国鉄ディーゼル機関車
2009年09月26日
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2009年9月19日 上境・上桑名川
長男のクラスの保護者で合宿をすることになった。
場所は著者の父親の別荘、つまり木島平村である。
“せっかく行くんだから、またDD16走らないかなあ…”
冗談で飯山市のホームページを見てみると、なんと、走るのだ、行く日に…。
今回のイベント名は、“飯山線開通80周年” ということだ。
保護者達はみな大変よい人だ。
ただ、当然鉄道マニア、というものを理解はしていない。
でも、皆人生すでに後半に入った大人となれば、わからないなりに一定の理解は示してくれる。
そんなわけで今回も、3時間程この列車を追いかけることができた。
さて、どこで撮ろう…。
5月の運転の時のように、またおびただしい数のマニアが集まるに違いない。
ちょっとだけ落着いて見れる場所、ということで、“あの築堤” を見下ろす、下からではもろにフレームに入ってしまう、例の陸橋の上を選ぶ。(“あの築堤へ 9 ” 参照)
付近にはマニアは4~5人ほどしかいない。
刈入れ間近の田園、紅葉にはまだ早い山々、吹き抜けていく気持ちのよい風、変らずゆったりと流れる
千曲川…。何度来ても心安らぐ飯山線の風景である。
千曲川の対岸はるかに赤い点が見えてくる。
それは川に沿ってカーブする線路をゆっくりと近づいてくる。
“いいなあ…”
やがて編成が見える位置まで来た。5月の時は4両だった客車が今回は3両。
3両…。
たったそれだけの差ではあるが、なんと飯山線に似合った列車になることだろう。最後にスハフ32が付いてるところなんかも泣かせる。
列車は眼下のカーブをゆったりと回り込んで、一旦木立の中に消える。再び姿を現すのは、
もう “あの築堤” 。
高い位置から見ているので、そのまま千曲川に沿って右に大きくカーブしていくのをずっと見渡せる。
イベントだろうが、マニアが大勢いようが、もうリクツぬきで最高の光景だ。
さて、こんなパノラマに酔いしれたものの、押したシャッターの感触は何となく手応えがなかった。これまた昔からよくあること。
実際、家に帰って画面上で見ても、いまひとつぱっとしない。
ところが、である。
引き延ばす予定の全くなかったコマをやけになってトリミングしてみると、あら不思議、そこには想像もしていなかった素敵なアングルが現れた。それが今回の写真。
確かに通過前から、レンズを伸ばしたり引っ込めたり、画角を確認したはずなのだが、このアングルは気が付かなかった。
偉そうなことを言っていながら、そんなことにも気付かないとは私の感性もその程度なのだ、と実感。
実画面を20%くらいにトリミングしているので、いくら1000万画素のデジカメとはいえ、画面は完全に破綻している。光線もよくないし、手ブレも目立つ。
自己満足なのはわかってはいる。でもこれは私にとって、“あの築堤” で書いてきた飯山線のイメージをかなりの部分で具現化できたカットになったと思う。
何となく飯山線でDD16を見るのもこれで最後、という気がしているが、もしもまた見る機会があれば、私の文章を読んで頂いた皆さんで、今度は共に見送りたいと願う…。
<yosaku508>
(17:20)
2009年08月17日
1978年3月紀勢本線 梅ヶ谷-紀伊長島間
これも仲間内には恥ずかしくて見せていない写真なのだが
私が中学3年の卒業旅行として紀勢本線荷坂峠の初遠征での
話。早熟な皆さんとは違い本格的な鉄をするに至ったのは
中学の3年以降で、それ前までは上野駅で特急列車に群がる
カメラ小僧の一人だった。情報もなければ小遣いも行動力
も人脈もない“小僧”だった。
紀州遠征の一年以上前に鉄道ファン193号に掲載された宮沢
さんの記事「紀勢線の秘境紀伊長島付近」は初心な少年yuzzuに
とって刺激的すぎた記事で以降私の頭から離れないものになった。
熊野灘を遠く望むカラー写真は山深い緑の山並みに浮かび上がる
ように駆け抜けるDFがどんな特急列車よりも美しいと感じて
しまった。曰く「日本は列強諸国にくらべて国土が狭い。気の
遠くなるような諸大陸の広さは想像がつかないにしてもわずか
37.7万平方キロメートル程度の・・中略・・しかし、いっぽう
私達はその日本に住んでいてまだまだ国土の実態を知らないも
のだ・・・・・という体験を持っている」
という書き出しで始まり風光明媚なこの区間を秘境中の秘境と
もてはやし、yuzzu少年をおおいに煽り立てられてしまった。
ただ、記事は遠い紀州の路線。しかも親戚も誰もいない縁もゆかり
もない地域だし、自分が訪れるところでは無いと勝手に決めて
いたのだ。
そんな中、1978年高校の受験も終了しどこか旅行出来ないかな、と
考えた場所に真っ先に頭に浮かんだのは上記の紀勢本線の荷坂峠
だったのだ。意を決して親に相談してみると以外にもあっさり
OKしてくれた。夜行鈍行南紀を活用したプランだったが 初めての
遠征に胸躍る想いだった。
都会的な近代的列車より山並みを背景に行くローカル列車が私の
肌にあっているなぁと常々感じていて、特急列車やブルトレを風光
明媚な撮影地に訪問するのではなくて何故かDF50だったのだ。
当日は、鉄だけではもったいないと思っていたので熊野神社や
那智滝を見て紀伊長島に向かったと思う。
観光している時はすごく良い天気だったのに肝心の撮影地に
向かうとひどい曇天で今にも雨が降りそうだった。しかし、名倉川
橋にやってくるDLやDC達はどれも極めて魅力的だった。
そして狙うカメラは親父から借りたキャノネット。
これがシャッター優先なのは好都合なのだが、露出が解放値以下
になるとファインダーの下方からニョキっと赤い警告が出て
シャッターがきれないセレン式のオート露出だった。
恐ろしいのは微妙な暗さの時にシャッターを切ってみないと
きれるかどうかわからない時だ。走行写真はワンチャンスだから
ファインダーをとおして見る被写体が、ここぞっと思って
シャッターボタンを押した瞬間、ファインダーが真っ赤になって
「ウぉ〜っ!シャッターがきれないジャン!!うっそだろー」
って事が何回かあった。これはキャノネットで鉄を経験したこと
ある人なら何回かあるはずである。(オリンパスPEN-EEもそうだったっけ)
従ってシャッター優先とは言うものの、常にスローシャッター
を選択してしまう癖がついてしまったのだ。
その上シャッターストロークが長く、ボタンを1cmぐらいグっと
押しこんだ最後にようやくきれる構造は、重いカメラのわりに多量の
手ぶれ写真を作ってくれたのだ。当時一眼レフを懇願したが
結局全て却下され、それから2年の歳月を要して、ようやく
ニコンFEを掴んだ時は涙が出るほど嬉しかった。
言い訳させてもらうと当時バイトは校則で厳しく禁じられていて
内緒で校則を破った仲間がかなり手厳しく叱られていた。従って
発想すらできない状態だった。他県に鉄に出かけるなんて、なけ
なしの小遣いをフィルム代と現像代と鉄道雑誌に費やせば
“ありあえない”話で後年雑誌にのる方々が以外に若いのを知って、
「裕福なんだなぁ」と羨ましく感じていた。
とさんざん回り道してしまったが、そして狙っていた客レがなんと
重連で来たのだ。ところが雨が降りそうな曇天で遅いシャッター
を選んだのは前述のとおり必然である。
必死にDLを追いかけるその絵は中途ハンパな流し撮りになって
しまったのだ。でもyuzzuはとても満足していた。だってあの美しい
DFを目の前で名倉川橋で見れたのだ。生涯のワンチャンス。
私にとって選択肢はあのシャッタースピードしかなかった。
そしてあの橋梁へ
こんなに感動していたのに、結果はこれではなぁ。他の上手な鉄に見せたら、
なんの変哲もない手ぶれ写真。笑われてしまうのは必至なのだ。
私にとって初めての遠征の酸っぱい思い出・・・・・
<yuzzu>
(22:38)
2009年07月03日
1972年1月 長野 C56 130
1971年。
私は、港区立青山小学校3年2組に在籍していた。担任は山口先生。
その同じクラスに、秋葉ヒロユキ君という男がいた。
最初からそうだったのか、あるいは私の影響だったのか、記憶はないが、とにかく彼もまた、蒸気機関車の写真を見れば喜んでいられる人間だった。
当然私達は仲間になった。
放課後、彼の家に遊びに行っては、手に入れた写真を並べては、機関車個々の形態について熱く語り合う。
同じキューロクなのに、ナンバーの最初に付いている “2” はどういう意味なのだろう?。煙突のある位置にのっかった、このハコは何なのだろう。“C54” という機関車の写真だけ無いから、そういう機関車はやはり無かったのだろう…。
とにかく来る日も来る日も汽車の写真ばかり見ては喜んでいた小学生達だったのだ。
これを書いていて思い出したのだが、秋葉君と二人でクラスに、“機関車部” なるものを立ち上げた。
何をしたか、と言えば、メンバーそれぞれに機関車の型式を与えただけのこと。ちなみに私はD51、秋葉君はC62。何故か女子も入っていて、小さかったからB20にした記憶がある。
ある時、そんな秋葉君が、家族で長野へ旅行へ行くのだ、と言った。
長野と言えば、私達の間の共通の認識はシゴロクしかない。
私は、極めて無責任に、彼に “駅で写真を撮ってきて欲しい…”、と頼んだのだ。
彼の父親は、きっと子供に理解のある人だったに違いない。
帰ってくると、“父さんに頼んで、たくさん撮ってもらった。” とのこと。
私は、確かに喜んだが、その半面、そんな彼の “成功” に嫉妬したのも正直なところだ。
彼はさらに続ける。
“ほら、シューエンソーチっていうんだっけ、あれ、付いてたよ。”
私は、そんなはずはない、と信じなかった。シゴロクがそんなものを付けている写真など一度も見たことがない。もしもそれが本当だったら…、許せない。
現像が上がってきた写真を見せてもらって、私はぶっとんだ。
それは確かに集煙装置だった。
しかし、D51のもののようにブスイなものではなく、車体のサイズに似合った小降りの “ころっ” としたもので、正面から見たとき、若干重心が高く見えるような、ともかく “すげえカッコいい” ものだったのだ。
やさしい秋葉君は、もちろん何枚も焼き増しして、私にくれた。私は宝物のように、そのC56 130号機の写真を毎日眺めていた。
その後、どういう理由があったのかはもう忘れてしまったが、そのネガを彼から借り受けた。きっと、そこに写っていた全ての写真が欲しかったのだろう。
そして、ありがちな話であるが、お互いにそのことを忘れてしまう。
その上、4年生に進学し、クラスも分かれてしまってからは、ほとんど彼と遊ばなくなってしまった。
私は、結局最後130号機を見ることはできないまま終わってしまったので、悔しさまぎれに、知っていながらそのままにしていたのかもしれない。
いずれにしても、そのネガは今も私の手元にある…。
このエピソードもまた、飯山のことを思い出す時、若干の心の痛みと共に蘇ってしまう出来事だ。
秋葉君、もしもこれを読んでいたら連絡下さい。ネガはお返しします。ちゃんと保管してました。
<yusaku508>
(19:21)
こうして飯山線のはなしを延々と書かせてもらっているが、個人的な感情として、やはりデンテツのことに触れないわけにはいかない。
言うまでもなく、それは長野電鉄河東線の信州中野から先の線路、通称木島線のことである。
ここまで読んで頂いた律儀にして賢明な読者諸氏であれば、文中に出てくる “キジマ” という地名はこの鉄道の終点、木島のことだとお気付きだろう。
父親の実家は、この木島駅から徒歩90秒ほどの所だ。国鉄の飯山駅まではバスに乗って15分くらい。歩けば4〜50分、というところだ。
これまで書く機会が無かったので言っておくと、“飯山” を現地読みする場合のアクセントは、“ま” におく。
同様に、“長野” は “の” である。
多分私だけであろうが、“イイヤマのシゴロク” をちゃんと発音すれば、思い描く光景も、より生き生きとするものだ。
木島と飯山の間は悠然と流れる千曲川によって隔てられ、そこを渡る橋は昭和50年当時、近辺に1ヶ所しかなかった。
この地域の商業圏は、完全に国鉄の駅側にあり、デンテツ側は、子供の目から見ても寂しい限りだった。
事実、ひとつの鉄道の終点でありながら、この木島駅ほど駅前に何もない場所を私は知らない。
子供の頃から廃止になるまで、一貫して小さなお菓子屋が1件あるだけだった。ちょっと離れたところに食堂が1件、その隣が酒屋。本当にこれだけだった。
ある時、駅の裏手に中規模のスーパーマーケットが開業したが、それも数年と持たず、今でも廃墟となって残っている。
木島線が廃止になったのは2002(平成14)年3月。
その前年に、最後だと思ってこの電車に乗った。
時間が夜だったせいもあろうが、吊り広告もほとんど無い車内には乗客も少なく、着いた終点の駅も当然無人、そんな様子に何となく心が寒くなったものだ。
確かに晩年は、そのような状況にあった木島線だが、私が小学生の頃には、まだまだ活況を呈していた。
1時間毎に木島行きの特急が運転されていたし、シーズンになれば、野沢へのスキー臨が国鉄から乗り入れていた。一度、その電車を木島から乗ったことがあるのだが、駅前は乗客でごったがえしていた記憶がある。
ただ、地元の人達は、デンテツを、“日本一高い電車” と呼んで、まず乗ることはなかったようだ。
長野方面に用事のある時は、遠くても飯山駅まで出て国鉄に乗っていた。事実、その運賃は約2.5倍だった。
私の母の実家は信州中野にあったので、その行き来はほとんどの場合、デンテツに乗ることになる。
そうでなくても、中野にある市営プールに行く時などは、従兄弟達と賑やかに乗っていった。
その辺りの記憶に出てくるデンテツの電車は、“ぼろっちい” 古い電車ー。ただそれだけである。
長野電鉄の旧型車についての知識は無いが、支線であった木島線には、まだ創業以来の由緒正しい車が走っていたに違いない。(写真の車は多分そうだ)
やってくる赤とクリームの古い(但し決してきたなくはなかった)電車と、特急の丸い電車、そんな光景は、別に心ときめくわけではない、日常の光景と変わりがなかった。
そして、私にとってのデンテツの記憶も、その頃のまま止まってしまっていたようだ。
自分の足で撮影に出かけるようになっても、意識的に撮影したことはあまりないし、地方私鉄が急速に姿を消していく時代になっても、遂に撮影の対象になる、とは気付かなかったのだ。
だから木島線が廃止になる、というはなしを聞いても、あせって写真を残そう、という気にはならなかった。そのかわり、マニアとしての心に、ほんの少し空洞ができた気がしていた。
木島線とは、そこに行けば必ず走っているものだった。それが無くなるなんて、正直考えたこともなかったのだ。いいわけをさせて頂ければ、身近すぎた鉄道だったのだ。
最後の5月、桃の花の咲く頃、私はほぼ初めて積極的に、木島線の写真を撮ろうと出かけた。
新緑とたくさんの花が咲く沿線は、美しかった。
既に多くのマニアが集まるようになってはいたし、走ってくるのは日比谷線だけだったが、こんなに素敵な所を走っていたということを、ようやく最後になって知ったのだ。
廃止後、長い間、線路も駅もそのまま撤去されないままだった。
終点木島のひとつ手前、信濃安田駅は、車で行く場合必ずその上を通る場所である。
通る度に、廃止の時ままの光景を確認していたが、数年前、とうとう線路とホームが撤去された。
しばらくは、それらがあった位置はすぐにわかったのだが、行く度にそれが難しくなり、今ではもう、どの辺りにホームがあったのかすら思い出せなくなってしまった。
<yosaku508>
(19:12)
2009年5月4日 上境・上桑名川 DD16 11
私は北信の風景が好きだ。
そして、そこを走る飯山線の線路のある情景が好きだ。
車に乗っていても、鉄道に乗っていても、その象徴である高社(こうしゃ)山の姿が見えてくれば、
なにか “ふるさと” というものへ戻ってきたような気にる。
今から10年程前に、父親が木島平村に、永年の夢だった別荘を持った。
ちょうど同じ頃、子持ちとなった私達家族は、年に2〜3回はそこまで出かけるのが習慣となっている。
しかし、それはあくまでも“家族旅行”である。
こののどかな響きを持った言葉の意味、その苦行は、これを読んでいる善良な父さん達には説明の必要も無かろう。だから、“ナガノへ行く” とは行っても、別段意識的に鉄道の撮影に行く、ということはほとんど無かったのが現実だ。
確かに飯山線自体は健在で、線路を見ればほっとするのだが、そこに走ってくる車両といえば、白と緑の軽快気動車だけ。
2009年の今日、そこでDD16を見たい、などという願望はとうに諦めてしまっている。
最後にそこでDD16を見てから、もう10年以上の月日が流れた。
一時は熱く燃え上がっていた飯山線の機関車への憧れも、もう滅多に見ない古い写真集のように、心の奥深くに沈殿してしまったようだ。
ところがだ…。
2009(平成21)年5月の連休。
私はいつものように、家族でキジマへ来ていた。キジマに来ると、まず “ベイシア” という大型スーパーへ買い物に行く。
ユニクロ以外は、普段まず衣料品を買いにいくことはない。だから、この “ベイシア” に来ると、細かな家庭用品から靴、肌着に至まで、結構大量に買い込むのだ。そして、今ではそれが楽しみですらある。もはや私の男としてのステイタスは露ほども残されてはいないのか?。
そんなことはどうでもよい…。
買い物を終わって、子供の手を引き、やれやれと店の外に出た。
やたらと車の多い道路をはさんだ反対側には、飯山線の線路が走っている。
踏切が鳴る。別段心を動かされることなど何もない、日常的な光景だった。
ところがその時は違っていた。
やって来たのはDD16。しかも茶色の客車を引いている。
一瞬、それは極く普通の光景と錯覚したが、絶対にそんなことはない。姿が見えなくなるまで呆然とそれを見送って、慌てて書籍売場へ戻り時刻表を確認した。
それは、連休中、3日だけ運転される “いいやま菜の花まつり号” という臨時列車なのだそうだ。
運転区間は長野、戸狩野沢温泉…。
この運転区間を見て、私はいにしえの “戸狩スキー号” のことを思い出さないわけにはいかなかった。
確かそれは、機回しの都合で桑名川まで回送として運転されてはいなかったか?。
うろつくマニアをつかまえて聞いてみれば、案の定そうだった。いや、桑名川までではない、実に森宮野原まで入るのだそうだ。つまり、飯山線の一番美しい部分を、一番美しいこの季節に走るのだ。
ずっと思い出すこともなかった熱い想いが次第に蘇ってくる。
ただ…、と思う。
それは昔のように、その光景を独り占めできる、という状況ではない。事実、おびただしい数のマニアが集まっているようだ。その中の一員となって撮っても、あたかもそれは、昔憧れたアイドルがきたないおばさんになって再びテレビに出ているのを見て傷付く、そんな感情になりはしないか。昔の記憶とイメージが美しい程に、それを自ら汚そうとしているのではないか?。
そんな勝手な思いに葛藤したのが正直なところだった。
それに、前に書いたが、DD16に旧型客車4両、という編成もいまひとつだ。やはり12系3両でなければ…。
しかし、現実に、自分が滞在しているエリアに(飯山線に!)DD16が走るのだ、これを無視することなどできるわけがない。
結局、運転の最終日に3時間ほど時間を作り、10年振りの “あの築堤” に向かった。
その場所の、線路と周りの景色は驚く程変ってはいない。
ただ、とっくに完成していた背後のパイパスの陸橋がもろに画面に入ってしまうが、気にしないようにする。
それよりも、驚いたのは集まったマニアの数である。200人くらいいたのではないか。たがだか飯山線で、しかもディーゼル機関車で、これほど集まってしまうものなのか。
私も覚悟を決め、かつて同じ線路でC56をDD16を見た、そんなちんけなプライドなど一時捨て去ることにする。
通過時間になり、踏切が鳴る。
昔と変わらない緑の山々をバックにゆっくりと築堤を下ってくる赤い機関車は、たとえどんな状況であれ、充分に魅力的だった。
牽引はDD16 11号機。現在では唯1両になってしまった一般型のDD16である。
思えば、ちょうど30年前に全く同じ場所で初めて撮ったのもこの11号機。
製造されたのは昭和47年だから、その車齢は37年になろうとしている。
たとえほんの僅かな部分ではあっても、自分の人生と様々な想いに重なる時間を働き続けてきた機関車だ。
46才になり、カメラはデジタルになろうとも、それをこの目で確かめることのできた自分はなんて幸せなのだろう。
千曲川に沿ったカーブの彼方へ消えていく後姿を見送りながら、そんなとりとめもない想いにひたるのだった。
(完結)
<yosaku508>
(19:01)
2009年07月02日
1986年10月 上境・上桑名川 DD16 8
確か75年春の、雑誌 “蒸気機関車” だったと思う。(C56124正面アップの表紙:夜)
そこには数ページにわたって、飯山線のC56のグラフが掲載されていた。
いずれの写真もハイコントラストで、望遠を多用した独特の圧縮されたアングル。それは塚本和也の写真とは全く違う世界を構築しており、私にとっての飯山線のイメージを決定付けた写真の数々だった。
今現在、私たちは、過去のほとんど見ることのできなかった様々な情景に憧れをもっているはずだ。
その人独自の、他人には理解しがたい部分もあるであろうし、逆に単語ひとつで、おなじ情景が目に浮んでしまう、共通した憧れもあろう。そんなどれもが、ひとりひとりにとっての宝物に違いない。
しかし、考えてみると、一体いつ頃からそんな感情を持っていたのだろう。
恐らくは、前述の写真のような断片的な記憶が、ある程度大人になってから突然結びついて、単なる知識のレベルから、“憧れ” へと昇華していくのではないだろうか。
その意味では若い時には決して持てない感情であり、歳を重ね、浮き世の不条理に心煩わせるごとに、よりピュアなものになっていく、そんなもののような気がしてならない。
それは端的な言葉に直してしまえば、“ノスタルジー”、と言って片付いてしまうものかもしれないが。
私が飯山線の情景で、最も憧れるのは、C56とDD16の重連。
それは、無煙化が迫った72年の秋、乗務員の習熟として、数週間だけ現れた形態だ。
塚本和也をはじめとする何人かのカメラマンが、この光景をとらえているが、どんな天気のどんな写真を見ても、背景となる秋の山野の光景は、例えようもなく美しい。それはもう、思い出しただけで涙が出てきてしまいそうなほどだ。
だから、“72年秋”、という言葉は、私にとっての最も美しいC56、そして飯山線の情景のイメージそのものになっている。
そこに走ってくる協調運転の列車は、何故か必ずDD16が前位に付いている。C56本務機だ。
この形態がまたいい。もしもC56が前だったら、ほとんど魅力のない列車になってしまう。
何故そう思うのか、理由はよくわからないが、別にDD16の方が好きだとか、そんなことでは決してない。
“72年秋” の完結したイメージが、そうさせるのだ、としか言いようがない。
月日は流れ、1986年の秋。
飯山線に工臨が出る、という情報をどこかから得た。
私は “就職浪人” という結構な身分にあったので、喜んで出かけていった。
行くのは当然 “あの築堤”。
2 年ぶりのその場所は、背後を走るバイパスの工事が進み、その橋脚がもろに写ってしまうようになっていた。それでも私は気にしなかった。
6×7の200ミリに、コンバーターを付けて覗くファインダー、逆光に輝いたススキの中を魅力的なカーブを描いて手前までやってくる線路、明るい日差しに照らされた深い山々、そのどれもが、“72年秋” をイメージさせるに充分なシュチュエーションだったのだ。
負け惜しみもちょっとはあるが、その時はもう、やってくるのはDD16でもC56でもどっちでも同じくらい嬉しい、と思えたのだ。
蒸機とディーゼルのイメージがそこまで重なってしまう線路は、やはり私にとっては飯山線以外あり得ない、と気がついた。
しかし、
その後も、2〜3回飯山線に足を運んだし、依然DD16は現役だったが、定期列車がない以上、いつ走るかわからない列車を夢見るには、もうあらゆる意味で大人になってしまった。
不安定な身の上は、心までも荒んだものにしてしまう。
私は80年代を最後に、そんなメシのネタにならない、つまらぬ憧れはもう持っていても仕方ない、自分のためにならない、という気持ちに自らを持っていこうとしていた。
<yusaku508>
(19:27)
1979年8月 上境・上桑名川 DD16 11
その築堤は、上境と上桑名川の間にある。
高校2年の夏休み、もういくらなんでもひとりでキジマの家へ行ける。
仲が良かった従兄弟は高校3年、大学受験の年だった。にも関わらず、私は中型二輪の免許を取得していた彼に頼んでは、飯山線を辿ってほしい。とお願いをしていた。
今まで、飯山線の列車に乗ったことはあったが、それを外から見た経験はない。その車窓しか知らなかったわけである。
従兄弟は快く引き受けてくれた。
それは、ホンダの250CCのケツに乗っての爽快なツーリングだった。
飯山盆地の暑苦しい田園風景をぬけ、千曲川に沿った狭い道に出ると、空気のにおいが変る。
今まで車窓の風景しか見ていなかったのが、今度はその風景の中に線路がある。それは雄大ではないし、カレンダーになるような美しい田舎の風景では決してない、しかしだからこそ、そんな普通の北信の夏の景色が自分にとって、より身近なものに感じられ、わくわくするほどに嬉しかったのだ。
道路は上境の集落を過ぎて、ちょっと線路から離れる、そしてささやかな集落を抜けて、再び線路が見えてくる場所に出る。
初めて接したその光景に、私は息を飲んだ。
線路よりもちょっと高い位置を走る道路は、右手に悠々と流れる千曲川とさえぎるものの何も無い線路を見ながら、次第に下っていき、レベルになった部分で踏切となり、それを越えていた。
さらに、その踏切から振り返った光景。
背後にせまった深く色濃い山々の下、右手から理想的な築堤のカーブとなって、広々とした田園の中を走ってくる。
それは、今まで見たどの光景、写真よりも、私にとって “飯山線の風景” に思えた。
この日、実は私にはひとつの目的があった。
それは、どこかでDD16を撮る、ということ。
ただ、定期の貨物列車は、長野と飯山の間に限定され、そこから奥へ入る区間には既に設定が無かった。しかし、交通書房で手に入れた、ダイヤをよく見ると、なぜか単機回送のスジがある。その理由はよくわからないが、ひょっとしたら、十日町方面にもまだ貨物列車が走っていたのかもしれない。
いずれにしても、単機回送である。それが律儀に毎日走ってくるとは、どうしても思えない。だから、ま、見れたらラッキー、くらいの気持ちではいた。
ところが、この築堤の光景を見たとたん、なにがなんでもそこでDD16を見なければならない、という強迫観念に襲われてしまっていた。
来るんだろうか…?
キハ55やキハ20を気に入った風景の中で撮影して、通過時間近く、再び築堤を見渡す踏切にやってきた。
現在は対岸にバイパスができていて、十日町、長野方面へはそちらを通るので、この道はすっかり旧道になってしまっているが、当時は交通量も多く、あまり静かな場所でもなかった。
そのかわり、草いきれにゆれる、望遠レンズを通して見た光景は、余計なものは何ひとつ見えない、その時の自分にとって、舞い上がってしまいそうなほど、魅力的なものだった。
だんだん緊張してきた。本当にここにDD16が来てほしい。
踏切が鳴った。
“マジかよっ!”
あわてて構えるカメラ越しに、単機回送の赤い機関車は、周りの緑の中にひときわ美しく、ゆっくりと近づいては、目の前を通過して、千曲川に沿ったカーブのかなたへ消えていった。
そんなお目出たい従兄弟を、根気よく待っていてくれた受験生は、あきれたように笑っては、ふたたびバイクのエンジンをかけた。
<yosaku508>
(19:04)
2009年05月22日
鉄道模型というものは概して高額だ。
自分で働くようになり、ようやく少しづつ揃えられるようになったものの、親のスネをかじっている時代はとても手の出るシロモノではなっかた。(少しは買っていたが…)
80年代半ば、福生に住んでいた友人がキットをいくつか持っていた。
全て羨ましいアイテムであったが、その中でもとびきり気になっていたのが中村精密のC56である。
持ち主である友人は、どうも工作があまり得意ではない様子で、一向に作る気配がない。
ある時、思い詰めた私は彼に提案した。
“それを俺に作らせてほしい…”
私だって、それまでナローの車両をいくつか作ったことがあるだけで、国鉄型の蒸気機関車の製作など全く経験が無い。無謀ともいえるが、それでもそれを作れるような技術を身に付けたかったし、なによりC56を作ってみたい、という気持ちは強かった。
そして、キットの箱と共に彼から渡された “だるまや” のナンバープレート。そこには型式入の“C56111”が入っていた。
C56111と言えば、飯山で唯一の型式入ナンバーを付けていたものであり、最も調子の良かったカマ、といわれていたやつだ。それを作れる!。
以来、頭の中は “イイヤマ” 一色になった。
なけなしの小遣いをはたいてパーツを揃え、無いパーツは強引に自作した。
“イイヤマ” を演出するのに絶対に避けられないアイテム、それは言うまでもなくあの “モチアミ” とスノウプロウ、そしてキャブ屋根の延長、である。
いずれも苦労の末の自作である。特にスノウプロウは、真鍮板からのたたき出しだ。
鉄道模型工作における初心者と経験者の差、それは初心者はどこで “手を抜く” かわからない、ということだと思っている。だから、どうでもいい細かい部分にまでこだわって、結果うまくいかずにバランスを崩してしまうのだ。
このC56でも、煙室戸のナンバーを貼り付ではなく、ちゃんと4本の真鍮線でとめたりしている。
現在ではもう絶対にそんなことはしたくないが、“イイヤマの111番” を作りたい一心だったのだ。今思うと、その時の自分がいじらしくもある。
こうして根性だけででっち上げたC56だったが、今写真を見てもなかなかいいセンスじゃあないか、と自己満足している。
完成した時はもう嬉しくて嬉しくて、皆に見せびらかしたりした(特に褒められなかったが…)。
しかし、このC56の悲しい宿命。そう、これは自分のものではないのだ。
ということで、初めて作った蒸気機関車は手元になく、もう20年以上見てもいない。
このハナシは前にしたことがあるとも思うのだが、最近これを撮ったネガが見つかったので、一連の記事と抱き合わせで発表させて頂いた。
yamabatoさん、いかがですか?。ライニングについての文句はナシですよ。
<yusaku508>
(19:47)
1986年2月 森宮野原
C56というのは不思議な機関車だ。
例えば国鉄蒸機の中ではどの型式が一番好きか?、と問われた場合、考え抜いた末この型式ははずされると思う。
しかし、他のどの型式をイメージするよりも心ときめくのは何故だろう。
私はその答えをかなり早いうちから理解していた。
それは機関車C56の形態自体への憧れではない(もちろん大変バランスがよく、カッコいい小型機関車であることはいうまでもないが)、むしろその情景、“シゴロクのいる風景”への憧れなのだ。
C56が活躍したのは、いずれも地方のローカル線であり、その地方独特の環境、風景の中をひかえめに走る。それはまた、純日本的な正しい田舎の風景だったはずだ。
ささやかながら交換設備のある山間の駅、そこに給水のために静かにたたずむ姿、あるいは貨車3両を引いて、ずっと遠くから見えるカーブをゆっくり登ってくる姿…。
だから、そこに走ってくるのはC11では絶対に絶対にダメだ。ハチロクでもダメだ。あえて言うなら、C12だったら3本に1回くらいは来てもいいかな…、という程だ。
人生をかけてC56を愛した男、そう塚本和也。
氏の活動の影響で、C56といえば小海線小淵沢、信濃川上間の高原地帯の雄大な景色の中を走る姿が真っ先に思い浮かぶかもしれない。
私ももちろんその一人ではある。ただ、小海線の情景には憧れつつも、それは心象風景ではなかった。あえて言うならば、銀山・然別や、大畑ループ、竜ケ森などと同列だ。
もちろん氏も飯山線のC56は少なからず撮影し、作品を発表されている。
小海線のようにドラマティックではなく、どちらかといえば地味なままその活躍を終えた、そんな姿を伝える飯山線の写真に私は心奪われていたし、歳を重ねるにつれ、一層その気持ちは強くなっていくような気がする。
私は確かに現役の飯山線のシゴロクを見てはいる。
ただ、前述の通り、それを“イイヤマのシゴロク”としては認識していなかった。
確かに8才の子供にそんなことがわかるわけはないのだが、しかし後年、そこに特別な思い入れを抱く理由にはなるかもしれない。
飯山線という線路の風景が自分の心のふるさとのように感じられる。そしてそのどんな細かい場面にでも、私にはシゴロクをイメージすることができる。
季節は夏。森宮野原で入換をしているのは109号機。しばらくして交換する短い貨物列車は96号機が引いてきた。汽笛の音をまわりの山に響かせながら、狭い構内を2台のC56が行き交う。
さて、おばさんから借りたスーパーカブで、どっちの列車を追いかけようか…、
などと空想の中に自分を当てはめたりする。別に空しいことだとは思わなかった。
しかし、当然、そこにはシゴロクなんて走ってくるわけがない。来るのはディーゼル機関車だけ。
ディーゼル機関車…。
そう、飯山線にはDD16とい機関車が走っていたのだ。
実はこのDD16、当時から少し気になっていた機関車ではあった。
C56やC12に代わる簡易線用として製造されただけあって、ぱっと見にも大変小型の機関車で、DE10とはまるっきり違う、これはこれで魅力的なものだ、と軽い気持ちで考えてはいた。
高校生になり、各地へ旅行をするようになると、65両も製造されただけあって色々な場所で目にすることができた。
ただ貨物用機関車だから、撮影しようと思ってもダイヤがなければどうしようもない。ダイヤがあっても、使用線区を考えれば、本数は恐らく良くて1日1往復程度だろう。
そういう意味で撮影のハードルは高い機関車だったように思う。
そんなことをしているうちに(なにもしないうちに)、貨物列車自体がどんどん縮小され、せっかくのDD16も製造後数年にして殆どが廃車になっていく。気が付けば貴重な機関車になっていた。
そうなってようやく、私の中ではこの機関車への意識が高まった。そしていつしか、前述の飯山線へのノスタルジーも、そこにDD16をあてはめて違和感がないようになっていたのだ。
“イイヤマのシゴロク” のイメージを求めるならば、DD16を見に行けばよい。
ようやくそう思ったのだ。
<yosaku508>
(19:43)
1977年8月 桑名川
中学3年生、昭和52年。
高校受験の年だから、人並みに夏期講習などにも通ってはいた。しかしだからといって、やはり撮影をガマンする、ということもなかった。
その夏休みの行程は、飯田線へ行った後、大糸線を見て篠ノ井線で長野に出る。母親の実家に泊まって、翌日は飯山線で越後川口まで行き、上越線で帰ってくる。というものだった。同行はいつものように風間ノブヒデ君。
この時まで、私は飯山線の飯山から奥(新潟方)へは列車に乗ったことがなかったし、車で通ったこともない。つまりそこは、私が初めて足を踏み込むエリアだったのだ。
とはいっても、もちろん蒸機はいない、電気機関車が走るわけもない。気動車には全く興味が無かったので、
(ちなみにこの時はキハ20とキハ55の2連だった。:イベントではない。)ただ何となく過ぎていくけだるい夏の田園風景を見ていただけだ。
しかし飯山盆地のはずれ、戸狩を過ぎるとその車窓は一変する。
人家もまばらになり、それまでの開けた田園風景から、緑濃い千曲川に沿って大きくカーブを繰返す線路となる。
時としてそれは険しい崖の上を通り、トンネルを抜ける。そしてまるで箱庭のような集落が見えてきた、と思うと小さな駅に停車する。
夏の日射しの下に静まり返った駅、思い出したようにやってくる対向列車。辺りののどかな田園風景、そしてそこに建つ古い民家…。
私はそんな風景にどこか打たれていた。
今まで当たり前のように見ていた風景が、とても新鮮なものに思えてしまうような感覚。
確かに景色の美しい線路、というのは他にもいくらでもあるであろう。事実2日前に乗った飯田線の車窓に比べて今見ている飯山線の風景が特別ドラマチックということはない。
では何故だろう。
今まで、この文章を書くまで考えたことはなかったが、恐らくそれが、“信州:北信”の風景だったからだと思うのだ。
最初の文章で書いた通り、私の中には長野の血が濃く流れている。
大変抽象的な言い方だとは思うが、そのことによって、10代半ばという多感な心の琴線のどこかに触れる光景だったのであろう。さらに言えば、それは私の“心象風景”だったのかもしれない。
長野、飯山、その風景は、私にとってはもの心付いた時から触れているもので、普通の“田舎”、としての認識
しかしていなかったものが、逆にそんな普通の風景であり、そこを走る線路だったからこそ、限りなく懐かしく、そして美しい風景に思えたのであろう。
ただ残念ながら、当時の自分の趣味から見て、飯山線には魅力的な車両が無かった。
たとえ、自分にとっての特別な風景ではあっても、だから積極的に写真を撮りに行く、強いモチベーションには結びつかなかったのである。
こうしてまた何年かの月日が流れていく。
<yosaku508>
(19:36)