LWのサイゼリヤ

ミラノ風ドリア299円

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・わたてん
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今期最強アニメ


・えんどろ~
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味のしないガム


・サークレットプリンセス
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キャラデザだけガチで神


・バーチャルさんはみている
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永遠の文化祭


・けもフレ2
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キュルルちゃん ←は?


・かぐや様は告らせたい
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早坂はやく出して


・ぱすてるメモリーズ
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根幹設定として「既存作品から世界を切断して探索可能なデータベースとみなす」というコンセプトを持ち,二話でそれが大々的に行われたことは注目に値する.この発想自体は新しいわけではないが,

1.アニメ媒体
2.無許可
3.(比較的)新しい作品を扱う

という3点のマイナーチェンジをそれぞれ評価しうるということを順に書いていく.

まず一つ目「アニメ媒体」について.この手の「既存作品世界群をデータベース化して探索する」というコンセプトの先駆者はシュガーラッシュ・レディプレ・ピクセル等の洋画が主であり,(俺の知る限りでは)国内アニメとその周辺ではピッタリ該当する作品の記憶がない.近いコンセプトの作品としては,

〇仮面ライダーディケイド・ジョジョ七部(D4C)・劇場版遊戯王等.これらの「既存シリーズ作品世界を探索する」という発想はかなり近いがパラレルワールドとして設定上の整合性を与えられる程度に隣接した世界に留まっており,各作品世界がパッケージングされているレベルの完全なメタ視点ではない.

〇シュタゲや打ち上げ花火のようなゲーム的マルチエンドに由来する作品群は,マクロには同一なパラレルワールドの探索に留まる.各世界で細かいプロットが異なるものの,地形や時代背景等の作品世界としては同一であり,作品世界を越境しているわけではない.

〇主にソシャゲにおいて,きららファンタジアやヴァンピィちゃんのように複数作品世界を横断するキャラクターはいるが,力点は作品世界ではなくキャラクターの方にある.キャラクターが結果的に複数世界に所属するように見えているだけで,世界の間を移動するプロットには乏しく,探索は行っていない.

以上のように,近いコンセプトの作品は数多くあるが,このコンセプトそのもののアニメはまだ無いような気がする.アニメ媒体ではまだ誰も明示的に行っていないのであれば,その中でのパイオニアの位置を主張できるだろう.後に述べる通り,このコンセプトは「見立て」という完全にメディア依存の行為を要求したり,作品のジャンル的知名度を問題にしたりするので,新しいメディアに進出することの意味はそれなりに大きい(先行するアニメ作品を知っていたら教えてください).

次に,二つ目「無許可」について.無許可というのが本当かどうか裏を取ったわけではないが,まあ,許可を取った上であの内容になるとも思えないので,少なくとも公的には認可されていないのだろう(パロディ系オナホールくらいの許可は裏で取ったのかもしれない).

当然ながら「(シリーズ系列ではない)既存作品世界を探索する」というコンセプトは著作権上の問題を孕むので,ちゃんと許可を取った上で扱うのが常識的な発想ではある(上で挙げた洋画3つもきちんと許可を取った上で登場させている).ただ,これは逆に言えば許可を取らない限りは既存作品を扱えないということでもある.
これを「息苦しい」と断じ,無許可引用を正当化するための理論武装を考えよう.例えば,「剣と魔法の世界」のようにいまや完全にオープンソース化している作品世界も元を辿ればどこかの作品に辿り着くはずなので(具体的な作品名を調べようとしたが諸説あるらしい),「木組みの家と石畳の街」が未だごちうさの権利影響下にあるのはたかが時間と程度の問題でしかない……という強弁が考えられる.
あるいは,「既存作品世界探索」というコンセプトが消費者が日常的に作品に接する感覚に立脚していると仮定すれば,著作権の制約はリアリティを減じる効果しかもたらさないと主張した方が良いだろうか.つまり,レディプレにおいてシャイニングの世界を探索可能な世界の一つとみなすという発想が,消費者がシャイニングを視聴する際に棚の中からシャイニングのパッケージを探す視点に対応しているのであれば,このときに目に映る作品は多ければ多いほど良い(少なくとも,許可が取れたものだけしか棚に無いというのは不自然な設定だ).これはリーズナブルな仮定に思われるし,著作権の制約が破壊された方が消費者の現実に近いということに特に異論は無いだろう.とはいえ,実際問題として,この先どれだけ風通しが良くなっても著作権が全面的に破棄されて任意の作品が任意の作品世界を扱える事態になるとは考え難い.よって,現実的な方法としては無許可で他の作品世界を勝手に使わざるを得ない.

この際に強力な武器になるのは「見立ての原理」だろう.すなわち,元の作品世界のオリジナルな表現を避け,似た表現の組み合わせで「これは実はアレのアレを指しているんですよ」と視聴者にわかってもらうということだ.二話でチノそのものは無許可では登場させられないからチノ的なキャラクターを出し,「これは実はごちうさのチノを指しているんですよ」と暗に示したことがこれに該当する.ごちうさなど常識のように知っているアニメオタクたちはほぼ無意識にこのメッセージを受け取っただろうが,この伝達が(少なくとも直接チノを登場させる場合と比べて)高度にハイコンテクストであることは言うまでもない.チノというキャラクターを知っていることは当然として,見立てるのであれば抽出されるであろう特徴についての知識も要求しており,視聴者への全面的な信頼が無ければ成立しない表現なのだ.
これがよくある「パロディ」と異なるのは,こうした「見立て」がこのアニメのコンセプトの根幹を構成しているという点にある.「わかる人にはわかる」では困るのだ.「作品世界を救済する」という内容が伝わるためには,暗黙にごちうさ世界を指示していることの伝達はマストである.切実な見立て行為であるという点で,単なるお遊びとしてのパロディと一線を画している.

よって,この作品が無許可であることで,開けた作品世界共有に向けてシリアスな見立ての原理を提示するという点に先駆者としての価値が見られる.

最後に三つ目「(比較的)新しい作品を扱う」という部分については,(オタク世界では既に確固たる地位を築いているとはいえ)ごちうさが高々十年未満の歴史しか持たない作品であることを指している.比較対象としては,シュガーラッシュで扱われたパックマン,レディプレで扱われたシャイニングはいずれも40年近い歴史を有しており,コンテンツとしての知名度も段違いだ.この歴史の差も「既存作品世界探索」というコンセプトに対しては一定の意味がある.

まず直感的な理解として,歴史の古い作品を引用するという手続き全般が人類史ないし個人の記憶に堆積した作品をサルベージして利用するものだとすれば,時間的に垂直な引用と言える(過去→現在への移動).その一方で時間的に水平な引用は何かを考えると,現在展開しているコンテンツを横目で見て引用するものとなるだろう(現在→現在への移動).ごちうさは記憶の海からサルベージするような作品ではなく,まだまだ現役で連載中の作品なので,二話での使用印象は垂直よりも水平の方が近い.
この垂直⇔水平というイメージを対比させたとき,後者の方がオープンで現実に近いことは言うまでもない.(消費者層は一旦忘れて)時間的な展開模様だけでいえば,消費者の日常生活に近しいのはシャイニングよりもごちうさである.シャイニングは古典映画で既に完結しているので人生のどこかで一回見れば十分だが,ごちうさは現役の作品であり毎月まんがタイムきららMAXが刊行されるたびに新たな情報が発生する.この意味で,先に述べた通り「既存作品世界探索」が消費者視点に起源をもつのであれば,水平的引用の方が実情に近く好ましいと言えよう(少なくとも,優位性の一つを主張することくらいはできるだろう).

とはいえ,レディプレのような一般映画でごちうさの引用をしたところで「リアルな現実に近い引用」として受け止められる可能性は低い.アニメオタクしかごちうさを知らないからという意味ではなく,(仮に同じような立ち位置の作品でも)古い作品の方が単純に触れた人数が多いために知名度が高いので,古くて有名な古典には敵わないのだ.よって,知名度に期待できない水平的引用はある程度消費コンテンツが共有されているような内輪なコミュニティで行うことが望ましい.そう考えるとマイナーゲームの地味なアニメ化であるぱすメモを視聴する層はごちうさを既知であると読んだことにも一定の判断の形跡を認めることができる.

ちなみに,ゲームではどうなっているのか調べたところ,最大公約数的な架空世界を探索する程度に甘んじているようだ(アニメのように具体的な作品名を提示するところまではいかない).どういう権利関係の問題がクリアされたのか(されなかったのか?)は知らないが,アニメで初めて本来のコンセプトに立ち戻ったことを評価したい.
あと,このアニメは次話以降もどこかを無許可で探索するのかは気になるところではある.まあ,ここまで書いたような功績は後からひっくり返される類のものではないので,別に続けても続けなくても論調を変えることは無いのだが.

・バーチャルさんは見ている 感想

トリミング済KVデータ
内容は全く面白くなかったが、自律型キャラクターとしてのVtuberとメディア形式との関連を考えれば評価せざるをえないという話をする。

まず、Vtuberを自律型キャラクターといったときの「自律」には

1.世界やプロットと切り離された存在であること
2.自分で自分の行動を定義していること

の二つの意味がある。
この二つは元々はHIKAKINのようなyoutuberが保持していた特徴であり、これをバーチャルアバターが流用することで自律型キャラクターとしてのVtuberというキャラクター形態が現れた、つまり、自律型キャラクターであるところのVtuberがyoutuberという形態を取って登場したことには一定の合理性があるという話をしばらくする。

一つ目「世界やプロットと切り離された存在であること」については、TRPGと比較するとわかりやすい。
例えばTRPGで最初に指定されたゲームボードが剣と魔法の世界であれば、プレイヤーの選ぶキャラクターはエルフや魔法使いに限られる(エイリアンやロボットはあまりそぐわない)。キャラクターには所属する世界との結びつきが存在しており、世界と整合する範囲のキャラクター設定しか認められないからだ。また、キャラクターは世界における立ち位置を持つと同時にそこで展開した歴史も背負っており、過去に発生したプロットに対して整合する設定を持つ必要がある(足を切断された過去があるキャラクターは義足でなければならない)。この意味で、古典的なキャラクター像は世界やプロットに制約されている。
その一方、基本的にVtuberは所属する世界や背負うべき過去を持たない。キズナアイやミライアカリはどこかよくわからない部屋に一人でいる上にAIとして未学習であったり記憶喪失であったりして、そもそも世界やプロットとの繋がりが薄いので、キャラクター設定がそれらと整合する必要もない。最近ではVtuberの増加に伴い差別化のために奇抜な世界や過去の設定もよく見られるが、動画の内容によっていつでも放棄できる程度のものだ(例えば、コラボ動画では設定上では別の世界にいるはずのキャラクターでも平気で同じ画面に映る)。よって、それは常に存在するソリッドな制約ではなく暫定的な制約に過ぎないという意味で、依然として世界や過去からは距離を置いていると言えるだろう。
この意味での自律性はキャラクターとしてのyoutuberにも共有されている。

これはHIKAKIN TVの最新動画「【絶望】1900万円の時計買って8時間で終了…【悲報】」で、適当にシークバーを動かして見てもらえれば十分だが、要約すれば「1900万円の腕時計を買ったら金属アレルギーで付けられなかった」という内容の動画である。いま注目すべき点は、この動画はこれ一本だけでも消費できるように作ってあるということだ。俺も普段HIKAKIN TVを見ているわけではないが、この動画を楽しむのに特に支障はない(HIKAKINファンであれば「ボイパ時代からの叩き上げ」のようなストーリーを知っていればより楽しめるかもしれないが、それはコンテンツに必須ではない)。これと対照的なのはアニメや漫画で、途中のある一話だけ見て楽しむというわけにはいかないだろう。
これはYoutubeという配信形態が全話見ることを想定していない、断片的に再生されるメディアであることに由来する特徴であり、このためにyoutuberの動画は基本的に「完結型の一発ネタである」という性質を持つ。その際ネタ以外の文脈は積極的に切断されるという意味で、キャラクターとしてのyoutuberもまた「世界やプロットとの切断可能性が高い」という自律性を持っていると言える。もっとも、順番としてはyoutuberの方が先なので、youtuberが持つ自律性に注目したある種のキャラクター(エヴァ以来のポストモダン論におけるキャラクター像という含みがあるが、長くなるので今は省略する)がそれを相似的に流用することでVtuberというキャラクター形態が発生したわけだ。

二つ目「自分で自分の行動を定義していること」については、演劇と比較するとわかりやすい。
当たり前のことだが、演劇において演者は自分の意志ではなく誰かの筋書きで動いており、観客も演者自身もそのことを知っている。youtuberもまた演劇的な行動=日常なら絶対しないような行動やリアクションをすることがあるが(HIKAKINはyoutubeに一切配信しないときに意味もなく1900万円の腕時計を買ったりはしないだろう)、演劇とは異なるのは、これは他の誰かに指示されて行っているわけではないと我々は同時に理解することだ。つまり、youtuberのネタはyoutuber自身が考えたものであって、ドラマやバラエティのように誰か別の脚本家が考えたものではないと想定するのが普通だ。この理由は単純で、youtuberが市井からの叩き上げカルチャーなので基本的に個人活動であるというだけのことに過ぎない(少なくともテレビ局の後ろ盾はない)。しかし、このyoutuberの「自己立案」という性質がキズナアイのキャラクター性に強い説得力を持たせたことは明白だ。つまり、キズナアイがアニメや演劇のように「脚本家に動かされるキャラクター」ではなく、「自ら企画して動画を作るキャラクター」という体裁を保つことができたのはこのyoutuberに対する鑑賞態度が流用されたからに他ならない。youtubeというメディアを介することで、キャラクター自身が自分の行動をメタな視点から定義する自律的な存在であるという情報が暗に伝達されていたというわけだ。

ここまで、元来はyoutuberの持っていた自律性を流用することで自律型キャラクターとしてのVtuberが生み出されたことについて書いてきた。Vtuberがyoutubeという配信形態を選択したことには一定の合理性があり、その性質の少なくない部分をメディアの特性に負っているのだ。最近はVtuberもニコニコや生配信にも移行しつつあり、HIKAKINのようにyoutubeに10分くらいの動画を投稿し続けるキャラクターはそう多くはないが、「一発ネタ(概ね単体で楽しめる)」「個人活動(というスタンス)」は辛うじて維持されており、現在でもこの図式は有効であると考える。

以上を踏まえたとき、Vtuberがアニメになるという事態の重大さがわかってくる。メディアの特性を考えれば、youtubeからアニメへの移行に際して二つの自律性は完全に破壊されると言っていいからだ。一般的に言って、アニメは各話が連携していてネタの独立性が低く(世界・プロットとの癒着)、動画投稿とは比べ物にならない人数の参与がキャストクレジットで明示される(キャラクターの自己完結の否定)。
よって、アニメ化に際しては自律型キャラクターとしてのVtuberは死なざるをえないということになるが、この予想は幸いにも裏切られた。つまり、自律性を確保するために維持すべき二点の特性において、「バーチャルさんは見ている」一話はほとんど完璧に近い回答を示した。内容をネタの羅列にして話の連関を破壊することでキャラクターと他文脈の切り離しを行い、モーション・声・ネタ全てにおいて極めて質の低い文化祭レベルの内容を流すことによって企画がプロの立案ではないという印象を確保した。この意味で、メディア移行に際してキャラクター特性を維持するためのベストアンサーを提示したこのアニメの評価は高い。

まあ冒頭で書いた通り内容は純粋につまらないのだが、こういう内容がつまらないこと自体が重要な意味を持つ作品ってつまらなければつまらないほど評価せざるを得ないからずるいね。

・お題箱45

75.Vtuberアニメ化するらしいですがどうなるんでしょうね。Vtuber自身を演じるとかいう滑稽な感じになるんでしょうか。
どうなるんでしょうね。キャラ設定を保持したまま演劇としてやるのか、保持せずにスターシステムでやるのか、キャラそのものでアドリブっぽくやるのかの三択くらいでしょうか。
正直それほど楽しみでもないし期待していることも特にないんですが、ニコニコ最新話無料に入ると思うのでハースストーンでもプレイしながら見ていこうと思います。

・SSSS.GRIDMAN(S4GM)敗戦処理

まず最初に言えば、俺はS4GMを最終話まで見てがっかりした方の視聴者である。
それは何故かという話をするが、一応フォローしておけば、別にアニメ側に何か欠陥や落ち度があったわけではないと思う。それよりは俺が勝手に期待して勝手に幻滅したいつものパターンの方が近い。とはいえ、(今まで俺が勝手に幻滅してきた作品に比べれば)周囲でも同じような感想を辿る人が多いように感じるので、的外れな期待を招来する誤解を生じる要素が多かったと言うことにもあまり抵抗はない。
よって、何に誘発されてどういう誤解によりどんな期待を抱いて何を考えながら見ていたのかを一応残しておく。

まず一番はじめに感心したのはOPで、最初に聞いたときは天才だと思った。

歌詞全文は適当なサイトで調べてほしいが、

・常に呼びかけの体裁を取っていること
・著しい危機感が先行していること
・具体的な内容を伴わないこと

が一貫しており、このあたりの感じはサビの「目を覚ませ僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ」に集約されている。「目を覚ませ」と覚醒を促すことによって周囲の人々を啓発して自分の方に引っ張ろうとしていることが伺えるが(周りの人も侵略に気付いているのなら警告する必要がないので)、「僕らの世界」とやたら主語がデカい割には、敵は「何者か」と判然とせず、被害報告も「侵略されている」という完全に具体性を欠いたものだ。

このグリッドマンOPの主張は新宿とかによくいる統合失調症らしき人たちにかなり似ている。
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彼らは「電磁波」「集団ストーカー」「マイクロチップ」あたりによる被害をデモやブログで熱心に報告する。この三つの攻撃の共通点は、目で見える実体を持たないため「ある」とも「ない」とも判然としないことだ。まあ、現実問題として彼らの被害は妄想に過ぎず、実際には攻撃は発生していないので、無理に原因を言葉にしようとすればこういう不可視で曖昧な形態を取らざるを得ない。まさに「僕らの世界が何者かに侵略されてるぞ」である。

補足163:俺は彼らが好きで西新宿一丁目交差点あたりでその姿を見るたびにエネルギーを貰っていたのだが(一応念のために言うが電磁波エネルギーを受信したという意味ではない)、ここ数年は警察に取り締まられたのかめっきり見なくなった。例の黄色い看板を持った終末論者は今でも東口あたりによく出没しているものの、正統すぎてイマイチ元気が出ない。ついでに言えば、それに限らず、最近どんどん目の届く範囲からアウトローたちが提供する非日常空間が排除されているように感じてならない。今ではとても信じられないだろうが、ほんの10年少し前には渋谷駅構内の空中連絡通路にホームレスが堂々と段ボールハウスを建てていた。

この種の曖昧な被害報告において、敵の具体的な本性はそれほど重要ではない。原因と結果が完全に逆転しており、現にあるように感じられる結果を生じうるような原因をとりあえず措定することが急務なのだ。すなわち、「作り物のようなこの日々」「何かが違う」という漠然とした世界への不信に対して、(敵の内容を充実させるのではなく)敵の存在を確保したいという病的な心理である。

OPが提示するこうした問題意識を踏まえれば、序盤の新条アカネは「日常への違和感に対して(ヒーローや怪獣のような)適当な原因を見つけられない場合にどうすればいいのか?」という問題に対して「自分で怪獣を作る」という回答を提示するキャラクターとして解釈できる。実際、夢怪獣回くらいまでの新条アカネは怪獣騒動を楽しんでいるだけのキャラとして描写されていたはずだ。先生を殺すために怪獣を作った割には殺害を失敗したことを気にも留めないし、(正常な目的を持っているならば現れてほしくない敵であるはずの)グリッドマンの登場を求めて山中を徘徊していた。一貫して結果への執着が薄く、非日常的な騒乱の追求が先行している。

もう一歩踏み込めば、S4GMがエヴァ以来共有されてきた「物語無き世界をどう生きるか」という問題系に取り組むアニメのバリエーションという解釈をするのも無理からぬことのように思われる(今自分で書いていてそんなに突飛な発想だとは思わないし、中盤くらいまではそういう声もちらほら見たような気がするのだが)。そういう目でこのアニメを見たときに優れているのは、上の問題に対して、「フィクションに逃げ込んで満喫する」という回答を持つキャラクターである新条アカネを最初から設定していたことだ。回答を探索する段階を既に終えて自己完結したシステムとして完成していたのが初期の新条アカネ像であり、これに対抗するグリッドマン陣営がどう戦うか、というよりはもう終わっている話に対してどう収拾を付けるのかを楽しみにしていた。

補足164:ここで言う「フィクション」とは、最終話であったような実写世界との対比や、アノシラスが説明したような神設定を念頭においた表現ではない。新条アカネが日常とは連続しない世界観で生きるキャラクターであるということは最初から明らかで、それが話が進むにつれて設定上でも補強されたに過ぎない。

しかし、この主題は夢怪獣回あたりから新条アカネのキャラと共に大きくブレ始める。
新条アカネについて当初に想定されたキャラからズレていたのは、「本当にグリッドマンを倒す気があったこと」「日常的な幸福を望みうること」の二点である。まず一つ目について、物語が進み失敗を重ねるにつれて彼女の精神状態はどんどん悪くなっていき、アンチ君への態度も悪化していく。彼女が本当に怪獣によって物語を手に入れた者だったら、むしろグリッドマンが倒せてしまったら困るはずなのだ(その時点で物語としての騒乱が終わってしまうため)。当初の結果に無頓着な態度は、単なる楽観的な予測に基づく余裕の表れに過ぎなかったと言わざるを得ない。また、二つ目については、夢怪獣によって新条アカネが怪獣のいない世界も志向しうるとわかったことを指している。新条アカネが夢見たのは、裕太と付き合ったり内海と遊ぶような極めて卑近で現実的な物語であり、怪獣が登場するような非現実的な物語ではなかった。怪獣は一つの選択肢ではあるが、だからといって唯一の選択肢ではない。OPのような強烈に何者かの侵略を望む心性からはギャップがある。

それ以降このギャップは増幅し続け、「物語なき世界をどう生きるか」という主題が「本当は存在していた物語をどう発見するか」という主題にすり替わって最終話は終わる。すなわち、怪獣が闊歩する非日常的な世界観に逃げ込まなくても、怪獣がいない実写世界の現実でも生きていけるという結論に至る。最初の主題から見れば、これはちゃぶ台返しと言わざるを得ない。「物語なき世界」というそもそもの前提が破棄されただけなので、回答としては機能していないからだ(手持ちの250円でどう夕食をやりくりするか考えていたら、1000円札を拾って全部解決したという状況に近い)。また、当初の期待が単なる誤読だったことを認めたとしても、新しい主題についてもあまり議論されておらず(単純に新条アカネが心変わりする理由がイマイチよく見当たらない)、説得力も新規性もないのでポジティブな評価は与えにくい。

なお、新条アカネが期待を裏切ったあとの段階で旧テーマを受け継ぐ素養があったキャラクターが内海君であることは言うまでもない。内海が優秀なのは自分が問題の解決を目指しているというよりは戦いやロボットに憧れているに過ぎないときちんと自己認識していたことで、非現実に取りつかれた人間として新条アカネと波長があったのも頷ける。これは彼が相対的に大きな物語の中でロールを持てない(持つべきではない)という自覚に繋がってきて、病室で「一般人だから戦いに参加できない」という線引きを行うに至るのだが、立花の説得によってあっさりと放棄されてしまう。結局のところ、内海もまた大きな物語を保持することが唯一の解決策ではなく、「友達を助ける」という卑近な目標での代用が効いてしまうのだ。

強いて言えば、アレクシスが旧テーマを最も受け継いでいたと言えなくもない。無限の命による退屈を持て余したアレクシスが撃破されることで救済されるという構図は成り立ちうるが、たぶんアドホックな設定を過剰に好意的に解釈した無理筋な主張なので、あまり頑張って擁立する気はない。

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