子どもを見る目、育てる目

幼児・児童の健やかな成長を願うエッセー

明石中央児童合唱団50周年

 先生へ
 合唱団50周年おめでとうございます。
 今日この日を共にできることをとても嬉しく思います。
 私は、合唱団に小学校5年生のときに入団しました。入団してからは、家でなんとなく口ずさむ歌が合唱団で歌った歌だったり、車の中で誰からともなくふと歌い出した歌を妹弟みんなでハモったり、気づけば合唱が私の生活に自然に溶け込んでいました。
 休み時間、恒例のお菓子交換と鬼ごっこ。これはなぜか合唱団の伝統のようで毎回の楽しみでした。きゃっきゃっと騒ぐ私たちを先生は優しく見守っていてくださり、私たちは自由奔放に駆け回っていました。ほかではそんなに自由な鬼ごっこができる場所はなかなかありませんから、合唱団での鬼ごっこではここぞとばかりに楽しんでいました。
 毎年、楽しみな夏の合宿には今でも参加したいくらい楽しい思い出がいっぱいです。夜更かしして、次の日うとうとしながら歌ったこと、それでも歌うことが楽しくて家に帰ってからも歌っていたり、妹とパートを交替して歌ったりしました。
 初めての合唱祭では、たくさんの合唱団あってその技術の高さに驚きました。高くそろった声、きちっと姿勢を正して大きく口を開き豊かな声量で歌う合唱に感心してしまいました。そして、私たち明石中央児童合唱団のステージでは小人数できちんとした姿勢でも大きな声でもないのですが、聴いていいてとても優しく気持ちよくなる歌声で歌えていると感じました。
 現役時代に、先生がお話ししてくださった数々のお話しは、小学生の私には少し難しいものでしたが、今では、なんて貴重なお話しだったんだろうと思い、あのときの自分にちゃんと聞きなさいと叱りたいくらいです。
 卒団してからも、ふと合唱団に行きたくなることがあります。そして先生とお話しがしたくなります。
 たまに、ふらっと合唱団に行くと、みんなの笑顔や明るい歌声に癒されます。そして、いつも変わらぬ優しい先生がいてくださることに安心し、自分の居場所を感じることができます。
 学校でほかの合唱団にいた子と出会って、合唱祭の思い出話しを交わしたことがあります。お互いの合唱団の話しを交わしながら密かにやっぱり明石中央児童合唱団で良かったと思ったりもしました。
 たまたま街で合唱団の卒団生と出会うと、だれもが「また合唱団にいきたいな」と口をそろえて言います。明石中央児童合唱団には、また行きたくなるような温かさがあるのです。すれは、先生のお人柄と先生を慕う子ども達が作り出す和やかな空気があるからだと思います。
 いま思えば、現役時代も歌いに行くというより合唱団の友達や先生に逢いに行き、ただただ居心地の良い合唱団に行きたかったからだと思います。そんな合唱団での思い出はどれもきらきらと幸せなことばかりです。
 合唱団でできた友達、みんなで歌った歌、そして合唱団でお逢いできた先生に感謝と尊敬をささげ、50周年のことばとさせていただきます。 

 2018年3月24日
                                              関 真葉

張り子のトラ

 張り子のトラは格好はよいが中は空洞の張りぼてだから、ちょっとしたことで直ぐ壊れてしまう。張り子のトラが格好良くいられるのは、まわりの人がだいじに気配りをして飾っていてくれるからだ。
 小学校の教師を定年で辞めてから26年、私はいまだに「先生のお陰です」と慕ってくれる子がいてくれることがたいへんうれしいし、ありがたいと感謝している。とは言え、なんとなく張り子のトラのような気分がしないでもない。そして「虎の威を借る狐」にならないようにとも自戒している。
 さる5月22日、明石西部市民会館でマレーシア国立マラ工科大学のマラ室内合唱団による演奏会があった。この合唱団はクロアチア 国際合唱コンクール、パリ国際合唱コンクール、プラハ国際合唱コンクールなど世界屈指のコンクールで1位やグランプリを獲得している実力派合唱団で、そのすばらしい歌声は本番はもちろん、明石駅前にできたばかりの「市民広場」での前夜祭でも聴衆に強烈な感動をあたえた。
 この合唱団の指揮者は、私が初めて校長をした小学校にいた生徒だ。「朝会のときの話しに触発されて、音楽の道を志した」という話しに、当時の朝会のことなどを思い出してみたものの、その子の顔はまったく思い出せなくて記憶にない。そのころ休み時間になると男の子とはよく相撲をとり、女の子とは鬼ごっこをしていた。
 マラ室内合唱団の指揮者の岸本正史さんは、日本、オーストリア、アメリカの音楽学校で声楽や合唱指揮の研鑽をつみドクターの資格を持つ人だ。
 記憶にもない生徒から「先生におかげです」といわれたとき、覚えていない申し訳なさとともに、一流になった人は専門分野だけでなく人間も大きくなり人を接遇する態度もたいしたものだと感心し、記憶の片鱗すら思い出せないことを情けなく思った。
 これと似た話がある。数年前に私の児童合唱団にお嬢さんを連れて「入団させてやってください」とやってきた女性がいた。現在のピアニストのMさんである。そのMさんに岸本さんが校長だった私の話に影響を受けて音楽を志したという話しをしたら、「私だって同じです」というので、同じようなことが現実にあるのだと改めて驚いた。そして、さりげなくMさんの顔をみながら、どこで教えたのだろうかと懸命に記憶をたぐった。どうしても思い出せないので仕方なく「どこの学校だった?」と尋ねたら、岸本さんの学校の次の学校だとわかった。ウ〜ンとうなりながら、放課後にバレーボールを教えていた子ども顔を思い出しながらその子たちの名まえをいったら、「その子、すぐ近くの子です」といった。その子を覚えていて、どうしてこの子を覚えていないのだろうと動揺した。どうしてこの美人を覚えていなかったのだろうと思って少なからずうろたえた。
 マラ室内合唱団の演奏会には児童合唱団が賛助出演し、そこで岸本さんと美人ピアニストのMさんが対面して、互いが音大の先輩後輩の関係だと分かった。
 児童合唱団は今年が50年目になる。卒団生の一人で、現在、ウイーン音楽大学の大学院に在籍し、アーノルド・シェーンブルグ合唱団でも歌っているBさんという女性がいる。この人については、もちろん顔も名前もよく覚えている。Bさんが7月に東京で仕事があって帰国したとき、ちょうど私も上京していたので、あるコンサートに誘った。そのコンサートは、私の教え子の細田さんが、自分の会社のロビーで毎月開いているテャリティーコンサートでその時は第238回のコンサートだった。このコンサートは、ずいぶん長続きしているし評判もよい。細田さんは毎月のコンサートの他に、秋にはプラハ交響楽団の若手演奏家を招へいして、茨木県大洗市にあるHOSODA・HALLでの定期演奏会として催している。
 Bさんと細田さんの初対面のとき、「ウイーンにいて声楽をやっています」とBさんが自己紹介をすると、細田さんが戸棚から「マンスリー・ウイーン」という冊子を取り出し、「会社の事業の関係で毎月ウイーンから送られてきます」と言ってテーブルに広げた。それを見たBさんが、「そこに私も出ています」とページを繰った。その場にいたみんなは、佐渡裕さんのウイーン・オーケストラ指揮者就任祝賀会やその他のセレモニーで歌っているBさんの写真と本人を見くらべて目を大きくした。
 学校や合唱団にこんな子がいて「先生のお陰です」と言ってもらえるのは、縁があったんだとしかいいようがない。
 偶然に偶然を重ね、その偶然をつねにラッキーにかえる張り子のトラでいられたらと思う。いつまでもきょろきょろと周りを見回しながらいい思いを重ねていたい。
 

子どものすばらしさ

 歳をとると道を歩いていてもみんなが追い越していく。ラジオ体操に参加しても思うように身体を曲げることができない。そういうふうに衰えを自覚するぶん子ども達を見ているとすごいな、すばらしいなと思う。
 1年生の女の子が「おもしろいこと」を教えてくれた。教えてくれた話しを記録したら詩になっている。
 わたしのまわりには
 おもしろいことが
 いっぱいある
 きんぎょに
 えさをあげること
 あさがおの
 たねをとること
 いちりんしゃに
 のること
 たっきゅうの
 れんしゅうをすること
 プールで
 およぐこと
 こくごのべんきょうを
 すること
 すずむしのうごきを
 みているのも
 おもしろいよ

 子どもはすごいなと思う。

 横にいた3年生の男の子の話もそうだ。

 「うれしいこと」
 うんどうかいで
 みんなと
 心をひとつにすること
 音楽会で
 楽器をひくこと
 友だちとあそぶこと
 だれかに
 ほめられること
 プールで
 級があがること
 ピアノで
 新しい曲を
 ひけるようになること
 空手で
 おびの色がかわること
 エディックで
 70点いじょうをとること
 これはぜんぶ
 ぼくのうれしいことです

 そうかすごいね。おじいちゃんも少し見習うよ。
 

新年おめでとう

  晴れやかな元日だ。
  いつもこの季節には、8時のNHKの朝ドラのころに、須磨の山の端から朝日が顔を見せる。今朝は、磨き上げたような青空へきらめく初日が昇ってきた。
  初日を拝みに,防寒具に身を固めて、旗振り山の山頂まで登っていたのは、いつのころのことだっただろう。
 太陽の温かみを背に感じながら、妻とふたりだけで新年を雑煮とお節料理で祝う。お酒がないのもふたりだけというのも初めてのことだ。
 毎年、神戸へ来るのを楽しみにしていた孫娘たちも、大学受験や部活などで春休みまではだめだと言っている。下の孫は、春には、修学旅行で行った奈良の一人旅をしたいといっている。うちには泊まるだけで,一人旅を楽しみたいのだろう。木立の道では「熊や狐が出てきたらどうするのよ、子どもから食べちゃうのよ」とおんぶをねだっていたのに。
 食卓には、目の下一尺もある美事な祝い鯛が載っている。お正月早々、お隣さんへ助けてもらうのもどうかと思い、さっそく箸を付けてみる。贈り主の厚意のこもった明石鯛はおいしい。
 パソコンの前の壁に掲げてある「うぐいすの 初音したたる この星に 許されて在り この春もまた」(柳沢桂子氏)の歌に、86歳に向かう幸せを思う。
 この幸せは、85年の人生の節々で思いがけぬ幸運に恵まれたお陰だと思う。しかし、孫たちには、幸運は感謝すべきことだけれど、当てにすることではないと教えたいと思う。
 幸運を招くといえば、もっぱら幸運を招く方法があるように思えるが、そんなものはない。幸運は期待するだけで得られるものではなくて、当面の課題に一生懸命に取り組み、努力を継続しているきに転がり込んでくるのだ。幸運は期待するものではなくて、目標に向かって懸命に努力した結果、ひょっこりと転がり来るものだと教えたい。
 上の孫は.年末に私の知人からすてきなプレゼントを戴いたようだ。さっそくお礼状をだしたいのだけれどセンター試験が迫り、書く余裕がないから、とりあえずおじいちゃんからお礼を言っておいてと言ってきた。
 よしよしと引き受けながら、志望校の試験に合格し、喜びに満ちた礼状が出せたらいいのだがと、こればかりは、幸運を願うばかりだ。
 
 
 

ノンデレ

 歳のせいで、とっさに人の名前が思い出せないことが増えてきた。
 覚えているはずのことを思い出せないのも難儀だが、新しいことを覚えるのはなお困難になっている。
 今日は、孫娘へ手紙を書いていて、学業成就のジュや継続のケイの文字を書いた後でひと思案した。これは、手書きの機会が少なくなったことの影響かも知れない。
 これでいいかなとか思ったり、ちょっとおかしいのではないかと感じているうちはまだいいのかも知れないと思ったりもする。
 この自分への甘さが危険なんだろうなぁ。
 電車に乗って手持ちぶさたのときに、どうして、こんなことが頭に浮かんできたのかと不思議に思うことがある。
 きょうは、山陽電車に乗って本を読み始めたが、正面からの光がまぶしくて本を閉じた。
 目を閉じるとノン・ディレクティブ・カウンセリングのことを思い出した。ノンデレと略称していた。子どもに対して、良かれと思って、先々、あれこれ指示する方法を止めて、子どもが自分で動き始めるのを待つ指導法だと聞いた。
 自主性、主体性を育てるには、この方法が良いと教えられた。
 実際にやりはじめると、つい口出ししたくなってしまう。のんべんだらりと待つことが苦痛になる。その状態はなにもやらないでデレッとしているようで、ノンデレ状態だ。
 この手法を学んだとき、「非指示」といっしょに「受容」ということも学んだが、「非指示」が強烈だったので、「受容」をうまく受けとけることができなかった。
 そのうち「受容」こそたいせつなんだと気づくようになった。
 子どもの気持ちを受け入れるということは、なんでもないように思えるが、教え込むより何倍も辛抱と感度が必要なことに気づくようになた。
 要領を体得してくるにつれて辛抱の度合いが減ってきた。子どもを見る目が広がった。
 「受容」を大切にした「非指示」の教育法は、子どもを教えるより子どもを育てることに重点を置いた教育法なんだなと思った。
 55年も前のことが電車の中で思い出された。
 ちなみに、直前に閉じた本は、岩波新書のシリーズ日本中世史ぁ慂裂から天下統一へ』(村井章介・著)だから、脳はずいぶん勝手な動きをするもんだなと思う。
 思い出したいことが思い出せなくて、ひょんなことが出てくる。若い頭だとひらめきと喜ぶことができるのだろうけど、85歳の頭だとそうとは思えない。

似顔絵

 ピンポ〜ン。
 パソコンに向かっていると、玄関チャイムが鳴った気がした。宅配や来客の時刻でないので、テレビの音の聞き違えかも知れないと思ったが、念のために玄関へ出てみた。
 「早くからすみません」とお隣さんだ。かわいいお孫さん2人がいっしょ。 
 「この間は、どうも」といって、後をお孫さんに譲った。
 「運動会の写真、ありがとう」といって、上の女の子がポリ袋に入った自家製のラスクをくれた。
 「ありがとう。おいしそうだね」
 「これも」
 とA4のコピー用紙をたたんで何かを包み込んであるようなものを渡された、包みのようだが中に何かが入っているようでもない。包みは小さなシールで止めてある。
 「開けて」というほっぺが艶々している。
 「ああ、そう」
 小さいシールは意外に粘着力があって、うまく剥がれない。
 「なにかしら?」といいながら、もぞもぞ指先で剥がそうとする。
 中に何が入っているかまったく想像がつかない。
 「バッタが入っているんじゃないかな」というと。
 「ちがうよ、バッタじゃないよ」と下の女の子もいっしょにおかしそうに笑う。
 やっとシールが剥がれた。私の顔が描いてあった。
 いま高校生になっている私の孫が、ちょうどこの子と同じころによく描いてくれていたことが頭をよぎる。
 「わあっ、うれしい。いいお顔に描いてくれたね、ありがとう」
 私が喜ぶのがうれしいのか、素敵な笑顔で見上げている。
 絵の脇に、しゃしん、ありがとうと一生懸命に書いてある。ひらがなが書けるのだ。でも、名前らしい文字は、判読困難だった。
 「ありがとう、いってらしゃい」と保育園へ出かけるのを見送ってドアをしめた。
 食卓の上で、似顔絵の用紙を広げて見直した。まん丸な顔の上の方に小さな目が描いてある。背の低い子の視線で見るとこう見えるのかも知れない。少ない毛を忘れずに描いてくれている。
 似顔絵の用紙を三つ折りにして、服のポケットに忍ばせた。どうだと、誰彼なく見せびらかせたい気分だ。

読書の楽しみ

 大型の書店の喫茶コーナーで買ったばかりの本のページを開くのはとても楽しい。
 それにしても、書店の入り口近くの平台にはスーパーの特売場のように毎日新刊本が積み上げられ、店内のたくさんの書棚のなかには、前を通ったこともないところがあり、なじみの書棚でも読んだことの本ばかりだ。ここにある本を読み尽くしたらどういうことになるのだろう。
 読書の楽しみは、知らなかったことを知ることにある。また、新しい知識と古い記憶が結びついて新しい気づきが生まれることにもある。もちろん、ドラマの展開や人情の機微に誘い込まれることも。
 先日、『山に生きる人びと』(宮本常一)を河出文庫で読み直した。岡山の山中で暮らしていた人びとは、周囲の村々の人たちと違った暮らしをしていたということだ。焼き畑を主にして生計をたて、麦・稗・里芋を主食にして生きていたようだ。高知の山の人びとは、麦・里芋・まんじゅうさげの根などを食べて暮らしていたとか。
 たぶん、縄文時代の終わりころまでは日本でも狩猟や採取をしながら生きる生活が続いていたのだろうし、弥生時代に移って農耕が盛んになってきたとしても、なお原野や山地で狩猟や採取による生活をし続けている人がいたことも想像できる。
 いまだにケイタイやスマホを持たないでいるいる私のような人が大昔にもいただろう。
 『山に生きる人びと』には、サンカ、木地屋、落人、鉄山師、炭焼きなどの生活が紹介されていて面白い。
 この本を読んでいると、私が子どものころの生活が思い出されて興味深い。今の子どもたちは、高度に電化が進み、流通や通信が発達した社会の姿しか知らないから、ここに出てくる人たちを、まるで原始人のように思うかもしてないが、私は、似たような生活を体験しているから、親しみが湧く。
 私が子どものころは、薪で御飯を炊きワラで風呂を沸かしていた。近所に鍛冶屋があって馬のひづめに蹄鉄を打ったり、まっ赤に焼けた鉄を叩いて鎌をつくったりしていた。戦時中には、破れた靴の替わりがなくて、わら草履を編んで履いたこともあった。だから山の人びとを身近な人に思う。

 今年になって最初に読み始めた本は『新々百人一首』(丸谷才一)である。数年前に買っておきながら読み損ねていた本だ。この本は、いわゆる和歌に関する文学本だから『山に生きる人びと』とは内容は全く違う。それが、読み進むうちに思いがけないことになった。

  ○ 山守よ斧の音たかくひびくなり峯のもみぢばよきて伐らせよ(源経信)

 源経信は『小倉百人一首』に「夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろ屋に秋風ぞ吹く」が納められている平安中期の公卿である。この「山守」の歌も名歌に違いないのだろうが、私は、山に住む人びとの焼き畑のことを読んでいなかったら、たぶん読み流していただろう。もちろん、山守と公卿の身分差を読み取ることもなかっただろう。
 この山守は、斧の音を高く響かせてどんな木を伐っているのだろう。何のために伐っているのだろう.焼き畑の準備をしているのだろうか、精錬に使う木炭を作るためだろうか。こんなことを思うのは『山で生きる人びと』を読んだ後だからだろう。

  ○ 片山に畑焼くをのこかの見ゆる山さくらはよきて畑やけ(藤原長能)

 藤原長能は、平安中期の歌人だが、この歌に詠まれているをのこ(男の人)は山の人にちがいなかろう。長能は、焼き畑をする男にあの山桜は避けるようにと言っている。
 平安期の山の人と中世以降の山の人とでは、山に棲みつく原因や棲み方にも違いがあるのではないだろうか。こんなことを考え始めると、その辺のことが調べたくなってきた。
 手ごろな本を見つけ出すのも読書の楽しみだ。
 <子ども達にも読書の楽しみを伝えたい>

歌会始の儀

 テレビで歌会始の儀を見た。
 文化の継承とか伝統の尊重とかいうが、この歌会始の儀は、それを具体的な形で教えてくれた。
 まず、皇后様のお召し物と背景の色彩の調和の良さに感じ入る。宮内庁の方々の陰のご苦労を思う。
 荘重にして伸びやかな朗詠は、歌の世界を限りなく広げてくれる。
 テーブルクロスとは言わないのかな、あれなどをはじめ陛下のお椅子など、あらゆる調度品の美事さに目を奪われる。あれを注文し、それを制作した人々がいて、それにふさわしい扱いがなされる。これこそ伝統と文化というものだ。
 両陛下のご様子は鎮座という表現を借りるよりいいようがないお姿でいられる。天覧相撲のときとはまったくご様子が違う。
 御製「戦ひにあまたの人の失せしとふ島僂砲導い鵬たふ」
 昨年は戦後70年の節目の年だった。終戦の年に生まれの者も古稀となり、戦争の記憶が薄れようとしている。このときに、「人」のお題でこの御製を詠われたお気持ちを思う。三句、「失せしとふ」の言葉選びにどれほどお考えなされたことか。勇気のいることでもある。
 秋篠宮家長女の真子さまの気品に満ちたお姿にも惹かれた。お育ちというより、育て上げられた方々のお姿が思われる。
 国威発揚の儀式より、このような催しを楽しませていただくことのほうがよほど幸せに思う。着実に、末永く、思いあって、控えめに、気品を尊んで生きるすべを教えて下さった儀であったと思う。
 「休憩所の日向に手袋干しならべ除染の人らしばし昼寝す」(福島県・菊地イネさん)
 知らないところで私たちの暮らしを支えてくださっている人々のお陰で、新しい年を迎えさせていただいております。感謝。

2016年元旦

 新年明けましておめでとうございます。
 穏やかな、そして、暖かい元日です。
 みなさまのご健康とますますのご活躍、ご発展をお祈りいたします。
 パソコンデスクの前に掲げている柳沢桂子さまの歌、
 「うぐいすの 初音したたる この里に 許されて在り この春もまた」
 今年初めて開いた『新々百人一首』(丸谷才一)より、 
 「咲きそむる 梅ひとえだの 匂いより 心によもの 春ぞみちぬる」(伏見院)
 この正月は、孫たちが一人も遊びに来ていない。こんなことは、ここ20年なかったことだ。
せめてもと、お祝いの箸袋には名前を書きました。
 「新しき 年の初めに 思ふどち 群れて居れば 嬉しくもあるか」(万葉集・道祖王)
 

うるうる

 9月5日、橋本海関・関雪展の開会式に出かけ、彫画家・伊藤太一先生と出会う。
 「お変わりありませんか」と声を掛けられ、「見かけどおりの年寄りになりましたが、日々、老衰の進みを感じています」とこたえる。
 「老衰。そうですね、老化とは明らかに違いますね。私もその通りです。うまいこといわはる」
 この、うまいこと言わはるというのが伊藤先生の口癖。
 「バランスよく老化していきたいもんだと心がけています」
 「ああ、そうですね。バランスよくいけたらよろしいな」
 行きつけの書店に次々と並ぶ伊藤先生の町の歴史や風物を描いた著作を見るたびに、伊藤先生の頑張りに鞭打たれ元気をいただく。先生と知り合いになって、ざっと50年、先生の鳥打ち帽子が変わらないように、いつまでも親しくしていただき馴染みを深めさせていただきたいと思う。
 この後、牧羊幼稚園でコーロ・セニョーラスのコーラスの稽古をし、明石公園で昼食をとる。
 午後は、生涯学習センター分室で、児童合唱団の指導。始まりの時刻には7人しか集まっていない。人数が少なくても、定刻になると練習を始めることにしている。遅れたり休んだりする子は、学校の部活やほかのお稽古などと重なるからだ。そんななか、やりくりして歌いに来る子どもを叱るなんてことはできない。
 人数が少ないと、一人ひとりに目が行き届き。それだけ力も付いてくる。はじめは、一人で歌わされるのを敬遠していた子が、しだいに慣れてくる。突然のパート替えにも驚かなくなって、団員相互の協力や信頼関係までよくなっていく。
 きょうは、休憩時に、夏の兵庫県児童合唱祭に特別参加した子どもたちが所属しているダンス・チームからお礼にいただいたお菓子を分け合った。
 きょう、特に力をいれて練習したのは、明石市芸術祭「ステージ・アート2015」で歌う「トランペット吹きながら」と「たいようのサンバ」だが、「大空のカーニバル」「白い花」「夢の世界を」「Let's begin」なども歌った。きょうだいによる二重唱の稽古もした。
 前に呼び出されるだけのことを恥ずかしがっていた1年生が、「きょうは、夢の世界をまちがえずに歌えてうれしかった」とみんなに話している。
 最後に、いつものお別れの歌「グッデイ・グッバイ」のタクトを振っていると、なぜかうるうるしてきた。こんなに可愛い子と過ごせる幸せをしみじみ思う。そして、私は、子どもを教えているのではなくて子どもの育ちを援助しているのだとつくづく思う。育ちの援助の手応えに喜び味わい、同じ年輩の者には珍しい幸せをこの子たちからもらっているのだと思う。
 
 

二百十日・二百二十日

 今年の夏は暑かった。
 あちこちで滝のような豪雨があるというニュースを聞くと、少し回して欲しいと思ったりした。
 今年の夏の高校野球の熱戦が終わったとき、甲子園に赤とんぼが舞い、空に秋の気配が感じられますというアナウンサーの声を聞き漏らしたが、暑すぎてアナウンサーの感慨に秋がなかったのかも知れない。
 だが、それから数日すると朝夕にわかに凌ぎやすくなり、ふと気がつくと、汗が退きました、季節が変わりましたと挨拶をするようになった。1ヶ月ほど季節がとんだようだ。
 「のど元過ぎれば暑さを忘れる」と苦笑する。
 この夏は、豪雨が九州の南部や中部をなんども襲ったが、被災地の苦難を思いもしないで、こちらにも分けて欲しいと思ったりした。
 酷暑のある日、窓から大阪湾を一望しながら、右手奥の阿波の徳島や正面の紀州の和歌山や左手奥の大和の吉野は大雨が降っているというのに、こちらへも分けてくれればお互い助かるのにと思ったりもした。
 心配していたいくつかの台風が逸れたときには、通過地域の難儀を思うよりわが身が助かったことだけを思ってホッとした。
 近年、これだけ異常気象が続き、各地で災害が起きているのにお米のできを心配する声を聞かない。昔だったら。豊作か不作か。せっかく稔った米が嵐でダメにならないかと気をもんだものだ。
 実りの秋の始まる9月は、農家の人には、収穫の仕上げの時季で、空模様を気遣った。
 昔の人は、九月一日の二百十日とそれに続く二百二十日を嵐の来る厄日として怖れた。田植え、草取り、水やりなど、八十八もあるという稲作の手間と苦労が無駄にならないよう、空模様を案じ豊作を祈った。
 今年は、この二百二十日近くに、台風18号がやってきた。小規模な台風だったので大過なく通り過ぎてくれるものと気を許していたのに、風はさておき雨が暴れに暴れてとんだことになってしまった。
 今も、テレビが天気予報通りに停滞した線状降水帯が活発に活動し、記録的大雨のため鬼怒川が決壊したのをはじめ、各所の堤防が崩れてた惨状を映し出している。
 濁流に呑まれる町や田畑の様子を見ながら、今年は、終戦70年、前の戦争のきっかけとなった満州事変の、その満州事変の遠因のひとつとなった東北の大飢のことを思う。そして、国会で審議している集団的自衛権のことが気になってきた。
 2015年が、内憂外患の多い厄年として記憶される年にならないようにしたいものだ。

大空のカーニバル

 昨8月21日、第44回兵庫県児童合唱祭を稲美町コスモ・ホールで開催。県下18合唱団が、それぞれ特長のある合唱を発表し合った。
 オープニングの『太陽のサンバ』では、作曲者の美鈴こゆき先生がピアノを弾いてくださり、合唱祭に弾みがついた。
 兵庫の郷土色をというこということで全員合唱した兵庫県篠山民謡『デカンショ節』(横山潤子編曲)の力強い盛り上がりは、今までの大会では味わったことのない素敵なものだった。
 フィナーレは、今回のために美鈴こゆき先生に委嘱した『大空のカーニバル』を先生の指導で練習した後,全員合唱した。
 「毎日ひとつだけ 楽しいことを 見つけよう 」という歌い出しに作詞者の思いを感じる。
 その見つけたことを「小さなことでいい それを空にまこう」という呼びかけに心がひかれる。
 「風になって 鳥になって 自由に飛んでいこう 楽しい種は 空にとけて 世界中に花を咲かせる」
 今年は戦後70年の節目の年だから、マスコミは前の戦争の体験記や昭和史を連載しているが、「平和、平和」「反戦、反戦」と言わなくても、世界中の人が、この歌のような心で生きて行ければと思う。
 「君と 君と 君と 青空の中で歌おう 君と 君と 君と さあ楽しい カーニバル」
 この曲のサビの部分だ。
 ふだんからの仲良し、きょうのような集いで一緒になった新しいお友だち、大好きな家族、犬や猫やペットたちでもいい、すてきな仲間を思い描いて思いっきり歌ってくださいという美鈴先生の呼びかけに、みんながうなずき、歌声が明るく広がる。
 合唱祭を通じて県下の子ども達にコーラスの楽しさを広げて行くうえで、自前の愛唱歌ともいうべき『大空のカーニバル』を作っていただいたことに感謝したい。
 今年の大会は、ゲスト・コーナーという特別な時間をとるために、理事長挨拶を省き、出演団体の時間規制を厳しくしたが、リハーサルから本番まで、すべてスケジュールどおりにバッチリと進行した。事務局の精密な計画と指示と、それに従う児童合唱連盟加盟団体の永年にわたる交流で培われた信頼関係のおかげだと思う。
 今大会は、出演者も付き添いのご家族も一般の聴衆も、みんなが感動を味わった「楽しいコーラスによるカーニバル」となった。

70年前の初心

 戦後70年だからというよりも歳のせいでといった方がよいと思うが、ついついあの頃はと振り返ることが多い。
 先だって、孫娘がバレエの『コッペリア』で「スワニルダ」を踊るというので出かけた。
 孫娘は高校2年生だ。孫娘のスワニルダを見ながら時代は変わったと思った。
 私が、孫娘と同じ年齢の時は、旧制中学の5年生で、大学受験をするか、新制高等学校の3年生に進むか、中学校だけで卒業するかに迷っていた。ちなみに、私の年代が今の制度の高校第1回卒業生で、2年下の学年が新制高校で3年間を過ごした最初の学年だ。
 戦後の混乱期には、進学か卒業かを決める根本条件は、学力ではなくて家の経済状況だった。
 私は、中学校だけで卒業することにした。当時は、戦争が終わって2年半以上が経過していたが、戦地からの復員が完了していなくて、国内では壮年男子の教員が少なかった。それで、中学校を卒業して家にいると、連日のように、近所の小学校や中学校からセンセイになってくれという誘いがきた。小学生のころにお世話になった恩師の誘いを断り切れずに小学校の代用教員になった。
 中学校を卒業しているものの、戦時中は学業を捨てて軍需工場へ学徒勤労動員で出かけ、戦後は、軍国主義から民主主義への大転換にもかかわらず、教える教師は同じ人だから、教師に対する不信感が強く、授業がなりたたない状況が続き、学力を修得する機会がほとんどなかった。そのような学校生活を経て代用教員になって、まともな教育のできる教師になれるはずもない。
 国語や算数はまだしも、たとえば音楽など、軍歌しか知らないのだから手のつけようがなかった。学校には、講堂にピアノがあり、低学年と中学年には、いくつかの学級が使い回しする足踏みオルガンが数台あるだけだった。もちろん、私は、ピアノもオルガンもさわったことすらなかったから、どうしようもなかった。音楽の時間は、女の先生にお願いして指導してもらった。
 その頃、私が、最初に購入した楽器はハーモニカだった。そのハーモニカが吹けるというだけで、子どもたちは、「私の先生はハーモニカが吹けるんよ」と親に自慢するような時代だった。
 息子が17歳のときは、高校でブラバンに夢中だった。トロンボーンやユーフォニュームを吹いていた。そうだ、息子が小学校の1年生になったとき、ピアノを購入した。
 その息子は、娘のためか自分のためか知らないが、防音の部屋にグランドピアノを入れている。
 ハーモニカとアップライト・ピアノとグランド・ピアノと並べてみるとその差は歴然としている。
わが家の音楽環境が変わったというのではない、日本という国が、70年前の敗戦を機に文化国家を目指して国づくりに励んできた結果だ。
 代用食、代用品というものでやっとのことで命をつないできた私たちが子育てをするころが高度経済成長期に当たったことが幸いだった。家庭教育が良かったからではなく、時代や社会の影響が大きいと思う。
 私は、ケイタイもスマホも持っていない。パソコンは既に3台目だが、ときどき扱いに困る。そんなとき、SkypeとiPadを使って息子に操作方法を教えてもらう。いわゆるテレビ・電話の機能はありがたい。
 春休みとか夏休みに遊びに来る孫娘は、カメラからパソコンまで、電子関係のことについておばあちゃんのコーチ役を果たしてくれる。新品でも、読むのも面倒な説明書をサッと読んで動けるようにしてくれるのはありがたい。
 魔法のような機械を魔術師のように動かす孫とおばあちゃんを見ていると、ずいぶん違うなと思う。人間のからだに詰まっているものが全然違うように思う。
 戦後70年、あのころは、塾といえばソロバンかお習字しかなかった。今朝の新聞の折り込みに「2015年夏号講座案内」が入っている。幼児・児童コースだけでも「こども英会話」「子どもクラシックバレエ」「スポーツチャンバラ」から、なつかしい「暗算につよくなろう・そろばん教室」「子ども書道」など50講座もある。カルチュア花盛りだと思う。
 これも、70年間、平和だったからだ。
 人間は、自然災害や病害には免災減災しか手はないが、人間同士の抗争である戦争は、原因を除去根絶するために各国が「日本国憲法」に準じた憲法をつくればなんとかなると思うのだが。
 孫娘たちが、幸せに生き続けられるように、70年前の初心「平和国家・文化国家」の建設の熱い思いを思い返して伝えたい。
 

手持ち200円也

 しばらくブログが途絶えていたので心配の電話を掛けてきてくださる人がいて恐縮している。 なかには、私より若い高倉健さん、齋藤仁さん、愛川欽也さんがお亡くなりになっているので、お前もとご心配してくださった人もいる。心配はありがたいが、こんなときだけ有名人と並べられるようではダメだなと思ったりもする。
 相変わらず元気でいる証拠に、近況の一端を書いてみます。
 春休みに、中学2年に進級した孫娘が遊びに来てくれた。
 平成の大修理を終えた姫路城の見学に出かけた。さすがに、1時間半待ちの行列に並ぶ元気はなくて、ぐるりと姫路城の外まわりを一周した。姫路城は正面のほかにもより美しい角度があるので、孫娘は喜んでシャッターを切っていた。
 商店街やデパートを見たあと姫路駅へたどり着き、セルフサービスの喫茶店で一休みすることにした。セルフサービスの店は苦手で、一人だと入らないが、孫娘がいっしょだと、席を確保していさえすれば、あとはいっさいお任せですむ。
 隣席の客が九州から姫路城見物に来られた年輩のご夫妻で、奥様が「お孫さんですか」と声をかけてくださったのがきっかけで、思いがけぬ話しの展開となった。ご主人と私が共に西郷隆盛に因んだ命名だとか、互いの住所に知人がいるとか、さながら旧知のような話になった。後日、薩摩蒸気屋の銘菓を送っていただき恐縮してしまった。
 次の日、孫娘と神戸ポートアイランドの国際展示場で開催中の「未来医XPO’15」の見学に行った。顕微鏡で山中教授のIPS細胞や大脳や心臓の様子を覗いたり、手術支援ロボットを見た。先日、大腸ガンの検査で痛いめにあった内視鏡も展示されていた。孫娘は、血圧やストレスや疲労度などの測定器機にも興味を持ち測定してもらっていた。
 自立神経機能年齢では、孫娘は20台の年齢に相当するという結果が出た。その結果には少々不満のようだった。私は、年齢よりちょうど20歳若いレベルだという結果だった。それを見た孫娘は「あの機械の測定結果は、あまり気にしなくてもいいということだね」といった。どういうつもりだろうと思ったが聞かなかった。
 NHKの夜七時のニュースを見ていた孫娘が「おじいちゃんと血圧を測っているところが映っているよ」と知らせにきた。その後で、「ほらね」と急いでとった写真を見せにきた。ふたりの後ろ姿が撮れていた。孫娘はテレビに映ったことが嬉しそうだった。後で、家内が言うのに「友だちにこれが私だと言っても、顔が映っていないので信じてもらえないから、これと同じ服装の写真を証拠に撮っておいて」とカメラをもってきたといっていた。
 この孫娘が帰る日、「帰りのお小遣いをいくら持っているのか」と尋ねたら「200円」だといった。「たったの200円か」と驚いた。
 孫娘は「帰りのキップは買ってあるし、バスは通学定期で乗れるからお金はいらない」というが、もしものことがないとも限らないのに200円ではとあきれた。
 「よう、200円で帰る気になるね」というと「だって、私、計画的にお小遣いを使っているからね。月末になって無くなってしまっただけだよ。4月になったけど、お家にいないから、今月のお小遣いをもらっていないから200円しかなくったってしかたがないの」といった。しっかりしているのか、足りないのか分からない。
 私は毎月東京へ出かけているから、東京をそう遠方だと思わないし、車中でまったく買い物をしないことのほうが多いが、それでも、お茶ぐらいは買って持ち込む。200円では130円のお茶は買えるとしても。いくらだいじょうぶといわれても、手持ち金200円で横浜まで帰すわけにはいかない。
 結局、じゃあ、お小遣いをあげようということになった。
 「おじいちゃん、ありがとう」
 その一言と笑顔には負けるなぁ〜と思いつつ財布を見たら千円札がなかった。五千円札を渡した。
「もうトイザらスは、卒業したからね」と宣言していたが、お金が掛からなくなったわけではなかった。
 新大阪まで送っていった家内は、「部活のお友達にお土産を買っていきたいのだけれど」と言うので「買ってあげるよ」といったら「30人くらいの部員にあげる。遠くへ旅行したものは、そうすることになってるのというので、しっかりしているのか、ちゃっかりしているのか、あつかましいのか分からない」とこぼしていた。
 でも、なんだかんだといっても、孫娘がきてくれるとうれしい。
 孫娘が帰った次の週の第3水曜日には東京へ出かけた。楽しい音楽会と、そのあとの和やかな食事会といういつものコースを満喫して、翌日は、明石で『童謡の会』で歌ったりおしゃべりをしたりした。例年、この時期は年度替わりの会合が続くのが厄介だ。昨日は、林崎掘り割りまつりに出かけたあと、コーロ・セニョーラスの練習に行った。そんなこんなで、病気をする暇がない。
 ブログが、途絶えていたのは、古いブログを本にまとめたらと言われて、100回分位を打ち直していたためだ。
 でも、「今元気でも、いつどうなるかわからないのが歳だからね」と周りから言われ、それもそうだと少しは気にしているが、とりあえず、未来医XPOでの検査結果を信用することにしている。

イチゴ作り60年

 昭和23(1958)年の春、戦後の混乱期に旧制中学をいっしょに卒業した仲間のひとりがイチゴ作りの名人になっている。
 大粒の赤くおいしいイチゴを手土産に同窓生にイチゴ作りの話しをしてくれた。
 すばらしい経験に基づく話しにはすごい迫力を感じる。
 「イチゴは、はじめは大根や白菜と同じ野菜だけれど実のイチゴは果物です」
 言われてみればその通りだと感心する。
 「大根や白菜は一度収穫したらそれで終わりだけれど、イチゴは一度収穫しても次の花が咲いて実がなり続けます」
 なるほど、キュウリやナスもそうじゃなかったかなと思う。
 戦後、今の高校野球にあたる中学校野球が復活したとき、はじめて編成した野球チームのキャッチャーとして、県大会ながら甲子園に出場した男が、あのキャッチャーと似た恰好でイチゴの世話をしているのだろうと想像する。
 「昔は、イチゴといえば初夏の食べ物でした。いまは、正月前、クリスマスケーキにイチゴはかかせません」
 ほんとにそうだ。促成栽培の技術のおかげだろうと思う。
 「イチゴは、冬の寒さを経て春になり実をならせる活動をはじめます。そこで、ある種のひらめきがあって、イチゴの苗を農業試験場の冷凍室に保管してもらい、秋口に植えることを試みてみました。すると初冬に花が咲き実がなりました。このイチゴの習性を人工的に操作して実のなる時期を操作するのが抑制栽培とか促成栽培というものです」
 イチゴを作っている場所は、明石市魚住町清水というところで「清水のイチゴ」で売り出している。清水は、その地名通りにきれいな水と温暖な瀬戸内気候に恵まれた農地が広がっている。そこで、イチゴを始めたのは学校を卒業して5年余を経たころのことだった。戦後の食糧不足から脱して新しい作物需要が動き始めた時期ではなかっただろうか。土と作物と時代をしっかり見据えて捉えて始めたのだろうと想像する。
 「農業は、有機肥料でないと本物は育たない。化学肥料や水耕栽培やいろいろと新しいやりかたが開発されていますが、土を育て、その土で育てたものの味こそが本物で体にもよいと思っています」
 自信に満ちた断言を聞きながら、教育も同じだと共感する。
 土を育てるには堆肥づくりが欠かせない、それで園田競馬場と渡りを付けて馬糞を譲ってもらうことにしているという。近隣の町に大きな堆肥工場があるそうだ。
 苗の冷凍も冷蔵庫ではなくて自然を生かしたくて氷ノ山などの山頂近くの土地を借り上げて開拓してやっている。「山揚げ」というそうだ。
 つねに工夫しながら手抜きをしないで作り上げた結晶が目の前に配ってあるイチゴなんだなと思う。
 「日本一のイチゴだとか、イチゴづくりの名人だとか人は言いますが.私はまだまだだと思っています。60年イチゴ作りを続けてきてはおりますが、まだ60回しか試しておりません。これからも、おいしくて、きれいな色で、形がよくて、日持ちがよいイチゴを、収穫時期を一日でも早くできるように努力していきたい」ということばを聞きながら、そういう欲が私との共通点だと思った。
 「近くの幼稚園の子どもにイチゴの苗を配って露地栽培させたのが始まりで、そこの園長先生が転勤していった幼稚園にまでイチゴづくりが広がっています。イチゴもいいが、子どもの笑顔はまたなんともいえないね」
 84歳、まだまだかくしゃくと言いたいが、顔のしわはずいぶんと多く深くなっている。ご互いに。いただいたイチゴで鈍った味覚が呼び覚まされたようだ。う〜んおいしい!
 

いぬのおまわりさん

 ♪まいごのまいごの こねこちゃん あなたのおうちは どこですか……という、さとう よしみ作詞、大中恵作曲の『いぬのおまわりさん』という童謡がある。
 手もとにある『日本童謡唱歌全集』の楽譜の欄外に「昭和35年10月、「チャイルドブック」で発表されました。まず最初に絵が描かれ、それによって詩が作られました。曲が作られるときは、詩が長いのでどんなことになるかと編集部の人たちは心配したそうです。できあがった曲はすばらしいもので、NHKで放送され、たちまち全国にひろまりました。」と記されている。
 『日本抒情歌全集4』の「いぬのおまわりさん」の欄外には、もっと詳しい説明が書いてある。
 「雑誌発表とともにキングレコードでは中野慶子の歌でレコーディング、NHKも翌年10月から『うたのえほん』で取り上げ、たちまち子供たちの間に人気を得て普及していきました」
 「曲は潜在的なエイト・ビートで、ことばとメロディ、アクセント、伴奏のハーモニーなどすべてが良くできている」と解説が続く。
 そして、「幼稚園・保育園の母親の参観日では「万一、お子さんが迷子になった時のため、洋服の裏とか靴の中とかに、お子さんの名前・住所・電話番号を必ず記入してください」と、こんなアドヴァイスをしてからこの歌を歌う風景をよく見かけた。」とあり、更に続けて「今では個人情報が洩れるというので、名札を服に縫いつけない。」と締めくくっている。ちなみに、この『日本抒情歌全集4』は2007(平成19)年に発刊されている。
 通信技術が進歩し、くらしが便利になったのはいいが、同時に個人情報とかプライバシーとかの保護が必要になり、思いがけぬ窮屈さが加わってきている。
 名札でいえば、戦時中は誰もが胸に「住所・氏名・年齢・血液型」を書いた名札を付けていた。防空頭巾にも付けていた。もちろんこれは、空襲などでやられたときに役立つように付けていたので、戦争が終わって、この種の名札を付けなくて良くなったことを平和のお陰だと思ったものだ。
 最近は,名札をつける煩わしさはなくなったが、個人情報を保護するということでの新しい不便さが増えてきている。
 先だって、ある町へ出かけて、訪問先の家を探していた。近くまできているはずだと思っているところへ,スクーターに乗った郵便配達の人が通りかかった。その人にメモを見せて尋ねたが「こたえられない」といわれた。融通がきかないと思うのは時代遅れなんだろうと思ってみたが、割り切れない。
 コミセンなどのサークルの名簿づくりもやりにくくなったと聞く。
 ときどき、役所から「○○さんからの問い合わせがありましたが、電話番号をお教えしてよろしいでしょうか?」という許諾を求める電話が入る。
 ♪おうちをきいても わからない なまえをきいても わからない……♪
 年寄りには、しだいに息苦しいデジタル社会になっていくように思える。
 まったく、別の話だが、行きつけの総合福祉センターで目の不自由な人の話しを聞いて、あっと思ったことがある。聞くまでは、まったく想像しなかったことだ。
 「タッチパネルは困るよね」……あっそうだろう。
 「回転寿司へは行きにくいよね」……あっ、なるほど。
 スマホだって使えないだろうな。相手の身になって考えると心がけているつもりだが、なかなか容易ではないと思った。
 なにを書きたかったのか「迷子の子猫ちゃん」になってしまいました。
 
 
 

新幹線の混乱で

 さる22日、東京発9時03分発の新幹線で、西明石まで戻る予定だった。
 その朝、ホテルのテレビで東海道新幹線が沿線の火災の影響を受けて混乱しているというニュースを見た。食堂で朝食をとってもどると、上り線は運転しているが下り線は止まっているということだった。上りが動いているのであれば、下りも間もなく動くだろうと思った。
 8時30分頃、東京駅に着いた。毎月、月半ばには必ず9時03分発のひかり号に乗車しているので、新幹線が動いてさえいてくれれば何一つ迷うことはない。ところが、新幹線の改札口付近から通路に掛けて大勢の人で大混雑している。電光掲示板には、上りも下りも不通だという表示が流れている。京都駅と新大阪駅の間ということだが場所の特定はない。たぶん工場か住宅の火災だろうと思って、勝手に沿線のどこかしこを想像しながら、とにかく一刻も早く運転を再開して欲しいと願った。
 改札前にあふれた大勢の人たちは、意外ともの静かで、たいていの人は、ケイタイやスマホで情報を集めたり、連絡をとったりしている。数年前に、通信の煩わしさから逃れたくてケイタイを手放している私も、このときばかりは、欲しいなと思った。
 そのうち、火災が鎮火し、線路の安全確認がとれたので順次運転を再開するという案内があった。
 「のぞみ」の何本かは、グリーン車を除いて、すべて自由席にするという知らせもあった。
 私は、「ひかり」の乗車券だが「のぞみ」に乗ってもよいかと駅員さんに確かめたらOKといわれた。しかし、「のぞみ」はすでに100%超の大混雑で、乗り込む勇気が出ない。
 「ひかり」の発車ホームで待っていたが、9時03分発の表示が出てこない。10時03分発の表示が出ているのにどうしてだろうと不審に思う。もちろん。1時間遅れでも仕方がないが、指定席に着くことができないとなると、結局、乗れないかと思う。
 ホームから改札口へおりて、駅員さんに「9時03分のひかりはどうなっていますか」と聞くと、手帳のような運行表を調べて、「きょうは、運転取りやめになっています」と言った。「17番ホームにいて、気をつけて、電光掲示板見ていたが、そういう表示は見なかった」といったら「ああ、あれは、発車する列車の案内です」という答えだった。
 このとき、私は「何を言ってるんだ」と怒鳴りたい気持ちだったが、周りに、駅員さんに質問をしたがっている人が大勢いるし、この駅員さんを責めてラチの開くことでもないので、その場を離れ、直近の発車列車へ向かった。
 その列車もグリーン車以外は混雑していた。仕方がないので、グリーン車に乗った。懐は痛むが、明石での予定があるからそれしか手はない。西明石からのタクシー代も気になった。やがて、そのグリーン車もほぼ満席になって発車した。
 品川、新横浜を過ぎると次は名古屋までノンストップだ。そのうち気持ちが治まり、駅員さんに喰って掛からなくてよかったと思った。そして、あの大勢のお客のなかには、私と似たようなあせりとか、不満をもった人もいたに違いないのに、わめいたり、さわいだりする人を見かけなかった。数日前に新聞に「日本人は、エスカレーターに乗っても、片側に寄ってマナーがよい、私の国では考えられないことだ」という、ある外国の人の投稿を思い出した。
 そして、あれだけの群衆を手際よくさばき、非常事態における配車と運転を実に鮮やかにこなしていくJR東海の総合力というか底力のすごさを思った。
 東京駅では「新大阪で、こだまに乗り換えてください」と教えられていたが、新大阪に着くと、「こだま」は運転されていなかった。結局、東京駅10時03分発の「ひかり」の到着を待つこととなった。
 いま思うと、個人的には、腹立たしく、いらだたしく思うこともあったが、冷静な群衆の姿とJR東海のさばき具合を見て、日本人はさすがだな、JR東海の底力はすごいなという思いをもった半日だった。
 ※夕刊には、「22日午前4時半ごろ長岡京市神足落述の東海道新幹線の高架橋の耐震工事用の資材置き場で、作業に使う足場が燃えたとみられる」。「線路脇にある下り用の自動列車制御装置(ATC)の信号ケーブルを取り替え」東海道新幹線は、「午前11時5分現在で上下線16本が運休または部分運休、計94本が最大で約3時間遅れ,約6万2千人に影響が出た」と出ている。JR東海さん、いつも、がんばってくださっていて、ありがとうございます。

戦後70年

 前の戦争が終わったのは昭和20年、西暦で言えば1945年、今年は2015年の平成27年だから戦後70年の節目の年になる。
 子や孫の平和で幸せな暮らしを願う気持ちにしたがって、前の戦争のときに体験したことをまとめて、3年前に『戦争とおじいちゃん』として出版した。
 私が、小学5年生の昭和16年12月8日に、当時の言い方で言えば「大東亜戦争」が始まり、中学3年の昭和20年8月15日に敗戦で終わった。
 小学6年生のころは、勝った勝った、また勝ったと勢いがよかったが、中学に入学した頃から戦況が思わしくなくなり、わが国の生命線といっていた区画がしだいに狭ばまってきて、やがてB29による本土空襲が始まると、第一線の戦地と銃後との区別がなくなって、どこにいても生命の危険を感じるようになってしまった。
 私たち戦争体験者が語り継ぐ話の多くは、激戦地での奮闘ぶり、弾薬や食料がなくなっても君命に殉じることを名誉に闘ったこと、東京大空襲や広島・長崎の原子爆弾による被災の惨状、それと、終戦後の抑留や逃避行ともいうべき引き上げの悲劇についてだと思う。
 特攻隊とか玉砕とかの話も「ひとつ軍人は忠節を尽くすを本文とすべし」という命令に従った行為のひとつである。
 私たちが、子や孫の生活が平和であることを願って、語り継ぐ話は、戦争をするとこんなにみじめなことになるから、絶対に戦争をしてはならないと説くことが多い。また、あのころに比べて、今は兵器が格段に進歩しているから、その被害もさらに深刻なものになり、人類の破滅になるだろうと教えることもあるだろう。
 今、戦争をはじめたら、ボタンひとつで地球が吹っ飛んでしまうかもしれない。いや、適当な制御装置を組み込んでいるから、ボタンを押すような人だけは助かるかも知れないなどという想像が広がるかもしれない。
 だが、もっとも大事な事は、戦争の結果を教えたり想像させたりすることではなくて、あのような悲劇的な結果をもたらした戦争の起因はなにだったかを教えることではないだろうか。
 残念ながら、前の戦争のほんとうの原因は何だったか、また、戦争を回避することができなかったのは何だったかについて、国家としての集約はなされていないように思う。終戦の詔勅や極東裁判の総括だけでは不十分だ。
 前の戦争が終わったとき、だれもが、平和・自由・平等、民主主義だ文化国家の建設だと誓い合った。それは、軍国主義の時代の合い言葉とはまったく違った夢と希望に満ちたことばだった。
 戦後70年、今わが国は、はたして平和な環境の中にあるといえるだろうか。世界はどうか。テロの悲劇が日常化し、邪魔者は殺せの論理があちこちに頭をもたげてきているように思えてならない。
 平和に暮らしたい、穏やかに暮らしたい、仲良く幸せにくらしたい、たったそれだけの自然な願いをかなえることができないほど政治は無力で人間はだめなのだろうか。
 あの満州事変の年に生まれた、ひつじ歳の男の心にさざ波がたっている。

執念さまざま

 ただ、 トコトコと走り続けているだけのことなのに、マラソンや駅伝を見ていると感動するのはなぜだろう。
 今日は、新春箱根駅伝で青山学院大が2位の駒澤大と5分もの大差を付けて往路優勝を決めた。
 4区の青山学院大1年の田村選手の区間新記録、最終区の山登りにおける神野選手の“第3代目の山の神”と讃えられる快走が光った。
 駒澤大5区の馬場選手は、1位でタスキを貰いながら体調に異変を起こして失速し、4位に落ちた。馬場選手は、ゴール手前1夘婉瓩任茲蹐韻銅蠅鬚弔、ゴール直前でも2度転び、朦朧とする意識のなかやっとのことでゴールにたどり着き、復路の資格を確保した。
 快走、苦闘のどちらにもに執念を見て感動した。
 同じ、執念ということばでも「執念深い」というときの執念はスポーツで用いる執念と少し意味合いの違いを感じる。
 執念というのは、ある一つのことを思い詰める心で、駅伝で優勝するぞとか、研究をなしとげるぞというような、プラスの目標に向けての強い思いの場合は感動ものだが、人を恨むとか仕返しをしてやるとかというような方向に向かう執念はないほうがいい。
 正月そうそう、執念とか執念深いとかというようなことが頭に浮かんだのは、皇居での新年参賀で、天皇が「世界の安寧と幸福を願う」という挨拶をなさっているのを聞き、近隣諸国との不協和音や、イスラム国をめぐる国際情勢などの軋みが頭をよぎったからだ。
 今年は、戦後70年、阪神淡路大震災20年の節目の年である。
 戦後70年は、わが国にとっては敗戦70年であり、隣国の中国にとっては戦勝70年ということである。中国は、南京事件や戦勝を記念する日を制定したようだし、70年を経過した今も、尖閣諸島の領有や靖国神社参拝などがトゲとなって両国の首脳が対話すらできない状況にあるのは困ったことだ。
 私が子どもの頃、電卓(電気卓上計算機)というような便利なものはなかったので、計算には、そろばんを使っていた。そろばんを使うことを、そろばんをはじくとも言っていた。指先でそろばん玉をぱちぱち弾いて計算していた。
 そろばんで計算を始めるとき、今風に言えば、計算を始める度に、そろばんをリセットして初期化する操作をしていた。このリセットの号令が「ご破算で願いましては」という掛け声だ。その声を聞くと、生徒は,一斉にそろばんを起こして、そろばんの玉を手前に揃え、静かに、そろばんを水平に置いて、上の五玉を人差し指をジャラッと一玉とは反対の上に戻して計算に備えた。
 最初の計算に入るときは「願いましては」だけで、2度目からは、前の計算を消去するために「ご破算で」という。
 「ゴワサンデ、ネガイマシテハ。一円なり,三円なり、八円也、六円では」という具合に読み上げてもらって計算するのを読み上げ算(よみあげざん)といい、書類を見ながら計算するのを「見取り算(みとりざん)」といった。
 そろばんに習熟すると、頭の中にそろばんが浮かび、そろばんがなくても、宙で計算できるようになる。こうなった人が暗算(あんざん)の名人だ。
 鉛筆を使って計算するのを筆算と言った。
 今、私はそろばんの話しをする積もりではなかった。もつれた国際関係を「ご破算でねがいましては」と、どこかで、清算する妙案はないものかということをいいたかったのが脱線してしまった。
 国際関係の改善のためには、歴史認識とかいろいろあるが、学問として追究すべきことと、政治上の線引きのありようを決めることの間には、なにがしかのズレがあるものだから、解決にあたっては、双方が緩衝地帯を設け、互いに「執念深い奴」という憎悪の感情ばかりを膨らませる愚は避けなければならない。
 執念深い人は、他人の弱点をとことん知りたがる。しつこくて諦めることを知らない。相手に拒まれてもつきまとう。過去の言動や出来事とくに自分の不利益をよく覚えている。基本的に他人を信用しない。他人を責めたてて、恨みの感情を膨らませる。というような傾向が見られ、結局は不幸に陥ってしまう。国家や国政を預かるものが、この個人的な習性に陥ってはならない。政治家は、「安寧秩序をそこなわない」という大前提を忘れずに所掌事務を処理して欲しい。
 かんたんにいえば、政治家は、子どもが平和に過ごせるように、その子どもがおとなになったときにも、平和のなかで子育てができるような政治に執念を燃やして欲しいということだ。
 

子ども達とおじいちゃん

 今月、14日には孫娘のバレエを見に上京した。
 「あなたが一番だったね、ステージに登場している時間だけは……」と冗談を言えるほど、孫娘可愛さにゆがんだ爺の眼にはクララの踊りは見応えがあった。
 「きょうのステージで、いちばん良かった、うれしかったのはどの場面だった?」と尋ねると、「一幕が終わって楽屋へ飛び込んだときに、スタッフやお母さん方が拍手で迎えてくらたこと」とちょっと意外な答えが返ってきた。
 本人は言わなかったが、バレエを稽古してきた子ども達はだれもがクララを演じたいと思っているそうだ。その役を入団して、一年あまりしかたっていない孫娘が演じることに、まわりの空気は必ずしも温かくはなかったそうだ。孫娘は、一幕を演じて楽屋にもどったときに、楽屋に詰めている人の温かい拍手に空気の変化を感じたようだ。
 第二幕に続くフィナーレを終えて戻ると、さらに温かく迎えられたとか。
 当日の花束やお菓子などのお祝いに続いて、後日、すてきなブローチが宅急便で届いた。こんなことってと、孫娘は、厚意に感動し贈り主に感謝していた。
 続く、23日には、私の『ヘンゼルとグレーテル』の公演だ。孫娘に負けないように合唱隊をもりあげなければと思った。
 この合唱隊の編成については、ずいぶん苦労したが、ダンス・チームの協力を得て、滑り込みセーフ、逆転勝利というような展開になった。このことで、つくづく思うのは、いざのときに頼りになるのは、ふだんの信頼関係しかないということだ。窮すれば通じるというが、通じるためには、それなりの条件が必要なのだ。
 急づくりの合唱隊が、それなりに歌いきることができたのは、芯になる合唱団のメンバーが新入生をリードし、新入生はダンスチームで身につけたリズム感とか集中力とかで一体となって頑張ったからだ。
 満席の観客の拍手を浴び、フィナーレを終えてステージから戻って来た子ども達のきらきらした表情に、苦労のすべてが吹っ飛んだ。
 来年は、私の干支のひつじ年、そろそろ潮時かなと、数年前から思っているが、いま、こうして元気でいられるのは、孫娘や合唱団の子どもたちから元気と生き甲斐をいただいているせいでもあるので、来年のことは来年考えることにして、今年はこれでブログ納めにしよう。
 ダンス・チームのお母さん方からいただいたほかほかのスリッパと膝掛けに温められ、少し眠気を感じながら。

子どもは宝

 明石交響楽団たこフィルが『ヘンゼルとグレーテル』の公演をするために、合唱団を立ち上げることにしたが、予想とは違って、なかなかメンバーが集まらなかった。
 公演日は迫ってくるのに、メンバーは揃わないという苦境に立って、親交のあるダンス・グループにお願いして人数を揃えてもらった。
 ダンスをしているから、声はともかくリズム感はあるだろうとか、ステージ度胸はあるだろうとかとプラス思考で進めるより仕方のない状況だった。
 この子たちを迎え入れた第1回目の練習は、とにかくそれぞれのパートのメロディーを覚えてもらうことにした。数ヶ月前から歌い込んでいる明石中央児童合唱団の子ども達の歌を聴いて真似させることにした。
 新メンバーは小学3,4年生がほとんどだから、3年生はソプラノ・パート、4年生はアルト・パートというような大雑把な組み分けにした。
 練習を進めるに連れて、初めは緊張気味だった子どもの表情がしだいに緩んできた。と同時に、邪魔になる声が目立つようになってきた。しかし、第1回目の練習ではそれをとがめないで進めた。
 第2回目の練習のとき、前回のブログに書いたようなことがあって、変な声を出していた子の声が一発で改善された。これは、私にも想定外の奇跡だった。
 そして、このことが別の3人の男の子の発声にまで好影響を与えることとなった。
 合唱団のメンバーはこの3人を除くと女の子ばかりだ。
 練習を重ね合唱を仕上げていくうちに、その3人の声がみんなからズレているのが気になってきた。
 第3回めの練習の途中で、私は、その子たちを前へ呼び出した。
 ところが、その3人は、みんなの前に呼び出されることに、叱られるとか、注意をされるとかという、気まずさをまったく感じていない様子だった。
 私は「君たちの声がずれている」とか「変だから」とか言わないで、3人を互いに向き合えるように立たせた。そして、互いの口の開き方や方やのどや肩の動きの違いを確認させた。その後、互いの長所を真似することで、自分の声が良くなっていくことを実感させた。
 不思議なことに、このレッスンが、実に自然に流れて効果が現れた。強いていえば、これも奇跡だと思えるほどのことになった。いや、子どもにとっての奇跡ではなく、私にとっての奇跡だが。
 その日の稽古が終わってから、その子たちに尋ねてたら,前に呼び出されるとき、ちょっと恥ずかしかったが、叱られるとは思わなかった、前の女の子のように、もっと上手に歌えるようにしてもらえると思って出て行ったという意味のことを答えてくれた。
 ああ、あの女の子の変化を見ていたから、この子たちは、先生に呼び出されても、叱られるのではないと思ったのだと私は受け止めた。良いことの連鎖、プラスがプラスを呼ぶのだと改めて思った。「こんなことが、どうしてできないのか」と自分の指導の未熟さを棚に上げて叱りとばしていたことがいっぱい思い出される。
 一人の子どもへの接し方が、周りの子どもへも影響する。
 先日亡くなられた高名な俳優さんと同じ83歳になるが、この歳になって、教えることは、常に新鮮でなければならなくて、発見することにあると思うし、それに気づかせてくれる子どもが,今まで以上に宝物に見えている。
 

ああ12月8日朝

 きょうは12月8日、73年前の朝のことを思い出す。
 時局を見越して神戸の小学校から父親の故郷の小学校へ転校したのが12月1日だった。
 道端の草に霜の降りた寒い朝だった。部落の同級生と「とうとうやったな」「堪忍袋の緒が切れた」などと大東亜戦争の開戦に勇みながら登校した。ほとんどの子はわら草履をはいていた。
 そのころの田舎は、村と村の境界は、「叱られて」の歌にあるようにさびしい村はずれで、ススキの原とか峠などで、人家のないところがあった。
 村のなかでも、部落と部落の間は家のないところがあって、唱歌の「朧月夜」を口ずさみながら、向かいの部落の家に灯る明かりをみて「さとわの火影も」と感傷にひたったものだ。
 それが、いまでは、田畑の多くが宅地となり、道路が整備され、住宅が建ち並び、部落と部落、村と村の堺がまったく分からなくなってしまっている。
 この変化は、73年前からの変化ではなくて、70年前に戦争に敗れ、戦後復興に力を入れ、前の東京オリンピックや大阪万博などを開催し経済復興に立ち向かった結果だと思う。
 戦争は、東京大空襲や広島・長崎の原爆被災、沖縄の地上戦などで国土を焼土と化した。
 村境が見えにくくなり、村や町や市が合併して、生活環境がすっかり変わってきたが、戦争の悲劇まで忘れてはならないと願う。
 今週は、赤崎勇名城大教授、天野浩名古屋大教授、中村修二カリフォルニア大教授の3人の日本人がそろって、ノーベル賞の授賞式に出席することになっているが、私には、夢のようだとしかいいようがない。平和だからこそ続けられた研究であり成果だと思う。
 だのに、街は衆議院選挙で騒がしい。聞きたくなる、思わず耳を傾けてしまう演説がない。戦後、民主主義を手にした頃は、政治を目指す人の政治家らしい話しが聞けた。いまは、マニフェストとかなんだとか、言葉だけの、まさに舌先三寸の責め合いばかりで情けない。
 政治にとって、経済とか震災復興だとかはもちろん大事に違いないが、73年前の開戦と70年前の敗戦を知るものとしては、平和と自由を守ることこその思いが強い。
 “見よ檣頭(しょうとう・マスト)に思いでの/Z旗高く翻(ひるがえ)る/時こそ来たれ令一下(れい、いっか)/ああ十二月八日朝/星条旗まず破れたり/巨艦裂けたり沈みたるり”(「大東亜戦争海軍の歌」作詞・河西新太郎:作曲・橋本国彦)と真珠湾攻撃の戦果に酔い、続く、英国の戦艦、プリンス・オブ・ウエールズとレパルスを撃沈、さらには、シンガポール陥落、パレンバンの落下傘部隊の奇襲成功などに沸き立ったのも夢だった。慰安婦問題や戦後補償のことなど古傷がいつまでもうずくのはなぜかを考えてみたい。
 いま、あの昭和の戦争が始まる前に似た世情になっていると思う。雑草は、生い茂ってからでは手がつけられなくなる。芽生えに油断して後悔しないようにしたいものだ。
 12月だというのに、思いがけない大雪で、四国でも犠牲者がでている。想定外ですませることとすませられないことがある。平和と自由と安定にまさる繁栄があるのだろうか。

奇跡より喜積

 ヘンゼルトグレーテルの合唱団に新しく20名ほどの子どもが加わった。
 団員が増えたことはありがたいが、ほとんどが合唱経験のない子どもたちだ。でも、それは覚悟の上で集めたのだから文句は言えない。
 稽古を始めると、ピアノでポーンと鳴らした音がどうしても採れない子がいることが分かった。1回目の練習では、間違いを深追いしないで、みんなと一緒に歌わせた。
 練習が終わってから、ピアノ伴奏者と、あの子を馴染ませるのは無理かも知れないと言った。
 団員がなかなか集まらなかったので、4回の練習でステージに立てるようにしますからと言って無理にお願いして参加してもらっているので、音が採れないからといって外すわけにはいかない。
 音痴を直すといっても、今回は、長い期間を掛けてトレーニングする余裕がない。困った。
 2度目の練習のとき、その子の声がおかしいことに、周りの子も気づいた。その子の間違いを見逃していると他の子へも影響する。
 数名ずつ、短いフレーズを歌わせた。その子のグループは、声が合わない。一人ひとり歌わせて、その子の番になった。ピアノをポーンと鳴らして声を出させた。オクターブ低いとかどうとかいうのではなくて、まったくおかしく不安定な声だ。
 ひつこく繰り返すと子どもが傷つく。すでに、子ども達の後ろにいる付き添いのお母さん方に緊張が見られる。
 そのとき、私は、まったく思いがけなく、そのやり方に確信があるわけでも何でもないのに、子どもの顔の前に人差し指を立てて、「この指に静かに息を吹きかけてごらん」と言った。
その子は、口をすこしとがらせて息を吹きかけた。「そうそう、出来るだけ長く吹きかけて」と笑顔で言いながら、指を口元から1020造販イ靴拭「そうそう」と言いながら、ピアノの音を貰った。「ピアノに合わせて歌ってごらん」と小声で言った。すると「オー」とピアノと同じ高さのきれいな声を出した。後ろの席のお母さん方が感動したように胸の前で小さな拍手をしている。私もピアニストもおどろいた。もちろんその子も。そして、みんなの顔にも微笑みがこぼれた。
 そのとき、私は、この歌わせ方をなぜやったのか分からない。それは分からないが、成功したことは確かだ。子どもが正しい音程で歌えたことはもちろんすばらしいことだが、私は、その子を傷つけずにすんだことにホッとしていた。「窮すれば通ず」と言ってすませられない何かを感じたできごとだった。
 この成功の原因についてはよく分からないが、息を整えて吹くことが発声に役立ったとも思うし、息を吹くことに気を取られて、のどにかかっていた余分な力が抜けたためだとも考えられる。
 子どもと触れ合っていると、こういうことがたまにある。そして、このような場面を見たり体験した人は、私を指導の名人だという。
 指導法は、いつでもどこでも,高い確率で,同じような成果をあげられるものでないとだめだ。私は、そんな技術をそれほど多く身につけているわけではない。ただ、困ったときに、子どもに深刻な顔を見せないようにすることは、歳と共に旨くなってきているように思う。
 奇跡を求めるのではなく、喜びを積む喜積(きせき)を心がける方が良い結果に結びつくように思う。
 

さま変わり

 今日は、たった7人の児童合唱団員が、生涯学習センターまつりで、20分の持ち時間いっぱい歌った。
 先週の日曜日には市民会館の大舞台で歌った。マイクを使ったが、10名くらいの子どものきれいな声とハーモニーに会場を埋めた大勢のお客さまは、驚きの拍手をおくってくださった。
 近ごろ、練習や本番でも、学校や地域の行事のために、団員が勢揃いすることがほとんどない。それでも、ふしぎなことに、人数が足りないから出演を辞退しようという弱音が出ない。2人になれば2重唱をするくらいの気構えでいるのかもしれない。一人ひとりが歌うことに自信を持ってきた結果というより,団員相互の信頼感の高まりによる結果のように思う。
 きょう歌った歌の中に「きっとありがとう」というおじいちゃん、おばあちゃんにたいする感謝をこめた歌があった。この歌は、「敬老の日」の制定のきっかけを作った多可町が、敬老の町の記念に作った歌だ。団員は、この8月に多可町で催された兵庫県児童合唱祭に参加したときにフィナーレで全員合唱して覚えた。
 歌は「おじいちゃん、おばあちゃん、いつもやさしくしてくれてありがとう。おじいちゃん,おばあちゃんがいてくれるから、ぼくたち、わたしたち、すくすく大きくなれるんだ」と歌い出す地元の小学生が作った詩に作曲したものだ。
 この歌は、子どものタクトで歌わせる方が効果的ではないか。そう思ったので、出番の1時間前に、合唱団でいちばん年少の女の子にタクトを振るようにいった。タクトなんて一度も振ったことがないので、いやだなと思ったようだが、断る元気もない。諾否の定まらないままの決定となった。
 私は、ごくかんたんに腕の振りを教えて少しだけ練習させた。意外に、落ち着いた顔で手を振っているので、これならだいじょうぶと思った。
 付き添いの親たちは、おどろいている様子だった。
 お母さんには、「だいじょうぶですよ、きょうはお姉さんがお休みでしょう、だからチャンスなのです」といった。お母さんは、私が意図していることが分かったようで、「ああ、そうですね、あの子はいつもお姉ちゃんに寄り添って、お姉ちゃんのするとおりのことしかしていませんからね」と言った。「そうなんです。自立心を持たせるチャンスです」。
 出演までの半時間足らず、私は子ども達に自由にしなさいといって、一人で催しの見物に出かけた。たぶん、仲間や親たちがタクトの振り方を教えるだろうと思いながら。
 本番では、「気球に乗ってどこまでも」など3曲を歌った後で、いよいよ、その子がタクトを振る番になった。列から離れて、中央に進み出てていねいにお辞儀をした。ピアノに目配せをして腕を振り始めた。きちっと4拍子のタクトを振っている。休憩時間にずいぶん仕込まれたなと思った。曲が終わると、客席へ向かって落ち着いて頭を下げた。よかったと思った。子どもの集中力と順応力はすごい。
 会場のみんなと「ふるさと」を合唱した後、最後の曲「夢の太陽」を歌った。
 歌い終わって会場を出ると、客席にいた人が、子どもを入団させたいと言ってきた。思いがけない申し出がうれしかった。
 それにしても、初夏の頃から、『ヘンゼルとグレーテル』の合唱団員募集にあわせて、児童合唱団員の募集のチラシを市内の各小学校に配布し、数校には私が直接出向いて依頼をしてきたが、全市で一人しかこなかった。10月半ばを過ぎて、見込み違いに困った私は、知り合いのダンスチームの先生に話したら、次の練習に20名ほどが参加してくれた。これだけ来てくれれば、本番の恰好がつくとホッとした。
 この反応から、今の学校の様変わりぶりを思った。子どものことなら、たいていのことは、学校に頼みさえすればなんとかなっていた時代があったのに……。
 

教えるということ

 高次脳機能傷害で記憶や言語に異常を生じている人とつき合っていて分かったことで子どもの教育に活かせそうなことがある。
 私がお相手をしているのは50代の働き盛りに脳卒中を患った男性で、出逢って3年くらいになる。
 記憶の障害についていえば、自分の名前も奥さんや母親や子どもの名前も言えなかった。
 自分が男であるか女であるかも分からなかった。これは、男とか女とかということが分からないから答えようがないのだと、気がつくことから、指導が始まった。
 私たちは、人にものを教えるとき、こんなことは当然分かっているはずだという前提で教えている。ところが、その前提についてよく理解していないと指導が仇になる。先生が何を教えようとしているのかさえ理解できない人には、先生のすることの一つひとつがストレスの原因になる。
 私は、この人に、ひらがなが読めるようにしようと思った。
 「うま」「みみ」「やま」などという、ひらがな2文字のカードを読ませてみた。そのうち、50枚のカードの大半が読めるようになったが、さっき読めたカードを再提示すると読めないというようなことがある。いま、「うま」と読めたのに、どうして,少し間を置いただけで読めないのか。
 「さる」のカードは、裏に,サルの絵と「さ」「る」という文字が書いてあって、「さ」の文字は、枠囲いに色づけがしてあり、隅にMonkeyと書いてある。
 その人は、このカードを手にとって、表をみたり裏を確かめたりして、「いす」だとか「もも」だとか、まったくでたらめなことをつぶやいている。あるとき、「さる」のカードを手にしながら、どうしても「さる」と言えないで、あれこれつぶやいていた。そういうつぶやきの途中で突然「モンキー」と言った。
 モンキーと聞いて、私はそうだ「モンキーだけど」と言った。彼は、「モンキー、モンキー」とくり返しながらカードを表向けたり裏返したりしていたが、「さる」を思い出すことができなかった。
 「さる」だと教えると「さる、さる、さる」と、繰り返して覚えようとしているが、何枚かのカードを見せたあとで、もう一度「さる」のカードを見せると、前と同じように読めなかった。
 Monkeyという記憶は、Monkeyという綴り字で思い出したのか、サルの絵で思い出したのか、それもよく分からない。
 ひと文字のひらがなカードの「し」は,裏に信号の絵が描いてあって、「しんごう」と書いてある。その文字をひと文字ずつ押さえて、「しんごう」と読み当てることもあるし、「ひこうき」などと読み間違えることがある。信号の絵が描いてあるのに、どうして「ひこうき」なのだろう。そうだ、描いてある絵の名前が記憶から消えているからではないか。
 こんな状態だから、子どもが、文字を覚える前に、ものの名前やことばを覚えるように、0から教えようと思って、「柿」「りんご」「みかん」などテーブルの上の果物の名前を繰り返して教えてみた。三つが難しいようだから、「みかん」と「りんご」の二つでやってみた。
 「りんご」を指さして「「りんご」,同じように「みかん」を指さして「みかん」と教える。
 りんごのつぎにみかんを教えて、もういちどりんごに戻すと「みかん」という。直前に覚えたことを繰り返す。
 色紙で「赤」と「黒」を教えてもおなじだった。
 1年ほど経過すると、「赤」と「黒」の色紙の名前の練習をした後で、でたらめに取り出して答えさせると、取り違えることがなく答えるようになった。ひと安心と思ったが、また間違えてしまう。
 なぜ、子どものように覚えられないのか。
 脳障害で、過去の記憶が消えてしまっただけならよいのだが、新しく記憶する機能まで壊れてしまっているからだ。
 しかし、故障したパソコンを捨てるような具合に、傷害を受けたからといって人間を見捨てるわけにはいかない。
 そのうち、その人が歌を歌うことに気がついた。「赤いりんごに唇よせて」という『りんごの歌』だ。歌詞に不正確な箇所があるが、ほぼ正確に歌える。メロディーも確かだ。歌詞の不正確なところを正すのに骨が折れたが、よくなった。
 ハーモニカを教えたら、唱歌や童謡が数曲吹けるようになった。
 「うさぎ追いしかの山」の『ふるさと』を吹くことに自信を持ってきた。そこで、「最後に、故郷を吹きます」と言ってから吹く稽古をした。このとき「吹きます」が「歌います」になるのを、なかなか直せなかった。
 文字カードを読んでいて、頭の中が混乱し始めると、麻痺している右腕に痛みが走るのか、びっくりするような大きなわめき声を出す。
 「やま」「うま」「ふね」とカードを順調に読んでいても、なにかのはずみでつまずくと、しばらく、でたらめに思える単語を唱え、そのうちに、なっとくのいく読みに気づいて、正しく読めることがある。ところが、なかなか,気づけないときは、パニックが起きる。
 頭のなかの混乱が限界を超えたときにパニックになる。
 そういう状況を感じたときは、深呼吸をさせて、しばらく瞑目させる。すると、さっき読めなかったカードが、すらっと読める。続けて,数枚、すらすらいって、また、詰まる。そこで、また深呼吸をさせる。
 ひらがなを覚えるというような、ふつうの人には何でもないことでも、脳に障害を持つ人には、すごくエネルギーをつかう作業なのだと思う。
 いつも、私が部屋へ入っていくと、「ありがとう、ございます」というだけだったのが、昨日はじめて「センセイ、アリガトウゴザイマス」といった。
 阪神タイガースを話題にすると「そうです、そうです」と相槌をうち、1,2,3,4,と指を折って
「4」を示してみせる。「そうや、ジャイアンツを4連覇したね」というと、わが意が通じた喜びになんども「そうですねん、そうです」とうなずいていた。
 根気よく、相手に合わせる。これが教育のコツだろうな。相手に合わせるために、親や教師はいろいろと勉強しなければならないことがあるものだ。
 教えることは学ぶことであり、学び続けないで教えることはできない。
 

ふしぎな台風

 台風19号は発生して間もなくスーパー台風と呼ばれた。
 一週間前の18号に続く来襲に少なからず気をもんだ。
 心配の第一は、11日と12日に明石公園で実施した「明石城まつり」と「どんとこいまつり」のことだった。もし、天候の都合で開催不能になった場合、ステージやテントをはじめ準備したものの経費を業者に支払わなければならないからだ。
 幸い、最初の予報より台風がやってくるのが遅れたために、予定通りに開催することができた。
 きょう13日の朝8時頃、台風19号はやっと枕崎に上陸した。四国に再上陸というニュースを昼食をとりながらテレビで見た。
 進路予想では、私にとって最悪に近いコースだ。
 5時頃、横浜の孫娘からテレビ電話がかかった。
 「だいじょうぶですか?」とたずねてくれた孫の笑顔がうれしい。
 「ほら見てご覧、窓から海を写すから」
 「木の葉も揺れていないね」
 「海は少し白波がたっているようだけど、ぜんぜん、なんともないよ」
 
 7時のニュースでは、淡路がたいへんだといっている。ふだんは、窓いっぱいに広がって見える淡路島が、雨雲におおわれて見えない。
 「近くの淡路がたいへんなのに、ここは、どうして風も吹かないし、大きな雨も降らないのだろうね。さっき、二度ほど雷がなっただけで」
 たぶん、今時分、台風の目は紀淡海峡を横断している頃だと思うが、静かだ。
 名古屋や豊橋や静岡の方がひどい風だとテレビを見て思う。
 台風19号の情報を知らなかったら、台風が来たことをまったく知らないで終わったかもしれない。
 それにしても、不思議でならない。今日は、朝から窓際でパソコンを打っていたのに、「いよいよ台風がきたらしい」と思うことがなかった。
 ずっと前に、大きな台風がやってきたとき、台風の目を体験したことがある。急に、吹き荒れていた風がおさまって、青空が見え、赤とんぼがいっぱいとんでいた。その後、猛烈な吹き戻しがあった。
 今年の夏は、局地豪雨の被害が多かったが、私の家の近くは、雨らしい雨がないままで秋になった。
 台風19号は、もしかしてまだら台風で、意外と雨風の弱い部分があるのかもしれない。
 ふつうだったら、台風の目の位置からいって、吹き戻しの風になるはずだが、その気配もない。
 窓から見える住宅やマンションの灯りが、穏やかにともっている。JRは18時から運転休止になっているから、飛行機の爆音だけでなく電車の音もしない「静かな静かな里の秋」といいたい感じだ。
 ふしぎな台風だ。
 このまま吹き戻しもなく、静かに通り過ぎて欲しい。

たか坊

 夏休み、兵庫県児童合唱祭に参加するためにマイクロバスで多可町のベルディーホールヘ出かけた。海辺の町に育った子どもにとって山や野の町は珍しい。
 前に宍粟へ行った後でつづらせた感想文には、合唱祭のことと同じ比率で、太い木がたくさん積み上げられた製材所とか、散髪のバリカンを入れた男の子の頭のような山の姿などのことが書かれてあった。
 今回の多可町では、田園の広がる山に囲まれた町へ行ったということが、とても心に残ったようだが、「たか坊」という着ぐるみキャラクターに出迎えられたことが、さらに印象的だったようだ。
 子どもにとって、この着ぐるみキャラクターはずいぶん興味深いものらしい。
 すっとまえ、私は、幼稚園児だった孫娘と、明石駅で兵庫県のキャラクター「はばたん」に初めて出会った。そのとき、私は、熊やパンダの動物キャラクターはよく見かけてかわいいが、鳥のキャラクターは珍しいだけで、あまりかっこよいとは思わなかった。
 孫娘は、興味津々だけれど、ちょっと怖そうに眺めていた。そこへ「はばたん」の方から、やってきて羽を広げて握手をしてきた。孫娘は、文字通り固まってしまって、なにもできないでいた。「はばたん」が羽で頭をなで、体を抱きかかえるようにして、バイバイと羽を動かして隣の子どもの方へ移っていった。一呼吸おいて、立ちすくんでいた孫娘の顔に笑みが戻った。「帰ろうか」というと、いやいやをして「はばたん」の後を追った。そして、手を伸ばして「はばたん」に触った。
 「はばたんって、かわいいね。あったかいね」といって戻ってきた。
 そんなことがあって、私まで「はばたん」フアンになってしまった。
 それから、数年たって、孫娘は明石公園で久しぶりに「はばたん」に出会った。
 「あっ、はばたんだ」と孫娘は駆け寄って握手をしてもどってきた。
 「はばたん、私のこと覚えてるかな」
 「そうだね」。
 多可町のキャラクターの「たか坊」と出会った合唱団の子ども達は、親しみを込めてというより、少々手荒な触れあいをしていたが、「かわいかったね」「おもしろかったね」と大喜びしていた。
 子どもたちが、多可町の地名が「ここの空は高い」といった大男の喜びの声がもとになって命名されたという昔話とともに「たか坊」を忘れずにいてほしいと思う。
 この夏休みに、孫娘たちと琵琶湖へ行った。ホテルのロビーに「ひこにゃん」が置いてあった。「ひこにゃん」も人気があって、「かわいいね」と大勢の人が次々に「ひこにゃん」の前でさまざまなポーズをとって写真をとっていた。
 イスラム国とかエボラ熱とか異常気象による災害とか、悲惨なできごとの続発に心が縮む昨今、「はばたん」や「たか坊」や「ひこにゃん」のように、出会う人をほのぼのと幸せな感じにするものが増えて、平安な世界が広がったらいいのにと思う。
 
 

孫の宿題

  8月31日、夏休みの最終日はちょうど日曜日だった。
  夜、NHKの大河ドラマ『軍師官兵衛』を見ていると、テーブルの上の妻のケイタイが点滅する。
 孫娘からのメールが届いたらしい。
  「今、官兵衛を見ている。あすから学校だから、すぐに寝ます。おやすみなさい」。
 高校1年生の姉の方だ。
  ドラマを見終わったあと、パソコンに向かって8月の出納簿を整理していると、電話が掛かってきた。こんな時間に誰からだろうと受話器を取ると、中学2年生の妹の方からだ。
 「おじいちゃん、いま、FAXを送るから見てね」といって切れた。
 追って、FAXがきた。宿題のようだ。お盆休みに遊びにきたとき、宿題のことを尋ねたら、片付けたと言わなければママがおじいちゃんのところへ行くことを許してくれないので、計画通りしていると言ったけど、ほんとうは、ほとんど手つかずで残ってると言っていた。それはそれで、正直でいいと思っていたが、8月31日の夜になって宿題が片付いていないというのはどういうことか。お説教をきかせる余裕もない。
 FAXの内容は、「身近な職業と働く人について調べよう」というもので、身近な職業人2人にインタビューし、働く人の生活や生き方について考えてみましょうとあった。
 おじいちゃんは、定年になって、現在無職だからインタビューの対象にはなりませんと言って返したいところだが、明日を控えて大汗かいている様子を思うと、それも可哀想で、いくつかの設問に回答を書いて、すぐに送り返してやった。
 「おじいちゃん、FAXついたよ、ありがとう」明るい声が返ってきた。たぶん、もう一人の職業人として頼ったのはパパだろうと思う。
 質問項目は以下のとおり。
 Q1,あなたがされている職業名を教えて下さい。
 Q2, どんなことをする仕事ですか。
 Q3, なぜこの仕事についたのですか。(選んだ理由、きっかけなど)
 Q4, その職業に必要な適性や資格などを教えてください。
 Q5, この仕事について良かったと思うことを教えてください。(やりがいなど)
 Q6,この仕事の大変なところはどんなところですか。
 Q7, 仕事をするうえで常に心がけていることや大事にしていることは何ですか。

 これへの回答。
A1, 教育公務員(小学校教師)
 A2, 子どもに社会人になるための基礎教育をする。
 A3, ヽ惺擦らの強い誘い。教育への興味
 A4,^情 知識 D謬羶
 A5,〇劼匹發寮長がわかる △い弔泙任盍脅佞気譴
 A6, ,劼箸蠅劼箸蠍沈があり、その個性を見抜いて教えること。
    家庭環境が異なるため個別の対応が必要だのに、公平性を求められる。
 A7, /び悩んでいる子を根気よく支えてやる。
    ∧拔に仕方を教えて、努力の成果を実感させる。

 FAXを受け取って数分で送り返してやったので、いきなりの口頭試問に答えるよなもので、熟慮なしに反射的に書いたものだが、いま、パソコンを打ちながら読み直しても、およそのことは言えていると思う。
 現在は、学校の先生になりたくても、なかなかなれないが、私が代用教員としてスタートした昭和23年のころは、戦地からの復員も完了していなくて、教員不足が深刻な時代だった。それで、Q3,の回答,、学校からの強い誘いということになっている。今の人には想像のつかない社会状況だった。
 そういう生活体験をもつものとしては、憲法9条の意味はすこぶる重く、孫たちにも、平和憲法が目指す生活をさせたいと思う。

 
 

ごきげんよう

 NHKの朝のテレビ・ドラマ『花子とアン』では「ごきげんよう」という挨拶がよく交わされている。今朝の放送では、花子がラジオ番組の結びを「さようなら」でなく「ごきげんよう、さようなら」にしたいと、放送直前に申し出て拒否される場面があった。花子は、編集局長の承諾のないまま、生放送の最後のところで、やはり「ごきげんよう、さようなら」と結びたくなって、ちょっとためらったが、「ごきげんよう、さようなら」と言って切り上げた。
 次週は、このことがどう発展していくのだろう。
 私は、「ごきげんよう」という挨拶で思い出す人がある。岡部伊都子さんである。きちっと和服を着こなした女性で、言葉づかいが美しかった。岡部さんの書き物は、四百字ほどのエッセーでも、読み終わったあとに、余韻が消えない不思議さがあったが、「ごきげんよう」という控えめな挨拶のあとに余香がただよっていた。
 数日前、「童謡フレンズ」の会に、会員のひとりが「ごきげんよう」とやってきた。歌の集いが終わった帰り際には、だれもが「ごきげんよう」と笑顔で声を掛け合っていた。テレビの影響力を思うとともに、「ごきげんよう」にこもる感謝と祈りの気持ちを大切にしたいと思った。
 これも、数日前のできごと。知人が美事な新種のぶどうを届けてくれた。函を開くと「美味しいとおっしゃるお客様の言葉を励みにこだわりのぶどうを育てることに毎日精をだしています。旬のとりたてのぶどうをおとどけしています」と生産者のメッセージが添えられていた。
 函には、大きな房が3房入っていた。
 函から一房を慎重に取り出して包みを開いた。デラウエアとかピオーネとか大粒のぶどうを知っているが、それよりもジャンボで充実している。口に入れるとすてきな香りとおいしい果汁とこころよい肉質がなんともいえなくて、驚いた。ほんとうに素敵なごきげん気分になった。
 おいしいものを食べると、すぐに孫娘のことを思う。ちょうど、次の日、琵琶湖畔のホテルでいっしょに宿泊する約束をしていたので、一房を持っていこうと思った。
 ホテルに着くと、みごとなデザートでみんなを驚かせようと、こっそり冷蔵庫に入れた。
 夕食後、大きな房の入った袋を、テーブルのまん中に置いた。孫娘がどんな顔をするか、手品のハンカチを払うような気分で袋を開いた。
 「こんなものを子どもに食べさせる気か」と息子が叫び、妻はことばもなく茫然とした。
 軸からはずれた大きなぶどうの粒が転がり出て、どの粒もはじけてカビが生えていた。まったく意外なことにいい訳のしようもない。家で食べたあの一房のことを思うと、なぜとしか言いようがない。
 気まずさだけが残るホテルの夜になってしまった。
 つぎの日、帰宅して家の冷蔵庫から食べさしのぶどうを取りだしてみた。艶やかでおいしいぶどうだった。別の一房を確かめたが、それもおいしそうな美事な房だった。いまも、最初の一房から3粒をはずして食べたが味に変わりはない。
 ぶどうの入っていた函を解体したら琵琶湖へ持って行った房の下にあたるところが炭の粉がこびりついているように黒ずんでいた。ああ、これに気づいていたら、みごとな房の方を持っていっていたのにと思ったが、後悔先に立たず、念には念を入れなければと改めて反省した。
 ぶどうやさんも、丹精込めたぶどうが、こんな展開になっているとは思いもしていないことだろう。
 いつでも、どこでも「ごきげんよう」とあいさつできる状況でありたいものだ。
 
 

お手伝い

 「あかし小さな目」と名づけた児童詩の活動を始めたのは、1974(昭和49)年のことだから、いつの間にか40年も続いていることになる。
 40年にもなると、「夏休み詩の教室」を開くと、むかし生徒だった子が子どもを連れてやってきたりする。うわっ、いつのまにお母さんになったのかとおどろいて、思わず自分の年齢を振り返る。
 そして、40年もたつと街のたたずまいも子どもの生活ぶりも、ずいぶん変わったと思うが、なんといっても私自身の変わりようが、いちばんひどいと気づく。

 今回、事務局から手渡された子どもの名簿をみて、名前の読み方の分からない子ばかりだなと思った。
 彩夏(あやか)、亜実(つぐみ)、愛実(まなみ)、夕愛(ゆめ)……。
 ちなみに、この子たちのお母さんの名前は、雅子、恵子、清子、聡美だから、だれが読んでもほとんど間違いがないと思う。これも時代の変化のひとつだろうか。
 でも、子どもの可愛さだけは変わらない。
 今回、書き上げた詩を朗読させたとき、「そうよ、そうよ」といちばん共感しあっていたのは、小学3年の鈴木亜実さんの「宿題」という作品だった。

 めんどくさい
 めんどくさい
 先生のだす宿題は
 めんどくさい 
 自分でやるべん強は
 めんどくさくないのに
 なんでだろう
 なんでだろう

 強く共感しあう子どもたちを見て、私は自分が勤務していたときもそうだったのだろうかと振り返る。
 それはそれとして、私は、時代がどう変わろうと、人間はしょせん動物なのだから、子どもが幼いころは、犬や猫の親が子どもを育てているのと同じような直接的な触れあいによる子育てを省いてはならないと考えている。また、友だちとの人間関係や社会人としての自立能力を育てるためにも、さまざまな体験的学習の場を設定することが必要だと思っている。
 たとえば、手伝いをさせることだ。手伝いの教育的意義、あるいは効用は実に大きいものがあると思っている。
 今回の教室でも、ある姉弟が「てつだい」のことを綴っていた。
 
 「おてつだい」
      1年 たかくら だいご
 せんたくものの
 とりいれは
 つよいひざしが
 あたって
 あつくてこまる

 とりいれた
 せんたくものは
 たたむのもこまる
 たたみかたを
 まちがえると
 こまったことになる

 せんたくものを
 ひきだしに
 いれるのもこまる
 いっぱいになって
 つめつめだから
 おしこむのが
 たいへんだ

 なんともいえない、ほほえましい姿が目に浮かび、先々の成長への期待が膨らむ。

 三年生のお姉さん高倉夕愛さんも、お手伝いをしている。

 「おふろあらい」

 えきたいのせんざいを
 きりふきみたいに
 シュッシュッと
 スポンジにふきかけた
 せんざいのついたスポンジで
 ゴシゴシと
 おふろをこすった
 ツルツルになった
 さいごはシャワーでながした
 きれいになって
 いいにおいがした

 最後の2行にあらわれている、達成感と成功の喜びは、ドリルを片付けたりピアノの稽古を
すませたりしたときとは、ひと味もふた味も違うすばらしいものだと思う。
 洗濯物の取り入れやお風呂洗いなど、子どもの年齢や発達に応じた仕事をさせている、この姉弟の家庭教育はすばらしいと思う。
 毎日の生活のプログラムの中に、ぜひ、手伝いをはめこんで欲しいと思う。
 お手伝いや掃除を通して「その手で最後まで、もう一手間かけて」とか「準備、順番、タイミング」というような実務的教訓を身につけた子は、社会人としても、たくましく伸びていくことを私は、私の多くの教え子の姿から確信している。

 


 
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