディーン②:ウズベキスタン

彼の像は、ホラズム州の州都ウルゲンチにあります。
また首都タシケントの歴史博物館には、彼の肖像画があります。
どちらも社に写真がなく、ご紹介できないのが本当に残念です。

ウルゲンチにティムールの代わりに彼の像があるのは、ホラズムの人々にとっては征服されたティムールより彼の方が英雄なのでしょう。
歴史博物館の、有名なファヤズ・テパの三尊仏と同じ間に彼の肖像画があるのは、ウズベキスタン全体でも今でも彼は英雄なのでしょう。

では、モンゴル襲来後の彼の数奇な運命を辿ってみましょう。

アフガニスタンのカブールでモンゴル軍と戦闘を交えた後、彼の軍はインドに逃れます。その後、イラン、アゼルバイジャンと転戦し、コーカサスに入ります。
そして、運命のアナトリア高原に入りました。

カズベキ山 (6)

【ジャラルッディーンも見たであろう、コーカサスの山並み】

当時のアナトリアは、強国セルジューク朝が支配しており、「東から来た落ち武者どもに領土を渡せるか」とのことで、アイユーブ朝と連合してジャラルッディーンを迎え撃ちます。
そして、エルジンジャンで彼の軍は敗れました。

このエルジンジャンという町、先日発表した「シルクロードⅡ」のツアーで宿泊するんです。添乗で行ったら、彼の話をせずにはいられません。

その後彼は逃れますが、ディヤルバクルで殺害されてしまいます。
モンゴル襲来から12年、国敗れて新天地を求めた王子の夢は、潰えました。
中央アジアからイラン、コーカサス、トルコと、まさにシルクロードを駆け抜けた生涯でした。

前述の「シルクロードⅡ」のツアーは、イラン、コーカサス、トルコと、彼の足跡を辿るツアーでもあります。

次回はお隣、タジキスタンの英雄のお話です。







続きを読む

yamada_saiyu at 20:31|Permalink

2011年01月27日

悲劇の王子・ジャラルッディーン:ウズベキスタン

1219年と20年は、中央アジアの人々にとってまさに厄年でした。
友人のウズベキスタンのガイドの表現で、「悪魔」と呼ばれるモンゴル軍が、東の草原の彼方からやって来たのです。

サマルカンド、ブハラ、メルブ、当時の主要な都市は徹底的に破壊されました。
中央アジアを添乗すると、「モンゴル」という言葉の出てこない町や遺跡が無いほど、モンゴルは中央アジアを蹂躙して行きました。

当時、中央アジアの覇権を握っていたのは、ホラズム・シャーという強国でした。中央アジアのみならず、ペルシャやアフガニスタンまでも治めた強大な国でした。
しかし王のムハンマド・シャーは、モンゴルの到来を知ると一目散に逃げ出して、カスピ海の孤島で病死してしまいます。

そんな強国でしたから、軍隊も大きく、推定20万人と言われるモンゴル軍よりも大きな軍隊を持っていました。どこかの草原で、ホラズム・シャー対モンゴル軍の一騎打ちがあれば、モンゴルは敗退したのではないかと言われています。

しかし、一騎打ちできない事情が当時のホラズム・シャーにはあったのです。
理由は、ムハンマド・シャーのお母さんの民族・カンクリにありました。

カンクリ族は、現在のアラル海の南に住んでいたと言われていますが、詳しいことはわかっていません。

ウズベキスタンのガイドの答え「?。カンクリ?。知らない」
カザフスタンのガイドの答え「それは歴史の中の民族です」

カンクリ族は、「おらが国から后が出た」ということで高慢になり、ホラズム・シャーの政治まで口出しをするようになってしまい、クーデターまで起こりそうな気配でした。そんな状況下で軍を一つに集めると、カンクリ率いる反政府派に国を乗っ取られる危険性があったため、王は軍を各都市に分散してモンゴルを迎え撃つしかできなかったのです。しかし作戦は失敗に終わり、今の世界史があります。

今は名もないカンクリ族、ここから王妃が出なければ、世界の歴史は変わっていたのかも知れません。

large_DSC00922


【写真】クニャ・ウルゲンチのチュラベグ・ハニム廟


このホラズム・シャーが都としたクニャ・ウルゲンチは、トルクメニスタンにあります。ウズベキスタンの町の建物のような壮麗さはなく、荒れたままですが、
それがかえって、敗れたホラズム・シャーという国の哀愁を漂わせます。そして添乗で行くと、謎の民族カンクリを思い出すのです。

王は逃げ、内政はボロボロというような中で、勇ましくモンゴル軍を迎え撃った人物がいました。それがムハンマド・シャーの王子・ジャラルッディーンです。

彼の本題は、また次回。









yamada_saiyu at 19:22|Permalink

2011年01月24日

ティムール:ウズベキスタン

こんにちは。
今日から、シルクロードを闊歩した英雄と、彼らにまつわるお話をしていきたいと思います。

ソビエトから独立した中央アジア5ヵ国ですが、ソビエト時代は町の広場にはレーニンやスターリンの銅像が建っていました。
独立後、ソビエト時代の負の遺産を街中に立てていても仕方ないとのことで、それぞれの国の英雄の像を建てました。

そんな五ヶ国のうち、今日はウズベキスタンから。

ウズベキスタンには、14世紀にサマルカンドを首都としたティムール帝国が興りました。独立後、ウズベキスタンの生んだ英雄ということで3つの町に大きなティムールの像が立てられました。
タシケントには馬にまたがったティムール、サマルカンドには王座に座ったティムール、そして生まれ故郷のシャフリサブスには、彼の立像があります。

シルクロード大走破☆ 068アクサライ (3)_2



私の友人でもある、ウズベキスタンのホラズム出身のガイドに「君もティムールはウズベキスタンの英雄だと思う?」と質問したところ、「ティムールはホラズムを何度も征服した人間だ。ホラズムの人は誰も英雄とは思っていない」との答え。
確かにティムールは、チンギス・ハーンの制服の後、今残っている美しいサマルカンドを復興しました。しかし、近隣のペルシャなど、征服した国々も数知れず。人によっては、英雄とは見れないかも知れません。
そんな理由で、ホラズム州のウルゲンチには彼の像がないのかも知れません。

しかし、彼が復興したサマルカンドは、当時の栄華が残り、訪れる人々の心を引き付けて、やみません。

では次回は、そんなホラズム出身の英雄のお話をします。






yamada_saiyu at 16:55|Permalink