ナロー

2013年08月10日

待ち時間

1983-11 戸叶

葛生を思い出したついでに、そのときの記憶を書いておきたい。
ここには確か2回訪問している。
当時ナローのKATOといえば、RUの中では大阪の住金かここが代表格、聖地のようなイメージだ。
だからどうしても訪ねてみたかった。
しかし、電車で行くには同じ関東といえど葛生は遠い。しかも戸叶は駅からバスを使わなければならない。
確か村営バスだったような記憶があるが、一緒に行ったYUZZUさんがありがたくも調べてくれたはずだ。
日に何本もないようなバスだったが、おかげで無事鉱山についた時には本当にホッとした。
前後するが、途中の東武線は料金のかかる優等列車など乗るわけもなく、ひたすら7800の
吊り掛けサウンドに揺られていった。葛生駅の佇まいなど忘れていることばかりなのに、
7800系に揺られた時間が長かったことがなぜか記憶に残っている。よほど退屈だったんだろうなあ。

写真はUe-menさんと行った2度めの時のもの。
このときはあっさり撮影許可が出たものの、軌道まで登ってみたら肝心のKATOがいない。
聞けば2両とも坑道内にいるらしい。一瞬解体されたかと慌てたのだが、まあ一安心。
だが、この後待てど暮らせど出てこない。仕方がないので、待っている間に行きの車内で聞いていた
「No Damege」の巻き舌で聞き取れない歌詞を二人で分析して、ひたすら暇をつぶしていた。

今の「2人で100曲」の原点というべき写真なのかもしれない。



(20:19)

2013年07月18日

ニチユ2


2012-11 那珂川清流鉄道保存会

やや旧聞になりますが、最近話題の那珂川へ昨年11月に行って来ました。
「例の本」の最後の方に、あと3年早ければ木曽を走っていた姿を拝むことができた、というような
衝撃的な短い文章が添えられた、あの水中メガネのような関電KATOのことを覚えている方も
多いことと思います。そのKATOがキレイにレストアされたと報じられていたのですから、これは
見に行かねばなりません。

いつも世話になっているUe-menさん(30年来の友人)を無理やり付きあわせて、いつものように
早朝に出発です。助手席に座ってもらってナビをお願いしての往復は本当に楽しかった。
車内では当然往年の曲が流れます。ランダムにかき集めた曲をエイヤってCD-Rに焼いて
持ち込んだもんだから、アルファベット順に曲が並んで、それがまだほの暗い早朝の車窓に
流れていきます。なんだか30年前に村樫戸叶のKATOを訪ねたときの光景がオーバーラップして、
懐かしい気持ちになりました。
あのときは54分のカセットテープに入った「NO DAMEGE」だったなあ。

本題の車両のことですが、まあ産業用の内燃機関車がこれほどたくさん並んでいるとは
思いませんでした。それも皆キレイに手入れがなされているんですから壮観の一言です。
さて、関電KATOをはじめとするメジャーどころの紹介などできませんので、個人的に
思い入れの深いニチユに注目です。KATOの隣にいても興味を持って目を向ける人なんて
まずいないでしょう。不憫な存在がなおさら気持ちをかきたてます。(我ながら危ない・・・)

最後の姿を辻堂で見て以来早10年、よくぞ残っていたと思わずにいられませんでした。
そういえば辻堂の時代、この機関車の来歴を調べようと会社の方に尋ねたら「住金から来た」
との言があって、軌間2ft6inから尼崎(当時の鋼管製造所)から来たと推定したことがありました。
この推理はおそらく正しいのではないかと思われるのですが、辻堂に居たもう一両の
(ほぽ)同型機に関してはこの定説?を覆す新発見(個人的にですが・・・)があったりもして、
決して器量が良いとはいえないこの機体にも、それなりのドラマがありました。  

※一言だけ言わせてもらえれば、塗装のオレンジ色は明らかに黄色味不足。
それとエンジンまで緑色にすることもなかったんじゃないかなあ。
もうひとつ、キャブドアのHゴムを塗装しないで欲しかった・・・
最後に、前述の「ほぼ」同型機が昔、辻堂の構内でトラッククレーンで釣り上げられたことが
あって、そのときの重量が7,801Kgだったとメモがあります。
もしかしたら保存会HPの自重6トンは小さすぎるかもしれません。

RU

(23:58)

2012年06月26日




“通ってみたくなる学習塾” でRUさんが表現された、シュールで現実味の希薄な光景、正にRUさんの精神世界をかいま見るようです。

実は私もあの軌道は一度見に行っています。
RUさんの世界を台無しにしてしまうかもしれませんが、皆様機関車を見ていないようなので、コメントとしてあえて書かせて頂きました。

JR大船駅の改札を出て、階段を下りたところでいきなり目に飛びこんできたバッテリー機関車です。
トモエの2 t 機ですが、あまりに非日常的なシュチュエーションですので、通行人には単に工事現場の発電機やコンプレッサーにしか見えない、というか、全く気にもとまらない存在のようでした。




次にこれ



これは、“沿線” の確か駐輪場の建物に上がって、午後の列車撮ったものです。
重そうな平トロに巨大なH鋼を載せてゆっくりとやってきます。推進運転です。

改めて写真を見るにつけ、工事用とはいえ、このような町中にいきなり出現して消えていった軌道があった、ということが何だか不思議ですね。
撮影は2002年の10月です。

〈鉄道青年〉




(19:59)

2012年06月25日

工事2

2002年10月 大船

2002年の出来事と言ったら自分の中ではつい最近のことに思えるのだが、
気づけば軽く一昔前になってしまっている。最近の時間の経過の速さは恐ろしいほどだ。
写真はそんなちょうど10年前の2002年当時に行われていた、とある河川改修工事の様子である。
現場にはトンネルなどないのになぜか軌道が使われていた。

工事現場は大船駅西口の駅前すぐを流れている柏尾川の改修工事で、軌道を使った工事は
その中のヒトコマだったようだ。
この工事軌道の存在はyuzzuがメールで教えてくれたのだが、その文面には
「川沿いの狭い通路に線路が敷かれていてBLが使われている」という驚くべき情報が書かれていた。
こんなすごいネタを仕込まれてジッとしていられるわけもない。
その週末早速訪ねてみたのだが、残念ながらその日の工事は休みだった。
人がいないので活気がないのがちょっと寂しいのだが、工事が行われていたらおそらく
軌道敷に立ち入るどころか、近寄ることもできなかったはずだから、
休工日に訪ねたのは結果的に大正解だったろう。

軌道は3線式の軌框構造で、実際に車両が動いていたのは左側を使った軌間約500mmの方。
外側の広い方は大体900mmだった。いずれもメジャーなどを使った実測値ではなく、
RUの履いていた靴で判断した(!?)ものだから極めてアバウトな数値である。
(※RUのレポートはいつもこの程度のレベルですので、くれぐれもご注意ください)
BLはトモエ電機製のものだったらしいが、シートをかぶっていたためRUは実見していない。
貨車は荷台が長いものが一両、棒連結器のようなものでつながっていた。
軌道沿いに鋼矢板がおいてあったから多分こいつを運んでいたのだろう。

軌道が敷設されていたスペースは普段は川沿いの歩道として使われているところだった。
そのコンクリート路面にまず厚鋼板を敷いて、その上に石材が盛りつけられてさらに軌框が並べてある。
軌道はそんな構造である。

さて、軌道が走る道は普段は歩道だから、道に面して学習塾や斎場などの建物が建つなど、
ごく普通のどこにでもあるような市街地の光景が展開されているのだが、
そこにある日いきなりトロッコが走るレールが出現するのである。
学習塾からいつものように家路につこうと生徒さんが階段を降りると、そこにはいきなりレールが!おお!
もう毎日軌道を踏みしめて、BLを横目に通うことができるんだから、なんてうらやましい学習環境だろう。
ああ、オレも通いたい(笑)こんな素晴らしい場所で学習すれば優秀な人材に育つだろうなあ。

なんてことは実際あるわけもなく、学習塾の裏口には角材で通行止めがなされていて、
トロッコレールと学童という文学的世界は実現しなかったと思われる。

この撮影のあと、工事の進展とともに程なく軌道は撤去されてしまった。
軌道を紹介していたサイトも以前は散見されたのだが、それもいつしかなくなってしまったようだ。
趣味者の中で話題に登ることもやがてなくなり、我々の記憶からも消えて行くのだろう。
工事軌道とはそうしたものなのかもしれない。

RU


(00:01)

2012年04月25日



1985年11月 水谷近傍

初めて立山砂防軌道を訪ねてから3年が経ち、山の頂きが白くなる頃に、
私はようやく18段スイッチバックの上に立った。

思えば筆者がナローを追うことが出来た学生の頃、ちょうど82〜85年は
誰もが産業用軌道にのめり込んでしまう、そんな出来事に溢れていたような気がする。
個人的に起きた出来事がそう思わせるのかもしれないが、
国内各地でこうした軌道を見ることが出来たとても恵まれた時代であったことは間違いない。
立山砂防軌道訪問から始まり、入川での工事軌道の復活、関東特殊製鋼との出会い、
円高に苦しんでいたけれど国内各地の非鉄金属鉱山がまだ輝いていたころ。

しかし、なによりも大きかったのは、yuzzuなどのこの道に長けた多くの仲間と
同じ時を過ごすことができたことだろう。毎週のように各地へ出撃した仲間から寄せられる情報は、
インターネットなどが存在しなかった当時にあってこれ以上にホットなニュースはなかった。
寄せられた情報によって、まさに消えんとしていた軌道や車両に、タッチの差で間に合った例などは
枚挙に暇がない。

そんな3年間を送った後の85年秋、水谷を訪ねる機会を得たのだった。
今考えても私は本当に幸運だった。

11月初旬、早朝の山上ともなれば気温は氷点下まで下がり、水たまりには厚い氷が張っている。
近くの林道脇の木々には見事な霧氷もおりている。
紅葉はすでに終わりに差し掛かっているとは言え、その眺めは素晴らしいとしか言いようがない。
肝心の砂防工事の方もどうやら終わりに差し掛かっていて、
水谷では冬に備えての撤収作業がたけなわを迎えているようだ。
事実、休日にもかかわらず軌道車は運転されており、
山を降りる車両にもたくさんの荷を載せているのが見える。

時計が午後3時をまわって、まもなく山を下りてくるはずのSKWを待っているときのこと。
一陣の強い風に吹かれて、たくさんの色づいた葉が谷を目指して舞い上がり、
一つの流れとなって次々と逆光に輝いていくのが見えた。
そんな何気ない光景なのに、不意に砂防工事も、秋の穏やかな陽差しも、
そして軌道を追うことが出来る自由な時間も、すべてが急ぎ足で遠ざかっていくような気がした。
突然なぜそんな感情がわき出してきたのか。戸惑い、混乱する心を整理できないまま、
傍らを通り過ぎていく軌道車たちに夢中でシャッターを切るしかない。
やがて訪れる”冬”を、私はとにかく忘れたかったのかもしれない。

RU

(23:20)

2011年04月06日


 
1983-9-18 新日鉄釜石 協三工業21トン機 

 写真は言わずと知れた新日鉄釜石製鉄所のナローDLである。
 今般の震災で、当地も津波で大きな被害を受けたと聞く。新日鉄も同様に津波の被害を受けたはずだ。

 一般に大企業でのこうした写真撮影は端からご法度である場合が多い。何気ない光景であってもノウハウが含まれていることがあり、流出によって大きな損害につながる場合だってあるかもしれない。
 だから大きな工場の中にナローや移動機がいても、撮影できずに残念な思いを何度もしてきた。こんな経験はこの世界に足を踏み入れた人間ならだれもが味わっているに違いない。
 しかしこの工場は違っていた。
 
 この日は陸中大橋の鬼が沢橋梁での撮影のあと、釜石にやってきたのだった。釜石駅は古い2階建ての駅舎で、おぼろげな記憶では日本食堂のレストランがあったと思う。そんなことを記憶しているのは空腹を我慢していたからなのかもしれないが、さすがに食事までは記録していない。
 客待ちのタクシーが並ぶ駅前を出ると、新日鉄の構内を隔てる長いコンクリート塀が続いているのが目に入ってきて、いやがうえにも気分が高揚してくる。と同時に、こんなに大きな工場で撮影がゆるされるのだろうか、という思いも湧いてもくる。
 そんな弱気が首をもたげながらも、とりあえず塀に沿って海方向に向かって歩いて行ったのである。

 前方にまだ未成線だった三陸鉄道の鉄橋が横切るあたりに来ると、前方にナローの線路が構内に引き込まれていく一角に出た。そこには守衛所があって、自転車に乗った従業員も出入りしている。他に、ひと山越えたところに伸びた線路を俯瞰で撮ることもできるポイントがあると聞いていたが、徒歩で来ている筆者にとってはほとんど唯一のポイントだったろう。

 ダメもとで来意を告げようと守衛所に近づくと、すでに建物から出ていた守衛さんのひとりが「写真だろ?早く撮れ撮れ」と声をかけてくれるではないか。まったくもって予想外だった。
 掲げたこの画像などは門の外からではなく、構内(といっても4〜5メートルほどだが…)に踏み入って外に向かってカメラを向けたものだ。こんな撮り方を許してくれるとは思いもしなかった。
 某鉄鋼メーカーでは、公道に出た機関車にカメラを向けてもマイクで「撮らないで!」と大音量でやられるというのに、釜石のこの親切な対応は一体何なのだろう。
 東北の暖かさが思わぬところでささくれた心に染入ってきて、忘れられない記憶になった。

 温かく迎えてくれた新日鉄釜石製鉄所。
 もうナローは消えてしまったと聞くけれど、地域の復興の中心となるべく操業復旧が一日も早く実現するように祈るばかりだ。

RU


(22:52)

2011年01月18日



1983年9月13日 日鉄鉱業尻屋鉱業所

 どうしてあのとき東北へ行こうと決めたんだろうか。
 確かに魅力的な被写体が溢れていた。二枚橋の移動機たち、陸中大橋のオメガループ、日本粘土、日鉄尻屋、鹿瀬電工、南部縦貫、弘南鉄道…
 でもなにかきっかけがあったはずだ。もうすぐなくなるとか、期間限定とか、そんな背中を押してくれるなにかが… でももう思い出せない。

 まあ、そんな細かい愚痴めいたことで書き始めてみたが、とにかく東北という土地が筆者は大好きである。今も職場のメンバー中に東北人が数人かいるのだが、みんなとにかく悪意がない。人がとても良いのである。難しいことを考えるのが苦手な筆者にとって、それは安心して心を許せる相手となる。
 一方で食べ物も素朴で味も濃く、これも筆者の好みにぴったりくる。きりたんぽにも夢中になったし、牛タン、山形の板そば、マイナーなところでは鯵ヶ沢のいかの一夜干しはうまかったなあ。
そんなわけだから仕事で4年半暮らしたときも、住みやすかった印象が強い。
 初めて家庭を持った土地でもあるし、そういえば長男も東北人ということになる。難点を挙げるとすれば、寒かったことくらいかな。

 残念ながら永住することは適わなかったけれど、そんな縁を結ぶきっかけになったのかもしれない83年の秋、筆者は東北に向かった。
 このときのことはもうすでに何度かブログに書いている。最初に訪ねた日鉄尻屋や、南部縦貫鉄道など、みんなこのときに訪ねたものだ。一部書き込みがダブる部分があるかもしれないが、どうかお許しを頂きたい。
 その他、このとき撮影したネガの中にたくさんの愚にもつかないカットが並んでいる。こうした絶対に日の目を見ることのないコマでさえ、時を経て懐かしさだけは出てきたような気がする。

 申し訳ない。いま少し筆者の懐古趣味にお付き合いいただきたい。
 旅は9月12日夜、上野発急行「八甲田」オハ12-273で始まる。

RU

(23:37)

2011年01月05日



無沙汰しております。
ここに何回か登場していたかもしれない。70年代の鉄道ファンの
連載記事の一つに「こっそりひっそりめだたずに」叙情的な連載が
あった。
その中で地味なテーマに伊豆の金山跡(縄地金山)が紹介されていた。
残念ながら既に“跡”の言葉が示すとおり既に廃坑になっていて「岩礁に飛び
出たレールが非常に芸術的な配置である。」という筆者の想いがこめられた
記述であったと記憶する。詳細な表現は忘れてしまったが、他の連載記事が
現役であるのに対し、何故かこの記事だけが廃坑であることが私の心に
強い印象をあたえなかった。

昭和58年、私とRU、Ue-menと他1名の4名で写真の坂越大泊の金鉱山を
訪問した。写真にあるとおり瀬戸内海を見下ろす高台に坑口があって、
金属鉱山にしては珍しく海を背景した写真を狙えた。
突然の訪問にもかかわらず、我々を暖かく迎え入れて
いただいてわざわざ坑内にいたBLを出していただいた。当時
も対応が二分されていて門前払いか恐ろしく対応よく見せて
いただけるか。大企業の鉱山は前者、中小の鉱山ほど後者だった。

金山というと、バカスカ坑内を掘り進むというよりは、小さな
集落の端っこで細々と・・・という印象があった。栃原にしても
佐渡にしても。だから人知れず古い方式による金属鉱山の採掘が
進められていた。ただ九州の金鉱山はスゴイみたいだけど。
従って、“金”というステータスが高く、成金のイメージとは裏腹に
産出現場は質素だなぁという印象。
つまり、冒頭の廃坑にあるように自然に従った線路配置は極めて
美しい側面を見せている“等高線理論”にかなっているのだなぁ。
小規模な金山であるとともに海という背景と、過去のものになって
しまったという時間軸が「ひっそり」しているなぁ。

はたして、西部劇に出てくる金の鉱脈を探すため一攫千金を夢見て
西部開拓の旅に出る。なんてウソッパチじゃん。
この後に、金属鉱山は猛烈な円高によって海外からの安価な金属
が流入し壊滅的な打撃をうけてしまう。まだまだ稼動いている鉱山
に対しては今の円高をなんとか乗り切ってほしい。

<yuzzu>

(01:31)

2010年06月06日




2008年3月

 今日ふと脳裏に浮かんだのは、もう忘れかけていた曳鉄線のこと。
 その日は朝方はちょっと寒かったけれど、陽が高くなるにつれて小春日和のようなおだやかな一日だったと思う。いつもの3人で出掛ける鉄は心和むものだった。

Yosaku508さんのガイドで道なき道を進んで辿り着いたのは鉄橋のたもと。
連なって黙々と働くトロッコ達に、我らも無言でカメラを向ける。いや自分だけが無言だったのかもしれない。とにかくひたすら流し撮りを続けていて、周りが見えていなかった。それほどに打ち込む何か熱いものを感じたんだと思う。気が付くと2GBのCFが溢れんばかりだった。

 このときの鉄は奥多摩から秩父を掛け持ちする、結構贅沢なモノだった。そうそう武蔵白岩にも行きましたね。私はこのとき秩父は初体験。これ以後通い込むとは思いもよらなかったなあ。

 この日の午前中、途中まで乗ってきた「ホリデー快速奥多摩」を乗り捨てた福生のホームの先端。あの頃はまだ喫煙コーナーがあって、愛煙家(Yosaku、Ue-men両氏)の二人が気持ちよさそうにしているところで、「今度4人でブログ作ってみない?」と予てから暖めていた構想を話したのもこの日。断られたらどうしよう、なんて年甲斐もなくドキドキしたのを昨日のように思い出す。
 
 あれから早いもので2年が経過。ご愛顧感謝致します。

 YUZZUさんへ。あのときの思いは変わっていません。なぜって、このブログのもうひとつの「目的」をまだ果たせていないんです。皆さん今後とも宜しくお願いします。

しっかし、オレ流し撮り下手だわ。

RU

(00:47)

2010年05月28日



2007年12月 醸造所

先日列車に乗っていた時の事。
最近は女性車掌が多く、その時も声は小さいものの
立て板に水を流すような社内放送が流れていた。
後ろに座る数人の老女性グループの一人が何気に
「やっぱり男の人のほうが良いわよねェ」とのセリフ。
グループのほかの人は誰も反応していなかったが
エって思ったのは、私だけだったのかなぁ。

いままで日本に鉄道が走り初めてから運転手も車掌
も全て男社会で誰もそれを否定しなかった。子供の頃
真似した車内放送は、当然あの鼻にものを詰め込んだ
ようなしゃべり方と妙に甲高いけど歯切れの良い口調は、
けっして女の子はマネしなかったものだ。それは夜行
列車であろうと新幹線でも国電でも地下鉄であろうとも。
何故か共通のものだった。それが最近失われつつある。
時代がそうなったと言う物なのか・・・・

このブログでも紹介したが私は20年ほど前中国を旅した。
そのときにその地で働く多くの女性を見た。勿論バス
ガイドもいたし、列車長みたいな車掌もいたし、車内放送
も女性がやっていた気がする。しかし、そこに働く彼女達
はどれもたくましく、割り込もうとする乗客があれば怒鳴
り散らし、荒っぽい運転する併走する車であればバスの
ボデーを激しく叩いて声をはりあげて罵倒していた。素直に
力強い印象だったと記憶する。従って車内放送に関して言
えば男性女性関係なく優しい声の向うに力強い印象があった。

JR東海は車掌が女性の割合が比較的高いと感じている。
が、出張のおり夜10時過ぎの岐阜ゆき下り快速に乗車した
時は男性の車掌だった。ちょうど117系のやや古い車体に
男性の声である。お客もまばらな静かな車内に男性の車掌の
声がよく響いていた。何故か不思議な安心感と先日聞いた
老女の言葉を思い出した。好みの問題で言えば私は女性の方が
良いと感じるのだが、少し不安を感じている時には、どっしり
とした男性の声というのも安心感を与えるものなのだなぁと
気がついた。
ただそれだけなんだけど、時代とともに変わってしまう。
写真はおそらく何十年も変わらない光景なんだろうなぁ。

<yuzzu>

(23:43)