March 03, 2008

◆一青窈×武部聡志の夕べ。◆

e2d02218.jpg久しぶりに、一青窈さんのコンサートに行きました。
バンド構成ではなく、生楽器中心の、
シンプルでこじんまりとした編成なのが新鮮です。
場所はクラシックホールの中でも由緒ある、
東京文化会館。

 

 

ここは、わたしが第九を歌ったときの同じホールです。
同じ土俵に…だなんて、おこがましいことは決して言えないけれど、
そういう共通点、ってなんだか嬉しい。
勝手に繋がっているような気がしてしまうのです。

 

 

彼女のプロデューサーを勤める武部さんをパートナーに据えて、
幼い頃からのエピソードや想いなどを合間合間に挟みながら、
思い入れのある曲、その情景に縁のある曲、などが
普段とは違うアレンジを成されて展開されてゆきます。

彼女はいろんな意味で欠けている人だなあ、と感じる。
決して幸せいっぱいの何不自由なく育った少女時代ではなく、
父を亡くし、母も亡くした、その“家族の欠落”が
彼女の人生に大きく影響しているのは確かで。
もう少女ではない今でも、彼女はたぶん、
埋めることのできない空虚感を抱いて生きている。
“死”というものと、“家族”、そのいずれも持つ巨大な質量。
友達がたくさんできて、いい人たちに出会えて、恋愛もたくさんして。
けれど、彼女はどこかずっと、欠けたままなんだろう。
そして、欠けたままで生きてゆくんだ、という
何か悲壮感に満ちているとも思えるような強い意思、決意すら感じる。

けれど、欠けているのと同じ分、満たされることに貪欲で、
また、それ以上に“満たしてあげたい”という気持ちに溢れている。
驚くほどに与えたがりな人なのですね。
それが、彼女のあのブレることのない“強さ”“気丈さ”を
支えているのかもしれない。

 

彼女の歌は決して“癒される”とか“心地よい”といった部類ではなく、
どちらかというと、裸の感情、少し斜めに見ているシニカルさ、
そういうものがちらちらと見える歌詞に、居心地の悪さを感じるときも少なくない。
でも、なんだか、なぜだか、気になってしまう。
そして、油断していると、思いもかけず繰り出されるあたたかさや、
オンナノコな部分にやられてしまうのだ。

そうやって不可思議なバランスを取っていられるから
より魂にまっすぐ入り込んでくる、少し痛い歌を歌えるのかもしれない。
意味は違うけれど、欠けている人間、という点では
わたしと彼女は、深い共通点がある。
『お綺麗ごと』なだけの人生を通ってきたのではない彼女に
どこか憧れや羨望のような感情を抱いてしまう。
人間くさい、生々しい部分、それを見つけて安堵するような。

 


だから彼女の歌にひかれているのかもしれないな。



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