【列伝】備後国人衆。子元祐(元将)。壱岐守、右衛門大夫。今高野山城、備後世羅郡沼城主。
備後の中央部で中世の荘園高野山領太田荘の世羅台地に、今高野山城を築き近隣に威を振った国人で、上原氏は、双三郡吉舎町の南天山城の有力国人和智氏の一族である。
和智氏自身も藤原秀郷の子孫、武蔵広沢発祥の広沢氏の一族である。広沢実村の嫡男実綱は江田村に土着して江田氏を名乗り、次男の実成は和智村に土着して和智氏の祖となった。
和智氏はその後、南天山城を築いて本拠を移し、室町時代の末期、和智豊実の長男実国は、南下して世羅郡上原村に土着した。これが上原氏の始まりである。
上原氏には系図が残っていないため家系図等は不明。史料を総合してみると、実国の後は、豊後守元実(家実)、壱岐守豊将、右衛門大夫元将(元祐)と続き、元実の嫡男豊郷は和智豊広の養子となって本家を相続した。このことは初代実国が長男であったことと合せて上原氏の和智一族内での地位が相当高かったことが想像される。
豊将はいち早く安芸の毛利元就と結び、備後における地位を高めていった。「豊将と申す者は元就様へ馳走を遂げ、備後御弓箭の節、一方御用に立ちたる者に候」(『桂岌円覚書』)と言われた程で、毛利氏に協力し、嫡子元将の妻には元就の三女を迎えている。毛利家の親類となったことで、元就の上原氏に対する信頼と重視を示すと共に、上原氏の在地に於ける実力がいかに強力であったかを示している。
永正年間(1504~20)、上原から芦田川をはさんで南方にそびえる今高野山(甲山)に大規模な山城を築いて居城とした。
『芸藩通志』には「今高野山城 甲山町の内、東神崎村の界にあり、相博ふ、上原豊後元廣、同右衛門大夫元祐 永正頃より、此に拠る、後元祐は、西上原村沼城に移る」とある。
さらに同書には、「沼城 西上原村にあり、天正四年(1576)、上原右衛門大夫元祐、今高野山より、此に移る、後楢崎弾正に陥らると云」とある。
沼城跡は今高野山城本丸から眼下に見下すことのできる平城だ。同書も、「按に、此城(沼城)、今高野山を去ること、僅に五町計、其地勢、彼は瞼唆にして、此は平夷なり、恐らくは、かれは、防戦に備へ、此は常居とせしならむか」と記しているように、上原氏は、平時は沼城に任し、一朝有時に今高野山城に立て篭もったのであろう。
大永年間、山伝城主高橋某と争う。このように上原氏は堅固な山城を構え、寺院の造営等も行なつて国人衆としての基盤を固めていった。
天文九年(1540)、吉田郡山城の戦いで子元祐と共に活躍するが、居城の今高野山城山麓の龍華寺も焼け落ちた。
弘治二年(1556)、中世太田庄の政治的、精神的な中心であった「今高野山」の伽藍(山城跡の北東麓にある)も修築した。
現在、今高野山龍華寺には、「大旦那藤原氏和智右衛門大夫豊将」、(「弘治二歳丙辰三月吉日」の銘のある燈明台が残っており、同安楽院の本堂(県重文)は上原氏の寄進になるもので、元々沼城内にあったものという。
弘治三年(1557)、付の起請文に備後の国人領主たちが毛利元就に忠誠を誓う文書を出している。いわゆる傘連判状とよばれるもので、毛利氏は防長に進出した際、芸備の国人領主らと軍勢統率に関する契約を認める書状に、元就・隆元を含めて十八人の領主たちが署名を連ねているが、和智一族は誠春をはじめ上原豊将・柚谷元家・新見元致ら四人の名があり、和智氏の力は大きなものがあった事が分る。
天正四年(1576)、居城今高野山城から沼城に変更。
天正十年(1582)、毛利家は清水宗治の守る備中高松城を支援するため、周辺の城を強化した。これらの城を「境目七城」と言う。嫡子元将はその一つ、高松城南方の日幡城に援軍として手勢を率いて入城した。
四月、羽柴家の黒田孝高等が、元将の国衆としての微妙な立場を突いて調略を開始。上原氏は和智氏の一族として備後国衆であったが、元将の妻が元就の娘という関係で毛利氏の親類としての立場も持っていた。
国衆とは元々毛利氏が戦国大名となる以前は同格だった国人領主のことで、この時期にも毛利氏に対しては対等の意識をもっていた。半独立的な行動の自由をもち、主人の力が弱まれば敵方へ寝返って当然という意識である。黒田孝高等はこの上原氏の国衆としての立場を突いて味方に誘った。さらに元将には毛利の親類としての立場もあったから、彼を味方に引き入れた場合の毛利方の受ける影響は、一国衆の場合より比較にならないほど大きかったのである。
昭和63年に発見された密書に上原元祐宛ての密書ではないかと言われており、その中で秀吉は、眼の前の戦局が秀吉側に断然有利であることを説いて、早々に内応することを要求し、さらに織田軍が関東や東北地方を平定し、近く信長自身が中国へやってくる、という偽りの情報も流している。次に東国の儀、甲州武田四郎(勝頼)首を刎られ、関東の事は申すに及ばず奥州迄平均に仰せ付けられ、近日上様御馬を納められ、即ちやがてこの表へ御動座ならるべきの旨に候」虚実の情報を流すことで自軍の隆盛を示し、敵の戦意を喪失させるという秀吉の戦略をこの密書は垣間見せてくれる。
五月、密書が直接の要因となったかは不明だが、遂に元将は秀吉方に内通し、城主の景親に寝返りを進めるも失敗、景親の実弟大森蔵人を誘い、日幡城主・景親(季則)を討取ってしまう(『陰徳太平記』)。
秀吉方の予想通り、毛利方は動揺し、この時、小早川隆景は側近に対して、「御縁者上原さへてきに罷成候上ハ、国々共無御心元」と言って吉川広家と共に終日陣所に詰めたという。事実、出雲の三沢氏、備後の久代宮氏等は敵方に内通したという噂が広まり、毛利勢を敗北寸前まで追い詰めた(『萩藩閥閲録』五三等)。
事実、出雲の三沢氏、備後の久代宮氏等は敵方に内通したといううわさが広まり、毛利勢を敗北寸前まで追い詰めた(『萩藩閥閲録』五三等)。だが、この直後、本能寺の変が勃発、秀吉は直ちに毛利氏と講和して東上を開始する。こうなれば元将の行き場は無くなり、寝返りに怒った小早川隆景が家臣の楢崎忠正(元兼)に城をすぐに奪い返させたのである。
元将の妻はこの時沼城にいたが、朝山城主楢崎元兼によって無事救出され吉田へ送られたという(『萩藩閥閲録』五三等)。
『陰徳太平記』には、京に逃れ、秀吉から千石の捨扶持を与えられ二年後寂しく客死したと記す。また羽柴氏に内通したため激怒した正室に討たれたとも、すぐに小早川勢によってあえなく討取られたとも云われる(『桂岌円覚書』等)。
元就の三女を迎え、毛利家のために尽くしたが、息子元将が残念すぎてならない。
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