LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア299円

・お題箱25

36.オタクですか?
いつからオタクですか?
子供の頃はどんなオタクでしたか?
オタクの定義みたいな話をするなら前にも二式でも言ったように「現実に適合しなかった人」くらいが一番しっくり来るんですけど、「いつから」という話は結構難しいですね。
難しいというのは、個人の経験を超えた時代の流れとして新人類世代あたり(1960年前後生)から社会に適合することを拒否した人々は一定数いて、世代的な解釈としては生まれた瞬間からオタクだったという回答が可能だからです。

世代の話を持ち出す以上は一応どこにでも書いてある社会の話をすると、人生の基盤としての大きな物語(マクロには人類は知性によってどこまでも発展できるという理性主義、ミクロには日本の終身雇用体制や家族制度など……)が崩壊した以降の世界で、アイデンティティ形成が不完全なまま現実系に物語を発見できなかった人間を広義のオタクと呼ぼう的な話です(崩壊どころかそれが機能していた世界観を知らない世代が大きな物語を説明として持ち出すのは流石にどうなんだろうという感じはありますが)。
当然ながら僕は当時生きていなかったのでそのときの本を読んで妄想を膨らませるしか無いんですけど、オウム的なサブカルチャーが若者を吸収した経緯は感覚レベルで凄くよくわかりますし、深いところに流れる感覚はそう変わっていないような気がします。

というか、もう少し狭いオタクワールドに限って言えば、前の世代から引き継いできているオタク的世界観が当たり前になりすぎている節があります。普段は意識にのぼることすらない常識が古い世代のオタクの本でわざわざ指摘されていて、「これって自明じゃなかったのか……」と驚くことはたまにあります。

その代表的なものとして、単一の現実世界を生きる気力を無くした世代から発生した「世界の複数化」という概念があるんですけど、これって僕らの世代には当たり前すぎて逆にピンと来ないんですよね。
例えば、ハルヒは現実を土台にして世界を複数化していたことが(斬新とは言わないまでも)特徴的であるなんて古い世代は言うんですけど、僕らからしたらそんなん当たり前じゃないですか? 日常の背後に何らかの魔法的超常的な世界が重なり合っていて、それらが相互に影響を受けながら回っているっていうモデルの作品はいくらでもあります。シャナで言う紅世、BLEACHで言う尸魂界、ヴァンガードで言うクレイなど(マトリックスの感想でも同じようなことを書きました)。
他にも、大塚英志が提唱したまんが・アニメ的リアリズムって(現実をありのままに写生する自然主義的リアリズムのように)どこかに存在している虚構世界をありのままに写生するというものなんですけど、今更そんなことは言われるまでもないでしょう。先程も言った通り、我々は現実世界以外の世界系を仮定するという行為が普通に行える世代であり、のんのんびよりはどこかの農村で起こっている出来事をそのまま漫画化したものという感覚は常識としてあります。

そういう意味で、世代レベルでオタク化は進行しているから、「いつからオタクですか」という(恐らく僕の個人的な人生について聞いているであろう)質問に答えるには個人と環境=世代を切り分けるのが難しいところがあります。
でも、そういう広義のオタクが支配的になった世界でもとりわけコンテンツに執着するオタクっていうのは明らかにいるわけですから、まあ、それがいわゆるオタクなんでしょうね。定性的には時代の流れの中にいるとしても、定量的に執着度合いがヤバいという意味で。

世代の話の流れに乗せて語ろうというわけではないですけど、ついでなので喋ると、スマートフォン普及以降くらいからオタクの感じが急速に変わっているということは感じます。基本的に虚構に対して羽を広げていたはずのオタクカルチャーが現実と融合する気配を見せているというか、現実への出戻り現象みたいなものが起きています。

少しキーワードを挙げるとすれば、仮想現実とネットワークあたりです。
仮想現実っていわば究極の虚構のはずなんですけど、いざその技術が実用レベルまで発展してきたときに何故か現実に出戻る路線っていうのが浮上しました。具体的には、主にARのことです。

http://www.moguravr.com/cedec2017-session-2/
http://www.4gamer.net/games/358/G035850/20170306008/index_2.html

このソードアートオンライン劇場版の記事にかなりいいことが書いてあります。
SAO劇場版は見ていないので知らないですが(本編も見たことがないですが)、記事によれば、SAOは元々はVR世界の話だったのが、劇場版ではARになったらしいですね。それについて対談をする中で、原田さんがARに拒否感を示して、川原さんも「キリトは最初ARに乗り気じゃなかった」みたいなことを言います。ARはVRと違って基本が現実系だから、現実をエンターテイメントで彩るものであってゲーマーが好きなVRとは全く違うということを言っていて、僕も概ね同意できます。

補足71:原田さんはサマーレッスンを開発した、ゲーム業界ではVR第一人者的な人です。前に東大に講演しにきたことがあって、そのとき俺がVR空間に飲み込まれることについてちょっと質問したら洗脳の話を返してきて「なかなかやるな」と思いました。

ただ、現象としてはそれで正しいとは思うんですが、サブカルチャーとARの本質的な違いがまだよくわかっていません。例えば、オウム真理教も現実に出現した虚構の城という意味ではVRとは違って現実との接点を大いに持っているAR寄りのものだと思うんですけど、だからこそ魅力的に映ったという節もなんとなく感じます。オウム真理教は良くてARがダメなのは何故なんでしょう。この辺、生まれてないのが響いてきてなかなかわかりませんね。

もう一つはネットワークです。
技術の発展によってゲームはネットワークと結び付くのが普通になりました。スタンドアローンだったファミコンや64と違って、SwitchやPS4はデフォルトでネット接続機能を持っています。ネット機能の挿入はハードスペックのレベルの話なので時代がはっきりしていて、任天堂系ではGCとwiiの間、SONY系ではPS2とPSPですね。ただネットに繋ぐだけなら構わないのですが、やや迷惑なことにこれをゲーマーのコミュニティに繋げようという動きもあり、ニーアオートマタでメタ的に入ってきたネットを介したソーシャル要素(スタッフロールのアレ)が不愉快だったのは二式に書いた通りです。

あと、ネットワークという点ではソシャゲもそうですね。
今までソシャゲっていうのは時間軸を中心に「うまくやっている感」を悪用したもの、作業の快感を搾取するツールだという理解でいたんですけど、最近は原義の?ソーシャル部分がもっと強くなっている感じがします。今マックでハンバーガーを3つ食べている層ってオタクではなくてAR寄りというか、現実のツールとしてソシャゲを使っている層ですよね。

DMFu9lUV4AI0Gm0[1]
(最近アズールレーンをDLしたんですが、フレンド0人でもデフォルトで同サーバープレイヤーのガチャ情報が出てくるので驚きました(右下のダイアログ))

なんか選民思想みたいな言い方になるんですけど、ソシャゲーマーは新人類以降の流れを汲んだオタクとは別の潮流を持った集団であるのかもしれないという印象があります。基本的にエアプなのでよくわからないですけどね。

補足72:斎藤環みたいにコミュニティとオタクは切り離せないっていう立場を取る人も一定数いて、彼は萌えの定義にすら(内的な昂りではなく)外部へのアピールを組み込もうとするんですが、全く同意できません。

結局、僕がARやソシャゲのように「なんかオタクっぽい顔で流行ってるけどこれは別にいいな……」って思うものは大体現実への出戻り現象を起こしていて、ここ5年くらいでそういうものが急激に増えています。ちゃんと調べたわけじゃありませんが、この温度差っていうのはジェネレーションのギャップではなさそうで、どうにもわからないままです。
まあでもせっかく世代の話をしてきたのでそれっぽい言い方をすると、今僕たちは世代の狭間にいて、僕が旧世代寄り、皆さんが新世代寄りにいるとかまとめると話が綺麗です。冷静に思い出してみれば、知り合いにそこまでソシャゲーマーがいるわけではないので、声がデカいやつが大きく見えているだけなのかもしれません。KSUで言うとぼへまるは明らかに旧世代急進派、しげすぎちゃんが言う「オールドタイプ」も恐らく旧世代に吸収できます。


ところでオタク自体を対象としたオタク語りってどうしても社会の話になるからあんまやりたくないなと思って今まで意識的に抑えてたところがあるんですけど、せっかく聞かれたしここはサイゼリヤなので……

・お題箱24

35.ヘボット!が個人的に面白かったのだけれどもLWさんが見るとどう感じるのかなと思ったので注文します。
http://www.heybot.net/movie/
後10日程は21話分見れるのでストーリーは大体掴める。
ストーリーをだいたい掴むのに21話って多くないですか!?
今1話の冒頭だけ見たんですけど、「うんともちんとも言わない」って結構上等なセリフを仕込めるあたりなんか高級感があるアニメですね。数が多すぎるので全部を見るとはあまり思えませんが……

一話すら見終わってないのに最終話の話をすると、最終話の放送後に「わかりやすく面白いアニメを提供することに魅力を感じない」「新しい価値観を創造してほしい」「二次創作を肯定する」というような内容のキャプ(細部は違うかも)が流れてきたことはかなり印象に残っています。
本編を見てないのでわからないんですが、この主張って言葉の綾とかじゃなくてそのままメタ的な自己言及であると解釈していいんですかね?

そうだとすれば、ヘボットってかなり正統派なポストモダンアニメですよね。
ポストモダニズムって一生ニヒリズム的な相対主義を弄っていると思われがちですけど、ポストモダン建築に見るような前向きな本質は「表現者の役割を既存価値の反復から創造的価値の素地を提供することに切り替える」「作品の価値判断を表現者の意図ではなく消費者の創造的営為に委ねる」っていうところにあります。
カオスギャグ作品はボーボボとか色々ありますけど、それをポストモダンの文脈でやっていたのだとすれば、革新的な作品なんじゃないかと思います。

いや、見てないんでわからないですけどね。見てないアニメを語ってしまいました。

36.今敏アニメで、平沢進については何も感じなかったですか?
普段からipodで平沢進を聞いているので、逆にいつもの曲がBGMとして流れてくるみたいな感じになってそんなに意識を回さなかったような気がします。
言われてみれば、明確に印象に残っているのはパプリカの発狂パレードくらいですかね。

・ネット動画配信サービス

俺も時代の流れに乗ってビデオレンタルからネット配信サービスに乗り換えることにした。
この前イデオンと妖獣都市と東京ゴッドファーザーズをTSUTAYAで借りて郵送返却を付けたらそれだけで1200円になって、「クソたけえ~w」と思ってるタイミングでTSUTAYAプレミアム1000円で借り放題のニュースが来てバカバカしくなってしまった。
今まで映像作品はだいたい全部近所のGEOで借りてたんだけど(旧作108円)、色々不便も多くて限界が来ている感はあった。見たいものが無い場合はTSUTAYAに行く必要があるがそっちが高すぎる(旧作324円)とか、どっちにしても新作レンタル解禁までのタイムラグが長すぎてクールを半分くらい過ぎたくらいのタイミングで評判になったアニメを見る手段がないとか。
なんか映像だけじゃなくゲームとかでも未だに完全に電子化した媒体に慣れてなくて、何かしらの物理媒体の経由が欲しいと思って執念深くレンタルビデオを使い続けてきたけど、俺もそろそろ時代に適合する時期がきたんだろう。

実は昔Dアニメストアと契約してたんだけど、気が散るような情報をたくさん格納しているPCやスマホで動画を見ることに慣れず、結局DVDを借りるという有様になって解約した経験もある。その反省を踏まえてなるべくPS4を使ってテレビモニターで映画を見たいとなると、使えるサービスはPS4にアプリを出しているものに限られる。料金やラインナップを勘案するとNetflixとAmazonビデオのどっちかって感じだけど、やっぱりAmazonビデオが板か。
Netflixがウリにしてるオリジナル作品には魅力を感じない一方、今とりあえず見たいのがイデオンだからAmazonプライム契約で見れるのが確定してるし、何より学生特権を使えばAmazonスチューデントで月200円なので他のを契約するにしてもとりあえず契約しといて損しなさそう。

ニコニコでプリンセス・プリンシパル見終わったらAmazonと契約するか。

・ディープラーニングと世界観

最近大学でディープラーニングの研究をしている。
最近流行りのディープラーニングだが、日本語で「機械学習」と言ってなんとなく想像できる内容からそう遠くはない。要するに機械に何かを勉強させ、それによって蓄積した知識らしきものによって人間の代わりに仕事をしてもらうわけで、「学習」→「実際の運用」というステップを踏む。新入社員の研修のようなものだ。

補足67:厳密にはディープラーニングは機械学習の中の一つだが、今回はあまり区別しない。

今回は画像分析の話しかしないのでその分野で言うと、「実際の運用」とは「画像を見せてその画像に映っているものの名前を正しく答えてもらうこと」だ。

例えば、
DLpD9EkVYAAN7hj[1]
この画像を機械に見せたときに「猫」と答えてほしい。

そんなもん人間がやりゃいいじゃんという思うかもしれないが、「画像を見る→名前を入力する」という仕事は楽なようでなかなかしんどい。1枚2秒でできるとして、1000枚もあれば30分はかかる。30分もの間、1枚2秒ペースで画像を見て名前を打ち続けられるかというとこれは相当きつい。
最近はスマホやSNSの普及、情報技術の発展で世に出回るデータ数は爆増しており、データは数万や数億という単位で降ってくる。たった1000枚を捌くのに1時間もかけていれば使い物にならず、これでも機械にやらせるというのはかなり意味のある話だ。

で、運用目的はわかったけど学習はどうするのかというと、大きく分けて「教師あり学習」「教師なし学習」という二つのやり方がある。

「教師あり学習」では「画像」&「その画像の名前」を記したデータのセットを一組として機械に与える。例えば、「猫の画像」&「猫」という名前の一組のデータ。
さっきの運用例からすれば、「猫の画像」が機械に処理してほしい問題、「猫」という名前が機械に答えてほしい解答に相当するので、「猫」という名前を指して教師と呼ぶ(正解である「猫」という名前を教える先生のイメージ)。「教師あり」というのは「猫」という名前を付けたデータを渡すことを指す。

データが一つだけだと勉強しにくいので、数千件くらいの猫画像を与えよう。他にも、「人間」という名前付きで「人間の画像」を与えたり、「犬」という名前付きで「犬の画像」を与えたりする(別に「猫」という名前で「人間の画像」を与えることもできるが、そうすると将来的に人間の画像を見て猫と答えてしまう使えないやつになる)。

そうやって色々なデータを与えると機械は猫というものが段々わかってくるので、だいたいわかってきたかな?と思ったら学習を打ち切って運用段階に移すことになる。

この「教師あり学習」は人間の学習と同じなので直感的に理解できると思うが、問題は「教師なし学習」の方だ。
教師なし学習では、名前の通り教師を省いたデータしか与えない。つまり、「猫」という名前は抜きにして、「猫の画像」「人間の画像」「犬の画像」しか与えない。そうなると、機械は画像を貰ってもそれが猫なんだか人間なんだかはわからない。わからないけど、とにかく与えて学習させてみる。

驚くべきことに、それでも機械は「猫」「人間」「犬」を認識できるということがわかっている。もちろん猫だの人間だのという単語は知らないが、それでも「名前は知らんけど違うもののようだ」と判断して「猫画像のグループ」と「人間画像のグループ」を分けることくらいはできる。自ら映っているものを分けるべきだと判断して、大量のデータを区分けしてくれるのだ。

これをGoogleが最初にやったことから「Googleの猫」と呼び、まあどこにでも書いてある話なのだが、「調べてください」では不親切だなと思って惰性でダラダラと概要を書いてしまった。

ここからが本題で、俺は一応理系だから「Googleの猫」という話があることは前から知ってたんだけど、その「自動的に行われる分類」っていうのが世界のルールなのかどうかを気にしていた。
というのは、この教師なし機械学習っていうのは言語学的な世界観で作られる世界の概念集合による領域分割に似ていて……っていう話をするためには、今度は言語学の話をしないといけないのか。

またしばらくどこにでもある話の講義になるけど、今回は「単語は事物の目録ではない」っていう話から始めるのが一番簡単だと思う。
wikipediaからコピペすると、「まず存在があって、その存在の一つ一つにあたかもラベルが貼られるかのように、物の名前、いわば言葉というものが成立している、存在しているのだという考え方」を言語名称目録観という。
「単語は事物の目録ではない」と言った通り、この考え方は既に否定されている。何故かと言うと、世界の個々の事物は時空間的な同一性を厳密には保持していないからだ。ガスキーの家の猫と俺の近所の猫は全く別の存在だし、昨日の猫と今日の猫も違うものであるため、いちいちラベルを貼るという発想で名前を付けるのでは限界がある(猫が常に猫であることを示すためには毎秒ごとに世界中のラベルを更新し続けるのだろうか?)。

では言葉とは何かというと、ソシュールが示したのはその単語が示す事物の集合に対して名前が結び付いているという考え方。猫というのは「猫らしきもの」という個々の事物が属する集合の名前なのである。世界に線を引くイメージがわかりやすいかもしれない。無数の事物が存在する世界の上にスーッと線を引いて「猫ゾーン」を作り、その中にいる猫っぽいものを猫と呼ぶ(ちなみに、言語名称目録観では無数の事物の一つ一つに対して「猫ラベル」を貼り付ける作業が対応する)。

以上で、言語学の話を終わる。

この事物集合という発想は、機械学習で実現される分類手法にかなり似ている。
一見すると機械学習を行った機械は「この画像は何ですか」という質問に対して「猫です」という答え方をするので言語名称目録を保持しているように見えないこともないが、明らかに機械の中には「猫らしきもの」という抽象化されたデータが存在し、それと照らし合わせて判定を行っている。機械の応答の本質は与えられた個々の事物への逐一のラベリングではなく、その根拠らしきものを学習して保持していることにあると言える。
実際、ディープラーニングでは入出力の間の「隠れ層」という部分に抽象化された画像が格納されており、それと照らし合わせて「猫らしさ」を判定する。「隠れ層」にあるデータが言語学でいうところの集合の性質と対応しているかというとそれもちょっと違うのだが、まあ、そこまで大きく違うわけでもないだろう。

補足68:厳密に言えばディープラーニングで隠れ層に格納されるのは「特徴量」、すなわち機械にとっての画像の特徴的なパターンである。
じゃあその「特徴的なパターン」ってなんやねんという話になるのだが、実はこれはよくわかっていない。人間の目で見えるように特徴量を出力すると「ああ、これは確かに特徴的だわ」という感じはあるのだが、厳密にどういうものが特徴的であるかを言い表すことはできない。
これはものすごく雑な言い方をすれば、ディープラーニングは何となく動いている技術だからだ。機械が実際にどう学習するかはよくわかっておらず、猫画像判定機を作ったところである画像が具体的にどういう理由で猫と判定されたのかはよくわからないという滅茶苦茶な性質を持つ。NHKスペシャルでも世界最強の将棋マシーンを作った技術者が「僕がやったのは学習プログラムを書いたところまでで、どうしてこんなに強いのかは全くわからない」などと言っていた。


補足69:些末ではあるが、機械学習では画像情報しか利用していないという違いもある。言語学的に言う事物の性質には見た目以外にも「獣臭い」とか「ニャーと鳴く」とかいう要素もあるだろうが、ディープラーニングで視覚以外の情報を扱うという話はあまり聞いたことがない。
様々なセンサーを使えばそれらを込みにした実装を行うことはあまり難しくないだろうが、単純にデータを集めるのが怠く、最初の「機械に任せて簡単に判定してもらおう」という目的からもズレてくるからだろう。


さて、言語学的には単語は事物集合を統括する概念であったことを思い出してほしい。機械学習によって自動的に習得される分類も何かしらの抽象的集合を示しており、(学習段階で「これは猫ですよ」などと教えていたような)事物と名前が一対一対応する事態とは異なっている。

となると、「世界には人間がそれをする前から既に(事物の無限集合という意味での)言語が存在していたのだろうか」という疑問が浮かんでこないだろうか。
人間を経由しなくても(人間が名前を付けたデータを与えなくても)機械が自動的に事物集合を切り出して言葉を定義できるのであれば、運動方程式と同レベルの根本的な世界のルールとして「ガスキーの家の猫」と「俺の近所の猫」が同一の「猫」として括られることが決まっていたのだろうか?ということが俺は気になっていた。

ディープラーニングの数学的なところをやった結論としては、真相はそうではなかった(そうだったらかなり困るので「そうでないことが確認できた」という方が正しいか)。

まず、補足68でも少し書いたが、ディープラーニングという技術自体が他の技術と比べてやや特異な出自を持つことに触れなければならない。
ディープラーニングの親集合は「パーセプトロン」という人間の神経系を模倣した技術だ。
今度こそ詳細は省くが、要は、最初のスタート地点が数学ではなく生化学なのである。生化学的な人間のニューロンの働きがわかってきたので、これをモデル化して機械にすれば人間と同じように学習できるものが作れるんじゃね!?と思った人がそれを作ったところ、(紆余曲折はあったが現在では)かなりうまくいくものが作れてしまったのだ。

補足70:「人間の脳神経を模倣している」という言葉だけを聞いて過度に神秘的なイメージは持たないでほしい。そんなに大したものではなく、簡単なパーセプトロンであれば方程式が二本もあれば記述できる。
これに限った話でもないが、どうも人工知能絡みの話になるとSFベースの議論があまりにも許されるきらいがある。もちろん技術はコンセプトのあとに付いてくるので夢や理想を語ることは推奨されるべきだが、だからといってそれが遥か遠いコンセプトに過ぎないことを理解せずに「機械が人間を絶滅させる危険」などと大真面目に喋るのは滑稽に思われても仕方ない。
喩えて言えば、鍛冶場で職人を相手に斬魄刀ベースの知識で喋っているようなものだ。打った包丁を手にした客に「これが始解したときの形状はどうなりますか?」「卍解したときの能力はなんですか?」などと真面目な顔で問われても、鍛冶職人は苦笑いをして「それは漫画のお話ですよ」と答えるしかない。


だから、ディープラーニングはどこまでも人間の模倣だ。
人間の模倣が言語を定義できるレベルにまで達したことは驚くべきかもしれないが、まあ、我々人間ができることは機械的に実装できてもおかしくはない。一度作ってしまったものが自律しているように見えたとしても、ちょっと高級なマネキンのようなものだ。

俺が危惧していたのは人間以前の世界vs人間の作った世界という対立の中で言語の定義という営みが前者に吸収されることなのだが、ディープラーニングは後者に属するために世界のルールに影響を及ぼすものではなく、あ~良かった良かったという感じで終わる。

・今敏のアニメ

を全部見た。
別に一気見したわけじゃなくて、この前『東京ゴッドファーザーズ』を借りたときに「そういえばこの監督のアニメはだいぶ見たな」と思ってwikipediaで確認したらコンプリートしてた。
有名監督の割には早逝したせいで意外と数が少ない。妄想代理人だけ1クールあるからちょっと重いけど、頑張れば一日で見られそう。

全部見といて言うのもなんなんだけど、別に俺は監督のファンではないし、むしろ世界観のレベルで何かがズレているという微妙な違和感がどの作品にもあった(ここでいう世界観とは作品単位の世界観ではなくて個人単位の世界観のこと、つまり、今敏氏の世界観と俺の世界観が合致していないということ)。

具体的には、『東京ゴッドファーザーズ』を除く全ての作品で壮大な妄想がテーマになっている割には、それをやたら現実的な原因に帰着させたがる傾向があって、俺はその姿勢があまり好きではなかった。
例えば、『パーフェクトブルー』では「後悔と願望」、『千年女優』では「過去と執着」、『パプリカ』では「夢」、『妄想代理人』では「焦燥と解放」を核にして華やかな妄想世界が展開されるわけだけど、それぞれ終盤で「狂人のマネージャー」「『彼』の死亡」「内輪揉めと恋愛」「月子のトラウマ」という現実系のエピソードに回収されていく。どの作品でも妄想は現実系に所属する根本原因の尾ひれに過ぎないことを確認する作業が入り、その根っこが退治されると妄想は拠り所を無くして消滅してしまう。

つまり、妄想を扱っているから幻想小説のようにファンタジックな作品群なのかというとむしろ逆で、妄想を独立して機能する世界ではなく心因性の神経症かヒステリーに押し下げているという点で、かなりリアル寄りに作られているように俺は感じた。

ただ、正確に言えば、『千年女優』だけは例外的なところがある。ラストシーンで主人公は死にながら「彼を追いかけている私が好き」と宣言して宇宙に飛び立っていき、「『彼』の死亡」にも関わらず妄想が収束しないことが明示されている。
さっきは話の辻褄を合わせるために映画の途中までの話を誤魔化して書いたけど、『千年女優』ではラスト1分で実は妄想は(「過去と執着」ではなく)「自己愛」によって形成されていたことが明かされ、(「過去と執着」に対応している現実の結末であるところの)「『彼』の死亡」には特に影響されずに独立して続いていくという真逆のオチになる。
正直、終盤で元憲兵が「『彼』はもう死んでいる」って明かしたところで俺は「いつものアレか……」って萎えたけど、ラストシーンで裏をかかれてちょっと感動した。

だからお話の構造としては『千年女優』が一番良かったという結論になるんだけど、実際のところ、中だるみが激しくて面白くはなかった(『パーフェクトブルー』も中盤がかなりきつかった)。
一番面白いのは流石に『パプリカ』だと思う。てか、皆そうでしょ?
パプリカ-1[1]

あと、DVDに入ってる監督インタビューで今敏が「アニメには無限の可能性がある」みたいな話をするときに必ず「アニメは美少女とSFだけじゃなくて~」っていうフレーズを吐くのが記憶に残っている。
『パーフェクトブルー』は1997年だから時代的にそうだったのかな~とも思うけど、2005年くらいになってもまだ言ってた。流石にその認識はちょっとアウトオブデートな気もするが、俺は萌えオタクだから美少女ものばかり見てるし言えた口ではないか……

・売却漫画を語る

「もう手放していいかな」的な漫画をまんだらけに売ってきた。
x7A5fWrz[1]
「もう手放していいかな」判定が出る漫画は、未完結の場合は新刊を買う気が起きなくなったもの、完結している場合は一生手元に置く気があまりしないもののうちで作品として優れた点を述べられないもの。
女性主人公ものはそれ自体が優れているという判断で甘めの採点をしてきたけど、もう市民権を得て久しいので特別扱いをやめて積極的に処分することにした。

・かぐや様は告らせたい

2巻までは明確に面白かったんだけど、恋愛要素に傾倒しすぎて5巻で限界が来た。
基本的にはレベルの高いコメディでLW評価は低くない。キャラや世界を立てることへの意識の高さがおまけページからも伺え、それがコメディ的な面白さにちゃんと貢献している。特に2巻?で白銀が定期試験のプレッシャーと戦う回は傑作だったけど、かぐや様が露骨にデレ始めたあたりからダレてしまった(一般的に言う典型要素が目に付くわけじゃないけど、この漫画内では見飽きた展開が増えた)。
リソースを使い果たしたわけでもなさそうだし、ポテンシャルはまだまだ高いのでオススメはできる。俺は売ったが。

・はねバド

作画と主人公の性格が変わり始めたあたり(ネットでよく話題になるあたり)で主人公が独自の哲学を持つような方向に行ったら面白いなと思ったんだけど、実際にはかなり正統派のスポーツ漫画の文脈に回収されてしまった。

・NEWGAME

俺は同作者の「こもれびの国」が好きだった。
「こもれびの国」がワニブックスでやってた2010年頃ってワニマガジンから季刊GERATINなんかが刊行され始めて、俺はその創刊号を買って「画集の力ってすげー!」みたいなことを感じてた時期なんだよね。イラストレーターってキャラデザだけじゃなくて世界を描かせてもこんなに物を表現することができたのか!っていう驚きがあった。「こもれびの国」も当時そういう流れで買ったフルカラーコミックで、絵もうまいし女の子は可愛いしよく空気感が伝わってくるねとか感心した記憶がある(その割には2巻までしか買ってないけど、フルカラー故に情報量のボリュームがあるのでそれで満足してしまったのかもしれない)。
ネット上で「がんばるぞい」が話題になったときに「こもれびの国」の作者か……と思って買ってみたけど、うーんまあ面白くなくはないけど特筆するほどのこともないなという感じで一応見たアニメも同じ。

得能氏について言えば、(「がんばるぞい」に翻弄されたからかどうかは知らないけど)作品系に現実が流入しないように意識して配慮しているのは好感が持てる。「ぞい」は二度と使わないことを明言しているし、なんかのフレーズが流行ったときに「作品内で使いたい気持ちもあるけど今だとネットブームっていうコンテクストが乗っちゃうから使えない」みたいなことを言ってて、イラストレーター出だから世界の一貫性への感覚が鋭敏なのかなという気もする。
世界のルールに鋭敏、現実のテンプレートに対抗する意思を持つ作者という色眼鏡で見ると、青葉の「この職場に女性しかいないのは何故ですか?」という発言も""本気""の文脈が乗っているのではないかと邪推してしまう。萌え4コマのお約束として処理するんじゃなくて、それなりに整合する背景事情が必要だと考えているのかもしれないという。
もっと言えば、りんさんのコウちゃんへの執着とかも本気でやってそう。ネタで動いてないから、彼女は。

・桜Trick

2巻くらいで終わってれば売らずに済んだ漫画の一つ(「途中までは良かった漫画をどこから売るか」っていうのはいつも考えるんだけど、一部だけ手元に残るのは気持ち悪いので、暗殺教室14巻レベルの特異点でない限りは結局全巻売ってしまう)。
キスを毎話義務化するっていう発想は普通に良くて、それが中心になってる頃は全然面白かった。別にラジカルに良いわけじゃないけど、話の筋がそこを目指して動いて綺麗に締まるから読んでてコメディとして気持ちいい。それをしばらく続けてダレる前に畳んで次の漫画に入るというのがLW的にはベストルートなんだけど、人気が出ると続けざるをえないのか(知らんけど)、メイン二人以外に話の筋を求め始めたあたりから当初の面白さが消えてしまった。
今更だけど、「売った漫画の話をする」って、全てが良い漫画なら売らないんだからネガティブな話になりやすいな。別にいいか。

・デストロ246

前作とジャンルが被るから「ヨルムンガンドと比べてどうだったのか」っていう話になると、主要登場人物が全員女の子になった影響は劇的で、だいたい日常系になった。
たまに思い出したように殺し合ったりもするけど、基本的に皆仲が良い。よく一緒にファミレスで飯食うし、エレベーターの中で蓮華が藍・翠に「賭けをしよう」とか言ってダンスするところとかめちゃめちゃ仲良しやんけ!
組織に対する執着で動いてるキャラがいなくて皆フリーランス的で、あまりシリアスに利害が対立しない(女の子たちの仲が良いからそうなったというよりは、女の子たちを仲良くするためにそうしたんだろう)。
まあまあ面白かったし戦闘美少女は嫌いじゃないはずだけど、戦闘に戦闘感が無いのが売却に至った原因かもしれない。基本的にアクションシーンで何してるのかよくわからなくて、特に移動しながら銃を撃つようなシーンが謎。

・あとで姉妹ます

妹の名前がるーちゃんなのが良かった。

・サクラナデシコ
サクラ*ナデシコ (1) (電撃コミックスNEXT)
葉賀ユイ
KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
2016-03-25

百合コンテンツが増殖する昨今でも稀有なふたなりものの萌え漫画。
基本的には絵柄ぷに系の百合コメディだけど、ふたなりを扱うだけあって性意識に関するこだわりはかなり強い。主人公が男性器由来の性欲に負けて親友キャラを襲いそうになったり、その結果親友キャラが理解を示しつつも男性器に対してだけは強めの拒否反応を示すのは悪くない(絵柄が緩いのでなおさら)。
それに伴って、百合萌え漫画にしては比較的珍しいことに「性嗜好性としての同性愛者」というステータスの概念(特定の相手ではなく同性一般の性的アピールに欲情するかということ)が存在し、「わたしはノンケだから」という発言も出てくる。
性嗜好設定の存在意義とか前になんか考えてた記憶があるけど、忘れたので思い出したら書く。

・クロスプレイ

俺以外誰も単行本を買ってないらしくて一瞬で打ち切られてしまった漫画。
「アイドルグループが突然ループ世界の野球場に閉じ込められてプロ野球選手と試合させられつつ負けるたびにループして勝つ方法を探す」っていう意味不明なあらすじなんだけど、ファンタジーの閾値設定が巧みだった。
関係あるようなないような要素(アイドル-野球-スポコン-ループ-パラレルワールドっていう、「アイドルグループも野球チームも10人くらい」というレベルの関係)を継ぎ接ぎしてコメディじゃなくてシリアスをやろうっていうのは恐らくかなり厳しい勝負で、少し踏み外せば荒唐無稽になる橋をうまく渡っている技量を感じた。
プロ漫画家は皆普通にやっていることが稚拙さ故に際立って見えただけのような気もするけど、俺は単行本を買ってしまったから向こうの勝ちと言える。

・ムルシエラゴ
MURCIÉLAGO -ムルシエラゴ-(1) (ヤングガンガンコミックス)
よしむら かな
スクウェア・エニックス
2014-04-25

同作者の前作「あわーちゅーぶ」が好きで、「ムルシエラゴ」も女性主人公だから一応買っていたものの、なかなか面白くならなかったので切った(世間的には「ムルシエラゴ」の成功ぶりに比べて「あわーちゅーぶ」なんて誰も知らないだろうから古参気取りの逆張りオタクになってしまう)。

「ムルシエラゴ」がスプラッタ寄りバトル漫画なのに対して「あわーちゅーぶ」はきらら系列4コマとジャンルはかなり異なるものの、いずれも同性愛者の主人公(を中心にした同性愛的な空気)と一部キャラが驚異的な身体能力を持つ点が共通し、作者がやっていることは大して変わっていないという印象がある。
どっちに関しても「あわーちゅーぶ」の方が勝っていると思うんだけど、前者に関して身も蓋もないことを言えば、「あわーちゅーぶ」の方が絵が好きだったというのはかなりある。というか、他の漫画と比べてもかなり良い方に入るレベルで「あわーちゅーぶ」の作画は良くて(「ムルシエラゴ」はそうでもない)、身体能力設定に関しても同じことが言える。

「あわーちゅーぶ」の身体能力設定が魅力的だった原因は、主人公が日常的に電柱や屋根を足場にして移動するほどの身体能力を持っていながら、世界観は現実をなぞったものであり(そのため他のキャラは我々と同じ程度の運動能力しかない)、かつ、主人公の特異的な能力に整合性を与えるような設定を構成しなかったことにある。
わかりにくいのでもう一度言うと、基本的に我々の世界と同じルールの世界でありながら無根拠に超人的な身体能力を持つキャラがいて、その能力の源泉については一切説明をしないということ。

理由についてはよくわかっていないのだが、たぶん、説明をしない美学、逆説の美学、シンプルの美学というものがあるんだと思う。バックグラウンドもなく単純に高い能力を持つことがその特別さを際立たせて魅力的に映るという説明も考えたが、これではバキの花山や天上天下の文七がこの類の魅力を持たないことを説明できない。「無根拠に強いキャラが一部に存在する」という個人の問題ではなく、「強いキャラが無根拠である」という(多重化した)世界観の問題なのだろう。

ちなみにバトル漫画でこの現象が起きることは極めて稀で、強いキャラには強いなりの理由やバックグラウンドが付くものと決まっている(なんかの流派を継いでるとか、すごい頑張って修行したとか……)。それがバトル漫画の流儀なのでそもそもが真っ向から対立する要請なのだが、「嘘喰い」という例外を一つだけ知っている。

嘘喰いのバトルは間違いなく俺が読んだ全ての漫画の中で最も優れている(それも頭一つ二つ抜けている)のだが、他のバトル漫画とは異なる点があまりにも多いために、嘘喰いを読むたびに「バトルの魅力とは何なのか」という基本的な問いを再考せざるをえない。

嘘喰いは通常のバトル漫画に逆行する特徴をいくつも持ち、適当に挙げると、

・流派や体系がない
・技も技名もない
・基本的に戦う理由が組織単位であり、個人の信条や正義ではない
・強さに根拠がない(「暴力要員か否か」というメタ的・設定的な要請が直接「戦えるかどうか」を規定し、立会人は立会人というだけで出てきた瞬間から強い)
・強さが連続的でなく離散的である(戦闘要員or非戦闘要員という区別が設定レベルで固定されており、非戦闘要員が鍛えれば強くなるという概念はない)
・作品内の一般的な世界観レベルでは強さは存在しない(嘘喰い世界でも一般人には立会人レベルの暴力という概念はたぶん存在しない)
・強さにエピソードがない(個人の回想エピソードで語られるのは主に人格形成についてで「これこれこういう理由で物理的に強くなりました」というだけの話は無い、副次的についてくることはあるが)

など。
最近、嘘喰いのバトルも「あわーちゅーぶ」と同じ、「説明をしない美学」というタイプのものなんだろうということはわかってきた。
しかし、説明をしない美学とはなんぞやということがよくわからないので、グルーピングくらいはできそうというレベルから進んでいない。もっと一般化すれば平常に紛れ込んだ異常(基本的には暴力で回っていない世界に発生する暴力)というような話になるかもしれないし、ならないかもしれない。

・はいふりアンソロジー

アンソロジーって低空飛行ながらもどれか一つくらいは光る漫画があるものなのに、一つもないのはちょっと珍しい。
はいふりの二次創作なんて適当に日常系させればよさそうなもんだし実際に阿部かなりの漫画版はその路線で成功してるけど、4コマ漫画家としての技量が成す技だったのかもしれない。

・ふたりべや

3巻で明らかに桜子の性格変わったよね?
3巻で突然取って付けたようなテンプレートなレズキャラになってしまった。多分不可逆な変化なので悲しい。

・ルサンチマン

前に一度アイアムアヒーローと絡めて感想を書いたのでそのときに書いてない話をすると、主人公と越後がVR空間に没入して二人で涙を流して盛り上がってたのに、HMDを外して現実に戻ってきたときに気まずい空気になるシーンがかなり好き。

突然はしごを外されてコミュニケーションの公理系が変わったときの何とも言えない空気感ってコメディ的な文脈で稀に出現するんだけど、だいたい例外なく面白い。
みなみけだと、マキが「ランドセル背負ったら小学生料金でいけそう」みたいな話でしばらく盛り上がってるあとに、ハルカが「……まさか本当に背負っていかないよね?」って確認してヤバい空気になる回。

高度なコミュニケーションの根幹には今どういう合意と仮定のもとで会話が成立しているかっていうハイコンテクストな空気感がある(それは意外と脆い)というだけの話で、前に書こうとした悪意の話も多分ここに一部回収されるはず。ルサンチマンでのケースはそれが空気感だけではなくて仮想現実として五感に渡って可視化されたパターンと言える。
それが崩れる瞬間っていうのはテンプレートが存在しない世界に放り出されるのと同じだから面白く感じるんだろう。

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