模 型

2013年02月21日



[昭和57年春]

続編のリクエストにお答えして、前回の文中に
出てくる「エーッ!みたいなハプニング」について、ここで暴露してしまおう。

もう30年も前の話なので時効ということで、もしその手の
関係者の方々、見てもご容赦ください。30年も前の話ですから。
写真をよく見ていただけるとわかりますが、これ営業用の普通の
スジの列車です。だって窓越しにお客さんが乗ってるのが見えます。
屋根に上ってるのは確か運転手。パンタもあげっぱなしで普通に停車
しているんですが、架線の調子を見ています。しかも確か素手で架線を
いじってたと思います。横で耕運機で作業してる農夫も
思わず作業を見てます。心配そうに見ているのは車掌さん。
そりゃぁ心配でしょ。いくらある程度絶縁されているとはいえ、600v
の電圧、しかも電車を動かすほどの大電流が流れている活線に
あまりにも軽装で屋根に上って修理しています。すげぇ度胸。

何をどうしていたのか覚えていませんが、とある鉄道の駅間で撮影の
ため待ち構えていると確か踏み切りを通り越した所でなぜか停車
してしまいました。やおら運転手が真ん中の扉を開けたと思ったら
側面の足掛けを伝ってスルスルと何気なく屋根に上ってしまいました。
ここは駅でも何でもありません。そしてしばらく何かしたあと、
何事もなかったように出発していきました。
調子が悪かったら、自分たちで何とかしちゃう所がローカル私鉄の
素晴らしいところ。動きの悪い鉄道模型を運転の合間にチョコチョコット
手を加えてスムーズに動かしてしまう。そんなイメージが実物の
鉄道で展開してしまう。そんな雰囲気でした。

運転手も車掌も鉄道の全てを知っていて、運転中に異音がしたり
すると、原因なんかスグわかっちゃうのだろう。お客との距離も近いし
お客だって職員との距離が近い。だって乗っている乗客は誰も
職員の行動を見てないし、おそらく「あ、運転手が何かやってる」ぐらい
にしか思ってなくて誰も疑問になんか感じていないんでしょうね。
そんな小さな鉄道の距離感が、私の好みなんです。

<yuzzu>


(23:05)

2012年04月08日



昭和59年2月

チョット前の話になってしまったのだが、昨年末に年賀状の
写真を物色していた時の話し。
津軽鉄道キハ2400(平成24年なので)のネガを探していた。
五所川原駅にて交換するキハをスキャンしていると数カット後に
オハ31のこの写真が出てきた。見てのとおり平凡な雪の中での
後追い写真だが、改めてみるとおびただしい量のリベット
である。
鉄道車両におけるリベットというのは一般的なのだが、昨今の
車両には、このリベットをめっきり見なくなってしまった。

リベットは溶接より歴史のある接続技術なのだが、今は溶接技術が
発達し鋼どうしの接続にリベットはほとんど使用されなくなってしまった。
しかし、溶接は熱による材質の変質があったり、材質の違うもの
どうしを接続させると片方には溶接が溶け込まなかったりするケースが
あるので、実はまだリベットの用途は広い。
私の職場でもトラックのシャシフレームにはリベットがバリバリの現役で、
最新式のハイブリッドとエレクトロニクス満載のトラックでもメインの
骨格には溶接はいっさい使用されておらず、チョット下にもぐってみると
旧態依然としてしたリベットがずらりと並んでいる。

ところで、yuzzuは昨年からすっかり模型にはまって
いて憧れの車両を自分のものにすべく工作を続けて
いるのだが、やっかいなのがこのリベットの表現
だ。世の中リベット打ち出し機なるものもあるのだが
決定的に良いものでもないらしい。
しかし、ベテランの機用な方の作品はまるで実物の
ように美しく、整然とリベットが並んでいるのだ。
上から見ても、斜めにしても破綻なく並んでいて
不器用なyuzzuはぜったいにまねできない。

写真のオハ31も少し前まで芦野公園に保存されていて
荒廃が進んでいたようだ。しかし、めでたく
交通博物館に保存され、見事な茶色の客車に復活した。
勿論客車にストーブはないがyuzzuも復活した客車にぜひ
のってTR13のジョイント音を楽しんでみたい。

<yuzzu>

(00:34)

2009年12月30日



さて、また秩父鉄道の電気機関車のはなしである。

デキ100型のモケイがどうしても欲しくて、昔の自由形EB電をその雰囲気にリメイクしたはなしは以前このブログでも書いた。
最初のうちこそそれで満足して遊んでいても、次第におもちゃっぽい自由形には飽き足りなくなっていく、という流れは年齢に一切関係はない。

もっと “リアルな” モケイが欲しい…。

そんな折、W工芸からHO のキットが発売になった。
プロポーションもディティールも申し分のないこの製品は、その完成見本を見るまでもなく、ものすごく心を惹かれるものだった。普段であれば、なんとしてもお金を用意して購入しているところだ。
しかし、私はすんでのところでそれを思いとどまった。

この心持ちの弱い私が何故…?。
それは、あの“塗分け”だ。

ご存知の通り、秩父の電機は青がベースに白のライニングがなされており、それがまた大変カッコよい。
模型をやらない方にはイメージしにくいことだとは思うが、そのライニングをきっちり施すためには、想像を絶する技術と手間を強要されることなのだ。
ほんの毛先ほどの乱れがあっても、全体の印象を著しく悪いものにしてしまう。それは前作でもう経験済みのことであるが、これはその半分のサイズしかないHOのモケイだ。それを乱れなくフィニッシュさせる技術など、私は到底持ち合わせてはいない。
人生においては、自ら少し高いハードルを設定してそれを目指して精進する、ということが確かに大切なことだ。しかし、そんな気にもならないほどそのハードルは高過ぎるのだ。
ちなみに、さらにその半分のNゲージできっちり作る人がいる(しかも多い)、私にはどんなにあがいても、到底到達できない、正に“神の手”である。

さて、ここからが本題だ。
ヤフオクで前回紹介した旧型EB58を見たとき、私はすぐに、それが秩父の色に塗られた姿をイメージしていた。
台車さえなんとかなれば、憧れの“デキ100(みたいなやつ)”が手に入る…。

しかしその現物を手にしたとき、そんな舞い上がっていた気持ちは瞬時にして萎えてしまった。
一体これ、どーすりゃいいんだよ…。

幸い、問題の台車は、知人を通じて、コレクターの人から譲ってもらうことができた。その形状は本物とは全く違うものの、サイズ的にはぴったりだ。あまり贅沢はいえない。

それからが大変だった。
事情があって、与えられた工期は1月半。
どうやってモーターの付いた台車を車体とくっつけるか、しかも、ちゃんとカーブをきるようにしなくてはならない。
そして、あの“塗分け”。
もう板を切る段階から、その段取りを頭にイメージしながら作業しなければならない。

工作上の苦労を長々と書いても、読者は退屈なだけだと思う。さらに、完成したモノを見ても、このテのモケイから、そんな苦労は伝わりにくいので、成功したか否かは、皆様にご判断頂こう。

いずれにしても、ひとつの車両に憧れ、少しでも近いカタチをしたものが欲しいと思う、そんな純粋な気持ちだけで、“でっちあげられた”、模型である。
ちょっと自慢させて頂ければ、全然力は無いもののとてもよく走る。そして、このモケイ、“ホンモノ” よりも古いのだ…。

<yosaku508>


(17:01)

2009年12月02日



さて、この珍妙な機関車。
これは一体何?。

茶色でデッキが付いていて、いちおう国鉄電気機関車の雰囲気はある。
しかし、一体の板台枠に2軸の動輪、さらにはそこに先輪が付いている。
そんな機関車はおよそプロトタイプが思い浮かばない。

車体に付いているナンバーを見てみよう。
“EB5815”
型式に“58” の付いた電気機関車…、それはEF58しかない。
ってことは、これはEF58に関係あるものなのか?。


EF58型という機関車が最初に製造されたのは昭和21年のこと。
周知の通り、初期型31両(EF18型を入れれば34両)は、それまでの省型電気機関車の基本スタイルを踏襲した、箱形車体にデッキの付いた形態だった。
敗戦後、いちはやく製造・販売が復活した鉄道模型の世界でも、当然この(最新型)電気機関車の模型は作られていた。そして、初心者向けに、それをディフォルメしたものも、同時に製造されることになる。
それがこの模型の正体だ。

先輪が1軸だし、EF58というよりか、EF15じゃないか…、
などという声も聞こえてきそうだが、電気機関車の模型を愛するものとしては、そんなヤボなつっこみはやめよう。
旧型EF58が作られていた時代、つまり昭和20年代のおおらかさが全体から伝わってくるではないか。そしてなによりも、アンバランスの妙、とでもいうのであろうか、言葉にはならない魅力にあふれた模型だとは思いませんか?(僕だけか…)。

この時代、他にももっと初心者向けとして、以前このブログに書いたEB54などの自由形機関車の模型も盛んだった。
しかしこのEB58は、全体が真鍮製のがっしりしたものだし、立派な先輪もある、それらよりはずっと高級な作りだ。価格も高価だったに違いない。

さて、昭和28年になって、EF58型は全く違う車体を与えられ、国鉄幹線の第一線機関車として華々しい活躍を続けることになる。
模型の世界でも、そんな “新” EF58は格好の題材となり、多くの製品が生まれていく。
しかしその影で、このような “地味な” 機関車はやがて忘れられていってしまう。
昭和30年代に入ると、同じ“EB58”という型式の模型も、実物と合わせてグリーンに塗装された、“カッコいい” 流線型のものへと変っていく。

誤解しないでほしいのであるが、私は別にこの模型を自慢したくて、ここに紹介したわけではない。
重要なのは、私のところに来たばかりに、その後この模型がどのような運命をたどってしまったか…、ということなのだ。
                                      (つづく予定)
<yosaku508>





(20:09)

2009年05月11日




恐らくは小学校に入る前の記憶だと思う。

大井町線の荏原町に親戚のおばさんが住んでいた。
私は母親に連れられて二ヶ月に一度程そのお家へ行っていた。おばさんはおもちゃや本を買って待っていてくれたので、私にとってはいつでもとても楽しみな訪問だったのだ。
おばさんのひとり息子は当時大学生だった。年の離れたおにいさんだから、特に一緒に遊ぶこともなかった。ただ、あるときかつて自分が遊んだ鉄道模型を出してきては、それを走らせてくれたことがあった。
その模型は今思えば、間違いなくOゲージ3線式だった。しかし子ども心にも、それは地味でとても古くさいものに思えて仕方がなかった。(実際に当時でももう古いものだった)

記憶の中のその家はなんだか静かだった。柱時計の音や母親達が話す低い声、遠くから聞こえて来る踏切と電車の音…。Oゲージの模型とは、私のそんな断片的な記憶の中に、ほんの少しかすっているのだ。
これはそのことをふと思い出した時のはなしである。

先日、茨城県下の古い砂糖問屋に残された手押しのトロッコを、仲間の案内で見に行く機会を得た。
その建物は市の文化財に指定されている、ということで、最盛期の繁栄が充分に想像出来る重圧な構えだ。
写真を撮っていると、そこのご主人と思しき方が出てきては、色々と話を伺うことができた。
トロッコ自体は昭和一桁の時代からあり、オリンピックの頃になって延長されたという。

さらに私が目を輝かせたのは、“模型もありますよ…” と言って、家の中からOゲージの模型を出してきてくれたことだった。

“昔はもっとあったんだけど…”、と言いながら、電気機関車と3両の貨車をレールの上に並べる。
クリスマスになると貨車を1台か2台ずつ買ってもらっていた、という。機関車は高価だったので1台しか持っていなかったのだそうだ。
このお店のような、“豪商”と言っても差し支えない商店の子どもであっても、鉄道模型というものはそうそうは買ってもらえない高級品だった、ということだ。

その方は、ぱっと見 60代半ば、というところ。
当時のOゲージが子どものおもちゃではなかったことを考えれば、恐らくそれらを集めたのは中学生の頃のはなしだろう。仮に現在65才、とすれば中学生だったのは昭和30年代半ば、ということになり公証も正しい。
そんな心から大切だった模型だから、彼は大人になっても捨てることはせず、古い商家とともに
静かに半世紀の時間を送ってきたのだ。

ただ、そこを訪ねるマニアのうち、どれほどがその模型に感激するかはちょっと微妙だ。

<yusaku508>


(19:15)

2009年03月18日




以前このブログで、秩父鉄道の電気機関車、デキ107・108のことを書いた。
その車両に憧れる、そして写真を撮りに行きたい、という意識はごく自然に、その車両のモケイが欲しい、という欲求に結びついていく。

さて、もともと私鉄の電機、というジャンルはモケイの世界でもマイナーな分野ではある。果たして秩父鉄道の電機のモケイというのはあるのだろうか、と探してみれば、HOゲージ・Nゲージを問わず、あるわあるわ…。Nゲージに至っては、各形式はおろか、その番号別のバージョンまで細かくモケイ化されており、あきれるばかりだ。

ただ、そんな状況にも関わらず、デキ107・108の製品は何故か出ていない。
まあ、もともとNゲージのサイズで、あの塗り分けを施す技量など、私には無いので問題ではないのだが…。
残された手段は、何かの改造である。
しかしデキ100は台車からして違うし、107・108は前述のブログの通り、全長が600ミリ短いときている。

さて、どうしよう。でも欲しいな…。
と考えていた時に、はたと目にとまったものがあった。それは(またもや)Oゲージ。カツミ製のデッキ付きB電だった。
これは、その好ましい形態からして、チチブの塗色に変えるだけで、雰囲気が出るのではないか、と踏んだ。
早速ヤフオクで探せば、おあつらえむきに、少々破損しているが、その分安く出ているものを見つけることができた。難なくそれを手に入れ(実はあまり人気が無いようだ)、改造の魔の手をかけていく。

この電機、“EB55 4” というのが正式名称であり、立派なナンバープレートが付いていた。
製造は恐らく昭和30年代後半。私の生まれるよりは早くからこの世に存在したものだと思う。
もともと、この手のモケイはどんなキタなくても、オリジナルの姿のまま持っていた方が価値のあるものだそうだが、知ったことか。私はチチブの電機が欲しいのだ。

店頭に並んで最初のオーナーが手に入れてから、どのようにして私のところまで来たのだろう。
“実物” だって、オーナーが変わり、その名前も塗装も変っているのだから、モケイでもそれはあり、ということにしておこう。

というわけで、私の“108”は、“実物” 同様元気に走っている。

<yosaku508>

(18:14)

2008年09月13日




先日お話した、ボロっちい模型の続きのはなしである。

この昭和30年代初頭に製造された、というカツミのEB54。
ほとんどのパーツはなく、モーターも壊れているとみえて、通電してもぴくりともしない。
これを直すのは大変だ。
途方に暮れた末、自由形鉄道模型の知識とコレクションでは、国内で3本の指に入る、という知り合いに相談したところ、本当に幸いにも、ほとんどの欠品しているパーツを提供してもらえることになった。動かなかったモーターも修理してもらった。
さあ、材料は揃った。後は作業を進めるのみ。

まずは、それを素材のカタチにもどすことから始めなくてはならない。
塗装を落とし、はずれているパーツは再び半田付けしていく。ピカールで一生懸命磨けば、それは半世紀ぶりに金属の光沢を取り戻していった。そこに、新しいパーツをひとつづつ丁寧に付けていく。
迷った末に、オリジナルに近いグレーに車体を塗装して、再び組み立て。

交流モーターの結線は間違っていないか、ライトはちゃんと付くか…。
恐る恐る線路に乗せて通電してみる。
びくっと車体が振動したかと思えば、それは “ががががっ” と賑やかな音をたてて走り出す。
この瞬間がたまらない。
レストア、という作業は、新しいキットを組むのとはまた違った達成感があるものだ。何というか、自分の手で、それに再び命を与えてやったような、大げさにいえばそんな気分だ。
元のオーナーに、“これがキミの機関車だよ” といって見せてやりたい。

興味のない人からみれば、自己満足の極至であろう。もちろんその通りではあるのだが、このような苦行を自らに強いる、そういう性からはどうやら逃れられそうにない。
chinaさん、またやったら出していい?

<yosaku508>


(15:48)

2008年08月19日



これはカツミのEB54という機関車。昭和30年代初頭の製品らしい。
3線式Oゲージの入門用として普及したモケイである。

このEB54の他、普及したデッキ付きの電気機関車としては、EB50という形式の製品が、戦後すぐから昭和40年代まで生産されていた。こちらの方が圧倒的に数が多く、見かけることも多い。
では、EB50とEB54とはどう違うのだろうか。
確かにデッキが付いていて、正面1枚窓など、全体の構成は大差ないが、後者の方が全長が短い。
つまり全体が “ころっ” としていてかわいらしく、カッコよいのである。
もしもEB50を手に入れられれば、次にこのEB54が欲しくなるのがマニアの心理らしい。
現在、希少価値も手伝って、オークションなどでもたまに出てきても、結構な値段が付いている。

かく言う私も、“欲しいなあ…”と思っていつつも、このイレギュラーな世界により深くはまってしまいそうで、自ら手を付けてはいけないもの、という気がしていた。
しかし縁というものはある。たまたま立ち寄った銀座の天賞堂で売っているのに出会ってしまったのだ…。

さて、喜んで買ってきたはいいものの、家に帰って落着いてみると、そのモケイの状態には愕然とせざるを得なかった。
そもそも最初から付いていなかったものも含めて、パーツの欠損が著しい。パンタはひん曲がり、塗装もぼろぼろ…。何でこんなものにお金を使ってしまったのだろう…、売る方も売る方だ、良心の呵責はないのか、なんて(いつものことではあるのだが)後悔と怒りが込み上げる。でも、もう手遅れだ。
この背負った十字架からのがれる方法はただひとつ、そう、自分の手できれいにしてやる他はない。

ところで、ちょっと気持ちを入れ替えてこのモケイを見てみれば、そこからは昭和30年代の空気が少し読めてくる。
現在、鉄道模型のキットとは、ほとんどの場合、必要なパーツは全て入って売っている。せいぜい、モーターとパンタ、カプラーを自分で揃える、その程度だ。
昭和30年代、確かにそういう売り方をされていた製品もあった。しかし、その裾野は現在からは想像も付かないほど広かったようだ。
つまり、町の小さな模型店:教材店でも小売りしていたし、さらにはほとんど駄菓子屋のような店でも、細かいパーツを売っていた、と聞く。
これはどういうことか?。
トータルキット、ましてやメーカー完成品など間違っても買えない(買ってもらえない)少年達でも、自分の予算に応じてパーツを買い揃え、1台の機関車をでっち上げることが可能だった、ということだ。

そういう目でもう一度この模型を見てみよう。
屋根の上に付いているのはパンタのみ。本来渡り板とエアタンク、ヘッドライトが付いていなければならない。足回りも、あきれる程に何のパーツも付いていない。さらには、車体と同じ色に塗られていなければならないデッキも、真鍮の地色のままだ。写真からはわからないが、モーターを含めた動力系やカプラーなどは、ねじを使わず器用にワイヤーでとめてある部分も多い。
つまり、かつてのオーナーは、それを走らせるための、本当にギリギリに必要なパーツを買うお金しか持っていなかった。それでもどうしても機関車が欲しかったのだ。
この機関車を組み上げた50年前の少年の、そんないじらしさには思わず目頭が熱くなってしまう。

しかしそんなことを考えても、50年後のおやじが手にしてしまった現実は何一つ変わりはしない。
半泣きで取組んだこの機関車がどうなるかは、また今度。

関係ないが、天賞堂でこれを買おうとして、まさにサイフからお金を出した時、“えー、それ買うんだ”、と声をかけてきた人がいた。ぎょっとして振り返るとそれはS水さんだった。
確か、前にも同じようなことがあったが、よりによって、こんなモノを買う場面を他人には見られたくなかった…。

<yosaku508>



(19:55)

2008年06月21日



Oゲージ 3線式とは、昭和40年代初頭までにはほぼ絶滅した鉄道模型の規格である。

線路の幅は32ミリ、大きさはHOゲージに比べると、体積にして約4倍。文字通り3本の線路の上を走り、絶縁されていない左右の車輪の間にはシューが付いており、真ん中の線路をこすりながら集電する。

戦前から存在した、超高級な玩具としての鉄道模型が、戦後間もなく老舗のメーカー各社から、比較的廉価な価格で販売され、長らく少年達の憧れの模型として君臨していく。古くからの模型ファンは、間違いなく誰もが手を染めてきたはずだ。
しかし、次第に裕福になっていく時代の中で、見た目も走りもより高度なものが求められることとなり、こんな素朴な模型は次第に衰退していってしまう。そしてその主流が、HOゲージ、さらにはNゲージへと移行していくのはご存知の通り。

写真は、先日ヤフオクで¥22.500で購入したカツミ製のEB58。
私自身は、当然こんな模型の時代には生きていない。
私にとっての鉄道模型とは、写真で見た、あるいは自分の目で見た車両に憧れ、できる限りその再現を目指してきたものであって、こんな骨董品のような模型は、アンティークのおもちゃと一緒で、その手のマニアのためのものだとずっと考えてきたのだった。
ところがある時、その実物に “触れる” 機会があったばかりに、もともと無節操な私は一気に心を奪われてしまった。

HOやナローの模型を見慣れた目には、両手で支えて持つ、ずっしりと重いその感触が新鮮だった。
恐らくは、私が生まれる前のものであろう。そんな長い年月を経てきたものだけが放つオーラはすごいものだ。価格を抑えるため、というブリキ製のボディーはどこか華奢で、床板もない車内には、巨大なモーターとウェイトがむき出しで乗っているだけ。伝導も、モーターから直接車軸のウォームにかけられている、という単純極まりないもの。
しかし、実物をディフォルメさせたデザインはなかなか秀逸で、その重厚な走りにも魅了されてしまう。

鉄道模型というものが、今よりもはるかに一般的なものだった時代。クリスマスともなれば、出荷が追いつかない程のオーダーがあった、といわれる。もちろん、ある程度裕福な家庭の子どもに限られたことだとは思うが、これを与えられた少年達の喜びとはどれ程のものだったろう。
それこそ夜も眠れぬ程に欲しいものがあり、恐る恐る親にねだってみる、そんな意識が大人も子どもも希薄になってしまった現代だからこそ、こんな模型ひとつから様々に見えてくる光景もあるのだ。

私ははまってしまいそうで、大変恐ろしい。




(17:51)