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 台湾西岸の中部、彰化県に鹿港という鎮がある。以前の記事でも紹介したが、中国や台湾で鎮と言うのは、市よりも小さな、日本で言うところの町や村を指す。行政区分の一つでもある。

 鹿港は古くは天然の良港を持つ街として栄えた。しかし港湾に河川の堆積物が堆積して港の機能性が落ちたことに加え、彰化平原の輸送がより重視されて彰化や員林に南北の縦貫線が通されたため、海岸沿いの鹿港は主要鉄道路線網から外れた。これにより鹿港は経済的な発展からは置いて行かれ、現在では古い町並みを残す小さな海岸の町である。

 とはいえ、鹿港から彰化や員林まで、かつては鉄道が敷かれていたこともあった。日本統治時代には台湾での製糖業が盛んになり、台湾各地に専用の軽便鉄道が敷かれた。鹿港にも製糖会社が敷設した糖業鉄道があり、一般旅客の輸送も行っていたとのことである。

 現在では当時の明治製糖が作った鹿港駅が残されており、どうやら食堂として利用されているようだった。なぜドラえもんが置かれていたのかはわからない。

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 ついでなので、鹿港に鉄道を敷いていた製糖会社のことを調べてみた。新高製糖が彰化まで、明治製糖が員林や渓湖まで敷設し、戦後には統合されたとのこと。新高製糖という会社は聞いたことがなかったが、どうやら昭和の初めごろに大日本製糖に合併されたようだ。

 2017年現在、三菱商事の100%子会社となっている大日本明治製糖という会社がある。ばら印で有名な日本の大手製糖会社の一つであり、大日本製糖と明治製糖が合併してできた会社である。両社とも設立には渋沢栄一が関係しており、20世紀初めごろから台湾での製糖業を始めている。

 つまり鹿港から彰化や員林まで鉄道を敷設していたのは、今の大日本明治製糖ということになる。

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 太平洋戦争後、つまり日本統治が終わった後は、確か国民党政府が製糖工場や鉄道などの資産を接収したはずだが、少なくとも1970年代頃までこの鉄道は走っていたとのことである。

 恐らく当時走っていたものであろうディーゼル機関車が展示されていた。

 これらを見て、いろいろと考えることもある。日本が台湾に行っていたのはいわゆる植民地支配である。言葉の定義や西洋との手法の違いなどが取りざたされることもあるが、私的にはそんな細かい定義の話はどうでもよい。

 日本が台湾を植民地として統治し、結果的に台湾に経済や産業の発展をもたらしたのも、それらの成果を搾取したのも事実である。法治を持ち込んで治安を良くしたのも、抵抗する人を弾圧したのも、やっぱり事実だ。それらは台湾の民のためを思ったなら善で、自分たちの利益のためなら悪、なのだろうか。結果的に経済的に豊かになったら善で、貧しくなったら悪、なのだろうか。そもそも当時生きていた人たちは、悪行と思って歴史を動した人なんておらず、みんな善かれと思って精一杯やっただけではなかろうか。

 結局善悪なんて、一つの事実に対して、勝手な歴史観や判断基準、あるいは倫理観やパワーバランスなどによって都合のいいように解釈されるだけなのだろうと思う。我々の時代、私たちの国、人類、地球、その他諸々が、後世の歴史家にどのように評価されるのか見てみたい気もする。

【写真】2011年12月
【文章】2017年12月
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