光澤寺日記:宿坊と永代供養とやずブータン村

光澤寺&宿坊光澤寺&やずブータン村。 山里のお寺で繰り広げる「こころのふる里」作りとお寺復興プロジェクトや、宿坊に来られた方々との出会いも語ります。

2012年01月

浄土真宗の僧侶になるには・・・その四(得度のあと)

5

得度の最後に頭を剃髪にし、本願寺でご門主よりお剃刀を受けます。
これでいよいよ、浄土真宗本願寺派の僧侶となることが決まります。
お剃刀(おかみそり)を受けるときは、親鸞聖人の故事にならい、夕方に
堂内をロウソクの灯りだけにして受けます。
それはそれで、得度習礼中の苦しみも忘れて、あらたな決意が生まれた
りします。
得度後は、晴れて僧侶の道を歩むわけですが、ここからの道は本当に千
差万別。寺に帰って僧侶となる人、また普通の生活に戻る人、どこかの寺
の衆徒となって法務に携わる人、等々。
僧侶になったからと言って、今の時代何も生活の保障はないですし、目的
が無ければ、自分が僧侶であると言った認識以外、何も以前と変わること
はありません。

ただ僧侶であることは事実なので、それにふさわしい言動に留意すること
が大切となります。
また、得度に行って僧侶の実態を多少感じると、逆に失望することがある
かも知れませんね、すべての僧侶が志があってきているわけではないで
すから。
西本願寺はビハーラ研修を始めとして、さまざまな研修会もあります。

浄土真宗は形がないので、入りやすい面がありますが、逆に形が無いの
で難しい面があります。それは特に僧侶となってからが、どの様な道を歩
むかで大きく変わってきます。
他宗は修行が厳しい分、修行後は逆に楽だったりすることがあると聞いた
ことがありますが、浄土真宗は教えを聞くことが第一なので、ご門徒さんが
とてもよく勉強していらっしゃいます。
僧侶でない分、教えに純粋でいらっしゃる場合が多いのです。
なので中途半端な知識では太刀打ちできませんし、逆に知識を前面に出
すと、相手にされないこともあるでしょう。
特に関西や北陸、広島や山口、福岡の方々はご熱心な方がいますから。
得度したくらいでは知識レベルはまだ1段階くらいのものです。
ここからが本当の勉強や努力が必要になってきます。修行は必要ないと
言っても、教えに近づく努力はしなくてはなりません。
そして自分の経験や自分の言葉でしゃべらないと、言葉は素通りして行き
ます。要は勉強と経験と志と、血と冷や汗をどれだけかいたか。
ただ、今までの僧侶にはない独自の視点であれば、それは面白いかも知
れません。

僧侶になろうと決意をされてから、龍谷大学や大学院、中央仏教学院、
大阪にある行信教校など、自分に合った勉学の場に進まれる方もいます。
ですから仕事を退職したり、途中で辞めたりして来られる方も。
僧侶資格を取って、葬祭会館の御用達となったりする方もいらっしゃいま
すが、これからの時代はもうそんな生活は待っていないでしょう。
葬祭会館と言えども、教えをちゃんと知っていて、遺族のケアができない
僧侶は淘汰されますし、それ以前に葬儀のあり方自体が変わってくるでし
ょう。今や全国の寺院は大きく変わろうとしています。
その中で本当に求められる僧侶とは、本物ということになると思います。

本物の僧侶とは定義が非常に難しいですが、その宗派の教義や作法に
精通していて、伝道布教力があり、さらには志もしくは社会経験が豊富。
もちろん社会常識があるということも、これからの僧侶には必要。
これは今までの僧侶は社会とかけ離れている人も多かったので。
まあ、ここまで言えば、今の僧侶にそんな人いるの?ってことですが、こ
れからの時代、僧侶になって食べて行こうと思うならそれくらいの覚悟が
必要の様な気がします、特に外部から僧侶を目指すなら。
こんな僧侶がいらっしゃれば、どこでも食べるのに苦労はしないでしょう。
若くて独身なら、お寺のお婿さん候補として十分な資質と言えるでしょう。
また、跡取りのいない寺院では養子の依頼があるかも知れません。
いろんな寺院より、その寺の衆徒(法務員)としての依頼もあります。
まあこれらには年齢がある程度若いということが必要かも知れませんが。
東京周辺では、都市開教が重点項目ですから、自らが新しい寺を作って
行くこともできるし、ネットなので新しい僧侶のスタイルを打ち出すことも
できるでしょう。
地方で実際に0から寺院を立ち上げて多くの人を惹きつけているお寺も
あるし、僧侶として様々な情報発信をしている方もいます。

もちろん僧侶になるからと言って、何かをしないといけないと言うわけで
はありません。自分の生活や精神的な支えとして、仏の道を歩むとい
う方もたくさんいらっしゃいます。
また仏教を勉強したいという純粋な気持ちの方もいらっしゃるでしょう。

浄土真宗本願寺派には、得度の後には教師と言う資格があります。
教師を取れば、望めば教義を修める「学階」の道に進むこともできますし、
これにはたくさんの段階が用意されています。
伝道布教には布教使という資格、勤行や作法には勤式という場所が用意
されていて、前期・後期を終了すると特別法務員資格が与えられます。
本願寺で勤行するには、この特別法務員資格が必要。
そこで学べば、それぞれの資格が与えられますが、そこに至る時間と費用
は並大抵ではありません。
私は会社を辞めてから4年の歳月と退職金をかなり注ぎ込みました・・・。
金額は総額で300~400万円くらいかなあ?これには寮費やその研修期
間の生活費、交通費や申請料や京都のホテル代や書籍代も含めてですが。
これは、中央仏教学院、教師、宗学院別科、安居専修科二期、布教使、
学階の取得までですし、期間中には他の事をしながらの期間も含まれます。
それでも、まだまだだなあと日々苦悶の連続です。
でも全国の住職や僧侶がそれを持っているかと言うと、逆にほとんどの僧
侶はそこまで持っていると言うことはありませんのでご安心を。
資格によって違いますが、それぞれ全僧侶の5%~10%くらい。
因みに、お寺の住職は、取あえず教師と言う資格があれば就任すること
ができます。
資格があっても何も保障されませんが、それだけ先があるということです。

なので、興味と時間があれば先は尽きることなく続きます。
それは人生が何度あっても足りないくらいかなあ?
浄土に行けば、そこでは今でも阿弥陀如来が法を説いておられると経典
には書いてありますから、それはこの世が終わっても尽きることなく・・・。

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その5(ヒンドゥーの語源と仏教の変化)

DSC_0160

では、インド人とかヒンドゥーとかってどうして言われるようになったのでしょう?
コロンブスが新大陸を発見したとき、そこは目指すインドに到達したと思い込み、
そこに住む先住民をインディアンと呼んだことがありましたが・・・。

インドに侵入したアーリア人?(このアーリア人説には異論もあるので)は、現在
のインダス河を「シンドゥー」と呼んだことに始まると言われています。
ペルシャ人は「シンドゥー」を「ヒンドゥー」と発音し、ペルシャ側から当時のインド
に住む人々を「ヒンドゥー」と呼び、後にインドに入ったイスラーム教徒が自らと
異なる信仰の人々を「ヒンドゥー」と呼ぶようになった。
そのうちに、イスラーム教徒と区別するために、インド人も自らを「ヒンドゥー」と
称するようになり、13C以降はヒンドゥーは「ヒンドゥー教徒」の意味でも使われ
るようになったと言われている。
玄奘三蔵も当時、このシンドゥー河流域を旅しているのである。
その辺りには、あまり熱心ではないが仏教を信仰する民族がいたのである。

ではヒンドゥー教とはどんな宗教なのか。世界三大宗教と呼ばれている仏教よ
りもその信者数は圧倒的に多いし、インドの人口増加によってさらに増え続け
ている。
ヒンドゥー教は、バラモン教の影響を多大には受けているが、決まった教え
と言うものはなく根本聖典もありません。
要はバラモン教を踏襲したインド土着の信仰形態であり、「仏教」「ジャイナ教」
「シーク教」そして「キリスト教」「イスラーム」を除いたインドの宗教を総称して、
ヒンドゥー教というのです。
たとえば中国の道教、日本では神道のようなイメージになるのでしょうか?
なのでいろんな神様がいるし、地域や民族によって変わって行きます。
ただそれを結びつける価値観が二大叙事詩であったり、イスラームに対抗する
アイデンティティーであったりするのでしょう。
ヒンドゥー教の影響を受けている密教が中国で受け入れられなかったのは、
中国には道教が土着の宗教として浸透していたからと言われています。

シンドゥー ⇒ ヒンドゥー ⇒ インド と呼ばれます。
これはサンスクリット~ペルシャ~ラテン語と言葉が変わると呼び方や表記が
変わっていくと言うことになります。

インドを4C頃に統一したグプタ王朝はヒンドゥー教王朝であり、ヒンドゥー文化
が一気に花開きます。
民衆へはあまり浸透していなかった仏教は、王侯貴族が離れて行ったことと、
交易で儲けていた大商人が没落し、いよいよ衰退が始まります。
この頃にインドには天親菩薩(世親)が仏教に登場する時代ですが、どちらか
というと、思想的な面が中心であったのかも知れません。

仏教はナーランダ寺院を始めとした大寺院の僧侶によって継承されて行きます
が、社会的環境がヒンドゥー文化全盛ですから、次第に仏教がヒンドゥーに取り
込まれて行きます。というよりもヒンドゥー化しなければ仏教が存在できなかった
ということなのかも知れません。
仏教の仏にヒンドゥーの神様が取り入れられます、鬼子母神・馬頭観音・韋駄天
弁財天・吉祥天など。そして観音菩薩信仰が盛んになり、仏教に現世利益がと
り入れられます。
こうして現世利益の菩薩として、十一面観音・千手観音などに変化して行きます。
また、聖地の巡礼や装身具(瓔珞や宝冠)。歌舞などの奉納、これらヒンドゥー
の様式が取り入れられます。
また儀式的に、護摩・加持・祈祷などの作法も取り入れられました。
これが密教と呼ばれ、そこ後には、ヴィシュヌ神であるヴァイローチャナが、取り
入れられ、真言の本尊である大日如来になります。
ヴァイローチャナは東大寺の大仏、毘盧遮那仏でもあります。
教えも、バラモンの「梵我一如」が「即身成仏」へと取り入れられて行き、インド
の仏教はもはや釈尊の仏教ではなく、ヒンドゥー教の一派的な様相となります。
途中では釈尊が、ヴィシュヌ神の十大化身の一人とされ、ヒンドゥーの神様の一
人にさえなってしまうのです。

ヴィクラマシラー寺院の壊滅を持ってインド仏教の滅亡とされていますが、実は
もはやインドには純粋な仏教といえる存在はなく、ヒンドゥー化した仏教は、特に
インドに存在する意味合いもなくなっていたため、とりあえずその滅亡が歴史的
事実である寺院の壊滅と言うことになっているのでしょう。

仏教は上座部として南アジアへ、そして大乗として中国・朝鮮・日本へ、密教と
して北東インドからチベットへ。
その命脈はインドで滅びても、釈尊の教えはアジア全域へ広がって行きます。

(注)ここに記した事は、あくまでも個人的見解であり、事実かどうかは証明され
ている訳ではありませんことをご承知下さい。

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その4(バラモンとヒンドゥー教)

DSC_0071

インドの仏教を語る上で、外すことができないのがバラモン教とヒンドゥー
教です。
バラモン教はアーリア人がインドに侵入し、先住民の土着宗教を吸収しな
がら独自の宗教を形成して行ったものです。
あくまでも侵入してきた民族ですから、先住民がいます。征服した側は、
自分たちより人口の多い民族を押さえ込まなくてはなりません。
そこでカーストを運命論づける様な流れが造られたのかも知れません。
バラモンとは、司祭者であり魔術や呪術、さらには神をも駆使できる存在
として、宇宙のあらゆる現象を支配することができる者とされます。
つまりそれらに関わるすべての祭式を司ることになります。
そ儀式に、護摩やマントラ(真言)という呪文が用いられます。その祭式の
方法は、あくまでも口伝であり他の誰にも絶対に明かされません。
基本的な原理として、ブラフマン(梵)とアートマン(我)、サンサーラ(輪廻)
とカルマン(業)という二つの原理が確立されて行きます。

戦をするのも何をするにも、バラモンの許しや儀式が必要ですから、バラ
モンは絶対的な権限を握ることになる、もちろん国王でさえ逆らえないの
です。
この中で、被征服民族は下層のシュードラに置かれることになります。

この様な支配が長く続きますが、釈尊や六師外道などの新しい思想を持
つ人たちが相次いでインドに登場してきます。
新しい概念は、バラモン支配の中で押さえ込まれていた階層の人たちに
とって非常に有利に働くことがあります。
たとえば国王・貴族・兵士階級や商人などですが、この人たちの中に積極
的に仏教を支援する人たちが出てきます。
バラモンの価値観では否定されていたものが、仏教では自由になることも
できたのです。
こうしてバラモンの圧倒的支配から、そのカウンター思想である仏教や
ジャイナ教が勢力を拡大して行ったのです。
アショーカ王は優婆塞(うばそく)となり仏教を支援し、カニシカ王は奴隷階級
出身だったとも言われています。
また商人は積極的な対外貿易で莫大な利益を上げ、仏教の支援者とな
って行きます。

こうしてバラモン教の支配は徐々に崩れて行き、仏教も隆盛して行きます
が、その仏教も前頁で述べた様に、仏教内同士で批判したり、分裂したり、
教理主義に陥り次第に民衆と乖離して行きました。

仏教がその様な流れにあるとき、バラモン教は静かに装いを変えて行きま
す。宗教儀礼や神や女神の信仰、瞑想とかヨガの実践などを徐々にまと
め上げて行きます。
そしてその後の流れを決定的に変えたのが、紀元前3C~紀元3C頃まで
と長い年月をかけてじっくりと作り上げられた『マハーバーラタ』『ラーマーヤ
ナ』という二大叙事詩です。
この価値観は現在でもインド人のアイデンティティーとなっていて、僧侶や
民衆が一体となって、インド人の神話・伝説・哲学を織り込んでいるのです。

そしてインド人の宗教と言われるヒンドゥー教が、バラモン教から形を変え
民衆の宗教となってインドに登場してきます。
ただ、儀式やカーストなど多くのものがバラモン教から引き継がれている。
これが紀元4~5Cの頃、そして同時に仏教がインドで一気に衰退して行
く時期にもなります。
この二大叙事詩の完成のあと、ヒンドゥー教王国であるグプタ朝がインド
を統一し、インドに一気にヒンドゥーの文化や学問が大きく花開きます。

この後、インドに仏教を支持する王朝は現れていません。
その間に仏教は衰退の道を進んでいます、在家者の大乗仏教運動も、
ヒンドゥー化の波に押し出されるようにインドで衰退して行き、その中心は
シルクロードを経た中国や朝鮮、日本に移ります。

インド仏教の中心だった上座部も、民衆と乖離した難解な教義や瞑想など
大寺院に籠って、民衆化を進めていませんでした。
ヒンドゥー教の台頭とともに、王侯貴族の支援もなくなり、そして商人階級
もそれまで交易の相手国だった西ローマ帝国が滅亡したことで、一気にそ
の勢力を失い、仏教の支援者がいなくなったのも、仏教が衰退して行く大
きな要因の一つとなります。

そういう意味では、玄奘三蔵がインドにたどり着いたときは、インドに仏教
は民衆の間には少なく、ナーランダなどの大寺院で研究されていた程度だ
ったでしょう。数百年ヒンドゥー王朝がインドで続いた後のことですから。
そしてそこの中心にあったのは、大乗仏教ではなくヒンドゥー教化した密教
と言うものだったのですから、さらに驚きだったでしょう。

インドの中心ではなく、その周辺地域の東部と西部そして北西部などで仏
教徒はその信仰を受け継いでゆきますが、その後にはヒンドゥー教よりも
大きな脅威が待ち受けています。多分、玄奘三蔵もその脅威を感じていた
はずです。

そんなことを想うとき、玄奘三蔵の「大唐西域記」とはいったい・・・。

逮夜参り・六七日のご縁 「浄土は本当にある。」 

DSC_0181

今晩は、逮夜参りの六七日でした。
ご主人はまだ五十代でしたから、奥さんは逮夜参りのお経が始まると、
ご主人を思われてかいつも涙をお流しになられます。
女の子のお孫さんが3~4人いらっしゃって、いつも経本を持って一緒の
お経をあげて下さいます、5~6歳くらいでしょうか。
「いつもお参りありがとう。」と声をかけると、まっすぐにこちらの目を見て
下さり笑顔になられます。
近所のご年配の方も、5人から8人くらい参られるので、こちらのお宅の
逮夜参りはご親族を合わせると、15人~18人くらいになられます。

今日のお勤めは、「らいはいのうた(十二礼)」を和訳で、そして「正信偈」
和讃六首引、法話と御文章、最後に「しんらんさま」をお孫さんも一緒に皆
で合唱しました。

初七日から六七日まで、お勤めになられたことをねぎらい、そして仏様の
意味をお話しします。
阿弥陀様の導きがあるとはいえ、ご家族みんなで一緒に浄土にお見送り
する、それを仏となられるご主人は、とっても喜んでいらっしゃる。
一緒に皆でご主人と四十九日間旅をされているようなお心です。
でもこの旅の最後はお別れではないのです、浄土に生まれ仏となられ、
これからはいつも皆さんのそばで見守ることが仏様の役割。
南無阿弥陀仏と称えるそのお言葉は、仏様の心を私たちが受け取ってい
るということなのです。
南無阿弥陀仏を称えるところに、いつもご主人がいらっしゃる。
亡くなられたご主人は、私が子供のころよく一緒に遊んでいただいた方
でした。
六七日を逮夜参りで、本当に浄土があってよかったといつも思えます。
浄土があるから、仏となられる方も残された私たちも、迷わなくてすみ
ます。
もしなければ、その悲しみをどこに持っていけば良いのか分かりません。
阿弥陀様の願いが故人を通じて私たちの心に届けられる。

「無上深微妙の法は 百千萬功にも遭い合うこと難し・・・」

まさに今、私はその法に遭うことができた喜び、大切な方を失った悲しみ
は癒えることはないけど、でも仏となられてお遭いできることが私の心を
慰める。
間違いなく浄土はある、絶対に浄土はあるのだと強く感じた日。
ご親族の心にも、私の心にも、きっと・・・。

逮夜参りは仏教の持つグリーフケアの最も大切なお勤めなのですね。
いつも心からそう感じます。

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その3(大乗と小乗)

DSC_0108 (2)

仏教が根本分裂になった頃、アレクサンダー大王の東方遠征があり、後
にガンダーラ美術が興る種が蒔かれています。

上座部仏教は、スリランカ・タイ・ミャンマー・ラオス・カンボジアへと伝えら
れ、その命脈は現在にも伝えられている。
タイでは一度滅びますが、スリランカから再度仏教を輸入し、現在に至っ
ており、現在でもタイ国王は仏教徒でなくてはならないと法律で規定されて
います。
現在、世界的に見て仏教と言えばこの上座部仏教のことを指します。
大乗仏教は仏教の中心と見られていないと言うことを知っておくことも、
日本の仏教者としては必要な基礎知識だと思います。
密教はダライ=ラマの存在があるので世界的には有名ですが、教義的に
は仏教の中心とは見られていません。
もちろん、それによってそれぞれの仏教の価値が変わると言うこともあり
ません、それぞれにそれぞれの価値観があり、文化の違いがあります。
この上座部を大乗仏教側の人間からみたときに、小乗という言い方をす
るだけで、上座部の方々はあくまでも釈尊の伝統仏教を正統に伝えてい
る仏教としか思われていません。要は大乗側からの差別語の様なもの。
さすがに最近は日本でも、小乗というときは大乗仏教を語る上での学問上
だけの世界になってきていると思いますが。

その後、有名なクシャーナ朝のカニシカ王も上座部の説一切有部を庇護し、
その下で『阿毘達磨大毘婆沙論』が編纂されている。このことが「第四仏典
結集」とも言われています。
ただこの頃には、仏塔の建立が盛んになり、また初期の大乗仏教の経典
が編纂されるなど、大乗仏教運動が興ってきます。
そのときに、当時仏教の主流だった上座部仏教を批判するために、自らを
大乗と譬えて相手を小乗とすることで、主流派を攻撃するための手段であ
ったと言えるでしょう。
大乗仏教がどのように興ったかは諸説あります。またインドで仏教が滅ん
だ事もあり、その研究は進んでいないということもあるのでしょう。
とにかくインドで仏教の研究と言うものが、欧米や日本の研究者が入るま
で600~700年あまり途絶えていたのですから仕方ありません。
その間は仏教聖典もインドではあまり価値がない物だったと思われます。
金銀財宝でないので、でもいまなら金銀以上の価値があるでしょうに。

ただ主流だった上座部は大乗仏教を無視し、そして一般民衆からかけ離
れて行き、大寺院に籠って教義の研究と修行に明け暮れる。
釈尊以来、伝道布教に力を注いでいた仏教が、内側に籠って民衆をあま
り顧みなくなって行ったのです。
これは国王を始めとした有力なパトロンの存在で政治経済力があり、莫大
な資産を背景に、教理研究や瞑想三昧で、独善的で高踏的になっていた
のです。
何かこれ、鎌倉仏教が興る前や、江戸時代の檀家制度以降の日本仏教
の状態に似ていると思いませんか?
ここにも大乗仏教が興隆し、上座部仏教に対するカウンター思想を背景に
在家者である民衆運動が興る要因があったのでしょう。

そういう意味では、日本に平成新仏教が興る気運は十分にあると思いま
すが。

もう少し、インド仏教の流れを見て行きます。

浄土真宗の僧侶になるには・・・その3(得度・とくど)

22

浄土真宗本願寺派の組織は、本山である西本願寺の下に、本山直轄の
教務所が全国各地にあります。
教務所が教区と言われるエリアを管理しているイメージ、会社で言えば、
支社と言った感じでしょうか。その教区の中にそれぞれ組(そ)と呼ばれる
エリアがあり、組はそのエリアにある寺院によって構成されています。

寺院は元々、それぞれが独立した宗教法人であり、自分たちの意志でそ
れぞれの本山に所属しているのです。
江戸時代までは檀家制度の下で、必ずどこかに所属する必要がありまし
たが、現在では本山から離れ単立となる寺院も少なくありません。

とにかく僧侶になろうと決意し、得度を受けるためには、寺院⇒組⇒教務
所⇒本山と申請を上げてもらわなければなりません。
なので所属寺院を先ず決める必要があるのですが、どうやって所属寺院
を探すかと言うと、それぞれのやり方ですね。
たとえば自分が浄土真宗であれば、自分のお寺に聞くのが手っ取り早い。
あとは寺院や宗派が開催している行事に行って縁をつなぐ。
あとは教務所に聞いて、対応してくれる寺院を教えてもらう等々。今はネッ
トがあるので、気に入った寺院を自分で探して直接聞いてみることもでき
ます。東京なら築地本願寺(東京別院)、大阪なら北御堂(大阪別院)にあ
ります。
極端ですが、お婿さんを探しているお寺があれば、そこのお寺のお婿さん
になれば、自然にその道は拓けますが・。宗派によってはそんな縁を取り
持つこともあったりします。
ただ寺院側も、所属する僧侶の責任を問われるし、所属する僧侶の冥加
金(みょうがきん)を本山に毎年納めなくてはならないので、誰でも受け付
けてくれるわけではありません、心構えと素性、目的が分からなければ、
とても承認はしてくれないと思います。
ただ注意することは、本山への冥加金の他に、その寺独自で費用が必要
な場合があるかも知れませんので、事前に十分注意をしておくことです。

所属寺が決まれば、その寺院の住職があとはいろいろ教えてくれるでしょ
うが、得度するためには、先ず得度考査を受けなくてはなりません。
これは得度をする条件に合うかどうかですが、先ず第一に宗門校の大学
や中央仏教学院に行って所定の講義を受講すれば、この考査は免除され
ます。中央仏教学院には通信教育もあるので、それも一つの方法です。
東京や広島にも本願寺派の仏教学院がありますから、そこでもOK。
あとは所属する寺院で基礎知識を教えてもらい、教務所に直接行って考
査を受けることもできます。この場合、寺院からの承認があるのでほぼ合
格するようです。

得度考査をパスすればいよいよ得度ですが、その得度用の衣や念珠など
を一通りそろえなくてはなりません。これは一からそろえると10万~20万
円かかります。そして得度の申請や受講に20万~30万円必要になります
から、とりあえず50万円くらいの費用がかかると思っていた方がよいです。
もちろん得度の会場は京都にしかありませんので、交通費や前後の宿泊
費は別途必要になります。
得度の期間は11日間、完全に合宿で朝5時半までに起床、正座も一日数
時間はする覚悟で。スリムな方が膝への負担は減ります。
男性は剃髪、女性は茶髪はダメ、あくまでも僧侶になるためのものですか
ら、その心構えが大切でしょう。
ただ事情により正座ができない方や髪の色が元々茶の方なら、事前確認
をしておけば大丈夫です。
浄土真宗といえども得度で剃髪を拒否する様な方は、元々得度を受けな
い方がよいかと思います。

得度期間中、外にも出れませんし携帯ももちろん不可、途中棄権は無効
になり、最初からもう一度受けなおす必要があるので、お金がかかります。
インフルエンザでの途中棄権もそうです。
なので、体調管理を十分にして自分に合った時期を選ぶのも大切です。
他の宗派に比べると、浄土真宗は格段に期間が短いと思いますし、入り
易いと感じる面が多々あると思います。
ただ、浄土真宗の場合は僧侶になってからが本当の修行とも言われます
ので、入り易いかどうかではなく、自分の目指す道かどうかが重要かなと。

親鸞聖人が得度されたときに詠まれたとされる歌は・・・
「明日あると おもう心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」
九歳(数え)のときの歌と言われています。

仏法に明日と言うことはない、今なのだということ・・・。

なぜインドで仏教が滅びたか?・・その2

DSC_0245

インドで仏教が釈尊によって説かれた頃、インドには多くの思想家
が出現している。
それは一つの要因として、長年インド社会に君臨したバラモン教に
対するカウンター思想が一挙に噴出した時期。
でも世界的に見ても、ほぼ同時期に中国で孔子を始めとした思想
家が登場し、ギシリャではソクラテス等の哲学者が出てくる。
要は、世界的に思想や哲学、宗教が一気に花開いた時期に相当
するのです。
内容と規模は違うけれど、日本で鎌倉仏教が一斉に花開いた状況
に似ているかも知れません。

インドでは釈尊の他に、六師外道と呼ばれる代表的な思想家がお
り、その勢力を争っていた。
今でもインドで信者の多いジャイナ教の開祖マハーヴィーラも、その
うちの一人である。
仏教で使われる外道と言う言葉もここから来ていますが、決して他
を非難している意味ではありません。道を外れた者ということでは
なく、本来は他の教えの道を歩む者と言う意味合いで使われてい
ます。

仏教は釈尊入滅後、第一回・第二回の仏典結集をへて、根本分裂
します。大きな流れでは、保守派の上座部と革新派の大衆部です。
ただどちらも出家主義であり、後に興る大乗仏教とは異なります。
この時期の仏教の思想は「阿毘達磨」仏教を中心としています。
大衆部はやがてインドで消滅しますが、当時の勢力が強かった、
上座部の中心に説一切有部があり、その後に龍樹がこの「有」と言
う考え方を徹底攻撃したことでも知られています。
説一切有部に対してのカウンター思想が、後の中観派になって行き、
それが縁起思想の釈尊への原点回帰とされています。

後に消滅した大衆部に対して、仏教の中心だった上座部は釈尊の
教えを正統に受け継ぐものとして、マウリア王朝アショーカ王の庇護
の元、スリランカを始めとして世界へ伝道師を派遣しています。
最遠ではアレクサンドリアにも伝道所を開設しており、後のキリスト
教の修道院のモデルにもなったとも言われています。
また、近くにユダヤ人居住区があったことなどから、後にキリストに
も影響を与えていると考える学者もいます。
実際に、福音書には仏教の説話が数多く登場しているのですが、も
ちろんキリスト教神学的にそれは一切認める訳にはいきませんね。

ちょっと話は逸れましたが、次はインドにおけるその後の仏教の流
れについて話してみたいと思います。

なぜインドで仏教が滅びたのか?・・その1。

DSC_0250

釈尊の説かれた仏教が、歴史的にインドでは滅亡したと言う
事実があります。
実際には、インド北東部には現在まで仏教は現存しているし、
内部でもごく少数ですが、仏教を伝えてきた種族の方は存在
するけれども、ただ大きな意味でインドでは仏教が滅亡したと
伝えられている。
ただこの事実は日本においては、あまり顧みられていない様
にも感じます。これは大乗仏教至上主義的な側面があったか
らかも知れませんが。

私が僧侶の道を進もうと思ったとき、一つの疑問がありました。
なぜインドでは仏教が滅亡したのか?
もしくはなぜインドでは仏教が滅びなければならなかったのか。
もし滅亡したとしたならば、その理由を知りたい。
もしその理由が分かれば、現代の日本の仏教の再興の参考
になるのではないかとも考えたのです。

会社を辞めて、中央仏教学院に行ったとき、個人的にそのテ
ーマを探ってみようと思い立ち、自分なりにその理由を探りま
した。
このテーマは、現在の学説上結論を見ていないものですが、
自分なりの結論は、何か歴史的な出来事があったとき、その
原因は一つではないと言うこと。
外的及び内的要因も含めて複合的に要因が重なりあってい
ると言うことです。
今回のテーマもまさに複合的要因によって、インドでは仏教
が滅んでしまったのではと思うのです。

では何を持って滅亡とするかですが、歴史上では1203年に
ヴィクラマシラー寺院がイスラム教徒によって壊滅されたこと
とされています。その前の1197年には、玄奘三蔵も訪れた
と言われているナーランダ寺院も壊滅されている。
その時代仏教は衰退し、信者もほとんどいなかったと言われ、
かろうじて維持していた仏教寺院がイスラームのインド東部へ
の侵攻により、一気に殲滅されたということです。
このときのイスラームの攻撃はすさまじく、寺院は何日も燃え
続け、僧侶は一人残らず虐殺されたと・・・。
当時の仏教はもはや仏教的と言うよりも、ヒンドゥー教化され
た密教でしかなく、仏教の持つ本来の教えから遠くなっていた
ことで、インドでその存在意義を失っていた状態であった、とも
言われています。

仏教を学ぶ場も、仏教を伝える僧侶もいなくなったと言う事実
を持って、インド仏教の滅亡とされているのです。
しかし、インドでは現在もヒンドゥー教は衰えることなく、今も
民衆の間にはインド人のアイデンティティーとして、確固たる
ものがあります。
その理由を探って、インド仏教の旅に出てみたいと思う。

そう言えば、インドで仏教が滅亡したと伝えられる頃、日本で
は、鎌倉仏教が興っていた時代に重なるのです。

浄土真宗の僧侶になるには・・・その二。(所属寺を決める)

DSC_0012

さすがに、まだ寺に戻る気はないけど、僧侶にはなっておかな
いと、と言う気持ちにはなりました。
多分よくは分からないけど、多分僧侶になるには得度を受ける
となれるのでは・・・?

そのときは本当にどうすれば良いか分からなかったのですが、
さすがに今では、どうすれば良いかある程度分かります。

【浄土真宗本願寺派の僧侶になるには!・・・の第一歩】
先ず、得度を受けて本願寺派の僧籍に入ること。
僧籍に入れば、取あえず僧侶としての肩書は付きます。
つまり、法事やお参りに行っても偽坊主ではないってこと。

では、どうすれば得度を受けられるか?
それには先ず、自分が僧侶として所属することになる本願寺派
の寺院に承認してもらわなくてはなりません。
基本的には本願寺派に所属している寺院であれば、どこでも
大丈夫ですが、これが無くては得度はできないのです。
私はとりあえず実家がお寺なので、この問題はありませんでし
たが、もし何も無い状態ならある意味ここが一番難しいかも知
れませんね。
そして僧侶になった後、自分が目指す道がもしあるのなら、こ
こで安易に流されると、その後の道が開けない場合があります。

僧侶になるだけならいいのですが、その後の道を進むために
は、まだまだ先の段階があるのです。
寺によっては、得度以上受け付けないってことも普通にありま
すし、一度その寺に所属すると住職の許可なく他の寺院へ所
属を変わることができません。
実際、この問題で苦しんでいる僧侶の方を知っています。
たとえば、いつか住職になりたいとか、布教使として名をなした
いとか。でも僧籍に入っただけでは、この様な職種につくことは
できないのです。
その為には教師と言う資格を持っておかなくてはなりませんが、
教師資格は条件が整えば住職になることができる資格でもあ
ります。
なので、寺の家族以外は教師資格を取らせないという事もある
し、得度もそうですが教師はさらに寺役員の方々が認めないと
いけないという事があります。
この点で、まあできるだけ対応して頂けるお寺がいいでしょうね。
なので、僧侶になろうとする方がいらっしゃれば、自分の目的
や目標を将来に渡って考えておくことが必要になります。
最初は僧侶になるだけでもいいと思っていても、歳を重ねたと
きとか、周りの僧侶と話をしていると、いろいろな事に挑戦して
みたくなるので、よーく考えましょう。
つまり僧侶になるだけでいいなら、得度を受け僧籍に入るまで。
そこからいろんな資格を取ったり、次に目指すものがあるなら
教師資格を取らなくてはならない。
つまり、本願寺派では教師になることが僧侶としてのプラット
ホームのようなものです。プラットホームに乗らなければ、次の
段階への列車に乗ることはできません。
たとえば寺の住職、布教使、本願寺で働く衣を着た職員。
この様な方はすべて教師資格を持っておられます。

とりあえず今回は、僧侶になろうと思ったときのことまで・・・。

浄土真宗の僧侶になるには・・・その一。

IMGP3262

浄土真宗は修行が無いから入りやすい。
僧侶にもなりやすいって、時々聞くことがあります。

でも僧侶になるには、どうしたらいいの?
お寺に生まれていない方は、どうしたらいいのか分からない
のでは・・・?
そこで「浄土真宗の僧侶になるには」ということを何回かに分
けてお伝えしようと思います。

私は、お寺に生まれましたが二男だったことから、お経も称えず
教えも聞かずに育ちました。
知っていることと言えば、お寺が浄土真宗だと言うことと、親鸞
聖人の名前くらいのものでした。
今から思えば、逆に不思議なくらい何も知らないでいました。
門前の小僧と言いますが、誰でもと言う訳ではないのですよ。

では浄土真宗で僧侶になるには、どうすればいいのか?
実は、お寺の子弟の場合、生まれてからある程度レールが敷か
れているので、あまり意識していないのではないかと感じます。
知らない内に、当たり前の様にそうなるものと・・・発心もなく。
本願寺派には宗門校があって、大学は龍谷大学がありますね。
その他、京都女子大学・相愛大学・武蔵野大学なども宗門校で
すが、そこに行けば僧侶となる資格考査を免除されるコースを
受講できると思います、たとえば教員コースのような。
でも簡単に見えるようで僧侶の道は、実は結構奥が深いのです。

私の場合、寺を継がせようと言う親の意志もなく、私も一般の
大学に進み会社に就職しました。
あるとき実家に帰ったとき、お寺の総代さんが私に「寺に戻って
欲しい」と言われたのです。
兄が寺を継ぐ気が無いのだと・・・。
もう30歳を過ぎていたと思います。
そのときは、それほど真剣に考えていませんでした。
お経も読んだことが無く、知識もなく、宗門校にも行っていない、
ましてサラリーマンだし。

後に僧侶となる習礼を受けに行ったとき、浄土真宗の方々なら
誰でも知っているであろう、『正信偈』という存在を初めて知った
くらいなのです。
このときは、さすがに周りの方から驚かれました。
そのときの言葉は「そんなんでよくここに来れたなあ!」。
そのときは何も知らないので、恥ずかしいと言う感覚さえありま
せんでした、「へえ、そうなの」。
何しろ『正信偈』とは浄土真宗で一番称えられるものですから。
檀家さんでも毎日称えられる方も多いのです。
要は全く何も知らない状態という事です。
『浄土三部経』という存在も、そのときはじめて知りました。

私は、僧侶には寺に生まれたら適当になれるもの、住職も時
が来れば、継げるもの程度にしか考えていませんでした。
まして浄土真宗だし!なんか感覚的に楽そうって感じ。

でもいざとなると、周りに僧侶の友人もいないし、僧侶のなり方
を教えてくれる人もいないし。
私は、住職の父の姿がとにかく嫌いでしたから、父に聞くなどと
は全く考えてもいませんでした。
会社で仏教や寺の話をしようもんなら、こいつには気をつけろ!
と言った様な風潮もあったと思います。
無宗教であることが、一番安心って感覚の時代ですね。
時は高度成長期の真っただ中、バブルも弾けようかとしていた
時代。
約20年前、寺院も僧侶もあまり考えなくても、一番儲かってい
た頃かも知れません。

それからは、その総代さんの言葉が僕の頭の中から離れない
様になりました。

平成新仏教の風が吹いてる・・?

パリの夕焼け

日本の仏教の展開は、大きく分けて三つに分かれると
思います。
最初は、仏教が朝鮮半島より伝来し、その後奈良の都
に寺院が建立された時代。
今で言う南都六宗がその代表でしょうか。
次に遣唐使として僧侶が次々に中国に渡り、その教え
を持ち帰った時代。
この代表が最澄と空海ですが、比叡山を中心とする天
台宗は仏教の総合大学の様ですし、高野山の真言宗
は、密教専門大学といった寺院ですね。
ここに日本の仏教の教えの源が出そろったことになり
ます。それは大乗仏教と密教。
そこに足りなかったものは、原始仏教の流れですね。

ただ、ここまでの仏教はあくまでも鎮護国家のための
仏教、国家すなわち天皇家のための仏教で、決して
庶民の救いのための仏教ではありませんでした。
ある意味、僧侶が国家公務員的であった時代です。

その次に登場するのが、鎌倉仏教です。
当時、日本では末法の世と信じられていた。
その時代、従来の鎮護国家のための仏教に疑問を感
じた僧侶たちが、あらたな展開を図って行く。
それは、国家ではなく本来の仏教の目的である個人の
救済へと向かって行くのです。
仏教は本来、国家の為の宗教ではありません、個人の
救済のための宗教です。
現在日本の仏教の宗派の多くが、この鎌倉時代に、比
叡山から下りた僧侶によって成立している。
そして、その後の日本では鎌倉仏教を超えるものは出
てきていないのです。
つまり、それからの日本は約800年前の僧侶の教えを
ただ頑なに守り、追及している仏教と言えるでしょう。
もちろん善知識の教えに学ぶことは大切ですが、逆に
そこに縛られて、身動きできないと言った感じもします。
それが宗派教団の壁と言った感じもします。

これは、その後の江戸時代の檀家制度による影響も
大きいのでしょう。
これで寺院の運営は盤石になり、一部僧侶の特権階
級化が進められます。
逆に、僧侶や寺院の独自性はなくなり、その由緒や
階級が重視され、そして伝道力や民衆のなかへ入っ
て行くというパワーがなくなって行きます。
本当の意味での日本仏教の衰退期に入った状態に
なり、その最後の時代が今の日本仏教ではないでし
ょうか。
今現在、寺院や僧侶への批判があるとすれば、この
檀家制度に浸りきっていて、その本来の意味を聞こう
ともしない、寺院や僧侶に対してのものかも知れませ
ん。もちろん私自身の自省も含めて・・・。

そして時代の変化が、平成の時代になって変わろうと
しているのではないでしょうか?
新たな仏教の展開、それは何となく宗派の枠を超えた
新しい展開であるようにも感じます。
そしてもう一つは、日本の宗派の宗祖の教えの本来
の意味をもう一度求め、それと同時に釈尊の教えに
戻ろうという流れではないかと思うのです。
いわゆる宗派を超えたハイブリッドな仏教。
たとえば、釈尊と禅と念仏とか・・・。
釈尊の教えに仏教の原点を求めることが、宗派の
枠を超えることにもなるのでは。
これはやはり、インターネットを中心とした新情報化
社会。昔に活版印刷が発明されヨーロッパで新教徒
が興った様な時代に相当するかも知れません。
今まで閉ざされていたものが、一気にオープンになる。
本当の意味するものが、見えて来る時代でしょう。

たとえば戒名とか、いろいろなものは本来の意味を
問うことで、シンプルになって行くかも・・・。
お墓も先祖墓とか家代々の墓、といったものではな
くて、個人のお墓へと変わって行くでしょう。
これは、家を継ぐと言った感覚が薄くなっているから。

仏教本来の教えを聞いて行く時代が、もう来ている
のでしょう。
いつの日か、今の時代が新仏教と言われるような
時代になっているのかも知れません。
若い一部の僧侶の方々の行動を見ていると、そんな
風が吹いている様に思えます。

十僧十色。

DSC_0174

昨日は、近所のお寺さんとの交流会がありました。
近所のお寺さんの宗派は、曹洞宗・浄土宗・黄檗宗・真言宗、
そして私の寺の宗派は浄土真宗です。
またそれぞれの宗派の中でもまた宗派が分かれて行きます。
全国に7万5千ケ寺前後あると言われる寺院。
宗派も違えば、環境も違い、檀家数が違う。
忙しいお寺の住職は、住職を辞めるまでほとんど休みなし。
ゆっくり檀家さんに向き合うことや、僧侶としての活動をする
時間が作れないという悩みも。
逆に檀家の少ない寺の住職は、他の仕事をしなくてはならな
いので、やはり僧侶に全力を尽くせないことも。
お布施もまちまち、檀家もまちまち。
それぞれが、それぞれの中で悩みを抱えながら、寺院を運営
しているのでしょう。
同じ寺と言っても、あまりに違い過ぎて、とても一括りにはで
きない世界です。

また、世代によって僧侶の感覚も大きく変化してきている。
特に30代以下の若い僧侶の方達は、問題意識や情報発信
力が非常に高いという感じがします。
宗派や従来の枠にとらわれず、新しいタイプの寺院や僧侶
が次々に現れ、寺や僧侶のイメージを変えて行くのでしょう。
これからの10年間が、寺院や僧侶にとって、次の展開の大
きな転換期になりそうです。
それは、今まで閉ざされていた寺院や僧侶に関する情報量
が、一気に拡大しオープン化しているから。
鎌倉仏教~江戸時代の檀家制度~平成仏教くらいのイン
パクトがあるかも知れません。
ある意味、僧侶の本当の力量が問われる時代になるかも
知れませんね。
力量と言っても、いろんな見方ができるとは思いますが。

10年後に、どんな寺院や僧侶が出て来るのか、非常に楽し
みな気がします。
もちろん、若くはないですが私自身の姿も含めて。

「やずブータン村」構想

DSC_0269

光澤寺では、地域と一体化した「やずブータン村」つくりを
2012年からスタートさせて行きます。

それは地域の高齢化・独居化・過疎化に不景気。
そして今は田舎でも所得格差の現実があり、それがより
一層、田舎でも無縁化を加速させています。
でも、私たちはこの逆風を追い風にしたいと考えています。

問題点をピックアップさせることで、見えて来る現実。
お寺は、檀家さん一軒一軒、それもお年寄りとお会いす
ることができるので、その問題に直面することが多いの
です。

何とか、みんなが幸せに暮らすことができないか?

たとえば過疎化が進み空き家が増えてくると言う現実。
それを、定年後に日本一移住したい村に変貌させて行く
ことができたら。
昔の日本に普通にあった、四季があふれるふる里の原
風景を背景にして、お寺と言う元祖NPOを中心とした、
新たなコミュニティー作り。

村人全員ボランティアとなる様な村を目指して行きます。
ただ、まだ何も始まっていませんが・・・。

今は、そのミッション確認段階です。

いつでも誰でもが参加でき、みんなが幸せに暮らせる村。
その中心にお寺がある。
そして、生きてる間も、死後もゆっくり安心して暮らせる、
そんな場所が日本にあったらいいと思いませんか。

行政は、宗教がからむと全て拒否する時代。
でも何か、タイアップする方法は見つかるはず。
行政に頼る時代から、自分たちで作る時代へ~。

光澤寺URL http://koutakuji.com/


ブータン王国と親鸞聖人

DSC_0328

ブータン王国は、国民の幸せを「国民総幸福量」という見方
で表す。
物質的な指数ではなく、精神的な幸福を指数とする国である。
相対的に見て、仏教国はその国民性が優しい国が多い様に
感じる。
それは基本的に、仏教的な教えがそうさせているのではない
かと思います。
宗教は他国を侵略する旗印に使われることが多いが、仏教
は他国を侵略するときの旗印になったことはほとんどないと
思います。
ある意味、仏教国が物質的な発展に取り残された国が多い
ということもあるかも知れませんが、物質的な発展を遂げた
日本が、その代償として失ったものも多いのではないでしょ
うか。
もちろん宗教が平和をもたらすとは必ずしも言えませんが、
少なくとも仏教的価値観が、その国民性を穏やかにするの
は間違いないように思います。
ブータンも仏教国ですが、日本が物質的な繁栄と引き換え
に失ったものが、この国にはあるのかも知れません。
仏教の伝播の方法として、その国に元々ある文化を否定
せず、その文化を包み込むように伝播して行った過程があ
ります。
仏教は成熟した宗教なので、たとえば伝統的な仏教国が
キリスト教に変わった国と言うのはありませんね。

親鸞聖人は、弟子へのお手紙のなかで「仏法ひろまれ 
世の中安穏なれ」とお伝えされていますが、やはりこれか
らの時代、仏教的な幸福のありかたも、もう一度見直して
行くことも大切な様にに思います。

私は、お寺を中心としたブータン王国の様な、幸福のある
村づくりをして行きたいと思っています。
そこに暮らすすべての人が、物質的ではなく精神的に幸福
を感じられる村。
今、過疎化と高齢化、そして不景気と言うかってないほどの
危機が、日本の農山村を直撃しています。
そこにかっての日本の原風景の様な村づくりをして行くこと
が、その農山村を活性化させて行く原動力になると思うの
です。
是非、日本中に「ブータン村」を広げて行きたいですね。

興味のある方は、下記HPへアクセスしてみて下さい。
http://www.koutakuji.com/

往生浄土の意味するもの・・・。

DSC_0345
あなたは浄土はあると信じますか?
もし浄土が本当にあったなら、あなたは浄土に生まれたいと願いますか。

誰も浄土を見てきた人はいないので、「そんなものはない。」という方も、
今の時代には多いかも知れません。
これは「死んだら終い。」という事になるのでしょうか。
でも見た人がいないという事は、実際には存在するかも知れません。
ただ、浄土に往生する手立てである『念仏』は、決して免罪符ではないと
言うことも、浄土真宗であれば知っておくことが大切だと思います。

この往生浄土思想は、大乗仏教の発展の過程で伝えられたものです。
特に、普遍宗教と言われる世界三大宗教にあっても、死後の世界を問わ
ない宗教はありません。
釈尊はそんなことは言っていないと言う方もおられるでしょうが、そこは余
り問題にはならないと思います。
その命題は、大乗仏教の中で語りつくされているから。
仏教は「いのち」の苦に向き合うことから始まります、その中でも「死」とい
う現実に向き合ってゆく教えでもあると思います。
仏教が伝えられて行く過程で、多くの人々、多くの民族、多くの言葉、多く
の国を経て、この浄土の教えが伝えられ育まれて来た、そして多くの人々
を癒して来た。何より多くの人々の心に安心を与えてきたのです。

先ずは、死後の世界への人間の恐怖心や迷いを取り除くことが、必要で
あったのでしょう。「地獄」「餓鬼」「畜生」の世界。
今でもその迷いを利用するお寺が多いことは、逆に仏教の本質から外れ
ているかも知れません。

浄土とは涅槃寂静の世界であり、人々の迷いが吹き消された状態を言う。
特に日本人は死を忌み嫌い、不浄としてきた歴史があります。
まさにこの迷いの状態を、浄土の教えは解き放つものでしょう。

往生浄土の道とは、縁起を知り、人のいのちに限りがあることを知る。
その「死」を見つめることで、「いのち」の尊さに目覚め、いまある生(せい)
を生き切ることに目覚めること。
そこに生きる意味を見出し、「いのち」の意味を知り、生かされている「いの
ち」に気付かされる。
私はその様な意味があるのだと思います。

人は、亡くなられて仏となる存在が迷っているのではない、残された人間
にこそ迷いがあるのでしょう。
その迷いを取り払うことはとても大切なことだと考えます。

科学至上主義の現代で、実証できない物は認めないと言う世界。
それは人間にとって、その時代において役立つか役立たないか。
極端に言えば、善か悪か。用か不要か。
その様な物の判断基準が、現代の日本の暗闇を作り出しているのかも
知れません。
戦後、そして高度成長期時代に置き忘れてきたもの。
日本の現代の苦悩は、そういった時代が作り出してきた状態だということ
に、私たちが気付かなくてはなりません。
気付いてみたら、迷いは一層深くなっていたって感じでしょうか。

人々の心に安心を与え、拠り所を与え、迷いから解放するもの。
それが往生浄土の道だろうと思うのです。
親鸞聖人の説く「生死出づべき道」を問い続ける。

問い続けたとき、そこに答えが見つかるのでは・・・。

浄土が存在するから願うのではない、あなたが信じるのなら、そこに浄土
は存在するのでしょう。
あるかないかを問うことではなく、あなたがあって欲しいと願うのなら、
そこに阿弥陀如来の国である『極楽浄土』は存在する。
そのとき、あなたの願いは阿弥陀如来からの贈り物であったと気付かさ
れる。そのときに『念仏』の意味があきらかになるのです。

浄土教における往生浄土とは、死後の幸せの世界を約束すると言うこと
だけではありません。
無常を知り、この世の限りある生を見つめ、いのち意味を知る。
そこから、今の「いのち」を精一杯生きるための仏の智慧に覚めるとき、
そのときに生と死がつながって行くのでは。

そして縁起を知り、決して片道切符だけではない、私のいのちに目覚め
る。連続無窮・・・。
仏となる意味も覚悟もそのとき気付かされる。

そのようなことではないかと、私は考えるのです。

明治維新の背景にあるもの・・・。

DSC_0069
[西本願寺太鼓楼]
明治維新のとき、西本願寺は長州藩を支えていました。
長州藩は士気は高かったのですが、財政的には非常に厳しい藩でした。
江戸幕府は、相続争いに乗じて本願寺を二分し、さらに静岡から関東・
東北にかけて浄土真宗寺院をほとんど認めていません。
東本願寺は、江戸幕府の策略によってできた寺院です。
築地本願寺に至っては、浅草にあった本願寺御坊が大火で焼失したと
き、代替地として指定したのは江戸前の海の中、それが現在の築地です。
長州藩は毛利家で、本願寺が織田信長戦と戦った時の同盟関係にあり、
浅井朝倉陣営が敗戦のあと、本願寺を支えていました。
明智光秀が本能寺の織田信長を討ったときは、休戦していた本願寺を
討てと信長から指令が出て、和歌山に向かう途中とも言われています。
明智光秀は仏教の守護者だったと言われています。
西本願寺は京都の長州藩士の逃げ込み場所となり、財政的にも支援し
ています。
それに対し、幕府は新選組を西本願寺に送り込み、現在の太鼓楼を
新選組の屯所としました。
その建物が現在も西本願寺に残っています。
NHKの大河ドラマは宗教色を消していますから、あまり歴史の表舞台
には登場しませんが、日本の歴史には大きく宗教が関わっているという
背景があると思います。
明治政府とパイプが強かった西本願寺は、明治初期の「廃仏毀釈」のと
き、その廃止の原動力となっています。
ただ、そこからは軍国政治に加担してしまうことにもなってしまいます。
歴史の渦の中で、僧侶や寺院だけが蚊帳の外にいることはできないの
でしょう。
そのときに人々の苦を取り除くのが仏教なら、仏の意志と違う方向に
行ったときの罪の重さも十分に認識しなくてはならないでしょう。
これは世界中の宗教教団が抱えている問題だと思いますが。

ニューヨークの親鸞聖人

NY6 013

ニューヨークにも親鸞聖人がいらっしゃいました。

前回に引きつづき、ニューヨーク本願寺にある親鸞聖人像です。
この像があるので本願寺と分かるのですが、なければなかなか
すぐには分からなかったと思います。
それくらい寺院とか教会って外観ではありません。

この像は、広島で被爆した親鸞聖人像で、平和のメッセージの
ためにNYに移設されたそうです。
親鸞聖人のメッセージは、NY市民に届いているでしょうか?

ニューヨークに観光に行かれた方、是非このNY本願寺に行って
みて下さい。
そして親鸞聖人にご挨拶を、ちょっと不思議な感覚に・・・。

そう言えば、キリスト教徒は遺体を火葬してはいけないという事
なのですが、ニューヨークでは土地もないことから、火葬にされ
ることが多いのだそうです。
映画やTVでは、棺桶をそのまま土葬にしているシーンが多いと
思いますが。
映画は象徴的な面もあって、土葬シーンを使うのかも知れませ
んね。
火葬は日本でだけかとも思っていましたが、決してそうではない
ようです。
宗教儀式も、時代や場所や環境によって変わってくるということ。

ニューヨーク本願寺

NY6 020
ニューヨークにも本願寺があります。アッパーウェストにあり、ハドソン川に近く、
コロンビア大学から少しダウンタウン方面に行った場所にあります。
有名なJAZZ CLUB「SMOKE」から徒歩5分くらい。
リバーサイドパーク沿いに走っている道路に面してあり、住宅街の中に静かに
あります。
ただ建物内に入ってみると、意外に広いと言うイメージ。
本堂も100人は座れる椅子席が用意されています。
とても穏やかで落ち着いた感じのする寺院です、もちろん日本のお寺と雰囲気
はかなり違いますが。
当時のご住職夫妻のお人柄でしょう。

お寺の表記は「Buddist church」とされていました。
NYのお寺は、日本のお寺と運営方法が変わっています。
日本は江戸時代からの檀家制度を踏襲していて、檀家は固定的で役員構成も
住職が代表役員になる。つまり住職に決裁権があります。
NYはメンバーシップ制で、会員の中から理事が選任され、その理事によって
運営される。
場合によっては住職を解任されることもあります。
つまり住職に決裁権はありません。

これは、どちらにもメリットとデメリットがあるでしょう。
つまり宗教、お寺にとって必ずしも思った方向に行くとは限らないということです。
み教えを追求したくても、NYの場合はそれができないケースもあります。
教会によっては、み教えより、会員や理事の顔色を伺ってしまうこともあるかも
知れません。
また、日本の様に住職次第でお寺が変わってしまう場合もあります。
皆が良い住職とは限らないでしょうから。
でも、犯罪でも犯さない限り住職を辞めさせられたという話は聞きません。
住職も最初はひどい僧侶でも、歳をとって逆に良い僧侶に変貌することも
考えられます。

どちらもミッションがみ教えに沿って明確に立てられているかどうかがポイント
でしょう。
運営はどちらにしろ人間の手に委ねられているわけですから。

NYでは会員はいろんな方がおられる様です。
そして自分が良いと感じれば会員になるし、寄付をして行くということになります。
海外の教会はこの寄付によって成り立っているケースが多いですね。
アメリカ人は、年収の10%近くを何らかの寄付行為に充てているのです。
NPOや大学もこのような寄付によって運営がなされています。
もちろん日本のお寺は元祖NPOですが、これからはどの方向を向いて行くのか?
僧侶と門徒(檀家)の舵取りは、今まで以上に重要になって行きます。

これから・・・

DSC_0163 (2)
2012年1月17日の西本願寺「御影堂」
昨日までの大遠忌法要が終わって、今日の西本願寺は参拝客もほとんどなく、
「御影堂」内も人がいません。
ただ法要の片付けが粛々と行われている。
西本願寺の職員も解放感漂い、昨日までの張りつめた空気はない。
僕はどちらかと言うと、この行事が終わった後の雰囲気が好きです。

こちらの方が心も落ち着き、静かにお参りができます。
今日は人のいない西本願寺の「阿弥陀堂」と「御影堂」にお参りし、坊守と共に
静かに二人読経をしました。
阿弥陀様と宗祖親鸞聖人に今までの感謝の思いと、これから新たにスタート
することへの誓いのためです。

さあ、これから新たな展開を心に誓って!
仏と宗祖のご加護を・・・。
「二河白道」のイダイケ夫人の心境にも似て。

親鸞聖人七百五十回大遠忌「御正当」

DSC_0110 (2)

2012年1月16日は、浄土真宗の宗祖親鸞聖人の七百五十回の
大遠忌法要の最終日。
すなわち親鸞聖人の七百四十九回目のご命日の法要でした。
年忌法要は数え年ですから、七百五十回となりますね。

西本願寺の御影堂は立ち見の出るご満堂、5000人の参拝だった
そうです。
私は、次の八百回はおそらくこの世にいないでしょうから、このご縁
に西本願寺にお参りしてきました。
当日の京都の冷え込みは半端ではなく、本堂は暖房もありませんか
ら、普段以上の厚着をして行きましたが、心底冷え切りました。
でもほとんどの方が法要をずっと見守られていました。
ご年配の方も、さぞかし大変だったことでしょう。
2時間以上の法要でしたから。
西本願寺も一つの節目を越えたので、これからが社会環境の変化
や、門徒の高齢化も相まって、本当の意味での変革が求められます。

法要後のご門主の「ご消息」にもそのようなことが触れられていました。
このことは西本願寺以上に、地方寺院は緊急課題です。
少子高齢化と過疎化、そして景気後退の流れは、ここにきて加速して
います。
以前なら50年後とか30年後の心配だったことが、現在では10年後
といった感じです。
着実にしかし急いで展開を図って行かないと、次の世代へお寺を
バトンタッチできなくなってしまいます。

この町の過去は、君たちの未来のためにあるのだよ。

DSC_0124

このタイトルは、JR東海の「そうだ、京都へ行こう」の
キャンペーンのキャッチコピーです。
東西の本願寺の親鸞聖人七百五十回大遠忌法要に
合わせたキャンペーンポスターから。
今日は、この言葉を題材に夕方四時からの逮夜参りの
法話をしました。

故人はその村で生まれ育ち亡くなられた。
その方のいのちの意味は、今日ここにいらっしゃる方々
の今日、そして明日のためのいのちだったのでは。
そのつながりの中で、私たちは生きる、生かされている
いのちに感謝をさせていただく。

道綽禅師『安楽集』にいはく・・・
「真言を採り集めて、往益を助修せしむ。いかんともなれば、
前にうまれんものは後を導き、後にうまれんひとは前を訪へ、
連続無窮にして、願はくは休止せざらしめんと欲す。無辺の
生死海を尽くさんがためのゆゑなり」と。

(意訳)
さきに浄土に生まれし方は、後につづく人々を導くこと。
そして後に続く人は、さきに浄土に生まれた人を訪ねる。
そしてその「いのち」の流れがつきぬことを願う。
それは迷いの中にいるわたしたちすべての方々が、必ず
すくわれていくために。

これは親鸞聖人がその生涯をかけて編纂した著作。
『教行信証』の最後に引かれた言葉です。
私たちがおつとめする法要の根本的意義を伝えたお言葉
だと・・・。
そして親鸞聖人が『教行信証』に込められた思い。

明日は親鸞聖人の七百五十回目のご命日。
連続無窮にして、願はくは休止せざらしめん と・・・合掌。

供養

DSC_0176

「供養」とよく聞きますが、葬儀や法事は何のためにする
のかと問えば、多分90%以上の方が先祖や故人の
「供養」のためとお答えになるのではないでしょうか。
ここでは浄土真宗の「供養」を考えてみます。

浄土真宗では、葬儀や法事は「供養」のためではないと
聞かれたことがあるかもしれません。
これは、とっても誤解を招きやすいですし、伝え方によっ
ては思わぬことになったりします。
浄土真宗も葬儀や法事を問う意味は「供養」であると思
います。ただその供養の内容は明らかに他宗派とは違
うかも知れません。
回向(えこう)という言葉があります。回向とはその功徳
を供養に差し向けるということで、法事をとうとかお供え
をするとか、お布施をするとか。
もちろんお経を称えるとか。
この回向は、自らの功徳によって故人や先祖に振り向け
るということになるのですが、浄土真宗は違います。

それは何故か?
浄土真宗では、阿弥陀様の功徳(本願力・誓願)によって
浄土に往生させていただく、そして仏となって有縁の方々
を見守り、仏の教えへと導き、今生きるいのちに意味を
与え、心の安心を与える。
つまり、回向は私たちの側にあるのではなく、仏の側に
あって、私たちは願われている側であったということに
気付くことが大切なのだと受け取ります。
供養している私たちの思いは、実は仏様から願われてい
たいのちであり、供養される側にあったのだ。
そこに気付くとき、感謝の思いでお念仏を称える。
そのお念仏に、仏のご縁をいただいた故人や先祖の思い
が届けられているんだよ。
そこに、葬儀や法事の仏様のご縁、先祖のご縁、故人の
ご縁がある。これこそが仏様の自利利他円満の境地です。
法要は、仏様になられた方と私たちが一体となる円満の
空間なのです。
親鸞聖人も「供養ではない」とは仰っておられません。
『歎異抄』にはそれらしきところはありますが・・・。
私たちは「供養」と言ってはいけないのではないのです。
「供養」に間違いはないのです、でもいつか、その仏様の
お心に気付いて欲しいのです。
「供養」すると言うお心はとっても大切なお心です。
でもその「供養」しようと思い立ったときには、多分先祖や
故人の方の思いがそこにあるのではないでしょうか。
今生かされているそのいのちに目覚めたとき、私たちに
は感謝の念しかなくなる。
法要は「仏徳讃嘆」であり、先祖や個人への報恩の念で
あるのでしょうね。
仏様のはたらきだからこそ、間違いなく浄土に往生し、
仏となることが約束されている。
そこに人間の功徳が入ると、本当にこれで大丈夫かと
いう疑念も生まれ、そして残された者は迷います。
仏になろうとしている故人や先祖が迷うのではなくて、
残された人間が迷っているだけなのです。
阿弥陀様の願いは、その迷いをなくさせるはたらきも
あるのですね。
先祖のご縁によって供養されていた私の存在が有り難い。
僧侶が自ら功徳を差し向けるなどと言うときは、その僧侶
を疑ってみた方がいいかも知れません。

ただ檀家さんにそのお話をするときは、しっかりとお話し
しないと、葬儀や法事をとう意味が分からなくなってしま
います。
浄土真宗で葬儀や死に対して、不浄とか忌み嫌うとか、
縁起が悪いとは決して言わないのは、その様なことも
すべて含まれています。

ただ親鸞聖人の教えに、この様なことがすべて書いてある
訳ではありません、僧侶一人一人が、自らその教えの中
に、その答えを探して行かなくてはならないのです。
ですからここでお伝えしたことも、私の受け止め方と言った
方が正解だと思います。

それはご門徒さんの葬儀や法事をお勤めする度に、常に
自らに問い続けることしかありません。
そしてみ教えに聞く、釈尊と親鸞聖人の教えに聞く。

浄土真宗は、ご門主も僧侶も、ご門徒も、すべての方々
が、仏の教えを聞く立場にあるのです。
そして仏の前では、すべて横一線、上下はありません。

逮夜(たいや)参り

夕方7時より、ご門徒宅で逮夜をお勤めいたしました。
光澤寺では、亡くなられてから四十九日(満中陰)まで
の間、毎週同じ曜日に逮夜参りをします。
今日のお勤めは、『重誓偈』『正信偈・六首和讃』
法話と御文章、そして最後に「しんらさま」を合唱。
約1時間のお勤めです。
こちらでは親戚やご近所さんもお参りされますよ。
私たちが生活している場所を此岸(しがん)と言い、
仏となる浄土を彼岸(ひがん)と言います。
その間の時間を中陰(ちゅういん)とか中有(ちゅうゆう)
と表現し、四十九日で彼岸に到達されるので、満中陰。
実は、この逮夜参りが一番僧侶の本分を問われるとき
です。
ご遺族のグリーフケアという大切な役割があり、そして
仏の意味とか浄土とか、教えをお伝えするときなのです。

悲しみにいるご遺族を仏様とともに見守り、周りの方々
も一緒になって支えて行くのです。
そして仏様の大切な役割である仏の道へ導くこと。
そこに仏教が葬儀に関わる大切な意味があるのでしょう。
僧侶が自らを鍛える勉強の場でもあるのですから。

ちなみに、逮夜とはその日(たとえば命日)の前の晩と言う
こと。前の晩から、その方へ少しでも早く思いを届けたい
という意味があります。逮夜の逮は、そのときまでその思い
がしっかりと届けられ、摂め取って離さないということ。
逮捕の逮はこのような意味もあるのです。
本当は仏様の思いからきている言葉なのですが・・・。
キリスト教にもイヴがありますね、やはり前の晩からその
思いを神様に捧げるのでしょう。
宗教の違いがあっても、思いは一緒なのですね。

僧侶としての大切なお勤め、しっかりとお届けせねば・・。

唯円と善鸞 

DSC_0020

浄土真宗を少し知っておられたら、名前は聞いたことがある。
そんなお二人です。
昨年より親鸞聖人七百五十回大遠忌法要が西本願寺で営まれ
ていますが、その法要からはなぜか遠い場所におられるように
も思います。

唯円は、『歎異抄』という本の著者です。
この『歎異抄』は、浄土真宗と親鸞聖人の教えを現代社会に
弘める一つのきっかけとなっている仏教書で、おそらく日本人が
書いた仏教書で一番有名な書であると言えるかも知れません。
世界中の有名図書館には、この『歎異抄』の蔵書が必ずあると
されます。
また戦時中の学徒動員のとき、戦地に赴く学生の多くが、この
本を懐中にいれていたとも言われています。
でもその著者の研究はあまり進んでいない様に思われます。
浄土真宗学的には、親鸞聖人の著作ではないので、あくまでも
参考文献的な扱いにあるからなのでしょうか。
その書の有名な言葉に「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや
悪人をや。」があります。
仏教に関わる人は必ず眼にするフレーズです。
私も一度お参りしましたが、奈良の吉野にある立興寺に、唯円
の墓とされるお墓があります。
でも、それも定かではないのです。
それは、明治までは『歎異抄』は門外不出の秘本とされていた
一面もあるのでしょう。

もうひとりの善鸞は、親鸞聖人の実子でありますが、母親は
どなたか正確には分かっていないようです。
親鸞聖人の代わりとして、関東に行かれますが、関東の弟子
たちとうまくいかず、最終的には親鸞聖人が84歳のときに義絶
されることになります。
なので、本願寺の二代目的な立場でしたが、本願寺の歴史から
は、ほぼ抹殺されたような状態にあります。
もちろんそれは、親鸞聖人の教えを捻じ曲げて伝えたと言う
代償であると思いますが。

このお二人は、本願寺そして浄土真宗の教学的、歴史的な面
からは殆ど語られないまま、この大遠忌を迎えています。
もう少し、このお二人の研究が進めば、また浄土真宗の新たな
一面が見えるような気がします・・・。
親鸞聖人の教えをまっすぐに見つめようとした唯円、そしてその
教えに近づけなかった善鸞。この相反する二人の実像に迫る
ことが、次世代への浄土真宗の突破口になるかも知れません。

一月十六日の親鸞聖人の七百五十回目のご命日に向けて、
そんなことに思いを馳せることも。
私は何となくですが、親鸞聖人はこのお二人のことが好きだった
様に思えてならないのです。
一番教えに近い存在である唯円、近くて遠いところにいた善鸞。
たとえば、釈尊にとっての阿難とアジャセ的な存在。仏教では、
この二人とも、教えを伝える大切な存在になっています。
本願は善鸞にどう届けられるのでしょうか?
お二人の人間的な研究が進めばいいのですが。

一月十六日の親鸞聖人の「御正当」に参拝致します。

雪深い山陰の山寺にて・・・・合掌。

報恩講に思う

DSC_0354

報恩講とは、浄土真宗で一番大切な法要のこと。
なぜ大切かと言うと、宗祖(開祖)である、親鸞聖人の命日をご縁に
その教えと、その教えを伝えていただいたご恩に感謝して、その恩に
報いるという法要だからです。
まさに報恩講の名の通りですね。

私が住職を務める光澤寺では、お寺と門徒(檀家)さんの両方で、
この報恩講をお勤めします。
今日は、今年度最後の門徒さん宅の報恩講をお勤めしました。
田舎ですし、この機会が一番ご門徒さんの各ご家庭とゆっくりお話し
できるときですので、各ご家庭を一時間くらいかけて回ります。
なので、檀家数は多くないのですが、都合の良い時間調整等もあっ
て、長い期間お勤めすることになります。

最近は、高齢化、就職難、独居老人の増加などが、地域の過疎化に
追い打ちをかけています。
今までの30年くらいが、これからは10年くらいのスピードで進んで
行く様に思います。
檀家さんのご家庭を一軒一軒回りますので、その状況がとてもよく
分かります。
本来地域の中心であったお寺も、今はその役割がすっかり薄れて
しまっている様にも感じます。
全ての寺と言う訳ではありませんが、やはりお寺は、葬儀や法事の
お布施は、しっかりと地域支援に役立てるものであると思います。
全てではないと言うのは、全国のお寺の約70~80%は、お寺だけ
では食べて行けないお寺だからです。
光澤寺もその中の一カ寺でありますが。

でも光澤寺では、地域支援の村おこしを2012年からスタートさせて
行きたいと考えています。
それは、光澤寺とその地域を次の世代に託して行きたいから。
そのプロジェクト名を「やずブータン村」と致しました。
何ができるのか、どうするのかはこれからですが、何とかモデル
ケースを立ち上げたいものです。
ただ先日、NHKのクローズアップ現代を見ていると、この内容に
近いテーマを取り扱っていました。
その方向性が「やずブータン村」構想に非常に近かったので、的外
れではないなと感じました。


命日経

今日は「命日経」をお勤めいたしました。
一周忌は年内に済ませておられましたが、祥月命日の
お経を檀家さんのお宅でお勤めしました。
仏さまが一番喜ばれることは、皆さんにお会いできること。
今日はおじいちゃんの写真も笑顔に見えました。
仏さまは、皆さんを見守ることが大切な役割だから・・・。
つながりを確認し、心を落ち着かせ、安心のある生活。

お勤めは、『讃仏偈』『らいはいのうた』そして『正信偈』。
おばあちゃん、一緒にお称えありがとうございました。
そして生まれたばかりの曾孫さんも。

今日のご縁でした。

断捨離

DSC_0045
最近、整理術関係の本がたくさん話題になっています。
その中で、仏教の禅的な断捨離の整理術もありますね。
一昨年の秋に光澤寺に入寺してから、お寺の本堂と庫裏の大掃除を敢行
しました。
まさに断捨離で、ありとあらゆるものを棄てざるを得ませんでした。
前住職の思い入れの品というより、何も捨てない、面倒なのかもったいない
のか分かりませんが、そのおかげで本堂と庫裏は物であふれ、荒み、
檀家さんも寄り付かないほど。
境内もひどい状態で、隅々がゴミ集積場の有様。
まだ整理術の本はあまり話題になっていませんでしたが、とにかく捨てる、
棄てる、また捨てるの連続。
箪笥を移動し、本棚を移動し、座卓を移動し、あるべきところに配置しな
おすを徹底しました。産業廃棄物のバッカンが五個も必要でしたが、その
都度なら必要なかった経費です。
そして確かにその物はもう使うことはありません。
本当は、物を持たない贅沢に慣れることが本当に物を大切にするってこと。
整理をすると、、物や部屋の中が良く見えて、輝きを増して来ます。
ただ今まであまり汚いと思っていなかった所の汚さも目立ってきます。
そして庫裏のいろんな所が傷んで、雨漏りやら腐食やらで大変。
そうすると今度はそこを一気に修繕する。その順番で次々に修理をしな
くてはなりません。
やっと一段落したのは、1年以上経ってから。
拡げられないでいた自分の蔵書を、本堂に使わないでホコリをかぶって
いた本棚を移動してきて、寺務所兼図書室にしてみました。
今は、境内の整理に取り掛かっています、境内もたぶん落ち着くまでに
一年間はかかるでしょうから、今年の秋くらいかなあ。
そのときお寺は本来の輝きを取り戻しているはず。

次の世代の為に、光澤寺を再生して行かなくては!

流氷の中の金魚

DSC_0040
池を中を見ると、池に流氷がやってきてる様に見えました。そこに陽の光が差し込んできました。そうするとその流氷の間から金魚たちの姿が見えました。多分水温は0度くらいでしょう、でもしっかりと泳いでるって感じです。その生命感にちょっと感動!この頃は、自然や生き物のちょっとした姿や光景に心動かされることが多いですね。

行く川の流れは絶えずして・・・・

「ゆく川の流れはたえずして、しかももとの水にあらず。・・・」
とは、鴨長明の方丈記の書き出しの言葉です。
分かってはいるけれど、言われてみて初めて気付くような感覚。
それは私たちの「いのち」のことに通じるのです。この世には
永遠ってないのに、いつか終わりが来るのは分かっているようで、
気づかないふりをしている。
それは脳のはたらきなのかも知れません。
当たり前のことを認識させない様にしていること。
たとえば自分が気づかないだけで、そんな脳の作用が沢山あって
、それが『苦』というものを生み出す原因となっているのかも知れま
せん。でも本人は「楽」だと思ってたりします。
そのときはいいんだけど、いざと言うときに・・・。
どちらかというと、脳はその時その時の『苦』を逃れるパターンに
対応しやすい。
でも本当の『苦』には対応する準備ができていない。
そんな感じかなあ、「死」というものを遠ざけておきましょうってこと。
でも人生をしっかり生き切るためには、やっぱり「死」ということを
認識しておくことが大切な様に思うのです。
「死」から今生きている「生」を照らすことが、よりしっかりと生きる
方法なんだろうな。

光澤寺URL http://www.koutakuji.com/

矛盾

昨年亡くなられた落語家の話しにでききたそうです。
「落語の修行は矛盾との闘いだ。」と・・・。
僧侶をしていて一番感じることは、この矛盾との闘いの連続ってことです。教えの道を進むことと、法要や葬儀、日々の生活などすべてが矛盾との闘いになる。やはり仏教の修行僧やキリスト教の修道院など、日々の生活と
切り離さないと本当の僧侶の道は歩めないのだろうか?
その矛盾との狭間をずっと探しています、そしていつかその矛盾がなくなることを。

除夜の鐘

DSC_0278
大晦日は毎年恒例の除夜の鐘を撞きます。
紅白が終盤にさしかかるとたき火をして、ご門徒さんをお迎えする準備をします。スルメを焼いたり、トン汁を作ったり、いろいろ取りそろえます。そして鐘の途中で新年を迎えることになります。
仏さまへの新年のご挨拶も一緒にできるので、有難い。
「おめでとう」という言葉はモンゴルから伝わったと言う説もあるそうです。
あみだ様のことを、その昔モンゴルでは「オミトウ」と言ったそうです。
あみだ様に出会えた喜びで「オミトウ」、が日本に伝わって「おめでとう」。
「おめでとう」はもともと阿弥陀様に出会えた喜びの表現だったのですね。
光澤寺のご本尊は「阿弥陀如来」。
今年もどうぞ良い歳になりますように・・・。

記事検索
月別アーカイブ
プロフィール

sakurasakukoutakuj...

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ