嫁から「鈴」というメールがきた。
 去年の夏、紀州勝浦のみやげに買ってやった小さな鈴を1年生の孫はランドセルにつけている。
 もう戻ってくる頃かなと待っていると、チリンという鈴の音が聞こえることがある。ベランダに出て手を振って迎えると、孫が喜びいっぱいに手を振り返すそうだ。
 孫は、その出迎えがうれしくて、住宅街にはいるとジャンプしてランドセルを揺するそうだ。子どもの無事な帰りに神経を使わなければならない社会は困りものだが、かすかな鈴の音が結ぶ母子の姿を想うのは楽しい。
 きのうは、阪神淡路大震災の11年目の記念日だった。神戸市役所の近くの公園などで追悼式はじめ多くの催しが行われていた。正午、市役所の展望階で黙祷した。
 あの日以来、次男は家を離れたままだ。市街地の整備は進んでも、いやされぬ傷は、かえって深くなっていく。
 きのうはまた、宮崎勤被告に対する最高裁の死刑判決が下された。
 ・88年8月、埼玉県入間市で、4歳の女児を車で誘拐し山林で絞殺
 ・88年10月、埼玉県飯能市で7歳の女児を誘拐し、山林で絞殺
 ・88年12月、埼玉県川越市で4歳の女児を誘拐し、山林で絞殺
 ・89年6月、東京都江東区で5歳女児を誘拐し、直後に車内で絞殺
 ・89年7月、東京都八王子市で6歳女児を裸にした。
 判決理由のなかに「主たる動機は性的欲求と、死体などを撮影して自分だけのビデオテープを持ちたいという収集欲に基づく自己中心的なもの」だという指摘がある。
 宮崎被告は、両親が頻繁にけんかをするなかで育ち、人格がゆがんだとか、わいせつビデオに漬かって、正常な道徳判断ができなくなったとかいわれてきた。
 しかし、あれから17年経過した現在は、インターネットの爆発的な普及によって、性的な映像情報は日常生活にあふれ出し、日常的に、幼児、児童の通園通学が脅かされる社会になっている。
 駅などに、不良図書は家庭に持ち帰らないでと「白いポスト」が見られた時代が懐かしい。週刊誌が売り上げを伸ばしていた時代だった。インターネットでは、有害情報を排除する関所がないも同然だ。
 表現の自由と生命の安全とどちらがだいじだろうか。人間や社会にとって、何がだいじかを見直し、新しい時代に必要な規制や教育で、多くの人間が安気に暮らせる社会への「構造改革」をすすめないと、ますます恐ろしいことになってしまう。
 子どもの成長過程に、せめて「真実一路の路なれば」という求道的な思索をする場を設けた学校体制の整備を進めて欲しい。