世界遺産

2016年10月10日

ヨルダン、赤く輝くペトラ遺跡を目の前に

ヨルダンは中近東地域のほぼ中心に位置している国ですが、その神秘の姿を一目見ようと世界各国から観光客が絶え間なく訪れています。その所柄、危険だ、怖いと思われがちな国ですが、外務省の危険情報もレベル1(十分注意してください)の地域がほとんどで(2016年10月時点)、弊社ツアーの中でも人気のコースとなっています。

本日はヨルダンの最も有名な観光地の一つ、ペトラ遺跡をご紹介いたします。
この地は、古代ナバテア人が紀元前1世紀ごろに暮らしていた都市といわれており、その位置から人々や物が行き交う地として栄えました。砂漠を旅していたキャラバンたちの中継地としても機能し、非常に多くの富をナバテア人にもたらしたといわれています。1985年にはユネスコの世界遺産に登録され、ヨルダンといえばペトラ遺跡を思い浮かべる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

■DSC_3573

▲ペトラ遺跡といえばこの景色「エル・ハズネ」

遺跡全体が赤く輝いているのは、赤砂岩で作られているから。赤砂岩は光の当たり方によってその赤色の濃度が変わるので、昼と夜、そして天候などによって様々な姿を見せてくれます。

ペトラ■DSC_3833

▲「スィーク」を抜けると見えてきます。

ガイドブックで必ず登場するのが、「エル・ハズネ」とラクダのツーショット。

■DSC_3600

▲このツーショットは必見。間近にラクダの姿が。

エル・ハズネは、狭い岩の裂け目の通路スィーク(Siq)を抜けると、突如その姿を現します。砂岩で作られたその繊細で緻密な遺跡が訪問者を待ち受け、実際に訪れるとその大きさやその赤さに圧倒されます。前に佇むラクダたちからも趣深さが窺え、エル・ハズネの印象をより深いものにしてくれます。


夜には「ペトラ・ナイト」が催されます。西遊旅行のツアーでは皆さんにもご参加いただき、ろうそくの火に照らされたエル・ハズネの一層赤い姿をご覧いただきます。現地の方々が民族音楽を演奏してくれます。
皆さんもその音色を聴き、紀元前の空気に浸りに出掛けませんか。

ペトラバイナイト■DSC_4018

▲夜のペトラをご覧いただくには「ペトラ・ナイト」に行くしかない!美しい赤の世界をお楽しみください。

▼ツアーの詳細は西遊旅行ホームページをご覧ください。
http://www.saiyu.co.jp/itinerary/new/GEJO12/index.html


arima_saiyu at 09:00|Permalink

2016年05月16日

写真展「シリア 1998 かけがえのない日常」

日曜日、東京・谷中銀座で開催中の写真展「シリア 1998 かけがえのない日常」を見てきました。

tetsuokusama (5)
入口の看板。賑わう谷中銀座商店街の入口から左手にすこし進んだところにあります。

写真家の草間徹雄氏は、アジアの少数民族居住地域や、中国南西部、インド北部などのチベット文化圏を中心に各国を訪れ、「異郷」をテーマに雄大な自然やそこに暮らす人々を温かい視線で捉えた貴重な作品を発表しておられます。

今回も、展示された写真には、シリアの人々のなにげない生活風景や笑顔が切り取られています。

tetsuokusama (3)
草間徹雄氏。

しかし、いつもの写真展と違うのは、この写真達が18年前に撮られたものだということです。
そして、今、シリアは2011年から続く騒乱の渦中にあります。

tetsuokusama (2)
現在は大きな被害を受けている、パルミラ遺跡の18年前の姿。

テレビのニュースでは、破壊された遺跡や、嘆き悲しむ人々の姿ばかりがクローズアップされます。
しかし、18年前の写真を見ていると、そこにはかつて私たちと同じような日常があったのだということ、そして今も日常が続いているのだということを思い知らされます。

tetsuokusama (4)
草間氏がアレッポの街角で出会ったおじさんの笑顔。

「写真の中で笑っていた人達が現在どのようになっているのか想像するしかないのですが、あの時このような日常があっただということ確かです。皆さんに是非見ていただき、シリアの皆さんが平穏な生活が戻ることを祈りたいと思います。」

谷中銀座での展示は明日火曜日まで。今日・明日とも草間氏は在廊予定とのことです。
また、その後は茨城県古河市で同内容の展示があります。
是非、ご覧になってみてください。

詳しくはこちら

text by Megumi Nakatani

staff_saiyu at 10:37|Permalink

2015年06月17日

暗殺教団 アラムート城へ!

11世紀、イランの山岳地帯に暗殺を旨とする教団が存在したのをご存知でしょうか。
彼らが拠点としたアラムート城へ、この5月にいってきました。その時の様子を、写真を載せてご紹介します。

アラムート城までの基点となるガズウィーンの町はテヘランから160kmほど。そこからどんどん標高を上げて2,330mの峠を越えていきます。舗装道路が続いてはいますが、ヘアピンカーブの多い山道が続いて、羊を放牧している光景が見えました。峠から少し下った小さな町でタクシーを頼み、チェスで暇つぶししていたドライバー達を集めて4台に分乗して進むことにしました。

DSCF3076

















【きれいな舗装道路が続いています】

DSCF3075

















【100頭以上いるでしょうか。羊も放牧されています】

DSCF3079

















【カーブの続く山道は遠くまで見渡せました】

ガズウィーンからおよそ2時間前後、くねくねのこの道を進んだ先にアラムートの砦が見えてきます。周辺のエルブルース山脈から独立した岩峰の頂上にその城は見えます。

DSCF3090






















【写真のちょうど真ん中にある岩山の上に小さく見えるのがアラムート城です】

アラムートの城砦は天然の岩山の上にあり、まずは麓にある食堂で食事した後、歩き始めました。ちなみにここのチキンケバブは柔らかくてとても美味でした。

IMG_5422

















頂上までは通常30分ほどで到達できるようです。その途中15分ほど歩いた場所に休憩箇所がありますので、そこで小休止。麓からここまではロバを片道3ドル程で手配する事ができるようです。この休憩箇所からは500段ほどの石段が続きます。砂利が多い坂で滑りやすくなっています。

DSCF3159
DSCF3155
DSCF3158【写真左と次の写真:直立した岩山を回りこむように石段が続いています】











































【写真左:遠目ですがロバで登ってくる人もいるようです】





















城は現在修復用の足場やトタン屋根が掛けられていて近づくと見栄えが悪いのは残念でした。しかし眼下の景色は素晴らしく、エルブルース山脈の雪山も遠くに見えます。山脈からの小川がいくつも流れ、そこからの灌漑用水によって作物を多く育てている様子が見て取れます。かつて暗殺教団を創始したハサンが、穀倉地帯といえるこの地を選んだ理由に納得がいきます。遺跡としては世界遺産の暫定リストに入っているらしく、英語の看板もサイト毎に掲示されていました。アーチの残るモスク跡、小部屋、また特にこの山の頂上に掘られた井戸も3つほど残り、掘った当初は水が出なかったのですが運良く1年後に起こった地震で湧き出してきたといいます。カナダからの体の大きなインド人グループも大変そうにしながら登ってきていました。同じ道を下山、麓ガズウィーンまで戻りました。

DSCF3137 【このような井戸の跡が3つも残ります】
















DSCF3131【頂上に残る住居跡、周りの景色もすばらしいです】















DSCF3140【かつてのモスク跡】



















アラムート城と暗殺教団
ペルシャ全域に支配を広げていたスンニ派のセルジューク朝と同じスンニ派で、バグダッドに都を置くアッバース朝の圧政に不満を持ち、宗教家を目指していたハサン・サバーフはカイロに渡ります。当時シーア派でイスマイリー派(古代ギリシャの哲学者の著作から議論の方法を学び、異端とされていました)を国教としていたファーティマ朝で勉強しました。イスマイリー派の秘儀を伝授したハサンはペルシャに戻り、布教を始めます。啓蒙された信者を異端とみなしたスンニ派のカリフや宰相等は、教団信者に迫害を強めていきます。これに少数の僧兵や領民の蜂起で対抗するのですが、戦力にはやはり限界があり、いつも多勢に無勢なハサンはピンポイントで敵対勢力の要人を狙う、暗殺というテロを国家的なスケールで組織化して対抗しました。これが暗殺教団の始まりです。1090年にハサンはエルブルース山脈の支脈ハウデガーン山の麓の単独峰アラムート山に、上で写真に載せたような強固な山城を築き、地下には貯水池や穀物、ワイン、蜂蜜などの膨大な貯蔵庫、さらに寺院、図書館などを構築して、セルジューク朝の強敵を相手に数ヶ月に亘る篭城で耐え忍んで生き延びることが出来たほどの自治領国家を誕生させました。1256年モンゴル帝国の西方司令官フラグによって落城させられるまでの160年間に現在のイラン、シリア領内に実に300余りのこの教団の砦が存在したといいます。


アラムート城へ、ケバブを食べて登ってみませんか!?
西遊旅行新企画 ペルシャからアナトリア 悠久の歴史遺産を訪ねて

otomo_saiyu at 08:00|Permalink

2014年10月27日

「早春のペルシャ」発表!

こんにちは。大阪支社の中田です。

今回は、メソポタミアの聖なる都市「チョガザンビル」をご紹介させていただきます。

IMG_2736


紀元前13世紀の中ごろ、エラム王国の黄金時代に国王ウンタシュ・ガルの命令により
建設が開始されました。
この都市は、当時のエラム語で「ドゥール・ウンタシュ(ウンタシュ王の城塞)」と呼ばれ、
首都スーサを守る聖なる場所としての役割がありました。

IMG_2734


紀元前640年頃にスーサがアッシリアにより陥落し、このジグラットも破壊されます。
遺跡の中央には保存状態の良い世界最大級のジグラット(階段状ピラミッド)が
残っており、当時の壮大な姿を想像することができます。
遺跡に刻まれたエラム語の楔形文字や、世界最古と言われるアーチは今でも
はっきりと確認することが出来ます。

IMG_2753


IMG_2751



1951年から1962年に実施された考古学調査によって遺跡の全貌が明らかになり、
ジッグラトが世界中のどこよりも保存のいい状態であると考えられるようになると、
1979年、イスファハンのイマーム広場やペルセポリスと共にイランで最初の世界
遺産に登録されたました。


また、この度、ベストシーズンを迎える春のイランツアーを掲載した「早春のペルシャ」
パンフレットを発表させていただきました。

ペルシャ表紙



ご紹介しましたチョガンザビルは、パンフレット掲載の全てのコースで訪問いたします。
この機会に是非、イラン旅行をご検討下さい。



西遊旅行で訪れるイランのツアーはこちら

●初めてのイランにおすすめ 「ペルシャ歴史紀行 11日間」
●イラン再訪の方におすすめ 「イラン北西部周遊」
●一度でイランの全てを訪問! 「大ペルシャ周遊」

nakata_saiyu at 09:46|Permalink

2014年02月14日

イラン北西部周遊 一部コース1万円値下げしました!

大阪支社の米谷です。
今日は春、ベストシーズンを迎えるイラン北西部の旅をご紹介します。
まず最初に、4/10発、5/8発の2つの出発日の旅行費用を308,000円から
298,000円へ1万円値下げいたしました!

4/10(木)~4/21(月)12日間 308,000円→298,000円!
5/8 (木)~5/19(月)12日間 308,000円→298,000円!

イランというと、まず最初に思い浮かぶのは古都イスファハンやペルセポリス遺跡かもしれません。しかしながら、イランの北西部には7つもの世界遺産が残り、イランを知る上で非常に重要な場所なのです。また、ザグロス山脈の自然、そこで生活を営む人々の暮らしも垣間見ることができ、遺跡と自然と暮らしを楽しむことができる魅力あるツアーでもあります。

イラン北西部周遊で訪れる世界遺産をいくつかご紹介していきましょう。

■チョガザンビル遺跡(1979年世界遺産登録)
エラム王国時代の宗教の中心地。1935年油田を調査している途中に偶然発見されました。エラム王国の遺跡の中では一番保存状態の良いジグラット(階段状ピラミッド)は当時の3分の1ほどまではっきりと残っていて当時の壮大な姿を想像することが出来ます。ジグラットは宗教儀式に使われており、当時50メートルの高さを誇っていたとされている頂上部分には寺院がありエラム人の最高神を祀っていたそうです。
チョガザンビル


■シューシュタルの水利施設(2009年世界遺産登録)
サーサーン朝時代、近くを流れる川がシューシュタル周辺の農業の発展に貢献し、サトウキビなどの農産物が生産されるようになりました。サーサーン朝のシャーであるシャープール1世は、ローマ帝国皇帝ウァレリアヌスを打ち破った際に、ローマ人捕虜を用いて、カエサルの橋と呼ばれる 550 m の長さに及ぶ巨大な橋梁・ダムを建設させました。また、周辺に張り巡らされた水利網を ガナット と呼び、河川とため池や建物とを結び、シューシュタルの町に水を供給するシステムを構築したのです。
シューシュタル 


■タフテ・スレイマン遺跡(2003年世界遺産登録)
遺構は直径約100メートル、水深約100メートルの火口湖を中心に建てられている。ソロモン王の玉座という意味で、ササン朝時代に造られたゾロアスター教(拝火教)の神殿などが残っています。サーサーン朝はゾロアスター教を国教と定めていました。アッバース朝時代の歴史家タバリーが『諸使徒と諸王の歴史』で述べる宗教都市シーズ、後代のゾロアスター教文書に言及されるサーサーン朝の国家的最重要拝火壇のひとつ「アードゥル・グシュナスプ聖火」が、このタフテ・スレイマン遺跡であった可能性が高いと考えられています。
タフテスレイマン

タフテスレイマン遺跡


■聖タデウス教会(黒の教会) (2008年世界遺産登録)
十二使徒の一人である聖タデウスは、福音を広めている途中で殉教しました。タデウスはアルメニア使徒教会によって崇敬され、伝説によると聖タデウス修道院の創建は68年に遡るとされています。1319年の大地震により建物に大きな被害があり、1329年に再建されました。現在残る建物の多くはガージャール朝時代の王子アッバース・ミールザーが19世紀初頭に修復を行ったものとされています。黒の教会という名前の由来は、最初期の建築に用いられた石の色が黒色だったこと来ているという説が有力である。
聖タデウス教会


■タブリーズのバザール(2010年世界遺産登録)
古くから隊商の交易路としての役割を果たしてきてたタブリーズ。バザールは、そのタブリーズの中心街に残っています。金や宝石を取り扱うアミール・バザール、ペルシャ絨毯を扱うモッザファリーエ・バザールなどさまざまな物品を取り扱う複数のバザールが連なっている。現在でも、イラン北西部の経済の中心地として機能しており、2010年に世界遺産に登録されました。
タブリーズのバザールタブリーズのバザール


これから春を迎えるイラン北西部。野花が咲く美しい季節を向かえます。
天気が良ければアルメニアとの国境に近いマクーより、大小のアララット山を展望するチャンスも!

野花咲く春の北西部
春、野花咲くイラン北西部の風景

ケシの花畑
一面に咲くケシの花畑

放牧の風景
のどかな山岳部ならではの放牧風景

歴史だけでなく、豊かなイランの自然、放牧しながら生活を営む人々の暮らしと、魅力溢れるイラン北西部へ、是非お出かけ下さい。

西遊旅行で行くイラン北西部の旅 2014年
「イラン北西部周遊」 詳細はこちらをクリック 

yonetani_saiyu at 11:16|Permalink

2013年09月03日

LEBANON-レバノン・フェニキアの魅力-

今日は、私の大好きな国・レバノンについてご紹介します。

レバノンは、日本の岐阜県程の小さな国です。
しかし、その中には深い歴史とたくさんの魅力がつまっています。

国旗


レバノンは…
ビールとワインと料理が美味しく…
美男美女が多く…
そして幾つもの異なった宗教・宗派がいづれも多数派を形成することなく国家内で共に暮らす…
不思議な国です。

マス料理
[新鮮な野菜とオリーブオイルをふんだんに使うレバノ料理、その美味しさはアラブ一と謳われる]

レバノンについてお話したいことはたくさんありますが…

今日は、

「この国ほど、大昔から歴史の舞台に登場し、一度も消え去ったことがない、
世界の歴史にこれほどの影響力を持ってきた国は他にはないだろう。(P.K.ヒッティ)」

そう言わざるをえない理由を作った
「フェニキア人」についてお話したいと思います。

ブロンズ兵士像
[フェニキア時代の神殿より発掘されたブロンズの兵士像(ビブロス遺跡出土)]

紀元前3000年頃、現在レバノンと呼ばれる地域に住んでいたのは、
「カナン人」というセム語を話す人々でした。
彼らのうち、ギリシャと貿易をした人々はギリシャ人から「フェニキア人」と呼ばれました。

彼らは、地中海を舞台に盛んな海上交易を行った民族で、
西は北アフリカ・イベリア半島にまで進出し、当時の地中海の覇権を握っていました。

彼らが取り引きしていたのは、貴金属やブドウ酒、美しい紫色の染料、
そして彼らの故郷の海岸の背後に聳える山々から切り出される「レバノン杉」です。

フェニキアの巻貝
[紫色の染料がとれる巻貝(「フォニケス」といい「フェニキア」の語源になったともされる)レバノンの海岸で
獲れ、非常に高価な値段で取り引きされた]


レバノン杉は、その木目の美しさと腐りにくさで、建築資材として最適であり、
当時の支配者たちはこぞってこの木材を欲しがりました。

レバノン杉
[古代からの乱伐で現在は保護区に僅かしか残っていないレバノン杉、世界の文明はこの森を
伐り出しながら繁栄した]


旧約聖書にはソロモン王が宮殿内部を全てレバノン杉で装飾したと書かれています。
そして、エジプトのツタンカーメンの棺や太陽の船もこのレバノン杉で作られています。
アレキサンダー大王の無敵艦隊もペルセポリスの石造建築の梁材もレバノン杉でした。

またレバノン杉から抽出された樹脂はミイラの防腐剤として使われました。
このため、古代よりエジプト王朝とフェニキア人は盛んに交易を行っており、深い関係にありました。
多くの発掘品にその証拠が残っています。

オベリスク神殿
[エジプトとの関係を物語る、エジプトから送られた大量のオベリスクが残る神殿跡]

このレバノン杉を主要な交易品として、地中海で活躍したフェニキア人。
彼らが運んだものの中で、最も偉大なものといえば、それは「アルファベット」でしょう。

アルファベットという12個の符号を発明し、西方に伝えたのは彼らなのです。
フェニキアの貿易商人が用いていた「フェニキア文字」が、ヨーロッパと中東をまたいで、
「アルファベット」として進化し、世界に広められていきました。

アヒラヒム王の石棺
[最古のアルファベット・フェニキア文字が刻まれた石棺(ティール遺跡出土)]

アルファベットと共に彼らによって伝えらえたものは他にもあります。

レバノンは、当時、メソポタミアとエジプトという二大文明の間に挟まれており、
それでいて地中海と接しているという環境でした。
文明の揺籃期に重要地点にあり、それが西方へのアクセスを持っていたのです。

つまり古代文明の産物は、
物質的なものも
精神的なものも、
ここへ運ばれ、ここから西方へ伝えられていったのです。

文明者たちの思想や神話や知識を地中海の寄港地に運び、
それがギリシャ文明の黄金期、ひいては西欧文明の誕生にもつながったと言っても過言ではないでしょう。

彼らはまた、パピルスも取り引きしており
彼らの記録はパピルスに残されました。
そのため、皮肉なことに文字の発明者である彼らの記述は、腐食し、現存しません。
彼らを知る手がかりは僅かな発掘品と、
その痕跡はローマやイスラムといった後の征服者たちの遺跡のさらに深く下に眠っています。

ビブロス
[パピルスの語源となったとされるビブロスの街、高度な航海技術を持っていたとされるフェニキア人は
この海から遠くスペインまでの航海にくりだしたに違いない]


そんな僅かな手がかりにロマンを求めて、
彼らが地中海へと繰り出した港から同じ大海原を眺めに、
レバノンの旅へ出かけてはいかがでしょうか。

▼西遊旅行で行くレバノンの旅
レバノン一周  レバノン杉の森や数々の歴史遺産が残るレバノンを巡る8日間の旅


バッカス神殿①
[レバノンを代表する遺跡・バールベック、ナイル川とメソポタミアを往来していた隊商たちが通る重要な交易路上に建てられている。]


sasaki_saiyu at 18:00|Permalink

2013年08月23日

ヨルダン アラビアのロレンスの砂漠 ワディ・ラムWadi Rum

ワディ・ラム (4)

ヨルダンの南の砂漠、ワディ・ラム。

ワディ・ラムが有名になったのは「アラビアのロレンス」として知られるT.E.Lawrenceが1917年、オスマントルコの支配からアラブ同盟の独立を目指してファイサル国王とともに行った「アラブの反乱」の舞台の一つとなったことでした。ラクダと馬に乗った騎馬隊がワディ・ラムの砂漠を走り出撃しアカバを攻略、そして北上しダマスカスを目指しました。

一見荒涼とした大地に見えるワディ・ラムの砂漠は現在もベドウィンの人々により使用される薬草が育ち、雨の後には200種を越える草や花が芽吹きます。砂岩の岩山には鳥や爬虫類、ハイラックスなどの小動物が暮らしています。井戸や泉が点在し、先史時代より人が住み、ギリシャ・ローマ時代には葡萄やオリーブ、松の木があったという記録も残されている砂漠。砂岩の岩肌にはアラビア半島南部からやってきた部族やナバタイ人の文字が刻まれてきました。

ツーリストが訪れるワディ・ラムの砂漠は、砂岩の岩山の大地を四輪駆動車で走り、砂岩のアーチ、岩刻画などを巡るちょっとしたアドベンチャー。

ワディ・ラム (9)
砂岩のアーチのひとつ

ワディ・ラム (3)
アラビア半島から北上しこの砂漠を行きかった人々による岩刻画が残されています。

ワディ・ラム (5)
雨と風による浸食を受けた砂岩の岩山

ワディ・ラム (2)
規模は小さいですが砂丘も。砂の上にはラクダの足跡発見。

ワディ・ラム (6)
ツーリストを載せて歩くラクダたちとベドウィンのおじさん。シーズンになるとラクダも足りないほど賑わうことも。私が訪問した7月はオフ・シーズン、ラクダものんびりしたものでした。

ワディ・ラム (7)
岩山の麓にはベドウィンのテントが建てられツーリストを待っていました。

ワディ・ラム (8)
暑い砂漠で暑いミントティーをいただき!(西遊インディアで勤務中の川口佳代さん)

ワディ・ラム
ワディ・ラムを巡るには四輪駆動車のジープ・ツアーに参加するのが一般的です。2時間位のものから一日子コースまで様々。ほとんどの四輪駆動車がピックアップの荷台に座席をつけたタイプのアドベンチャーなものです。

日よけになる帽子、ほこりよけのスカーフやマスク、日焼け止め、サングラスもご用意ください。

ワディ・ラム (1)
ワディ・ラム 浸食された砂岩の岩山が連なる砂漠。この南は紅海、そしてサウジ・アラビア。

文・写真 Mariko SAWADA 澤田真理子

西遊旅行のヨルダンの旅 添乗員同行ツアー
「王の道が貫く砂漠の国 ヨルダン」
西遊旅行のヨルダンみどころMAP 

sawada_saiyu at 10:40|Permalink

2013年08月17日

ペトラ・バイ・ナイト PETRA BY NIGHT

ペトラ・バイ・ナイト (1)

ヨルダン、ペトラの夜。

神秘的なまでのペトラ遺跡で夜を過ごしたい・・・という人も多いはず。ユネスコの世界遺産でもあり管理のしっかりしたペトラ遺跡は日没までに遺跡から出なくてはなりません(夏は19時、冬は17時)。

夜のペトラ遺跡を楽しむ方法がペトラ・バイ・ナイト。毎週月・水・木曜日の夜に行われています。シクを歩いてエル・ハズネまで往復するためおよそ2時間かかりますが、昼間とは違う幻想的な光景に時間を忘れるほどです。

ペトラ・バイ・ナイト (6)
夜20:30頃ペトラ遺跡のメインゲートに集合。ここから歩き始めます。遺跡のメインゲートからシク、そしてシクの内部もろうそくのあかりでライトアップされます。

ペトラ・バイ・ナイト (8)
岩の回廊となっているシクへ入ります。紙に包まれたろうそくの明かりが優しくシクと照らし、エル・ハズネ宝物殿へと導きます。

ペトラ・バイ・ナイト (2)
いよいよ、エル・ハズネへ到着。昼間に訪れた時の美しさにも息をのみましたが、ろうそくの明かりで照らし出されたエル・ハズネの出現はもうひとつのペトラの幻想。美しいです。

ペトラ・バイ・ナイト (5)
エル・ハズネに集まったツーリストにベドウィンのミントティーが振る舞われ、静寂の中ベドウィンの音楽が岩山に響き渡ります。

ペトラ・バイ・ナイト (3)
そして最後にはしっかり記念撮影の時間も。ショータイムが終わると、それぞれ記念撮影をして来た道を戻っていきます。人がいなくなってからの記念撮影をしようとして待っていると、ろうそくの片付けが始まってしまいました。

朝からのペトラ遺跡見学、午後のエッディール僧院登り、そして夜のペトラ・バイ・ナイト。
充実という言葉を通り越したペトラ満喫の一日です!

文・写真 Mariko SAWADA 澤田真理子

※情報は2013年8月現在のものであり、訪問の際には最新の現地事情をご確認ください。

西遊旅行で行くヨルダンの旅(添乗員同行ツアー) ホテルも訪問地も厳選・ヨルダンを満喫する旅
王の道が貫く砂漠の国 ヨルダン8日間

sawada_saiyu at 17:39|Permalink

2013年04月05日

トルクメニスタンの至宝・メルヴ遺跡

こんにちは。大阪支社の米谷です。

シルクロードのベストシーズンが近づいており、今年も3月から続々とツアーが催行決定しております。
新たに発表した「地獄の門と奇跡の大地」のコースが好評をいただいていますトルクメニスタンですが、今日はメルヴ遺跡をご紹介したいと思います。

DSC00959
メルヴのシンボル 大キズカラ

メルヴはマリ市の北約25kmほどに位置しています。広大な土地に様々な遺構が残るこのメルヴ遺跡。その中心はエルク・カラ、ギャウル・カラ、スルタン・カラと呼ばれる遺跡で、エルク・カラにはアケメネス朝以前から集落があったと考えられています。四世紀頃にはこのメルヴにゾロアスター教、仏教、キリスト教の寺院が建設され、様々な宗教が混在していたとも考えられています。

DSC03811
広大な敷地に遺構が残るギャウル・カラ

私たち日本人にもなじみの深い仏教は1世紀頃にメルヴに伝わり、3世紀頃には仏塔が建てられたと言われています。現在でもこのメルヴ遺跡のギャウル・カラ南東部に仏塔の跡と考えられる遺構が残っており、世界で最も西の端にある仏教遺跡と言われています。また、8.5cmの仏像の座像と土器に入った経文が発見されています。
仏塔の跡
≪かつての仏塔の跡≫

メルヴのシンボルともなっている建物がキズ・カラです。大キズ・カラ、小キズ・カラの2つの建物が残っており、これは当時の領主のお城と考えられています。キズ=乙女 カラ=城という意味で、ササーン朝時代の7世紀頃に建設され、セルジューク朝の時代にも利用されていました。周囲を巨大な城壁で覆われており、メルヴ遺跡の中ではひときわ目立った存在です。

大キズカラ
≪大キズ・カラ≫

大キズカラの内部
≪大キズ・カラの内部≫

メルヴは11~12世紀に最盛期を迎えたと考えられており、その当時東セルジューク朝のスルタン・サンジャルが統治していたと考えられています。このサンジャルの霊廟がメルヴ遺跡のスルタン・カラに残っています。1140年に建てられ、その後、モンゴル軍の進行や地震による破壊を耐え抜き、現在でもその姿をとどめています。当時の建築技術の高さが伺い知ることができます。
スルタンサンジャール廟
≪スルタン・サンジャール廟≫

中央アジアの中ではまだまだ日本では馴染みの少ないトルクメニスタン。シルクロードの歴史が好きな方にとっては大変興味深い国のひとつです。これから春のベストシーズンに突入し、5月17日発「カラカルパクスタンとトルクメニスタン」のコースは催行決定となりました。

是非、ご検討下さい。

●ツアーの詳細はこちら
カラカルパクスタンとトルクメニスタン

中央アジアの見所はこちら









yonetani_saiyu at 21:05|Permalink

2013年03月15日

「緑の街」シャフリサブスで結婚式に遭遇しました!

今年も好評いただいてます、西遊旅行のウズベキスタンツアーは、これからシーズンを迎えます。

ウズベキスタンはホラズム王国の都ヒヴァや「青の都」サマルカンド、隊商都市ブハラなど、中央アジア5カ国の中でも屈指の見所満載の国です。今回はサマルカンドからブハラまでの移動の途中に見学いたします、シャフリサブスの街をご紹介します。

サマルカンドがその壮麗な建築物の色から「青の都」と呼ばれているなら、シャフリサブスは名前が「緑の街」という意味です。この地域もほかのウズベキスタンの地域同様乾燥していて、土漠に囲まれていますが街に近づくとポプラ並木や牧童が羊やヤギなどをつれている緑のまばらな牧草地も広がります。ティムールが活躍した700年ほど前はもっと緑が広がっていたのでしょうか。

ツアーではサマルカンドを朝出発して、5時間ほどでティムールの故郷であるこのシャフリサブスへ入ります。ティムールはシャフリサブス近郊の小さな村で生まれました。アクサライ宮殿はティムールの夏の宮殿で、彼が残した最も壮大な建築物ですが、現在は宮殿入り口のアーチのみが残ります。ホラズムの職人たちを移住させて1380年にはじめ1404年になって完成したという巨大な建築であった。現在はその門にだけその壮大さがみてとれる。中央部のアーチ部分は破壊で落ちてしまい左右にその巨大なフレーム分かれた形でありますが、高さは現在38m。それでも十分すぎるほど大きいのですが、中央のアーチ部分があった当初は65mとも言われています。残された門には青のアラビア語のカリグラフィーと幾何学文様がきれいにみてとれました。


IMG_6152画像 081


宮殿の中心だった所には現在ティムールの立像があり、ちょうど訪れたとき、隣の結婚式場から出てきた数組のカップルがこの立像の前で記念写真を取っていました。炎天下の中、大音量を響かせながらお祝いしてくれる親戚に囲まれながら、恥ずかしそうに歩いていく花嫁の姿が印象的でした。

CIMG8417IMG_1026

CIMG8421












西遊旅行で行く「文明の十字路ウズベキスタン」はこちら!

ひとりで自由気ままに、シルクロードへ。個人旅行で行くウズベキスタンはこちら!


otomo_saiyu at 19:29|Permalink

2013年02月21日

古都イスファハン

こんにちは。大阪支社の中田です。

年末年始にかけて訪れたイランのなかで、最も印象的な都市の一つ、イスファハンをご紹介させていただきます。

「イランの真珠」と例えられるイスファハンは、サファヴィー朝時代に首都として定められ、
発展してきました。
シルクロードでも重要な位置を占め、経済・文化の中心として繁栄してきました。

中でもイマーム広場は、イランと聞いてイメージする景色ではないでしょうか。
ここは、その広さと美しさから「世界の半分」と称えられたほどでした。


IMG_2156


実際に訪れても、まずはその広さに驚きます。
大きな噴水を囲むように、宮殿、モスク、スークが立ち並んでいます。

アリカプ宮殿では、内部の階段を登り、テラスから広場が一望できます。


IMG_2147


また、宮殿内部の最上階は、かつて音楽鑑賞室として使われており、
ミニアチュールで飾られている天井は、音の吸収を効果的にする為に計算して
造られました。


IMG_2152


完成まで17年かかった、マスジェデ・シェイフ・ロトゥフォッラーは、
ドーム全てのモザイク画の美しさが印象的です。

IMG_2161


光の差し込み加減で、天井には孔雀が羽ばたいている様子が伺えます。

IMG_2178

IMG_2175



スークはお土産物から、生活雑貨まで、幅広い品ぞろえの店が立ち並び、現地の人も多く
訪れています。


IMG_2141IMG_2227








「ペルシャ歴史紀行」では、広場の見学をお楽しみいただき、夜景も鑑賞いたしました。

IMG_2248IMG_2236







アザーンの鳴り響く中、夜空に浮かぶ青いタイルは、お昼に見る景色とは異なる幻想的なものでした。


総合ツアーパンフレット133号では、4月以降のコースも発表させていただきました。
既に4月コースも催行が決まり、5月出発も催行間近となっています。
4,5月は春のベストシーズンとなるイラン。是非、ご検討ください。

西遊旅行でゆくイランのツアーはこちら
●ペルシャ歴史紀行 11日間

nakata_saiyu at 09:00|Permalink

2012年11月01日

サマルカンド 3つの歴史

こんにちは、東京本社の近藤です。


先週のタシケントに続き今回は、ウズベキスタンの代表的な観光地サマルカンドを紹介します。


【サマルカンド】
現在の首都はタシケントですが、サマルカンドはその歴史的背景からタシケント以上に重要な役割を果たしているのではないでしょうか。

古くはアレクサンダー大王、三蔵法師、チンギス・ハーン、そしてティムールと…多くの偉人がサマルカンドを訪れました。


120914文明の十字路ウズベキスタン 231

《ティムールの生地はここから180Km離れたシャフリサブス近郊の村ですが、活動の中心はサマルカンドでした》

サマルカンドは大きく分けて3つに分かれ、それぞれ異なった歴史から産まれました。


【アフラシアブの丘】
サマルカンドのルーツはここにあります。始まりはイラン系住民がオアシス都市としてここに街を起こしました。

そして、現在のギリシャから中近東を勢力下に置いたアレクサンダー大王がこの地にやってきました。サマルカンドに住んでいたソグド人は果敢に抵抗し、その抵抗振りはアレクサンダー大王の部隊の内部崩壊を起こさせるほどでした。


120914文明の十字路ウズベキスタン 228120914文明の十字路ウズベキスタン 220
《写真左:アフラシアブの丘。この荒野には数多くの歴史が眠っています》
《写真右ソグド人の壁画。現在は考古学博物館に展示》


三蔵法師も天竺を訪れる際にここを訪れています。

更なる発展を遂げようとしたその時、東の空からやって来たチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国の大群がこの街を破壊・略奪行為を行い、それは容赦のないものといわれました。

今の街はここには再建されずに今日に至ってます。元々あったこの街の上に考古学博物館と遺跡の発掘跡、そして悠久の彼方にあった歴史の断片だけが残っています。


【旧市街】
チンギス・ハーンに破壊された後、この街は野ざらしにされていました。

そして、忘れさられようとした時に、英雄はやってきました。その名はティムール、サマルカンドをティムール朝の首都に置き、イスラム世界各地から連れ帰った職人・建築家を総動
員させ、世界に名だたる大都市を造り上げました。


中央アジア最大のモスク「ビビハニム・モスク」、ティムールの眠る「グル・エミル廟」は
この頃に建設されました。

IMG_0861
  
《写真左:ビビハニム・モスク。写真だけでこの大きさが伝えきれないのがとても悔しいです…》




120914文明の十字路ウズベキスタン 042
IMG_0988

《写真中:外観ではとても墓には見えないグル・エミル廟。中は黄金色に輝いています》
《写真右:ウルグ・ベク天文台の六分儀の遺構》


造り上げたのは街だけではありません、彼の孫にあたるウルグベクは、年間通して爽やかな
天候に恵まれたこの地に天文学を発達させました。それがウルグ・ベク天文台です。

旧市街の一角に商業の中心として栄えた場所があります。そこが「レギスタン広場」であり
、ウズベキスタンといえば真っ先にレギスタン広場を想像されると思います。ティムール帝
国没落後も中央アジアの中心都市として機能しました。


120914文明の十字路ウズベキスタン 063 120914文明の十字路ウズベキスタン 071  《写真左:レギスタン広場。広場になったのは17世紀。神学校に囲まれ、今は市民憩いの場となっている》
《写真右:シェルドル・メドレセのアーチに描かれたライオンと日光。偶像崇拝が禁じられたイスラム教では珍しい》



【新市街】
サマルカンドはその立地から様々な民族からの侵略を受けてきました。
歴史上一番新しい侵略者とされるロシア人によって占領され、帝政ロシアの植民地としての
道を歩むこととなりました。しかし住民達の抵抗に遭い、旧市街に街を造らず旧市街とは異
なる新市街を造り出しました。
広く拡張された道路の脇には沢山の緑あふれる木々が植えられています。そして、建物も欧
風建築でウズベキスタンとは思えない雰囲気をかもし出しています。

120914文明の十字路ウズベキスタン 233120914文明の十字路ウズベキスタン 229  《写真左:帝政様式の建築物が数多く残る新市街》
《写真右:他の旧ソ連の例に漏れず整然とした道が広がります》



サマルカンドは数多くの偉人や民族によって崩壊と再建を繰り返し、民族も町並みも建築物もバラエティに富み、私の中に強く焼き付いています。


▼文明の十字路ウズベキスタン

kondo_saiyu at 19:41|Permalink

2011年08月17日

バイブルの語源となったビブロス遺跡(レバノン)

こんにちは。大阪支社の米谷です。
今日はレバノンの遺跡の中でバールベックについで有名なビブロス遺跡をご紹介します。

ビブロス遺跡はもともとフェニキア人によって造られた町。古くは紀元前3000年頃から人が住み始めたと言われています。フェニキア人はレバノン杉で造った船を利用し、地中海交易を支配し、北アフリカ各地にまでその拠点を広げた「海の民」と呼ばれる民族です。

ビブロス遺跡
≪地中海を望むビブロス遺跡≫

アルファベットの元になったフェニキア文字もこの地で発明されたと言われ、アルファベット発祥の地とも言われています。また、ビブロスという町の名前はギリシャ語でパピルスにも由来していると言われています。かつて、フェニキア人によるエジプトとの交易の中で、レバノン杉がレバノンから輸出され、パピルスがエジプトから輸入されていました。そのパピルスがビブロスを経てギリシャに運ばれていたので、ギリシャでは紙の事を積出港の「ビブロス」と呼んでいたそうです。その後、この「ビブロス」という単語から本を表す「ビブリオン」という言葉ができ、さらに聖書を意味する「バイブル」が生まれたと言われています。

十字軍の城塞跡
≪十字軍の砦跡≫

遺跡に入ってすぐに見える建物は十字軍時代の城跡。ここからは古代ビブロスの遺跡、現在のビブロスの町の両方を眺めることができます。

ローマ劇場海に近いところにはローマ劇場があります。十字軍時代に砦の建設のため、たくさんの石がここから利用され、現在では5段の客席とステージしか残っていません。






オベリスク神殿十字軍の城の南側にはオベリスク神殿があります。紀元前18世紀にビブロスの王が築いたもので、2~3mのオベリスクが26本立っています。ここからは金が施された多数のブロンズ兵士像が多数発見されています。




地中海を望むビブロス遺跡

現在のビブロスは地中海に面した美しいロケーションです。春の3月~5月には野花が咲き、遺跡に彩りを加えてくれます。

レバノンは岐阜県ほどの大きさしかない小さな国ですが、その中に世界遺産が5つもあり、見所は非常に豊富です。これから秋になると季節も良いベストシーズンを迎えます。是非、秋のご旅行の候補にご検討下さい。

西遊旅行でゆく レバノンの旅 2011~2012
関連ツアー:レバノン一周
WEB写真集はこちら
添乗員レポートはこちら













yonetani_saiyu at 20:17|Permalink

2011年06月01日

トルクメニスタン史跡案内:ニサ

史跡案内の最終回は、ニサです。
首都アシハバードから30分ほどの所にあり、イランとの国境の山・コペット・ダー山脈が一望できる丘にあります。
ここはかつてローマ帝国も震え上がらせた騎馬民族、パルティアの都です。
パルティアは紀元前3世紀から紀元3世紀まで、中央アジアからメソポタミア、イラン、アフガニスタンまで治めた国でした。

パルティアの都は3つありました。イラクのクテシフォン、いまだ所在地がわからないヘカトンピュロス、そしてミトラダトケルテです。パルティアの王、ミトラダテスの名からとったこの町がニサになります。

現在のニサは、イタリアの発掘隊が中心となって発掘を進めています。神殿、貯蔵庫、宝物殿跡などが見つかっておりますが、興味深いのがワインの貯蔵庫です。宝物殿の近くにあり、ワインを流した管も残っています。

DSC03763
ニサ (6)

【写真左:ニサ全景とコペット・ダー山脈】
【写真右:神殿内の柱】

ニサの遺跡からは、沢山の出土品も見つかり、アシハバードの国立博物館に陳列されています。
パルティアはギリシャ文化を好み、ビーナスのような女性像、象牙を使った巨大なリュトンを沢山見ることができます。リュトンはワインを入れて飲んだとも、聖水を入れて神殿に撒いたとも言われています。
パルティアン・ショットという戦法で、ローマ帝国と互角に戦った「野武士軍団」のような反面、華麗なギリシャ文化を好んだところが興味深いです。

画像 273
画像 271

【写真左:象牙製のリュトン】
【写真右:女性像】

また、中国の文献では「安息国」として登場します。中国で初めて紹介された中央アジアの国でもあります。

以上四回に渡って、トルクメニスタンに残る史跡をご紹介させていただきました。
西アジア史上、かかすことのできない場所ばかりで、古くから文明が興り、メソポタミアとインド、中国を結ぶシルクロード上にあったため、多くの王朝、国が都を置いた場所であることがわかります。日本ではまだまだ馴染みの薄い国ですが、歴史の浪漫漂う、「シルクロード」を体現している国です。皆様も是非、ご自身の足でシルクロードに立ってみてください。

関連ツアー
中央アジア世界遺産紀行
シルクロードⅠ 中国・西域から中央アジア、イラン高原へ

関連ブログ
「戦場の捨てぜりふ」アルサケス:トルクメニスタン

yamada_saiyu at 09:30|Permalink

2011年05月26日

トルクメニスタン史跡案内:クニャ・ウルゲンチ

今回は、クニャ・ウルゲンチをご紹介します。

ウズベキスタンには、ウルゲンチという町があります。クニャとは「古い」という意味で、ウズベキスタンのウルゲンチができる前にあったウルゲンチという意味です。
では、その昔、どのような都があったのでしょうか。

クニャ・ウルゲンチを都としたのは、ホラズム・シャー朝という王朝でした。時は12世紀から13世紀、中央アジア一帯からペルシャまでを治めた強国でした。

その絶頂期、その後の世界史を揺るがす大事件が、ホラズム・シャー朝の領地であった現在のカザフスタンのオトラルで起きます。

1218年、モンゴルはオトラルに450人の使節団を派遣します。しかし時のオトラル総督のイナルチクは使節団を虐殺し、その荷を奪い、殺さずに残した使節をチンギス・ハーンのもとに送り返しました。
激怒したチンギス・ハーンは翌1219年、大軍団をオトラルに送ります。
オトラルはおろか、ホラズム・シャー朝領にあったサマルカンド、ブハラ、メルブを徹底的に破壊し、ホラズム・シャー朝を滅ぼします。
その後モンゴルは中央アジアのみならず、ヨーロッパまでの大遠征を行うことになったのです。

CIMG8284
DSC03610

【発掘が進むオトラルの遺跡】


世界史に残るこの大事件のきっかけをつくった総督イナルチク、滅ぼされた中央アジアの人から見れば、「とんでもないことをしてくれた」と思われるかもしれませんが、彼はただの略奪目的や私腹を肥やすために事件を起こしたのではないと言われています。
当時、中国の遼を支配下に置いたモンゴルは次の標的を中央アジア一帯と決めており、中央アジア侵攻に備え、中国との最前線にあったオトラルの町を「視察」する名目で使節団を装ったスパイ団を送り込んだのです。
それをイナルチクは見破っており、事件を引き起こしたと言われています。

破竹ようなの勢いでモンゴルの征服が始まり、当時のホラズム・シャー朝の王・アラーウッディーン・ムハンマド・シャーは逃亡中に病死し、このクニャ・ウルゲンチもモンゴルの手に落ちるのです。

クニャ・ウルゲンチには現在、歴代のホラズム・シャーの王の廟や、后の廟、中央アジアで最も高い60mのクトゥルグ・ティムールのミナレットなどが残っています。

画像 222
CIMG8323

【左:クトゥルグ・ティムールのミナレット】
【右:クニャ・ウルゲンチ全景】


画像 228
CIMG8320

【左:第三代王:イル・アルスラン廟】
【右:第六代王:テケッシュ廟】


また、敷地の近くには「クルク・ムッラーの丘」があります。クルクとは40、ムッラーとはイスラム教の聖職者の意で、モンゴル襲来の時に、この丘で40人の聖職者が祈って、大地が割れるという奇跡が起こったと言われています。
この奇跡のためか、現在のクニャ・ウルゲンチは現地の方々の聖地になっており、お墓も沢山あります。

お隣のウズベキスタンは独立後、観光に力を入れるため、ソビエト時代に荒れ果てていたモスクやミナレットなどの建物を、当時のままに復元しました。
しかしクニャ・ウルゲンチのあるトルクメニスタンは、豊富な天然ガスを産出するため、観光以外でも外貨の獲得ができるためか、このクニャ・ウルゲンチの建物の復元はあまり進んでいません。

嵐のようなモンゴル襲来により滅びたホラズム・シャー朝、クニャ・ウルゲンチはその哀愁が漂うような遺跡です。


関連ツアーはこちら

中央アジア世界遺産紀行
シルクロードⅠ 中国・西域から中央アジア、イラン高原へ

関連ブログ
シルクロード英雄列伝「悲劇の王子・ジャラルッディーン」

次回最終回は、ニサです。





yamada_saiyu at 19:00|Permalink

2011年05月13日

トルクメニスタン史跡案内:マルグッシュ

今回は、紀元前2300年前から高度な文明を持っていたマルグッシュをご紹介します。

トルクメニスタン南東部の町、マリから4WDで約2時間半、カラクム砂漠の中にマルグッシュはあります。
ロシア人考古学者のサリヤニーディ教授が航空写真より発見し、1972年から発掘が始まったマルグッシュは、紀元前6世紀のアケメネス朝の時代まで、王宮を擁した大都市でした。

アケメネス朝の時代、近くを流れるムルガブ川が流れを変え水の供給ができなくなったために、人々は町を捨て新しい町メルブへと移り住んだのです。メルブで一番古い史跡はエルク・カラで、アケメネス朝の時代のものです。この時代を境に、ムルガブ川のほとりに栄えた都がマルグッシュからメルブへと変遷したのです。
因みに、マルグッシュもメルブも、その名は「ムルガブ」が由来していると言われています。
DSC00992
DSC00976

【左:マルグッシュ全景】
【右:王宮の内部】


考古学者の説明によると、マルグッシュは世界4大文明に匹敵する高度な文明があったとのことです。
黄河文明は黄河、エジプト文明はナイル、メソポタミア文明はチグリスとユーフラテス、インダス文明はインダスと、大きな川のほとりに栄えた文明という点でも共通しています。
まだ全体の数%しか発掘されていないマルグッシュですが、実際に遺跡には何が残っているのか、見てみましょう。

遺跡のほぼ中心にあるのがゴヌール・テペと呼ばれる王宮です。
王宮内には、王家の墓があり、王族が飼っていた馬や動物が陪葬されていました。また、厨房の角にあった釜戸の跡も残っています。
DSC03188
DSC03173

【左:陪葬された馬の骨格】
【右:厨房跡。中央上に釜戸に残る壷があります】

DSC03192
DSC00985

【左:陶器の数々】
【右:王宮内部】

ここで発掘されたものの多くは、首都アシハバードの国立博物館に展示されています。
今回は、一点珍しいものをご紹介します。
下の写真は、現在のシリアに住んでいたシュメール人の像です。
全身を袈裟のような服で覆っており、ダマスカスの博物館に展示されているシュメール人の姿と同じです。
マーグッシュ出土品(アシュハバード博物館)
【シュメール人の像】


このマルグッシュからシュメール人の像が出土しているということは、当時すでにメソポタミアとの交易があったことを物語っています。
世界地図を見ると、マルグッシュは丁度メソポタミアとインダスとの中間にあることがわかります。
また、中央アジアというと、中国に近いとのイメージがありますが、ここマルグッシュは、中国よりもメソポタミアの方が距離的にも近いことがわかります。


これからも発掘が進み、新たな発見が期待されるマルグッシュには、古代の浪漫がまだまだ眠っていることでしょう。
次回は、クニャ・ウルゲンチです。

関連ツアーはこちら
中央アジア世界遺産紀行
シルクロードⅠ 中国・西域から中央アジア、イラン高原へ



yamada_saiyu at 17:48|Permalink

2011年04月15日

トルクメニスタン史跡案内:メルブ

4回に渡り、トルクメニスタンに残る歴史遺産をご紹介します。第一回はメルブです。

西アジアの都市遺跡の多くは、テパ、テペと呼ばれる大きな丘のようなものがほとんどです。これは、前代の人々が住んだ町の上に、後代の人が暮らし、さらに次の代の人がその上に暮らしていったため、だんだんと高くなっていったためです。
しかしこのメルブは違い、縦ではなく、横に拡張していった珍しい都市遺跡です。そのため70平方キロに渡る広範囲に渡って、様々な年代の史跡が残る中央アジア最大の遺跡になったのです。
メルブに残る史跡を、年代別にご紹介させていただきます。

【エルク・カラ(紀元前6~5世紀・アケメネス朝)】

メルブ最古の場所で、小高い丘です。丘の上には邸宅跡があったと言われています。
エルクカラDSC03811








(左:エルク・カラ全景)
(右:エルク・カラの頂上)

ガイドはいつも「王の邸宅」と説明しますが、正確にはアケメネス朝の総督(サトラップ)の邸宅と思われます。この丘の上からは、メルブ全体が見渡せます。

【グヤウル・カラ(紀元前4世紀から紀元16世紀・(アレキサンダーの時代からティムールの時代】

前述のエルク・カラの横に広がる広大な面積を持つ都跡。メルブの歴史を物語る箇所と言ってもいいと思います。まず、下の写真を見て下さい。これはエルク・カラを囲む城壁の断面です。いろいろな時代に拡張されていったため、沢山の層に分かれているのがわかります。そして中央に見える方形に窪んだ場所は、都を守る衛兵が立った場所といわれています。

DSC00963CIMG6366








(左:城壁の断面)
(右:兵士が立った窪み)

流れ行く時間の中で、様々な民族、宗教がメルブに流れ込みました。
このグヤウル・カラの敷地内には、ネストリウス派のキリスト教会、仏教寺院、イスラム教のモスクなど、様々な宗教施設があったと言われています。ガイドの説明によると、「グヤウル」とは「狂った」という意味で、沢山の宗教が入り乱れていたことに由来すると言っていました。
このグヤウル・カラの仏教寺院からは、下のガンダーラ産の黒い石でできた仏像、白樺の木に書いたサンスクリット語の経典などが出土しました。
実は、仏教寺院は、このメルブから西では発見されていないため、メルブは仏教伝来の最西端という説があります。そのため、ここで出土した仏像は、「最果ての仏像」と呼ばれています。また、下の写真の経典の入っていた壷はメソポタミアの様式で、周りにはある男性の一生が描かれています。

画像 275画像 276








(左:最果ての仏像・アシハバード国立博物館)
(右:経典の入っていた壷:・アシハバード国立博物館)

最後にこのグヤウル・カラにやって来たのは、ティムールでした。イスラム教徒の彼は、このグヤウル・カラのど真ん中に、大きなモスクを建てました。建物は残っておりませんが、下の写真は礼拝の前に身を清めるための水場の跡です。
CIMG6358

                   (ティムールのモスク跡)


【スルタン・サンジャール廟(紀元11~12世紀・セルジューク朝)】

中央アジアからメソポタミア、アナトリア、中東の地中海岸まで支配したトルコ系の王朝。このセルジューク朝もメルブを都としました。最後の王、スルタン・サンジャールはここに眠っています。近年修復が終わりましたが、この修復の援助をしたのが現在のトルコ共和国です。自分達の偉大なる祖先の、偉大なる王の廟と言うこともあり、大々的に修復をしました。
スルタンサンジャール廟







(スルタン・サンジャール廟)





DSC03818

(トルコ政府が立てた記念碑)

また、このスルタン・サンジャールには、「日本の鶴の恩返し」と全く同じ内容の伝説があります。后から見てはいけないと言われていた時間に后を見てしまったため、后は鳥になって飛んで行ってしまったという内容です。この伝説に由来するのか、スルタン・サンジャール廟の天井には、后が飛んで出て行ったという窓が空いています。





【キズカラ(紀元6世紀・ササン朝)】

メルブに残る代表的な建造物で、ササン朝時代の裕福な人の邸宅と言われています。キズ=乙女 カラ=城という意味です。名前にはいろいろな説があり、この裕福な人物が毎晩乙女を呼んで宴会を開いていたためとも、後世のモンゴル襲来の時に、乙女がここに立て篭もり、モンゴルの手に落ちる前に身を投げたためとも言われています。
キズカラは大小二つあり、昔は大キズカラにいる男性が、小キズカラにいる女性に林檎を投げて、うまく到達したら二人は結ばれたというお話も残っています。
DSC00959キズ・カラ (10)

(左:大キズカラ)
(右:小キズカラ)

このように、中央アジアの2000年近い歴史がそのまま史跡として一箇所に残っている場所は、他にはありません。まさに中央アジアの年表のような遺跡と言えるでしょう。
どの時代でも、西はメソポタミアから、東はインド、中国からのキャラバンが、途中メルブに泊まったことでしょう。様々な民族、文化が集まる当時の一大国際都市であったとも言えます。
中央アジアの魅力が詰まった、浪漫溢れる場所です。

メルブを訪れるツアーはこちら
中央アジア世界遺産紀行

シルクロードⅠ 中国・西域から中央アジア、イラン高原へ


次回はメルブの時代以前、高度な文明を持っていたマルグッシュをご紹介します。



yamada_saiyu at 17:53|Permalink

2011年03月22日

カディーシャ渓谷と神の杉の森(レバノン)

こんにちは。大阪支社の米谷です。

今日はかつて中東の交易センターとして栄えたレバノンについてご紹介したい思います。

現在のレバノンを拠点に活躍したフェニキア人は紀元前15世紀頃から都市国家を形成し始め、紀元前12世紀頃からは地中海全域を支配し、海上交易を行って北アフリカからイベリア半島まで進出していきました。また、フェニキア人は現在のアルファベットの基となるフェニキア文字を発明するなど古代オリエント世界に優れた文明を残したことでも知られています。

そのフェニキア人達の重要な輸出品のひとつにレバノン杉がありました。レバノン杉は生長が非常に遅く、そのため組織が緻密で芳香があり虫害や腐食に強いので古代から高級木材として重宝されたと言います。良質の木材は建築材料に適しており、レバノンに住んでいたフェニキア人はこの木を伐ってガレー船を造り、全地中海へと進出したのです。エジプトではギザのクフ王の墓に収められていた太陽の船もこのレバノン杉で出来ているし、世界最古と言われているサッカラの階段ピラミッドでは、崩れかけたピラミッドの中からこの木が見つかっていることがこの事実を証明しています。
レバノン杉の森レバノン杉の森2






≪写真左上:レバノン杉の保護区、右上:国旗に描かれているレバノン杉のモデルとなった木≫

レバノン杉は実際はマツ科ヒマラヤスギ属の針葉樹で、名前に「スギ」が付いていますがスギ科スギ目の近縁ではありません。そんなレバノン杉は古代から近代まで、レバノン杉は地中海世界のみならず、世界中で重宝され、伐採が進み、現在では国内に2000本程しか確認されていません。今、レバノン杉の森は保護区に指定され、レバノン各地で保護されています。特に有名なのがレバノン山脈のコルネ・エル・サウダ山(標高3,087m)の山域にあるカディーシャ渓谷です。レバノンで一番の景観とも言われ、レバノン杉が現在も自生しています。世界遺産にも指定され「カディーシャ渓谷と神の杉の森」と称されています。


レバノン杉のお土産冬の間はスキーリゾートとなるこの辺り一体は、レバノン杉を一目見ようとたくさんの観光客もやってきます。そのため、レバノン杉の枯れ木を利用した、お土産もたくさん売っていて、旅の思い出に最適の品といえるでしょう。今、レバノン杉は国民にもその貴重さは広まり、レバノンの国旗および国章のデザインにも用いられています。
≪写真右:レバノン杉のお土産≫

≪写真下:レバノンの国旗 真ん中にレバノン杉が描かれている≫
レバノン国旗いつの日かレバノン杉の森が再びレバノンの山一体を覆う日が来ることを祈るばかりです。

関連ツアー:レバノン一周

yonetani_saiyu at 20:05|Permalink

2011年02月27日

不思議の島・ソコトラ島 その2

みなさんこんにちは。大阪支社の米谷です。2月13日から再びソコトラ島のツアーへ同行してきました。

DSC_3176
≪写真・上:ホムヒル自然保護区の立派な竜血樹≫

前回のブログでもご案内したとおり、この島のシンボルは竜血樹というリュウゼツラン科の植物です。竜血樹は2種類あり、ひとつは“ドラセナ・ドラコ”という種類でカーボベルデやモロッコ北部で観察できます。もうひとつがソコトラ島の固有種で“ドラセナ・シナバリ”という種類です。この植物の幹からでる赤い樹液は竜血と呼ばれ、古代ローマ時代には止血止めや鎮痛剤として重宝されてきました。中世にはラッカーや染料としても使用され「赤い金」と言われたそうです。

今でもこの竜血樹はこの島を世界に知らしめる存在です。ディクサム高地やホムヒル自然保護区の村を訪れると子供達が竜血の入った袋をもって売りにきていました。

DSC_3149ソコトラ島を訪れてから、様々なところにこの竜血樹が使われているのに気づく様になりました。島のドライバーさんが運転する四輪駆動車のリアガラスにも大きな竜血樹が描かれていました。

DSC_3357

ハディボの町の散髪屋さんにも竜血樹が。ここにはなぜかドバイの世界で唯一の7ツ星ホテル“バージュ・アル・アラブ”も描かれていました(理由は不明です)。また、イエメンの通貨はリアルといいますが、20リアルコインには竜血樹が刻まれているのです。これまで何度もイエメンを訪れていましたが、ソコトラ島へ足を運ぶようになり始めて気づく様になった訳です。

DSC_3408







皆さんもソコトラ島へ訪れる際は是非、いろいろな所に竜血樹を探してみてはいかがでしょうか?また、違った楽しみ方も見えてきますよ。





yonetani_saiyu at 22:28|Permalink

2011年02月09日

インド洋に浮かぶ不思議な島・ソコトラ島

こんにちは。大阪支社の米谷です。この度新企画として大好評いただきておりますイエメンのソコトラ島へ行ってきました。昨年の視察に続き2度目の訪問でしたが、何度訪れても飽きることのない不思議な魅力を秘めた島です。
DSC_2810
≪写真上:ディクサム高地の竜血樹の森≫

ソコトラ島にはこの島にしかない数多くの固有植物が存在しますが、その中でも一際存在感を放っているのが竜血樹です。ディクサム高地のシェバホン村周辺にはこの不思議な植物・竜血樹がいたる所に!まさにソコトラ島でしか見ることができない奇観に感動させられました。この植物はリュウゼツラン科なので、本来は木というより草の仲間、そのため枯れた木も繊維の様になってしまい、焚き木にはならないそうです。竜血樹の大木は樹齢200年~300年位になるといいます。逆に放牧されているヤギが苗木を食べてしまうため、自然には竜血樹の苗木を見ることが全くできなっているのです。村の人たちがフェンスを作って、竜血樹の苗木を育てている所を見ることもできました。竜血樹の苗木は、その成木からはなかなか想像がつきにくいものでした。是非、現地で確かめてみて下さい。

DSC_2821続いてユニークな形のボトルツリーを紹介します。この植物は英語名がデザート・ローズ(砂漠の薔薇)といい、2月~4月頃にピンク色の綺麗な花を咲かせます。アフリカにも同じ種類の植物がありますが、ソコトラ島には固有種が観察できます。また、島の北東部に位置するホムヒル自然保護区では2本として同じ形のないボトルツリーがたくさん観察できます。岩場の隙間に種を落とし、そこにたまった雨水を糧に芽を出す姿には驚かされるばかりです。2つとして同じ形がないので、見ていて本当に楽しい植物です。
また、自然界ではなかなか見ることができない固有植物を苗木から育てている苗育場を訪れることができました。竜血樹やボトルツリーをはじめ、様々な種類の乳香の木の苗木も観察することができる貴重な体験でした。
≪写真左:ピンクの花を咲かせるボトルツリー
 左下:ホムヒル自然保護区のボトルツリー
 右下:ボトルツリーの苗木≫

DSC_2952DSC_3002


旅の最後は島でもっとも美しい場所とされる「デトワ・ラグーン」を訪れました。私個人的にもこの島で一番好きな場所といえます。まさに天国のビーチとでも言うべき美しさ。泳ぐことももちろん可能ですし、泳がずともその景色には誰もが目を奪われることでしょう。チャンスがあれば是非、この美しい海で泳いでみて下さい。

DSC_3032DSC_3048

≪写真上デトワラグーン≫
また、今週日曜日からソコトラ島のツアーへ同行します。
何か新しい発見を次回のブログでお届けしたいと思います。

yonetani_saiyu at 18:41|Permalink