
葬儀と法要を問う意味。
今日そんな質問に出会いました。
そのことをちゃんと説明できる僧侶がいるのかなあ?
形式やイワレやもっともな話しを、ここぞとばかりに一方的にする僧侶もいる
だろう。
というか、そんな僧侶が圧倒的とも言うべきか。
一方的な価値観の押しつけに、相手は分かったようなふりをしながらも拒絶
していることにさえ気づかない僧侶。
もしくは最初から拒絶してるか。
拒絶されてる僧侶は自分では気づいていない。
どや顔。
さもしてやったり。
葬儀もしてやったり。
お布施ももらってやったり。
僕は僧侶になると決めてから、ずっと葬儀や法要の意味を問い続けている。
お経を唱える意味を問い続けている。
でもちゃんとした答えはまだない。
形式で答えられるならいくらでも。
教えに書いてあることなら簡単。
でもその人その人によって環境や考え方が全部違う。
だからすべての人を納得させられる様なことは無いのかも知れない。
あるときは、これだ!と感じることもある。
でも次はちょっと違ったり。
いろんな教えを聞いては、それを考えてみる。
そのことを話してみる。
そのことを自分の話しとして考えてみる。
その繰り返し。
でもまだまだ確信には程遠い。
できることは、いつも最高のものを追い続けるという行為くらい。
声明も作法も法話も、常に・・・。
お参りの人、そのうちの一人くらいでも感じていただけたら、それがすくい。
何も考えず、ただ葬儀と法要をこなし、お布施を請求する。
そんな僧侶であれば楽だったのかなって・・・。
でもそれじゃ仏の道を歩むことに意味がない。
問い続けなければ意味がないじゃないか・・・。
などと、孤独の中で叫ぶ。
ただの貧乏僧侶の遠吠えにさえ聞こえる。
「ただ犀の角のごとくただひとり歩め」という釈尊の言葉。
この言葉が頭をかすめる。
孤独のなかでも独り問い続ける。
教えを求めて。
真理を求めて。
意味を求めて。
たどりつかなくても、その答えをもとめ続けるということが、仏の道を歩む
ということなのかも知れない。
今日、最近読ませていただいてるブログを読んでそう感じた。
意外なところに自分の求めているものがあったりする。
思わず合掌。
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