2008年08月02日
あんぱ
世の多くの女性の例に漏れず「キャラクターもの」に強いこだわりを持つ妻は、その審美眼に適わないキャラクターグッズが家の中に侵入しないよう細心の注意を払ってきたが、その厳重なセキュリティの網を軽々とくぐり抜けて、彼は娘の元へやってきた。
一体いつ誰が与えたのかまったく分からないうちに、気がつけばシール、気がつけば風船とあの丸顔のヒーローのアイコンは次々と増殖していった。孫が反応を示す商品を手当たり次第に購入する曾祖母と祖父母、さらには姪を溺愛する妹夫婦まで味方に付けて、彼とあーちゃんの約束の王国の建設は粛々と進んでいった。ジョージ、ババール、エルマー、Suicaペンギン、エルモ、etc。ぬいぐるみの屍は累々と山を成し、辛うじて出生時から彼女の子守を勤めたミッフィーだけが粛清を生き延びた。
我が娘がアンパンマンとその神話世界の虜にされていくのを止める術を、我々は全く持たなかった。まるで女王陛下のMI6を以てしても、子供たちにドナルド・マクドナルドの存在を秘匿しておくことは不可能なように。
最終的にはいつも「あんパンチ」に頼る粗暴さや、顔面を破壊されてもすぐにジャムおじさんに複製を作ってもらえる安易な設定が子供たちの生死観に悪影響を与えるなどなど、屁理屈好きのお父さんの屁理屈も、「あんぱ!あんぱ!」のシュプレヒコールの前では全くの無力なのだった。
そんなわけで先日、一家で「横浜アンパンマンこどもミュージアム」なる施設に行ってきました。入場料は大人1000円・小人1000円ってオイ、な価格設定。大人がそれなりの入場料を取られるのは覚悟していましたが、まさか子供も大人と同じ額を取られるとは…。「お子様にはこちらのアンパンマンミニカスタネットをお付けしておりますので」ってオイ、それ大人にもくれよ。ヤフオクで売るから。
館内は三階建ての建物を上から順に見学するシステムで、3階と2階は過去のドラマの設定を再現したと思しきしょぼいジオラマが中心。合板と樹脂と塗料で作られたパステルカラーの世界は「子供だまし」という言葉そのもの。まぁ子供は面白いのかな、と思いきや、娘もガンガンに素通りする。オイオイちゃんと見ろって、と「ホラこっち、おにぎりマンがいるよ」などと言ってもクソガキャ見向きもしない。しかし、ジャムおじさんのキャンピングカー(正式名称知らず)だけは別。ハンドルを握り締めひとしきり運転したかと思うと中でパン作りに勤しみ、また運転と忙しい限り。
3階から2階に移動する際には、消防法の関係か、階段の窓から外の道路が丸見えで、けっこう白ける。東京ディズニーランドの立上げに関わったという方の話によれば、ディズニーランドの「仕掛け」の中で、最も重要なのは敷地をグルッと囲む木立なんだそうで、「ゲストを外界の風景=日常から遮断し、ディズニーの世界観に浸りきってもらう」ことが一番大事なのに、各地から来る見学者はアトラクションや売店の売り上げばかりに感心して肝心なところを見逃している、と嘆いておられた。(ちなみに氏の話によれば、ディズニーランドは遊園地ではなく「大規模小売店舗」として登記されているそうな。休日の東京駅で、絶句するほどの量の買い物袋を下げた善男善女を見かけるのも、むべなるかなである)
2階は3階にさらに輪を掛けたしょぼさで、なぜか油彩で描かれたアンパンマンと主要キャラクターの絵画(しかもレプリカ。本物は高知県の本館にあるんだとか。ありがたいですね)と、寿司や、釜飯やなどお店ごっこができるセットがあるのみ。もっとも、将来なりたいものは「ください(おみせやさんの人、ということらしい)」と漠然とした夢を語る娘にはうってつけで、父と母を客に一人で店を切り盛りする活躍ぶりだった。
そして1階では本日のメインイベント、「アンパンマンショー」のご開帳である。折よく10分後に始まるということで、半円形の客席の真ん中やや左の中段に陣取る。平日夕方のせいか、MAX70人程度の席数に2/3程度の入り。それでも集客率なら世界のFC東京さんより上だったりして。
歌のお姉さんからダンスのレクチャーを受け(けっこう難しい)、いよいよアンパンマンの登場。もちろん着ぐるみなのだが、着ぐるみと言っても結局ふつうの人がでかい頭のかぶり物をかぶってるだけだから、体のバランスが悪く、気持ち悪い。『伝染るんです』の「こけし」みたいな感じで、近くに来られるとけっこう引く。娘も若干怯えていた。
しかしですよ、歌と踊りのショータイムに入るとさすがだねぇ、子どものハートをワシ掴みですよ。家ではKINGでもアウェイに弱い我が娘が、お姉さんの音頭に合わせて「あんぱーんまーん」と大きな声で歌い踊る。子どもってこんなに素直なんだ、とちょっと驚く。
かつて私は、上にきょうだいがいたこともあり、ひねくれた子どもだった。縁日にウルトラマンが来れば、後ろに回ってジッパーを下ろそうとするようなガキだった。もったいないことをしたと今では思う。巨大な怪獣と戦うウルトラマンが、商店街のオッサンたちと同じくらいの背丈の訳はない。あのジッパーの下に誰がいるのか、それはいつか自然に分かることである。そんなつまらない、「そのうちにわかること」を同年輩の子どもより先に知ることで大人になったような錯覚をして、「ウルトラマンだ!すげえ!」とアホみたいな歓声を上げるチャンスを、子どもだけに与えられた特権を行使する機会を永遠に喪失したことを、心からもったいないと思う。
半日走り回って疲れ果て、しかし「夢の国」に足を踏み入れた興奮で眠れない彼女。ようやく外に出てベビーカーに乗せると、50Mも進まないうちに眠ってしまった。家に帰り着き、抱きかかえて布団に移しても目を覚まさない。そのまま4時間眠り、目を覚ましてカップの水を一気に飲み干すと、手を振り足をバタバタさせながら「あんぱんま〜んってったの!」などと興奮冷めやらぬ様子で昼間の出来事を話し続ける。うんうんわかったそうかそうか、とひとしきり相槌を打って布団に寝かしつけると、またすぐに眠ってしまった。
横浜限定の「チャイナ服を着たアンパンマン」のぬいぐるみを抱いて前も後ろもなく眠る娘。その姿を見ていると本当に胸が熱くなった。じーんとしてしまった。だってこの人はきっと、ほんとうのアンパンマンに会って握手したんだと思っているんですよ?
我々は、あれがみなとみらい線に乗って訪れ、一人当り千円を払って入場するところの施設であることを知っている。資本家が子供の親から金を取ることを主たる目的として建設した施設であることを知っている。いつか彼女が「しくみ」を理解し、あれほどまでに魅了されたギミックの全てに何の価値も見出せなくなることを知っている。しかし今日の彼女にとっては、あれは紛れも無い「夢の国」だったし、その中心で彼女は法王自らの祝福を受けたのだ。
「夢の国」の記憶を夢の中で反芻し、「…あんぱんまん」(本当に言ったんだ)と呟く娘のわずかに汗をかいた小さな額を撫で、いつか失われていくその無垢を思い、そっと毛布を掛け直してやる父と母なのでした。
また行こうな。
一体いつ誰が与えたのかまったく分からないうちに、気がつけばシール、気がつけば風船とあの丸顔のヒーローのアイコンは次々と増殖していった。孫が反応を示す商品を手当たり次第に購入する曾祖母と祖父母、さらには姪を溺愛する妹夫婦まで味方に付けて、彼とあーちゃんの約束の王国の建設は粛々と進んでいった。ジョージ、ババール、エルマー、Suicaペンギン、エルモ、etc。ぬいぐるみの屍は累々と山を成し、辛うじて出生時から彼女の子守を勤めたミッフィーだけが粛清を生き延びた。
我が娘がアンパンマンとその神話世界の虜にされていくのを止める術を、我々は全く持たなかった。まるで女王陛下のMI6を以てしても、子供たちにドナルド・マクドナルドの存在を秘匿しておくことは不可能なように。
最終的にはいつも「あんパンチ」に頼る粗暴さや、顔面を破壊されてもすぐにジャムおじさんに複製を作ってもらえる安易な設定が子供たちの生死観に悪影響を与えるなどなど、屁理屈好きのお父さんの屁理屈も、「あんぱ!あんぱ!」のシュプレヒコールの前では全くの無力なのだった。
そんなわけで先日、一家で「横浜アンパンマンこどもミュージアム」なる施設に行ってきました。入場料は大人1000円・小人1000円ってオイ、な価格設定。大人がそれなりの入場料を取られるのは覚悟していましたが、まさか子供も大人と同じ額を取られるとは…。「お子様にはこちらのアンパンマンミニカスタネットをお付けしておりますので」ってオイ、それ大人にもくれよ。ヤフオクで売るから。
館内は三階建ての建物を上から順に見学するシステムで、3階と2階は過去のドラマの設定を再現したと思しきしょぼいジオラマが中心。合板と樹脂と塗料で作られたパステルカラーの世界は「子供だまし」という言葉そのもの。まぁ子供は面白いのかな、と思いきや、娘もガンガンに素通りする。オイオイちゃんと見ろって、と「ホラこっち、おにぎりマンがいるよ」などと言ってもクソガキャ見向きもしない。しかし、ジャムおじさんのキャンピングカー(正式名称知らず)だけは別。ハンドルを握り締めひとしきり運転したかと思うと中でパン作りに勤しみ、また運転と忙しい限り。
3階から2階に移動する際には、消防法の関係か、階段の窓から外の道路が丸見えで、けっこう白ける。東京ディズニーランドの立上げに関わったという方の話によれば、ディズニーランドの「仕掛け」の中で、最も重要なのは敷地をグルッと囲む木立なんだそうで、「ゲストを外界の風景=日常から遮断し、ディズニーの世界観に浸りきってもらう」ことが一番大事なのに、各地から来る見学者はアトラクションや売店の売り上げばかりに感心して肝心なところを見逃している、と嘆いておられた。(ちなみに氏の話によれば、ディズニーランドは遊園地ではなく「大規模小売店舗」として登記されているそうな。休日の東京駅で、絶句するほどの量の買い物袋を下げた善男善女を見かけるのも、むべなるかなである)
2階は3階にさらに輪を掛けたしょぼさで、なぜか油彩で描かれたアンパンマンと主要キャラクターの絵画(しかもレプリカ。本物は高知県の本館にあるんだとか。ありがたいですね)と、寿司や、釜飯やなどお店ごっこができるセットがあるのみ。もっとも、将来なりたいものは「ください(おみせやさんの人、ということらしい)」と漠然とした夢を語る娘にはうってつけで、父と母を客に一人で店を切り盛りする活躍ぶりだった。
そして1階では本日のメインイベント、「アンパンマンショー」のご開帳である。折よく10分後に始まるということで、半円形の客席の真ん中やや左の中段に陣取る。平日夕方のせいか、MAX70人程度の席数に2/3程度の入り。それでも集客率なら世界のFC東京さんより上だったりして。
歌のお姉さんからダンスのレクチャーを受け(けっこう難しい)、いよいよアンパンマンの登場。もちろん着ぐるみなのだが、着ぐるみと言っても結局ふつうの人がでかい頭のかぶり物をかぶってるだけだから、体のバランスが悪く、気持ち悪い。『伝染るんです』の「こけし」みたいな感じで、近くに来られるとけっこう引く。娘も若干怯えていた。
しかしですよ、歌と踊りのショータイムに入るとさすがだねぇ、子どものハートをワシ掴みですよ。家ではKINGでもアウェイに弱い我が娘が、お姉さんの音頭に合わせて「あんぱーんまーん」と大きな声で歌い踊る。子どもってこんなに素直なんだ、とちょっと驚く。
かつて私は、上にきょうだいがいたこともあり、ひねくれた子どもだった。縁日にウルトラマンが来れば、後ろに回ってジッパーを下ろそうとするようなガキだった。もったいないことをしたと今では思う。巨大な怪獣と戦うウルトラマンが、商店街のオッサンたちと同じくらいの背丈の訳はない。あのジッパーの下に誰がいるのか、それはいつか自然に分かることである。そんなつまらない、「そのうちにわかること」を同年輩の子どもより先に知ることで大人になったような錯覚をして、「ウルトラマンだ!すげえ!」とアホみたいな歓声を上げるチャンスを、子どもだけに与えられた特権を行使する機会を永遠に喪失したことを、心からもったいないと思う。
半日走り回って疲れ果て、しかし「夢の国」に足を踏み入れた興奮で眠れない彼女。ようやく外に出てベビーカーに乗せると、50Mも進まないうちに眠ってしまった。家に帰り着き、抱きかかえて布団に移しても目を覚まさない。そのまま4時間眠り、目を覚ましてカップの水を一気に飲み干すと、手を振り足をバタバタさせながら「あんぱんま〜んってったの!」などと興奮冷めやらぬ様子で昼間の出来事を話し続ける。うんうんわかったそうかそうか、とひとしきり相槌を打って布団に寝かしつけると、またすぐに眠ってしまった。
横浜限定の「チャイナ服を着たアンパンマン」のぬいぐるみを抱いて前も後ろもなく眠る娘。その姿を見ていると本当に胸が熱くなった。じーんとしてしまった。だってこの人はきっと、ほんとうのアンパンマンに会って握手したんだと思っているんですよ?
我々は、あれがみなとみらい線に乗って訪れ、一人当り千円を払って入場するところの施設であることを知っている。資本家が子供の親から金を取ることを主たる目的として建設した施設であることを知っている。いつか彼女が「しくみ」を理解し、あれほどまでに魅了されたギミックの全てに何の価値も見出せなくなることを知っている。しかし今日の彼女にとっては、あれは紛れも無い「夢の国」だったし、その中心で彼女は法王自らの祝福を受けたのだ。
「夢の国」の記憶を夢の中で反芻し、「…あんぱんまん」(本当に言ったんだ)と呟く娘のわずかに汗をかいた小さな額を撫で、いつか失われていくその無垢を思い、そっと毛布を掛け直してやる父と母なのでした。
また行こうな。
2008年05月22日
水平投射と、それらに分断されたもの
2005年7月9日、東京ダービー試合前に起きた灰皿事件(東京サポーターがヴェルディゴール裏に向かってチャントを歌いながら行進し、これに抗議したヴェルディサポーターに対して、東京サポーターの一人が金属製の灰皿の蓋を投げつけ、怪我を負わせた事件)は私に深いショックを残したし、それは今でも消えていない。私は行進に加わってはいなかったけど、それでも私自身の一部があの事件に含まれているように感じた。今でも時折そう思うことがある。灰皿事件について何か書くことができたら、というのはこのブログを書き始めた動機の一つであるのだが、未だにあの鉄塊が切り裂いた傷口から見えたものについて、正確に語る言葉が見つからないでいる。
そして、5月17日に埼玉スタジアムで行なわれた、浦和レッズ‐ガンバ大阪戦の試合後に起きたサポーター同士の衝突からも、灰皿事件と同質の衝撃を受けた。なかでもゲートフラッグのポール部分が人間に向かって水平に投じられる映像は、本当にショックだった。槍がその指先を離れる瞬間、彼らはそれが誰かの目や頭に当たったらどうなるか、一瞬でも考えただろうか。数人の負傷者たちが最大でも骨折程度で収まったのは、単なる幸運に過ぎない。もっとひどい事にだって成り得たのだ、本当に。Jリーグで最も運営の行き届いたスタジアムと統制の取れた観客といえば、それは埼玉スタジアムの浦和サポーターであることは間違いない。それが無念さを膨らませる。
埼スタでまで、こんなことが起きてしまうのか、と。
現場にいなかったので確かなことは分からないが(仮にその場にいたとしても、そこで得た自分の立場に沿った断片的な事実から描けるものは、あくまで「自分の視点からの」真実であって、多少の臨場感はあっても、絶対的な客観性を持つものではない)、複数の証言から、発端がガンバ側からの度重なる悪質な挑発であったことは事実であるようだ。しかし報復を行ってしまえば、どちらに非があろうと最終的な立場は変わらなくなってしまう。クラブ側は「試合前から水風船やペットボトルが投げ込まれていた」ことを把握していたのなら、なぜ早急に対応しなかったのか。警備員だけでは対処し切れなかったなら、何のために警察官が配置されているのか。最初から投擲を目的として物体をスタジアムに持ち込むような輩は、身柄を拘束されても当然ではないか。ゴール裏は「泳ぐのに安全でも適切でもない」場所ではあるが、治外法権の地ではない。法を著しく逸脱する行為があれば、司法、行政の介入を受けるのは当然である。
そもそもメインスタンドからの中継カメラの死角になる位置にわずかなアウェイ席を設け、緩衝帯を挟んですぐ浦和サポーターが陣取るレイアウトは、いずれこのような騒ぎが起きることも十分予想できたはずだ。にもかかわらず、浦和の公式「謝罪」コメントから、私は真摯な謝罪の意思を感じることができなかった。浦和運営陣には、私も遭遇した駒場での出島事件同様、このようなケースに対して関与こそせずとも、積極的に混乱を止めようとする姿勢が薄いように思われる。クラブ側はあくまでも試合のホストとして、興行主(チケットの販売者)として双方のファンが等しくゲームを楽しめるように中立的な建前を守らなくてはならないのではないか。
この事件の決着に、喧嘩両成敗の理屈を持ち込んではいけない。個々のサポーターの犯した犯罪行為については特定し得る限り追及し、当たり前だが個人個人でしっかりと償わせるべきである。しかしリーグからクラブへの制裁は、あくまで浦和を主たる対象として下されるべきだ。恣意的なチケット販売方法と席割りの帰結として当然予想できたトラブルに対し、取るべき措置を取らず騒動を拡大させてしまった主催者・浦和の責任は重い。そこに明らかな浦和ボールをガンバのスローインにしてしまった岡田主審のジャッジや、先に手を出したのはどちらか、アウェイチームが勝利の円陣を組むのは礼儀に適ったことかなどの枝葉の議論は関係ない。
Jリーグも誕生から15年を経て、いままで曖昧なまま看過されてきた部分が、段々そうはいかなくなってきた。観戦のマナー、サポーター間の仁義といった「スタジアムの非成文憲法」は、ケースの蓄積によってのみ醸成される。この騒動はそのような成長の過程における発熱のようなものとも云える。浦和には勝ち点剥奪、無観客試合など過去にない厳しい処分を下し、試合運営の重要な教訓として後世に残すべきだが、逆にこれを機に選手の審判批判を禁止しようなどと画策しているような連中には期待などできないし(審判批判を禁止するなら、審判に対するオープンな評価システムも対で設けなければならない。現状のまま審判批判だけがタブー化されていけば、状況は悪化するばかりだ)、ますます陰鬱な心持になる。
ところでJは世界標準から数段遅れているなどと日頃ご高説を垂れているライター諸氏は、この「世界標準」の乱闘事件をどう語るのだろうか。自分が当事者として参加しているときにこのような事態に遭遇すれば、状況によっては自衛行動を余儀なくされる場面もあるかもしれない。しかし、「やられたらやり返す」という復讐の論理のみがコモンセンスとして敷衍している場所が「世界」なら、そんな所に私は住みたくない。
過去に同じような事件を起こしたクラブのファンである私に偉そうな事を言う資格なんて、本当はない。かなり頑張って、この文章を書いては書き直してと繰り返している。しかしあの日同じスタジアムにいながら、あのような事件が起きたことを試合後に知ったような私だからこそ、しつこく考えて続けてしまうのかもしれないし、考える過程で遭遇したこの事件についてのログを残しておくことにも、意味よあれかしと願っている。数千万分の一の、声の一つとして。
そして、5月17日に埼玉スタジアムで行なわれた、浦和レッズ‐ガンバ大阪戦の試合後に起きたサポーター同士の衝突からも、灰皿事件と同質の衝撃を受けた。なかでもゲートフラッグのポール部分が人間に向かって水平に投じられる映像は、本当にショックだった。槍がその指先を離れる瞬間、彼らはそれが誰かの目や頭に当たったらどうなるか、一瞬でも考えただろうか。数人の負傷者たちが最大でも骨折程度で収まったのは、単なる幸運に過ぎない。もっとひどい事にだって成り得たのだ、本当に。Jリーグで最も運営の行き届いたスタジアムと統制の取れた観客といえば、それは埼玉スタジアムの浦和サポーターであることは間違いない。それが無念さを膨らませる。
埼スタでまで、こんなことが起きてしまうのか、と。
現場にいなかったので確かなことは分からないが(仮にその場にいたとしても、そこで得た自分の立場に沿った断片的な事実から描けるものは、あくまで「自分の視点からの」真実であって、多少の臨場感はあっても、絶対的な客観性を持つものではない)、複数の証言から、発端がガンバ側からの度重なる悪質な挑発であったことは事実であるようだ。しかし報復を行ってしまえば、どちらに非があろうと最終的な立場は変わらなくなってしまう。クラブ側は「試合前から水風船やペットボトルが投げ込まれていた」ことを把握していたのなら、なぜ早急に対応しなかったのか。警備員だけでは対処し切れなかったなら、何のために警察官が配置されているのか。最初から投擲を目的として物体をスタジアムに持ち込むような輩は、身柄を拘束されても当然ではないか。ゴール裏は「泳ぐのに安全でも適切でもない」場所ではあるが、治外法権の地ではない。法を著しく逸脱する行為があれば、司法、行政の介入を受けるのは当然である。
そもそもメインスタンドからの中継カメラの死角になる位置にわずかなアウェイ席を設け、緩衝帯を挟んですぐ浦和サポーターが陣取るレイアウトは、いずれこのような騒ぎが起きることも十分予想できたはずだ。にもかかわらず、浦和の公式「謝罪」コメントから、私は真摯な謝罪の意思を感じることができなかった。浦和運営陣には、私も遭遇した駒場での出島事件同様、このようなケースに対して関与こそせずとも、積極的に混乱を止めようとする姿勢が薄いように思われる。クラブ側はあくまでも試合のホストとして、興行主(チケットの販売者)として双方のファンが等しくゲームを楽しめるように中立的な建前を守らなくてはならないのではないか。
この事件の決着に、喧嘩両成敗の理屈を持ち込んではいけない。個々のサポーターの犯した犯罪行為については特定し得る限り追及し、当たり前だが個人個人でしっかりと償わせるべきである。しかしリーグからクラブへの制裁は、あくまで浦和を主たる対象として下されるべきだ。恣意的なチケット販売方法と席割りの帰結として当然予想できたトラブルに対し、取るべき措置を取らず騒動を拡大させてしまった主催者・浦和の責任は重い。そこに明らかな浦和ボールをガンバのスローインにしてしまった岡田主審のジャッジや、先に手を出したのはどちらか、アウェイチームが勝利の円陣を組むのは礼儀に適ったことかなどの枝葉の議論は関係ない。
Jリーグも誕生から15年を経て、いままで曖昧なまま看過されてきた部分が、段々そうはいかなくなってきた。観戦のマナー、サポーター間の仁義といった「スタジアムの非成文憲法」は、ケースの蓄積によってのみ醸成される。この騒動はそのような成長の過程における発熱のようなものとも云える。浦和には勝ち点剥奪、無観客試合など過去にない厳しい処分を下し、試合運営の重要な教訓として後世に残すべきだが、逆にこれを機に選手の審判批判を禁止しようなどと画策しているような連中には期待などできないし(審判批判を禁止するなら、審判に対するオープンな評価システムも対で設けなければならない。現状のまま審判批判だけがタブー化されていけば、状況は悪化するばかりだ)、ますます陰鬱な心持になる。
ところでJは世界標準から数段遅れているなどと日頃ご高説を垂れているライター諸氏は、この「世界標準」の乱闘事件をどう語るのだろうか。自分が当事者として参加しているときにこのような事態に遭遇すれば、状況によっては自衛行動を余儀なくされる場面もあるかもしれない。しかし、「やられたらやり返す」という復讐の論理のみがコモンセンスとして敷衍している場所が「世界」なら、そんな所に私は住みたくない。
過去に同じような事件を起こしたクラブのファンである私に偉そうな事を言う資格なんて、本当はない。かなり頑張って、この文章を書いては書き直してと繰り返している。しかしあの日同じスタジアムにいながら、あのような事件が起きたことを試合後に知ったような私だからこそ、しつこく考えて続けてしまうのかもしれないし、考える過程で遭遇したこの事件についてのログを残しておくことにも、意味よあれかしと願っている。数千万分の一の、声の一つとして。
2008年05月07日
20080506 FC東京●0−1○名古屋グランパス
久々の飛田給は夏のような日差し。あつかったですね、天気だけは…。
いやあ、うーん…。
まぁ、いろいろと残念な試合ではありましたが、これが今の実力とも言える内容で、あまりネガティブには捉えていません。ネタとしての「首位」はおいしいですが、今の東京がそのポジションにふさわしいチームとは言えないですから。
ただ、終了後いつまでも隣の奴が「ユースケ絶対外すと思ったんだよ…。みんななんであんな奴にコールなんかしてんだよ」などとグジグジ言っていて、うざかったです。だったらお前が蹴れよ。そりゃあ、PKをインステップで思いっきり蹴ってバーに当てるなんて未熟以外の何者でもないですが、カボレが痛んでいたら祐介が蹴るしかないし、あそこで逃げたらFWじゃない。さっさとボールをセットして他の選手に譲らない姿に、いままでの祐介にはなかったものを感じました。成長したなぁ。あとは、ああいうタフな場面でも落ち着いてコースを狙って蹴ることができるよう経験を積んでいけばいい。悠長なことを言うようですが、「自分が決める」という強い気持ちがなければ、たとえ技術が高くても何にもならないですから。道は長いが、がんばれ祐介。
ピクシーグランパスはこの試合で初めて見たので偉そうな事は言えませんが、攻撃的というより、バランスの良い堅守速攻のチームという印象を受けました。3連敗を受けての修正ということなら、さらにいい。ストイコビッチは意外と優秀な監督かもしれない。強く行くところ、仕掛けないところ、メリハリのあるプレスを掛け、奪ったボールを素早く展開するサッカーに、強いポストマン、スピードと運動量のあるサイドアタッカー、高い戦術眼と技術を持った司令塔といったタレントが非常にマッチしていて、いいサッカーでした。
特に印象に残ったのは、右SBに入ったバヤリッツァ、左SHの小川、そして中盤の底からゲームメイクした中村直志。バヤリッツァは長友と羽生のスピードにもしっかり対応し、要所でタイミングのいいオーバーラップを見せた。左SHの小川が試合を通じて高いポジション取りをしていたために右サイドの守備負担は高かったと思うが、そつなくこなした。その小川は、高めの位置から前後左右に動いてボールに絡み、また徳永、佐原がボールを持った際には効果的にけん制して東京右サイドからの圧力をかなり低減させた。そして、中村直志。最近は代表に呼ばれないものの、やはりその力は代表クラス。高い戦術眼と密集に強い技術があり、決して無理はせずに状況に応じて左右にも散らし、隙あらば縦を衝く、けれん味のないシンプルな組み立てがインテリジェンスを感じさせる。キックはあくまでも正確で、かつ運動量も守備力もなかなかのもの。栗澤は中盤で非常に良く動いてボールを受け、チーム全体の連動性とポゼッションの向上に貢献していますが、欠けているのは、直志のようなゴールへ向かう意識の高さ。彼は決して無理はしないが、プレーの優先順位では常にダイレクトなプレーを上位に置いていることが伺える。クリも頑張ってはいるが、今年は勝負の年。昨年までのような「人のいいプレー」だけでは、大竹の体力が向上するまでのセットアッパーで終わってしまう。頑張れ、さらに頑張れ、クリ。
しかし、名古屋を褒めちぎる東京ブログってのも気持ち悪いですね。たまに勝ったからってアウェイでいつまでも騒いでる田舎者なんか別に褒めたくはないんですが、まぁ、今日はこんぐらいにしといたるわって感じで。浄のナイスディレイの数々を反芻しながら寝ます。おやすみなさい。
いやー、しかしなぁ…。
いやあ、うーん…。
まぁ、いろいろと残念な試合ではありましたが、これが今の実力とも言える内容で、あまりネガティブには捉えていません。ネタとしての「首位」はおいしいですが、今の東京がそのポジションにふさわしいチームとは言えないですから。
ただ、終了後いつまでも隣の奴が「ユースケ絶対外すと思ったんだよ…。みんななんであんな奴にコールなんかしてんだよ」などとグジグジ言っていて、うざかったです。だったらお前が蹴れよ。そりゃあ、PKをインステップで思いっきり蹴ってバーに当てるなんて未熟以外の何者でもないですが、カボレが痛んでいたら祐介が蹴るしかないし、あそこで逃げたらFWじゃない。さっさとボールをセットして他の選手に譲らない姿に、いままでの祐介にはなかったものを感じました。成長したなぁ。あとは、ああいうタフな場面でも落ち着いてコースを狙って蹴ることができるよう経験を積んでいけばいい。悠長なことを言うようですが、「自分が決める」という強い気持ちがなければ、たとえ技術が高くても何にもならないですから。道は長いが、がんばれ祐介。
ピクシーグランパスはこの試合で初めて見たので偉そうな事は言えませんが、攻撃的というより、バランスの良い堅守速攻のチームという印象を受けました。3連敗を受けての修正ということなら、さらにいい。ストイコビッチは意外と優秀な監督かもしれない。強く行くところ、仕掛けないところ、メリハリのあるプレスを掛け、奪ったボールを素早く展開するサッカーに、強いポストマン、スピードと運動量のあるサイドアタッカー、高い戦術眼と技術を持った司令塔といったタレントが非常にマッチしていて、いいサッカーでした。
特に印象に残ったのは、右SBに入ったバヤリッツァ、左SHの小川、そして中盤の底からゲームメイクした中村直志。バヤリッツァは長友と羽生のスピードにもしっかり対応し、要所でタイミングのいいオーバーラップを見せた。左SHの小川が試合を通じて高いポジション取りをしていたために右サイドの守備負担は高かったと思うが、そつなくこなした。その小川は、高めの位置から前後左右に動いてボールに絡み、また徳永、佐原がボールを持った際には効果的にけん制して東京右サイドからの圧力をかなり低減させた。そして、中村直志。最近は代表に呼ばれないものの、やはりその力は代表クラス。高い戦術眼と密集に強い技術があり、決して無理はせずに状況に応じて左右にも散らし、隙あらば縦を衝く、けれん味のないシンプルな組み立てがインテリジェンスを感じさせる。キックはあくまでも正確で、かつ運動量も守備力もなかなかのもの。栗澤は中盤で非常に良く動いてボールを受け、チーム全体の連動性とポゼッションの向上に貢献していますが、欠けているのは、直志のようなゴールへ向かう意識の高さ。彼は決して無理はしないが、プレーの優先順位では常にダイレクトなプレーを上位に置いていることが伺える。クリも頑張ってはいるが、今年は勝負の年。昨年までのような「人のいいプレー」だけでは、大竹の体力が向上するまでのセットアッパーで終わってしまう。頑張れ、さらに頑張れ、クリ。
しかし、名古屋を褒めちぎる東京ブログってのも気持ち悪いですね。たまに勝ったからってアウェイでいつまでも騒いでる田舎者なんか別に褒めたくはないんですが、まぁ、今日はこんぐらいにしといたるわって感じで。浄のナイスディレイの数々を反芻しながら寝ます。おやすみなさい。
いやー、しかしなぁ…。
2008年03月12日
近所の雑貨屋に置かれていた赤ちゃんのマネキンがメンチを切るシメオネにそっくりで怖すぎる件
2008年03月09日
20080308 FC東京 1−1 ヴィッセル神戸
ムービング・フットボール。
とタイトルが付くと、なんとなく分かったような気もするけど、フットボールなんて別にそんなに難しいものじゃない。相手より多く得点するため、相手より多く失点しないために、10人のフィールドプレイヤーを効率的に配置し、それぞれが状況に応じて素早く集合離散し、守備においても攻撃においても数的な優位を維持する。その瞬間相手が最も少ない場所に一番強い圧力を掛けて突破し、その瞬間相手の圧力が最も強い場所に一番人数を掛けて守る。そして「その状況」がブレイクしたら、次の場面を的確に予想して素早く散り、相手より早く「最適な状況」を構築する。そして、これを90分間繰り返す。
簡単でしょ、理屈は? 実際にやるのが最高に難しいだけで。
世界中のほとんどのチームが理想とする(アーセナルも、オランダ代表も、城副東京も、もちろん去年の原東京も)、それだけではほとんど意味を成さない黄金のお題目だ。なにが難しいって、「最適な状況」というのが一瞬ごとに変化し、まったく同じ状況というのが存在しないこと。相手のウィークポイントは相手によって変わるし、自分たちのウィークポイントに対する攻め方も相手によって様々だ。「東京のサッカー」を構築する事は大切だが、今のところホワイトボードの上にしか存在しないそれを貫こうとする事は、難しい。まずは地道に練習を重ね、コミュニケーションを深め、フィールド上で会話するための「言葉」を作るところから始めなくてはならないし、「東京のサッカー」はそのレベルまで後退しているという認識が必要だ。
・前半はまずまずのサッカー。得点となったセットプレーなど、見たかったプレーをいくつか見せてくれた。
・しかし神戸がグダグダだったことは小さくない。逆に後半は東京がグダグダで神戸はまずまずのサッカー。
・ここ数年染み付いてしまった「相手なりのサッカー」が抜けきらないようだ。
・4-2-3-1の1トップなら、平山より祐介や赤嶺に分があるのでは?
・後半FWを入れる時は当然平山を下げると思ったのだが、石川やエメルソンを下げてしまう。
・結果、中盤のキープ力と機動性が著しく低下してしまった。
・エメルソンはコンディションを考慮してのものだろうが、それにしてもカボレを入れるなら平山を残す理由は思い付けない。
・FW多くして、球動かず。後半は中盤を厚くした神戸に試合を握られてしまう。
・神戸の同点ゴールは、古賀の左足にあれだけ機会を与えればそりゃそうなるわ、という感じ。
・ゴール裏からだと塩田のチョンボっぽく見えたかもしれないけど、神戸側で見てたのでどのボールもかなりヤラしいボールに見えた。キーパー目線だとなおさら取りにくいボールだと思う。
・これだけは負けないという技術と、その見せ方、使い方。目立った代表歴もなく、あの左足だけで生き残ってきた古賀誠史という選手は、我らが小峯隆幸と同じく、「プロのライセンス」を持つ男だと思う。
・エメルソンは思ったより動く選手でうれしかった。技術も素晴らしいし、いい買い物だったかも。
・カボレは思ったより速くて驚いた。ゴール前での怖さもあるし、いい買い物だったかも。
・羽生は思ったより上手くてなによりだ。アジアカップではボロクソに言われてたけど、運動量だけでなく密集でも落ち着いてボールをさばけるところは代表選手っぽくてステキ。
・長友はヤングメンらしくはつらつとプレーしていて良かった。こういう選手がいるせいか、徳永や茂庭が生き返った気がする。
せっかく「いい時間帯」に先制したのに追い付かれてドローという結果に、期待感と消化不良感、既視感、そしてまあこんなものかもな、という整理しにくい感情が残った。
もちろん前半のいくつかのプレーには希望を感じさせるものがあったし、新戦力の上々のパフォーマンスを見れば「今年はいけるんじゃないか?」という期待は、僕だってしてしまう。
しかし、残念ながら去年同様今年も、微妙に降格ラインを意識しつつ一桁の順位とカップタイトルを目指すシーズンとなるように思う。あるいは一昨年のような、長いトンネルを経験することにもなるかもしれない。10周年(という言い方には違和感を覚えるが)という節目のシーズンは、クラブも選手も我々も、一つのチームとなるための「臍の力」を試される年になりそうだ。
僕が思うに、チームを構築するということは、チーム内にサッカーの共通言語を作り上げることだ。共通言語なしに10人が走り回るよりは、DF4人は決められた位置から動くな、と規制した方がチームとしての動きはスムーズになる。そうやって失点を減らし強力なFWがしっかり決めてくれれば手っ取り早く勝てるようになる。しかし、そういうサッカーは昔やっていたし、そこから一段上に行こう、より強く、より魅力的なサッカーをしようと変わり始めてから今の東京の苦難は始まった。そして、そういう困難に正面から向き合い、実直に、少しづつ乗り越えて行こうとするのが僕の好きなFC東京というクラブなのだ。その原点に戻り、また登っていくためにコスタリカの英雄や、W杯を経験した代表の中心選手や、生え抜きのファンタジスタや、レフティモンスターを放出したのだと僕は理解している。
とにかく、また春がきましたね。
とタイトルが付くと、なんとなく分かったような気もするけど、フットボールなんて別にそんなに難しいものじゃない。相手より多く得点するため、相手より多く失点しないために、10人のフィールドプレイヤーを効率的に配置し、それぞれが状況に応じて素早く集合離散し、守備においても攻撃においても数的な優位を維持する。その瞬間相手が最も少ない場所に一番強い圧力を掛けて突破し、その瞬間相手の圧力が最も強い場所に一番人数を掛けて守る。そして「その状況」がブレイクしたら、次の場面を的確に予想して素早く散り、相手より早く「最適な状況」を構築する。そして、これを90分間繰り返す。
簡単でしょ、理屈は? 実際にやるのが最高に難しいだけで。
世界中のほとんどのチームが理想とする(アーセナルも、オランダ代表も、城副東京も、もちろん去年の原東京も)、それだけではほとんど意味を成さない黄金のお題目だ。なにが難しいって、「最適な状況」というのが一瞬ごとに変化し、まったく同じ状況というのが存在しないこと。相手のウィークポイントは相手によって変わるし、自分たちのウィークポイントに対する攻め方も相手によって様々だ。「東京のサッカー」を構築する事は大切だが、今のところホワイトボードの上にしか存在しないそれを貫こうとする事は、難しい。まずは地道に練習を重ね、コミュニケーションを深め、フィールド上で会話するための「言葉」を作るところから始めなくてはならないし、「東京のサッカー」はそのレベルまで後退しているという認識が必要だ。
・前半はまずまずのサッカー。得点となったセットプレーなど、見たかったプレーをいくつか見せてくれた。
・しかし神戸がグダグダだったことは小さくない。逆に後半は東京がグダグダで神戸はまずまずのサッカー。
・ここ数年染み付いてしまった「相手なりのサッカー」が抜けきらないようだ。
・4-2-3-1の1トップなら、平山より祐介や赤嶺に分があるのでは?
・後半FWを入れる時は当然平山を下げると思ったのだが、石川やエメルソンを下げてしまう。
・結果、中盤のキープ力と機動性が著しく低下してしまった。
・エメルソンはコンディションを考慮してのものだろうが、それにしてもカボレを入れるなら平山を残す理由は思い付けない。
・FW多くして、球動かず。後半は中盤を厚くした神戸に試合を握られてしまう。
・神戸の同点ゴールは、古賀の左足にあれだけ機会を与えればそりゃそうなるわ、という感じ。
・ゴール裏からだと塩田のチョンボっぽく見えたかもしれないけど、神戸側で見てたのでどのボールもかなりヤラしいボールに見えた。キーパー目線だとなおさら取りにくいボールだと思う。
・これだけは負けないという技術と、その見せ方、使い方。目立った代表歴もなく、あの左足だけで生き残ってきた古賀誠史という選手は、我らが小峯隆幸と同じく、「プロのライセンス」を持つ男だと思う。
・エメルソンは思ったより動く選手でうれしかった。技術も素晴らしいし、いい買い物だったかも。
・カボレは思ったより速くて驚いた。ゴール前での怖さもあるし、いい買い物だったかも。
・羽生は思ったより上手くてなによりだ。アジアカップではボロクソに言われてたけど、運動量だけでなく密集でも落ち着いてボールをさばけるところは代表選手っぽくてステキ。
・長友はヤングメンらしくはつらつとプレーしていて良かった。こういう選手がいるせいか、徳永や茂庭が生き返った気がする。
せっかく「いい時間帯」に先制したのに追い付かれてドローという結果に、期待感と消化不良感、既視感、そしてまあこんなものかもな、という整理しにくい感情が残った。
もちろん前半のいくつかのプレーには希望を感じさせるものがあったし、新戦力の上々のパフォーマンスを見れば「今年はいけるんじゃないか?」という期待は、僕だってしてしまう。
しかし、残念ながら去年同様今年も、微妙に降格ラインを意識しつつ一桁の順位とカップタイトルを目指すシーズンとなるように思う。あるいは一昨年のような、長いトンネルを経験することにもなるかもしれない。10周年(という言い方には違和感を覚えるが)という節目のシーズンは、クラブも選手も我々も、一つのチームとなるための「臍の力」を試される年になりそうだ。
僕が思うに、チームを構築するということは、チーム内にサッカーの共通言語を作り上げることだ。共通言語なしに10人が走り回るよりは、DF4人は決められた位置から動くな、と規制した方がチームとしての動きはスムーズになる。そうやって失点を減らし強力なFWがしっかり決めてくれれば手っ取り早く勝てるようになる。しかし、そういうサッカーは昔やっていたし、そこから一段上に行こう、より強く、より魅力的なサッカーをしようと変わり始めてから今の東京の苦難は始まった。そして、そういう困難に正面から向き合い、実直に、少しづつ乗り越えて行こうとするのが僕の好きなFC東京というクラブなのだ。その原点に戻り、また登っていくためにコスタリカの英雄や、W杯を経験した代表の中心選手や、生え抜きのファンタジスタや、レフティモンスターを放出したのだと僕は理解している。
とにかく、また春がきましたね。
2007年12月16日
将軍、芸術、喝采、軽い絶望
まだ欧州王者と南米王者の直接対決だった頃のトヨタカップで、初めて生のジダンを見た。前年に「あの」スーパーボレーでマドリーにビッグイヤーをもたらした円熟と言える時代ではあったが、その年の夏の日韓W杯では散々だったこともあり、そろそろ引退の時期も噂に上り始めた頃で、これを見逃したら生ジダンは、少なくともトップフォームに近いジダンはもう見られないだろうと思い、結構な額だったのだがイキった席を購入した。
席は横国のバックスタンド2階、真ん中ぐらいで、ちょうど中継映像を逆から見るようなアングルだ。悪名高き「世界の」横浜国際競技場も、2階席は傾斜も急で見やすい。しかし臨場感がない。本当に、テレビを見ているような感じなのだ。この試合はトヨタカップ史上初めての横国開催で、チケットもまるで倍々ゲームのように大会ごとに値上がりする一方だし、なんだか小学生の時から見ていた「トヨタカップ」じゃないみたいだなぁ、と思った。結局これが自分でチケットを買った最後のトヨタカップになった。
試合1時間前はまだ空席ばかりで、ダフ屋がフッ掛け過ぎてるんじゃないかなどと友人と話していると、開始20分前を切った頃から、普段Jのスタジアムで遭遇することは少ない「お蔭様でお金は少なからず持っております」という空気を見に纏った人々が粛々と空間を満たしていった。彼らはほとんどが男女か男男の2名1組で、みな一様に小さな声で話し、それぞれの話題でひっそりと笑った。遠くから時折聞こえる、キックオフを待ち切れないサポーターたちのチャントがなければ、ちょっとカジュアルなクラシック音楽のコンサートの客席のようだった。
この試合の中に、忘れられないシーンがある。
マドリーのボール回しから中盤タッチライン際にいたジダンにボールが渡ると、そこからロングボールがフィールドを斜めに切り、逆サイドの選手(たしかグティ)の足元にピタリと収まった。全体重の乗った相手の軸足を無慈悲に跳ね上げる柔道家のように、マドリーのボール回しを捕まえきれず重心が片側に寄った相手チーム(たしかオリンピア)の陣形を決定的に崩したサイドチェンジだった。
タイミング、コントロールの他、スピードがまた素晴らしい。我々がそれまで目にしていた、キッカーがボールとレシーバーを交互に見た後に、プレースキックのように勢いをつけて繰り出す高いロビングではない。それでは逆サイドに渡る前に相手の陣形が整ってしまう。低めの、どちらかといえばライナー性の弾道で、しかし決して強くはない、ロールスロイス社のエンジン排気量に関する公式コメントのごとき「十分」なスピードのボールだった。
そんなボールを、右から受けたものを左に渡すだけとでもいうような容易さで、ウェイターにチップを渡すような気軽さで、ジネディーヌ・ジダンは蹴って見せた。12月の夜空と眩い人工の光、緑の芝と白いユニフォーム、その上を軽々と横切っていく、まるで意思を持っているかのような美しいボールの軌跡。朝刊の締切に追われるライターなら、お馴染みの「芸術的」という形容詞を付与することも忘れなかっただろう。
しかし、自分を本当にハッとさせたのは、その時の「おおおっ」というどよめきと拍手、その後のためいきと賛辞の入り混じるキラキラとしたざわめきであった。まるで防音ドアで仕切られた劇場の、興奮と湿気を含んだ比重の重い空気のように、それは数秒の間スタジアムを覆っていた。
あの時ほど、ヨーロッパや南米と日本の差を感じた時はない。
ほとんどの日本人にとって、フットボールとは鑑賞するものなのだと思った。あの見事なサイドチェンジなら、世界中どこのスタジアムでも歓声を浴びるだろう。しかし、それは素晴らしいプレーをした「自分たちの」選手を称えるものである。他国のクラブの選手のプレーに高い金を払い、決して設備を損壊することなどなく行儀良く鑑賞し、得点に直結しないプレーの意図も深く理解し、他人の観戦を妨げない程度の音量のマエストロへの賛辞と拍手を送ることができるのは、たぶん世界で日本のファンだけだ。その質はもしかしたら世界一なのかもしれない。しかし、日本代表23人が一つの塊のようになって一試合一試合と相手から勝利を奪い取り、ワールドカップを日本に持ち帰るような日もまた(ごく控えめに言って)20年や30年で訪れるものではないと思った。たしか、2002年の冬のことだった。
あれから5年経ったのち、そのようなサッカーとフットボールの間の深い断絶を、渡っていこうとする一団が日本からも現れた。彼らの没個性と、その試合におけるエンターテイメント性の欠落は普段の私の深く嫌悪するところであるが、なぜか今回ばかりは、シードルフの先制点にヨシッという声を上げた10分後ぐらいから、ひょっとして追いついたりしないかな、とほんの少しだけ願ってしまう自分がいたりして、困った。
同じ堅守速攻型、しかも今シーズンなかなか調子が上がらないミラン相手に、キッチリ守備を固め、ポンテと永井とワシントンでカウンターを当ててあわよくば1点、ダメでもなんとかPK戦という浦和の描いた絵は的外れではなかった。
ミランは浦和戦のスカウティングを十分に行なっていたという。その結果、力的に優位にあることはもちろん認識していたであろうが、その上で、相手のホームで戦う難しさを鑑み、浦和を「リスペクト」しながら戦っていた。勝って当たり前、負ければ史上初の汚名を着せられるという、実に「美味しくない」プレッシャーの掛かる試合だった。それを1−0というスコアながらしっかりと勝ち切った「芸」には、ヨーロッパという戦場の厳しさ、分厚さを感じたが、ミラン関係者は我々が想像する以上の安堵を覚えたのではないかとも思う。
もちろんクラブW杯という大会の成り立ちやレギュレーションに、多量のいかがわしさが含有されていることは否めない。しかし、勝ってしまえばこっちのものである。
かつての日米野球は参加するメジャーリーガーにとって交通費のかからない家電購入ツアーに過ぎなかったが、次第に日本チームが勝利を重ねるにつれ(ワールドシリーズはもちろんレギュラーシーズンの重要性にも及ぶべくはないものの)、試合だけはそれなりに真面目にやらないと国に帰ってから赤っ恥をかくことになる、という認識を抱かせるようにはなった。
Inter Continental Cupはトヨタカップの日本以外での通称(つまり、世界での一般的な名称)だが、そこにはヨーロッパ大陸のチャンピオンが「その他の」の国からの挑戦を受ける、というようなニュアンスがあるような気がする。CWCが欧州と南米にとって、決勝以外は家電購入ツアー(K−1観戦のオプション付き)のままとなるか否か、それはこれから対戦する「その他の」の国のクラブたちが決めていくことだ。そして、それが大会の価値を作っていく。ワールドカップだってチャンピオンズカップだって、きっと始まりはいかがわしく適当なものだったのだ。
それにしても、10万人を飲み込み、真緑に染まった敵地で、エステグラル・テヘランを破りアジアチャンピオンに輝いた、あの黄金時代のジュビロ磐田にこのような舞台が用意されていたならば、果たしてどんな試合を見ることができたのであろうか。
席は横国のバックスタンド2階、真ん中ぐらいで、ちょうど中継映像を逆から見るようなアングルだ。悪名高き「世界の」横浜国際競技場も、2階席は傾斜も急で見やすい。しかし臨場感がない。本当に、テレビを見ているような感じなのだ。この試合はトヨタカップ史上初めての横国開催で、チケットもまるで倍々ゲームのように大会ごとに値上がりする一方だし、なんだか小学生の時から見ていた「トヨタカップ」じゃないみたいだなぁ、と思った。結局これが自分でチケットを買った最後のトヨタカップになった。
試合1時間前はまだ空席ばかりで、ダフ屋がフッ掛け過ぎてるんじゃないかなどと友人と話していると、開始20分前を切った頃から、普段Jのスタジアムで遭遇することは少ない「お蔭様でお金は少なからず持っております」という空気を見に纏った人々が粛々と空間を満たしていった。彼らはほとんどが男女か男男の2名1組で、みな一様に小さな声で話し、それぞれの話題でひっそりと笑った。遠くから時折聞こえる、キックオフを待ち切れないサポーターたちのチャントがなければ、ちょっとカジュアルなクラシック音楽のコンサートの客席のようだった。
この試合の中に、忘れられないシーンがある。
マドリーのボール回しから中盤タッチライン際にいたジダンにボールが渡ると、そこからロングボールがフィールドを斜めに切り、逆サイドの選手(たしかグティ)の足元にピタリと収まった。全体重の乗った相手の軸足を無慈悲に跳ね上げる柔道家のように、マドリーのボール回しを捕まえきれず重心が片側に寄った相手チーム(たしかオリンピア)の陣形を決定的に崩したサイドチェンジだった。
タイミング、コントロールの他、スピードがまた素晴らしい。我々がそれまで目にしていた、キッカーがボールとレシーバーを交互に見た後に、プレースキックのように勢いをつけて繰り出す高いロビングではない。それでは逆サイドに渡る前に相手の陣形が整ってしまう。低めの、どちらかといえばライナー性の弾道で、しかし決して強くはない、ロールスロイス社のエンジン排気量に関する公式コメントのごとき「十分」なスピードのボールだった。
そんなボールを、右から受けたものを左に渡すだけとでもいうような容易さで、ウェイターにチップを渡すような気軽さで、ジネディーヌ・ジダンは蹴って見せた。12月の夜空と眩い人工の光、緑の芝と白いユニフォーム、その上を軽々と横切っていく、まるで意思を持っているかのような美しいボールの軌跡。朝刊の締切に追われるライターなら、お馴染みの「芸術的」という形容詞を付与することも忘れなかっただろう。
しかし、自分を本当にハッとさせたのは、その時の「おおおっ」というどよめきと拍手、その後のためいきと賛辞の入り混じるキラキラとしたざわめきであった。まるで防音ドアで仕切られた劇場の、興奮と湿気を含んだ比重の重い空気のように、それは数秒の間スタジアムを覆っていた。
あの時ほど、ヨーロッパや南米と日本の差を感じた時はない。
ほとんどの日本人にとって、フットボールとは鑑賞するものなのだと思った。あの見事なサイドチェンジなら、世界中どこのスタジアムでも歓声を浴びるだろう。しかし、それは素晴らしいプレーをした「自分たちの」選手を称えるものである。他国のクラブの選手のプレーに高い金を払い、決して設備を損壊することなどなく行儀良く鑑賞し、得点に直結しないプレーの意図も深く理解し、他人の観戦を妨げない程度の音量のマエストロへの賛辞と拍手を送ることができるのは、たぶん世界で日本のファンだけだ。その質はもしかしたら世界一なのかもしれない。しかし、日本代表23人が一つの塊のようになって一試合一試合と相手から勝利を奪い取り、ワールドカップを日本に持ち帰るような日もまた(ごく控えめに言って)20年や30年で訪れるものではないと思った。たしか、2002年の冬のことだった。
あれから5年経ったのち、そのようなサッカーとフットボールの間の深い断絶を、渡っていこうとする一団が日本からも現れた。彼らの没個性と、その試合におけるエンターテイメント性の欠落は普段の私の深く嫌悪するところであるが、なぜか今回ばかりは、シードルフの先制点にヨシッという声を上げた10分後ぐらいから、ひょっとして追いついたりしないかな、とほんの少しだけ願ってしまう自分がいたりして、困った。
同じ堅守速攻型、しかも今シーズンなかなか調子が上がらないミラン相手に、キッチリ守備を固め、ポンテと永井とワシントンでカウンターを当ててあわよくば1点、ダメでもなんとかPK戦という浦和の描いた絵は的外れではなかった。
ミランは浦和戦のスカウティングを十分に行なっていたという。その結果、力的に優位にあることはもちろん認識していたであろうが、その上で、相手のホームで戦う難しさを鑑み、浦和を「リスペクト」しながら戦っていた。勝って当たり前、負ければ史上初の汚名を着せられるという、実に「美味しくない」プレッシャーの掛かる試合だった。それを1−0というスコアながらしっかりと勝ち切った「芸」には、ヨーロッパという戦場の厳しさ、分厚さを感じたが、ミラン関係者は我々が想像する以上の安堵を覚えたのではないかとも思う。
もちろんクラブW杯という大会の成り立ちやレギュレーションに、多量のいかがわしさが含有されていることは否めない。しかし、勝ってしまえばこっちのものである。
かつての日米野球は参加するメジャーリーガーにとって交通費のかからない家電購入ツアーに過ぎなかったが、次第に日本チームが勝利を重ねるにつれ(ワールドシリーズはもちろんレギュラーシーズンの重要性にも及ぶべくはないものの)、試合だけはそれなりに真面目にやらないと国に帰ってから赤っ恥をかくことになる、という認識を抱かせるようにはなった。
Inter Continental Cupはトヨタカップの日本以外での通称(つまり、世界での一般的な名称)だが、そこにはヨーロッパ大陸のチャンピオンが「その他の」の国からの挑戦を受ける、というようなニュアンスがあるような気がする。CWCが欧州と南米にとって、決勝以外は家電購入ツアー(K−1観戦のオプション付き)のままとなるか否か、それはこれから対戦する「その他の」の国のクラブたちが決めていくことだ。そして、それが大会の価値を作っていく。ワールドカップだってチャンピオンズカップだって、きっと始まりはいかがわしく適当なものだったのだ。
それにしても、10万人を飲み込み、真緑に染まった敵地で、エステグラル・テヘランを破りアジアチャンピオンに輝いた、あの黄金時代のジュビロ磐田にこのような舞台が用意されていたならば、果たしてどんな試合を見ることができたのであろうか。
2007年11月24日
順番
2歳になった娘に、最近しばしば「順番だよ、順番」と声をかける。だいぶ言葉を覚え自我のようなものが育ってきた分、ほかの子と玩具を貸し借りしたり、いわゆる協調するのがなかなかできない。シャベルを手にしたままほかの子の持っているカップを取ろうとするようなとき、ササッと近寄っては「後で借りようね。順番、順番」となだめる訳だ。
児童書によれば、2歳児にとって手にしている物は、まだ自分自身の延長であり、もう少し自我の輪郭がはっきりするまでは、物を他人と共有することは難しいとか。そんなわけで、最近は妻とともに「順番まてるかな?」キャンペーンを実施中なのだが、なにしろ親父が親父なので、2歳にしてなかなかの不貞腐れっぷりである。こちらも自分に「すぐには出来ねえんだ。順番、順番」と言い聞かせている。
試合のあとで、写真を撮りながらブラブラ調布まで歩く。新しい建売り住宅と、わずかな葉野菜を残した黒い土。中央道を降りる車のテールランプの列。嬌声を上げて駆け抜けていく自転車の小学生たち。だんだんに力を失っていく光のなかで、その色を逃がさないよう慎重にシャッタースピードを決め、その輪郭がぶれないようにしっかりとカメラを握りしめ、シャッターを切る。
線路沿いを歩くうちに、そういえば、調布駅もそろそろ建替えが始まるんだよな、と思い出す。調布から府中に向かう線路沿いは、とてもここから電車に15分乗れば新宿に着くとは思えないほど、鄙びた風景が続く。細い路地の奥には色褪せた空色の米軍ハウスがまだ残っていたりして、思わずハッとしたりする。
それでも我らが飛田給駅のように、だんだんと駅は新しく、ミニチュアのような小さな踏切たちを密かに匿ってきた線路もコンクリート製の高架式に替わりつつある。
調布駅の建替えの話を聞いてから、駅の写真を撮っておこうと思いつつ、そのままにしていた。今日はまだフィルムも3〜4枚残っているし、撮らなかったらこれっきりかもしれないな、と思い駅前の踏切、萬来軒の横からレンズを向けてみる。下りたままのオレンジのバーの内側を、左に曲がって橋本に向かう相模原線と、まっすぐ新宿に向かう特急が、銀の車体にお互いのライトを反射させながらすれ違う。毎日目にしていた景色のはずなのに、52mmのレンズの中にはいつもの親密さはなかった。変な形の交番、暗い蛍光灯の下の小さな改札口、古びた階段を上った先の幅の狭いホーム、そのいずれにも。
以下、メモにて。
・土肥ちゃん、本当にお疲れさまでした。何と言ったらいいのか分からないですが、もがきながらも戦い続ける姿を、俺は忘れないです。ポストギリギリのシュートを左手一本で何本も弾き出した土肥ちゃんが、俺のJナンバーワンGKです。
・福西には、お疲れさまでした、というより、すまない、という気持ち。万全のコンディションではないものの、持ち味は出したはず。これで戦力外なら、一体何を期待して獲得したんだろうか?残り少ない現役生活の、貴重な1年を無駄にさせて、すまない。
・そして、原さん。何人かが原さんのせいだ的な事を言っていましたが、俺はそうは思わない。サイドアタックとプレッシングと4バックが大好きなおじさんだと最初からよく知っていたし、ペナルティに迫ってからのアイデアに乏しいことも分かっていたから、今年の結果は初手からこんなものだろうと思っていました。
・分からないのは、去年あそこまでガタガタになったチームにいきなり3位以内という達成が極めて困難と思われるノルマを課し、チーム再生途上のプロセスを評価しないフロントの考え方。これでは最初から任期は1年と決まっていたのではないかとあらぬ誤解を招きかねない。
・大宮戦の内容は、シーズン初めのチームから比べれば格段に進歩していた。サイドを活かしつつサイドだけに頼らない、攻めの気持ちを持ちながら、緩急、メリハリのある試合運びが出来ていた。3月には散々だったクロスの質も大幅に向上していた。相手が大宮という事を差引いても、方向性は間違ってない、熟成させる価値のあるチームだと思いました。
・次期監督は城福さんでも誰でも好きにすればいいけど、時間だけは十分あげて欲しい。西野ガンバだって最初はグズグズもいいところだった。予算や戦力はまだしも、時間を掛けずにいいチームを作ることなどオシムだってできないのだから。
・昔は神戸や京都のフロントをバカにしていたが、どうやら今度は自分の番らしい。
・拙速で情緒的な俺の東京よ、お前は何処へいくのだ?なんとか今野に残って欲しいと思いつつ、胸を張って残ってくれと今は言えない。
・でも浅利は辞めるな。まだやれる。
窓の外をぼんやりと見ながら、流れていく布田や国領といった馴染みの駅名を眺めるうちに、声を出さずに「 俺も昔ここにいたんだぜ。俺だってここの一部だったんだ」と呟きそうになり、馬鹿らしくなってやめる。たとえ声にしなくても、それは口にしてはならない。すべては順番なのだ。
児童書によれば、2歳児にとって手にしている物は、まだ自分自身の延長であり、もう少し自我の輪郭がはっきりするまでは、物を他人と共有することは難しいとか。そんなわけで、最近は妻とともに「順番まてるかな?」キャンペーンを実施中なのだが、なにしろ親父が親父なので、2歳にしてなかなかの不貞腐れっぷりである。こちらも自分に「すぐには出来ねえんだ。順番、順番」と言い聞かせている。
試合のあとで、写真を撮りながらブラブラ調布まで歩く。新しい建売り住宅と、わずかな葉野菜を残した黒い土。中央道を降りる車のテールランプの列。嬌声を上げて駆け抜けていく自転車の小学生たち。だんだんに力を失っていく光のなかで、その色を逃がさないよう慎重にシャッタースピードを決め、その輪郭がぶれないようにしっかりとカメラを握りしめ、シャッターを切る。
線路沿いを歩くうちに、そういえば、調布駅もそろそろ建替えが始まるんだよな、と思い出す。調布から府中に向かう線路沿いは、とてもここから電車に15分乗れば新宿に着くとは思えないほど、鄙びた風景が続く。細い路地の奥には色褪せた空色の米軍ハウスがまだ残っていたりして、思わずハッとしたりする。
それでも我らが飛田給駅のように、だんだんと駅は新しく、ミニチュアのような小さな踏切たちを密かに匿ってきた線路もコンクリート製の高架式に替わりつつある。
調布駅の建替えの話を聞いてから、駅の写真を撮っておこうと思いつつ、そのままにしていた。今日はまだフィルムも3〜4枚残っているし、撮らなかったらこれっきりかもしれないな、と思い駅前の踏切、萬来軒の横からレンズを向けてみる。下りたままのオレンジのバーの内側を、左に曲がって橋本に向かう相模原線と、まっすぐ新宿に向かう特急が、銀の車体にお互いのライトを反射させながらすれ違う。毎日目にしていた景色のはずなのに、52mmのレンズの中にはいつもの親密さはなかった。変な形の交番、暗い蛍光灯の下の小さな改札口、古びた階段を上った先の幅の狭いホーム、そのいずれにも。
以下、メモにて。
・土肥ちゃん、本当にお疲れさまでした。何と言ったらいいのか分からないですが、もがきながらも戦い続ける姿を、俺は忘れないです。ポストギリギリのシュートを左手一本で何本も弾き出した土肥ちゃんが、俺のJナンバーワンGKです。
・福西には、お疲れさまでした、というより、すまない、という気持ち。万全のコンディションではないものの、持ち味は出したはず。これで戦力外なら、一体何を期待して獲得したんだろうか?残り少ない現役生活の、貴重な1年を無駄にさせて、すまない。
・そして、原さん。何人かが原さんのせいだ的な事を言っていましたが、俺はそうは思わない。サイドアタックとプレッシングと4バックが大好きなおじさんだと最初からよく知っていたし、ペナルティに迫ってからのアイデアに乏しいことも分かっていたから、今年の結果は初手からこんなものだろうと思っていました。
・分からないのは、去年あそこまでガタガタになったチームにいきなり3位以内という達成が極めて困難と思われるノルマを課し、チーム再生途上のプロセスを評価しないフロントの考え方。これでは最初から任期は1年と決まっていたのではないかとあらぬ誤解を招きかねない。
・大宮戦の内容は、シーズン初めのチームから比べれば格段に進歩していた。サイドを活かしつつサイドだけに頼らない、攻めの気持ちを持ちながら、緩急、メリハリのある試合運びが出来ていた。3月には散々だったクロスの質も大幅に向上していた。相手が大宮という事を差引いても、方向性は間違ってない、熟成させる価値のあるチームだと思いました。
・次期監督は城福さんでも誰でも好きにすればいいけど、時間だけは十分あげて欲しい。西野ガンバだって最初はグズグズもいいところだった。予算や戦力はまだしも、時間を掛けずにいいチームを作ることなどオシムだってできないのだから。
・昔は神戸や京都のフロントをバカにしていたが、どうやら今度は自分の番らしい。
・拙速で情緒的な俺の東京よ、お前は何処へいくのだ?なんとか今野に残って欲しいと思いつつ、胸を張って残ってくれと今は言えない。
・でも浅利は辞めるな。まだやれる。
窓の外をぼんやりと見ながら、流れていく布田や国領といった馴染みの駅名を眺めるうちに、声を出さずに「 俺も昔ここにいたんだぜ。俺だってここの一部だったんだ」と呟きそうになり、馬鹿らしくなってやめる。たとえ声にしなくても、それは口にしてはならない。すべては順番なのだ。
2007年10月17日
監督三様
アジアカップの実況についての生ぬるいエントリの後、再び温かな泥の中へ戻っていった私ですがご安心ください、変わらず慙愧に耐へぬ日々を過ごしております。皆様もご健勝のこととお慶び申し上げます。
アジアカップ本編についてもわざわざクソエントリを用意していたのですが、細部を詰める前に面倒くさくなってそのままほったらかしにしておりました。俺なんかがテレビを分かることぐらい爺さんはとっくに気付いてるだろうしね、などと言ってしまっては俺ごときがサッカーに纏わる駄文を書く意味も無くなるので言いませんけどね。
メディアの批評でも、偏った選手起用や消極的過ぎる交代、ボール回しに終始してしまった攻撃面などが主な検証の対象になったのではないかと思うのですが、たぶん全部わざとなんでしょう。
一部の選手への過度な負担の集中(韓国戦の駒野なんか死ぬんじゃないかと心配になった)、羽生のようなシュートチャンスが羽生以外の選手のところに訪れなかったこと(つまりは羽生のような飛び出しを羽生以外の選手がしていなかったこと。シュートミスについてはあえて触れず)、ドリブルやフリーランなどダイレクトな縦の仕掛けの欠如(シュートを打てと連呼されていたけれど、かなりの場面ではコースを切られ、打てる状況ではなかった。これも縦に仕掛けないことの弊害)など不満を挙げれば尽きませんが、これらも全部わざとなんでしょう。
何のためにそんなことをするのか、いまいち真意を測りかねる部分も無くはないですが、立上げの時期よりは格段に進歩したのも事実。コンフェデに出られないのは痛いですが、期待を込めて見守りたいと思います。
そして、いよいよ北京五輪最終予選の後半三試合を迎える反町監督。驚くほどグダグダな試合内容とは裏腹に、計ったようにクリアすべきハードルだけは越えていくその姿は前代表監督と、その頂点であったアジアカップ中国大会を彷彿とさせます。
実は私、この反町ジャポンがけっこう好きだったりします。
淡々と冷静に、しかし集中とハードワークは切らさない水本。運動量が増したことで、悪い時でも悪いなりのパフォーマンスを出せるようになった梶山(こんな時に骨折かよorz)。ワールドユースでのスーパーサブ的存在から、いまや大黒柱となった水野。そして、なんと言っても家長。自分が見た時はいつもイマイチで、そんなにいいかぁ?とか思ってたけど、すまんかった。同世代の中ではちょっと抜けてる存在だと思う。カタールのDF相手でも簡単に抜くし、キープに入ったら2人がかりでも簡単には取られない。パスもシュートもいいし、何より状況判断がいい。基本的には果敢に仕掛けるタイプだが、状況を見てタメを作ったり突っかけるフリをして逃げたりもできる。素晴らしい。
タレント集団が、ようやくチームとしても育ってきた。最大の難敵サウジがあれよと言う間に沈んでいった運の強さもあるし、エンターテイメントとしてはなかなかの出来だと思います。
チームとして何がしたいのか画面からはさっぱり見えない状態で、監督は内外からプレッシャーを掛けられているようですが、選手の士気は見た目ほど低くはない様子。この苦しい状態の中で集団のモチベーションを維持できる反町氏の手腕、湯浅氏風に云えば”パーソナリティの強さ(人間的魅力、ぐらいの意味でしょうか)”は評価すべきところ。監督の条件なんて、突き詰めていけばここに尽きるのではないでしょうか。指導技術はコーチを外部から呼べば補うこともできますが、監督にパーソナリティがない場合にはどうにもならない。反町氏をクビにするべきだという意見もあるかもしれませんが、私はソリさんで行った方がいいように思います。
そしてようやくセンターラインが固まり、ようやく浮上してきた我らが原東京。これじゃ2005年のリプレイだよと言いつつ、やはり嬉しい。しかし、来年の監督人事がまた難しくなったのも確か。個人的には05年オフと同じように、「遥かなるヒロミ幻想」を断ち切るべくはっきりとダメな結果が出るまで原さんで行った方がいいと考えています。
しかし監督業そのものももちろん難しいでしょうが、監督を選ぶこともしみじみ難しい。ドイツW杯の結果は監督に因るところが大きいですが、アジアカップ中国大会前にジーコをクビにすることはやはりできなかっただろうし、あれだけ劇的な勝利を収めてしまってはなおさらな訳で…。
リザルトだけをチームに要求する訳ではありませんが、一つでも多い勝利を求めるのは、何というか、スポーツ観戦の基本的なマナーだという気がします。当たり前っちゃ当たり前なんですけど、すっかり負け癖のついてしまったクラブを応援しているものですから、それ以外の部分になんとか付加価値を見出そうとする悪い習慣がついてたりするんですよ。
そういう意味では、優勝監督カペッロをスッパリとクビにしたレアルマドリーというのは、あれはあれで凄味のあるクラブなのだなと思わされます。なぜカペッロなんか監督にしたのかはますます解らなくなりましたが。
まぁ、本当に正しいのは誰か、なんてのは「サッカー恐怖新聞」が配達されて来ている人にしか分からないんでしょうけどね。三人三様の算用が、みなみな上手くいきますように。逆に「監督さんよぅ…」と呻く羽目になったりしてね。
お粗末。
アジアカップ本編についてもわざわざクソエントリを用意していたのですが、細部を詰める前に面倒くさくなってそのままほったらかしにしておりました。俺なんかがテレビを分かることぐらい爺さんはとっくに気付いてるだろうしね、などと言ってしまっては俺ごときがサッカーに纏わる駄文を書く意味も無くなるので言いませんけどね。
メディアの批評でも、偏った選手起用や消極的過ぎる交代、ボール回しに終始してしまった攻撃面などが主な検証の対象になったのではないかと思うのですが、たぶん全部わざとなんでしょう。
一部の選手への過度な負担の集中(韓国戦の駒野なんか死ぬんじゃないかと心配になった)、羽生のようなシュートチャンスが羽生以外の選手のところに訪れなかったこと(つまりは羽生のような飛び出しを羽生以外の選手がしていなかったこと。シュートミスについてはあえて触れず)、ドリブルやフリーランなどダイレクトな縦の仕掛けの欠如(シュートを打てと連呼されていたけれど、かなりの場面ではコースを切られ、打てる状況ではなかった。これも縦に仕掛けないことの弊害)など不満を挙げれば尽きませんが、これらも全部わざとなんでしょう。
何のためにそんなことをするのか、いまいち真意を測りかねる部分も無くはないですが、立上げの時期よりは格段に進歩したのも事実。コンフェデに出られないのは痛いですが、期待を込めて見守りたいと思います。
そして、いよいよ北京五輪最終予選の後半三試合を迎える反町監督。驚くほどグダグダな試合内容とは裏腹に、計ったようにクリアすべきハードルだけは越えていくその姿は前代表監督と、その頂点であったアジアカップ中国大会を彷彿とさせます。
実は私、この反町ジャポンがけっこう好きだったりします。
淡々と冷静に、しかし集中とハードワークは切らさない水本。運動量が増したことで、悪い時でも悪いなりのパフォーマンスを出せるようになった梶山(こんな時に骨折かよorz)。ワールドユースでのスーパーサブ的存在から、いまや大黒柱となった水野。そして、なんと言っても家長。自分が見た時はいつもイマイチで、そんなにいいかぁ?とか思ってたけど、すまんかった。同世代の中ではちょっと抜けてる存在だと思う。カタールのDF相手でも簡単に抜くし、キープに入ったら2人がかりでも簡単には取られない。パスもシュートもいいし、何より状況判断がいい。基本的には果敢に仕掛けるタイプだが、状況を見てタメを作ったり突っかけるフリをして逃げたりもできる。素晴らしい。
タレント集団が、ようやくチームとしても育ってきた。最大の難敵サウジがあれよと言う間に沈んでいった運の強さもあるし、エンターテイメントとしてはなかなかの出来だと思います。
チームとして何がしたいのか画面からはさっぱり見えない状態で、監督は内外からプレッシャーを掛けられているようですが、選手の士気は見た目ほど低くはない様子。この苦しい状態の中で集団のモチベーションを維持できる反町氏の手腕、湯浅氏風に云えば”パーソナリティの強さ(人間的魅力、ぐらいの意味でしょうか)”は評価すべきところ。監督の条件なんて、突き詰めていけばここに尽きるのではないでしょうか。指導技術はコーチを外部から呼べば補うこともできますが、監督にパーソナリティがない場合にはどうにもならない。反町氏をクビにするべきだという意見もあるかもしれませんが、私はソリさんで行った方がいいように思います。
そしてようやくセンターラインが固まり、ようやく浮上してきた我らが原東京。これじゃ2005年のリプレイだよと言いつつ、やはり嬉しい。しかし、来年の監督人事がまた難しくなったのも確か。個人的には05年オフと同じように、「遥かなるヒロミ幻想」を断ち切るべくはっきりとダメな結果が出るまで原さんで行った方がいいと考えています。
しかし監督業そのものももちろん難しいでしょうが、監督を選ぶこともしみじみ難しい。ドイツW杯の結果は監督に因るところが大きいですが、アジアカップ中国大会前にジーコをクビにすることはやはりできなかっただろうし、あれだけ劇的な勝利を収めてしまってはなおさらな訳で…。
リザルトだけをチームに要求する訳ではありませんが、一つでも多い勝利を求めるのは、何というか、スポーツ観戦の基本的なマナーだという気がします。当たり前っちゃ当たり前なんですけど、すっかり負け癖のついてしまったクラブを応援しているものですから、それ以外の部分になんとか付加価値を見出そうとする悪い習慣がついてたりするんですよ。
そういう意味では、優勝監督カペッロをスッパリとクビにしたレアルマドリーというのは、あれはあれで凄味のあるクラブなのだなと思わされます。なぜカペッロなんか監督にしたのかはますます解らなくなりましたが。
まぁ、本当に正しいのは誰か、なんてのは「サッカー恐怖新聞」が配達されて来ている人にしか分からないんでしょうけどね。三人三様の算用が、みなみな上手くいきますように。逆に「監督さんよぅ…」と呻く羽目になったりしてね。
お粗末。
2007年07月22日
走り書きアジアカップ 実況編
今回も非難GOGOであろう実況角澤・解説松木のゴールデンコンビ。私はだんだん馴染んできてしまった。ああいうものだ、と思っていれば火もまた涼し。ていうか、どうしてもあの二人がイヤならBSに加入すればいいだけの話ですしね。
アイツの実況は選手の名前を読み上げているだけ(しかもしょっちゅう間違える)、とよく言われますが、日本サッカー実況の最高峰、金子勝彦氏も基本的なパターンは同じである(もちろん名前の間違いは無いが)。ただ、それは豊富な経験と事前のリサーチによって、双方の選手の特性はもちろん、基本的な攻めのパターン、ポジショニングを把握しているがゆえに淀みがなく、そして淡々とボールホルダーの選手の名を読み上げていくだけで、画面を見ていなくても我々の頭のなかには、中盤を追い越して右サイドを駆け上がるサイドバックの姿や、そこに向けて今まさにフィードを放たんとするボランチの姿が浮かび上がったりする。そこにはまるで、旅好きの老人が時刻表を片手に在来線の駅名をひとつひとつ読み上げていくような親密さが息づいている。
こんなことを角澤氏に要求する方が無体というものだ。だって、あの人たぶんそんなにサッカー好きじゃないんだもん。プライベートでサッカー見ることはほとんどないんじゃないかな。観戦数が足りないから、ここにコイツがいれば反対側にアイツが進出しているはず、とかそういう予測が頭の中で立てられずに目の前のボールホルダーを追ってしまい、名前を読んだ時にはボールはすでに次の選手に渡っているという”後追い”の実況になるのでは?これはたしかにイライラします。
でもね、なまじ好きな分だけ、生半可な知識や自分の主観でおしゃべりする「半プロ」の実況よりはマシです(倉敷さんぐらいになればもはや”芸”であるが)。飲み屋で隣り合ったおっさんじゃないんだから、「いまフリーだったあの選手に出すべきだったんじゃないですかね〜」とか「今のは打って欲しかったですね〜」などとアナウンサー風情に言われる筋合いはない。それこそお前がやってみろという話である。見ている「客」が言うべきことを先にしゃべってしまうのはアマチュアの仕事。客は私なのだ(何千万分の一ですが)。ようやく殺到する非難を受けて角澤を外したのか、オーストラリア戦の実況は田畑祐一。しかしコイツがまさにアレだった。これなら”何にも知らない”角澤の方がマシである。「絶対に負けられない〜」は会社の方針なので、たとえ実況がスネオヘアーであろうと(意味はない)決められたタイミングで言わなくてはならないのだろうしね。
要するに、ナショナルチームの試合中継なんて、どこの国もこの程度のもんじゃないんですか?ということ。世界的にはたぶん日本なんかマシなほうだと思う。他の国の見たことないけど。むしろ代表の試合なんてお祭りなんだから、徹底的にオラが国マンセーでみんなで大騒ぎすればいい。角澤・松木のコンビはその任務にうってつけなのだ。精神論?いいじゃないですか。試合が終盤までもつれたら戦術もフォーメイションも関係ない。南国のピッチ上の彼らに画面のこちら側から言えることなんて、我々だって「頑張れ!走れ!」しかないのだから。
ところで、「事実上の決勝」ってのは誰が言い出したんですかね?
オーストラリアに勝ったら準決勝ははおそらくサウジ。決勝はおそらく韓国−イランの勝者と、現在のアジア5強がまんべんなく当たるのが今回のアジアカップ・決勝トーナメント。一回戦から先はどのラウンドでも負ける可能性はある。いつから日本はそんなに偉くなったんでしょうね。真に受けることなく右から左にスルーするべきなんでしょうが、子どもなんでこういう言葉にいちいち引っかかっちゃうんですよ。すいませんね。
アイツの実況は選手の名前を読み上げているだけ(しかもしょっちゅう間違える)、とよく言われますが、日本サッカー実況の最高峰、金子勝彦氏も基本的なパターンは同じである(もちろん名前の間違いは無いが)。ただ、それは豊富な経験と事前のリサーチによって、双方の選手の特性はもちろん、基本的な攻めのパターン、ポジショニングを把握しているがゆえに淀みがなく、そして淡々とボールホルダーの選手の名を読み上げていくだけで、画面を見ていなくても我々の頭のなかには、中盤を追い越して右サイドを駆け上がるサイドバックの姿や、そこに向けて今まさにフィードを放たんとするボランチの姿が浮かび上がったりする。そこにはまるで、旅好きの老人が時刻表を片手に在来線の駅名をひとつひとつ読み上げていくような親密さが息づいている。
こんなことを角澤氏に要求する方が無体というものだ。だって、あの人たぶんそんなにサッカー好きじゃないんだもん。プライベートでサッカー見ることはほとんどないんじゃないかな。観戦数が足りないから、ここにコイツがいれば反対側にアイツが進出しているはず、とかそういう予測が頭の中で立てられずに目の前のボールホルダーを追ってしまい、名前を読んだ時にはボールはすでに次の選手に渡っているという”後追い”の実況になるのでは?これはたしかにイライラします。
でもね、なまじ好きな分だけ、生半可な知識や自分の主観でおしゃべりする「半プロ」の実況よりはマシです(倉敷さんぐらいになればもはや”芸”であるが)。飲み屋で隣り合ったおっさんじゃないんだから、「いまフリーだったあの選手に出すべきだったんじゃないですかね〜」とか「今のは打って欲しかったですね〜」などとアナウンサー風情に言われる筋合いはない。それこそお前がやってみろという話である。見ている「客」が言うべきことを先にしゃべってしまうのはアマチュアの仕事。客は私なのだ(何千万分の一ですが)。ようやく殺到する非難を受けて角澤を外したのか、オーストラリア戦の実況は田畑祐一。しかしコイツがまさにアレだった。これなら”何にも知らない”角澤の方がマシである。「絶対に負けられない〜」は会社の方針なので、たとえ実況がスネオヘアーであろうと(意味はない)決められたタイミングで言わなくてはならないのだろうしね。
要するに、ナショナルチームの試合中継なんて、どこの国もこの程度のもんじゃないんですか?ということ。世界的にはたぶん日本なんかマシなほうだと思う。他の国の見たことないけど。むしろ代表の試合なんてお祭りなんだから、徹底的にオラが国マンセーでみんなで大騒ぎすればいい。角澤・松木のコンビはその任務にうってつけなのだ。精神論?いいじゃないですか。試合が終盤までもつれたら戦術もフォーメイションも関係ない。南国のピッチ上の彼らに画面のこちら側から言えることなんて、我々だって「頑張れ!走れ!」しかないのだから。
ところで、「事実上の決勝」ってのは誰が言い出したんですかね?
オーストラリアに勝ったら準決勝ははおそらくサウジ。決勝はおそらく韓国−イランの勝者と、現在のアジア5強がまんべんなく当たるのが今回のアジアカップ・決勝トーナメント。一回戦から先はどのラウンドでも負ける可能性はある。いつから日本はそんなに偉くなったんでしょうね。真に受けることなく右から左にスルーするべきなんでしょうが、子どもなんでこういう言葉にいちいち引っかかっちゃうんですよ。すいませんね。
2007年05月24日
20070523 横浜FC●1-2○FC東京(ナビスコ予選6節)
忙しいのと、ちょっと思うところがあってしばらく更新を止めていたのですが、今季初、というかしばらくぶりの勝ち組入りを記念して久々に少しだけ書いてみます。
今シーズン生で観戦できたのは開幕の広島戦と先日の鹿島戦だけと、しょっぱい試合だけをチョイスして見る能力に磨きがかかる一方の昨今、決勝ラウンドに進む可能性を残したこの試合に、果たして俺が行ってもいいのだろうかと若干迷う。しかし!平日のゲームを観戦できる時なんて滅多にないし、と思い切った甲斐があったですよ…(しみじみ)。
久々の三ツ沢はやはりいい。この試合も横国だったらスルーでしたね。
開門少し前に到着し、当日券を買って待機列の最後尾につく。列の横は花壇で、赤いバラが緑のアーチを覆い尽くすようにみっしりと咲いている。バラを美しいと思うことは普段あまりないけど、初夏の沈みかけの光の中、自分で自分をめくるかのように大きく大きく咲く花々はどれも自信に満ちていてまっすぐで、その何の衒いもなく自らの美しさを誇り、顕示する様を潔く、きれいだと思った。
そういえば、この前に三ツ沢に来たのも何年か前の今ぐらいの時期で、やはりナビスコの予選のマリノス−ヴェルディ戦だった。正面の入場ゲート横に折りたたみの机で臨時の台が設けられ、沢山の花束が積み上げられていた。それは亡くなったマリノスサポの方に捧げられたものだったと、後で知った。
私も死ぬ。いつかは分からないけど、でもその時が来たら必ず死ぬ。その時をどこで迎えるだろう。その時にも東京が好きでいるだろうか、それも分からない。入場ゲートをくぐりながら、顔も知らない会ったこともないサッカー好きの死者に、声は出さずに自分で作ったアホみたいな祈りを捧げる。
別に同じチームが好きだった訳でもないのにわざわざ花までやるのは、俺はなんか違うと思うからそれはやめとく。もちろんそうしたい人はそうしたらいい。それはそれで悪くないと思う。
人は死んだら動かなくなって何も感じなくなって、焼かれて灰になって終わりだ。君は俺たちよりずっと早く灰になっちまって、それはちょっと気の毒だって思ってる。でも俺が君にしてやれたことなんて何もなかったし、死んじまったらなおさらだ。ごめんな。
そもそも俺にできることなんて、たまたま見たバラの花をきれいだって思ったり、なけなしの時間を絞って自分のクラブを応援したり、娘を近所の公園に連れてってアホみたいなすべり台を一緒にすべってやるとか、その程度のもんだ。
でも、この辺がうまく言えないんだが、そういうのって100%自分のためのことだけど、なんとなく君のためのことでもあるような気が俺はするんだよ。
あらら、ゲームの感想を書く前に1時過ぎちゃった。
とりあえず、メモで。
・07年型ハラ東京の片鱗が感じられた。縦に急ぐだけでなく、横にもボールを動かし、人も動くサッカー。
・その意図にゴール裏がついていけていないように思う。
・横浜があれだけガッチリ組織を固めてきたら、ボールを回し、人を寄せてからでなければ、サイドチェンジや縦のボールは入らない。
・序盤の意図を持ったボール回しがジャブのように効いていたのだから、後半横浜が守備固めに入ったときも、焦らずに同じパターンを続けてジリジリ網をすぼめていけばよかった。
・ボールを横に動かしつつサイドは縦に仕掛けダメなら戻してまた逆サイド、を繰り返すうちに徐々に相手の陣形は横に広がり、縦のスルーやミドルを打つ隙間や、バイタルにもクサビを入れられるスペースができていたのだから。
・にもかかわらず、ゴール裏から闇雲に攻撃を急かすコールやパス回しへのブーイングが出たことで、徒にチームを焦らせてしまった。
・放り込まれるのは相手守備陣にしてみれば一番守りやすい。
・東京の得意な攻撃に必要なスペースを、縦に急ぎ過ぎることで自ら消してしまっているのだ。
・赤嶺がキレキレでなければ、個々のタレントで劣る横浜が相手でなければ、あのまま1−1で逃げ切られた可能性が高いゲームだった。上位チーム相手ならあるいはカウンターから失点し負けていたかもしれない。
・勝ち点差の優位を生かし、東京に持たせてカウンターを当てるゲームプラン通りに進行していたのに、個人技でやられた高木監督には同情を禁じえない。
・もちろん熱狂しましたよ?
・でも今期一番の内容と言われるジェフ戦同様、多分に相手守備陣に起因する勝利なのは否めない。
・チームやサポーターに間違ったシグナルを送るゲームとならないか、心配性の私はちょっと心配だったりする。
・選手個々の動きは、眼鏡ケースは鞄に入れたもののケースに眼鏡が入ってなかったため、あまり分からず(眼鏡かけててもよう分かってないけど)。
・にもかかわらず、栗澤の動きのよさは際立っていた。直接ゴールに絡むような目立った動きではないが、中盤を上下左右に走りまわる”3人目の動き”が円滑なボール回しを支えていた。表のMOMはもちろん赤嶺だが、個人的には栗澤を推したい。よく走ってたなぁ、クリ。
なんてブツブツ言いつつ、久々に、心から楽しめたゲームでした。
ジュビロの選手諸氏にも多謝w。
「眠らない街」を大声で歌うのは、やっぱり最高だ。
俺は(可能であれば)もっとずっと生きて、その間にできるだけのことをやっておきたいんだ。毎日のことを、周りの人を大事にすること。好きなものを、こんな風に思いっきり楽しむこと。それから、行ってしまった人々を時々思い出すこと。来年や再来年も、5月なのにやたら暑くってたくさんの花が咲いている日には、たぶんまた君に捧げられた花束のことを思い出すよ。
今シーズン生で観戦できたのは開幕の広島戦と先日の鹿島戦だけと、しょっぱい試合だけをチョイスして見る能力に磨きがかかる一方の昨今、決勝ラウンドに進む可能性を残したこの試合に、果たして俺が行ってもいいのだろうかと若干迷う。しかし!平日のゲームを観戦できる時なんて滅多にないし、と思い切った甲斐があったですよ…(しみじみ)。
久々の三ツ沢はやはりいい。この試合も横国だったらスルーでしたね。
開門少し前に到着し、当日券を買って待機列の最後尾につく。列の横は花壇で、赤いバラが緑のアーチを覆い尽くすようにみっしりと咲いている。バラを美しいと思うことは普段あまりないけど、初夏の沈みかけの光の中、自分で自分をめくるかのように大きく大きく咲く花々はどれも自信に満ちていてまっすぐで、その何の衒いもなく自らの美しさを誇り、顕示する様を潔く、きれいだと思った。
そういえば、この前に三ツ沢に来たのも何年か前の今ぐらいの時期で、やはりナビスコの予選のマリノス−ヴェルディ戦だった。正面の入場ゲート横に折りたたみの机で臨時の台が設けられ、沢山の花束が積み上げられていた。それは亡くなったマリノスサポの方に捧げられたものだったと、後で知った。
私も死ぬ。いつかは分からないけど、でもその時が来たら必ず死ぬ。その時をどこで迎えるだろう。その時にも東京が好きでいるだろうか、それも分からない。入場ゲートをくぐりながら、顔も知らない会ったこともないサッカー好きの死者に、声は出さずに自分で作ったアホみたいな祈りを捧げる。
別に同じチームが好きだった訳でもないのにわざわざ花までやるのは、俺はなんか違うと思うからそれはやめとく。もちろんそうしたい人はそうしたらいい。それはそれで悪くないと思う。
人は死んだら動かなくなって何も感じなくなって、焼かれて灰になって終わりだ。君は俺たちよりずっと早く灰になっちまって、それはちょっと気の毒だって思ってる。でも俺が君にしてやれたことなんて何もなかったし、死んじまったらなおさらだ。ごめんな。
そもそも俺にできることなんて、たまたま見たバラの花をきれいだって思ったり、なけなしの時間を絞って自分のクラブを応援したり、娘を近所の公園に連れてってアホみたいなすべり台を一緒にすべってやるとか、その程度のもんだ。
でも、この辺がうまく言えないんだが、そういうのって100%自分のためのことだけど、なんとなく君のためのことでもあるような気が俺はするんだよ。
あらら、ゲームの感想を書く前に1時過ぎちゃった。
とりあえず、メモで。
・07年型ハラ東京の片鱗が感じられた。縦に急ぐだけでなく、横にもボールを動かし、人も動くサッカー。
・その意図にゴール裏がついていけていないように思う。
・横浜があれだけガッチリ組織を固めてきたら、ボールを回し、人を寄せてからでなければ、サイドチェンジや縦のボールは入らない。
・序盤の意図を持ったボール回しがジャブのように効いていたのだから、後半横浜が守備固めに入ったときも、焦らずに同じパターンを続けてジリジリ網をすぼめていけばよかった。
・ボールを横に動かしつつサイドは縦に仕掛けダメなら戻してまた逆サイド、を繰り返すうちに徐々に相手の陣形は横に広がり、縦のスルーやミドルを打つ隙間や、バイタルにもクサビを入れられるスペースができていたのだから。
・にもかかわらず、ゴール裏から闇雲に攻撃を急かすコールやパス回しへのブーイングが出たことで、徒にチームを焦らせてしまった。
・放り込まれるのは相手守備陣にしてみれば一番守りやすい。
・東京の得意な攻撃に必要なスペースを、縦に急ぎ過ぎることで自ら消してしまっているのだ。
・赤嶺がキレキレでなければ、個々のタレントで劣る横浜が相手でなければ、あのまま1−1で逃げ切られた可能性が高いゲームだった。上位チーム相手ならあるいはカウンターから失点し負けていたかもしれない。
・勝ち点差の優位を生かし、東京に持たせてカウンターを当てるゲームプラン通りに進行していたのに、個人技でやられた高木監督には同情を禁じえない。
・もちろん熱狂しましたよ?
・でも今期一番の内容と言われるジェフ戦同様、多分に相手守備陣に起因する勝利なのは否めない。
・チームやサポーターに間違ったシグナルを送るゲームとならないか、心配性の私はちょっと心配だったりする。
・選手個々の動きは、眼鏡ケースは鞄に入れたもののケースに眼鏡が入ってなかったため、あまり分からず(眼鏡かけててもよう分かってないけど)。
・にもかかわらず、栗澤の動きのよさは際立っていた。直接ゴールに絡むような目立った動きではないが、中盤を上下左右に走りまわる”3人目の動き”が円滑なボール回しを支えていた。表のMOMはもちろん赤嶺だが、個人的には栗澤を推したい。よく走ってたなぁ、クリ。
なんてブツブツ言いつつ、久々に、心から楽しめたゲームでした。
ジュビロの選手諸氏にも多謝w。
「眠らない街」を大声で歌うのは、やっぱり最高だ。
俺は(可能であれば)もっとずっと生きて、その間にできるだけのことをやっておきたいんだ。毎日のことを、周りの人を大事にすること。好きなものを、こんな風に思いっきり楽しむこと。それから、行ってしまった人々を時々思い出すこと。来年や再来年も、5月なのにやたら暑くってたくさんの花が咲いている日には、たぶんまた君に捧げられた花束のことを思い出すよ。