地方私鉄

2018年07月02日




1983-9 坪川

当時の仲間内で、蒲原鉄道とならんで訪問者が多かったのが南部縦貫鉄道。
RUはガチガチのローカル私鉄信者というわけではなかったが、南縦の魅力を熱く語られるうちにその気になってしまい、83年秋の東北行の訪問先に加えている。

その日は残暑厳しい天候だったが、坪川でレールバスを降りた後いくつかのポイントで撮影しながら、結局七戸まで歩く、という割と真面目な鉄だった。途中あまりの暑さに音を上げ、昼間の列車がこない暇つぶしを兼ねて、天間林駅のすぐ裏にあった天間林温泉へ突撃。いや〜、ありゃ気持ちよかった。

さて、冬はとてもじゃないが渡れないと言われた坪川の鉄橋も、ぜひ見てみたかったポイントの一つだったが、行ってみたら線路の間に渡り板がないではないか!その上、枕木はやや丸くなりかけていて、おまけに間隔が一定ではない。冬に比べて好コンディションだったけど、すぐ近くに国道の橋があったことも手伝って、とてもじゃないがRUは渡る気になれなかった。
この上カリカリに凍結する冬に渡れなかったからと誰が責められようか!

写真は83年秋の坪川駅である。お孫さん?を連れた女性が列車を待っていて、下り列車に乗り込んでいったが、普通に駅として機能していることに心強さを覚えたことだった。
しかし、坪川から野辺地に出るではなく、下り列車で、一体どこに行ったんだろうなあ。

※間隔が空いてしまいましたが、久しぶりに再開、のんびり更新していく予定です。

RU


(00:10)

2015年07月03日

いずっぱこ

1982-8-8 大場

初めての関西行は大学1年の夏だった。

大学に入って、とある鉄サークルに所属したRUは、そこで今でも親交のあるYUZZU氏と知り合うことになる。この歳になっても濃い鉄分にまみれることができるのも彼のおかげである。
そしてこのサークルで知り合うことがなければ、ただでさえ遅い関西デビュー(もう死語?)がもっともっと遅いものになっていたはずだ。感謝しなければならない。
彼が誘ってくれたのか、頼み込んだのか、もう正確な経緯は忘れてしまったのだが、この年の夏に関西にあった彼の実家に泊めてもらうことになったときのうれしさは、今でも忘れられない。

京都、奈良には中学の修学旅行で訪ねているが、大阪、神戸はまったくの未知の世界。
3都を結んで延々と続く方向別複々線や、ホントに私鉄か!と鉄Fに穴が空くほど眺めた9線がずらりと並ぶ梅田駅の写真。南海こうや号、117系新快速、阪急6300系、阪神ジェットカーなどなど、個性溢れるすばらしい車両たち。
実際の鉄路にはどんなシーンが待ち受けているのかと、あのときの膨らむばかりの期待感。
今の年齢、時代背景ではもう絶対に味わうことなど出来ないだろう。
それほどに待ち焦がれた関西行だった。

さて当日、といっても細かいところはまったく覚えていないが、確かこのときは白子にご実家のあった某先輩も里帰りを兼ねて、途中まで我々と行動を共にすることになり、とても賑やかにスタートを切った。その後定番になるのだが、途中で連結解結を繰り返す昔の国鉄DC列車を彷彿とさせるような旅は、適当に緩くて、アバウトで、自由そのもの。なんとも居心地の良いものだった。

さて、関西なのになんでイズッパコなんだ?と疑念の声が聞こえてきそうな掲げた写真。
ちょうど旧国崩れサヨナラ運転のタイミングにピッタリだったこのとき、3人で行き掛けに立ち寄った際のヒトコマである。サヨナラ電車を見ての印象は「飾り付けのないときに行きたかったなあ。」

この後の記憶は飛んで飛んで富士駅のもの。
ご記憶の方もおられるかもしれないが、富士川鉄橋が流出したのが1982年8月2日。その6日後に東海道の鈍行を乗り継いて通過していたのである。なんとも学生らしい無鉄砲さだが、このとき上り線単線で上下交互通行を行っていて、さすがに富士駅でかなりの時間待ちぼうけを食ったと思う。そのときの富士駅の構内は、発車待ちの貨物列車の車列で、側線という側線がほぼ埋め尽くされていた。車扱い貨物が全盛のこの時代、大動脈だった東海道線が単線運転になってしまう影響は、今の比ではなかっただろう。

残念ながらそのときの富士駅を記録した写真はない。

RU

(23:04)

2015年04月03日



1983-8 福井駅前

 最近人名が出てこない。20年くらい前のマイナー芸能人の名前はすんなり出てくるのに、
ヘタすると仕事上関係の深い同僚の名前、それも苗字が出てこない、なんてこともある。
ヤバイ・・・
年のせいだと片付けられない、本当に戦慄するようなド忘れが最近よくある。
何かの予兆でなければよいのだが、まあどれも仕事上のことだから(だからそ大変だ、という
意見も確かにあるが・・・)どこか諦めのつくことでもある。

しかし、最近になって大切な鉄の記憶がなくなっているのに気がついた。
学生の頃のネガは、その全てに撮影年月日とコマ毎の撮影場所が書かれた細長い紙が入っている。
マメに記録を残していたのはいいのだが、今読み返してみると本当に自分が撮影したのか、撮影した
状況はどうだったのか、一本丸ごと記憶が無いネガが出てきている。

日付から、当時所属してたグループの合宿が雨晴の民宿で催されたときの、北陸早周りのヒトコマ
であることは想像がつくのだが、福井鉄道と京福電鉄福井口車庫での記憶が全くない。
立山砂防と富来金山の記憶ははっきり残っているのに、なぜなんだろう。
この写真も福井駅の近くであることは大体判るのだが、それ以上は???
右にある西武デパートらしき表示をgoogle mapで検索し、ようやく場所を特定する始末。

大切な趣味の記憶が無くなっていくのは、無性に寂しい。

RU

(21:23)

2015年01月12日



2014年12月 江ノ島〜腰越

私事だが昨年秋、カメラを更新した。
10年使ったEOS20Dに、シャッターボタン接触不良、露出不良、ピント不良などなど、
様々な不具合が断続的に発生するようになり、止むに止まれぬ更新なのだが、
買い替えてみてまず驚いたのが高感度側の容赦の無い進歩だ。
前のカメラは上限ISO1600。フィルム時代から比べれば大きな進歩だったが、ザラザラの
粒状感に思わず封印、以後滅多に使うことはなかった。
だから常用はせいぜいISO400まで。これじゃフィルムカメラと撮り方はさほど変わらない。
相変わらず三脚を立ててスローシャッターを切る状況である。

ところが、新しいカメラではなんと上限がISO25600!
夜間でも余裕で手持ち、それも昼間のように明るさが得られるではないか。
粒状性も信じられないほどの改善である。
そんなカメラの進歩に思わずハマってしまい、夜景、それも雨の日の夕刻を狙うように
なった。我ながら物好きなことなのだが、観光客が多い江ノ電ではカメラを向けることが
憚られる場面が多く、人出が少なくなる悪条件が却って好都合だったりもする。

ただ、この日の雨脚は強くなるばかりで、豪雨寸前。おかげでレンズは濡れて画像は
ボケボケになる始末。自然相手にそうそう都合良くいくわけはない。

RU

(13:08)

2013年07月03日

君ヶ浜

1982-10-31 君ヶ浜

やけに懐かしい光景だなあ、と思ったらRUも撮っていた。
確かこのときYUZZUと一緒だったんじゃないかなあ。後一人はKAPPA氏だったかな。
創立◯周年の花電車が走っていて、犬吠で撮った記録が残っている。
もう電車全身、花、花、花、で驚いた記憶は鮮明。

松と言われてイメージするのが、小学生の頃によく遊んだ近所の公園墓地。
きれいに手入れのされた芝生に板の切れっ端を持ち込んで、芝スキーを慣行、
庭師に追っかけまわされたりしていた。
その芝生の丘の中腹に大きな松の木があって、松ぼっくりがたくさん落ちていた。
でも変わり者のRUの目当ては松ぼっくりでも木登りでもなく、そこにいた巨大なアリ(クロオオアリらしい)。
こいつらが樹皮の割れ目を出入りするのを飽かずに眺めていた。

なんだかつまらない個人的な思い出話で恐縮。
次のお題はもしかして「竹」?それとも「桜」かな?

RU

(23:36)

2013年06月28日



1983年 4月29日

最近の話題で、ユネスコの世界遺産に美保松原が登録されたそうでメディア
が嬉しそうに報道していた。
さて、最近の鉄の写真を見ると景色の写真に松の写真が本当に減ってしまった
松喰い虫の影響か日本中の松が激減してしまったと感じているのは私だけか?
筆者が子供の頃よく遊んだ境内には大きな松が数本あって、松ぼっくりが
いつもゴロゴロしていた。それを投げて遊んだり、枯れた松の葉っぱで二股
になった所に引っ掛けて引っ張り合って遊んだり、松の種はクルクル回転
して落ちるので竹とんぼが作れない幼い子供には良い遊び相手になってくれた。
松の樹皮はうろこ状になっているので木登りには好都合だった。斜めに
生えた松に登るのは私の十八番だった。

ローカル私鉄を歩いていると必ずホームに松が自生している駅が2つか3つ
あったと思う。古い映画を見ると必ず旅役者と一本松がお決まりのワンシーン
で出てくる。つまり、旅イコール松・出発という印象がある。
そう日本の原風景にはどこにでも松があった。というより松が必要なの
かもしれない。しかし、残念なことに松を見ることが珍しくなってしまった。
いつの間にかホームから松が無くなってしまった。

このまま、松の景色が消えてしまうのだろうか?美保松原で松の景色が
見直されているならば、もっと植林としての松が増えて欲しい。
震災の一本松も良いが、オブジェの松ボックリもない松では寂しい。
銚子電鉄の君ヶ浜だったっけ。この松は元気かなぁ。

<yuzzu>

(23:40)

2013年05月17日




先を越されてマークの写真を出されてしまったなぁ。
実は汽車会社のDLの正面についているマークを参考にさせてもらった
旨書かせてもらった。その参考にしたのがこの写真である。確かどこかの
鉄道雑誌に掲載されていた汽車の二つのわっかとKSKの文字が絶妙な
バランスで目に焼きついてしまった。
そして特に気になったののがこの剣道の面のようなメッキされた
フロントグリルである。昭和20年代後半から30年代前半、さかんに
無煙化のため小型DLがいろんなメーカから作られていたが、どうも
デザインが産業ロコの延長線のようでレールの上を動く機械という
風体だった。
しかし、この汽車の作るDLだけは一味違う印象である。
角は大きくRを取ったボンネットに上すぼまりのキャブ。そして
フロントグリルとKSKのマークである。当時の国鉄も洗練された
スタイルにDD13をはじめとして多くの国鉄の凸型DLは汽車タイプの
キャブが標準タイプになってしまった。(と思う。)
象徴的なのが安達模型から出ていたHOの入れ替え用の小型DLの
模型がこのL型3軸ロッドの汽車製DLだったと思う。当時
産業用機関車が模型化されることは大変少ないのに
あえてこのDLが製品化されたということは、このタイプの汽車は
けっこうファンが多いのではないかと個人的に思っている。

話を戻すと、私はどうしてもこの汽車製のフロントグリルのメッキが
気に入ってしまって“汽車会社”というとあのメッキグリルがないと
密かに「コリャKSKとは言えないよな」と心の中でつぶやいていた。
岡山臨港にも当時まだ生き残っていた102号は本当にホレボレ
するほどカッコ良くて理想のDLの一両だった。
が、訪問したおり肝心の102号が庫の奥にいてマトモに写真が撮れず
悔しい思いをした。でも手元には庫の奥でブレブレのフロントグリルと
ヘッドライトがかろうじて写っているのがある。
やっぱり撮りたかったんだよね。

<yuzzu>

(01:42)

2013年04月26日

土山


1984-1-31 土山

おくゆかしいHMの作者に成り代わりまして、掲げておきます。
RUはさり気なく右サイドにオフセットされた日付が、そのレタリングとともに
好印象でした。本当はカラーでお見せしたかったんですが・・・

写真からも判る通り、廃止当日ゆえ、おなごり乗車の地元の方、カメラを持った
子どもたちなど、一般の人が大変多かったようです。
賑やかだったけど、この間の渋谷駅に代表される、怒号渦巻く鉄集団とは違って、
どこか温かみのある見送りだったように思います。

RU



(00:15)

2013年04月06日

最後の夜2

1984-1-31 別府機関区

言葉はあまり浮かばない。
さよなら列車の最終が帰ってきて車両達が庫で
休んでいる。この翌日にはハフ7が相鉄に向けて
旅立ってしまうから別府として勢揃いした最後の夜。

マークをはずしに行った時に特別に入れてもらった。
横でNRCの仲間が同じようにシャッターをきっているハズ。
RUもYou-enてっどさんもいたんじゃないかな。
メンバーはハッキリ覚えていないけど・・・

<yuzzu>

(17:59)

2013年03月26日

明姫幹線

1984-1-31 中野

国道の陸橋の路肩で撮影していたらトラックに雪を盛大にぶっかけられた、との書き込みをしたが、
掲げた写真はそのとき撮ったものだ。初めて見るポジ画像を前に思い出したのだが、線路脇にある
小さな土盛りが確か中野駅で、周囲はご覧のとおり一面銀世界。列車は土山駅へ向け走り去る
ところである。

このときの出来事だったかは定かではないが、横につけた横断幕の打ち合わせ?の用事で、末期に
立ち入りが厳禁となった機関区へ、YUZZUやNさんらと一緒に入れてもらった記憶が微かにある。

まてよ、あれは夏だったかなあ・・・

1/31の経路を参考まで・・・
大阪−明石 快速網干行き モハ113-329
電鉄明石−電鉄別府 普通姫路行き 3065
別府港−土山 普通土山行き ハフ5
土山−別府港 普通別府港行き キハ2
電鉄別府−須磨 普通新開地行き 3604

RU

(20:55)