サイゼリヤ

ミラノ風ドリア299円

・お題箱17

28.巨神兵東京に現るのどこが高評価なんですか?
img_0[1]
世界の終わりと新世界創造をよく描いているところです。

補足43:なんか特撮オタク的には全部アナログで撮ってるのがすごいらしくて「特撮技術」っていうテーマで語る人がかなり多いんですけど、僕はそれには興味がないのでどうでもいいです(別に全編CGでもいいです)。あと、その次に多いのが原発事故のメタファーと再起のメッセージっていう解釈で、これは更にどうでもいいです。

世界の終わりというテーマ自体はかなりメジャーなものですが、大抵は(大衆受けするストーリーを作らないといけない都合で?)終わりに抗う人間のパワーの話や、終わる世界の中で繰り広げられるヒューマンドラマにすり替わられてしまうんですよね。
純粋な破壊と破壊神だけを見たいという需要に答える作品は貴重……ではないにせよ、まあ、「世界の終わり」と言ってあれこれ思い浮かぶ中でも多少は絞られてきます。

誤解されないために一応言っておくんですけど、この世界終末願望はいじめられっ子が学校に行く代わりに抱くものとは全く別のものです。
具体的なエピソードに誘発されたものではないし、具体的な目的への過程でもありません。人生で最も幸せな瞬間でも世界の終わりを望む、根源的に破滅志向性の人間がたぶん世の中には一定数いて、そういうタイプのものです。

とはいえ「世の中に一定数存在する終末願望に合致した世界の終わりをよく描いているから」というのでは、回答としてはちょっと貧弱ですね。
目的のない終末が何故望まれているのかについてもう少し説明をしておきたいのですが、これに関しては宮台真司のシンゴジラ評がちょうどいいので、リンクを貼っておきます→

終末願望は「破壊の享楽」という単語でクローズアップされており、最初と最後にそれに触れられています(中盤のエヴァについて喋っている部分は関係ないので読み飛ばしていいです。具体的には「岡本喜八『日本のいちばん長い日』の再現」~「ファンタズムぶりを暴き出すアスカ・ラングレー」の部分は読まなくていいです)。

補足44:ついでなのでシンゴジラの話をすると、日本礼賛的な感想が非常にどうでもよくて呆れてしまうという宮台の意見には(オタク的なマウントを取りまくっている文章がちょっと(かなり)鼻に付くとはいえ)、正直僕も同意します。しかし、その理由は彼が言っているような「本当に庵野が込めているのはそれに対する皮肉だから」という積極的な妄想ではなく、「意図を逆流させるべきではない」という消極的なスタンスです(それは宮台に対しても同じです)。

終末願望=「破壊の享楽」が発生するメカニズムを書いているのは1ページ目なのでそこを読んでくれればいいんですけど、「言語は否定性と表裏一体」っていう部分は少しわかりにくいかもしれないので補足します(多分ソシュールが言ってた差異性の話だと思うのでその説明をするんですが、違うかもしれません)。

例えば、生まれてこの方動物を見たことが無い人に「猫」という言葉を教えることになったとします。
一番最初に思い付くのは猫のサンプルを何匹か適当に持ってきて「これが猫ですよ」と言って渡してみるという方法ですが、実はこれでは「猫」という言葉を把握するのは難しいことが知られています。
例えばシャム猫と三毛猫とペルシャ猫をサンプルとして渡されて「猫」の学習を終えた人が、次にアメショを見たときに「これも猫だ」と判断できる可能性は低いです。アメショとシャム猫では、毛の色・顔の形・大きさなどが違います。見てきたサンプルに合致しない以上、「猫ではない」判断する可能性の方が高いです。

補足45:大雑把な捉え方をする人であれば「猫です」と答えることも考えられますが、そいつは犬やウサギを見ても「猫です」と答えるはずです。

じゃあどうすればいいのかというと、猫のサンプルを見せて「これが猫ですよ」と教えると同時に、ついでに犬も渡して「こっちは猫ではありません」と教えてやるのです。

「猫」を教えるために「猫でないもの」を見せなければならないというのが重要なポイントです。
猫だけを渡されて「猫です」と言われてもどこに注目してどこがどう似ていれば「猫」の範疇に入るのかがわかりませんが、「猫ではありません」と言って渡された犬と見比べれば、類似点や相違点がどこにあるのかを理解できます。デカ牙があって目が小さければ猫でない、顎が丸ければ猫、というような判断基準の確立(加えて、「四つ足なら猫」「毛があれば猫」というような誤判定の消去)は犬が出現して初めて可能になります。

同様にして、「法に従う」という言語プログラムも「法に従わない」状態があって初めて成立するものだから、言語プログラムが秩序的であればあるほど社会は相反する破壊を内包してしまう、それ故に社会は「破壊の享楽」と隣り合わせである……みたいな説明でいいんですかね?よくわかんないですけど。

まあ、正しいかどうかはともかく、この説明で一応の筋は通るので僕はある程度は「なるほど」って納得できたんですけど、理屈はわかっても納得はしない人の方が多いような気もします。

補足46:そういえば坂口安吾の堕落論にも「私は偉大なる破壊を愛していた」みたいな文章があったと思って今読み直してみたんですけど(青空文庫で無料です→)、破壊願望の根本についてあまり深くは触れていないですね。偉大なる破壊が堕落に対する抵抗の一種であるというのはわかったんですが、無根拠に発生する堕落に対してストップをかける機構について、「人は弱いから(?)」よりもうちょっと詳しく解説してほしかったです。

これで「巨神兵東京に現る」のどこが高評価なんですかという質問に対して納得させられるような回答ができたとはあんま思えないんですけど、手は尽くしたのでそんな感じです。

そういえば、似たようなことを前に二式で「悪の華」の感想にかこつけて扱ったことがありますね。あれも「アンチ現実」的な衝動の源泉はどこにあるんだろうっていうテーマで、僕の中では同じ話です。

・Pixel

ピクセル [SPE BEST] [Blu-ray]
アダム・サンドラー
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2016-07-06

オタクを扱ってはいるけど、金+女+栄誉→サクセス!っていうアメリカン陽キャ映画だった。
日本のオタクが陰キャすぎるだけでアメリカではオタクも陽キャなのか、それともアメリカのオタクも陰キャだけど大衆向けに陽キャノリで作ったのかよくわからない(前者のような気がする)。
まあまあ、退屈しないし普通に面白かったですよ。

映画の内容とは全然関係ないけど、連想される話題として

・作品から要素を抜き出してくることについて(デブオタクが現実化したヒロインと結婚したやつ)
・レトロゲームの感想(近所のゲーセンに怪しいエミュ基盤、かなり色の濃いグレー筐体があって俺はたまにそこでレトロゲームをプレイする)

みたいなことをいつか書くかもしれない。

・文系コンプレックスについて

最近文系っぽい話ばっかりしてるけど、分類としては俺はバリバリの理系である。
仮想マシンのベンチマーク測定とか二足歩行ロボットあたりが本来の専門領域なわけで、「正規の文系教育を受けていない」というコンプレックスが実は俺の中にはかなりある。正規の教育を受けていないことの何がまずいのかというと、「何がわからないのかがわかっていない」可能性が常にある。

理系分野に関しては、大学のカリキュラム上、線形代数から熱力学までそれっぽいことを広く浅く勉強したので、理系という範疇に入る話題であれば、「どの分野の話か」「どのくらい深い話か」という検討が付くようになっている。
俺がよく知っているなら多分基礎に近い話だし、聞いたこともなければそれはそれで極めて専門的な話だなという情報は得られる。別によく知らなくても「よく知らない」という情報が活きるので、何を聞いてもそれを適切な場所に定位できるのではないかという一応の安心感があるけど、文系にはそれがない。

とはいえ、文系は理系のようにふんわりとした分科ネットワークを共有しているわけではなく、いわゆる一般常識はせいぜい高校教育で完了しているという見解も聞く(文系の人に聞いた)。型にはまった進め方をする理系と違って文系は興味の細分化が早いので共通了解は基本的なところに留まっているらしい、本当か?

まあでももし仮に文系に進学していたら、それはそれで科学哲学あたりで相対論とか量子論についての理系的文脈教養が無いことを嘆く羽目になっていたと思うので、文系を選択しておけばよかった~的な後悔は特にない。

なんか定期的に書いてる、「知らないという状態には2状態ある:1.何を知らないかを知っている状態 2.何を知らないかすら知らない状態」っていう話をまたしてしまった。

・お題箱16

26.pythonの勉強は何から始めましたか? 書籍名やurlなどのオススメ教えて欲しいです。
pythonの勉強に使ったのは

これ一冊です。

よって、一番目の質問への回答はこれですが、オススメかどうかというのは難しいところです。
僕は適当な言語を5個くらい浅くやっただけなのであまり偉そうなことは言えないのですが、技術としてのプログラミング言語は料理や読書とは違って「最初はこれ」「次はこれ」というような一定の学習ステップを踏まないところがあって、簡単には答えられないという話をします。

まず、僕の見たところ、プログラミング言語は「共通事項」+「言語特有の事項」という二点で出来ています。

「共通事項」というのは、どのプログラミング言語でもほとんど同じ部分のことです。
具体的には、「変数」「フロー制御」「関数」とかですね。この辺の概念はどの言語にも存在し、せいぜい細かい書き方が違うだけで、内容は言語によらず全く同一です(オタクに釘を刺しておきますが、変な例外を挙げないでくださいね)。一度何かしらの言語を学習すれば常に30分くらいで読み飛ばすことができますが、初学者にとっては理解に時間のかかる部分でもあります。「a=a+1」「initialize()」のような妙な表記をはじめ、プログラミングをしていなければ触れることのない独特の考え方が詰まっているので、経験がない場合はゼロを発明するインド人(←一度理解すれば簡単だけど、その理解を一度するのが難しいものの喩えです)のように一つ一つ学んでいく必要があるでしょう。

もちろん言語によって違う部分もあって、それが「言語特有の事項」と書いた部分です。例えば、<ここにオブジェクト指向のような具体的な例をいくつか挙げようとしたのですが、あまり知識が無いのでできませんでした>。
言語の仕様だけではなく、ライブラリやコード処理の方式など、外付け的な部分もここに入ってきます。この辺はその言語に独特の部分ですから、他の言語を知っていても改めてちゃんと学ぶ必要があります。

要するに、初学者か経験者かによってプログラミング言語の勉強の意味合い自体が変わってきて、初学者であれば主に共通事項、経験者であればpython特有の事項を知りたいことになると思います。
冒頭に挙げた本は前者の内容が多いです。ノンプラグラマー向けの本であるため、一から始める人のために「コーディングをミスってもパソコンは壊れないから恐れずにいこう」みたいなことが丁寧に丁寧に書いてあります。初心者向けなので意図的に省略している部分も多く、細かい仕様には触れていません。とりあえず動けばOKみたいな感じです。

しかし、それでも僕がこの本を買ったのは、目的意識が明確な点を評価したからです。
目的意識というのは、経験者と初学者というよりは、職業プログラマーと非プログラマーで分かれてくる話題です。
職業プログラマーの場合は、仕様を受け取るか作るかして遂行するための道具というのがプログラミングの存在意義です。つまりプログラミングにとっての外部的な目的が常に存在するのですが、非プログラマーはそうではありません。個人がプログラムを組まねばならない目的などそうそう発生せず、プログラミングはしてもよいし、しなくてもよいのです(僕は職業プログラマーではないので質問者がpythonを使うプログラマーだったらお手上げなんですけど、もしそうならこんなところで僕に聞くわけがないですね)。

そんな非プログラマーにとって、学んだプログラミング言語を「実際に」何に使えるのかを示している本というのはけっこう貴重です。
「実際に」というのが非常に重要なポイントで、大抵の本は「パッと見何かに使えそうだけど、よく考えたら実際に使うことはまず無い」で終わっていることが多いです。

代表的なのはデータベースですね。
だいたいの初心者向けの入門書には「住所録を作ってみよう」みたいな項目があって、「田中 東京都 渋谷区 03-XXXX-XXXX」みたいなデータを格納して取り出す練習をさせられます。これで住所のデータベースを作れるようになりました、はい良かったねとか言ってるわけです。
ちょっと考えれば、何も良くないことがわかります。Excelを使えばいいからです。見にくい使いにくいオナニーソフトではなく、既にプロが作ったものを使うべきです。

プログラマーでもないのにプログラミング本を読んでいる非プログラマーが全面的に悪いとはいえ、非プログラマーがプログラミングの勉強をすると、実際のところ何に使えるのかがよくわからないという問題はかなりの頻度で生じます。料理本を買ったら深海生物の調理方法ばっかり書いてあって、内容はわかったけどこれはいつどこで使うの?みたいな。

その点、冒頭の本は個人利用の範囲でも有益な情報をかき集めてあり、実際に使えるのが非プログラマーにも嬉しいところです。
Webスクレイピング(自動でWebぺージを歩き回る)、画像操作、マウス・キーボード制御あたりは特にいいですね。データベースのようにざっくり汎用的なものが要求されるプログラムではなく、個人的な閲覧や動作に特化したプログラムが作れるので非プログラマーの利用可能性がかなり高いです。

総合して、非プログラマーにはオススメ(プログラミング初学者だと更にコスパがよい)という感じです。
オススメのものを提示するというよりは冒頭の本がどういう人にオススメかを解説する感じになったんですが、最初に書いた通り他のpythonコンテンツには一切触れていないので、この本の対象層でなければ別の場所を当たってください。

27.アイスの爽見て思ったんですけど日常会話だと"そう"ってよく使うのに漫画やラノベだとクール系キャラのそう・・(理解)やそういえば(話題切り替えが稀にある程度で使用機会すくない気がします。なんでなんですかね。
確かにそうですね。情報量が少ないからですかね?
「そう」って、「特に何も感情は動かないし動作もしないけど概ね肯定寄りで理解はした」くらいの反応ですよね。多分人間が何かに応じるうちで最もフラットな反応なので、反応に当たる部分に特に何も書かれていない場合は自動的に「そう」が補われると思います。
物語は劇的でなければならないので、ミクロには省略しても伝わるし、マクロには何ももたらさないものに割くスペースは無いんでしょう(知らんけど)。

ちなみに、爽はアイスにしては珍しくあまり好きじゃないです。シャーベットが邪魔なので普通に中身を詰めてほしいです。

・フレームアームズガール完結

db975677[1]
サクラクエストは六話くらいから溜まってて、ひなこのーとはエンドカードだけ見てたから、今期全部ちゃんと見たアニメはフレームアームズガールだけだった。
マテリア姉妹、特別好きじゃないと自分では思ってるんだけど、ブログへの登場頻度が明らかに高い(というかマテリア姉妹については延々話すのに他のFAガールについて喋った記憶があんまりない)から実はかなり好きなのかもしれない。

・旅立ちエンド、匿名者との関係
Bパートラストでフレームアームズガールたちが旅立っていくのはかなり良かった。
広義のBTTFエンドなんだけど、回収されないのが展開じゃなくて関係性であるというのが独特で、キャラものへのBTTFエンドの応用としてその手があったかと思ってちょっと感動してしまった。

補足40:BTTFエンドとは、「物語の最終盤(残り数秒~数十秒)で新たな展開が発生してそれを回収せずに終わる」ラストシーンのこと。いわゆる「投げっぱなし」ではあるが、単なる伏線未回収とは異なり、尺的に絶対に回収できないしする気もないことが明らかなものを指す。最近では遊戯王ZEXALが該当。
BTTFは「バックトゥザフューチャー」の略で(以降ネタバレ含)、全てが大団円になったあとにドクが「大変だ」とか言いながら駆け込んできて主人公と一緒に車に乗って走り出したところで映画が終わるというラストシーンが有名なので、これ系の終わり方を俺が勝手にBTTFエンドと呼んでいる(現在ではこのシーンは2への繋ぎということになっているが、1が公開された時点では2の製作は考えられていなかった)。


俺がBTTFエンドを好む理由は世界がいくらでも続く=世界の無限の可能性を示唆してくれるからなんだけど、それと同じで、キャラものにおける関係性に対してBTTF式を採用すると、関係性が閉じない(開いた)ラストシーンが発生してくる。関係性について無限の可能性があるというのを言い換えると、あおという具体的な登場人物との関係を確定した轟雷と違って、轟雷以外のガールズは本編に登場していない匿名の誰かとの関係が確定している(ことが仄めかされている)。
フレームアームズガールたちがマスターを探しに去っていくシーンで頭の中でなんかオリキャラを作ってそいつがマスターになる未来を漠然と想像した人がいるとしたら、そのオリキャラこそが無限の可能性で、いつか関係を確定する匿名の誰かのこと。

迅雷たちが「本当のマスターは他にいる」みたいなことを言いながら去っていくのはなんか薄情な感じもしたけど、

轟雷-----あお

の関係と同じくらい明確に

スティレット-----<匿名A>
バーゼラルド-----<匿名B>


っていう関係を示すためには、あおとは決別しないといけなかった。
しかも適当に旅立つだけだと何が目的なのかよくわかんなくなる(匿名者を名指しするというのは原理的に不可能であり、他の構造から類推させるしかないため)から、轟雷⇔あお間の関係が直接的な旅立ちのモチベーションになるっていう描写も絶対に必要なはず。結婚シーンでおほ^~と思いながらも見事な構造に唸ってしまった。

・中盤以降のキャラの回し方
序盤のコメディは神がかってたけど、中盤からはちょっと微妙だった。
キャラが増えてきたのに応じて「全員に平等に見せ場を渡さなければいけない」みたいな義務感が足を引っ張っていたような気がする。

特に鍋回と出し物回で顕著で、鍋回冒頭で全員に均等に言動を割り振ったパートが個人的にはワースト。全員に出番を回そうとした結果「轟雷はおでんが好き」「迅雷は柳川鍋が好き」みたいな情報の羅列に終わってしまって、設定資料集を読んでいるような印象を受けた。
反面、肝試し回はアーキテクト登場以降で一番面白かった。轟雷は先導するけどスティレットはビビり、迅雷とアーキテクトは手を繋いで他は悪戯に回るっていう風に全体を通してキャラクターが全然違う行動を取っていて、見ていて飽きなかった。

この辺の漠然とした「コメディのうまさ」は、

1.関係性への踏み込み
2.範列関係と連辞関係

みたいな話に帰着されてくると思う。
関係性への踏み込みは多分前にもどっかで話したから簡単に済ませるけど、キャラクター同士より関係性の方が数学的に豊富なので積極的に利用してほしいということ。

範列関係と連辞関係については、しばらく講義をしないといけない。

すごく雑に言うと、
無題
というように複数の文章を並べて解体したとき、縦の繋がりを範列関係、横の繋がりを連辞関係と呼ぶ(縦棒がズレるのでわざわざ画像を作った)。

補足41:普通は逆で、範列を横関係、連辞を縦関係と表現する。
というのは、日本語は縦書き文化だから一般に「縦」という概念を直列概念、「横」という概念を並列概念に対応させるんだけど、ブログは横書きなので逆になってしまった。


補足42:横文字では、範列関係はパラディグム、連辞関係はサンタグムと言う。カッケエ……

範列関係は文中で等価な関係、入れ替えても文章が問題なく成り立つパーツ群のことだと思えばいい。
例えば、上の文章では縦に繋がる[轟雷]と[迅雷]は範列関係にある。だから[轟雷]を[迅雷]に変えても文章は成り立つし、[迅雷]を[轟雷]に変えても同じだ。上の文章に限らず、あらゆる文章で[轟雷]と[迅雷]は入れ替え可能である(内容はともかく、日本語としては)。範列関係にあるパーツのうち、適切なものを挿入して文章を作っていると言ってもいい。

一方、連辞関係はパーツの形式的な繋がりを指す。
例えば、[轟雷]-[は]-[おでん]-[が]-[好き]の順番を入れ替えて[好き]-[おでん]-[は]-[が]-[轟雷]とすると全く意味が通じなくなってしまう。範列関係から抜き出してきたパーツたちは、適切な順番で組み合わせる指針を与えなければ文章として成立しない。その「適切な順番」のことを、連辞関係と呼ぶ。
「適当なパーツ=範列関係」と「適当な順番=連辞関係」という二つの指針によって、日本語の文章は構成されているわけだ。

さて、鍋回でのそれぞれの行動を文章に表してみると、上にも書いた通り

轟雷パート:[轟雷]-[は]-[おでん]-[が]-[好き]
迅雷パート:[迅雷]-[は]-[柳川鍋]-[が]-[好き]

となる。このとき、二つの文章の違いは、主語の他は[おでん]⇔[柳川鍋]という単純な名詞の入れ替えに留まっている。[好き]という述定部分は一致しているし、全体として同じ連辞関係を持っていることがわかる。また、この文章は好みについての文章なのでこれ以上補足するところもなく、これ以外の文章にはあまり発展しない。

一方、肝試し回での行動は、

轟雷パート:[轟雷]-[は]-[スティレット]-[を]-[落ち着かせる]
迅雷パート:[迅雷]-[は]-[アーキテクト]-[と]-[手]-[を]-[繋ぐ]

となり、先程と比べて違いが大きい。
[スティレット][アーキテクト]の部分までは可換だが、それ以降の述定部分は構造が異なるために単純な入れ替えが不能になっており、それぞれがかなり違う行動を取っていることがわかる。[スティレット]の部分を[お化け]-[を]-[怖がる]-[スティレット]として補足説明を足していくことも可能で、それぞれの文章の差異を更に広げることも難しくない。

結局は「キャラクターがコメディするとき、その行動は豊富な方が面白い」というだけの話なんだけど、その「豊富さ」をもう少し明確に表そうとしたとき、つまらないシーンでは行動の差異が範列関係のレベルに留まる一方、面白いシーンでは差異が連辞関係まで拡張されると言えるかもしれない。

・お題箱15

25.リトルウィッチアカデミアを見てください
今期見ておけば良かった枠はリクリエイターズとリトルウィッチアカデミアの二強です。
リトルウィッチアカデミア、初出は映画だったじゃないですか。じゃあアニメ始まる前に映画借りて見なきゃっていう話になってきて、そこでハードルが上がったところがあります。

・最近の動向

前々回言ったように、情報秘匿気味に動くのが俺の悪い癖で、そういう見栄を張らないでやっていこうと決意したのが二回目の記事なのに、最近はそれが復活してきている感じがあるので、ここ一週間くらいで消費したコンテンツを列挙する。

ピクセル [SPE BEST] [Blu-ray]
アダム・サンドラー
ソニー・ピクチャーズエンタテインメント
2016-07-06

マトリックス (字幕版)
キアヌ・リーブス
2013-11-26

シックス・センス (字幕版)
ブルース・ウィリス
2013-11-26

風の谷のナウシカ [Blu-ray]
ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン
2010-07-14

バイオショック コレクション
テイクツー・インタラクティブ・ジャパン
2016-09-15

GERMS 狙われた街
ケー・エー・ジェー
1999-07-22






20世紀少年とギャングースは全巻。

今は

Pythonの勉強をしつつ、池上彰の新書を読んで、あとで「ムカデ人間」を見る。

コンテンツがたくさん回っているのはいい状態だ。
俺は映画でも漫画でも小説でも技術書でも何でもいいから可能な限りコンテンツのインプットを続けるという行動原理で動いていることが多い(時間の無駄なものを除く。例えば、ハースストーンやネットサーフィン全般は時間の無駄なので、インプットに含めない)。
好きだからとか楽しいからというわけではなくて、そこそこ強迫的・打算的な指針である。楽しいかどうかは二の次で、インプット行動にはとにかく裏目がない。退屈で苦痛なことも結構あるが、「退屈で苦痛だった」という記憶自体は唯一無二で貴重だ。RPGの経験値稼ぎのように、絶対に後退しない。
ぶっちゃけ、楽しいかどうかで言えばハースストーンをしながらニコニコ動画を見ている方が楽しいのだが、それは時間の無駄なので、適当なところで切り上げて、己を律する努力をしている(娯楽を楽しむには努力と才能が必要)。

・更新ツイート用画像

a9037f35[1]
なんか更新頻度が落ちるのは悪い癖が出ているからだと思ったけど、4月頭から書いててただ単に飽きてきただけのような気もしてきたので、気が向くのを待ちます。

↑このページのトップヘ