LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア299円

・お題箱39

61.講演見に行けないけど見たいんですけど
見たい人が見られないのは僕も悲しいので、どうにかしたいという気持ちはあります。

配信してくれとちょいちょい言われるんですが、映像媒体に記録されると少し話しにくくなるんですよね。
後から検証されても大丈夫なように喋らなければならなくなるので、誤解を招くことを承知でわかりやすさを優先した比喩を使うことや、大なり小なりイリーガルな内容を喋ることが難しくなってしまいます(「○○相手のサイドボードはレインボーライフでOK」みたいなことは対面なら言えますが、ツイキャスでは言えません)。もしやりたい人がいるなら止めるつもりまではないけど、僕の方から積極的に推し進める気持ちはないくらいの感じです。

まあ、僕は別に最前線にいるエキスパートではなく、本を読んだだけのパンピーですから、内容自体は十数冊の本の内容をジャンブルしてテーマに沿ってまとめているだけです。講義・講演というよりは輪講の方が近く、参考文献(終わったあとにまとめようと思います)を読んでもらえれば内容的には十分フォローできるはずです。

ちなみに、講義スライドと原稿をアップするような直接的な形で講義内容をこのブログに載せることは将来的にも無いです。理由は、著作権的に微妙・内容を曲解されると嫌・二次配付が制御できなくなると困る・せっかく来てくれた人へのバリューを保ちたいからなどです。

・劇場版艦これ

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まず最初にテレビ放送版については2年前にポジティブな感想を書いた(→)のでその引継ぎから入ると、テレビ放送版で垣間見えたメディアミックスにおける主人公の扱いに関する新規性は劇場版では提督ごと完全にオミットされている(劇場版では開始数分で「提督は出張してる」みたいな言及をされて以降二度と出てこなくてちょっとウケた)。
それは「今回は触れなかった」というだけなので別にマイナス要因にはならないんだけど、前回は評価できた部分が完全に無くなってゼロに戻ったという前提で純粋に劇場版単独で見てどうなのという話になると……普通に面白くないですか!?

なんだか、すごく誠実で好感度が高い。
(俺は気にならなかったしそのままで良かったが)テレビ放送版の評判が悪かった部分のほぼ全てに対して可能な限りフォローをしつつ、(褒め称えるほどではないが)それなりによく出来たお話の中にきちんと回収していて非常に頑張っている感がある。別に新しくはないけど、よくやってる。キャラが可愛い分をボーナス加点すれば85点くらい。
特に頑張ったと思う理由に「ラスボスの処理を頑張っていた」というものがあるんだけど、そのために「ラスボスの処理をどうするのか問題」についてから書く。

「ラスボスにありがちなキャラとその動機11選」というオモコロ記事(→)が俺はかなり好きで、ラスボス編に限らずこの記事シリーズはとてもよく出来ている。
というのは、よくある展開やキャラについて徹底的に解体して分類ないし法則化してしまうことで、もうそれらの要素がマンネリ化していることを明らかにしているのだ。分類という行為は分類される要素がカテゴリとしてまとめて扱える程度に似通っていることが前提になっているため、分類が可能になった時点で、要素のオリジナリティは既に失われていることが確認されてしまう(逆に言えば、本当に新しくて現時点でその作品しかやっていないような展開は、まだどのカテゴリにも含まれないので分類ができない)。

補足131:1990年頃に「サルでもかける漫画教室」がやってみせたことと同じで、その現代版と言える。「サルまん」は一見するとワナビ向けの漫画講座の漫画だが、「よくある展開」を次々に法則化してみせたことで漫画のマンネリ化を指摘したところに大きな価値がある。実際、竹熊健太郎の「もう漫画は終わったのではないか」という問題意識の下で書かれたという経緯がある。

この記事を一度読んだら、たまたま見ていたアニメのラスボスが主人公の父だったときに「これあのパターンじゃん……」って萎えるようになってしまうでしょう。それが法則化による陳腐化ということで、基本的に作品の評価を押し下げるのであまり良いことではないのだが、カテゴライズされる程度に同じネタを使ってしまっている制作サイドとの痛み分けではある。

俺もこの記事の分類に完全に当てはまらないラスボスはあまり考え付かないんだけど(ちなみに俺が一番好きなラスボスは純粋悪タイプ)、だからといって世のラスボスの全てが陳腐化を等しく被っているわけでもない。
例えばファニー・バレンタインは典型的な「創造主タイプ」のラスボスではあるが、だからといってジョジョ七部を最後まで読んで「これよくあるパターンの陳腐なラスボスじゃん」という冷めた感想を持つ読者はあんまりいないと思う。それはファニー・バレンタインが安直なカテゴライズに回収されない固有の存在感を獲得しているからで、特別に魅力的なキャラは普遍化を受け付けないのだ。我々がファニー・バレンタインについて喋るとき、それはファニー・バレンタインという特別な人物一人について喋っているのであって、別にファニー・バレンタインのような人物の類型について喋っているわけではない。

もうちょっと一般的には「類型に回収されない作品固有の特殊性を立たせることで陳腐化は回避できる」という言い方ができるが、大抵の場合、(先に挙げた例がそうである通り)作品固有の特殊性とはキャラクターの魅力とほぼ同義である。我々のキャラクターに対する執着は、他に対するそれと一線を画しているところがある。キャラクターとして特別だから、そのキャラが特別好きだから(or特別嫌いだから)という理由で普遍化は回避される。敵キャラにも舞台装置ではなく人間としての事情を付与するという意味で、群像劇的な作り方をするとも表現できる。

少し脱線するが、それを踏まえると、ラスボスが美少女である場合は陳腐化は簡単に回避できる(美少女は魅力的なため)。よって、敵味方共に美少女という美少女バトルコンテンツは(幸いなことに)分類に伴う陳腐化に対して一定の抵抗力を持つことになる。
今期好評放送中の刀使ノ巫女では、前半クールではラスボスがギョロギョロの化け物だったのに後半クールではそれが三人の美少女に分裂したのが興味深い。ラスボスのモチベーション自体は大して変わっていないのにも関わらず、美少女化したことで人間ドラマに組み込まれて陳腐化の回避に成功している。
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(前半クールで化け物ムーブをしていた頃のラスボス)
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(後半クールで美少女ムーブを始めたラスボス)

深海棲艦が美少女かどうかは微妙なラインだが、基本的に意思疎通不能で内面を持たないっぽいことを鑑みるに、化け物寄りのような気はする。いやでも、昔ヲ級がコンプティークの表紙になってたし美少女か?
まあどっちでもいいが、とにかくラスボスが化け物の場合にはキャラクターパワーによる陳腐化の回避という方法が使えないので、どう収拾を付けるかはかなり難しい。原作ゲームでは深海棲艦についてはあまり深く語られていないらしいし、あんま触れずに終わるのかな?と思っていたが、劇場版では完全な元凶まで踏み込んでいる。

補足132:「完全な元凶」という表現の含意について。
ジャンプ漫画の引き延ばしとかで顕著だが、元凶を倒したと思ったらその黒幕の元凶2がいて……という展開を繰り返すパターンはよくあるので、「もうこれ以上どうやっても元凶はない」という最後に行き着いた地点を「完全な元凶」と俺は呼んでいる(これは因果関係としての連鎖であり、「別の事情で現れた別の新しい敵」とは異なることに注意)。
引き延ばしているうちは謎が残っているのでわりと面白いのだが、完全な元凶に辿り着いてしまうともはや謎が無くなり、ラスボス一覧に当てはまるような陳腐な敵になってしまうということはよくある。最近読んだ中だと、「エニグマ」がそのパターンにハマっていた。


結局、艦これにおける戦争は実は弔い合戦の内輪揉めだったというストーリーであり、あえて言えば「ラスボスなんて本当は最初からいない」パターンと呼べる。
これは別に新しくはないが、新しくはないが(強調)、それなりに高級な展開だと思う。加賀さんが終了条件(=こちらが一隻も沈まずに相手を全て沈める)をきちんと把握しているあたりに闘争の枠組みとしてのソリッドさがあるし、艦娘は元々船だから沈んだときの絶望を覚えているという物悲しさも歴史観に照らしてまあ妥当だろう。

補足133:艦娘という名前、マジでダサいので同義の別名称を用意した方がいいと思う。

この枠組みの中でテレビ放送版最終話付近で吹雪が謎にキーパーソンっぽい顔をしていた理由をきちんと論理付けし、主人公らしくトラウマを乗り越え(吹雪の活躍シーンがそこくらいしかないので唐突すぎるという演出上の問題はあるが)、それが直近の問題の解決とも連動し、ついでに如月に事態の進行指標と最後のまとめ係としての役割を担わせ、三話で沈んだ件への丁寧なアフターフォローにもなっている(最後に如月が帰ってくる前に一応一回沈めといたのもえらい)。
比較的こなれた展開を導いた弔い合戦設定は、全方面に渡って問題がないのだ。どこまでいっても「問題ない」止まりではあるが、様々な要素に対してご都合に流されずにきちんと貢献しているので好感度が高い。

テレビ版最終話放送終了直後に劇場版アナウンスがあったことを考えれば、テレビ版の脚本を書いている時点で劇場版の脚本も書いていたんだろう。テレビ版でバッシングを受けた吹雪と如月の扱いが劇場版で完璧に回収されたこと自体は別に誠実さではないかもしれないが(既定路線かもしれないが)、提督の唐突かつ完全なオミットは誠実さと頑張りじゃないか。いやまあ、提督は役割を一切持たないので(それこそがテレビ放送版の特異性だったわけだが)、展開的にいようがいまいがどうでもよかったのかもしれないけど。

一つだけ引っかかったのは、吹雪が帰港するときに黙ったまま砂浜に艤装をガシャガシャ捨てながら歩いてブーツまで外そうとしたのは何だったんだろう。
俺は吹雪が艦娘と深海棲艦の起源である二面性を克服したために艦娘としての力を失ったかモチベが無くなったかで普通の女の子に戻るんだろうと思って見ていたんだけど、直後に赤城(テレビ放送版なら提督だったんだろうな)が話しかけてきたせいでウヤムヤになって最後には普通に出撃してしまった。
艤装をその辺に捨てながら歩いていた時点では艦娘を辞める予定だったが赤城に絡まれてちょっと思い直して続けることにした……的な解釈が俺は好みだが、ただの深読みかもしれない。

・Yubit映研講義

7/21にYubit映研オープン企画と称して池袋で「世界の複数性について」という講義をやります(→リンク先参照)。最初はYubit映研内で内々にやるつもりだったんですけど、後日Twiplaで一般参加を募るらしいので、話す予定の内容についてまとめておきます。
リンク先にはプレゼンって書いてありますが、多分そんなに華やかなものではなく、大学でよくやるようなスライドを使う普通の講義を粛々とやります。このブログと同じくらいのテンションです。

目次は以下の全8章です。
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並んでいる語が堅すぎるんですけど、これはあくまでも漫画やアニメや映画やゲームの話であることを強調しておきます。
教科書の解説をやるつもりはなく、オタクがオタクをやる上で普通に必要になるであろう知識についてテーマに沿って広く浅く解説するものです。「なんか俺には関係ない小難しい話っぽいな……」と思われてしまうのが一番悲しいのですが、オタクに関係のない話は一つもありません。地に足の付いた理解を促せるように、漫画や映画から身近な例を多くとってきて説明します。

大きく事例パートと理論パートの二つに分けており、退屈しないように意識して色々な分野から話題を取ってきました。ちなみに事例パートはそれぞれ独立した内容、理論パートは一貫した内容です。
まず事例パートで世界の複数性という概念が様々な領域で現れている様子を概観したあと、理論パートでは可能世界論を主軸にして理論的な基礎付けを行い、それが物語全般に対して果たしている役割を分析します。
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理論パートの概要はこんな感じです(ネタバレ)。
たぶん休憩を挟んで計1時間強で、講義後に参考映画を流します。今のところはヤン・シュヴァンクマイエルの『アリス』の予定ですが、変わるかもしれません。

事前知識は特に必要ありません。
僕自身の意見を述べるのではなく基礎的な知識を提供することをメインの目的としているため、むしろ予習してから来ると退屈になってしまう危険があります(Fordさんが言うところのアウトプットというよりは、アウトプットの糧にしてほしいという感じです)。上の図二つを見てもう内容がだいたい予想できてしまう方は対象層ではない可能性が高いです。
ただし、講義中に取り上げる具体的な作品についてはいちいち解説している時間がないので、皆が知っている体で喋ることになります。いずれも有名な作品なので問題は無いと思いますが、特に強いて言えばハルヒとエヴァを全話見てジョジョ七部を全巻読んでいるとベターです(必須ではないです)。

最後に映研の企画ということで関連する映画を一応10本挙げておくので、暇すぎて仕方がない人は見ておいてもいいです。

1.『インセプション』
2.『アンダルシアの犬』
3.『皆殺しの天使』
4.『イレイザーヘッド』
5.『ホーリー・モーターズ』
6.『エル・トポ』
7.『シャイニング』
8.『自殺サークル』
9.『リアル鬼ごっこ2015』
10.『鉄男』

以上です。

・お題箱38

59.おかずは二次元ですか?三次元ですか?
8:2で二次です。

60.固有名詞としての社会と一般名詞としての社会のくだりで、VRchatの社会は完全でないという話がありましたが、人と人が関係性を持って何かしらの文脈を築いているならそれは社会(例えば家族や学校のクラスもそれ単体で社会と言える)だし、完全も不完全も優も劣もないのではと思ったんですけど、ここでいう完全性とはどういうものなんでしょうか? 今後もVRchatの社会が曖昧なままである(というか曖昧という形で完成する)可能性もあるのでは?
非常にもっともな疑問です。
未定義の言葉で書いた文章だったので、今からちゃんと補足します。別に専門用語とかでもなくて、誰にも通じない自分語をめちゃ適当に使ってすいませんでした。

VRChatについての文脈で言及した社会とはシステムや制度とほぼ同義であり、対置されるのは個人の興味や目的や信条です。
よって、僕にとって「社会が完全に回り始める」とは、個人の合目的的性を全体の制度が凌駕することを指します。構成員が自らの興味に紐づいていない行為をするようになり、個人レベルで見て目的から遊離した行為だけの世界が維持され駆動していることが確認された段階で社会は完全になります。

これだけではあまりイメージが湧かないと思うので、人間集団の発展段階みたいな話をします。
とりあえず、社会より前の段階として人が集まっているだけの何かしらの集団があるとしましょう。あまり多くても少なくても大変なので、精々5人くらいで。VRChatとかボードゲーム会とか何でもいいんですが、「作業用Skypeグループ」という例に何度か代表してもらうことにします。

こういう集団って設立当初は「集団の目的」と「個人の目的」が一切のズレなく完全に一致しています(というか、個人の目的に合わせて集団が作られたので当たり前なんですが)。
作業用Skypeグループで言えば「作業中の気晴らしに使う」という集団の目的と「作業中の気晴らしに使いたい」という個人の目的が重なっており、全メンバーが無秩序に好きな時間にSkypeを繋いで適当に話したり話さなかったりして十分機能している段階です。各個人から見て自分の全ての行動が直接的に自分の欲求に直結し、全時間を自分のために使うことができます。この段階の集団って、社会というよりは「たまたま目的が一致した自由な個人の集合」って感じです。

しかし、こういう社会以前の集団の空気感は大抵は長く続きません(集団の規模を拡大する場合は特に)。「集団の目的」と「個人の目的」が必ずしも一致しない事態、すなわちルールが必要とされる段階が大体どこかで来ます。
ルールができる理由は

・そのルールがあった方が都合が良い人が多い
・規模的に必要になった
・階層的に必要になった
・ルールを作りたがる頭のおかしいやつが現れた(←最悪!)

とか色々あります。
作業用Skypeグループで言えば、人数が100人とかになってくると(100人規模の作業用Skypeグループに参加したことがないので適当に想像で書きますが、)回線が重くなるから喋らない人はマイクを切るとか、どういう人がいるかわからないから黒人の悪口は言わないようにするとか、明に暗にルールが発生することは想像に難くありません。

そういうルールが発生すると一気に集団が社会っぽくなってきますね。僕みたいな社会不適合者は多分20人くらいの段階でドロップアウトしていそうですが、今はルールが堅苦しいとか窮屈とかいうことを言いたいわけではありません。
重要なのは、ルールはその存在自体が集団の目的と個人の目的が合致しなくなったことを示す一つのメルクマールであるということです。もしそれらが完全に一致しているのであれば、ルールなんて作らなくても個人も集団も問題なく動作するわけですからね。そういう意味で、ルール的なシステムや制度が発生するということはただちに個人が直接には目的としていない行動を強いられるようになるということを意味します。
マイクを切りたい!!!という目的意識を持つ人がいない以上、マイクを切っておくというのは制度的な要請による自分の目的から外れた行為ということになりますし、(黒人の悪口を言いたい!!!というわけではないにしても)黒人の悪口を言いたくない!!!という信条の人もそういませんから同様です。

こうしてルールがエスカレートしていけば、個人の目的や興味がほとんど介在しない集団の目的(ルール)が支配的な世界、制度の塊に到達するのはそう遠くありません。僕からすれば個人の興味から直接くっ付かない行為は全て制度による行為ですから、明日家を出てから行うところの「家の鍵を閉める」「赤信号では止まる」「改札に定期を通す」「電車が来るのを待つ」「公道でオナニーしない」あたりは肯定形・否定形問わず全てが制度によるものです。目的から遊離した制度システムが駆動しているというニュアンスはこれで伝わったでしょうか。

VRchatについての話に戻ります(前々回から当該箇所を引用します)。
VRchatを愛好するタイプの人間はバーチャル領域を拡充することに積極的であり、バーチャル仕事やバーチャル食事やバーチャル睡眠ということを半ば冗談で言うのだが、そうやって一定数の人生がバーチャルワールドに移ったとき、彼らは現実ではないが完全な一つの社会に行き着くことを是としているのだろうか?
俺は3に寄っているので(完全にではない。俺よりも徹底して3であるタイプの人間も多い)、VRchatのことをもう少し冷ややかに見ている。バーチャル社会が魅力的な気がするのはそれがバーチャルだからではなく完全な社会として成立していないからであり、コミュニケーションに対しても同様だ。
「完全な一つの社会に行き着く」というのはルールが支配的な世界に至るという意味です。生活の空間をVRchatに移せば移すほど自身の興味から発生したのではない行為を行わしめる制度が増えるのは明らかですから、それを指して社会としての完全度を増していくと表現しました。

ここで言いたかったのは、少なくとも僕の社会不適合な目線から言って、社会が現実のものかどうか(=肉体がある世界のものかどうか)っていうのは別に大して重要ではなくて、未発達故に完全度が低い(=ルールが生まれる必要がなく自由に振る舞える)からVRchatは楽しいだけなんじゃないかということです。下手にVR空間を広げて現実社会のパロディを作るのは方向性として間違っていて、この未成熟故に自由な状態をどう保護するのかを考えた方がまだいいんじゃないの……って感じですね。

まあでも、現実社会を好まない割には社会一般を好んでいないわけではない奇特な人が結構いるようにも感じていて、彼らにとっては現実社会のパロディでも満足いくわけですから、そういう人たちを指すために「固有名詞の社会を好まないが、一般名詞の社会ではこの限りではない」類型についても言及しました。

補足130:「一切の社会的ルールから独立した、本当に個人的な興味などというものは存在するのか?」「個人的な興味に基づかないことがルールによることであったとして、個人的な興味を明確に定義しない限りトートロジーに陥るのではないのか?(ここまでの情報だけでは個人的な興味=ルールに基づかないと定義されかねないので)」という反論は有り得ますが、これは社会契約スケールではなくSkypeグループとかLINEグループスケールの話であるという言い訳で回避します。
一切の社会を経験したことのない人間がいかにして初めてのルールを知るかという話ではなく、とりあえず現状として現実社会や自分というものを知っている人間が(比較的小規模な)別社会にどう参加するかという話です。

・更新用画像を貼るための刀使ノ巫女感想

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戦闘描写に気合いが入っている雰囲気はあり、1話あたり1秒くらい人間戦闘の理想形に近いと言ってもいいくらいの動きをすることがある。そのシーンは本当に鮮やかで、多分本物の剣術のモーションを参考にしてトレースしていたりもするんだと思う(知らんけど)。
実は人間同士の戦闘って未だにアニメで上手く扱い切れてないというか、ロボットアニメの戦闘に比べて水準が低いように感じることが多い。RWBYみたいなもの(列車内のニオvsヤンがLWベストバウト)をアニメ作画でもバンバンやるべきだと俺は思うんだけど、俺が思っている以上にコストがかかるのかもしれないし、俺が好むバトルスタイルがそれというだけでマジョリティはそうでもないのかもしれない。

で、刀使ノ巫女の戦闘はたまに一瞬だけ奇跡的に格好いいんだけど、それ以外の戦闘パートは全て完全に外しているので、格好良さを見る難易度が異様に高い。
基本的にはキャラが水平直線移動したりガシャガシャうるさいクソダサスーツを着用したり(考えたやつのセンス本当に狂ってると思う)いかにもクソアニメですって感じの戦闘だから、集中して見てないと奇跡の1秒を見逃してしまう。
しかも、リアルの何かをモデルにしているちゃんとした流派剣術を使うキャラクターと、5メートルくらいある剣を振り回す漫画剣術を使うキャラクターが共存しているので、前者の正統派描写が目立たない。
あと、たぶん凄いことを外連味なくサラッとやるので非常にわかりにくい。三段突きとか巻き上げとか相当高度な剣術描写をコンマ5秒くらいで何のエフェクトもなくやって、しかもそれが伏線で後のカウンターに繋がったりするんだよね。俺は「今凄いことをやったはずなんだけどよくわからない」と思ってニコニコでの最新話放送に確認しに行くことがよくある(刀剣オタクが解説したりコメントで触れていることがあるため)。

脚本もそういうところがあって、勢力が入り乱れる様子とか善悪が固定されてない雰囲気とかちゃんとやれば面白くなりそうなのに、キャラを動かせばいいようなシーンを立ちっぱの駄弁りで終わらせてしまうから盛り上がらない。攻防共にポテンシャルは高いのだが、名作のなりそこない感あり。
何話か忘れたけど薫がキャプテンの回は面白かった。キャラが非常に可愛いため普通に動けばそれだけで楽しくていいと思う(浅)。

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