2016年08月26日


1987-11 津軽海峡にて

鉄道青年さんからの推奨図書、洞爺丸はなぜ沈んだのか、を先日読了した。
洞爺丸と言えば、日本の海難史上最大の悲劇として知られている船だが、
過酷な運命を辿ることがわかっていても、沈没の本当の原因は一体何だったのか、
案内をもらって読まずにはいられない一冊だ。
初版は1980年。相当前に出版されていたのに、なんで気が付かなかったのか
不覚としか言いようがない。

強力な台風が接近するなかをなぜ出港してしまったのか、船の性能、船長のひととなり、
時代背景、そして偶然の積み重ねまでを、丁寧に解説しつつ解き明かしていく内容なのだが、
第一級の資料を基に書き起こした内容は極めて濃厚だ。
乗客の大部分を占める3等船室の乗客の描写に個人的に思いを致す所が多く、
この人だけは助かってほしいと、思わず感情込めて活字を追ってしまった。
内容に触るので多くを記すことはできないが、沈没に至る前から多数の犠牲者が出ていた事を
窺わせる内容に、一番の衝撃を受けたことだけ書いておきたい。

技術が進んだ現代なら、と思わせる記述もたくさんある。
米軍の描写も個人的には意外だった。昭和29年といえば青ガエルが作られた年。
でも、まだ戦争の色が濃かった時代なんですね。

札幌が母方のゆかりの地であり、実際に連絡船を何度か利用している。
そんなわけで、相当に主観を織り交ぜながら読んでいるので、他の方とは
読後感が違っているかもしれない。

70年代前半はまだ連絡船が北海道へのメインルートだった頃で、おまけに利用するのは
決まって夏休み、多くの乗客で混雑しているイメージが強い。
幸いにして、連絡船を挟んだ上野〜青森、函館〜札幌は特急の指定席を取ってあることが多く、
桟橋ダッシュはしなくて済んだが、連絡船はカーペット席の混雑とか、「新巻弁当」が口にあわない
などの、どちらかと言えばマイナスの印象が多い。
583系とキハ82のワクワクする車窓に比べて海の景色は退屈だし、接続の都合上夜行便が多く、
寝苦しい記憶もそうさせているのかもしれない。

583の「はつかり」や「みちのく」に乗り、青森の手前に差し掛かると、車掌さんが車内を回ってきて
乗船名簿を配っていく。ちなみにグリーン船室用は緑色だった。
そして、普通車に乗っていた我々の近くで緑色用紙に名前を記入している人はいつもいなかった。

写真は津軽海峡ですれ違う(おそらく)摩周丸。
廃止を間近に控えたころ、Nogiさんらと青函連絡船お名残乗船をしたときのカット。
カビの生えたネガから取り込んだ画像が、なぜかひとつだけPCにあった。
函館市内の坂道から、出航する連絡船を撮ったカットが有ったはずだが、肝心のネガが出てこない。
そんなわけで、お見苦しい写真を晒してしまう次第。どうかお許しを。

RU

(22:53)

この記事へのコメント

1. Posted by 鉄道青年   2016年08月29日 19:46
北海道に行きたい、
って考えたとき、上野発の夜行列車で連絡船に乗換えて…、という手順以外は思いつかず、そのことが全く当たり前だった、という世代は、ひょっとしたら私たちが最後に近いのではないだろうか。
早く場所をとらないと横になることのできない3等船室や、デッキから見る桟橋、売店や階段の様子なんか、今でもかなりリアルに思い出せます。でも青函連絡船は、あくまでも“移動手段”でしかなく、趣味の対象ではありませんでした。だからこそ洞爺丸のはなしは、知識としてはあったものの、このようなリアルな物語に初めて接してすごくショックだったのです。感想はRUさんと全く同じです。

ちなみに、youtubeで “青函連絡船最後の蒸気船十勝丸” という動画があります…
2. Posted by RU   2016年08月30日 22:27
うん、そうだよね。飛行機はまだ高嶺の花で、手が届かなかったと思う。それから思い出したんだけど、売店にはいつも崩れ落ちそうに商品が並べてあったんじゃなかったか。いや、子供目線だからそう見えただけかな。
あと、本のことで思い出したのは、冒頭に織り込んである台風の進路図。なんでこんなものが、って最初思ったけど、読み進める内に何度も見返していました。

RUも連絡船は趣味の対象にはできなかった。声をかけられて、懐かしさに皆さんについていっただけのことでした。
でも一度でも撮影しておいて良かった。

十勝丸見た。すごい、カラー映像とは思わなかった。洞爺丸台風で沈んだのに復活していたんですね。知らなかった。だけど撮影している人、ちゃんといるんだね。

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