【世鬼一族】
 毛利元就の謀略戦術には、よく忍者が登場する。毛利家臣の家に伝わる諸記録を集成した『萩藩閥閲録』(毛利家文書)などを見ると、毛利氏の有名な忍者に世鬼一族の名がその史料に出てくる。

「常々御中間に罷り成り、そのうちへ相交わり、地下にても御中間ととなえ候を御奉公といたし候。敵の有り様を上聞に達し、自分を捨て御奉公つかまつり候。度々敵にもからめられたる儀も御座候・・・」(『萩藩閥閲録』』)

同書によると、元就に仕えていた忍者は25人で、その一人一人が一族をなして、領内に潜んでいた。

世鬼一族は領地をあてがわれ300石を給されていた。忍者としてはかなりの優遇だが、その身分を隠して中間の姿をしていたというのである。こうした忍者が25家あったとすれば、これはたしかに毛利の陰の軍団をなしたことになり、あらゆる策略をもって難関を切り抜けた元就ならではの特異な家臣団である。

合戦前夜の敵地に潜入して暗躍したのは彼らである。彼らは安芸に所領を貰っていた。表向きは中間として務め、極秘命令を授けられて諸方にとんだことが見える。彼らは細大漏らさず各地の情報を元就に伝え、また謀略を駆使する元就の手足となって暗躍したのである。

 世鬼家は、藩世時代になってから「世木」の旧姓に復した。いかにもおどろおどろしい「鬼」の字を嫌ったものだろうが、元就から見出されて暗躍したこの頃は世鬼を名乗っていた。『萩藩閥閲録』を見ると、世木太郎兵衛が書き出した家系には「私家の儀は今川の末裔、駿河久野坂の領主、遠州佐野郡に一城を構え、世木と申す所に居住つかまつり居り候。領主世木但馬守義房弟・修理大夫義包、その身勇気抜群の者也。しかれども一家と不和にして浪人に罷り成り、諸国武者修行に罷り出候」とある。

 流浪の旅に出た修理大夫義包の子・右衛門五郎政久は京都に入り山名宗全の家に身を寄せる。

 文明元年(1469)3月16日、細川勝元が大軍を以て宗全が家を囲んだとき、政久は大いに戦って7ヵ所に疵を負い、歩行の不自由な体となった。

 しかし政久は武道の達人だったらしく、だれかが召抱えてくれるだろうと、芸州にくだった。政久には二人の子供がいた。兄を太郎政親、弟を修理亮政長という。軍学に通じ、武芸にも長けていた政親は、安芸の豪族高橋氏に仕官。高田郡垣瀬の郷、宗利村世鬼に給領地を貰ったので、このときから世鬼姓を名乗る。

 中国に流れてしばらくは野盗の類となって安芸一円に跳梁した。政親の父政親は高橋氏に仕えたが、重用されず、給地を追われて犬伏山に潜んで農耕と狩猟で生活していた。元就がこの一族を知り、登用させた経緯は不明である。しかし多治比三百貫にすぎない猿掛城主では、いかほど扶持を与えようもなく。しばらくは犬伏山一帯を世鬼領として安堵するということで、表向きには中間として元就の家臣に加わる。世鬼政時が最初の働きを示したのが有田・中井出の合戦といわれている。

 元就が出雲の攻略に成功すると、世鬼一族の本拠は出雲に移して3万石という破格の扱いとした。このころになると世鬼は毛利領内に25家にのぼる諜報網を張りめぐらしたのである。
 
元就は中間の名目で世鬼一族をはじめとするおびただしい忍びを養い、以後も様々な場面で暗躍させ情報活動と謀略手段として彼らを駆使したのである。


 令和元年も宜しくお願い致します。