YAMADA

2016年08月12日

様々な魅力溢れる国 オマーン

 先月発表いたしました今シーズンの西遊旅行のオマーンのツアー。ハイキング、トレッキング、キャニオニング、キャンプなど、様々なアクティビティーに富んだ4つのツアーを発表いたしました。

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                     【ルブ・アル・ハーリーの大砂丘】 

 オマーンは南北に広がる国のため、同じ国でも地域によって様々な異なる風景が広がります。
北部にはハジャール山地が連なり、麓には緑溢れるオアシスを持つ村々が点在します。ツアーでは、緑溢れるナツメヤシ畑や果樹園の中をウォーキングします。

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                     【緑溢れるハジャール山地の麓を歩く】

 この豊かな緑を培っているのが、ファラジという感慨システム。世界遺産にも登録されたオマーンの灌漑システムの歴史は古く、紀元前3000 年(5000 年前)にイラン系住⺠の⽂化から来たと考えられています。

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                【ミスファット・アル・アブリーン村に巡らされた水路】

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                        【貯水池で泳ぐ子供達】

 イランと地理的にも近いため、イラン本土のザグロスやエルブルース山脈の灌漑システムであるカナートの文化が伝わったのだと思われます。
 オマーンではオマーン海からの湿気が⻄ハジャル⼭脈にあたって⾬を降らせ、ファラジと呼ばれる独特の灌漑システムが生まれました。
ファラジは何を⽔源とし、どのような供給路で⽔を運ぶのかによって3 つに分類されます。
Ghaili :ワディを⽔源とするもので、ファラジの約半分(48%)を占めます。
Aini :⼭中の涌き⽔を⽔源とする。ファラジの28%が該当。
Daoudi:地下⽔を⽔源とする。ファラジの24%が該当。

今でも引き継がれているファラジの文化を垣間見ながら、緑溢れる村々での散策をお楽しみ下さい。

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              【左:水路から流れる豊かな水       右:巨大なナツメヤシの木が茂る村の中】


  第二の都市・サラーラを擁する南部は、インド洋の影響を強く受けた気候のため、竜血樹やボトルツリーの植生が点在する珍しい自然体系を持ちます。
そしてオマーンで何と言ってもルブ・アル・ハーリー砂漠です。アラビア半島南部の3分の1を占める世界最大級の砂砂漠で、サウジアラビア南部、オマーン、アラブ首長国連邦(UAE)、イエメンの4カ国に広がります。アラビア語では、アッ=ルブア=ル=ハーリーと呼ばれ、英語では「空虚な4分の1(一角)」(the Empty Quarter) と訳され、「何も無い所」というのが本来の意味。長さ1000キロメートル、幅500キロメートル。最近まで大部分が探検されてきませんでした。1931年にバートラム・トマス(Bertram Thomas)が、史料に残る最初の西洋人としてこの砂漠を横断しています。


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                【ルブ・アル・ハリーの砂丘の上から見る光景】

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                         【砂丘に昇る朝日】


   砂漠化は、この1000年間に進行したと考えられ、3世紀頃までは乳香交易のキャラバンがこの地を横断していましたが、砂漠化がこの地をキャラバン交易路が横切るのを困難にしたといいます。
西遊旅行の4つのツアー全て、このルブ・アル・ハーリーで2泊のキャンプ泊をお楽しみいただきます。
昨今、治安の関係でサハラのツアーが少なくなっていますが、サハラ以外で本物の大砂丘をお楽しみいただけるのは、このルブ・アル・ハーリーだと思います。

  さて、キャラバンの衰退の原因は砂漠化だけでなく「季節風の発見により海洋航路の発達」により、過酷な砂漠のキャラバンをしなくても良くなったことのほうが大きな要因だと考えられます。海のシルクロードの発達です。かつては、ツアーで訪れる「失われた都市」ウバル (Ubar) もこのような砂漠の中の交易都市でしたが、海のシルクロードの発達により、アラビア海沿いのホール・リーリのような都市国家が発展したのでした。これらの交易都市は、オマーン特産の乳香を各地に輸出して益を成していました。乳香は現在のオマーンの家庭でも、香として広く使われています。

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                 【活気溢れるムトラスークの中の乳香屋さん】

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                【このような台に炭をともし、その上で乳香を熱します】



 最後は、オマーンで産出される神秘のオイルのお話しです。ハジャール山地の麓にあるアル・ハムラ村。ここでは「モリンガ」という木の実から作るモリンガ・オイルの製造過程を見ることができます。

 
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           【左上から、抽出されたオイル、瓶に詰めたオイル、モリンガの実】


  モリンガから取れるオイルは、カルダモンのような実をつぶして抽出していました。ある化粧品サイトによると “モリンガは、インドの伝承医学アーユルヴェーダで300の病気を予防すると言われる栄養価の高い木で、古代ローマやギリシャ、エジプトでも珍重されてきました。モリンガシードオイルは、世界3大美女の呼び名が高いクレオパトラが愛用していたオイルとしても知られています。モリンガの種から抽出されたモリンガシードオイルは、ヨーロッパの化粧品で昔から美容クリームの材料として使われてきた、隠れた高級オイルでもあります。“とのことです。

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       【マカダミア・ナッツに似たモリンガの実】


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                   【両手で実をこねて、右にオイルを溜めます】


  オマーンでは今なお伝わる素朴な製造方法により作られていて、小瓶が1本3リアル(約1,000円)で売られていました。


  自然、文化、歴史、たくさんの魅力に溢れたオマーン。すでに催行決定、満席のツアーも出ています。この秋から冬にかけて、皆様のお越しをお待ちしています。

魅力溢れる4つのオマーンのツアーはこちら  ↓ ↓ ↓ ↓

オマーンアドベンチャー 砂漠と海と緑のアラビア
オマーン南北縦断
南部オマーン・ドファールをゆく
オマーン最高峰ジュベル・シャムス登頂とルブ・アル・ハーリー大砂丘


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2016年01月29日

パミールのアリー

 毎年ご好評をいただいているタジキスタンの「パミール・ハイウェイとワハーン渓谷」のツアー。昨年から、「パミール高原とワハーン回廊を望むゾルクル湖への旅」を加え、パミールに行くツアーのシーズンが間もなくやってきます。

 今日は、パミールに残るアリーの伝説をご紹介します。

 ゴルノバダフシャン自治州の州都・ホルグからヤン村に向かう途中、パンジ川の対岸のアフガニスタンとヒンドゥークシュ山脈を望む辺りに、一つのさびれた祠(ほこら)が残っています。オストン・シャーヒ・マルドンという名のこの祠は、かつて預言者ムハマンドの従弟、アリーがこの地にやって来たことを記念するものと言われています。

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                  【パミールに残るオストン・シャーヒ・マルドン】

 この祠のすぐ近くに、5世紀の要塞跡・カライ・カハカが残っているのですが、この要塞を治めながら、行き交うキャラバンから税金を搾り取った悪い王様を退治したという伝説が残っています。

 祠の内部は、パミールの伝統建築であるラテンネル・デッケの屋根で覆われていますが、興味深いのが中に残る祭壇です。まずこの祭壇は、沢山のマルコポーロ・シープの角が乗っています。マルコポーロ・シープは、山の高い地域に生息しているので、それだけ天上の神に近い聖なる動物と言われています。また、狩猟で仕留めたマルコポーロ・シープを、人が生きていくために、ありがたくいただいたという感謝の表れでここに置くのだそうです。

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             【マルコポーロ・シープの角が置かれた祭壇とラテンネル・デッケ】

 次に興味深いのが、この祭壇の作りに、かつてこの地で信仰されたゾロアスター教の名残が残っていることです。火を聖なるものとして仰いだゾロアスター教と同じく、今でもお参りに来た人は、この祭壇の上で綿花の油や動物の油で火を付けています。そして、この祭壇の四隅に4つの円形の石がありますが、これはゾロアスター教の4つの聖なる要素「火・水・空気・大地」を表しているとのことです。

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                     【四隅に石が置かれ、火がともされる祭壇】

 パミールにアリーが来たという伝説は、ツアーで訪れる「アリ・チュール」という村にもの残っています。「アリ・チュール」とは「アリーの怒り」という意味で、かつて多夫多妻で暮らしていたこの辺りの不道徳な人々が、アリーの怒りに触れて滅ぼされてしまったとう伝説が残っています。この町の近くには、「アク・バリク」という聖なる泉があり、この泉の魚は食べてはいけないというお触れもあります。

 
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                      【綺麗な水をたたえたアク・バリク】

 アリーの伝説が残るパミールですが、その絶景は美しいの一言につきます。雪をいただいたヒンドゥークシュを始めとするパミールの山々を眺め、対岸にアフガニスタンを望みながらパミール諸語族の人々の暮らしに触れる旅です。アフガニスタンとの国境をなすパンジ川は、アムダリヤ川となり遙かアラル海まで流れてゆきます。そのパンジ川のさらに上流を流れるパミール川の水源の湖・ゾル・クルが、アムダリヤの源流となります。


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                   【雪をいただいた大パミール山脈】

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                      【アムダリヤの源・ゾル・クル】

 また、イスラム教の聖者アリーの伝説が残る一方、パミールには仏教遺跡も残っています。写真は、ヴァンに残る仏塔の基礎です。シルクロード上にあるパミールは、様々な宗教も行き交った所です。

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                        【ヴァンに残る仏塔の基礎】

 自然、文化、歴史、様々な見どころがあるパミール、写真のワヒ族の少女のような人々が、皆様をお待ちしています。

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関連ツアーはこちら↓↓↓
パミールハイウェイとワハーン渓谷

パミール高原とワハーン回廊を望む ゾルクル湖への旅


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2015年12月25日

2016年シルクロードパンフレット発表!

 皆様、お待たせいたしました。今年も「シルクロードの旅」のパンフレットが完成しました。中国の新疆からコーカサスまで、新コースを含んだ多彩なラインアップです。
 今年の新コースを、少し紹介いたします。

               「春のキルギスへ ワイルドチューリップを求めて」

4月下旬から5月上旬だけに咲くキルギスの野生のチューリップ。専属のフラワーガイドが同行し、春のキルギスの花々について詳しくご案内いたします。この季節だけ限定の特別企画です。

               
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               【4月下旬から5月上旬だけに咲くチューリップ】


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近年カザフスタンのツアーが増えましたが、なかなかツアーでは訪れない首都アスタナを訪問。そして、アルマトイ北東イリ川沿いに砂漠と岩山の絶景が広がるアルティン・エメル国立公園を訪ねます。人気の「神秘の大地マンギスタウ トゥズバイル塩湖とウスチュルト大地」のツアーに連続参加が可能です。

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                         【近未来都市アスタナ】

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                  【絶景が広がるアルティン・エメル国立公園】

            「ペルシャから東トルコ縦断 知られざるアジャリア自治共和国へ」

テヘランからスタートし、イラン北西部を通って東トルコへ。ここからジョージアに入り、アジャリア自治共和国に抜けます。黒海沿岸のアジャリア自治共和国は、ギリシャ神話の「アルゴナウタイ物語」に登場するアルゴ―号と王女メディアの舞台であったコルキス王国のあった地です。

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                 【イラン北西部に残るゴンバデ・スルタニエ】

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                   【アジャリア自治共和国の首都・バトゥミ】

                「山岳シルクロード 世界の屋根パミールへの道」

パキスタンのイスラマバードからスタートし、途中7つの峠を越えて中国、キルギス、タジキスタンを訪れるコースです。「新シルクロード構想」によって近年外国人にも開放された国境を越え、ヒマラヤ、カラコルム、ヒンドゥークシュ、天山山脈の圧巻の山岳風景を楽しみながら、かつてのシルクロードを往く新コースです。

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                    【サリタシュから望むレーニン峰】

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                     【ムスターグ・アタとカラクリ湖】

 このブログでも、随時新コースの紹介ページを作成して参ります。
 
 すでに、ゴールデンウィークのマンギスタウのツアーは催行決定、その他のコースも沢山のお申込みをいただいています。お早目に「シルクロードの旅」のパンフレットを開いていただき、皆様のお申込みをお待ち申し上げます

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2015年12月16日

青の都・サマルカンド

 シルクロード最古の都市と呼ばれるサマルカンド。その名前だけでもシルクロードの郷愁がただよう古都です。今日は、サマルカンドの歴史と魅力をご紹介します。

 多くのシルクロードのオアシス都市は、水を得やすい河の近くに発展していきましたが、サマルカンドはアム・ダリヤの支流、ザラフシャン川のほとりで発展しました。紀元前10世紀から人々が住み始めた歴史があります。
 アレキサンダー大王も東方遠征の際にサマルカンドを攻略しました。当時の名前はマラカンダと呼ばれ、大王はソグド人の長期に渡る徹底抗戦に会いました。
紀元7世紀から8世紀にかけては、ソグディアナに生きたソグド人の都市として繁栄を極めます。サマルカンドで音楽や踊りを教え込まれた奴隷達が、シルクロードを伝って唐へ向かい、唐では西域の文化が大流行しました。

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           【アフラシアブの丘にあったソグド人の邸宅内にあったフレスコ画】

 1220年には、東からの侵略者、モンゴルの襲来を受けます。水利システムも含め、サマルカンドの街は徹底的に破壊されました。2,000年以上栄えたサマルカンドの歴史は、この時に一度終わったと言っても過言ではないでしょう。
 サマルカンドに残るアフラシアブの丘。ここはモンゴル襲来までサマルカンドの街があった場所です。発掘により、この丘は11もの時代の層に分かれていることが判明しています。

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                 【かつてのサマルカンドの街が眠るアフラシアブの丘】

 一度死の街を化したサマルカンドに、現在まで残る壮麗な建築物を建て、再びシルクロードの一大都市に変えたのが、中央アジアの覇者・ティムールです。彼はサマルカンドを自分の帝国の首都と定め、帝国各地からの建築家や職人をサマルカンドに送り、各地の技術を駆使した建築物を建造しました。現在サマルカンドで目にする建物のほとんどが、ティムールの時代の後のものになります。

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                    【サマルカンドにある玉座に座るティムール像】

 彼は死後、自分の生まれ故郷のシャフリサブスに埋葬するように命令を出していましたが、没地オトラルからシャフリサブスへ遺体を運ぶ際に大雪に遭い、シャフリサブスまで到達できずに、首都のサマルカンドに葬られることになりました。墓地はグル・エミル廟と名付けられ、中央アジアの覇者にふさわしい荘厳な建物が現在もサマルカンドに残っています。

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                      【ティムールの眠るグル・エミル廟】


 ティムールの死後、彼の建築を引き継いだのが孫のウルグ・ベクです。支配者の顔の他、天文学者でもあった彼は、天体観測のためにサマルカンドの高台に天文台を建設しました。
 またレギスタン広場にメドレッセ(神学校)を建設し、17世紀に建設された2つのメドレッセと合わせてサマルカンドの3つのメドレッセとともに、サマルカンドを代表する建築群となっています。

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                   【3つのメドレッセが並ぶレギスタン広場】

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                【ライオンの装飾が施されたシルダール・メドレッセ】


 また、サマルカンドの聖地がシャーヒ・ジンダ廟です。この地で殉教した、預言者ムハンマドの従兄のクサム・イブン・アッバースの廟には、現在も沢山の巡礼者が訪れています。また古来から聖地であったため、ティムールは自分の親族や側近をこの地に葬り、壮麗な廟を建設しました。

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   【シャーヒ・ジンダ廟のタイル装飾】               【廟が連なるシャーヒ・ジンダ廟】


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           【シャーヒ・ジンダ廟最奥にあるクサム・イブン・アッバースの廟】

 ソビエト時代に荒れ果てたままだったサマルカンドの建築群は、当時の技法を引き継いだ現在の職人の手によって、完全に修復されました。
そして、現在も中央アジアを代表する街として、世界各国の人々をひきつけてやみません。


                     ↓↓↓【まもなく催行する関連ツアーはこちら】↓↓↓

早春のウズベキスタン

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2015年11月11日

ヘカトンピュロス見聞記

 先日、「キャビール砂漠と失われた都・ヘカトンピュロス」のツアーの添乗に行って参りました。長年の憧れでしたパルティアの都・ヘカトンピュロスの遺跡に立ち、日本ではほとんど知られていないヘカトンピュロスをこの目で見てきました。今回は、謎に満ちたヘカトンピュロスの様子をご紹介いたします。


  紀元前247年、アレキサンダー大王の家臣セレウコスが KOJI3066_yamada
興したセレウコス朝を破り、トルクメニスタンからイラン、メソ
ポタミアまで支配したパルティアは、3つの都を建てました。
最初の都は、トルクメニスタンの首都アシガバート近郊に残
るニサ。ミトラダテス王の名から、ミトラダトケルタとも呼ばれ
ていました。

     


        【パルティア兵士の像:テヘラン考古学博物館蔵】


  その次の都がギリシャ語で「百の柱」という意のヘカトンピュロスです。ダームガーンから国道A83号線を西へ走ったクーシェの村にヘカトンピュロスはあります。このA83号線は、かつて中央アジアからレイ、タブリーズを経てアナトリアへ向かうシルクロードの幹線でした。今でも、沢山のキャラバンサライの跡が残っています。

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        【ヘカトンピュロスの遺跡近くに残るサファビー朝時代のキャラバンサライと内部】


  そして、ヘカトンピュロスからこのシルクロードを南に下るとイスファハンに繋がります。
ヘカトンピュロスは貴重な考古遺跡のため、ダームガーンの町から警察が同行しました。遺跡に降り立つと、イスラム以降の時代の土器のかけらが沢山落ちていました。92年前と89年前の発掘からほとんど調査されておりませんが、56平方キロの広大な面積の遺跡内には、いくつかの丘のような建物跡が残っていました。ヘカトンピュロスは、正確にはパルティアが建てた都ではなく、紀元前5,000年紀から人が住んでいた場所です。かつての発掘では、この頃の土器も出土したそうです。そしてパルティアが去った後も街として機能していたため、前述のイスラム時代の土器も残っているのです。

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                 【遺跡一面に落ちていたイスラム時代の土器】


 我々が最初に訪れたのは、おそらく宮殿として使われたであろう一番大きな建物跡でした。調査は全く行われていないため、地図も看板も何もありません。広大な敷地内を歩き、いくつかの建物跡を見学。どの建物が何に使えわれたのかは謎のままでしたが、地下へ通じるトンネルがある建物や、部屋がはっきりとわかる建物もありました。

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    【宮殿跡と思われる巨大な建物】                  【宮殿の上から見た遺跡】

  パルティアは、セレウコス朝シリアが勢力を拡大し、東に進出した際にヘカトンピュロスの街を捨て、イラクに残るクテシフォンに都を移しました。遷都の際、ヘカトンピュロスにあった物はほとんどが地中に埋められたといわれています。ツアー中、どうしてパルティアは地中に埋めて街を捨てたのか?という談義になりました。全くの仮説ですが、パルティアはセレウコス朝シリアが去った後に、またヘカトンピュロスに戻って来るつもりでいたのではないかという話しも出ました。そのため、ヘカトンピュロスには主要な建物だけは残っているのではないかという話が出ました。

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 【メルブに残るキズカラと似た建造物】               【広大な敷地内を歩いて見学しました】


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【建造物が点々と連なって残っています】                【壁で仕切られた部屋の内部】


 クテシフォンに遷都した後、パルティアは最盛期を迎えます。そして当時の西の超大国はローマと、「パルティアン・ショット」の戦法を駆使して、8回にわたる泥沼の戦争を繰り広げました。しかし紀元224年、パルティアはクテシフォンで、長年の宿敵ローマではなく、ササン朝ペルシャに滅ぼされます。そして、かつての都、ヘカトンピュロスに戻ることはなかったのです。

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    【邸宅と思われる建物内の広間】                    【ヘカトンピュロスを歩く】

  かつてヒルカニアと呼ばれたこの地のシルクロードの要衝にあったヘカトンピュロス。西アジア史に歴史を刻んだパルティアの面影を、遺跡に吹く歴史の風の中に見た気がしました。


【4月、5月のツアーの紹介はこちら】
キャビール砂漠と 失われた都・ヘカトンピュロス


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2015年07月03日

パルティア 失われた都・ヘカトンピュロス

 シルクロード英雄列伝に度々登場しましたパルティア。彼らが残した謎の都のお話しです。

 紀元前3世紀、アレキサンダー大王亡き後に西アジアの領土を引き継いだセレウコス朝を倒し、現在のイランを中心にメソポタミアからインダス川までを領土としたアルサケス朝パルティアが興りました。
 最盛期にはローマ帝国とも対峙したパルティアは、その都を各地に3つ建てます。
 
 一番最初の都はトルクメニスタンのアシガバートに残るニサで、かつてのミトラダトケルタと言われています。
 西遊旅行のトルクメニスタンのツアーでは必ず訪れ、神殿跡や宝物殿を見学します。また、アシガバートの歴史博物館では、彼らが使った象牙のリュトンも見ることができます。

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                  【かつてのミトラダトケルタと言われるニサ】

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                        【ニサに残る神殿の柱】


 このニサには、興味深い逸話が残っています。1948年、ソビエトの調査隊がニサを調査し、彼らの宝物殿を発掘しました。その翌日、アシガバートをマグニチュード7.3の地震が襲い、甚大な被害を被りました。宝物殿を暴かれたパルティアの怨念ではないかという噂が立ちました。

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                        【宝物殿から出土したリュトン】


 話はそれますが、トルクメニスタンの初代大統領だったニヤゾフ大統領は、この震災で両親を亡くし
孤児院で育った孤児でした。独立後、豊富な天然ガスで豊かな国になった際、大統領は沢山の孤児院をトルクメニスタンに建てたのでした。
                    
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                  【アシガバートに立つ初代大統領ニヤゾフの像】

 パルティアが次に建てた都が、ギリシャ語で「百の柱」と呼ばれるヘカトンピュロスでした。
 
 カスピ海沿岸に建てられたと言われるこの都は、3つ目の都クテシフォンがユーフラテス(現在のイラク)に建てられるまで、パルティアの首都として機能しました。

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                 【広大な面積を誇ったヘカトンピュロス全景】


 クテシフォンに遷都した際、ヘカトンピュロスにあった建物は地中に埋められたため、永らくこの都の跡の場所は謎に包まれたままでした。
 近年の調査で、陶片に書かれた文書も発掘されていますが、荒れ果てたままの広大な遺跡だけが、失われた都のように残っています。

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                        【遺跡の残る建造物の跡】



 その後、メソポタミアのクテシフォンを首都として最盛期を迎えたパルティアでしたが、紀元224年に、ササン朝のシャープール1世によって滅ぼされ、歴史から姿を消したのでした。

 
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           【イランのナクシェ・ラジャブに残るシャープール1世の騎馬叙任式図】
 

 さて、今月中旬にお手元に届く138号パンフレットで、いよいよこのヘカトンピュロスを訪れるツアーを発表します。ツアー名は、「キャビール砂漠と失われた都・ヘカトンピュロス」。
パルティアの失われた都を訪れるこのツアーの詳細を、乞うご期待。

【関連ツアーはこちら】
ペルシャ歴史紀行
カラカルパクスタンとトルクメニスタン
地獄の門と奇跡の大地 9日間
地獄の門と奇跡の大地 10日間

※「キャビール砂漠と失われた都・ヘカトンピュロス」のツアー詳細は、7月17日頃にホームページにアップされます。

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2015年05月21日

騎馬民族・サカ

 今回は、シルクロード史を駆け抜けた騎馬民族、サカ族についてのお話しです。
 サカ族は、紀元前6世紀から中央アジアで活躍した騎馬民族で、ギリシャ人からはスキタイと呼ばれ、中国語では塞と呼ばれていました。

 紀元前6世紀に、アケメネス朝が中央アジアに進出した際、サカ族はアケメネス朝と接触し、サカイという名でアケメネス朝の属州の一つに組み込まれます。その後、アケメネス朝軍の先鋭部隊、特に騎馬兵として対ギリシャ戦争にも出征しました。

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                     【ペルセポリスのクセルクセス門】

 先日、イランに行った際、アケメネス朝の大本営・ペルセポリスを訪れました。ここに残る謁見の間(アパダナ)の壁に描かれた帝国内の属州の使者達のレリーフに、サカ族も描かれていました。尖り帽子を被り、帝国に献上する衣類等を持った使者達です。

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                       【馬を連れたサカ族の使者達】

 アキナケス剣を腰にまとい、馬に乗った際に剣が大きく揺れないように紐で結んでいた様子がわかります。

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【ペルシャ人とサカ族。右足に、剣を繋いだ紐が見えます】 【アキナケス剣 タシケント歴史博物館蔵】 
 

 アキナケス剣はサカ族が使った両刃の剣で、包丁のように片面ではなく、左右両面がエッジになっているのが特徴の剣です。

 また、ビストゥーンに残るダリウス2世の戦勝記念碑の一番最後列にも、尖り帽子を被ったサカ族が描かれています。

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              【ダリウスの戦勝記念碑。ここでも帽子が目立ちます】
 
 中国の文献では、彼らはもともと、キルギスのイシク・クル(湖)周辺に暮らし塞という名で呼ばれていました。しかし、大月氏という別の民族の侵入を受け、中央アジアからガンダーラ地方に移住したと言われています。

 
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                          【天山の真珠・イシククル】

 現在のキルギスのガイドさんから聞いた話では、キルギスの人達は自分の祖先について大きく二つのグループに分かれると考えているそうです。一つは、シベリアを流れるエニセイ川の河畔で生まれ、南下して中央アジアに移ったグループです。南に下ったのがキルギス族で、東の日本に向かったグループもあるそうで、日本人とキルギス人は兄弟なのだそうです。確かに日本人と間違う程、キルギスの人達は我々と良く似た顔立ちをしています。話をしてくれた下の写真のガイドさんは、日本語を話しますが、純粋なキルギス人です。

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 もう一つのグループは、サカ族をルーツとする人達です。その説を強く思わされるのが、キルギスの人々が被る伝統帽子・カルパックです。白いフェルトで作られ、尖った形をしています。サカ族もキュルバシアと呼ばれた尖り帽子を被っていました。サカ族の名残が、帽子に残っているとのことでした。

【キルギス人のルーツを話してくれたガイドさん】



 









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   【キュルバシアを被ったサカ族】               【カルパックを被ったキルギス人】


 また、キルギス族の伝統紋様の中にも、サカ族の名残があります。写真は、キルギスの人々が使うフェルト製の敷物ですが、下にある敷物は四方の角に頭を向けた4人の人間の姿を現した紋様です。そして、やはり尖った帽子を被った姿です。

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                 【手を腰にあてたような格好の4人の人間の紋様】

 パミール高原には、サカ族の古代の墓が多く残っています。写真は、パミール高原のタジキスタンとキルギス国境近くにある湖カラコルに残るサカ族の墓です。写真では分かりづらいのですが、石を並べたその形が、日本の前方後円墳と全く同じ形をしているのが興味深いです。日本の古墳は、ユーラシア大陸の巨大墳墓文化の影響を受けているとも言われています。

 
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                 【前方後円墳のような形が二つ並んでいます】

 中央アジアにもイランにも日本にもその名残を残すサカ族。その名残を探ると、ますます興味が湧いてくる民族です。


関連ツアー
キルギス・カザフスタン 天山自然紀行
天山とパミールの懐へ 夏のキルギス・アドベンチャー
パミール・ハイウェイとワハーン渓谷
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2015年03月13日

初夏に行く 文明の十字路・ウズベキスタン発表

 皆様、日に日に春の足音が近づいて参りますが、いかがお過ごしでしょうか。
 さて、今シーズンも大好評だった「早春のウズベキスタン」に続き、新しいウズベキスタンのキャンペーンツアーを発表しました。

                【初夏に行く 文明の十字路・ウズベキスタン】

 今回はウズベキスタン航空の直行便を利用し、8日間のコンパクトな日程になります。コンパクトとは言っても、ヒヴァ、ブハラ、シャフリサブス、サマルカンドの世界遺産はすべて訪問、さらにブハラ、サマルカンドでは連泊の日程です。また、晴天率が高いこの時期には、キジル・クム砂漠に残る古代ホラズム王国時代の都城址、トプラク・カラも訪問でき、充実した内容となっております。

 ここで、ツアーで訪問する古都の数々を少しご紹介します。

【ヒヴァ】
かつてウズベキスタンには3つのハーン国(王国)がありました。コーカンド・ハーン、ブハラ・ハーン、ヒヴァ・ハーンの3つです。ここヒヴァは、1920年にソビエト政権が樹立されるまでヒヴァ・ハーン国の王都として栄えました。 外敵の侵略を防ぐための城壁で守られ、内城イチャン・カラは、内城そのものが世界遺産に指定され、当時のメドレッセ(神学校)、アルク(城)など様々な建物が残っています。まるで、中世の美しい建物が詰まった、玉手箱のようなイチャン・カラです。
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                     【クニャ・アルクの上から望むヒヴァ】


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                 【ヒヴァで最も高いイスラム・ホッジャのミナレット】


【ブハラ】
ブハラも、ブハラ・ハーン国の首都でしたが歴史はとても古い街です。この街はソグディアナの西端に位置するオアシスで、サンスクリット語で「僧院」を意味するこの街は、5世紀の唐の文書では「不花刺」と書かれたソグド人の街でした。 ソグド人は中央アジア一帯の隊商で名を馳せた民族で、世界遺産に指定されたブハラ旧市街は、当時の隊商都市の面影をそのまま残しています。また、砂漠を行く隊商の灯台の役割をした巨大なカリヤン・ミナレットが、今もブハラの街を見下ろすようにそびえ立っています。ツアーではこの街で、民族舞踊の鑑賞をお楽しみいただきます。


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             【鳳凰がデザインされたナディール・ディバンベキのメドレッセ】


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    【10世紀に遡り、現存する中央アジア最古の建築物 イスマイル・サーマーニー廟】


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              【アイワーンの建築様式が残るボロ・ハウズモスク】


【シャフリサブス】
ザラフシャン山脈を遠望する、ティムールの故郷。サマルカンドとブハラの間に位置しています。 ティムールは、14世紀にティムール帝国を興し、オスマン・トルコをも撃破する程の大帝国でした。彼が生まれたシャフリサブスは、「緑の街」という意味を持ち、アクサライ宮殿、ティムールの親族の廟やモスクなど、ティムールの残した建築群が残り、 2000年に世界遺産に登録されました。
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【左:アクサライ宮殿から望むシャフリサブス】
【右:ティムールの立像】




【サマルカンド】
建物の青いタイルの色から「青の都」とも呼ばれるサマルカンドは、中央アジア最古の都市で2500年もの歴史を持つ美しい街です。紀元前4世紀にアレキサンダー大王がこの地を訪れ、その美しさに驚嘆したといわれています。1220年のチンギス・ハーンの破壊によって、古いサマルカンドは今はアフラシアーブの丘の下に眠っていますが、14世紀に出現したティムールは、この地をティムール帝国の首都として復興し、一大文化都市としました。彼は領土とした各地から、建築家や職人をサマルカンドに連行し、水準が高く、各地の文化を取り込んだ壮麗な建築群を築かせました。

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                【レギスタン広場に残るシルダール・メドレッセ】



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              【中央アジアの覇者 ティムールが眠るグル・エミル廟】




【タシケント】
ウズベキスタンの首都で旧名シャシュ。「石の街」を意味するこの街は中国の文献で「石国」という名でも記録されています。1966年の大地震によって、街の大部分は破壊され、ソビエト時代に新しい街が形成されましたが、地震の被害を免れた旧市街には古きシルクロードの面影を残す建物が残っています。

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 【左:ティムール広場のティムール像】        【右:旧市街に残るカファリ・シャーシ廟】



中央アジア随一の観光国で、歴史も古く見所が多い国、ウズベキスタン。シルクロードの名残が各地に残り、建物、人の顔、食べ物、どれを見ても我々の心を引き付ける国です。

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              【豊富な前菜から始まるウズベキスタンのお食事】
 

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                    【活気溢れるサマルカンドのバザール】


晴天率が高く、青のタイルが太陽に映えるこの時期、ウズベキスタンが皆様をお呼びしています。

【関連ツアー】
初夏に行く 文明の十字路 ウズベキスタン

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2014年11月28日

ソグディアナからスルハンダリヤへ タジキスタンとテルメズの遺産

皆様、師走に入りますがいかがお過ごしでしょうか。12月には昨年より少し早く、シルクロードパンフレットがお手元に届きます。新しいコースも含んだ次のシルクロードツアーのラインナップをご期待下さい。

その中で、今日は毎年人気の「タジキスタンとテルメズの遺産」のコースから、新しいタジキスタンの見どころをご紹介いたします。

今年の10月にこのコースを添乗をしてきました。
タジキスタンは、国土の90%以上が山岳地帯という山岳国家のため、かつてこのツアーはトルケスタン山脈、ザラフシャン山脈、ヒッサール山脈を越えて首都ドゥシャンベへ向かうため、二つの峠越えがありました。峠は3500mを越える標高のため、ゴールデンウィークでも雪が降り、秋も降雪のためにツアーを設定することができませんでした。
しかし、近年中国、イランが峠にトンネルを造り、峠越えをする必要がなくなったため、春や秋の設定をすることができるようになりました。
ペンジケントまでの道中は、峻険な山脈を縫うようにザラフシャン川が流れていますが、10月は黄葉が始まり、美しい風景を見ることができました。

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    【金を運ぶ川という意のザラフシャン川の黄葉の光景】


次に、ツアーで訪れるドゥシャンベの国立博物館の珍しいコレクションを紹介いたします。通常は写真撮影が禁止されている博物館ですが、はるばる日本から来たツアーということでお願いし、特別に撮影を許可していただきました。
まず、ソグド人の都市ペンジケントからの出土品。これは、ペンジケントにかつて存在したヒンドゥー寺院にあったシヴァ神とパールヴァティーの像です。シルクロードを結ぶ交易上にあった都市だったため、この街に滞在するインドからのヒンドゥー教徒の隊商のために造られたと思われます。

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こちらの写真は、実際の寺院の前でシヴァとパールヴァティーに扮したガイドさんです。

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こちらは、ペンジケント近郊に残る紀元前4000年紀に遡るサラズムで発見された「サラズムの王妃」という女性です。サラズムは、タジキスタンで最初に登録された世界遺産で、工房跡や神殿跡が発掘されています。昨シーズンまでは、ツアーでは訪問することはなかったのですが、来シーズンからサラズムの遺跡をツアーに組み込むことになっています。

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   【左:ドゥシャンベ国立博物館に眠るサラズムの王妃】
   【右:発掘されたサラズム遺跡の拝火神殿跡】

これからの写真は、タジキスタン南部にあるグレコ・バクトリア時代のタフテ・サンギンからの出土品の数々です。アレキサンダー大王は、東方遠征の際にソグディアナとアフガニスタンへ往復しています。大王がもたらしたギリシャの文化を色濃く残す目を見張る出土品が沢山展示されています。

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       【ギリシャ神のキューピッド】

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       【アレキサンダー大王とされる像】

インドに近かったこともあり、象牙細工が多く、この「アキナケス剣の象牙の鞘」は素晴らしい傑作です。ガイドさんいわく、このような素晴らしい傑作は、後世の人にも見てもらう価値があるため、出土されるのだそうです。

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その他ツアーでは、テルメズでクシャン朝時代の仏教遺跡や、アレキサンダー大王が建てたアムダリアのアレキサンドリアである「アレキサンドリア・オクシアーナ」と比定されるカンプル・テパ、考古学者の加藤 九祚先生が発掘に携わったクシャン朝の最初の首都ダルベルジン・テパ等も訪問。見所の詰まったツアーです。春は野花が咲き、秋は黄葉が美しい自然も魅力のタジキスタン、来シーズンに皆様をお待ちしています。

関連ツアー
タジキスタンとテルメズの遺産


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2014年08月01日

シルクロード古仏巡礼③:シリデーワ クワ出土

 ウズベキスタン、フェルガナ地方。かつて大苑国と呼ばれたこの地は、汗血馬の産地として名高い地であった。汗血馬は、トルクメニスタン原産のアハルテケで、豊かな土地であったフェルガナで多く飼育されていた。
 この馬は、血の汗を流し、一日に千里を駆けたという。前漢の武帝は、この馬を手に入れるために大軍を大苑国に遠征させた。

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【左:フェルガナのアサカの町に残る汗血馬の像】
【下:トルクメニスタンの名馬アハルテケ】
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 そのフェルガナに、クワという遺跡が残る。紀元前1世紀から7世紀にかけて栄え、インドと中国を結ぶ途上にあった。クワには、フェルガナで唯一の仏教寺院があり、この遺跡から出土したシリデーワという女神の顔が、タシケント歴史博物館に保存されている。

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                       【シリデーワ像:タシケント歴史博物館蔵】

 美と知恵を表すこの女神は、頭に髑髏を巻いた姿をしている。この姿は、忿怒形吉祥天のペンデン・ラモに代表されるチベット仏教の護法尊と共通している。また、シリデーワもペンデン・ラモも、同じ女神であることが興味深い。

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【ペンデン・ラモが描かれた仏教壁画】
 

 髑髏を巻くというおどろおどろしい姿は、インドが起源であろうか。チベット仏教にその影響が現れるのが年代として一番遅いことを考えると、インドから中国の途上のクワでシリデーワが出土したことがうなずける。
 中国とローマという東西の道というイメージが強いシルクロードは、南北にもいくつもの道があった。東西南北のシルクロードが交差した中央アジアには、イスラムが流入するまで多くの仏教寺院が存在していたが、現在のクワの遺跡は、ほとんど建物は残っていない。
 しかし、中央アジアを貫いたシルクロードの先にあるチベットの繊細な仏教画の中に、そして日本の仏像の中に、この地を通った神々の面影が残っている。

【関連ツアー】

文明の十字路 ウズベキスタン

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2014年05月19日

シルクロード古仏巡礼②:最果ての仏像 メルブ出土

 中央アジア最大の遺跡、メルブ。紀元前6世紀から紀元13世紀に渡り栄えた、シルクロード上のオアシス都市であった。世界遺産に指定され、大キズカラやセルジューク朝最後の王・スルタンサンジャール廟等が残る。

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 【ササン朝時代に建てられた大キズカラの雄姿】

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 【セルジューク朝最後の王・スルタンサンジャール廟。トルコ共和国の援助で修復された】

 中国とメソポタミアを東西に結び、ペルシャ、アフガニスタンとホラズムを南北に結ぶ交易の十字路に位置したメルブは、各地からの隊商が行きかった当時の国際都市であった。2,000年以上の長きに渡り、人、物が交差したこの地は、様々な宗教も交差している。

 紀元前2世紀から紀元3世紀に渡って造られたグヤウル・カラの内部には、ゾロアスター教の神殿、ネストリウス派のキリスト教会、そして仏教寺院が混在していた。例えれば、人種のるつぼのマンハッタンにユダヤ教会、キリスト教会、イスラム教モスクがあるように、当時の一大国際都市であったメルブにも、様々な宗教が混在していた。

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 【グヤウル・カラを囲んだ城壁の断面。年代を経るにつれ、厚く拡張されていった様子がわかる】


 仏教寺院はグヤウル・カラの南東に建てられ、仏塔があったと言われている。この仏教寺院からは、白樺の木の皮に書かれたサンスクリット語の経文と、小さな仏像が発掘された。クシャン朝の元で比護された仏教は、この地に生きた多くの民族にも受け入れられ、パルティア人の僧も活躍した。

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 【グヤウル・カラ南東の仏塔があった場所。ガイドの説明がない限り、わからない程風化している】

 インドで興った仏教は、シルクロードを伝播し、東は日本へと向かう。西への伝播は、このメルブより西では仏教寺院が発掘されていないことから、メルブが仏教伝来の最西端と言われている。そのため、このメルブで発掘された仏像は、「最果ての仏像」と名付けられた。

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 【最果ての仏像。アシガバート国立博物館蔵】

 ガンダーラ製の黒色の石でできたこの仏像は、現在はアシガバード国立博物館に収められている。険しい山脈を越え、灼熱の砂漠を渡り、シルクロードのどのルートでこのメルブまで運ばれたのか、見る者の想像をかきたてる。そして、作者もわからないこの仏像は、その後の中国、日本での仏教文化の開花の大きな要素に、シルクロードがあったことを静かに物語っている。


関連ツアーはこちら

カラカルパクスタンとトルクメニスタン
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地獄の門と奇跡の大地 10日間

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2014年04月16日

シルクロード 古仏巡礼①:三尊仏 ファヤズ・テパ出土

 その仏像は、ほぼ完全な姿で出土したという。ウズベキスタン南部、テルメズ郊外にあるファヤズ・テパの遺跡。ここにはかつて巨大なストゥーパと、僧院、厨房、そして儀式を執り行った池があった。ここで出土した石灰岩製の三尊仏像は、うつぶせの状態で埋まっていたため、繊細な彫刻部分は欠けることなく眠っていた。そして、中央アジア最高の仏教美術品として、タシケント歴史博物館に展示されている。

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【ファヤズ・テパ出土の三尊仏:タシケント歴史博物館蔵】

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 発掘した考古学者の名前、ファヤズ博士から名づけられたファヤズ・テパは、紀元1世紀から2世紀にかけて、クシャン朝のもとで仏教文化が花開いた地である。インドで興った仏教は、ガンダーラで仏像の文化を生みながら北へ布教され、アフガニスタンへと入る。そして、テルメズ近郊に今も流れるアム・ダリヤを渡り中央アジアに入った。
 かつてこの地では、古くからゾロアスター教が信奉されていた。ゾロアスター教の教義では、人間の死後、天国に行けるか地獄に落ちるかは一切わからないとされていた。しかし、生前の喜捨によって徳を積むことにより、天国へと行けるという仏教の教義が一般大衆に受け入れられ、中央アジアに仏教の信仰が広まったという。その後、すでに確立されていたシルクロードを通り、中国、そして海を渡って日本に渡来することになった。
 喜捨という考えを裏付ける通り、このファヤズ・テパの厨房からは、各地の信者の名前が書かれた食器が見つかっている。食器を献品し、徳を高めたのであろう。
 
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     【厨房跡に残る釜戸】                        【儀式を行った池の跡】
 
 

 現在のファヤズ・テパの遺跡には、風雨の浸食を避けるようにカバーで覆われたストゥーパが残っている。内部には、1,800年近く前のオリジナルのストゥーパが保存されている。かつてストゥーパは、小さなストゥーパが沢山集まると、一つの大きなストゥーパにまとめ、段々と大きなストゥーパになっていった。


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      【左:オリジナルのストゥーパ】                                                               

      【上:ストゥーパを覆うドーム】


 



 中央アジアには、紀元8世紀にイスラム教が流入し、現在は仏教徒の姿はない。人も宗教もすれ違ったこの地には、アム・ダリヤの流れだけが、今も時を越えて流れ続けている。

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【テルメズ近郊を流れるアムダリア】

【関連ツアー】
タジキスタンとテルメズの遺産
文明の十字路 ウズベキスタン



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2013年10月25日

「早春のペルシャ」発表!

今年も「早春のペルシャ」のパンフレットで、イランの3ツアーを発表しました。
長い冬が明け、春の訪れとともに歴史と自然の見どころに溢れたイランが皆様をお待ちしています。発表した3つのツアーを、それぞれご案内いたします。

〈ペルシャ歴史紀行〉
アケメネス朝の都ペルセポリス、世界の半分イスファハン、二つの見どころに加え、ゾロアスター教の拝火寺院の残るヤズドや、巨大なジグラットの基礎が残るチョガザンビルなど、一歩踏み込んだ観光内容です。
イランと言えば、ハイライトはペルセポリス。アケメネス朝の祭事、宗教儀式を司る都市として建造されたと言われています。アケメネス朝は、広大な地域を支配したため、王の謁見には象に乗った人々もやって来ました。
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【大本殿へと続く象が歩いた階段】


写真の階段は、象も登れるように段差が低く、幅の広い様式で造られています。この階段を上った使者達は、クセルクセス門をくぐって内部に入ります。アケメネス朝が支配した万国からの使者がくぐったため、別名を「万国の門」と呼ばれています。この門の名前だけでも、アケメネス朝の強大さがお分かりになると思います。

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インド人、スキタイ人、エチオピア人など、広大な領土から様々な民族がこのペルセポリスを訪れました。新年にあたるノールーズや、王の即位などに、各地からの貢物を携えた使者がこの門を通ったのですが、どんな気持ちでアケメネス朝の大本営に入ったのでしょうか。





【各国の使者が通った万国の門】


〈イラン北西部周遊〉
ザグロス山脈に沿って、イラン西部を北上するツアーです。一度イランに行った方でも、違ったイランの一面をお楽しみいただける内容です。イランというと、ペルシャ人の国というイメージがありますが、本当は多民族国家です。ツアーの前半で訪れるアフワズは、ペルシャ湾に近く、アラブ人が多数暮しています。また、ザグロス山脈には、イラクやトルコにも暮すクルド人が住んでいます。ツアー後半のカスピ海沿岸には、隣国のアゼルバイジャン人も暮し、その他アルメニア人もイランには暮しています。
このコースの最大のお薦めは、春のザグロス山脈の風景を楽しめること。写真のポピーや、林檎の花など、この時期でないと見ることができない風景を見ながら北上して行きます。
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【赤いポピーが咲く道中の様子】


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【放牧をするクルド人】

道中は、ザグロスに暮すクルド人の生活風景を垣間見ることができます。だぶだぶの伝統式なズボンを履いたクルド男性に出会うことでしょう。

〈大ペルシャ周遊〉
一度でイランのすべてをご覧になりたい方にお勧めのツアーがこちらです。20日間で、主要なイランの見どころの他、ザグロス山脈沿いの自然もお楽しみいただけ、一回でイランのすべてをご覧いただけます。このツアーでは、イスファハンに三連泊。「世界の半分」と言われたイスファハンを、ゆっくりと見学することができます。

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【イスファハンのイマーム広場】


サファビー朝の首都として栄えたこの街は、かつてサファビー朝が支配した国々から集めた職人によって、美しい建築が沢山建造されました。シェイク・ルトフォラー・モスクは、青いタイルで囲まれた美しい外観も圧倒されますが、内部の装飾も細かい装飾が施されています。

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イマーム広場周辺には、バザールが広がり沢山のお店が軒を並べています。ペルシャ絨毯は値が張るので、手ごろなお土産がペルシャ更紗です。この更紗、染料を付けた木版を押して柄を付けるのですが、この木版を作る職人さんが少なくなっているとのこと。今後、貴重な文化遺産になるかもしれません。


【左:イスファハンの金曜モスク】

【下:シェイク・ルトフォラー・モスクの入口のタイル装飾】














最後に、食のお話しです。イランはお茶の文化圏で、お茶は西アジア共通のチャイと呼ばれています。ストレートのお茶を口に含み、その後に口の中に小さな砂糖の固まりを入れて、口中で混ぜて飲むのがイラン式の飲み方。
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【口に入れる砂糖を置いたチャイ・セット】

イランの代表的な食事に一つに、チェロ・ケバブがあります。ハンバーグ状にしたお肉を串に巻いて焼き、同じく串で焼いたトマトとお米と一緒にいただきます。お米は油を使わずに水で炊いてありますので、焼いて柔らかくなったトマトを潰して混ぜていただくのが現地の食べ方です。
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【焼トマトを添えたチェロ・ケバブ】

イスラム教国なので、アルコールはご法度ですが、ノン・アルコールビールが普及しています。苺味など、いろいろな味のノン・アルコールビールが出回っていますので、ぜひその味を体験してみて下さい。

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【これはビール味のノン・アルコールビール。アルコール0.0%】

歴史、自然、食文化、まだまだご紹介し切れない見どころが満載のイラン。春のベストシーズンに、皆様のお越しをお待ちしております。

関連リンクはこちら

ペルシャ歴史紀行
イラン北西部周遊
大ペルシャ周遊

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2013年10月18日

「早春のウズベキスタン」発表!

 毎年ご好評いただいております「早春のウズベキスタン」のツアーを発表しました。
夏の強い日差しの下のウズベキスタンも、秋風吹くウズベキスタンも素敵ですが、早春ならではのウズベキスタンの魅力をご紹介いたします。
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                【サマルカンドの華・レギスタン広場】

  この季節は、菜の花が咲き始める時期で、古代サマルカンドが眠るアフラシアブの丘は緑で覆われ始めます。夏の時期は、強い日差しで草が枯れてしまい土色の風景ですが、緑多い風景が見られるのは春ならではです。この丘の下には、アレキサンダー大王がこの地を訪れる前の頃から、チンギス・ハーンの襲来までの時代のサマルカンドが眠っています。大王の時代はマラカンダと呼ばれ、中国の史書では康国と呼ばれた中央アジア最古の都は、シルクロードの主要なオアシス都市として栄えましたが、チンギス・ハーンの襲来によって町は塵と化しました。かつては、ソグド人を中心とした国際都市で、家の中に下の写真の壁画を描くほど裕福な人が住んだ町でした。

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【12層もの時代の地層が残るアフラシアブの丘】

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【アフラシアブの丘から出土したソグド人の使節団を描いた壁画】
 
 
 

 その後、サマルカンドを首都として広大な帝国を支配したティムールによって、中世の一大文化都市に変貌し、現在の私達が見学するモスクやミナレットがこの時代に建てられました。今も見る者を圧倒する壮麗な建築群が、春の季節に皆様をお待ちしています。

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                 【タシケントのアムール・ティムール像】

  次に料理のご紹介です。暑い時期ですとどうしても食欲が落ち、折角のスープも夏ですと少々ありがたみがないかもしれません。気候の和やかな春の時期、食事の最初に出てくるスープの味も格別です。
 ソビエト時代の名残で、赤いビーツ(甘藷)を用いたボルシチの他、肉団子や、日本のそうめんに近い麺の入ったものまで様々なスープがあります。

【ボルシチ】IMG_6308










【サワークリームが浮いたボルシチ】


【ヌードルスープ・マンチザ】【マンチザ】IMG_6008

 どのスープにも、細かく刻んだイノンド(ディル)という香草が浮かんでいます。中央アジアが原産のイノンドは、バザールでも束になって売られています。食事でもバザールでもこの香を嗅ぐと、シルクロードに来たと実感されるのではないでしょうか。


 

 最後はザラフシャン山脈のお話しです。ティムールの故郷・シャフリサブスに残る彼の宮殿アク・サライの上からは、遠くザラフシャン山脈が見えます。その向こうはタジキスタン。春の時期は、山の上に真っ白な雪が被り、緑多き田園風景が見渡せます。この光景も春ならでは。自然の景観が楽しめるのもこの時期です。

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                       【雪を頂くザラフシャン山脈】

 現地手配会社と、利用航空会社のアシアナ航空のご協力によって、今年も謝恩価格で発表しました。サマルカンド、ブハラ、ヒヴァ、世界中から多くの旅行者を引き付けて止まないウズベキスタンはこれから厳しい冬を迎えますが、冬が開けた頃、皆様をお待ちしています。

↓本日アップのツアー紹介はこちら
早春のウズベキスタン

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2013年08月03日

海のシルクロードを渡った乳香 オマーン

6月にオマーンへ行って来ました。
出迎えてくれたガイドさんの車に乗った途端、香ってきたのが乳香の香りでした。オマーンでは、乳香の木の栽培が行われ、オマーン国内のみならず、海外へと輸出されています。乳香は、世界各地で様々な宗教儀式の際に香として利用されている他、香水の原料としても利用されています。
 古くは古代エジプトのファラオの時代から利用され、現在も宗教儀式や香水の原料として利用されている乳香。今も人々の心を捉える乳香の魅力と、海のシルクロードを通って各地に運ばれた乳香の歴史をご紹介します。
ムトラスークの乳香屋2

ムトラスークの乳香屋

 新約聖書には、キリスト生誕の際、東方からの三人の博士が乳香、没薬、黄金を貢物として持参したと記述されています。占星術により新しく生まれた王の場所を見つけ、ベツレヘムまでやって来た彼らの貢物の中に、黄金と並ぶ最大級の品、乳香がありました。
 また8世紀の中国の史書には、アラビアからの乳香が中国に運ばれたという記録が残っています。そして10世紀には、日本にも伝来した記録があります。
 東方の三博士は、陸のシルクロードを通り、キリストの元へ乳香を運びました。
一方、日本まで伝わった乳香は、海のシルクロードを通り、中国を経由して渡ってきました。

乳香の木乳香の樹液


乳香の木                            (上)乳香の樹液  (下)ニズワのスーク

ニズワのスーク


では、古くから貴重な交易品として扱われた乳香とは、どういうものなのでしょうか。
乳香は、カンラン科の樹木、乳香の木から出る樹液を固めたものです。乳香の木の樹皮に傷を付け、滲み出した樹液が固まるのを待ちます。樹液が乾燥し、樹に固まったものを集めます。白色、もしくは薄い茶褐色をしており、固まった樹脂を炭の上で燻してその香を楽しみます。私の感想としては、その煙は甘く、そして心をリラックスさせるアロマテラピー作用があるような香りです。  

 この乳香の一大産地であるオマーンでは、一般家庭で香として使われており、殺虫作用もあると言われています。オマーン各地のスークでは、乳香専門の店が軒を連ね、店頭で乳香を燻す香が漂っており、多くの人が乳香を買い求める様子を垣間見ることができます。



 オマーンは、東アフリカ、インドなどとともに乳香の産地として有名な地ですが、古代から乳香の産地として名を馳せた地でした。オマーン南部、アラビア海に面したサラーラ近郊に残り、紀元前1世紀に遡るホール・リーリ等の都市遺跡からは、季節風を利用し、海のシルクロードを伝った海洋交易によって乳香が運び出されました。

 アケメネス朝の時代にすでに、アラビア海からインドへの探検が行われていた他、ローマ帝国は海のシルクロードを使ってインドと交易をしていました。7世紀になると、ダウ船を利用したアラビアやペルシャのイスラム商人が海洋交易を広げ、中国にも拠点を持つようになります。
この頃、乳香は中国へと伝わり、反対に中国からは絹や陶器が西へと運ばれました。特に、重量があり壊れやすい陶器は、海のシルクロードを船で運ばれて行ったのです。その後日本へは、東南アジアからの白檀などの香木に加え、香として使われた乳香が伝わります。

 店頭の乳香ニズワ城と金曜モスク


店頭の乳香                            ニズワ城と金曜モスク

 オマーンを訪ね、この地が乳香の海のシルクロードへの出発地であり、また長い歴史の中で日本まで伝わったことに思いを馳せることができました。スークに漂う乳香の香りの中、アラビア海を渡って同じ香りが日本にも漂ったことを思うと、感慨深いものがありました。
 またオマーンには、アラブの雰囲気の漂う古都ニズワや、フィヨルド地形の続くムサンダム半島など、見どころも豊富な国です。
 皆様もオマーンで、乳香と海のシルクロードの歴史に触れてみて下さい。

▼西遊旅行で行くオマーンの旅はこちら
オマーン 乳香の道とホルムズの絶景ムサンダム半島


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2013年02月14日

「地獄の門」見聞記

今シーズン新たに発表した「地獄の門と奇跡の大地」。トルクメニスタンのカラ・クム砂漠の絶景を訪ねる新コースの視察を、昨年12月に行って参りました。今回は、その時のご報告です。

 経由地のイスタンブール出発が5時間も遅れ、何かいやな予感がしました。案の定、首都アシハバード到着時は濃霧。気温は5度。大陸性気候のため、冬はマイナスにもなる過酷な地のため、覚悟はしていました。そのためツアーの設定は春から秋にしています。
 アシハバードから四輪駆動車で走ること5時間、トルクメニスタン西部の街・バルカナバードに到着しました。まずはこのツアーのハイライトの一つ、ヤンギ・カラへ向かうためにこの街で一泊しました。
 翌朝、ヤンギ・カラの絶景地帯へ。カスピ海東岸に広がるこの地のことは、日本で調べていましたが、トルクメニスタンの北に位置するカザフスタンに広がるウスチュルト台地と同じような風景と思っていました。ヤンギ・カラもウスチュルト台地も、かつては海の底だった所で、大地の隆起の後に、風雨の浸食によって、奇岩広がる絶景地帯に変わりました。石灰質の大地なので、白を基調としたテーブルマウンテンが広がる風景は同じなのですが、ヤンギ・カラは地層にヨウ素を大量に含んでおり、このヨウ素が生み出すピンク色と白の織りなす絶景が広がっていました。

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【ヤンギ・カラの大地の上より】


 
 ヤンギ・カラに近づくにつれ、遠くにだんだんと大きなテーブルマウンテンが見えてきました。幹線道路から、大きなテーブルマウンテンを下から見上げるように走り、その後標高を少し上げた所からオフロードに入り、台地の上に上がりました。この台地の上から、果てしなく奇岩が連なる風景を見ることができます。ツアーでは、この台地の上に滞在する時間を多く取り、絶景の中でテント泊をすることができます。



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【ガイドさんが撮った私の姿】                       【バザールで売られるチョウザメ】

 その後、カスピ海沿岸の街・トルクメナバードへ。近年、トルクメニスタンのリゾート地になり、郊外には大きなホテルが沢山建設されていましたが、庶民が集うバザールでは、カスピ海で採れたチョウザメが沢山並んでいました。
 視察はその後、ウズベキスタンとの国境に近いタシャウズへと向かい、いよいよ「地獄の門」へと向かいます。タシャウズは、なんと気温マイナス20度。あまりの寒さで4WDのエンジンがかからず、出発が遅れましたが、幹線道路を走ること4時間、いよいよクレーター群に到着です。ダルワザという地名は、その名も「門」。ここには、40年程前に天然ガスの採掘作業中に空いた大きなクレーターが3つ残ります。最初に、底に地下水が湧き出た「水のクレーター」、泥がたまった「泥のクレーター」を見学。どちらも地下から吹き出すガスによって、泡がブクブクと湧きあがっています。

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【水のクレーター】                              【泥のクレーター】

 その後、メインの「火のクレーター」へ。オフロードを走ること30分あまり、とうとう念願の「地獄の門」に到着。車を降りて近づくと、まずは火の燃える轟音に驚きました。横60メートル、縦50メートルのだ円系のクレーターの内部は、ものすごい勢いで火が燃えており、熱によって生まれた陽炎が覆っていました。夢中でクレーターの回りを何周も歩いて写真を撮っているうち、だんだんと陽が落ちてあたりが暗くなってきました。真っ暗な闇が辺りを覆う頃、漆黒の中に燃え続けるクレーターの迫力は、言葉では表現できない程です。まずは、皆様も現地で見て下さい。

●横1枚で使う大きな画像KOJI9350

                           【地獄の門】

 翌日は、アシハバードへ向かう途中、砂漠の中に佇む小さな村、ダムラ村に向かいました。なんと、朝から雪が降り出し、「黒い砂漠」を意味するカラ・クム砂漠が真っ白な雪化粧に変わっていきました。外はミネラルウォーターも凍る程の寒さ。村では、雪の中を歩くラクダの群れに出迎えられ、一件の民家を訪問。

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【凍ったミネラルウォーター】                       【ラクダの雪中行進】

 この村は、ソビエト時代に建てられた住宅の他、伝都的なユルトも常設されており、村の方々は両方の建物を使って暮していました。村の広場には、ナンを焼く釜戸・タンドールがあり、村の人が共同で使ってナンを焼く風景を見れました。バザールで買った米を持参し、民家でプロフを作っていただきました。豊富な天然ガスにより、近年どんどんと近代化していくトルクメニスタンですが、羊の毛で作った帽子・カルパックを被り、伝統的な暮らしを続ける様子を、見ることができました。

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【タンドールでナンを焼く様子】



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【お世話になった民家の方々】

 極寒と強風の中の視察でしたが、トルクメニスタンの別の魅力を知ることができました。ヤンギ・カラの絶景、燃え続ける「地獄の門」、そして伝統的な暮らしを守る砂漠の民が、皆様をお待ちしています。

▼関連ツアー
・地獄の門と奇跡の大地 12日間
・地獄の門と奇跡の大地 9日間

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2012年05月18日

栗特(ソグド)の軌跡③:渡来

ゴールデンウィークにタジキスタンの添乗に行って参りました。
今回はその時に撮った写真を交え、日本まで伝わったソグド人の軌跡を、言葉や伝承から探ってみましょう。

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【ザラフシャン山脈の夕焼け】               【ドゥシャンベのバザールにて】
 

まず、食べ物の名前に残る彼らの形跡をご紹介します。写真はイスタラフシャンとドゥシャンベのバザールにあったものです。

中国で胡人と呼ばれた彼らが西域からもたらしたものの名前には、「胡」から始まるものが多く、そのまま日本で使われています。

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【胡瓜=きゅうり】

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【胡桃=くるみ】                        【胡椒=こしょう】

次に、彼らはアーリア系の民族のため、長身で長い手足を持っていました。
そのため正座をする習慣がなく、足を組んで「あぐら」をかいていました。
あぐらも漢字で書くと、胡人が座る、すなわち「胡坐」と書きます。
写真はソグド人とは関係なく、クシャン朝の時代のものですが、胡坐をかいて瞑想する仏陀の像です。

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【三尊仏像 ファヤズ・テパ出土 タシケント歴史博物館】

次に、伝承に残る彼らの足跡を見てみましょう。

日本書記に登場する神の一人に、猿田彦がいます。
「ににぎのみこと」の天孫降臨の際に道案内をした、高い身長と高い鼻を持った神様ですが、彼は大陸から渡来した胡人ではないかという説があります。

ソグド人の言葉でキャラバンのリーダーを表す「サルト・ポウ」という言葉は、中国では「薩宝」と書かれ、中国に定住したソグド人の肩書に使われました。
このサルトという言葉が猿田になり、道案内をするキャラバンのリーダーと結びついて、道の神として日本の神になったという説があります。

また鼻が高いこの神の容姿から彼は、後の天狗の原型とも言われています。
写真が掲載できないので残念ですが、奈良の正倉院にある「伎楽面 酔胡王」の7つの面のうち、酒に酔って真っ赤になった胡人の王の面は、まさに天狗そのものです。

シルクロードから消え去ってしまったソグド人ですが、彼らの名前や姿だけが、1200年以上経った日本にも残っています。
商人として活躍し各地に赴いたソグド人は、いつの日か海を渡り日本にも渡来していたのではないか。

そう想うと、我々日本人がシルクロードに抱く感情は、憧れと同時に、遠い記憶とも言える気がします。


関連ツアー
文明の十字路 ウズベキスタン
タジキスタンとテルメズの遺産
タジキスタン冒険行 パミール・ハイウェイとワハーン渓谷

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2012年04月04日

栗特(ソグド)の軌跡②:民族の光と陰

その男の名は、ソグドの言葉で「光」。中国に定住したソグド人でした。
彼はロクシャンというソグド名を漢字で「禄山」とし、中国では安禄山という名を使っていました。

将来掴んだお金を離さないよう、子供が生まれると手に膠(にかわ)を塗るソグドの風習を、彼も生まれた時にしたのかもしれません。
しかし、彼が握ろうとしたのはお金ではなく、彼が生きた地、唐帝国の権力だったのです。

安禄山は父方がサマルカンド出身のソグド人でした。母方は突厥系でしたが、唐の政界で頭角を現し、時の玄宗皇帝に気にいられ、さらに妃の楊貴妃を取り入って宮廷を自由に出入りできるまでになりました。その背景には、唐各地に住むソグド商人達からの莫大な貢物があったと言われています。

シルクロード大走破☆ 719
シルクロード大走破☆ 704

             【かつての唐の都・西安】        【西安の西門から見るかつてのシルクロード】

紀元755年、彼は兵を起こして洛陽を陥落させ、自らを聖武皇帝と名乗り、国号を燕と変えます。クーデターを起こしたのです。
これが中国史上最大の反乱と言われる、安史の乱です。
安禄山は首都の長安をも奪い、玄宗皇帝は蜀へと逃れます。

しかし絵に描いたように、簡単に大帝国の天下を奪うことはできませんでした。
反乱のさなか、彼は病気で失明し、その後暗殺されました。
しかし、彼の息子などに引き継がれた安史の乱は、その後8年に渡って唐を揺るがすことになったのです。

話はそれますが、アレキサンダー大王の妃、ロクサーネも、ソグディアナ出身のソグド人でした。名前の意味は、安禄山と同じ「光」です。
しかし安禄山が起こした謀反は、父方のソグド人に、その後暗黒のような「陰」をもたらすことになったのです。

反乱の後、唐は謀反を起こした民族としてソグド人を粛清します。「胡面」という西域の顔立ちをした者は、すべて殺害されていったのです。

さらに時を同じくして、ソグド人の故郷のソグディアナには、西方からのイスラム王朝が押し寄せます。ゾロアスター教徒であったソグド人はイスラムへの改宗を拒み、ここでも多くのソグド人が消えていきました。そして故郷の一つペンジケントの都には、火が放たれました。

ペンジケント (2)

                 【ペンジケントに残るゾロアスター神殿跡】

東と西からの歴史のうねりに呑まれ、ソグド人はシルクロードの舞台から消えてゆきました。
現在、ソグド人という民族をシルクロードで見ることはできません。
彼らはその後の長い年月の中で、北方から南下してきたトルコ系民族と同化し、イスラム教へと改宗していきます。民族的、宗教的な面で、ソグド人のアイデンティティーが呑み込まれていったのです。

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【シルクロードに残る面影】
【右:タジキスタン 左:ウズベキスタン】

シルクロードの歴史に登場し、中国史にも大きな足跡を残したソグド人。
忽然と消えていった彼らの面影はしかし、今もシルクロードに生きる人々の中に一途の光として脈々と引き継がれているのです。

次回は、中国から海を渡って日本にまで伝わったソグド人の足跡をたどります。

【関連ツアー】
文明の十字路 ウズベキスタン
中央アジア世界遺産紀行
タジキスタンとテルメズの遺産
タジキスタン冒険行



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2012年02月16日

栗特(ソグド)の軌跡

ウズベキスタン、ザラフシャン川のほとりが彼らの故郷です。

大きな帝国ではなく、ペンジケント、サマルカンド、ブハラなどの小さな都市国家しか形成しなかったにも関わらず、シルクロードの歴史に深くかかわり、中国やアラビアの史書にも登場する民族です。
シルクロードの各地に足跡を残しながら、彼らは忽然と歴史の彼方に消えて行きます。

その民族の名はソグド人。

ソグディアナと呼ばれた故郷から隊商を組み、はるばる中国、アラビアまで足を伸ばす商人として活躍した彼らの足跡は、シルクロードの歴史に深く刻まれています。
今日から彼らソグド人がシルクロードに残した軌跡をたどってみたいと思います。
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【ソグド人の都跡:ペンジケント】

彼らはまず商才に長けた商人でした。
文字通りのシルクはもとより、香辛料、香木などの商品の他、駱駝や馬、そして奴隷まで商っていたと言われています。

ソグド人は子供が生まれると、口に密を含ませ、手には膠(にかわ)を塗ったとの記述が中国の史書に記されています。これは、大人になったら密のように甘い言葉で商いをし、つかんだお金は離さないようになるとの願いが込められていました。

隊商を組んで広いシルクロードで安全に商いをするには、その国の政治状況、治安状況、文化の流れなど、様々な「情報」が必要になりました。政変の起こりそうな気配がある国はどこか、その国ではどんな商品が好まれるのか等、様々な情報をもとに商いをしていたのです。

情報収集能力に長けていたのは、各地に張り巡らされたソグド人のネットワークでした。彼らの一部は商いで赴いた国に定住し、コミュニティーを作っていたのです。

下の写真は、中国風の帽子を被った、中国に定住したソグド人の像です。ペルシャ系の民族のため、彫りの深い、青い目をしていた彼らですが、中国風な顔立ちで描かれています。
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【胡人の像:甘粛省歴史博物館】

中国では「胡人」と呼ばれ、中国姓を名乗っていました。姓は彼らの出身地ごとに分かれており、サマルカンド出身のソグド人は「康」、ブハラ出身は「安」、タシケント出身は「石」というように、出身地ごとに違う漢字の姓を使っていました。

また彼らがもたらした西域の文化は、当時の中国で大流行しました。下の写真は舞を踊る胡人の像です。新体操のようなリボンを両手に持ち、小さな円形の敷物の上で回転する踊りが大流行しました。
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【踊る胡人:甘粛省歴史博物館】

また彼らは「薩宝(さっぽう)」という肩書も持っていました。近年、中国で発見されているソグド人のお墓には、「薩宝」という文字が刻まれています。この言葉は、ソグド人の言葉で「キャラバンのリーダー」を表す「サルト・ポウ」から来ています。

次の写真は、彼らの故郷ペンジケントから出土した彼ら自身の壁画の写真です。面長で、まるで日本の聖徳太子にそっくりな顔立ちです。
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【ソグド人の壁画:ドゥシャンベ国立博物館】

同じソグド人でも、描かれた場所でこれだけ顔が違うのがとても興味深いです。
そして、聖徳太子に似ていることも、覚えておいてください。

赴いた地に同化した彼らは、ネットワークを広げ、商業のみならずその国の政治、文化にも大きな影響力を持つ民族へと変貌していきます。

次回は、唐の時代に起きた中国史上最大の反乱、安史の乱に関わったソグド人と、その後のソグドの歴史を辿ります。

【関連ツアー】
早春のウズベキスタン
文明の十字路 ウズベキスタン
タジキスタンとテルメズの遺産

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2012年01月20日

今年もシルクロードへ

寒い日が続きますが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
お待たせしました。弊社の2012年シルクロードパンフレットが完成しました。
中国の新疆、パキスタン、中央アジア、そしてコーカサスまでのシルクロードの国々を網羅したラインナップです。新コースも盛り込んでおりますので、皆様ぜひ今年もシルクロードへ足を運んで下さい。
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【レギスタン広場のシルダール・メドレッセ】

235
【ブハラのナディール・ディバンベキのメドレッセ】

そして、このシルクロード英雄列伝、今年も始動します。
昨年はチムールやジャラルッディーンなどの英雄を取り上げましたが、今年はシルクロードを舞台に活躍した民族・ソグド人にも焦点を当ててみたいと思います。

ウズベキスタンのザラフシャン川のほとり、ソグディアナから、はるばる中国まで足を伸ばし、各国の文化、政治にも大きな影響を与えたソグド人。日本にも、彼らの文化、風習が伝わっています。現在のウズベキスタン、タジキスタンを中心に、彼らの残した遺跡や史跡も数多く残っています。
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【アフラシアブの丘から発掘されたソグド人の壁画】

下の写真はソグド人が拝火教徒だったことを物語る火を祀るソグド人の壁画です。
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【ブハラのアルク内の博物館にあるソグド人の壁画】

このブログで、彼らがシルクロードから日本にまで残した足跡をこれからたどってみたいと思います。

今年もこの英雄列伝、乞うご期待。



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