パソコンの前に孫娘が描いてくれた『山姥とアキラ』の表紙絵がある。採否は未定だが、私は捨てがたい絵だと思っている。
アキラは、生まれて間もなく母親と死に別れた。そして、父親も家出してしまった。不憫におもった祖母(山姥)が引き取って育てようとしたが、年寄りでは無理だといわれ、乳児院に預けた。
アキラは、3歳になって、祖母のところへ戻ってきたが、言葉の出ない子どもになっていた。
祖母は、あちこちの病院や施設に相談に行ったが、「別におかしいところはない」といわれた。そう言われても、アキラは口がきけない。それだけでもおかしいじゃないかと,祖母は納得がいかない。しまいには、病院の医師や施設の先生が互いに連絡し合って、口裏を合わせていると疑うほどだった。
偶然の紹介で、祖母はアキラを連れて私のところへやってきた。
『山姥とアキラ」は、その後のアキラの様子を記録したものである。
この本には、そこそこ読者がついて再版までしたが、思いがけない事情で、出版社が潰されてしまい絶版となった。
最近、別のところから再版の話しが持ち上がり、著作権の都合で表紙絵を改めることになった。
私は、子どもの絵を使ってみようと考え、孫娘に話したら、「かいてあげるよ」といとも簡単に引き受けてくれた。
ところが、なかなか仕上がってこない。催促をすると、もうちょっと、もうちょっとといって電話が切れた。家の者が心配して「描けなかったどうするのか」と言っていたが、「ここまで苦労しているのだから」と私は完成を待った。
最後のころは,1度だけだけど、電話を取り次いでといっても、電話に出ないことがあった。
6月の末、やっと、メールで送られてきた。
あたたかい感じの絵だった。待ってよかったと思った。
電話に出た孫娘も声が違っていた。解放された気分が感じられた。
早速、出版社へ送稿し、焼き増ししたのをパソコンの前に貼った。
次の電話のとき、孫娘は「おじいちゃん、あの絵を描くのに上等の筆と絵の具を買ったので2ヶ月分のお小遣いがなくなった」と言った。小遣いは,1ヶ月1,000円だそうだ。
「お礼をしなくちゃ」というと「図書カードがいい」といった。
図書カードを買いに書店へ行って、つでに『デッサン』の本を買った。それにおこづかい分を添えて送った。
数日後、電話に出た姉が、妹がすごく喜んでたと言っていた。
毎日、パソコンの前の絵を見ていると、いろいろなことが見えてくる。一言でいえば、実にちぐはぐな絵で、そこが子どもらしい。
絵は、縦位置で、下半分はミドリの色紙をちぎって芝生か野原を現している。空との境が、わずかにカーブしていて奥行きが出ている。これ、計算してのことだろうか。このミドリは、春か初夏の感じがする。空は細い筆で着色したのだろうか、丹念に描いている。夏から秋に季節が変わる頃の夕焼けに見える。アキラはランニング・シャツで走っている。眉を逆八の字にしている。それを見守る、おばあさん(山姥)は、冬のコートを着て見守っている。孫の成長を見守っている感じの表情だ。
アキラの手足の動きにひっかかる。いわゆるナンバ走りで、竹馬に乗って歩行するときのように、右、左それぞれの手足が同時に前へ出る走り方だ。アキラの幼稚さとか、極端な喜びとかの表現だろうか。
夕焼けの空をカラスが3羽飛んでいる。仲良く古巣へ戻っていく姿が、あたたかい家庭を希求する願望を現しているようにも思う。
一枚の絵を見る私の目が、すっかりおじいちゃん目になってしまっていると思う。みんながみんな私のようになっても困るし、厳しいばかりの目でも子どもは育たないだろうとも思う。
アキラは、生まれて間もなく母親と死に別れた。そして、父親も家出してしまった。不憫におもった祖母(山姥)が引き取って育てようとしたが、年寄りでは無理だといわれ、乳児院に預けた。
アキラは、3歳になって、祖母のところへ戻ってきたが、言葉の出ない子どもになっていた。
祖母は、あちこちの病院や施設に相談に行ったが、「別におかしいところはない」といわれた。そう言われても、アキラは口がきけない。それだけでもおかしいじゃないかと,祖母は納得がいかない。しまいには、病院の医師や施設の先生が互いに連絡し合って、口裏を合わせていると疑うほどだった。
偶然の紹介で、祖母はアキラを連れて私のところへやってきた。
『山姥とアキラ」は、その後のアキラの様子を記録したものである。
この本には、そこそこ読者がついて再版までしたが、思いがけない事情で、出版社が潰されてしまい絶版となった。
最近、別のところから再版の話しが持ち上がり、著作権の都合で表紙絵を改めることになった。
私は、子どもの絵を使ってみようと考え、孫娘に話したら、「かいてあげるよ」といとも簡単に引き受けてくれた。
ところが、なかなか仕上がってこない。催促をすると、もうちょっと、もうちょっとといって電話が切れた。家の者が心配して「描けなかったどうするのか」と言っていたが、「ここまで苦労しているのだから」と私は完成を待った。
最後のころは,1度だけだけど、電話を取り次いでといっても、電話に出ないことがあった。
6月の末、やっと、メールで送られてきた。
あたたかい感じの絵だった。待ってよかったと思った。
電話に出た孫娘も声が違っていた。解放された気分が感じられた。
早速、出版社へ送稿し、焼き増ししたのをパソコンの前に貼った。
次の電話のとき、孫娘は「おじいちゃん、あの絵を描くのに上等の筆と絵の具を買ったので2ヶ月分のお小遣いがなくなった」と言った。小遣いは,1ヶ月1,000円だそうだ。
「お礼をしなくちゃ」というと「図書カードがいい」といった。
図書カードを買いに書店へ行って、つでに『デッサン』の本を買った。それにおこづかい分を添えて送った。
数日後、電話に出た姉が、妹がすごく喜んでたと言っていた。
毎日、パソコンの前の絵を見ていると、いろいろなことが見えてくる。一言でいえば、実にちぐはぐな絵で、そこが子どもらしい。
絵は、縦位置で、下半分はミドリの色紙をちぎって芝生か野原を現している。空との境が、わずかにカーブしていて奥行きが出ている。これ、計算してのことだろうか。このミドリは、春か初夏の感じがする。空は細い筆で着色したのだろうか、丹念に描いている。夏から秋に季節が変わる頃の夕焼けに見える。アキラはランニング・シャツで走っている。眉を逆八の字にしている。それを見守る、おばあさん(山姥)は、冬のコートを着て見守っている。孫の成長を見守っている感じの表情だ。
アキラの手足の動きにひっかかる。いわゆるナンバ走りで、竹馬に乗って歩行するときのように、右、左それぞれの手足が同時に前へ出る走り方だ。アキラの幼稚さとか、極端な喜びとかの表現だろうか。
夕焼けの空をカラスが3羽飛んでいる。仲良く古巣へ戻っていく姿が、あたたかい家庭を希求する願望を現しているようにも思う。
一枚の絵を見る私の目が、すっかりおじいちゃん目になってしまっていると思う。みんながみんな私のようになっても困るし、厳しいばかりの目でも子どもは育たないだろうとも思う。