トルクメニスタン

2016年06月20日

奇跡の大地「ヤンギ・カラ」を目指して

こんにちは、東京本社の寺岡です。

早くも、秋のコースが催行決定してくる時期になりました。
春・秋は中央アジアのベストシーズン。次の秋のお出掛け先に、「トルクメニスタン」はいかがでしょう?

今回はトルクメニスタンの西部にある、「ヤンギ・カラ」へ行くまでの経路とその絶景をご紹介いたします。

ヤンギ・カラを臨む

【ヤンギ・カラの大地を臨む】


ヤンギ・カラに行くための最寄りの町は、トルクメンバシ。
(英語:Turkmenbashi/ロシア語:Türkmenbaşy)
カスピ海北東岸に位置する、人口約15万人の石油精製が盛んな都市です。
ツアーではヤンギ・カラの台地上にてキャンプ泊をするので、まずはこの町のバザールで食料調達です。
ドライバーたちが食料を購入し、車に積み込む間、私たちはバザールを散策。

カスピ海とトルクメンバシの町

【カスピ海のほとりにある街・トルクメンバシ】


トルクメンバシのバザール

【トルクメンバシのバザール内部】


トルクメンバシ_バザール2

【カスピ海の魚や、キャビアを売るお店も】


アシガバードのロシアン・バザールと比べると小規模でしたが、野菜・果物・魚やお肉・お菓子・日用品
など、種類豊富な取り揃えでした。魚コーナーにはキャビアもあり、さすがカスピ海のほとりの町です。
内陸のバルカナバード油田から石油パイプラインが引かれてからは、製油や石油化学工業が発達し、
今や成長真っ盛りの町なのだそうです。

さぁ、食料調達後は、4WDに乗りこみ、砂漠の大地へ向かいます!
パイプラインとトルクメンバシ

【町を出てすぐ、目立つ石油パイプライン】


カスピ海沿いにある石油関連施設の建物・パイプラインを眺めながら東へ。
ヤンギ・カラの比較的近くまで、舗装道路が続きます。
が、舗装道路の外側の地面は、土砂漠・砂砂漠とコロコロ移り変わります。
トルクメンバシからヤンギカラへ_舗装道路

【ずっと続く舗装道路】


ヤンギ・カラまでの道のり_4WD

【9月中旬、外の気温は30℃を超える】


途中、周囲の景色で木々がまばらになってきたら、薪拾いストップ。
今晩はキャンプ泊で、周りに木々も何もない台地上に寝るという事もあり、ここで燃料を調達するのです。
スタッフたちは薪の選定も慣れたもので、どこから拾ってきたのか、かなり太い枝を見つけて(折って?)
持ってきました。十分な薪を確保して、再出発です。
ヤンギ・カラまでの道のり_薪拾い

【大胆に、4WDの車の屋根に積み込む】


トルクメンバシの町を出て、約2時間半。ヤンギ・カラの入口へと近づいてきました!
下の方に、遠くに、ヤンギ・カラの層を成した台地が見えてきます。
ヤンギ・カラ_エリア入口

【どんな景色が広がるのか、ヤンギ・カラ入口にてその先を眺める】


4WDにて下の方に下がっていくと、両脇にゴツンゴツンと、ピンク・赤・白・深緑などの色が層を重ねる
台形状の所謂「台地」が、塊で近づいてくる錯覚に陥ります。その規模はあまりにも大きいので、写真
ではなかなか伝えられません・・・
ヤンギ・カラは、古代の海テチス海の海底が隆起し、長い時間をかけて浸食されて形成された大地。
赤やピンクの色は岩石に含まれるヨード、白色は石灰質の色からできています。
現在進行形で形を変える広大な大地を前に、私達人間は、本当に小さく感じました。
ヤンギ・カラ_きれいな層

【ヤンギ・カラの層は、様々な色が重ねられている】


ヤンギ・カラ_台地からの展望1

【台地上に登って、東側の大地を眺める】


いつもキャンプ泊をする高台に4WDで登ると、景色はぐっと良くなります。
自分たちが、広大な大地の中で、おもちゃのような車で一生懸命走っている・・・そんな感覚に陥ります。
台地上の東側に見える景色が、上の写真。
西側には、よく皆さんがポーズを取られるスポットがあります。
テーブルマウンテンを上から眺めているような、そしてここに他には誰もいないような写真が撮れます。
※ただし、この写真スポットはいつポキッと折れてもおかしくない場所です。
  行かれる際は十分にご注意下さい!!
ヤンギ・カラ_写真スポット

【台地上に登って、西側の景色を満喫】


西側の景色は、夕日と一緒にも楽しめます。
皆さんが行くときには、晴れるといいですね。天気は運次第。私が行った時は曇りで、強風でした。

ヤンギ・カラ_台地上テント泊の様子

【台地上でのテント泊の様子】


風があまりにも強い場合、台地上にはテントを張れません。
当日の天候によりますが、テントが張れる場合は上の写真のような感じになります。車でテント場まで
行き、一人一張、テントを設置。設営はスタッフが手伝ってくれます。地面にペグを打って、テントやフライ
が飛ばないように固定させます。
夕食のメインは、スパゲティだったり、シチューのような煮込みだったり、お魚のグリルだったり。
夜は真っ暗になるので、足元は要注意。あまり端の方に行くと、台地上から落ちてしまいますからね。
(そんなに細い場所に泊まるわけではないので、ご安心ください)

朝は、東の大地から朝日が昇ります。
時間が経つにつれて色味が変わってくるヤンギ・カラ。本当にきれいです。
ヤンギ・カラ_西側大地を臨む

【台地上からの西側の景色】


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上が、最寄りの町トルクメンバシからヤンギ・カラまでの流れです。
「奇跡の大地」と命名された「ヤンギ・カラ」。
この絶景は、個人旅行でも行けます。また、添乗員付のコースですと、2コースが該当します。
時期は春か秋がオススメです!
秋は果物が美味しい時期でもあるので、より楽しめます。

トルクメニスタンの絶景を確かめに、ご計画されてはいかがでしょうか?


■地獄の門と奇跡の大地 9日間<エミレーツ航空+フライドバイ利用で再設定!>
09月03日発 催行間近・あと2名様のお申し込みで催行決定
09月17日発 催行決定・キャンセル待ち

■トルクメニスタン完全周遊
08月08日発 催行決定・残席あり
09月05日発 催行決定・キャンセル待ち
09月19日発 催行間近・あと3名様のお申し込みで催行決定







teraoka_saiyu at 20:39|Permalink

2015年03月20日

ヤンギ・カラへの道  トルクメニスタン

こんにちは。東京本社の荒井です。
今回は、地獄の門のツアーで訪れる、もう一つの絶景
【ヤンギ・カラ】についてご紹介させて頂きます。

ヤンギ・カラへの玄関口はトルクメンバシという町です。 P5226545_R
トルクメンバシとはバルカン州にある都市で、1993年まではクラスノボツク と呼ばれていました。
カスピ海に面する港町で人口約6万人程の小さな町です。トルクメニスタンの唯一の港町で、アゼルバイジャンの首都・バクーへのフェリーも発着します。また、ウズベキスタンの首都・タシケントへのカスピ海横断鉄道の起点ともなる小さいながらも交通の要となる重要な町です。第2代大統領ベルディムハメドフのもとで、リゾート地にすべく活発な投資が行われています。

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トルクメンバシからヤンギ・カラまでは約3時間のドライブ。
4WDに分乗して出発です。

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途中で薪を拾い夜のキャンプに備えます。

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運が良ければ道中にカメ等の動物も見ることができます。

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車を2時間程走らせると、ついにヤンギ・カラの台地が見えてきます。
丘を越えた後はヤンギ・カラの大地が永遠と続きます。


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ヤンギ・カラとは…
古代の海(テチス海)が干上がり、海底が浸食され、長い年月を掛けて作られた奇景の大地の事。

今から1億6000万年前のジュラ紀に形成された「テチス海」は、ヨーロッパから中央アジアのアラル海まで伸びる大海でしたが、550万年前の鮮新世から干上がりだしました。

現在の黒海、カスピ海、アラル海は全てテチス海の名残と言われています。

テーブル・マウンテンの平たい頂上が海底で、その下には厚い石灰岩の地層があり、その下にはヨウ素を多量に含んだ赤い地層が広がります。ヨウ素とは、微量ミネラルの一種で、海藻類、魚介類などに多く含まれるもの。つまり、赤い地層は、無数の海の動植物の死体なのです。

テーブルマウンテンを回り込むように登るとヤンギ・カラの絶壁が見えてきます。
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大地の上から臨むヤンギカラはまさに神秘の大地そのものです。

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天候が良ければヤンギ・カラの大地の上にテントを張り宿泊します。
夜は満天の星空をお楽しみ頂けます。

もちろん満天の星空も綺麗ですが、ヤンギ・カラが最も美しく見えるのは夕暮れ時です。
日が暮れるごとに違った表情を見せてくれます。
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朝日、夕日に照らされ、刻々と表情を変える奇跡の絶景を見にトルクメニスタンのヤンギ・カラに出かけてみてはいかがでしょうか。


関連ツアーはこちら

地獄の門と奇跡の大地 9日間
ゴールデンウィーク出発コース 
4/25(土)~5/ 3(日) 438,000円 催行決定!
5/ 2(土)~5/10(日) 458,000円 催行決定!

地獄の門と奇跡の大地 10日間
5/1(金)~5/10(日) 468,000円 催行決定!

arai_s_saiyu at 18:21|Permalink

2014年01月20日

【記事紹介】今、こんな旅がしてみたい!2014 トルクメニスタン

今、こんな旅がしてみたい2014 (1)

西遊旅行中央アジア担当の記事が載った雑誌のご紹介です。

「地球の歩き方」編集部が選んだ、「今、こんな旅がしてみたい!2014年に行くべき旅先」の秘境紹介ページでトルクメニスタン(地獄の門)と、ウズベキスタンのサマルカンドを紹介しました。

今、こんな旅がしてみたい2014 (2)

西遊旅行の中央アジアチームの2014年のお勧めは昨年から好評のトルクメニスタン「地獄の門」訪問を含む自然を満喫するコース、そして根強い人気のウズベキスタン周遊コース、2014年からリニューアル再開するカザフスタンのマンギスタウとウスチュルト台地、そして西遊旅ならではの山岳中央アジア、タジキスタン・ワハーン渓谷とパミール・ハイウェイのコースでしょうか。2014年の4~10月のコースは1月下旬に発表いたします。

今、こんな旅がしてみたい2014 (5)

各地の書店で発売中です!

西遊旅行 中東・中央アジアチーム


西遊旅行のマンギスタウへの旅
地獄の門と奇跡の大地 9日間
地獄の門と奇跡の大地 10日間


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2014年01月08日

トルクメニスタン 地獄の門の夜

トルクメニスタン 地獄の門 (4)

地獄の門 Darvazaへ
アシガバードの北260キロ。ダルワザ付近の地下には豊富な天然ガスが眠っています。1971年、地質学者によるボーリング調査を行い天然ガスが満ちた洞窟を発見。その調査の過程で採掘作業中の落盤事故が起こり、装置もろとも、直径50m~100mにもなる穴が開いてしまいました。有毒ガスの放出を食い止めるために火をつけ、数日で消えると想定されていたものの天然ガスは終わることなく現在に至るまで燃え続けています。地元住民からその地獄のような光景ゆえに「地獄の門」と呼ばれ、ペルシャ語の「門」=ダルワザと呼ばれています。現在に至るまでこの火を消すことはできず、そのガスの埋蔵量も不明なままです。
2013年現在、トルクメニスタンの天然ガスは世界第4位の埋蔵量を持ち、今後20年でロシア、中国、イラン、インド、西ヨーロッパへの輸出を三倍にする計画をたてているといいます。

トルクメニスタン 地獄の門 (1)
日暮れ前のクレーター まずは夜のための下見です。落ちたら助かりませんので、そばによりすぎず、もろそうな場所は歩かないように。

トルクメニスタン 地獄の門 (2)
水や泥のクレーターに比べると迫力満点。自分の方向に風がふくと熱風に包まれます。

トルクメニスタン 地獄の門 (7)
暗くなってきました。「地獄の門」の炎の明かりと、私たちのキャンプの明かり。

トルクメニスタン 地獄の門 (5)
この日は風があり、また雨模様。鳥が飛来し、地獄の門のクレーターの上を舞う、不思議な景色を見ることができました。

トルクメニスタン 地獄の門 (3)
そして、クレーターのふちで記念撮影に興じます。撮影には高感度設定のカメラ、一脚か三脚をお持ちになる方がきれいに撮れるでしょう。

トルクメニスタン 地獄の門 (6)
すこし離れた丘から見た地獄の門。

トルクメニスタン 地獄の門 (9)地獄の門を望みながらのキャンプ地での夕食。

写真で見るよりも、実際のクレ-ターは小規模におもわれるかもしれません。また、よくエルタ・アレ火山の火口と比べられることがありますが、火山の火口と事故でできたガスのクレーターは別のものです。

「地獄の炎」を楽しみ、撮影に興じてみる、是非、楽しい夜をお過ごしください。

文・写真 Mariko SAWADA 澤田真理子



西遊旅行のマンギスタウへの旅
地獄の門と奇跡の大地 9日間
地獄の門と奇跡の大地 10日間


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2014年01月04日

トルクメニスタン ダムラ村へ!カラ・クム砂漠の暮らし

ダムラ村 カラクム砂漠 (1)

天然ガスなど豊富な資源をもとに急速に発展、かわりつつある国トルクメニスタン。
カラ・クム砂漠にある小さな村、ダムラを訪問した2013年9月の記録です。
アシガバードや、マリ、トルクメナバードなどの都会では見られない、砂漠の村の暮らし。
中央アジアらしい、景色が残っていました。

ダムラ村、カラ・クム砂漠に暮らす人々 
ダムラとはWATER DROP、水滴を指す言葉で、村のそばには夏場は水がたまるくぼ地があり、たくさんの井土もあります。朝、キャンプ地からダムラ村へ到着すると、ちょうど家畜の水やりと放牧の出発の時間でした。

ダムラ村 カラクム砂漠 (3)
近くの草地へ移動するヤギの群れ。

ダムラ村 カラクム砂漠 (2)
井戸を使い終わると厳重に鍵をかけます。水は、貴重。

村には学校もありました。タシャウズから夫婦で派遣されているという先生が指導をしていました。
ダムラ村 カラクム砂漠 (12)
先生の質問に答える少年。

ダムラ村 カラクム砂漠 (11)
この緑の衣装と白いエプロン、おさげはトルクメニスタンの女学生の制服です。

村へ入っていくと、女性たちが家の中で集まって作業をしていました。「ケチェ」と呼ばれるフェルト作り。

ダムラ村 カラクム砂漠 (4)
動物の毛はたたいたりするとキューテクルがからみつきひっつきます。白や黒、灰色、茶色は羊の元の毛の色を利用し、赤や緑などは町で買ってきた科学染料で染めます。9~10月は特にさかんにフェルト作りが行われるそうです。 

ダムラ村 カラクム砂漠 (5)
作業よりも写真撮影に夢中になってしまったお嬢さんたち。

ダムラ村 カラクム砂漠 (6)
完成したフェルトは家の床に敷かれています。

ダムラ村 カラクム砂漠 (7)
お嬢さんたちのお父さんも登場し、ドゥタールと言う二弦楽器を披露。まごをそばに、語りかけるような演奏でした。     

ダムラ村 カラクム砂漠 (8)
メインの住居はコンクリート製のものですが、その横には真新しい、新築のユルトが。中は伝統的な飾りで装飾されていました。孫を抱いて満面の笑みのヤズグルさん。

タムディール
家の外ではタムディール(タンドール)でのチョーレック(ナン)焼いていました。お嫁さんのとお母さんの作業。

ダムラ村 カラクム砂漠 (9)
きれいに模様をつけて・・・

ダムラ村 カラクム砂漠 (10)
焼きたてのナンはたまりません。

ダムラ村 カラクム砂漠 (13)
そしてかまどで作った煮込み料理。

気が付いたら2時間以上歩きっぱなしで気温も30度を超えていました。ユルトに入れてもらい、ナンと煮込み料理をいただきました。

急激な近代化を進めているトルクメニスタンで、カラ・クム砂漠の暮らしを見ることができる貴重な場所です。

文・写真 Mariko SAWADA  澤田真理子


西遊旅行のマンギスタウへの旅
地獄の門と奇跡の大地 9日間
地獄の門と奇跡の大地 10日間
カラカルパクスタンとトルクメニスタン


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2014年01月01日

トルクメニスタンのカラ・クム砂漠でキャンプ

1

カラ・クム砂漠 Kara Kum Desertはテュルク系の言葉で「黒い砂」を意味する砂漠。35万平方キロメートルにおよび、トルクメニスタンの国土の70%を占めます。砂漠と言っても砂の部分は少なく、根を地下に深く伸ばした植物が生える牧畜地帯。ソ連時代にカラ・クム運河が作られたことから用水路をはって農業も発達しています。

首都アシガバードからダムラ村へ移動中、村の手間でキャンプしました。

トルクメニスタン カラクム砂漠 (2)
途中の景色はほどんどが土漠や牧草地ですが、ところどころ砂丘をみかけます。

トルクメニスタン カラクム砂漠 (3)
よく見るとカラ・クム砂漠に暮らす動物たちの姿も。

トルクメニスタン カラクム砂漠 (5)
雨季には水がたまる平らなくぼ地にてテント。ダムラ村まですぐの距離です。

トルクメニスタン カラクム砂漠 (4)
夜、夕食までの時間に周辺の草陰を観察すると、夜行性のかわいいトカゲの姿! 

トルクメニスタン カラクム砂漠 (6)
夕食はスタッフの手作りのトルクメニスタンのパラオ。

トルクメニスタン カラクム砂漠 (7)
そしてあったかいお茶。ウォッカも身体をあたためてくれる、カラ・クム砂漠の夜です。

文・写真 Mariko SAWADA  澤田真理子



西遊旅行のマンギスタウへの旅
地獄の門と奇跡の大地 9日間
地獄の門と奇跡の大地 10日間
カラカルパクスタンとトルクメニスタン

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2013年12月31日

トルクメニスタンのマルグッシュ遺跡(テペ・ゴヌール)

マルグッシュ テペ・ゴヌール (12)

現在も発掘が続く、トルクメニスタンのマルグッシュ遺跡(テペ・ゴヌール)。
新しい発見が続き、まだ資料なども十分に出版されておらず、現場で考古学者の説明を聞きながら遺跡をめぐります。遺跡では、トルクメニスタン考古学の権威ヴィクトール・サリアディニ先生とそのチームが発掘を続けています。

考古学者ヴィクトール・サリアディニ
ロシアの考古学者でトルクメニスタンの考古学の権威。1972年よりマルグッシュ遺跡を発掘を指揮しています。遺跡に到着して先生がいらっしゃると、ごあいさつ。「私はこの紀元前3,000年にもさかのぼる遺跡を40年発掘してきていますが、何にもわかっていません」、という謙虚な言葉は印象的でした。「今言えるのは、四大文明に匹敵する高度な文明を持ち、ゾロアスター教の前身となる、火・水・空・大地を崇拝した宗教を持った人々、独特の埋葬方法を発達させた人々が暮らしていた、ということです」と。

マルグッシュ テペ・ゴヌール (1)
先生と記念撮影していただきました。

マルグッシュ遺跡 テペ・ゴヌール
発掘途中のこの遺跡はまだまだ謎に包まれています。名前も地元の人がこう呼んでいるからテペ(丘)・ゴヌール(灰色)とついたとか。紀元前25世紀~紀元前17世紀の遺跡で100ヘクタールにわたって25の区画エリアが見つかっています。最も古いのが一般観光客が訪問する「神殿や王宮」と呼ばれる建物があるエリア。建物の外壁は天井のある二重壁で覆われていたといい、きれいに見える再建部分は忠実に泥でカバーしているといいます。
案内書には「謁見の間」とか「神殿」とか書かれているのですが、実際にはなんの意味のある部屋かはまったくわかっていないとのことでした。建物の周りにはマルガブ川の水を引いた貯水池、そして地下宮殿(死後のすまい)に埋葬。埋葬は特徴的でロバ、羊と青銅製の副葬品などを見ることができました(一部レプリカです)。
考古学者の説明によるとマルグッシュには世界四大文明に匹敵する高度な文明があったと想定されているそうです。

遺跡見学はロシアの考古学者のサタイフさんに案内してもらいました。

マルグッシュ テペ・ゴヌール (2)
テペ・ゴヌール復元想像図
アシガバードの博物館に展示されていたテペ・ゴヌールの最盛期の神殿・王宮エリアを復元した想像図。

マルグッシュ テペ・ゴヌール (3)
遺跡へ。三角の窓は明かりとりと考えられています。

マルグッシュ テペ・ゴヌール (4)
未修復の回廊部(屋根あった)と三角の窓。日干し煉瓦と焼煉瓦を利用。

マルグッシュ テペ・ゴヌール (5)
水道管の跡。まるでインダス文明のようです。    

マルグッシュ テペ・ゴヌール (7)
宮殿と飛ばれるエリア 

マルグッシュ テペ・ゴヌール (6)
修復した壁龕。もとの建築物に忠実に泥をにぬったそうです。

マルグッシュ テペ・ゴヌール (8)
地下宮殿、死者のための住居が見つかっています。            

マルグッシュ テペ・ゴヌール (9)
ロバ、青銅製の瓶、車輪、王杓などが発券された墳墓(人7人、 犬7匹、ロバ2頭、ラクダ2頭の埋葬)
 
マルグッシュ テペ・ゴヌール (10)
埋葬されていたロバ                               

マルグッシュ テペ・ゴヌール (11)
羊とたくさんの器の副葬品

これまでに発掘が進んでいる王宮と呼ばれるエリアと墓地を見学することができるマルグッシュ。
新たな発見も期待される、トルクメニスタン考古学のホットな遺跡です。

文・写真 Mariko SAWADA  澤田真理子



【関連ツアー情報】
地獄の門と奇跡の大地 9日間
地獄の門と奇跡の大地 10日間
カラカルパクスタンとトルクメニスタン

sawada_saiyu at 15:00|Permalink

2013年04月05日

トルクメニスタンの至宝・メルヴ遺跡

こんにちは。大阪支社の米谷です。

シルクロードのベストシーズンが近づいており、今年も3月から続々とツアーが催行決定しております。
新たに発表した「地獄の門と奇跡の大地」のコースが好評をいただいていますトルクメニスタンですが、今日はメルヴ遺跡をご紹介したいと思います。

DSC00959
メルヴのシンボル 大キズカラ

メルヴはマリ市の北約25kmほどに位置しています。広大な土地に様々な遺構が残るこのメルヴ遺跡。その中心はエルク・カラ、ギャウル・カラ、スルタン・カラと呼ばれる遺跡で、エルク・カラにはアケメネス朝以前から集落があったと考えられています。四世紀頃にはこのメルヴにゾロアスター教、仏教、キリスト教の寺院が建設され、様々な宗教が混在していたとも考えられています。

DSC03811
広大な敷地に遺構が残るギャウル・カラ

私たち日本人にもなじみの深い仏教は1世紀頃にメルヴに伝わり、3世紀頃には仏塔が建てられたと言われています。現在でもこのメルヴ遺跡のギャウル・カラ南東部に仏塔の跡と考えられる遺構が残っており、世界で最も西の端にある仏教遺跡と言われています。また、8.5cmの仏像の座像と土器に入った経文が発見されています。
仏塔の跡
≪かつての仏塔の跡≫

メルヴのシンボルともなっている建物がキズ・カラです。大キズ・カラ、小キズ・カラの2つの建物が残っており、これは当時の領主のお城と考えられています。キズ=乙女 カラ=城という意味で、ササーン朝時代の7世紀頃に建設され、セルジューク朝の時代にも利用されていました。周囲を巨大な城壁で覆われており、メルヴ遺跡の中ではひときわ目立った存在です。

大キズカラ
≪大キズ・カラ≫

大キズカラの内部
≪大キズ・カラの内部≫

メルヴは11~12世紀に最盛期を迎えたと考えられており、その当時東セルジューク朝のスルタン・サンジャルが統治していたと考えられています。このサンジャルの霊廟がメルヴ遺跡のスルタン・カラに残っています。1140年に建てられ、その後、モンゴル軍の進行や地震による破壊を耐え抜き、現在でもその姿をとどめています。当時の建築技術の高さが伺い知ることができます。
スルタンサンジャール廟
≪スルタン・サンジャール廟≫

中央アジアの中ではまだまだ日本では馴染みの少ないトルクメニスタン。シルクロードの歴史が好きな方にとっては大変興味深い国のひとつです。これから春のベストシーズンに突入し、5月17日発「カラカルパクスタンとトルクメニスタン」のコースは催行決定となりました。

是非、ご検討下さい。

●ツアーの詳細はこちら
カラカルパクスタンとトルクメニスタン

中央アジアの見所はこちら









yonetani_saiyu at 21:05|Permalink

2013年02月25日

中央アジアへの旅 旅行説明会開催!

いよいよ4月~10月にかけて中央アジア・シルクロードのベストシーズンが到来です。
既にゴールデンウィーク出発コースなど数多くのお申込みをいただき、誠にありがとうございます。

レーニン峰
《サリタシュ(キルギス)から眺めるレーニン峰》

さて、既にホームページ、西遊通信でもご案内しておりますが、中央アジアのツアーラインアップの中からトルクメニスタンの新企画「地獄の門と奇跡の大地」をはじめとする6コースに関して、旅行説明会を開催します。

西遊旅行ならではの一歩踏み込んだツアー内容を一人でも多くの皆様に知っていただければと思います。
また、まだまだ情報の少ない地域ですので、持ち物・気候・観光地についてなど貴重な情報をスライドを交えて弊社中央アジア担当者よりご案内いたします。是非、お誘い合わせの上、ご参加下さい。

◆東京説明会:4月9日(火) 15:00~17:00
場所:西遊旅行 東京本社 5階会議室
定員:25名様

◆大阪説明会:4月10日(水) 15:00~17:00
場所:西遊旅行 大阪支社 
定員:25名様

詳細は下記URLもご確認下さい。
http://www.saiyu.co.jp/newspaper/event/setsumeikai_casia_1304/

《説明会対象コース》
カラカルパクスタンとトルクメニスタン
地獄の門と奇跡の大地
キルギスとカザフスタン 天山自然紀行
草原のシルクロード3ヶ国周遊
タジキスタンとテルメズの遺産
パミールハイウェイとワハーン渓谷

それぞれ、お電話又はEメールにてお申込みの上、ご参加下さい。
皆様のご参加をお待ちしております。

西遊旅行・米谷健吾




yonetani_saiyu at 09:30|Permalink

2013年02月14日

「地獄の門」見聞記

今シーズン新たに発表した「地獄の門と奇跡の大地」。トルクメニスタンのカラ・クム砂漠の絶景を訪ねる新コースの視察を、昨年12月に行って参りました。今回は、その時のご報告です。

 経由地のイスタンブール出発が5時間も遅れ、何かいやな予感がしました。案の定、首都アシハバード到着時は濃霧。気温は5度。大陸性気候のため、冬はマイナスにもなる過酷な地のため、覚悟はしていました。そのためツアーの設定は春から秋にしています。
 アシハバードから四輪駆動車で走ること5時間、トルクメニスタン西部の街・バルカナバードに到着しました。まずはこのツアーのハイライトの一つ、ヤンギ・カラへ向かうためにこの街で一泊しました。
 翌朝、ヤンギ・カラの絶景地帯へ。カスピ海東岸に広がるこの地のことは、日本で調べていましたが、トルクメニスタンの北に位置するカザフスタンに広がるウスチュルト台地と同じような風景と思っていました。ヤンギ・カラもウスチュルト台地も、かつては海の底だった所で、大地の隆起の後に、風雨の浸食によって、奇岩広がる絶景地帯に変わりました。石灰質の大地なので、白を基調としたテーブルマウンテンが広がる風景は同じなのですが、ヤンギ・カラは地層にヨウ素を大量に含んでおり、このヨウ素が生み出すピンク色と白の織りなす絶景が広がっていました。

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【ヤンギ・カラの大地の上より】


 
 ヤンギ・カラに近づくにつれ、遠くにだんだんと大きなテーブルマウンテンが見えてきました。幹線道路から、大きなテーブルマウンテンを下から見上げるように走り、その後標高を少し上げた所からオフロードに入り、台地の上に上がりました。この台地の上から、果てしなく奇岩が連なる風景を見ることができます。ツアーでは、この台地の上に滞在する時間を多く取り、絶景の中でテント泊をすることができます。



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【ガイドさんが撮った私の姿】                       【バザールで売られるチョウザメ】

 その後、カスピ海沿岸の街・トルクメナバードへ。近年、トルクメニスタンのリゾート地になり、郊外には大きなホテルが沢山建設されていましたが、庶民が集うバザールでは、カスピ海で採れたチョウザメが沢山並んでいました。
 視察はその後、ウズベキスタンとの国境に近いタシャウズへと向かい、いよいよ「地獄の門」へと向かいます。タシャウズは、なんと気温マイナス20度。あまりの寒さで4WDのエンジンがかからず、出発が遅れましたが、幹線道路を走ること4時間、いよいよクレーター群に到着です。ダルワザという地名は、その名も「門」。ここには、40年程前に天然ガスの採掘作業中に空いた大きなクレーターが3つ残ります。最初に、底に地下水が湧き出た「水のクレーター」、泥がたまった「泥のクレーター」を見学。どちらも地下から吹き出すガスによって、泡がブクブクと湧きあがっています。

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【水のクレーター】                              【泥のクレーター】

 その後、メインの「火のクレーター」へ。オフロードを走ること30分あまり、とうとう念願の「地獄の門」に到着。車を降りて近づくと、まずは火の燃える轟音に驚きました。横60メートル、縦50メートルのだ円系のクレーターの内部は、ものすごい勢いで火が燃えており、熱によって生まれた陽炎が覆っていました。夢中でクレーターの回りを何周も歩いて写真を撮っているうち、だんだんと陽が落ちてあたりが暗くなってきました。真っ暗な闇が辺りを覆う頃、漆黒の中に燃え続けるクレーターの迫力は、言葉では表現できない程です。まずは、皆様も現地で見て下さい。

●横1枚で使う大きな画像KOJI9350

                           【地獄の門】

 翌日は、アシハバードへ向かう途中、砂漠の中に佇む小さな村、ダムラ村に向かいました。なんと、朝から雪が降り出し、「黒い砂漠」を意味するカラ・クム砂漠が真っ白な雪化粧に変わっていきました。外はミネラルウォーターも凍る程の寒さ。村では、雪の中を歩くラクダの群れに出迎えられ、一件の民家を訪問。

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【凍ったミネラルウォーター】                       【ラクダの雪中行進】

 この村は、ソビエト時代に建てられた住宅の他、伝都的なユルトも常設されており、村の方々は両方の建物を使って暮していました。村の広場には、ナンを焼く釜戸・タンドールがあり、村の人が共同で使ってナンを焼く風景を見れました。バザールで買った米を持参し、民家でプロフを作っていただきました。豊富な天然ガスにより、近年どんどんと近代化していくトルクメニスタンですが、羊の毛で作った帽子・カルパックを被り、伝統的な暮らしを続ける様子を、見ることができました。

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【タンドールでナンを焼く様子】



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【お世話になった民家の方々】

 極寒と強風の中の視察でしたが、トルクメニスタンの別の魅力を知ることができました。ヤンギ・カラの絶景、燃え続ける「地獄の門」、そして伝統的な暮らしを守る砂漠の民が、皆様をお待ちしています。

▼関連ツアー
・地獄の門と奇跡の大地 12日間
・地獄の門と奇跡の大地 9日間

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2011年06月01日

トルクメニスタン史跡案内:ニサ

史跡案内の最終回は、ニサです。
首都アシハバードから30分ほどの所にあり、イランとの国境の山・コペット・ダー山脈が一望できる丘にあります。
ここはかつてローマ帝国も震え上がらせた騎馬民族、パルティアの都です。
パルティアは紀元前3世紀から紀元3世紀まで、中央アジアからメソポタミア、イラン、アフガニスタンまで治めた国でした。

パルティアの都は3つありました。イラクのクテシフォン、いまだ所在地がわからないヘカトンピュロス、そしてミトラダトケルテです。パルティアの王、ミトラダテスの名からとったこの町がニサになります。

現在のニサは、イタリアの発掘隊が中心となって発掘を進めています。神殿、貯蔵庫、宝物殿跡などが見つかっておりますが、興味深いのがワインの貯蔵庫です。宝物殿の近くにあり、ワインを流した管も残っています。

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ニサ (6)

【写真左:ニサ全景とコペット・ダー山脈】
【写真右:神殿内の柱】

ニサの遺跡からは、沢山の出土品も見つかり、アシハバードの国立博物館に陳列されています。
パルティアはギリシャ文化を好み、ビーナスのような女性像、象牙を使った巨大なリュトンを沢山見ることができます。リュトンはワインを入れて飲んだとも、聖水を入れて神殿に撒いたとも言われています。
パルティアン・ショットという戦法で、ローマ帝国と互角に戦った「野武士軍団」のような反面、華麗なギリシャ文化を好んだところが興味深いです。

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【写真左:象牙製のリュトン】
【写真右:女性像】

また、中国の文献では「安息国」として登場します。中国で初めて紹介された中央アジアの国でもあります。

以上四回に渡って、トルクメニスタンに残る史跡をご紹介させていただきました。
西アジア史上、かかすことのできない場所ばかりで、古くから文明が興り、メソポタミアとインド、中国を結ぶシルクロード上にあったため、多くの王朝、国が都を置いた場所であることがわかります。日本ではまだまだ馴染みの薄い国ですが、歴史の浪漫漂う、「シルクロード」を体現している国です。皆様も是非、ご自身の足でシルクロードに立ってみてください。

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中央アジア世界遺産紀行
シルクロードⅠ 中国・西域から中央アジア、イラン高原へ

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「戦場の捨てぜりふ」アルサケス:トルクメニスタン

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2011年05月26日

トルクメニスタン史跡案内:クニャ・ウルゲンチ

今回は、クニャ・ウルゲンチをご紹介します。

ウズベキスタンには、ウルゲンチという町があります。クニャとは「古い」という意味で、ウズベキスタンのウルゲンチができる前にあったウルゲンチという意味です。
では、その昔、どのような都があったのでしょうか。

クニャ・ウルゲンチを都としたのは、ホラズム・シャー朝という王朝でした。時は12世紀から13世紀、中央アジア一帯からペルシャまでを治めた強国でした。

その絶頂期、その後の世界史を揺るがす大事件が、ホラズム・シャー朝の領地であった現在のカザフスタンのオトラルで起きます。

1218年、モンゴルはオトラルに450人の使節団を派遣します。しかし時のオトラル総督のイナルチクは使節団を虐殺し、その荷を奪い、殺さずに残した使節をチンギス・ハーンのもとに送り返しました。
激怒したチンギス・ハーンは翌1219年、大軍団をオトラルに送ります。
オトラルはおろか、ホラズム・シャー朝領にあったサマルカンド、ブハラ、メルブを徹底的に破壊し、ホラズム・シャー朝を滅ぼします。
その後モンゴルは中央アジアのみならず、ヨーロッパまでの大遠征を行うことになったのです。

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【発掘が進むオトラルの遺跡】


世界史に残るこの大事件のきっかけをつくった総督イナルチク、滅ぼされた中央アジアの人から見れば、「とんでもないことをしてくれた」と思われるかもしれませんが、彼はただの略奪目的や私腹を肥やすために事件を起こしたのではないと言われています。
当時、中国の遼を支配下に置いたモンゴルは次の標的を中央アジア一帯と決めており、中央アジア侵攻に備え、中国との最前線にあったオトラルの町を「視察」する名目で使節団を装ったスパイ団を送り込んだのです。
それをイナルチクは見破っており、事件を引き起こしたと言われています。

破竹ようなの勢いでモンゴルの征服が始まり、当時のホラズム・シャー朝の王・アラーウッディーン・ムハンマド・シャーは逃亡中に病死し、このクニャ・ウルゲンチもモンゴルの手に落ちるのです。

クニャ・ウルゲンチには現在、歴代のホラズム・シャーの王の廟や、后の廟、中央アジアで最も高い60mのクトゥルグ・ティムールのミナレットなどが残っています。

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【左:クトゥルグ・ティムールのミナレット】
【右:クニャ・ウルゲンチ全景】


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【左:第三代王:イル・アルスラン廟】
【右:第六代王:テケッシュ廟】


また、敷地の近くには「クルク・ムッラーの丘」があります。クルクとは40、ムッラーとはイスラム教の聖職者の意で、モンゴル襲来の時に、この丘で40人の聖職者が祈って、大地が割れるという奇跡が起こったと言われています。
この奇跡のためか、現在のクニャ・ウルゲンチは現地の方々の聖地になっており、お墓も沢山あります。

お隣のウズベキスタンは独立後、観光に力を入れるため、ソビエト時代に荒れ果てていたモスクやミナレットなどの建物を、当時のままに復元しました。
しかしクニャ・ウルゲンチのあるトルクメニスタンは、豊富な天然ガスを産出するため、観光以外でも外貨の獲得ができるためか、このクニャ・ウルゲンチの建物の復元はあまり進んでいません。

嵐のようなモンゴル襲来により滅びたホラズム・シャー朝、クニャ・ウルゲンチはその哀愁が漂うような遺跡です。


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シルクロード英雄列伝「悲劇の王子・ジャラルッディーン」

次回最終回は、ニサです。





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2011年05月13日

トルクメニスタン史跡案内:マルグッシュ

今回は、紀元前2300年前から高度な文明を持っていたマルグッシュをご紹介します。

トルクメニスタン南東部の町、マリから4WDで約2時間半、カラクム砂漠の中にマルグッシュはあります。
ロシア人考古学者のサリヤニーディ教授が航空写真より発見し、1972年から発掘が始まったマルグッシュは、紀元前6世紀のアケメネス朝の時代まで、王宮を擁した大都市でした。

アケメネス朝の時代、近くを流れるムルガブ川が流れを変え水の供給ができなくなったために、人々は町を捨て新しい町メルブへと移り住んだのです。メルブで一番古い史跡はエルク・カラで、アケメネス朝の時代のものです。この時代を境に、ムルガブ川のほとりに栄えた都がマルグッシュからメルブへと変遷したのです。
因みに、マルグッシュもメルブも、その名は「ムルガブ」が由来していると言われています。
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【左:マルグッシュ全景】
【右:王宮の内部】


考古学者の説明によると、マルグッシュは世界4大文明に匹敵する高度な文明があったとのことです。
黄河文明は黄河、エジプト文明はナイル、メソポタミア文明はチグリスとユーフラテス、インダス文明はインダスと、大きな川のほとりに栄えた文明という点でも共通しています。
まだ全体の数%しか発掘されていないマルグッシュですが、実際に遺跡には何が残っているのか、見てみましょう。

遺跡のほぼ中心にあるのがゴヌール・テペと呼ばれる王宮です。
王宮内には、王家の墓があり、王族が飼っていた馬や動物が陪葬されていました。また、厨房の角にあった釜戸の跡も残っています。
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【左:陪葬された馬の骨格】
【右:厨房跡。中央上に釜戸に残る壷があります】

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【左:陶器の数々】
【右:王宮内部】

ここで発掘されたものの多くは、首都アシハバードの国立博物館に展示されています。
今回は、一点珍しいものをご紹介します。
下の写真は、現在のシリアに住んでいたシュメール人の像です。
全身を袈裟のような服で覆っており、ダマスカスの博物館に展示されているシュメール人の姿と同じです。
マーグッシュ出土品(アシュハバード博物館)
【シュメール人の像】


このマルグッシュからシュメール人の像が出土しているということは、当時すでにメソポタミアとの交易があったことを物語っています。
世界地図を見ると、マルグッシュは丁度メソポタミアとインダスとの中間にあることがわかります。
また、中央アジアというと、中国に近いとのイメージがありますが、ここマルグッシュは、中国よりもメソポタミアの方が距離的にも近いことがわかります。


これからも発掘が進み、新たな発見が期待されるマルグッシュには、古代の浪漫がまだまだ眠っていることでしょう。
次回は、クニャ・ウルゲンチです。

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2011年04月15日

トルクメニスタン史跡案内:メルブ

4回に渡り、トルクメニスタンに残る歴史遺産をご紹介します。第一回はメルブです。

西アジアの都市遺跡の多くは、テパ、テペと呼ばれる大きな丘のようなものがほとんどです。これは、前代の人々が住んだ町の上に、後代の人が暮らし、さらに次の代の人がその上に暮らしていったため、だんだんと高くなっていったためです。
しかしこのメルブは違い、縦ではなく、横に拡張していった珍しい都市遺跡です。そのため70平方キロに渡る広範囲に渡って、様々な年代の史跡が残る中央アジア最大の遺跡になったのです。
メルブに残る史跡を、年代別にご紹介させていただきます。

【エルク・カラ(紀元前6~5世紀・アケメネス朝)】

メルブ最古の場所で、小高い丘です。丘の上には邸宅跡があったと言われています。
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(左:エルク・カラ全景)
(右:エルク・カラの頂上)

ガイドはいつも「王の邸宅」と説明しますが、正確にはアケメネス朝の総督(サトラップ)の邸宅と思われます。この丘の上からは、メルブ全体が見渡せます。

【グヤウル・カラ(紀元前4世紀から紀元16世紀・(アレキサンダーの時代からティムールの時代】

前述のエルク・カラの横に広がる広大な面積を持つ都跡。メルブの歴史を物語る箇所と言ってもいいと思います。まず、下の写真を見て下さい。これはエルク・カラを囲む城壁の断面です。いろいろな時代に拡張されていったため、沢山の層に分かれているのがわかります。そして中央に見える方形に窪んだ場所は、都を守る衛兵が立った場所といわれています。

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(左:城壁の断面)
(右:兵士が立った窪み)

流れ行く時間の中で、様々な民族、宗教がメルブに流れ込みました。
このグヤウル・カラの敷地内には、ネストリウス派のキリスト教会、仏教寺院、イスラム教のモスクなど、様々な宗教施設があったと言われています。ガイドの説明によると、「グヤウル」とは「狂った」という意味で、沢山の宗教が入り乱れていたことに由来すると言っていました。
このグヤウル・カラの仏教寺院からは、下のガンダーラ産の黒い石でできた仏像、白樺の木に書いたサンスクリット語の経典などが出土しました。
実は、仏教寺院は、このメルブから西では発見されていないため、メルブは仏教伝来の最西端という説があります。そのため、ここで出土した仏像は、「最果ての仏像」と呼ばれています。また、下の写真の経典の入っていた壷はメソポタミアの様式で、周りにはある男性の一生が描かれています。

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(左:最果ての仏像・アシハバード国立博物館)
(右:経典の入っていた壷:・アシハバード国立博物館)

最後にこのグヤウル・カラにやって来たのは、ティムールでした。イスラム教徒の彼は、このグヤウル・カラのど真ん中に、大きなモスクを建てました。建物は残っておりませんが、下の写真は礼拝の前に身を清めるための水場の跡です。
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                   (ティムールのモスク跡)


【スルタン・サンジャール廟(紀元11~12世紀・セルジューク朝)】

中央アジアからメソポタミア、アナトリア、中東の地中海岸まで支配したトルコ系の王朝。このセルジューク朝もメルブを都としました。最後の王、スルタン・サンジャールはここに眠っています。近年修復が終わりましたが、この修復の援助をしたのが現在のトルコ共和国です。自分達の偉大なる祖先の、偉大なる王の廟と言うこともあり、大々的に修復をしました。
スルタンサンジャール廟







(スルタン・サンジャール廟)





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(トルコ政府が立てた記念碑)

また、このスルタン・サンジャールには、「日本の鶴の恩返し」と全く同じ内容の伝説があります。后から見てはいけないと言われていた時間に后を見てしまったため、后は鳥になって飛んで行ってしまったという内容です。この伝説に由来するのか、スルタン・サンジャール廟の天井には、后が飛んで出て行ったという窓が空いています。





【キズカラ(紀元6世紀・ササン朝)】

メルブに残る代表的な建造物で、ササン朝時代の裕福な人の邸宅と言われています。キズ=乙女 カラ=城という意味です。名前にはいろいろな説があり、この裕福な人物が毎晩乙女を呼んで宴会を開いていたためとも、後世のモンゴル襲来の時に、乙女がここに立て篭もり、モンゴルの手に落ちる前に身を投げたためとも言われています。
キズカラは大小二つあり、昔は大キズカラにいる男性が、小キズカラにいる女性に林檎を投げて、うまく到達したら二人は結ばれたというお話も残っています。
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(左:大キズカラ)
(右:小キズカラ)

このように、中央アジアの2000年近い歴史がそのまま史跡として一箇所に残っている場所は、他にはありません。まさに中央アジアの年表のような遺跡と言えるでしょう。
どの時代でも、西はメソポタミアから、東はインド、中国からのキャラバンが、途中メルブに泊まったことでしょう。様々な民族、文化が集まる当時の一大国際都市であったとも言えます。
中央アジアの魅力が詰まった、浪漫溢れる場所です。

メルブを訪れるツアーはこちら
中央アジア世界遺産紀行

シルクロードⅠ 中国・西域から中央アジア、イラン高原へ


次回はメルブの時代以前、高度な文明を持っていたマルグッシュをご紹介します。



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2011年03月04日

「戦場の捨てぜりふ」アルサケス③:トルクメニスタン

パルティア最終回です。

パルティアは西アジアに、三つの都を建てました。
一つ目の都はニサ。トルクメニスタンの首都アシハバード近郊にあり、王だったミトラダテスの名を取って、ミトラダトケルテとも呼ばれています。
二つ目の都は、パルティア終焉の地、クテシフォン。今のイラクにあります。
三つ目の都は、今だ所在が解らず、発掘されていません。

謎に包まれたその都の名は、ヘカトンピュロス。
イランのカスピ海沿岸に眠っていると言われます。発掘されたら、日本の旅行会社で始めてツアーに組み込むのは、西遊旅行です。

さて、ササン朝ペルシャに滅ぼされたパルティアですが、何とその後、ローマ軍の兵士として働くことになるのです。なぜ?
八回も戦った、憎きローマの軍門に降った理由は、クテシフォンで敗れたササン朝ペルシャにあるのではないでしょうか。

紀元260年、ローマはシャープール一世率いるササン朝ペルシャに破れます。そして皇帝ヴァレリアヌスが捕虜になるという屈辱を味わさせられます。下の写真は、イランのナクシェ・ロスタムに残る記念碑で、皇帝ヴァレリアヌスが、シャープール一世にひざまずく姿の石碑です。

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【皇帝、ひざまずく。ナクシェ・ロスタム、イラン】

片や国を滅ぼされ、片や皇帝を捕えられた共通の敵、打倒ササンという名の元、パルティアはローマの兵士として戦ったのではないか?
敵の敵は味方です。

さて、パルティアの故郷の西アジアから数千キロ離れたアルジェリアに、ローマ遺跡ティムガッドがあります。
ここは、パルティア兵をはじめ、退役した軍人が沢山住んだ植民都市でした。
パルティアンショットを得意とした「つわもの」達も、25年の兵役を務めるとローマの市民権が与えられ、優雅な老後を送ったのです。

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【ティムガッドの円形劇場】

ティムガッドのフォーラムには今も、「狩りをし、風呂に入り、ゲームをし、そして笑う。これが人生だ」というラテン語の落書きが残っています。
修羅場をくぐり抜けたパルティア兵達の、これが本音でしょう。

リビア、イスラエル、シリア、どのローマ遺跡でも、その壮麗な建築群に驚嘆します。私は遺跡に立つといつも驚嘆と同時に、滅んだローマ帝国に対する一種の虚しさを感じます。

しかし同じローマ遺跡のティムガッドに行った時は違いました。
故郷から遠く離れた安息の地で、豪快に酒を酌み交すかつての「つわもの」達の笑い声が、聴こえてくる様な気がしたのです。

次回は、セレウコスです。


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2011年02月24日

「戦場の捨てぜりふ」アルサケス②:トルクメニスタン

パルティアは西アジアというその地理的背景から、東西両方からの交易品を手に入れていました。

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【パルティアの都・ニサの遺跡】

西からは、ギリシャ文化を取り入れ、神殿にはギリシャ風の神々の像を飾っていました。
写真のビーナスのような女性像も、彼等の都ニサから出土しています。

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【女性像・アシハバード国立博物館】
           
つわもの揃いの騎馬民族の反面、華麗なギリシャ文化を好んだ所が、私は好きです。

では、東からの交易品は何だったのでしょう。
その答えを知るために、前回の戦場のシーンに戻ってみましょう。

パルティアンショットが乱れ飛んだ戦場には、パルティアが立ち去った後、太陽の光を受けて輝く物が落ちていました。
「何だこれは」とローマ兵が手にした物は、パルティアの軍旗でした。
「何で出来ているんだ」と、ローマ兵が不思議に思ったのも無理はありません。軍旗は、当時ローマにはなかった素材で作られていたのです。

その素材は、絹でした。
当時すでに中国と交易をしていたパルティアは、絹の軍旗を使っていました。

ローマ兵は戦場で拾った軍旗を祖国に持ち帰り、それからローマの絹への飽くなき欲求が始まったのです。
そして中国~パルティア~ローマと繋がっていたシルクロードが、本当の意味でシルクロードになる始まりでもありました。

紀元224年、パルティアは現在のイラクにあるクテシフォンで、長年の宿敵ローマではなく、ササン朝ペルシャに滅ぼされます。

次回はこのクテシフォンを始めとするパルティアの都と、その後の興味深いパルティアとローマの関係のお話です。




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2011年02月18日

「戦場の捨てぜりふ」アルサケス:トルクメニスタン

今日から3回に渡り、私の大好きなトルクメニスタンのお話です。

紀元前3世紀、アレキサンダー大王の家臣セレウコスが興したセレウコス朝を破り、トルクメニスタンからイラン、メソポタミアまで支配した国が興りました。パルティアです。
初代の王はアルサケス。彼の名前を取りアルサケス朝とも呼ばれ、中国ではアルサケスが訛って「安息国」と呼ばれました。

「安息国」というと、何かシルクロードのユートピアのようなイメージが沸きますが、実態は勇猛な騎馬軍団だったのです。

パルティア最盛期、当時の西の超大国はローマでした。パルティアはこのローマと、8回にわたる泥沼の戦争を繰り広げます。

ローマと互角に戦うほど強かったパルティアの秘密は、その戦法にありました。
のっしのっしと歩くローマ歩兵部隊の横を、風のような速さでパルティアの騎兵が通り過ぎます。
何もされずに、ほっとするのもつかの間、「くらえっ」とばかりに振り向きざまに矢を放たれます。
これが「パルティアン・ショット」です。

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【パルティアン・ショットの図・タシケント、ハムザ研究所】

「くらえっ」が起源かどうかはわかりませんが、この「Parthian shot」とうい言葉は、現在では「捨てぜりふ」という意味で使われています。

この戦法に悩まされたローマですが、皇帝セプティミウス・セウェルスは第7回パルティア戦争で、パルティアを破ります。

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【セウェルス像・ベイルート国立博物館】

セウェルスは戦勝記念として、彼の故郷のレプティス・マグナに巨大な凱旋門を建てました。
こんな壮麗な凱旋門を建てるとは、よっぽどうれしかったのか、よっぽどパルティアが憎かったのでしょう。

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【セウェルスの凱旋門・レプティス・マグナ】

嵐のような戦闘の後、戦場にはパルティアが残していったものが落ちていました。傷だらけのローマ兵が見つけたものは、捨てていった「せりふ」ではなく、後のシルクロードで、大きな、大きな意味を持つことになる、ある物でした。

続きはまた次回。





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