2008年09月

2008年09月28日



本当は名岐の800を掲載する予定だったんだけど
何故か850系ナマズがフィルムが出てきたんで
そっちにすることにしてしまった。こっちも日車が気合を
入れた一両だけに他に類を見ない形態をしていて
ゲテモノ好きの私の琴線をおおいに揺さぶってくれる
車輌である。
名鉄の吊りかけ特急車輌としてはイモムシこと
3400があまりにも有名だが、同時期に製造された
このなまずはあまり注目されることもなく
廃車になってしまった。私にとってはどちらも魅力
的だったのだが。

NRC展用にあちこちの台車を撮影してくるミッション
があって、当時まだ学生だったtさんに案内されて
東枇杷島を皮切りに数箇所撮影地に連れて行って
もらった。先日その東枇杷島に行く機会があったの
でそのホームに降り立ったのだが、全く変わって
いないのには驚いてしまった。既にあれから4半世紀
も経過しているのに、しかも名古屋駅から2個目の駅
なのに。素晴らしい!

話を元に戻すと、どこかの電車車庫につれられていった
時、同行していたkが興奮ぎみに「ナマズやぁ」
と声を張り上げていた方角を見ると、それはもうあっと言う
間に目の前を通りすぎていってしまった。くやしがって
諦めきれなくて遠ざかって行く駅のホームに目をこらすと
行き先表示板をはずしている。
幸運なことに車庫に入るためにわざわざ我々の方に
引き返してくれたのだ。コリャぁ慌てない方がおかしい。
その時のミッションなんて全部忘れてフィルムを浪費していた。
ブリルの台車も住友FSも日車D14もとりあえずとって
あったから、まっイイカぁ
<yuzzu>


(02:19)

2008年09月22日



これも記憶が定かではないのだが、西武山口線の花見
撮影の帰りに偶然工臨についてたE71を見つけて
持っていたカメラにカラーが入っていたのでついでに撮った写真。
場所がどこかもあまり定かではないけど、やっぱり所沢かな?
向かい側のホームに「東京証券所沢支店」って書いてあるからね。
私鉄の電気機関車には少し思い入れがあったんだけど、まだ知識が
乏しいから西武にどんなやつがいるのか知らなかったんじゃ
ないのかなぁ。でも「こいつは良い」と思ってカメラを向けていた。


この数ヶ月後に例のヘッドマークを
みんなで作って付けにいったっけ?でも既に休車みたいな状態で
所沢の管理事務所の方が目の前で竹ざおで突っついてパンタを
持ち上げたのはビックリだった。
それもなかなかうまく持ち上がらなくてしばらく屋根の上に登った
りして苦労してたと思う。直流とは言え1500vの間近で作業するん
だから大丈夫かなぁなんて人事みたいに作業を眺めていた。


私は皆さんのように車両の歴史は詳しくないのでこれがどういう経緯で
西武に渡ってきたのかWikipediaでの知識ぐらいしかない。
しかし極めて手入れの行き届いた車両だというのは当時所沢の
車庫に見学に行った時に強く感じた。それは運転席にみんなで
乗せてもらった時、細かく切られたノッチの歯車が美しく輝いて
いた。新品というわけにはいかないが、各レバー類やノブが金属の地肌
を見せていて小さめの窓から差し込む光に輝いていたと思った。
横にいたyさんが自慢げに、細かく刻まれたノッチには一つ一つ
ロックを刻んでいかなければならない。しかし、ベテランの運転手
はまるで芸術家のように細かいノッチにロックを刻みながら
スムーズにレバーを操作するんだ。と言っていたと思う。電車の
運転席とはこんなに違うものかと初めて知った。だって電車の
運転席見てたって。ガッチャンと発車と同時にフルレバーだも
んなぁ。テクニックもクソもない。


話をもとに戻すけど。目の前で西武の電気機関車もいろいろ見てきた
が結局まともな写真なんてあんまりない。日没後のトワイライトの
時間帯で、露出もアンダーでイマイチだけど引退直近の71という
感じなのかなぁ。
今走ってる車両こそ大事に記録しなきゃいけないんだろうね。
<yuzzu>

(00:37)

2008年09月16日



1980年3月 名張

高校生の頃、近鉄の2200型という電車に憧れていた。

それは昭和5年、近鉄の前身である参宮急行電鉄が、その開業にあたって用意した、それまでの常識を破る大型で高性能な電車だった。途中の青山峠の勾配を、時速60キロ以上のスピードで走るために、電車としては破格の強力モーターを搭載したその姿は、電車とはいえ、力強さに溢れている。
また、かの太宰治をして、“青山には2200がよく似合う…”、と言わしめたという名車である。

2200型には、鉄道省のモハ43のように狭窓がずらりと並んだ “旧” と、2227以降、張り上げ屋根、ドアが真ん中に寄った“新”の2系列が存在していた。
いずれも“電車の中の電車”と賞賛され、特に、トイレの位置の関係からいわゆる“片目”となった前面のスタイルは、特に電車には興味のない人(著者がまさにそうだ)にも、強い印象をあたえ続けている。
そんな2200が、戦後ブルーとクリームのツートンに塗られ、側面には誇り高い“Express”のマーク、正面には “すずか” などの小型ヘッドマークを掲げ、大阪上本町駅に停車している写真などは、もうしびれる程に魅力的だ。

しかし残念なことに、その頃2200型は既に全車が引退してしまった後だった。私は過去の名車として、憧れをもって写真を眺めるしかなかったのだ。
ただ、2200(新)のうちの何両かは事業車に改造さた、という記事を目にした。それすらも廃車になった、という記事は取りあえず見当たらない。
ということは、近鉄の線路のどこかで、かつての2200のかっこをした電車がまだ見られるかもしれない…。

そう思うと、もう我慢ができなかった。
高校3年の春休み、西日本方面へ撮影旅行の際、全く何のあても無いまま、名古屋からビスタカーに乗込んだ。
通過する駅という駅を、信じがたい集中力で隅々まで見渡していく。今思えば、各駅停車に乗る方が合理的だったと思うが、やはりビスタカーに乗る、ということも魅力的なことだったのだ。
さて、わかってはいたがそう簡単に見つかるわけはない。大体車庫の中に入っていたら見えるはずもない。
ちょっと弱気になったところで、車庫のある名張を通過した。
そこに…、見えたのである。奥の側線に停まった茶色の重圧な電車が。
それが2200だ、という確証は全くない。ただ、それらしきものが見えた以上、手がかりは名張に行く、ということしかない。

翌日、大阪市内のユースホステルを早朝にでて、近鉄名古屋本線を名張までもどってみた。
大阪からまた戻る、そんな不合理なマネも、高校生にはなんともなかった。
でも私は弱気になっていた。“行ったって、そんな都合良く見れるわけがないさ…”。
とにかく諦めなかった、そういう自分自身への言い訳が欲しかっただけだったのかもしれない。

さて、名張。
緊張しつつホームに降り立つ。当然いるわけがない。待とうとも思ったが、それじゃあまりにあてが無い。
あーあ、と諦めの一服をしている時だった。
それは、私の強い想いが天に届いた、としか言いようがない。
2両連結の事業車が、奥の側線から本線に出て行った。
“まさか!” と思って見ていると、それは転線して駅構内へ入ってくる。そして、私が立っている目の前に停車したのだ。

長大なホイールベースの台車、リベットが整然と並んだ重厚な車体、大型のパンタグラフ、間違いない、それは憧れの2200型だった。
写真では何度も見ていたが、なんて素晴しい電車なのだろう。事業車にはなっているものの、大変よく整備されていた。
ひょっとしたら、現場でもかつての特急車、という意識があったのかもしれない。
対になったもう1両は旧1400型。2200(新)を3扉にしたローカルバージョンだ。こちらもまた見応え充分。
特に、改造を受けていない正面窓やヘッドライトは、かつての誇り高い近鉄の電車の姿を今に伝えるようだった。

それは、すぐにパンタを下ろしてしまったが、私はホームに体育座りをしながら、いつまでもこの名車に出会えた幸運と感動を噛み締めるのだった。

<yosaku508>

(18:23)

2008年09月13日



予讃線 海岸寺 1980年3月

ちょっと音楽のはなしをしてみよう。

由紀さおりの “夜明けのスキャット” という曲を覚えているだろうか。
1969年リリースで、私達の小学校低学年時代にヒットした曲である。いずみたくによる作曲で、ミュートしたエレキギターのイントロにのせて、由紀さおりの美しいスキャットが重なっていくオープニング。幾つになって聞いてもぐっときてしまう、私にとっての70年代の名曲だ。

私はこの曲が当時から大好きだった。
いや、好きというのとはちょっと違う。当時の幼い感性のどこかに、何故か深く響いてしまったのだ。
そのきっかけはよく覚えている。
確か小学2年生の時だったと記憶する。NHK紅白歌合戦で由紀さおりがこの曲を歌うのを聞いた。
これでもかというほど盛り上げるオーケストラ、思いのたけを込めての熱唱。
私は心からしびれてしまった。眠くて意識が飛びそうになっていたのも完全に忘れていた。“感動” などという言葉の意味もよくわかっていなかったその時、突如心に湧き上がった熱い気持ちに自分でも戸惑う程だった。そしてそんな心の動きを、そばで見ている親に悟られるのが恥ずかしかった記憶がある。

最近になって考える。何故これほどこの“夜明けのスキャット”が心に残っているのだろうか?。
それは、恐らくまずそのタイトルだと思う。
具体的な “夜明け” という時間帯、つまり季節による差はあっても大体午前4時から5時半くらいだろうか。
これは小学校低学年の子どもにとっては、まず体験することのない時間帯である。
東の空が白んできて、だんだん明るくなっていく空を見あげる、そんな経験はかなり大人になってからのことではないだろうか。私も初めて夜明けを体験したのは小学6年生の時だった。

つまりこの曲は子どもにとって、その美しいメロディーにのせて、まだ見たことのない大人の世界、凛とする透き通った空気とか、そんなものをすごくイメージさせたのであろう。
また、“スキャット”というだけあって、歌詞は極めて単純化されたいくつかの言葉が出てくるだけ、というのも印象的だった。特に、最後の “愛しあうふたりの時計は止まるのー” という部分のリピートを思い出すと、これを書いている今も、熱い感情がこみ上げる。

夜明け、という時間は、たとえそれが仕事の徹夜明けであっても、どこか心が透き通るものではないだろうか。
そして私達マニアは、一般の人よりもはるかに多く夜明けの時間に起きていて、その空気の中にいたことだろう。
始発電車に乗るために駅へと急ぐ道、夜行列車の窓、田舎の無人駅、線路際の丘の上、連絡船のデッキ…、様々な場所で、あらゆる季節、天気の下、夜明けを見ているに違いない。
どんなに体が辛くても、これから始まる1日の成果を期待して、その時だけは意味も無く心が奮い立つ、そんな気分を味わったはずである。
大人になった現在、それは高速道路を走る車の窓から見ることが多い気がする。でも、そんな時にも必ず頭の中に流れるのはこの “夜明けのスキャット” のメロディーだ。

ところでこの曲の最初って、“サウンド オブ サイレンス” と全く同じだって気がついていましたか?。
ボクは中学生の時から知ってました…。

<yosaku508>


(16:16)



先日お話した、ボロっちい模型の続きのはなしである。

この昭和30年代初頭に製造された、というカツミのEB54。
ほとんどのパーツはなく、モーターも壊れているとみえて、通電してもぴくりともしない。
これを直すのは大変だ。
途方に暮れた末、自由形鉄道模型の知識とコレクションでは、国内で3本の指に入る、という知り合いに相談したところ、本当に幸いにも、ほとんどの欠品しているパーツを提供してもらえることになった。動かなかったモーターも修理してもらった。
さあ、材料は揃った。後は作業を進めるのみ。

まずは、それを素材のカタチにもどすことから始めなくてはならない。
塗装を落とし、はずれているパーツは再び半田付けしていく。ピカールで一生懸命磨けば、それは半世紀ぶりに金属の光沢を取り戻していった。そこに、新しいパーツをひとつづつ丁寧に付けていく。
迷った末に、オリジナルに近いグレーに車体を塗装して、再び組み立て。

交流モーターの結線は間違っていないか、ライトはちゃんと付くか…。
恐る恐る線路に乗せて通電してみる。
びくっと車体が振動したかと思えば、それは “ががががっ” と賑やかな音をたてて走り出す。
この瞬間がたまらない。
レストア、という作業は、新しいキットを組むのとはまた違った達成感があるものだ。何というか、自分の手で、それに再び命を与えてやったような、大げさにいえばそんな気分だ。
元のオーナーに、“これがキミの機関車だよ” といって見せてやりたい。

興味のない人からみれば、自己満足の極至であろう。もちろんその通りではあるのだが、このような苦行を自らに強いる、そういう性からはどうやら逃れられそうにない。
chinaさん、またやったら出していい?

<yosaku508>


(15:48)

2008年09月04日



1983年9月18日 陸中大橋〜上有住

 釜石線陸中大橋といえば、古くは集煙装置装備のD50が苦闘した場所として知られた難所のひとつ。釜石から西へ岩手山地に分け入った釜石線は、途中洞泉を過ぎた辺りで北上し、仙人峠に行く手を阻まれる形で180度ターンのオメガカーブを描いている。なんと印象深い線形だろうか。
 鉄道だけではない。今は仙人峠道路という高規格の短絡バイパスができてしまったが、当時は国道283号線が普通でないループを描いて仙人峠トンネルに吸い込まれていた。そんな鉄道、道路の尋常ではない姿を見て、一体どんな峠なんだろうかと期待はふくらむ。加えて鉄源所属の移動機が配置されてもいるというから、83年の東北ツアーで真っ先に訪問先に加えたのは当然のことだった。

 盛岡からの急行「はやちね」で陸中大橋に降り立って、間もなく入換えを始めた2両の移動機を押さえた後、駅前から国道へ歩みを進めた。目指すのは下部ワーレントラスの鬼が沢橋梁。尾根筋の踏み分け道を登って鉄橋を見下ろす高見にあがる。杉の苗が植えられた見通しの良い一角でボーっと待っていたら、いきなりカモシカが出てきたのも思い出深い。

 最後のターゲット盛岡行き急行「陸中」のキハ58が、エンジン全開で急勾配の鉄橋に差し掛かりつつあったその時、釜石に向けて陸中大橋駅を出て行く貨物列車が見えたのだ。そいつは10分ほど前にブレーキシューの音を響かせて鉄橋を駆け降りていったDD51重連貨物。間もなく2つの列車はギリギリのタイミングでファインダーの中に収まっていく・・・
 
 でもよく見ると断雲が作った影にDD51が突っ込でいる。それに小さい! ・・・だけど、まあいいや。

RU

(23:35)